全国各地の海野氏

海野氏」都道府県別分布

 

都道府県軒数都道府県軒数都道府県軒数
北海道162石 川28岡 山116
青 森23福 井12広 島63
岩 手26山 梨150山 口16
宮 城76長 野201徳 島10
秋 田8岐 阜22香 川46
山 形168静 岡2390愛 媛12
福 島91愛 知200高 知7
茨 城704三 重185福 岡51
栃 木48滋 賀14佐 賀3
群 馬63京 都35長 崎8
埼 玉260大 坂200熊 本8
千 葉220兵 庫89大 分17
東 京506奈 良25宮 崎258
神奈川421和歌山100鹿児島18
新 潟23鳥 取1沖 縄2
富 山45島 根1合 計7132

                (2006.1.調査の「苗字館」より)

長野県の海野氏

飯綱町の海野氏

 
 森尾山鎌田院妙福寺 上水内郡飯綱町芋川1517-1  ☏026-253-2223
 浄土真宗大谷派 本尊 阿弥陀如来 住職 海野浄英(善敬寺兼務)
 詳細は、下記に記載の「海野氏と寺院」をご覧ください。 

 飯綱町の海野家は、この住職だけです。

中野市の海野氏

  現在、間山の海野幸治家が総本家を務め、庭内に天照皇大神宮を祀り、「海野まけ」を全員で守っております。家紋は州浜です。
 総本家には系図が現在まで引き継がれております。それによりますと、

 海野家の先祖は………………
 
 海野氏第26代海野小太郎氏幸(応仁元年(1467)村上氏と戦い戦死する)
 海野小太郎幸種(海野氏第27代幸棟より分家したと思われる)―海野和泉保幸―海野備後守幸忠―海野主膳宗幸―海野和泉幸澄―海野與惣兵衛幸厚(世はまさに戦国時代である、天文10年(1541)武田・諏訪・村上の連合軍に敗れ、海野家は各地に逃げ延び、名字をそれぞれ変えている)
 初代白鳥勘右衛門幸邦(海野與惣兵衛幸厚の弟で間山の海野家先祖・盛隆寺の創建に尽力する)
 2代白鳥太郎兵衛幸英
 3代黒鳥文右衛門幸通
 4代黒鳥文左衛門幸信
 5代海野茂右衛門幸佐(江戸時代の世になり安泰となったので
  元の海野姓を名乗るようになったのではないかと推測する)
 6代海野文内幸康(間山中村組佐藤要助養子)
 7代海野金蔵幸照(5代海野茂右衛門幸佐の五男文助)
 8代海野勘右衛門幸久(間山郷原組土屋久八の次男義三郎養子)
 9代海野文内幸貞
 10代海野勘右衛門幸延(子供がなく9代海野文内幸貞の弟)
 11代海野勘右衛門幸孝(10代海野勘右衛門幸延の次男辰太郎)
 12代海野勘右衛門幸家(菅村山本奥右衛門次男の仲一郎相続)
 13代海野恵紋幸固
 14代海野義一幸治
 15代海野幸吉―海野佳広―海野高志と継承され、地域のために
  活躍されておられます。
 明治30年4月12日に間山の海野家は小県郡海野郷白鳥神社に「杉苗20本」を寄付されている。

auto_oYrdEL.JPG右端宮下和友会長・左端武舍秀雄

 間山には海野富治・海野米次・海野和好・海野サチ子・海野竹男氏他28軒あります。

 中野市中央1-2-3(〒383-0022)海野正寿(S32.4.21生)☏22-2348
 中野氏松川幸町1630-7 海野忠夫
 中野氏岩船       海野正夫 

 中野市の海野家は49軒おられます。

須坂市の海野氏

 須坂市の海野家は8軒あります。(電話帳調べ)

 

長野市の海野氏

 白鳥山報恩院善敬寺  長野市吉田3-16-16  ☏026-241-3771
 浄土真宗大谷派 本尊 阿弥陀如来 住職 海野正師  家紋州浜
 詳細は、下記に記載の「海野氏と寺院」をご覧ください。

 浄専寺   善敬寺院内     ☏026-241-4062
 浄土真宗大谷派  住職 海野弌美師   家紋結び雁がね
 詳細は、下記に記載の「海野氏と寺院」をご覧ください。
 

 白鳥山報恩院康楽寺  長野市東町163-1  ☏026-232-3098
 浄土真宗本願寺派  住職 25世海野浄雄師   家紋州浜
 詳細は、下記に記載の「海野氏と寺院」をご覧ください。

 白鳥山報恩院康楽寺 長野市篠ノ井塩崎角間3429 ☏026-292-465
 浄土真宗本願寺派 本尊 阿弥陀如来 住職 海野昭親師 家紋州浜
 詳細は、下記に記載の「海野氏と寺院」をご覧ください。

 海野山報恩院専精寺 長野市篠ノ井東福寺648 ☏026-292-1128
 浄土真宗大谷派 本尊 阿弥陀仏 住職 23世海野教恵師  家紋州浜
 詳細は、下記に記載の「海野氏と寺院」をご覧ください。

 上宮寺 長野市篠ノ井塩崎
 浄土真宗   住職 海野昭親師  家紋州浜

 塩崎の康楽寺と同じだと思われます。詳細は調査中です。

 白鳥山報恩院証蓮寺 松代町寺町1301   ☏026-278-3398 
 浄土真宗大谷派  住職 海野良澄師 家紋州浜・結び雁がね
 詳細は、下記に記載の「海野氏と寺院」をご覧ください。

 仏智山明真寺   松代町東条1127   ☏026-278-3967
 住職 海野栄子 福徳寺が管理している。詳細は調査中です。

 長野市長野狐池1212 海野八百重(☏235-4754)から系図とお便りをいただき要約すると次の通りです。家紋は雁がねです。

総大将海野小太郎幸広は寿永2年(1183)10月1日、備中国水島合戦において、平家に敗北し、矢田義清と二人の大将が討ち死にし、命からがら京都へ逃げ帰った木曽軍は、ごく僅かであったと言われている。元暦元年(1184)海野小太郎幸代は信州水内郡若槻郷に、海野幸勝が隠居することを聞き、幸代は妻子を連れて鎌倉より立ち帰り、信濃海野氏の祖となり、子・孫へと続き、三皇神(稲田媛命・猿田命・碓女命)宮を祀る。慶長19年(1614)信州水内郡若槻郷蚊里田里(現在の東条)に住居し、三皇神を当屋敷へ移す。その後、加賀街道を開設される。その後、38代海野福太郎(現在は東京へ分家)は、三皇神を東泉寺境内に奉納して移したが、現在は寺が取り壊されて、公民館が建てられております。現在は、八百重さんの夫、41代目故海野国司(平成19年まで司法書士開設)の本籍は長野市大字若槻東条572に宅地だけあります

 藤沢市に在住の上野家の「上野家所蔵文書」によると、
 神奈川県→山形県米沢→福島県会津→越後国→信濃国葛山 となっている。
この間、上杉家より下付された文書を所持しておられるので、その経路は鮮明である。
 葛山城とは、信濃の善光寺の裏山に当たる山城であり、標高809mの葛山には、葛山城跡が、今なお現存している。その山麓には鑪、僅か離れて桜の集落が続いている。
 平安末期か、鎌倉初期のころ、香坂・大日向・小田切・春日などいずれも佐久地方の地名を姓とする滋野系の武士たちが、この地方に所領を得て移住してきたが、落合氏も本貫は作落合らしい。
 葛山衆の一人、鑪氏家譜は次のように記す。
「本姓は滋野本名落合・桜靭負尉・立岩伊豆守・鑪孫左衛門信満・上野新三郎幸親以上四家は海野の分家、これに香坂太郎左衛門・上屋小平・徳間平三を加えて葛山七騎という。菩提寺は米沢市北寺町浄土宗西蓮寺」「鑪郷に住せしをもって鑪と称す(信濃国上水内郡芋井庄)」と、すなわち葛山衆の殆どは落合一族で領地の名称を姓とした。
 応永3年(1396)の大文字一揆注進状・永享12年(1440)の結城陣番帳に落合氏の名がみえるほか事績については明らかではない。
 この葛山衆が、信濃国小県郡海野郷に発祥した海野家を遠祖とする海野系の一族である。
 天文22年(1553)坂城の村上氏の葛尾城落城は、上杉謙信に属していた落合氏は葛山城の守りを厳しくしていた。
 そこで注目しなければならないのは、武田信玄の信濃攻略の進に従い、比較的平穏だった葛山衆も戦国の荒波に巻き込まれていく。
 北信濃の雄村上義清は上田原と砥石城で二度までも信玄に痛打を浴びたが、砥石城は真田幸隆の不意打ちであっけなく落城、近くの狐落城も内部の反乱で落城したため、義清は戦わずして鑪城葛尾城を放棄し、越後の上杉謙信に助けを求め、甲斐両雄激突の川中島合戦の幕が切られたのである。
 武田勢17,000は、一挙に越後上杉方の重要前進基地葛山城に攻撃を開始した。
 葛尾城は、武田の攻撃に城を死守激戦を展開、備中森は、必死の防戦を展開するが、敵は折からの烈風に乗じて、火を放ったので、たちまち全山猛火の海につつまれ、遂に城将落合備中守は、援将小田切駿河守幸長・広瀬藤四郎も共に多くの将兵が打死した。時に弘治3年(1557)2月15日、ついに落城し、武田の支配下にあって一族の苦難の再起が図られたことと思われる。元亀元年(1570)9月付の信玄が葛山衆に与えられた朱印状がある。鑪与助が本領150貫と新知行100貫が与えられ「最前より幕下に参じ忠節比類なく」といった文面で、他も同様であるから武田について家筋を守っていることは確かである。
 長野市芋井にある松参寺は、曹洞宗、住職山口義孝師
開基した広瀬氏は、衰運にむかい、お寺を再建する力がなくなっていたので代わって落合備中守が再建して、中興開基した。 
 天正10年(1582)武田氏滅亡し、織田の将森長可から安堵城が与えられ、葛尾衆は21名である。信長が殺された後上杉景勝が占領、葛尾衆の長沼城代島津忠道の指揮下に入った。
 天正11年(1583)2月、上野・立岩・鑪・江本・徳間・桜の六名は、家族共々衛ちこ゛春日山へ移住を命じられる。
 文禄3年(1594)の禄高は、春日233石、鑪・上坂・日下野・原・桜・立岩125石づつ、上野99石、50石未満17名、計25名である。
 慶長3年(1598)上杉氏は会津転封により越後・来た信濃45石から120石となり、鑪氏は125石から300石になるなど家臣の知行は倍増となり葛山衆25騎は全部100石以上となったが、ここで先祖伝来の本領地葛山郷から離れることになる。関ヶ原敗戦後上杉は30万石に、寛文4年(1664)米沢藩の滅封で知行も滅ぼされ、葛山衆は縮小消滅の道を辿るのである。しかし、家系は保たれ、多くの末裔の人たちが今も各地で活躍されておられます。
 藤沢市在住の上野家は、このような歴史にを経て現在藤沢市に繁栄しておられるのである。
 
 8代海野幸親の長男幸広・三男根井親綱(桜井三郎・)四男矢島四郎幸忠・五男落合五郎兼行→葛尾衆・六男楯六郎親忠で、葛山7騎とは桜・立岩・鑪・上野・香坂・上屋・徳間である。以上鑪氏系譜は長野市鑪区長の麻場氏が所持の記録を参照させていただいた。
 長野県内の東信地方に現存する上野姓の人たちの分布を見ると次のようである。
 上田市小泉   24戸    上田市半過・山口   11戸
 上田市生田   28戸    上田市沖(武石)    9戸
 東御市海善寺   4戸    小諸市        10戸
 佐久市望月   66戸
   細分布 大谷地 13戸 戸倉 10戸 協和 10戸 春日 10戸
     下の宮 8戸 などとなっている。
 佐久市平井   18戸
徳間氏も、また葛山から越後→会津→米沢と上野氏と同様の経路を辿っている。千曲市戸倉にも徳間集落がある。
 海野幸親から、根井・矢島・落合・楯・その他の諸氏が分かれている。
根井幸親は、佐久市根々井を本拠地としていた、そこに菩提寺の正法寺がある。

 長野市屋敷田241-59 ながの東急(☏243-2237)海野徹也(s16.7.6生)
 長野市若槻団地3-178二幸機材㈱(☏241-0721)海野信昭(s8.1.18生)
 長野市安茂里2005-7 海野悦次 土地改良事業一筋
 長野市岡田町176 第一法規出版㈱(☏226-4901) 海野幸人

 長野市の海野家70軒あります。(電話帳調べ)

千曲市の海野氏

 白鳥山本覚寺   千曲市倉科1050   ☏026-272-2224
 浄土真宗本願寺派  住職 海野玄秀師  家紋結び雁がね
 詳細は、下記に記載の「海野氏と寺院」をご覧ください。

 稲荷山五大院長雲寺 千曲市稲荷山町2239  ☏026-272-3730
 浄土真宗智山派   住職 26世海野慶宗師  家紋州浜
 詳細は、下記に記載の「海野氏と寺院」をご覧ください。

 千曲市小島の海野雅信家、長野市篠ノ井布施高田の海野安彦家(海野薬品㈱)、埴科郡坂城町の海野義雄家、東御市の海野恒男家(山田薬局)の先祖は………………
 第23代海野小太郎持幸は、文安6年(1449)村上の領地、船山郷(戸倉町・五加村・埴生村・抗瀬下村等を合して船山郷と言う)へ地頭となり小県大平寺(現在の東御市白鳥団地)より来る。
 宝徳2年(1450)小県大平寺より白鳥大明神を分社し寂蒔の地へ移す。持幸地頭になるやいなや、すぐその時に代官を平原城主は海野平原直光を代官として、この地に来る。
 代官海野直光、船山郷船山へ地頭屋敷(現在の船山神社の横屋敷地)を造る。
 持幸地頭となるや代官海野直光をして埴生寂蒔村士族宮坂義洛院・士族丑丸、鋳物師屋士族市河等と共に船山郷発展のために尽力する。

 ①館の堀割改築工事を完成する。
  先住者市河氏館跡の南・東・北方面の堀割を更に大きく造り、現在その堀割は屋代用水となって農業用に使用されている。
 ②産業発展のため、鋳物師を連れてくる。
  農業の発展は農具、機械および鋳物の製造により産業の発展の草分けと呼んでいる。
 ③千曲川の洪水害を防ぐ。
  寂蒔の上より船山までの土手補強工事を完成させ、船山郷を水害から守った。
 
 康正元年(1455)持幸は、足利義政将軍に呼ばれ京都に行く、そのときに持幸・丑丸家と共に、時の天皇に絹織物・錦織物・駒・農作物等を献上する。
 康正3年(1457)海野直光は代官を辞する。村上の臣、室賀貞信を代官とする。
寛正元年(1460)海野直光死去し、墓地を東山に造る。現在の海野家の墓地。
 応仁2年(1467)村上政清・政国父子が兵を小県に出す。海野小太郎持幸と戦い海野チバ城のつめ口を取る。政清小県を侵す。以後戦国時代となる。

 千曲市寂蒔325-1 東特巻線㈱(☏242-3131) 海野安綏(s13.3.7生)
 千曲市八幡2246㈲海野鉄筋工業所(☏272-2634)海野竹雄(s12.1.10生)

 千曲市の海野家は17軒あります。(電話帳調べ)
 旧更埴市に8軒、戸倉町に海野家8軒、上山田町には海野家1軒あります。(電話帳調べ)

坂城町の海野氏

 埴科郡坂城町坂城6261   海野 泉(☏0268-82-2003)
 埴科郡坂城町坂城6105-4 海野義雄(☏0268-82-4610)の3戸あり。

平成14年(2002)12月発行のJAちくまに海野義雄さん御家族の記事が次の通り掲載されていました。坂城町南日名の山ふところの斜面に広大なリンゴ畑が続きます。晩生種の主力品種「ふじ」の収穫が真っ盛り。休憩所を兼ねた作業所「古城園」がリンゴ畑の中にあり、出荷作業に忙しい海野さんご家族。「この辺は粘土質で、南西に向いた斜面は日当たりも良く、色着きと食味は抜群ですよ」と、リンゴ栽培一筋に生きた義雄さんと玉子さんは口をそろえます。 義雄さんは幼い時に父を亡くし、人徳の厚い祖父に家族同様に育てられました。その伯父が戦中、紅玉や国光などリンゴ栽培を手がけ、そのことが今の海野家の果樹栽培の基礎となっています。伯父の息子さん(義雄さんの従兄弟)も戦後の坂城地区でのリンゴ栽培の先駆者となり、その影響を強く受け、従兄弟から栽培技術を学びながら、共に栽培に励みました。 現在は政義さんが後継し、近接の果樹園も含め約250アールの規模で栽培しています。「苦労して築いたリンゴ園、経営を継いでくれて、親としてうれしい限り」と義雄さんは目を細めます。政義さんは義雄さんの期待に応えて、県農業大学校営農学部で果樹を先行した後就農。「少年の頃からリンゴの木に囲まれて育ったので、気負いもなくごく自然の選択でしたね」。父と一緒に栽培しながら技術も受け継いできました。「いろいろと意見の違いもあるんですが『父の経験に勝るものはない』と、収穫の時に感じます」と政義さん、全てを任された今、季節的な労力配分を考え「晩生種オンリーの克服」のため、早生種・中生種の新品種への転換も計画的に進めています。また中学生の地域農業体験学習では、受け入れ農家としてリンゴ園を学習の場に提供もしてきました。 奥さんの広子さんも子育てに励みながら、リンゴ園で働くお手伝いさんの送迎や、選果作業などで政義さんを支えています。翔君は3才、来年は保育園児。古城園はお手伝いで働く人などで、休憩時間はとても賑やか。自然と人のふれあいの環境の中で、元気いっぱいに育っています

上田市の海野氏

 上田市の「石井家伝承系図」によると次の通りです。

 初代 石井(武石)幸邦 幸棟の次男幸邦は小次郎民部助・武石右兵衛尉 
  諏訪氏に属し、小県郡武石に住し、これより武石氏を称す。
  大井氏の支配下にありて、天文9年(1540)7月諏訪頼重に属す。
  法名 高嶺院殿武石幸邦大禅定門
 2代 石井重信(棟喜) 石井小次郎隼人祐 石井左京進
  天文12年(1543)望月・丸子・小泉・室賀等に譲り、武田氏に属す。
  小県郡石井。海善寺本郷を宛行被る。
  主命により石井隼人祐と改む、居所を石井に移し、よって居所を姓とす。
  永禄10年(1567)海野家起請文に著名す
  法名 風積院殿石井信重大禅定門
 3代 石井重宗 石井助之丞 武石氏に属す
 4代 石井重之 石井金左衛門尉 
  上野国利根郡沼田城主真田伊豆守信之公命により奉仕。
  法名 円誉道忠
  室は備前国主松平相模守光仲公補佐 荒尾但馬守の女
 5代 石井重嗣 石井喜佐衛門尉 天正10年(1582)武田氏亡し、真田昌幸に属し、
  本領300貫文を安堵される。
  吾妻郡羽尾城主を命ぜられ、検地の上、羽尾にて相当の重恩地を賜る。
  のち、家老として上田領の藩政を担う。
  元和8年(1622)信之公松代移封を機に隠居する。
  金剛寺村城代屋敷にて余生を送る。
  ここに葬られ、享保7年(1722)まで墓碑があった。
  移転し、新たに墓碑を米山城址に建する。
  里人は「石井荒神」と呼んでいる。
 6代 石井重政 天正3年(1575)5月21日真田信綱公に属し、
  三河長篠設楽ケ原討死
 7代 石井重親 石井舎人佐 天正13年(1585)8月2日の神川戦において粉骨する。
  慶長5年(1600)真田昌幸公高野山配流に随従。
  慶長20年(1615)5月7日に大阪夏の陣討死。
  法名 忠誠院一明了光禅定門
  上野国利根郡宇楚井村浄土宗天阪山正行院に葬る
 8代 石井重政 石井舎人佐 室は重嗣養女 実重綱弟舎人佐重親女
  真田河内守信吉公に仕える。 諸士頭 300名
  寛文6年(1666)8月20日卒 法名 養成院重誉三光居士
 9代 石井政茂 石井主殿助 真田沼田藩士 禄150石
 10代 石井重孝 石井喜沙門尉 真田伊賀守沼田藩主 
  鉄砲頭同心30人預り、150石 
  天和元年(1681)11月12日 伊賀守改易被申渡
  12月8日 城請取並在藩目付沼田着
  12月9日 城回り並侍屋敷~19日まで 見分目付の案内役を勤む
  12月19日 沼田城引き渡し
  天和2年(1682)1月18日 期限にて侍屋敷明渡完了、
  沼田近在に定住する。
  長女 恩田六左衛門尉成定の妻
  次女 青柳五右衛門順成の妻
  三女 岩下又右衛門の妻
 11代 石井信忠(棟重) 石井舎人政則 九郎右衛門信忠と改名
  妻は鈴子村塩入平左衛門の娘
  父重孝は沼田藩着先を見極めて信州に帰る。
  天和3年(1683)2月28日小県郡塩田庄保野村を定住の地と定む。
  新田の開拓を始め、刀を鍬に替え、不慣れな野良仕事に音をあげてはならないと己を厳しく
  戒め、不退転の決意を込めてと思われると伝えられている。
  法名 託生院一誉蓮心居士 宇保呂里に葬る
  妻 法名 成生院学誉了栄大姉 宇保呂里に葬る
  長男 石井信胤孫左衛門
  次男 石井信勝文左衛門
  三男 石井信成九郎右衛門
 以下略、以上の石井家の末裔の人々として、小県郡保野村(現上田市保野)に、次の方々が繁栄を続けている。
 石井審一・石井華一郎・石井市四郎・石井七四郎・石井清射・石井美郎・石井義一・石井新治・石井賢一・石井一平・石井一雄・石井袈裟春・石井重雄・石井典雅・石井信充・石井茂久・石井文郷・石井謹一・石井公共・石井佐助・石井三郎・石井章雅・石井堅・石井茂人・石井昭一・石井敏朗・石井博・石井文一郎・石井文夫・石井光男・石井幸男・石井吉男。
なお、小泉には石井家が64軒も居られます。
 
 小県郡岩下に住し、海野系岩下氏が姓となす。領所は小牧・岩下村を領す。世俗小牧殿と称し、岩下幸兼・幸邦などあり、岩下幸邦の弟にして、上之条に住み、竹鼻二郎左衛門と号し、のちに横尾領横尾但馬守と号し、世俗横尾殿、曲尾も小県洗馬地方には海野系半田氏も繁栄発展を続け屋代雨宮にも半田氏がおる。

 上田市古里132 ㈱アグロ信州(☏23-2135)代表取締役 海野晴彦
 上田市古里132 ㈱アグロ信州       取 締 役 海野 寛
 上田市古里37-5-B3  海野勝洋 (☏22-0915)
 上田市上丸子362    海野 正
 上田市大屋10-6    海野広三
 上田市下塩尻120-3-32 海野博之
 上田市芳田1380-84  海野良三
 長野大学社会福祉学部 海野恵美子教授 女性・高齢者の働く場を
 長野大学生活協同組合 海野英顕    恋愛や人生の相談に回答

 上田市の海野家は5軒ある。(電話帳調べ)

東御市の海野氏

 東御市滋野乙1302㈱タイヨーエンジニア(☏62-1700)に海野武幸
 東御市には海野家を名乗る人は一軒もいない。

                  

小諸市の海野氏

 北佐久郡滝原村(現小諸市滝原)には、30余戸の白鳥姓の方々が存在しておられます。家紋は「対雁金」紋であり、海野から滝原村へ入植したといわれる。
   滝原村発願主
     白鳥 佐太夫
     白鳥 久兵衛
     白鳥藤右衛門
     白鳥 権之助
    天明7年(1787)8月12日
 上記の絵馬を白鳥神社に滝原村の代表4名が掲額している。
 8月12日は、本海野村の例大祭の日である。天明7年は、浅間山の大爆発で「天明の飢餓」と大災害が連続した年である。その直後に奉納されたのであろう。 
 海野氏第26代海野小太郎氏幸(応仁元年(1467)村上氏と戦い戦死する)
海野小太郎幸種(海野氏第27代幸棟より分家したと思われる)―海野和泉保幸―海野備後守幸忠―海野主膳宗幸―海野和泉幸澄―海野與惣兵衛幸厚(世はまさに戦国時代である、天文10年(1541)武田・諏訪・村上の連合軍に敗れ、海野家は各地に逃げ延び、名字をそれぞれ変えている)
 海野與惣兵衛幸厚の弟か子どもが、白鳥姓に改姓して、滝原村の地域に移住ししたのではないだろうか。

 海野和男(昆虫写真家)さんは、昭和22年(1947)東京生まれの昆虫を中心とする自然写真家。もの心ついたころから昆虫の魅力にとりつかれ、少年時代は蝶の採取や観察に明け暮れる。東京農工大学の日高敏隆研究室で昆虫行動学を学び、大学時代に撮影した「スジグロシロチョウの交尾否行動」の写真が雑誌に掲載され、それを契機にフリー写真家の道を歩む。
 海野さんは、東南アジアや中南米など世界各地で昆虫を撮影して、平成2年(1990)4月に小諸市大久保にアトリエを構えた。
 著書「昆虫の擬態」(平凡社)は1994年日本写真協会年度賞を受賞した。
最新刊に写真集「蛾蝶記」(福音館書店)。またNHKBSTV「海野和男の熱帯昆虫紀行」などに出演するなどテレビでも活躍、異次元から見た世界を追っている。自然科学写真協会副会長・日本昆虫協会理事。
 東御市で撮影したオオルリシジミの交尾・佐久市のフクジュソウに止まったニホンミツバチ・東南アジアで撮った花の擬態をするハナカマキリなどの写真が目を引きます。詳しくは小諸日記

 小諸市平原1043-35 海野 裕 ☏23-2841 
 小諸市大久保2353  海野和男の2軒のみです。(電話帳調べ)

佐久市の海野氏

 白鳥山陽雲寺 佐久市臼田町中小田切616  ☏0267-82-3705 
 浄土真宗大谷派 本尊 阿弥陀如来 住職 海野章一師 家紋結び雁がね
 詳細は、下記に記載の「海野氏と寺院」をご覧ください。

 信州佐久郡湯原村(佐久市)は、小田切村と隣り合ってできた集落で、ともに相当の古村である。
 小田切村(佐久市臼田町)は、弘安2年(1279)に、一遍上人がこの村の武士の館で、踊り念仏を始行しており、一遍聖絵(六条縁起)には村の一部が写生されている。
 小田切氏も、臼田氏と同様滋野氏の一支族とされている(滋野三家系図)。承久の乱の参加者に小田切奥太があり(宇治川渡河戦)以下室町戦国時代にかけて小田切駿河守幸長以下、地方文献に名を出している小田切氏は少ない。
嘉歴4年(1329)の「御射山頭役結番事」に小田切左衛門尉が見える。さらに「諏訪御符礼古書」になると、前後10数名の小田切氏が登場している。
 臼田氏・小田切氏・湯原氏の三氏は地理的にも血縁的にも、緊密な関係にあったことは想像される。
 臼田氏が早く佐久を離れ小県方面に転出したが、湯原氏も一部は湯原村に残存してたと思われる。湯原城陥落の際はその縁を辿って、小県方面に残存した臼田氏を頼り、或いは遠く関東に移った臼田氏を頼って、常陸方面まで移住したのではなかろうか。
 常陸国稲敷郡羽賀(江戸崎町)を本拠として有力な土豪となっていた臼田氏を頼って、その近在の霞ヶ浦南辺の阿見町を中心の地帯に定着した湯原氏ではなかろうか。
 阿見町(稲敷郡旧阿見村・朝日村・君原村・船島村の一部が昭和34年合併)で、町内の若栗86戸・島津15戸・立の越5戸・西郷4戸・飯倉2戸に計112戸もある。その他、土浦市20戸・美浦村3戸・江戸崎町5戸・竜ヶ崎町29戸・利根村4戸・牛久町2戸等に分布して、下総分の栄町6戸・印西町2戸と湯川氏が存在している。詳しくは「海野史物語」の臼田文書と海野庄を参照ください。

 佐久市の海野家は2軒あります。(電話帳調べ)

飯田市の海野家

 シチズン平和時計㈱(☏0265-28-1500)代表取締役海野幹夫(H19現在)
 シチズン時計

 飯田市の海野家は2軒あります。(電話帳調べ)

諏訪市の海野氏

 諏訪市元町1-14(☏58-1121)㈲山大海野物産 海野秀男(S9.9.18生)

 諏訪市の海野家は2軒あります。(電話帳調べ)

辰野町の海野氏

 倉沢健郎さんは「私の先祖は海野氏です」と資料をいただき、それによると次の通りです。
 親忠 橘氏、京都六条河原で戦死
 親基 南木曽町三留野、佐久にのがれ後に上野沼田に移る
 親茂 上野沼田に生れる
 親家 沼田姓を名のる、甲斐・鎌倉・木曽へと移る
 親仲 沼田姓 木曽に移住
 親教 沼田姓 木曽に移住
 親貞 沼田姓 木曽家定(弟)と北信に赴く
 忠宗 兄忠宗倉沢姓に改め親範と改める、弟親頼前山姓を名のる
 忠正 滋野姓を名のる
 忠景 八島姓を名のる、東信濃に移り晩年木曽へ戻る
 忠定 根ノ井姓を名のる
 親光 倉沢姓を名のる、伊那在住、のち但馬守重清と号す
 親道 倉沢姓を名のる、伊那在住
 親方 倉沢姓を名のる、伊那在住、のち左衛門佐政清と号す
 義忠 倉沢二郎とも称し、伊那在住
 義治 木曽で育つ、倉沢姓を名のる
 義景-景正-景斉-景栄-景陦-景陳-景臣-景長-景央-景辰(明治初期)-景誠-千景-健郎(義忠以降第15代目)と続いている。

白馬村の海野氏

 祥雲山貞麟寺北安曇郡白馬村大字神城字沢渡6485 ☏0261-75-2620
 曹洞宗 本尊 聖観世音菩薩 住職 21世 海野喜充師  家紋六連銭
  詳細は、下記に記載の「海野氏と寺院」をご覧ください。

 白馬村の海野家は、この住職のみです。

安曇野市の海野氏

 安曇野市高家中曽根4733(〒399-8204) 海野邦幸

 安曇野市の海野家は4軒あります。(電話帳調べ)

松本市の海野氏

 北林山西方胤極楽寺 松本市深志2-4-27  ☏0263-35-1753
 浄土真宗本願は 本尊 阿弥陀如来 住職 26世海野一生師
 詳細は、下記に記載の「海野氏と寺院」をご覧ください。

 西生寺  松本市大字島立字北栗3932   ☏0263-47-0938
 浄土真宗本願派  住職 海野乗昭師
 極楽寺の隠居寺として、寛永14年(1637)6月、善性和尚創建する。

 松本市の海野家は13軒あります。(電話帳調べ)
 茅野市に6軒、伊那市に8軒、飯山市に5軒、下諏訪町に3軒と長野県には201軒の海野家がおります。(電話帳調べ)

北海道の海野氏

 覚英寺 札幌市豊平区豊平1条4-2-30  ☏011-821-4114
 浄土真宗本願寺派  住職 海野覚爾師
 詳細は、下記に記載の「海野氏と寺院」をご覧ください。

 海野義昌  札幌市中央区南6条西8丁目  ☏011-52-1375

 昭和54年「老壮の友」3月号(日本老壮福祉協会発行)によると、北海道札幌市に在住の海野義治さんは110才で、北海道の男性第一位の長寿者です。
 翁は慶応4年4月27日に函館市中浜で父義智(85才没)と母つた(99才没)とに生れて間もなく両親に伴われて、小樽の奥沢に移住して、旅館を経営し屋号を「本陣」と称した。
この海野氏の先祖は…………第29代海野小太郎左京太夫幸義(村上義清との合戦の時戦死)―海野四郎幸綱(真田弾正忠幸隆の弟で、武田信玄に属し天文6年(1537)8月3日甲斐府中にて病死)

 初代海野六良衛義綱(穴山義宗の六男養子とし、
  真田幸村に仕え高野山に蟄居、大阪城で元和元年(1615)5月6日戦死)
 2代海野左兵衛幸知(越前国敦賀郡敦賀川向村で、幼名秀千代、寛文10年(1670)9月23日病死)
 3代海野左七郎義昌(寛文8年(668))名役元禄11年(1698)6月6日病死)
 4代海野左兵衛幸宗(元禄10年(1697)名役、享保13年(1728)5月16日病死)
 5代海野左吉郎義氏(享保13年(1728)名役、享保18年(1733)3月23日病死)
 6代海野左七郎幸経(父の名役を継ぎ延享元年(1744)3月16日病死)
 7代海野左兵衛義国(延享元年(1744)6月8日浄徳寺孫助の次男を養子、
   安永3年(1774)2月2日病死)
 8代海野左兵衛幸安(文化2年(1805)1月13日病死)
 9代海野左吉郎義信(文政5年(1822)10月31日病死)
 10代海野左吉郎幸長(文政6年(1823)8月7日病死)
 11代海野左七郎義知(天保10年(1839)浄徳孫兵衛の四男を養子、
   明治2年公用を帯び北海道後志国小樽郡に転住する、のちに小樽郡戸長)
 12代海野次郎義治(明治13年(1890)明治天皇がご巡幸の際、札幌に向かわれ天皇の先導を勤める。17~18才の頃、単身横浜に出て貿易商館に勤務のかたわら諸学校で簿記を教えたりし10年、小樽に帰り家業を手伝い、30才で「とく(20才)」さんと結婚。とくさんは昭和33年80才で死去された。明治30年頃、旭川に転居して第7師団の御用商人となる、その間に2男2女をもうけ、明治36年に札幌に移り郵便局に奉仕後札幌石材会社に移り、大正2年頃再び旭川にもどり、富士電機会社に入社して定年まで勤務した。
次男義昌方に隠居)
 13代義昌(義治の次男、妻とめよ)
 14代隆義(義昌の長男、妻信子)と続き、地域で活躍されておられます

 北海道には162軒おられます(電話帳調べ)

青森県の海野氏

 
 陸奥(青森県)の三戸郡市野沢の下洗にも海野氏がおり、三戸南部氏と共に、この地に来て「笹りんどう」の紋を伝えて今におよび多くの海野氏23軒がおられます。

秋田県の海野氏

 秋田県には8軒おられます(電話帳調べ)

岩手県の海野氏

 花岩山永昌寺 北上市更木33-105 ☏0197-66-4240
 曹洞宗 本尊 本師釈迦牟尼佛 住職 海野義清師
 詳細は、下記に記載の「海野氏と寺院」をご覧ください。

 奕葉山久昌寺 盛岡市大慈町1-5  ☏019-622-2378
 曹洞宗 本尊 釈迦年尼佛 住職 海野講栄 副住職 海野朋孝
 詳細は、下記に記載の「海野氏と寺院」をご覧ください。

 遠野市大工町1-3  海野吉之助  ☏62-2442
 遠野市中央通り   海野洋之   ☏62-8630

 岩手県に26軒の海野家がおおられます(電話帳調べ)

山形県の海野氏

 明善寺 山形市七日町5-9-3  ☏023-622-3537
 東北電力山形支店の角地から東に二つ目の道路を北の方向に歩くと、右手に時代劇に登場するような奥深い寺院の参道と門が見えてきます。
 門をくぐると正面に現れる本堂は普通の仏閣の外観とはかなりことなり、和風の木造建築でありながら不思議にも南アジアの寺院のようなムードを放っています。
 向かって左の塔楼が鐘楼、右が太鼓楼が配置され、本堂の大屋根も斜面が左右に流れている建築様式は日本の寺院としては異例です。
 設計は日本近代建築の重鎮である米沢市出身の伊東忠太博士で、主な作品としては東京の築地本願寺や京都の平安神宮などがあるほか、知勇獄山西省の雲崗石窟寺院の調査でも知られている。
 明善寺は江戸時代前期からの歴史がありますが、現存の本堂と塔楼は昭和9年(1934)の建築で、平成14年に国の登録文化財になりました。(山形歴史たてもの研究会/小林和彦より)
 詳細をご教示お願いします。

201409181631_0001.jpg明善寺

 山形市沼木の海野由美子さんの菩提寺である若宮寺をご案内していただきました。
 そのご住職様から海野氏の由緒について、お話をお聞きしました。
 出羽海野氏は永禄2年(1559)に信州から高崎に移住する。
 (この年は武田信玄が西上州を攻めている)
 同6年(1563)に高崎より出州へ下向して(このころは真田幸隆は鎌原城主羽尾道雲入道(幸全)の留守を聞き奪い返した)一族郎党と共に出羽国寒河江庄に来る。
 寒河江城主大江高基公の介抱に預り、のちに郡奉行申し付かり知行300石となる。
 朝日町の海野氏の初代海野信治は武田信玄の孫であり、初代海野信治の父は、武田信玄の二男(海野次郎元治=竜法)である。
 2代 海野忠治下総、次男海野善次郎長女・大谷白田監物の妻、次女・高田庄右衛門の妻
 3代 義治下総と改名・次男海野助衛門・三男善兵衛長女
 4代 善六 42才で死亡・次男善九郎長女・次女
 5代 善七治右衛門・長女宮宿柴田七郎右衛門妻
 6代 善右衛門
 7代 光三郎次男寛兵衛・長女島七郎秘儀衛門妻
 8代 善七長女吉村鈴木治右衛門妻・次女八沼
 9代 与三郎・次男義三郎・三男加藤治・長女川通島平内妻
 10代 善七、安永7年(1778)34才死亡・次男卯之助・
    長女伊藤六右衛門妻・次女田村柏倉六右衛門妻 
 11代 善七次男松之助・三男松之助・長女大谷白田長三郎妻
 12代 善七次男竹次郎・長女島藤源太郎妻・三男林治大巻菅井勘六養子
 13代 善七次男善作(分家丸山海野孝多)森治(分家海野善六)
 14代 善四郎子供善三郎・善四郎妻杉下
 15代 善三郎 妻真中
 16代 善七  妻橋上
 17代 信晴  妻上ノ原(現在寒河江に移住) 平成3年6月死去
 18代 ?   と続いておられます。

 甲斐夫人は、上杉景勝の室で、初代海野信治のおばさんに当たる人で、海野次郎元治=竜法の妹である。初代海野次郎信治のおじさんに当たる人が武田信清(武田信玄7男)である。菩提寺の由緒歴史は次の通りです。

  
 若宮寺  山形県西村山郡朝日町山中244   ☏0237-67-2458
 正平年間(1346~70)五百川若狭が弘法大姉の霊感により、大日如来を西船渡に祀り、一寺を建立したと伝えられている。
 慶長5年(1600)に上杉勢が五百川に侵攻の際に全焼する。
 同17年(1612)に配下としていた山野辺城主山野辺右衛門義忠(最上義光4男)か゜現在地に移転し、第一世尊孝法印は若宮中興の名僧といわれ復興に活躍されました。

s_201409181626_0001.jpg若宮寺

 山形県には168軒の海野家がおられます(電話帳調べ)

福島県の海野氏

 
 無為山泥洹院康善寺 福島市五月町8-20 ☏0245-22-3468
 浄土真宗本願寺派 本尊 阿弥陀仏尊像 住職 25世海野卓哉師
 詳細は、下記に記載の「海野氏と寺院」をご覧ください。

 専修山安養寺  伊達市梁川町清水町19   ☏0245-77-2345
 浄土真宗本願寺派  本尊 木造薬師如来坐像  住職 海野寿夫師
 詳細は、下記に記載の「海野氏と寺院」をご覧ください。

 この寺と長野県須坂市の普願寺と関係が深い寺院である。
 檀家の人々の中に須坂方面から会津に移った人たちがおられるとのことです。
 詳しくは次の通りです。

大岩山普願寺 須坂市大字小山(南原町)353 ☏026-245-0305
浄土真宗  住職 業田照賢師 副住職 業田昭映師(なりたしょうえい)善光寺に匹敵する敷地で約5,000坪はあるかも、檀徒は1,500戸にも、文化活動も熱心で、故植木ひとし・さだまさしらの催しを毎年開き、平成25年には中村美津子さんの演歌を楽しんだ。鎌倉時代に現在の埼玉県秩父に開かれたのが始まりと伝えられています。南北朝時代に本郷付近に移り、正和3年(1314)に本願寺覚如上人より「普願寺」寺号を賜り、文明5年(1473)に現在地に移る。元和3年(1617)には須坂藩主が陣屋が完成するまで仮宿として利用するなど関係が深かったとされてます。また、須坂の豪商田中家の菩提寺として多くの寄進を受けています。現在の本堂は寛保2年(1742)に着工、延享4年(1747)に完成され、須坂を代費用する寺院建築として平成4年に鐘楼(嘉永4年(1851建築))と共に須坂市指定有形文化財に指定されています。本堂の大工棟梁は越後国三島郡本与板村の丸山武兵衛である。鐘楼は亀原和田四郎嘉博作である

201409190921_0001.jpg 普願寺

 当地に30軒位の海野家がおられます。
 
 新鶴村に次の海野氏が在住されておられる。
 海野国雄 78-3018    海野幸喜 78-2120
 海野重雄 78-3022    海野静夫 78-2084
 海野晶子 78-2080    海野哲夫 78-2090
 海野利意 78-3017    海野政栄 78-3019
 海野芳明 78-2193

 福島県には91軒の海野家がおられます。

宮城県の海野氏

 登米郡米山町桜岡の待井  海野栄治氏はじめ10数軒あり
 電話帳で調べると、宮城県には76の海野家がおられます。

茨城県の海野氏

 
 常陸の国(茨城県)に海野氏がいる。来歴は不明であるが、戦国時代の永禄の頃、山野尾城(または串形城ともいい、多賀郡十王町友部にあった)の城主小野崎義昌の家中に海野安太郎あり、義昌は佐竹義昭の子で、小野崎成通の養子となったが、その際佐竹家から附入として来たという。

 天文13年に信州から上州に移った海野棟綱の一族が、更に常陸に赴いたともいわれている。また、同じ日立市に、代々五郎兵衛を襲名する家もあり、当初は「六文銭」の紋を使用し中途から「七曜」に改めたという。
現当主海野喜七氏。

 海野一之 『那珂郡那珂町鴻巣953 一乗院法満山千平寺(真言宗智山派)の菩提寺』が家系図本を発行(平成4年1月)されました。それは『東京都武蔵野市関前4-8-33(☏0422-53-5420)』にお住いの小林静枝さんが「常陸(那珂)鴻巣海野氏の系譜」(全326ページ)という題で、非常に詳細に書かれておられます。
これによると、次の通りです。
 柳継親王-1代海野-2代海野氏祖行長-3代行勝-4代長男・三男が陸奥国 
 5代 胤宗 慈恩院前衛舎義山圓識禅定門 承安4年(1174)享年64才
    妻  真解院淳定妙塔阿姉 嘉応2年(1170)
 6代 勝股 常春院前萄門玄義道仙禅定門 建仁元年(1201)享年62才
    妻  浄輪院貞室妙空禅定尼 建久4年(1193)
 7代 邦起 鎌倉将軍源實朝代旗本 畠山旧領8千石拝領して武州へ赴任
 8代 勝序 法相院自性道雪居士 延応元年(1239)享年69才
    妻  貞園寺真諦妙定禅定尼 延応2年(1240)
    弟覧易 宗閣道玄(秩父重忠戦で討死) 元久2年(1205)享年24才
 9代 穏茂 白露舎前吏官写山了月禅定門 文久7年(1270)享年68才
    妻  知春院花山貞室近事女 建治元年(1275)
 10代 満辰 帰西院前中席道雪了義近事男 嘉元2年(1304)享年70才
     妻 円如院浄好観月近事女 延慶3年(1310)
 11代 延勝 藤舎前下玄如道泉居士 元徳2年(1330)享年68才
     妻 自空院転月浄光妙尼 嘉歴元年(1326)
 12代 親祝 足利基国客臣なり下野に行く、足利猶子、加門、源姓に改む
 13代 貫寛 桐林前侍令慈雲浄閣居士 貞治6年(1367)享年70才
     妻 理定院幸相妙玄阿姉 康安元年(1361)
 14代 矯当 荀門実体蓮茂大禅男 応永15年(1408)享年71才
     妻 善光妙園大師 応永16年(1409)
 15代 節章 駿河足利持氏陣参陣、持氏の一字拝領、海野信濃守氏章と号
 16代 勝著 浄心院前楯谷露山道空居士 寛正元年(1460)享年72才
     妻 摂取院貞郭妙恒禅定尼 享徳元年(1452)
 17代 亮都 応仁元年6月、鎌倉府本丸旗本、足利政知御用所勤務
 18代 邦潔 明応2年(1493)和光院安楽寺草創(徳川光圀代より養徳院)
 19代 勝並 皖蓮社淳誉道詣禅定門 享禄4年(1531)享年69才
     妻 喜見院棺誉妙街阿姉 天文3年(1534)
 20代 庸誦院信誉道泉居士 天文13年(1544)享年57才
     妻 宥泉院妙極大法女 天文21年(1552)
 21代 股顕 今川義元陣天文11年参陣、足利仕、駿河に住む
 22代 貞慰 浄知院證誉了閣大近事男 永禄11年(1568)享年49才
     妻 穹室□誉妙相法女 
 23代 茂周 景林實覚了義禅定門 慶長16年(1611)器用年65才
     妻 相嫣妙雲近事女  慶長14年(1609)
 24代 貞顕 自当代正武臣、水戸トン側頼房代、
       寛永18年御検地帳御改時記名印焉 時56才
 25代 紹方 治郎右衛門
 26代 縫左衛門 青松道元信士 正徳3年(1713)享年72才
     妻 落葉妙林信女 享保3年(1718)
 27代 勝幹 吉左衛門 得富深緑信士 延享5年(1748)享年82才
     妻 良観浄識清信女 寛延元年(1748)7月12日より寛延となる
 28代 敏元 吉左衛門 鑁明浮水清信士 宝暦10年(1760)享年66才
     妻 紫雲妙綿清信女 天明8年(1788)
 29代 勝照 吉左衛門 阿光徹心清信男(逆修)飯田法満山一乗院住
     妻 同本円妙到信女 権現僧都法印有栄代授与
    先妻 芳菊妙董清信女 天明元年(1781)
 現在まで続いて地域で活躍されております。

 〒316-0036 日立市鮎川町6-5-32 海野あきの(☏0294-35-8286)の情報によると、鮎川町に13軒、旧壱浦町川尻と旧国分村大久保に6軒の海野家がおるそうです。
 日立市田尻   海野 忠
 勝田市中根   海野正元      中根に29軒あり

 日立市に120軒、水戸市に126軒、勝田市に76軒、常陸太田市28軒、

 那珂町に155軒(鴻巣31、後台27、杉19、門部18、菅谷18)また吽野(うんの)氏が那珂町に57軒(鴻巣51軒、後台1軒、菅谷5軒)そして宇野氏が那珂町に8軒(鴻巣2軒、杉1軒、菅谷5軒)おり、那珂町鴻巣では、高畑・吽野・海野・大内・細谷姓が特に多いが、海野姓は第3位である。
 この那珂町雌雄辺は、奈良朝末期から北関東の豪族佐竹氏の支配下であった。鎌倉時代から戦国時代にかけて、多くの士族が興亡したが、結局、常陸太田に城を構えた佐竹氏が常陸を統一した。
 江戸時代には、佐竹氏が出羽秋田に転封され、代わって親藩御三家の水戸家の時代となったころ、海野家の人々の中にも、官を離れ、武士を捨て、濃に就いた人も多いのであろう。
 水戸藩でも、2代光圀の代からすでに藩財政の困窮は、表面化して、藩士の生活難も、しだいに深まっただけでなく農村でも田畑の荒廃が目立ち、人口が減少し、農業生産力がも衰えていったという。このような窮状の中、海野姓の人々は、一団となって互いに手を取り合って、生き抜いてこられ、親から子へ、子から孫へと「先祖の地は信濃国の海野である」ことも語り継がれてきたことであろう。

 茨城県には海野家が704軒もおられます。

栃木県の海野氏

 足利市の白鳥家所蔵の家系図によりますと
 海野氏第26代海野小太郎氏幸(応仁元年(1467)村上氏と戦い戦死する)
海野小太郎幸種信濃守(海野氏第27代幸棟より分家したと思われる)――海野和泉保幸―海野備後守幸忠―海野主膳宗幸―海野和泉幸澄―海野与惣兵衛幸厚(海野邑の地に始めて民間に下り白鳥姓に改姓する、世はまさに戦国時代である、天文10年(1541)武田・諏訪・村上の連合軍に敗れ、海野家は各地に逃げ延び、名字をそれぞれ変えている。幸厚の弟白鳥勘右衛門幸邦白鳥修理は中野市間山の海野氏の祖となる)―白鳥三左衛門幸輝の弟白鳥市兵衛元幸が元和6年(1620)(今から約380余年前)御公儀より西間村(現在の長野県中野市の中野扇状地の西南端の湧水地帯で、中野西高校の辺)の開拓を命じられる。
 新田開墾の棟梁は当家の始祖である。ここが足利白鳥家の発祥の地である。家紋は州浜です。
 なお、海野家の存在する間山集落及び作曲家の中山晋平の生家も近いところにある。

 電話帳で調べると、栃木県に48軒の海野家がおられます。

千葉県の海野氏

 
 「三つ蝶」「雁金」「州浜」の家紋を伝える流れもあり、現当主海野武幸 氏は流山市に居住している。

 千葉市に44軒、市川市に29軒、松戸市に23軒、船橋市 に19軒、大網白里町に10軒、柏市に9軒、流山市に9軒。野田市に9軒、市 原市に8軒と千葉県には海野家が220軒おられます。

埼玉県の海野氏

 
 威徳山班渓寺 〒355-0225 比企郡嵐山町鎌形1907 ☏0403-62-2150

 班渓寺は曹洞宗の寺で威徳山班渓寺といいます。この寺の梵鐘に次の文字が刻まれているそうです。「木曽義仲 長男 清水冠者源義高為 阿母威徳院殿班渓妙虎大姉 創建スル所也」
 妙虎大姉(山吹姫)が我が子義高が頼朝によってその追ってに殺害され、夫義仲と子の義高の菩提を弔って、母の山吹が、この寺を建てたという。
 寺の前には「木曽義仲公誕生之地」の石碑が立っています。寺の境内の裏に竹藪があり、そこに清水が湧き出ているそうです。その清水も義仲産湯の清水と思われているそうです。その辺りを木曽殿坂とか木曽殿館跡というそうです。

auto_M25p1z.jpg鎌形の班渓寺

木曽義仲には何人かの女性がいたようです。彼の妻として有名なのは巴御前です。数ある諸説には義高の母はこの巴御前になっているものもあります。巴御前といえば京の都で畠山重忠との一騎討ちの話が知られているようです。そこで面白いのが、幼い駒王丸(義仲の幼名)を助けた畠山重能がいて、重能は重忠の父にあたります。木曽義仲に一時は味方した畠山重能と、義経らと共に義仲を討った畠山重忠がいるわけです。『吾妻鏡』などを読むと、最初平氏方の畠山重忠が源頼朝と出会い源氏方に付いた経緯がわかります。このへんが平氏と源氏の逆転劇のヒントになるようです

 話が逸れたので元に戻って、木曽義仲のもうひとりの妻がここ班渓寺に眠る山吹姫です。山吹姫は木曽の中原兼遠の兄にあたる2男の兼保の娘だといわれいる。海野兼保は、中原兼遠の実兄で小県郡の豪族海野家の養子となり、山吹媛が歎じようした。
 巴御前と山吹姫は重複するところがあり、共に女武者で幾多の合戦に参戦しているようです。定説では義高の母は山吹姫であることになっているようです。
 又班渓寺には「威徳院殿班渓妙虎大姉」と書かれた山吹姫の位牌が安置されて、墓碑が境内の墓地に建っている。
 なお信濃国の東塩田(上田市)にも、巴・山吹姫の墓がある。

auto_bkpc1o.jpg山吹姫の墓

 海野楊斎(医師の墓石) 本庄市中央3-3-6 若泉山安養院無量寺の墓地内
 墓石の高さ120㎝、台石40㎝の碑文である。
 翁名は敦、号は槐庵。父は殿木四郎と言い、駿河海野村海野僧嶺の娘をめとり、翁を江戸にて生みて没す。4才、祖母翁をひいて駿に返り、授くるに書を以てす。8才、文選を読み、帰りて花岡流宮川氏に随ウ。18才海野氏を冒す。 21才房州の蘭学某に学ぶ。25さいにして還り、江戸に開業す。28才緒方氏を師とす。30にして返り、開業す。公候、治を求むる者おびただし。翁、紛譁を厭い、嘉永6年小川に移る。後上州境にうつる。文政3年、武州本庄に転ず。明治12年8月21日没す。歳70.安養院に葬る。翁、細目にして豊下、襟期・高邁たり。舎蜜・兵津と火器を造り外科器をつくるとより、以て鉄筆・隷字に至り皆其の妙を極む。しかして時に或いは、吟哦・遊猟し、世表に脱落す。然るに其の才を展ること能わずして没す。命なるかな。詩有りて云う。「医を学び兵を学は、規無きがごとし。兵は詭道を要し、薬は奇を要す。若し詭奇を以て大意を論ぜば、人・身・家・国是れ同て治む」。其の志知るべきかな。嶋立甫曰く。
     海 野 楊 斎 墓 
 治術は、坪井・竹内・大槻・伊東より浮る。祖母、本居氏を師とし、元加州の娘某君の師たり。翁の成就・才識もまた淵源有るなり。弟は賢助という。2姉有り。子無し。妻田中氏、後事を経理すと云う。
 明治12年8月        元安中儒員佐々木溥 撰文

201409221002_0001.jpg

                 本姓 田中海野政女石を建つ
 上記の書類を埼玉県北本市北本宿182-7 金子幸生 ☏048-592-5616
からいただきました。何か手がかりをご教示ください。

 平成5年6月中旬に海野一族(兄弟・姉妹)9名で遠祖の地(海野宿)を訪ねられた。
 所沢市     海野 一男
 飯能市     三輪 信男・澄子(旧姓海野)
 飯能市     海野 武人
 入間市     吉原 文雄・里子(旧姓海野)
 日高市     海野 昭夫・京子
 東京都東大和市 小川 正子(旧姓海野)以上9名は茨城県のご出身である。
三輪澄子さん・吉原里子さん・小川 正子さんも茨城県の海野家から、海野京子さんは茨城県の海野昭夫さんと結婚されている。

 井出(会田)清右衛門 南崎玉郡出羽村(現越谷市)
 海野幸氏の支裔、故ありて、井出郷に住んで、井出氏を称す。
 その名を立て志を遂げんとして、信州を去り、武蔵に移り、越ケ谷駅吏を勤める。同門会田出羽のもとに赴く。シカシデを没する。
 その子、幼少の故、会田と改めて越ケ谷町の名主を勤める。出羽の子が長ずるに及んで、その職をその子に譲り、美田が広がる桃戸郷(七左新田)に家を建てて移り住み、七左衛門世襲名主の基を開いた。寛永(1624~44)年間に死去。
 その跡は養子井出三右衛門が継いで、姓を再び井出氏に改め英敏と称した。その才能は人に優れ、関東郡代伊奈氏に仕え、利根川・江戸川の修治にあたったが、元禄(1688~1704)年間には租税の吏に任ぜられた。この間伊奈氏の重臣酒井氏に精勤抜群のかどで賞を賜った。享保14年(1729)に死去。
 その跡を継いだのは喜太夫と称したが生来、学を好み識量豊で、はじめ官学所で幕政を学び、帰郷後伊奈氏に仕え、武州総州の農政に尽力する。寛永4年(1775)に死去する。
 その跡は義資と称し、四時粁と号した。権蔵が井出家を継いだ。生来才気にすぐれ、独立心強く、捷才、安永(1772~80)年間の洪水には、道路の水除堤を決壊しようとした上郷村の衆を、快力をもって撃退させ村人の信頼を一新に集めた。天明4年(1784)に死去する。
 その跡は清右衛門が継いだ。学を好み、気宇広大、越ケ谷駅長(問屋)を兼務したが、とくに訴訟・法論を弁士頼まれて出席することが少なかった。のち越ケ谷の別荘に移り財産を蓄積した。文化5年(1805)に死去する。
 その後は田中氏より養子が井出家を継いだ。智義と称し春耕幹と号した。生来実励にして、志厚く、かつ神仏を敬う念が強かった。
家業のかたわら子弟に読み書きを教え、その名を高めた。文化2年(1805)に死去する。
 その跡は、その子の勇蔵が継いだ。生来温厚親に孝、学を納めて土功水利に長じたが、さらに渦動抜芸にも長じ、訪れる文人墨客が多かった。天保10年(1839)に死去する。
 その跡を、その子門平が継いだ。幼くして父を失ったが昼は農耕、夜は学習に励み、万延元年(1860)から越ケ谷駅長問屋 を兼掌したが激務のため失明、衆人これをあわれんだが、その才能は死ぬまで衰えなかった。明治15年死去する。
 その跡を継いだのは門平の子庸造で梅香と号した。聡明・篤学・俊才で率先して農耕に奮励した。これを見習い村民は自ら一和した。明治維新にあたっては、県会議員も歴任し、明治22年の町村合併にあたっては、出羽村初代の村長に選ばれた。その徳は一郷に薫る。
 明治28年の春、梅香の嗣子斉義、庭中に碑を建立する。

 上尾市富士見町2-19-17(〒362-0041)海野洋義(☏048-775-4893)
 行田市               海野隆夫

 埼玉県に260軒がおられます。

群馬県の海野氏

 岩櫃落城後に僧となり、吾妻郡岩下村内野の天満宮別当となった海野氏がある。
 「天山見聞感録」に記載されている『当院中興記』「第11代順円、寛政6年(1794)」の記録にもあり。以来菅原神社の社掌祢宜として現在に至る、現当主海野信義氏は吾妻町岩下に居住している。

 吾妻郡嬬恋村田代  海野西五郎

 群馬県の電話帳で海野家は63軒がおられます。

東京都の海野氏

 三鷹市中原4-12-21   海野みずえ(☏0422-45-1204)
 三鷹市中原4-12-21   海野  力(☏0422-46-1867)
 江戸川区一之江5-7-17 海野 幸男(☏033-651-8809)
 東大和市湖畔2-325-64 海野美智子
 千代田区大手町1-9-5  海野 弘(評論家) 1939年生まれ、 
  早稲田大学文学部卒業。出版社を経て、美術・映画・
  音楽・都市論・華道・小説など幅広い分野で執筆活動に従事する。
  主著に『モダン都市東京』『プルーストの部屋』(中公文庫)
  『陰謀の世界史』『スパイの世界史』(文藝春秋)などがある。
 千代田区九段南3-9-11 海野和男
 世田谷区桜新町12-12-40 海野 修
 台東区竜泉1-25-2    海野徳弥
 

 明治大学文学部教授に海野福寿(昭和6年東京都に生れ)東大大学院修了、農学博士、静岡大法経短大部教授を経て、現職。近代日本経済史専攻。著書に「明治の貿易」等あります。 

 
 東京金管五重奏団(トーキンファイブ)の一人に海野貴裕がいる。彼は1985年東京コンセルヴァトアール演奏研究科ホルン専攻卆。ホルンを工藤光博・沖田安宏の各氏に師事。在学中より室内楽で公演・録音を行い、卒業後は室内楽を中心にバンドディレクターや後進の指導にあたる。数々の金賞をもたらし、久留島武彦文化賞受賞。
現在、FM放送録画・レコーディング・リサイタルをはじめ、全国で青少年のためのコンサートを開催、その数は年間180回にも及びます。

 「世界の水道」(技報堂出版)著者の海野信好がおる。海野氏は精力的にヨーロッパ・北アメリカ等の水道を視察されていて、各地の事情がわかり興味深かった。これだけの事を殆んど個人的に調査で出版されたことに敬意を表します。

 「地図の史話」(雄松堂出版)の著者の海野一隆がおる。東西159点の地図との対話による興味あふれる読物。たわむれの地図・いつわりの地図・漢民族と砂漠・西遊記の世界像・アジア人の地理観など。

海野勝眠は天保15年(1844)5月15日に水戸で生れ、幼名竹次郎。大正4年(1877)10月5日没、享年71才。別号は東華斎・芳州という、伯父の初代海野美盛。萩原勝平に師事し、明治初年に上京、明治10年(1877)第一回内国勧業博覧会で褒状、明治23年(1890)第3回同博覧会で「蘭陸王」で妙技一等賞、明治27年(1894)東京美術学校教授、明治29年(1896)帝室技芸員。三男は日本芸術院会員で人間国宝の海野清がおる。彫金家(1884~1956)東京生まれ、東京芸大教授、日本の伝統技法に西洋の題材・造形を融合させて創作を行った

 上記のほかに東京都の海野家は506軒おられます。

神奈川県の海野氏

 横浜市栄区笠間4-10-1大船パークタウンB707(〒247-0006)
海野秀男(☏045-894-9575)氏は和同エンジニアリング㈱に勤めながら、孫のためにツールを調査されております。参考情報をお願いいたします。今までの調査経緯は次の通り………
 天暦4年(950)滋野幸俊が海野家の初代で、天正10年(1541)28代海野棟綱で海野宗家は600年の歴史に幕を閉じて滅亡しましたが、海野家再興の祖として傍系の羽尾幸全の息子の羽尾輝幸(海野能登守輝幸)がおったが沼田城主であった頃、彼を妬む者の讒言を信じた真田昌幸に討伐され沼田市岡谷町に市の指定史跡として教育委員会名で建立されている。  
そこまでは分りますが後の調査が暗礁に上がってます。
 沼田市岡谷町に海野能登守と子の幸貞が自刃した海野塚があり、その流れが茨城県水戸・那珂町周辺から福島県白河市の菩提寺である常宣寺(六連銭)に海野家累代の墓があるので逆に調べた処「海野甚蔵」がおりました。その間、白河市教育委員会より阿部家資料群記号Ⅰ先祖書のコピーを載き、その原書の冒頭に『米50俵2人扶持・本国信州・生国武蔵』とあり、その下に海野甚蔵の名前が書いてありました。その資料によると、今の埼玉県行田市の忍城に阿部藩主5代目昌喬氏に仕えており、正徳5年(1715)となっており、それ以降の系図は分りましたが、群馬県沼田で天正9年(1581)に討死した海野能登守輝幸から埼玉県行田市の忍城にて生まれた海野甚蔵『正徳5年(1715)』の間、約150年の空白が分らないので調べようと思います。
何か知っておられる方の助言・情報をよろしくお願いします。

 藤沢市に在住の上野家の「上野家所蔵文書」によると、
 神奈川県→山形県米沢→福島県会津→越後国→信濃国葛山 となっている。
この間、上杉家より下付された文書を所持しておられるので、その経路は鮮明である。
 葛山城とは、信濃の善光寺の裏山に当たる山城であり、標高809mの葛山には、葛山城跡が、今なお現存している。その山麓には鑪、僅か離れて桜の集落が続いている。
 平安末期か、鎌倉初期のころ、香坂・大日向・小田切・春日などいずれも佐久地方の地名を姓とする滋野系の武士たちが、この地方に所領を得て移住してきたが、落合氏も本貫は作落合らしい。
 葛山衆の一人、鑪氏家譜は次のように記す。
「本姓は滋野本名落合・桜靭負尉・立岩伊豆守・鑪孫左衛門信満・上野新三郎幸親以上四家は海野の分家、これに香坂太郎左衛門・上屋小平・徳間平三を加えて葛山七騎という。菩提寺は米沢市北寺町浄土宗西蓮寺」「鑪郷に住せしをもって鑪と称す(信濃国上水内郡芋井庄)」と、すなわち葛山衆の殆どは落合一族で領地の名称を姓とした。
 応永3年(1396)の大文字一揆注進状・永享12年(1440)の結城陣番帳に落合氏の名がみえるほか事績については明らかではない。
 この葛山衆が、信濃国小県郡海野郷に発祥した海野家を遠祖とする海野系の一族である。
 そこで注目しなければならないのは、武田信玄の信濃攻略の進に従い、比較的平穏だった葛山衆も戦国の荒波に巻き込まれていく。北信濃の雄村上義清は上田原と砥石城で二度までも信玄に痛打を浴びたが、砥石城は真田幸隆の不意打ちであっけなく落城、近くの狐落城も内部の反乱で落城したため、義清は戦わずして鑪城葛尾城を放棄し、越後の上杉謙信に助けを求め、甲斐両雄激突の川中島合戦の幕が切られたのである。
 葛尾城は、武田の攻撃に城を死守激戦を展開、城将落合・援将小田切など多くの将兵が打死し、弘治3年(1557)2月15日ついに落城し、武田の支配下にあって一族の苦難の再起が図られたことと思われる。元亀元年(1570)9月付の信玄が葛山衆に与えられた朱印状がある。鑪与助が本領150貫と新知行100貫が与えられ「最前より幕下に参じ忠節比類なく」といった文面で、他も同様であるから武田について家筋を守っていることは確かである。
 天正10年(1582)武田氏滅亡し、織田の将森長可から安堵城が与えられ、葛尾衆は21名である。信長が殺された後上杉景勝が占領、葛尾衆の長沼城代島津忠道の指揮下に入った。
 天正11年(1583)2月、上野・立岩・鑪・江本・徳間・桜の六名は、家族共々衛ちこ゛春日山へ移住を命じられる。
 文禄3年(1594)の禄高は、春日233石、鑪・上坂・日下野・原・桜・立岩125石づつ、上野99石、50石未満17名、計25名である。
 慶長3年(1598)上杉氏は会津転封により越後・来た信濃45石から120石となり、鑪氏は125石から300石になるなど家臣の知行は倍増となり葛山衆25騎は全部100石以上となったが、ここで先祖伝来の本領地葛山郷から離れることになる。関ヶ原敗戦後上杉は30万石に、寛文4年(1664)米沢藩の滅封で知行も滅ぼされ、葛山衆は縮小消滅の道を辿るのである。しかし、家系は保たれ、多くの末裔の人たちが今も各地で活躍されておられます。
 藤沢市在住の上野家は、このような歴史にを経て現在藤沢市に繁栄しておられるのである。
 
 8代海野幸親の長男幸広・三男根井親綱(桜井三郎・)四男矢島四郎幸忠・五男落合五郎兼行→葛尾衆・六男楯六郎親忠で、葛山7騎とは桜・立岩・鑪
・上野・香坂・上屋・徳間である。以上鑪氏系譜は長野市鑪区長の麻場氏が所持の記録を参照させていただいた。
 長野県内の東信地方に現存する上野姓の人たちの分布を見ると次のようである。
 上田市小泉   24戸    上田市半過・山口   11戸
 上田市生田   28戸    上田市沖(武石)    9戸
 東御市海善寺   4戸    小諸市        10戸
 佐久市望月   66戸
     細分布 大谷地 13戸 戸倉 10戸 協和 10戸 春日 10戸
     下の宮 8戸 などとなっている。
 佐久市平井   18戸
徳間氏も、また葛山から越後→会津→米沢と上野氏と同様の経路を辿っている。千曲市戸倉にも徳間集落がある。
 海野幸親から、根井・矢島・落合・楯・その他の諸氏が分かれている。
根井幸親は、佐久市根々井を本拠地としていた、そこに菩提寺の正法寺がある。

 神奈川県に海野家は421軒おられます。

山梨県の海野氏

 
 甲斐に残った海野氏で、山梨郡勝沼村に海宝院を開いた流れがある。
 京都の醍醐三宝院の号を賜るよう運動したという伝えがある。
 現当主海野金作氏は今も勝沼町におり、遠祖は左京大夫幸義であるとい
 う。
 甲府市49軒、昭和町18軒、鰍沢町16軒、白州町7軒、身延町5軒、敷島町4軒、一宮町4軒など、山梨県の海野家は150軒おられます。

新潟県の海野氏

 雲谷山浄厳寺  三島郡出雲崎町住吉551  ☏0258-78-2247
 浄土真宗大谷派  住職 海野知現師
 詳細は、下記に記載の「海野氏と寺院」をご覧ください。

 
 新潟県の海野家は23軒おられます。

富山県の海野氏

 大宝山真成寺 上新川郡大山町上大浦227 
 浄土真宗  住職 海野芳雄師    ☏076-483-0072
 詳細は、下記に記載の「海野氏と寺院」をご覧ください。 

 黒部市宇奈月町352-7
宇奈月ニューオータニホテル   ☏0765-62-1311
社名が㈲ヒューマニック雲野(うんの)
海野氏に関係がありそうです。 今後の調査が待たれます。

 また富山県平村五箇山海野氏に関係深いと思われますので今後の研究がまたれます。

 富山県の海野家は45軒おられます。

石川県の海野氏

 法雲山真教寺  松任市辰巳町56-2  ☏0762-75-0174
 浄土真宗大谷派  住職 海野進師
 詳細は、下記に記載の「海野氏と寺院」をご覧ください。

 洞谷山永光寺  羽咋市酒井町イ-11  ☏0767-26-0156
 曹洞宗 住職 中野松禅師

 鎌倉時代末の正和元年(1312)の春、曹洞宗太祖常済大姉瑩山紹瑾大和尚45才の時、羽咋郡中河の地頭、酒勾八郎頼親の娘(黙譜祖忍)と、その夫海野三郎滋野信直の招請でその館に来訪し、翌正和2年(1312)8月20日にいたり、かねて海野信直夫妻から施入をうけていた鹿島郡酒井保(現在の堺町)の山中に、はじめ茅屋を仮の庫裏とした。次いで文保元年(1317)に開創された。
 能登の地で多くの門弟を育てられ、元亨3年(1323)春には五老峯を築造し曹洞宗教団の基礎を作られました。
 五老峯伝灯寺の堂内には、五禅師の頂相・五尊牌が正面に安置され、向かって左には「当山開基黙譜祖忍禅尼和尚」(滋野信直夫人)などの尊碑が数基安置されており、また「当山大檀那信州海野三郎滋野氏妙浄沙弥」の尊碑が安置されている。
 永光寺の開創された当時は、石川県能都郡酒井中河の地頭酒匂氏が支配していた模様である。
 地頭の酒匂八郎平頼親のとき、その嫡女(名不明)の夫が滋野信直とされている。
 信濃国佐久郡・小県郡の地頭で海野庄の地頭海野氏から能登の酒井氏に養子縁組されたものと見られる。
 平氏の女・酒井頼親の嫡女某、後の永光寺開基黙譜祖忍禅尼が瑩山禅師を招聘して、今の永光寺の辺りにか、瑩山禅師と滋野信直と二人にて、寺域を決めるために、その地に往来して寺域を決められた後に、酒井氏の館に寄宿されたことを禅師自らが述べられている。
 元応元年(1319)8月6日には滋野信直の布陣、酒井頼親の嫡女某は永光寺において、瑩山禅師について、出家得度を求められ授戒をして「黙譜祖忍禅尼」と名付けられ、元享元年(1321)11月2日には海野三郎滋野信直も、瑩山禅師について授戒得度をして法名「妙浄」と称した。
 その後、応仁2年(1468)・天正7年(1579)の二度の大乱に遭い全山焼失、幸い印派仏師の作になる御本尊様等は難をまぬがれ多くの文化財を所蔵されている。現在の伽藍は寛永以後の再建であります。

 「当山開基黙譜祖忍禅尼和尚」(滋野信直夫人)の尊碑と
「当山大檀那信州海野三郎滋野氏妙浄沙弥」の尊碑が安置されておられる。
 これを実証するニュースが報道された。昭和55年12月7日付けの北国新聞によると、永光寺に保存されていた武士の肖像画は二枚あり、12月6日、石川県文化財保護委員の画家山梨杏亭氏の鑑定で、一枚の裏には「酒勾八郎頼親祖忍父」と墨で記され、もう一枚は祖忍尼の夫「海野三郎滋野信直」と推定された。肖像画の唐紙の紙質から室町末期から江戸初期に書かれたものと推定され、祖忍尼が鎌倉時代に書かせたものが古くなったため、その時代に、もう一度書き直したとみられる。「貴重な資料」と折り紙を付けた。

 
 石川県松任市長嶋の白山神社・鶴来街中郷の真隆寺・川北町 中島の静泉寺・同じく川北町一ツ屋の浄秀寺などもある。

 石川県の海野家は28軒おられます。
 

福井県の海野氏

 本吉山万法寺  鯖江市鳥羽1-7-31 ☏0778-51-2182 
 浄土真宗本願寺派  住職 海野光暁師            
 詳細は、下記に記載の「海野氏と寺院」をご覧ください。 
  
 昭和57年(1982)4月19日に海野史研究会一行44名は寺で一泊しました。

 平田山瀧沢寺  坂井郡金津町御簾尾  ☏0776-74-1733
 曹洞宗  本尊 土仏観世音菩薩  住職 川内秀典師

今から6百年前、南北朝時代末期の永徳2年(1382)に能登の総持寺普蔵院の梅山聞本禅師が開いた寺である。
 もとは七堂伽藍があり、その間、本山直捌きの輪住寺院として多くの名僧知識が出て法燈を輝かしたが、天正3年(1575)7月織田信長の一揆討伐の際、兵火に焼かれてからは寺領をも失って衰退した。
 如仲天誾は梅山禅師の滅後、瀧沢寺は住持を欠いたので、旦那を招きを受けて永享2年(1430)4月、はるばる遠州から来て瀧沢寺の第6世を継いだ。
廃れた伽藍を修め、先師の遺髪をついでよく瀧沢寺の復興に尽くしたので、後世瀧沢寺中興の祖と仰がれている。住院8年で永享10年(1438)瀧沢寺を去って再び近江の洞寿院へ帰り、晩年には加賀の仏陀寺にも住持した。
 永享12年(1440)2月4日に75才で没した。現在瀧沢寺にも墓がある。

 福井県には12軒の海野家がおられます。
 

静岡県の海野氏

 
 永禄初期(1560~)ごろ諏訪刑部信真『永禄12年(1569)5月卆、法名儀鏡院殿節当祖忠大居士』が一男一女(元眞とその姉)を伴って南アルプスを越え駿州安部郡井川に入り、元眞は武田氏に随身を拒み駿府城の今川義元に仕える。 今川より地名の安倍の姓を賜り、安倍大蔵と名乗った。

auto_9gCf53.JPG安倍大蔵の墓と右手に諏訪刑部大輔信真の墓が並んでる

その後、永禄11年12月13日、武田信玄に駿府城が攻略され、今川義元の一子氏実は掛川城に入り、元眞は、その子信勝と共に岡部次郎左衛門と協力し、本丸は岡部氏が、二の丸は元眞父子が守っていたが、戦が不利になり大井川を南下して遠州の徳川家康の援助を求め、家康に仕え援軍を得て、武田勢の拠点筒野城・水見色城・川根城・土岐城・天野城・花沢の城等を攻略するなど徳川山岳戦に従い幾多の功績を掲げたので家康お墨付の感状をいただいた。

 その後元眞『天正15年(1587)10月10日卆、75才で病死する、法名龍泉院殿心清浄安大居士』が隠居し、子の信勝『武州5250石、慶長5年(1600)1月2日卆、法名大正院殿捐館等山源勝大居士』に譲り、再び井川に戻りました。

 前にも記した海野氏の系図に、海野氏10代海野幸氏の子、五男海野矢四郎助氏、その子弥兵衛泰信、その子泰勝、その子泰秀、その子泰頼『慶長20年(1615)10月1日卒、法名天生宗眼禅定門』と続いています。  

 元眞の井川の家督は泰頼の長男本定を養子に迎え、諏訪氏の出である安倍大蔵元眞の娘を妻とし、本定は海野姓を復活する。
 初代海野弥兵衛尉本定と名乗り徳川に仕え、安倍金山の奉行、安倍山の材木の御用、刎橋の建設の御用、家康の御用茶を生産し保管する御茶壺詰用、家康の鷹狩に用いる鷹の捕獲をする御巣鷹の御用を勤め、さのために7ケ村の百姓の支配と共に口坂本村の知行も認められました。また、駿府城に登り御茶の御用をも勤めました。
 元和3年(1617)に没し、曹洞宗大井山龍泉院に葬られ、法名は松雲常筠居士であります。

 2代本定の嫡子弥兵衛元重も父と同様7ケ村の百姓の支配を認められ、金山・刎橋・木 材・御茶壺詰・巣鷹等の御用を勤め家康に奉公し、その後は徳川頼宣に仕えました。元重は寛文5年(1665)に病死し、龍泉院に葬られ、法名見寿院殿松山道鷹居士であります。

 3代元重の長男五左衛門正成は駿河大納言徳川忠長の側近として仕えました。忠長乱功行の責任を問われ石見国に追放されました。

 4代元重の次男信典が家督を継ぎましたが、家運は衰退の一途を辿るが、しかし、長年に亘り井川郷で築いた先祖の遺徳に支えられ、近代まで「井川の殿様」の地位は続きました。元禄14年(1701)に没し、法名名山

 5代信氏は享保13年(1728)に没し、法名日山
 6代信武は天明4年(1784)に没し、法名厳霜
 7代信包は寛政12年(1800)に没し、法名釋栄
 8代信能は文政7年(1824)に没し、法名唯佛 田代村 源蔵倅
 9代信茂は明治3年(1870)に没し、法名見量 服織村 石上久左衛門倅
 10代信孝は明治12年(1879)に没し、法名良圓 駿府本陣 木村仁兵衛倅
 11代信常(孝三郎)は昭和2年(1927)に没し、法名徹心
 12代現当主海野久弥家の皆様がご活躍されておられます。

 本定より数えて11代目海野信常(孝三郎)は母かん(駿府城勤め禄高百俵取旗本秋田三郎右衛門の娘)の実家で、嘉永5年(1852)2月1日に生まれ、井川で父信孝に学問を教わり、慶応3年(1867)16才の時、江戸に出て慶應義塾に学び、大阪や京に出て見聞を広め、明治2年父信孝の死に伴い家督を継ぐ。
 明治の政治制度により、安倍郡は五大区となり初代区長に孝三郎が任命される。続いて県会議員制度が出来て、初代県会議員に推薦され、県政で活躍し、本業の茶業の発展に尽力し、全国茶業の組織し茶業発展の基礎を築く。
 また井川に発電所の設立を計画し、完成すると、安倍鉄道の設立にも尽力する。その後は井川村長も務め、昭和2年11月1日、76才で死去する。
 曲金の法蔵寺に法名、信孝院殿徹心樹高大居士として葬られておる。

 静岡市史編纂委員の宮本勉先生は「海野は駿河の名族である」と言う。
また、井川には金・お茶・美林等があり、駿河の今川氏も甲斐の武田氏も狙っておった場所でもあった。
 海野氏を代表するのが、「井川の殿さま」として有名な井川の海野家です。その子孫に清水港を開港した海野孝三郎がいます。
 昭和12年(1937)に彼の功績を讃えた頌功碑が天下の名勝日本平に建てられました。 日本平の山頂には翁の銅像が港を見守っています。

 そのほかに
 静岡県静岡市西豊田小学校玄関脇に「せいくらべ」の童謡碑がある。
この童謡の作者海野厚は、本名厚一といい、曲金の大地主11代海野伊三郎の長男(12代)として明治29年8月12日に生れ、早稲田大学卒、大正14年5月20日28才で没した。
 長頸子と号し俳句も作つた。特に「おもちゃのマーチ」「ろじのほそみち」「からくり」などは、この人の作として有名である。
 この碑は、昭和36年11月3日建てられた。
 この歌は大正8年ころの作で、作曲は中山晋平である。
 静岡市の駿府公園にも、昭和63年に設置され、海野厚作詞の不巧の名曲♪背くらべ♪ ♬玩具のマーチ♬の美しいメロデーが流れ時を告げている。また同年に童謡作詞家海野厚氏の歌碑が「背いくらべ」の歌詞にある、5月5日に菩提寺の宝厳寺に建立された。

奇縁というか、この作曲した中山晋平の生れ故郷である長野県中野市の間山にも多くの海野家が28戸もあり、毎年海野家の先祖祭りを執り行なっている

 この曲金村の海野家は、海野宏之氏の「海野氏世代略書」によると、
 初代海野久右衛門源忠宗が寛永11年(1634)8月14日卆
 法名義林院體室全正居士とある。
 妻は足久保の梶山氏娘、法名瑞松院年算永寿大姉、寛永11年7月9日卆。
 2代久左衛門源忠常の三男小兵衛(宝永元年(1704)5月13日卆)は
 曲金村より柚木村に分家し山根の海野の祖として
 11代海野芳敬氏
 12代海野宏之氏と続いて地域で活躍され、駿河海野会の事務局長も兼務さ
れている。
 静岡市柚木250 (〒420-0821) ☏054-261-3239

 萬松山可睡斎   袋井市久能   ☏0538-42-2121
 曹洞宗 本尊 釈迦牟尼佛
 詳細は、「海野史物語」をクリックして、「如仲天誾と興善寺」の蘭をご覧ください。

 玉泉寺  静岡市駿河区中原370  ☏054-285-0012
 曹洞宗  住職 海野康邦
 詳細は、調査中です。何かわかりませんので、ご教示いただきたいです。

 若宮八幡宮神社  賀茂郡東伊豆町稲取
  宮司  稲岡秀男 
 海野英昭氏(蒲原在住で駿河海野会員)が調査に訪問されたら、稲岡家系譜に次の文言が記されていました。

別山 周馬養子実は
清和天皇ノ皇子貞元親王ノ落胤信濃守海野小太郎幸棟ノ末葉海野鬼三男某ナリ父ヲ小太郎某ト伝ヒ世々甲斐国主武田家ニ仕ツ武田家滅亡ノ際鬼三男尚幼若ナリ密カニ脱シ当地ニ来タリ当家ヲ続グ然レト公然名ヲ現ズヲ欲セ ス別山ト改名ス
寛永元(1624)甲子年同上奉仕在職26年、万治元年(1658)5月12日卒

とあります。
 これが稲岡家に伝わる系譜の伝承ですが、同家の伝承では、上品な服装の女性が、幼児を抱え、共の女性を二人連れて、天正のころ同家を頼り、男子の無い周馬は、この幼児を養子にして娘と娶わせ同家を継がせたと、武田滅亡後に武田に仕えた海野一族が稲取の地に流れ、当地の若宮八幡神社の神宮の養子となり、やがて神主となり別山と称した。
 別山は次男(あるいわ弟)をして海野家を再興させ、海野を名乗らず、々呼び名の雲野(うんの)を姓とされた。
 これが稲取の海野家の起こりである。
 家紋は「結び雁金」を使用している。  
 

海野光弘版画記念館、島田宿大井川、川越遺跡街並みにあります。それは明治23年(1890)に建築された桜井邸という旧家を修復したものである。その建物と庭を使って島田市が、2000年4月28日に改装オープンされた記念館である。整備費用1億4千万円、母屋は木造二階建て延べ面積350㎡。海野さんが亡くなられたあと、遺族が遺作の全作品と版木・日記・スケッチなどの資料400点を、そっくり島田市に寄贈されたので、この分館が出来た。海野光弘は1939年11月生れ、1979年9月に39才の若さで脳出血のた死去。1959年4月に中学1年生の時、日記の中で版画を制作。その後版画に没頭

シスター海野(本名海野常世)は静岡市生まれ、約40年間、旧満州や日本各地で幼稚園長を務め、昭和47年4月、「第二の人生は恵まれない人のために」とフィリピンへ渡った。マニラからルソン島のバギオに向かうベンゲット道路の建設は大勢の日本人が従事し、数百人が犠牲なった。 また日本から訪れる遺骨収集団や戦跡慰霊団に呼びかけて寄付を募り、奨学金を設立した。いま、150人余の日系人やフィリピン人の高校・大学生が援助を受けている。平成元年12月31日午後10時50分、胃がんのためフランスシスコ修道院で死去した。78才

 静岡市西島912-12  海野 武 (☏0542-82-5092)
 静岡市曲金6-1-57  海野英雄 (☏0542-81-0574) 
 静岡市岳美33-2  海野忠良 (☏0542-45-8708)
 静岡市内牧978  海野 徹 (☏0542-96-2184) 
 静岡市羽鳥1131  海野秀雄 (☏0542-78-7018)
 静岡市中田294-7   海野俊男 (☏0542-83-8204)
 静岡市井川南アルプス入口(旅館大西屋) 海野由人
 静岡市篭上     海野泰一
 静岡市山崎     海野三郎
 静岡市富士見台   海野 実
 静岡市城東     海野銀治
 静岡市安西町    海野陽介
 静岡市広野     海野光弘
 静岡市秋山町    海野義男
 静岡市井川     海野周一
 静岡市内牧     海野すみ
 静岡市馬淵     海野 慈
 静岡市油山     海野光二
 静岡市大岩1-8-6  海野幸正
 静岡市丸子新田   海野省吾
 清水市草薙332-90  海野栄幸 (☏0543-46-4317)
 小笠郡菊川町青葉台 海野義治
 庵原郡蒲原町神沢  海野英昭      
  
 現在、海野家は葵区1,670軒(静岡市に1,626軒を中心に井川12軒・梅ケ島1軒・落合27軒・岡部町27軒)、清水区251軒(清水市209軒を中心に蒲原町38軒・由比町4軒)、富士市102軒(富士市94軒・富士川町8軒)、藤枝市97軒、焼津市63軒、沼津市69軒、浜松市36軒、三島市25軒、袋井市22軒、島田市18軒、掛川市19軒、伊東市13軒、熱海市11軒、榛原郡川根本町11軒、磐田市11軒、小笠町10軒、御殿場市9軒、下田市6軒、菊川市6軒、御前崎市5軒など、静岡県には2,390軒の海野家に及んでおります。

岐阜県の海野氏

 瑞浪市寺河戸町常盤通りに「四季の膳 ひさご」☏0572-68-2658
FAX 0572-67-2658 料亭を経営している海野一美氏がおられます。
料理人でもあり作曲も手掛ける異色の人物で、店内の壁をくり貫いて陶器の町らしく器が展示してあり、まるで美術館に来たような空間づくりです。
 海野家は昭和20年に静岡市から引っ越してきた。もともと父親が料亭をやっていた。先祖代々は静岡だが、海野家のルーツは信州の海野という。詳しくは「ひさご」

 岐阜県の海野家は22軒おられます。

滋賀県の海野氏

 曲谷山圓楽寺  坂田郡伊吹町曲谷104  ☏0749-5-0134
 浄土真宗本願寺派 本尊 阿弥陀如来 住職 准海師

 曲谷は、JR東海道線柏原駅から18㎞、柿川にそった集落で30余軒の民家がある。かっては村中が石屋であって、鎌倉時代から大正末期まで石臼づくりが続いていた。
 現在は石工は一軒だけで、かっては石臼づくりが唯一の生業であった。
 曲谷から柿川上流へとさかのぼった山に花崗岩床があり、ここから石を切り出していた。
 この曲谷の石工の技術は、木曽義仲が元暦元年(1184)に敗死して、大夫房覚明は木曽の残党を率いて曲谷まで逃げてきた。大夫房覚明が信州より石工を呼寄せて、その技術を伝授したとされている。

auto_PVTRhW.JPG曲谷山圓楽寺

 圓楽寺には「西佛房」と称する石像が正面の阿弥陀仏像の向かって右側の間に祀られている。高さ40cmの旅の像を形どったと思われる像である。

auto_tcVdNE.JPG西佛房石像

 塩谷山洞寿院護国禅寺 長浜市余呉町菅並492  ☏0749-86-2501
 曹洞宗 本尊 釈迦三尊 寺宝 木造観音菩薩立像(重文) 住職 大河内黙成師

 丹生川上流の菅並から、さらに支流・妙理川をさかのぼった渓間にあり、永平寺の開祖、道元禅師の直系、能登総持寺第11世梅山聞本を師とした如仲天誾禅師が開山で、修行の道場として大勢の禅僧を養育し、宗派を広げました。大本山総持寺の第40世にもなっている。
 応永13年(1406)には、その東方余呉湖の東約5㎞の丹生川菅並(現 長浜市余呉町菅並492)の山谷が、中国五台山に似た勝地として移建、白山妙理権現より塩泉を施された塩谷山洞寿院(どうじゅいん)と号して開基した。
 安土桃山時代には、朱印寺となるなど格式の高い禅寺で、慶長10年1605)徳川秀忠から、ご朱印地として30石の領地と葵の紋章を寺紋とすることが許された。また、天明8年(1788)住職が京都霊鑑寺の戒師を務めていらい、宮家の尊崇を受け、菊の紋章を本堂につけることが許された。
 鎌倉時代前期の造立銘を持つ、木造観音菩薩立像(国指定の重要文化財)や大日如来像・如仲天誾・梅山聞本禅師の像など寺宝は多くありますが、その一つに「龍の玉」があります。妙理川の中ほどに並ぶ夫婦滝に棲みついて、人々を苦しめていた龍を、開祖の如仲天誾禅師が法刀で済度すると、ある夜、龍が枕元に現れて寺院の守護となる証に、玉を置いていったと伝えられています。
 如仲天誾禅師は、全国に3千有余ケ寺の梵刹を建立し、その初開の道場である。春は楠花香り、夏は緑陰に座禅して暑気涼しく、秋は紅葉叢林を包んで錦をかざり、冬は全山白雪の清浄の霊域である。開祖以来第54世の古刹である。

auto_rg25YF.jpg塩谷山洞寿院

 五箇所町の青蓮寺等も海野氏に関係深いと思われますので今後の研究がまたれます。

 滋賀県大津    海野俊樹

 滋賀県に海野家は14軒おられます。

京都府の海野氏

 勝満寺 京都市上京区五辻町千本東入西五辻東68-1
 浄土真宗本願寺派 住職 海野貞行  ☏075-451-3242
 現在調査中です。詳細をお教えください。

 京都市中京区仁生中川町9に「天狗堂海野製パン所」があり、東映撮影所が近いため、芸能関係者のファンも多い。創業は大正11年、社長海野滋、社員6名、営業時間は午前7時~午後8時まで、休日は日曜日。☏075-841-9883。詳しくは
 
 京都府には海野家が35軒おられます。

愛知県の海野氏

 
 名古屋市緑区神沢2-20-12 海野房子
 
 愛知県には海野家が200軒おられます。

三重県の海野氏

 安濃町安芸郡栗加(現在津市安濃町栗加)の海野輝夫さんから、次のようなの情報をいただきました。
海野姓は栗加地区に43軒あり、世帯の殆どを占めています。
 三重県の史跡に指定されている田丸城(度合郡玉城町)は、今より約650年以前に北畠親房らによって築城された。北畠親房の子の北畠顕家は、それより以前に陸奥守に任ぜられた。後醍醐天皇の皇子(義良親王、後年の後村上天皇)を擁して多賀城に拠っていた。 陸奥守の大介として、義良親王の補佐の任にあたり、みちのくの地に、にらみを利かしていた。
 南北朝時代に後醍醐天皇が、吉野に脱出して、南朝を開き、延元元年(1336)には、足利尊氏討伐の綸旨を全国に発信した。
 この時、北畠顕家は父の親房とともに多賀城(宮城県多賀城市)にいた。
綸旨を受け、兵を集めて親房とともに先ず鎌倉をめざした。
 やがて北畠親房は、伊勢の田丸城を拠点にして京都奪回に執念を燃やしたが、しかし南朝の勢力挽回のために働いたが衰退はおおいようもなかった。
伊勢は北畠氏の地盤である。
 このとき、伊勢栗加の海野氏も、伊勢田丸城を拠点として北畠軍と行を共にしたのであろう。
 栗加地区に集中している海野氏は、南北朝時代に北畠氏の家臣であり、後世に居を移して、帰農したものであろう。

 延元元年(1336)には、朝廷は義良親王方を各地に派遣して、指揮・連絡に当たらせている。
 宗良親王は10月に遠州に入り、そして、12月には後醍醐天皇は吉野へ、これより南北朝時代が始まっている。
 北畠顕家の率いる奥州の大軍は、遠州に到着し、宗良親王は遠州の数千の兵をもって参加合流した。
 延元2年(1337)には、宗良親王は、伊勢一瀬城にて御歌
 「み山をは 独りな出てそ ほととぎす われも都の 人を待つらむ」
一瀬城は現在の三重県度合郡脇出の宮川上流である。
 延元3年(1338)2月14日北畠顕家は、北朝軍と伊勢の河又河口に戦う。
3月8日北畠顕家は北軍を天王寺に撃破する。
9月には伊勢大湊を出港して台風にあい、宗良親王は、遠江(現静岡県)に、北畠親房は常陸(現茨城県)に着いている。
 暦応3年(1240)には宗良親王は、駿河より信濃へ赴き大河原(現下伊那郡大鹿村)に至り香坂高宗家に身を託す。
 その後、香坂高宗家の子孫は大河原城にあり、一族のうち更級郡牧之島城に移る者もあった。後に禅正宗重は、武田氏に仕えて、香坂昌信は武田信玄の24将の名門香坂家を中興させている。

 津市安濃町栗加   海野利通
 津市安濃町栗加2212 〒514-2324 海野整形外科 ☏059-267-1221
 津市には38軒の海野家がある。

 三重県には海野家が185軒おられます。(電話帳調べ)

  

和歌山県の海野氏

 永禄初期(1560~)ごろ諏訪刑部(永禄12年(1569)5月卆、法名儀鏡院殿節当祖忠大居士)が一男一女(元眞とその姉)を伴って南アルプスを越え駿州安倍郡井川に入り、元眞は武田氏に随身を拒み駿府城の今川義元に仕える。
 今川より地名の安倍の姓を賜り、安倍大蔵と名乗った。
その後永禄11年12月13日、武田信玄に駿府城が攻略され、義元の一子氏実は掛川城に入り、元眞は、その子信勝と共に岡部次郎左衛門と協力し、本丸は岡部氏が、二の丸は元眞父子が守っていたが、戦が不利になり大井川を南下して遠州の徳川家康の援助を求め、家康に仕え援軍を得て、武田勢の拠点筒野城・水見色城・川根城・土岐城・天野城・花沢の城等を攻略するなど徳川山岳戦に従い幾多の功績を掲げたので家康お墨付の感状をいただいた。
 その後元眞(天正15年(1587)10月10日卆、法名龍泉院殿心清浄安大居士)隠居し子の信勝(武州5250石、慶長5年(1600)1月2日卆、法名大正院殿捐館等山源勝大居士)に譲り、再び井川に戻り、海野泰頼(慶長20年(1615)10月1日卒、法名天生宗眼禅定門)の長男本定を養子に迎え、本定は海野姓を復活する。
 海野弥兵衛尉本定と名乗り徳川に仕えた。その二男海野兵左衛門良次(紀州初代海野氏、1150石、勘定奉行)が元和5年(1619)徳川頼宣に従って紀州に入国する。寛永19年(1642)5月14日死去、法名観翁道夢居士、和歌山市男之芝町天年山吹上寺に葬られている。
 2代 海野兵左衛門清長(寄合組頭、400石、延宝5年(1677)病死)
 3代 海野平左衛門幸隆(徒頭、300石、元禄13年(1700)病死)
 4代 海野兵左衛門清詮(持筒頭、持弓頭、400石、明和6年(1769)病死、87才)
 5代 海野兵左衛門伴高(中の間番頭格、400石、安永9年(1780)病死、71才)
 6代 海野兵左衛門清雄(徒頭格、使役頭、400石、寛政8年(1796)病死、76才)
 7代 海野兵左衛門勤(寺社奉行、持弓頭、寄合組頭、400石、後に、御用人千石、大目付五百石、大寄合格千三百石、天保8年(1839)病死、74才)
 8代 海野兵左衛門希元(中奥小姓、勘定奉行格、天保15年天保15年(1844)美容師、47才)
 9代 希與とつづき、以来紀州で代々徳川家に重く用いられ活躍している。
 
 その子孫に、和歌山県議会事務局長の海野正幸氏がおられ、昭和62年に、初代海野良次「観翁道夢居士」の350回忌にお墓の修理をし、父の50回忌もあわせて追福の法事を行った。
 和歌山市葵町7-18(〒640-8273) ☏0734-22-8880
 ただ残念なことに、海野正幸氏は平成3年7月に亡くなられ、妻の貞子さんと長男の篤人氏が守っておられます。

 和歌山県新宮市市議会議員に海野義男氏がおられる。
 和歌山県の海野家は100軒がおられます。

大阪府の海野氏

 豊中市永楽荘4丁目の海野(宇野)浩二さんの系図は、次のように記している。
 海野氏9代海野幸広(海野小太郎四郎代々用雁金之紋)宇野家が始まり
 2代海野幸氏(海野小太郎左衛門尉)
 3代海野幸継(海野信濃守於同所賜十万町)
 4代幸家
 5代氏広
 6代氏経(海野平次、織田信長不用風諫故切腹)
 7代氏行(海野小左衛門、食居於泉州、毎祈大鳥明神、武門再興)
 8代氏道
 9代幸勝(海野平次右衛門、童名槌千代以大鳥明神氏神、日本武尊也室者)
 10代幸経
 11代幸成
 12代行辰
 13代幸則
 14代孝教(宇野源次兵衛、延享年中(1744~47))初代宇野家の創立
 2代幸久(宇野幸久)
 3代氏景(宇野武右衛門、宝暦年中(1751~63))
 4代景龍(宇野彦左衛門、明和年中(1764~71))
 5代顕興(宇野彦兵衛門、弘化年中(1844~47))
 6代格(宇野善三郎姓滋野、嘉永2年(1849)10月大阪天満与力町で与力、明治2年10月4日被大阪府少属云々)
 7代六三郎(宇野善三郎次男)39才死去、妻キョウ(大阪府南郡岸和田北町十番屋敷、福岡家生まれ、母は里勢といい美人で、キョウも美しかった)26才、長男崎太郎11才、浩二3才、六三郎の葬式は、ビックリするほど盛大であった。中学校と師範学校の教員を兼ねていたから二校の全生徒が、ことごとく参列し、西公園側の南港町から東公園の式場まで一里近く続いたといわれている。
 8代浩二(宇野格次郎、明治24年7月26日次男として福岡市生まれ)ついでに述べておくと、兄の崎太郎の「崎」は、六三郎が長崎の学校に勤めていた時に生れたので、父が地名の一字をとって付けたという。
 幼い時に父と死別、明治43年早稲田大学英文科予科に入学、大正4年同大学中退、小説家を志す。大正8年に発表した「蔵の中」「苦の世界」で文壇に認められ、以後創作活動を行った。まとまった仕事をするために、よく諏訪を訪れ、そこで出会った子持ち芸者「原とみ」に思慕いを寄せ、「諏訪もの」と呼ばれる一連の作品を発表した。
 特に「一と踊」「山恋ひ」は佳作であった。また戦時中は東筑摩郡島立村(現松本市)に疎開したが、この地で妻キヌを病で失った。
 戦後「思び川」の名作を発表し、一方昭和24年に芸術会員に選出され、晩年には広津和郎とともに松川事件にも尽力、36年9月21日肺結核で死去、70才、東京都台東区広大寺に葬られる。
                       (上田市 田中七郎調べ)

 一方、岸和田市編纂委員玉谷哲氏の解説された「岸和田藩主海野家所蔵の系譜」により、次に、その系譜を示すと
 幸隆-昌幸と続き、昌幸には子息二人、兄信之(初代松代城主)、弟は信繁(真田幸村)で、兄信之は徳川将軍に仕え、弟幸村は豊臣家に仕える。
 兄信之の子が三人おり、長男信吉は沼田城主に、二男信政は二代松代城主、三男信重は岸和田藩主の海野家へと続いている。
 信重-信可 信州の浪人、岸和田藩に仕えて、知行150石
 可政 200石加増す、350石
 幸勝
 政忠 350石から浪人
 忠幸 10石二人持
 忠陳 10石二人持から100石二人持
 忠行 100石
 忠益 幼名七蔵 伯事奉行
     (以下省略)

 岸和田藩主は、
 初代岡部長盛 山崎藩(下総国茨城・千葉県)
         天正18年(1590)~慶長14年(1609) 12,000石
        亀山藩(明治2年に亀岡藩と改称)
         天和7年(1621) 32,000石から34,000石
        福知山藩(丹羽の国・京都府)
         天和7年から寛永元年(1624) 50,000石
        大垣藩(美濃の国・岐阜県) 
         寛永元年から寛永9年(1632) 50,000石
 二代岡部宜勝 龍野藩(播磨の国・兵庫県)
         寛永9年から寛永17年(1640) 50,000石
        高槻藩(摂津の国)
         寛永13年から寛永17年    50,000石
        岸和田藩(和泉の国・大阪府)
         寛永17年から明治2年2月藩籍奉還 60,000石
 徳川家康の妹の洞仙院の子の岡部宜勝は、龍野・高槻を経て寛永19年に岸和田藩6万石へ、入封以来230年余りにわたって在封、将軍家光の信任が厚く、紀州徳川家の抑えとして、岸和田に封じられてともいわれる。
  
 大阪府に海野氏は200軒おられます。

 

兵庫県の海野氏

 
 国際ジャパネスク歌舞伎、代表海野光子。
 神戸の外国人学校カネディアン・アカデミィの日本語教師であった海野光子氏は、生徒達に日本文化をより理解させるため、1970年に日本文化研究会を創設。その活動の一つとしてカナデアン歌舞伎「修禅寺物語」を翌71年に上演された。以後学内だけが、76年から神戸文化ホールで、77年には東京公演、80年の10周年記念講演には、海外からも卒業生が参加。「番町皿屋敷」「頼朝の死」「元禄忠臣蔵」「勧進帳」「助六」にまで及んでいる。1982年に現在の名称に改めた。

 兵庫県の海野家は89軒おられます。

広島県の海野氏

 覚明神社 御調郡向島町川尻覚明島

 文治元年(1185)覚明は、木曽義仲の三男(信州では二男)義重を奉じ三十六家臣と共に、泉州境港より西行し9月9日覚明島に上陸する。
 はじめ覚明は、ここに浄土寺を建立し源氏の菩提所とし、そばに庵を設けて義重を養う。のちに義重は現一之宮神社の境内の地に館を建て、覚明は現八幡社の地に館を建てたという。
 文治5年(1189)義重・覚明の発願により地蔵隠を創建する。
川尻に居を構えた家臣団は義重を教育しつつ、治水・灌漑・土地の開拓し農耕改良に尽くし、土地住民の信頼厚きを得て、その徳を慕って、この地に『覚明神社』として祀り崇目られた。彼らの努力で向島の今日がある。
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 覚明は家臣団の定着したのを見届け信州に帰る。
 義重は、この地で没し、その長男は信州に行き、二男以下は向島に永住したという。その子孫は中世、木曽姓を名乗った。向島町118軒・向東町60軒実在する。
 八百数十年の歳月を経ても、覚明神社・三十六苗荒神・木曽明神は彼らの子孫一族によって維持されて、その精神は島民の心に脈々として生き続けている。

 広島県には63軒の海野家がおられます。

島根県の海野氏

 神奈川県相模原市在住の海野基之様は六文銭を家紋とする海野系の末裔とのことである。
 ご先祖は、松江藩の藩学の教授を歴任された高貴な家系である。
後世に至り所蔵図書を、島根大学図書館に寄贈して「海野文庫」と命名された。代々の氏名は「之」を襲名して今日に至る。
 松江藩主松平氏は松本藩主(長野県)より島根県に移封され、その節、海野基之氏のご先祖も松本頼島根県の松江に同行移住したものであろう。

 島根県の海野氏は1軒のみである。

沖縄県の海野氏

 
 島尻郡知念村海野149に「海野漁港セリ市場」☏098-947-1810あり。
 この村に海野という地名があり、しかも海野漁港があり、今後の研究がまたれる。
 沖縄県の海野家は2軒おられます。

そのた都道府県の海野氏

 その他に、奈良県25軒、岡山県に116軒、鳥取県1軒、徳島県10軒、香川県46軒、愛媛県12軒、高知県7軒、福岡県51軒、佐賀県3軒、長崎県8軒、熊本県8軒、大分県17軒、宮崎県には258軒の海野家がおられ、全国には7,132軒 の海野家がおられます。(電話帳調べ)

 
 なお、海野氏に関する情報をお知らせください。
 これからも調査・研究を続けておりますので、いろいろと御教示いただければ幸であります。

海野氏と寺院

 海野系寺院は全国に117ケ寺もあり、海野正統は滅亡したが、名族海野家を滅ぼしてはならないと、名ある御家人についたり、出家して住職になったりして海野氏は脈々と現在まで続いております。

寺 名住職名所 在 地宗  派
覚 英 寺海 野 覚 爾札幌市豊平浄土真宗
永 昌 寺海 野 義 清岩手県北上市曹 洞 宗
久 昌 寺海 野 講 栄岩手県盛岡市曹 洞 宗
康 善 寺海 野 卓 哉福島県福島市浄土真宗
安 養 寺海 野 寿 夫福島県伊達市浄土真宗
浄 厳 寺海 野 知 現新潟県出雲崎町浄土真宗
真 成 寺海 野 芳 雄富山県大山町浄土真宗
真 教 寺海 野   進石川県松任(まっとう)市浄土真宗
万 法 寺海 野 光 暁福井県鯖江(さばえ)市浄土真宗
玉 泉 寺海 野 泰 邦静岡県静岡市曹 洞 宗
勝 満 寺海 野 貞 行京都市上京区浄土真宗
貞 麟 寺海 野 喜 充長野県白馬村曹 洞 宗
極 楽 寺海 野 一 正松本市深志浄土真宗
西 生 寺海 野 祐 完松本市島立浄土真宗
妙 福 寺海 野 浄 英飯綱町芋川(いもかわ)浄土真宗
善 敬 寺海 野 浄 英長野市吉田浄土真宗
浄 專 寺海 野 弌 美長野市吉田浄土真宗
康 楽 寺海 野 浄 雄長野市東町浄土真宗
康 楽 寺海 野 昭 親長野市篠ノ井塩崎浄土真宗
専 精 寺海 野 教 恵長野市篠ノ井東福寺浄土真宗
上 宮 寺海 野 昭 親長野市篠ノ井塩崎浄土真宗
本 覚 寺海 野 玄 秀更埴市倉科浄土真宗
長 雲 寺海 野 慶 宗更埴市稲荷山真 言 宗
證 蓮 寺海 野 白 澄長野市松代町寺町浄土真宗
明 真 寺海 野 栄 子長野市松代町東条浄土真宗
陽 雲 寺海 野 秋 丸佐久市中小田切浄土真宗

覚英寺 北海道札幌市豊平区豊平1条4-2-30  ☏011-821-4114   

 浄土真宗本願寺派  住職 海野覚爾師
 大正9年(1920)山形県の明善寺(山形市七日町5-9-3 ☏011-821-4114
の「海野覚照師」が大正初期に渡道し、白石区に開教し大正9年に本願寺豊平説教所を開設した。

auto_JSFd8Q.jpg覚英寺

花岩山永昌寺 岩手県北上市更木33-105 ☏0197-66-4240

 曹洞宗 本尊 本師釈迦牟尼佛 住職 海野義清師
 本堂裏にある古池の右側には、開山当時から存在したと思われる、全国でも珍しい「ネズコ」という巨木がそびえ立っている。
 毎年4月に開催される春の祭りでは、秋葉威徳大士を祀る神輿を先頭に集落ごとに趣向をこらした山車・地元に伝わる手踊りなど、笛や太鼓の音に合わせ市内を練り歩く。神輿が寺院から出るのは全国でも珍しいことである。

auto_w1ljV6.jpg永昌寺

奕葉山久昌寺 岩手県盛岡市大慈町1-5  ☏019-622-2378

 曹洞宗 本尊 釈迦年尼佛 住職 海野講栄 副住職 海野朋孝
 創建当初は久昌庵という庵寺であって、十一屋某者(現盛岡市下ノ橋十一屋の先祖)が祇陀寺の奇山快秀和尚のために造った閉居でありました。
 快秀和尚は十一屋三代の当主高橋祐吉と相談し、周囲の谷地を求め、伽藍を建立し、布教・法要を執り行う道場として明暦2年(1656)開山導師として、報恩寺9世蘭翁嫩芝大和尚を勧請し、自ら2世大和尚として住職になられ、そのときから奕葉山久昌寺と称するようになりました。
 開山当時の建物は享保14年(1729)の大火に見舞われ、堂塔・仏具・過去帳等を焼失する。10世代に再興されましたが、明治17年(1884)大火に遭い、さらに明治31年(1898)9月23日に焼失、現在の本堂は大正5年(1916)建立されたものであります。
 本堂の釣天井造りで、大間の天井には真野暁亭の筆により龍の墨絵があり、東西の堂のふすまには16羅漢の墨絵・東側のふすまの裏側には竹林の七賢人の墨絵が描かれてありますが、いずれも真野暁亭の筆によるものです。
 また本堂内陣の天井には21世の筆で花鳥の絵があります。住職海野家は画人家柄で、海野梅岳・三岳の作品をはじめ、近年では岩手大学で教授を務められた海野経は先代の弟にあたられる。

auto_Znbvpc.jpg久昌寺

無為山泥洹院康善寺 福島県福島市五月町8-20 ☏0245-22-3468

 浄土真宗本願寺派 本尊 阿弥陀仏尊像 住職 25世海野卓哉師
 康善寺略縁起によると、宗祖大師親鸞の弟子で明教房順智は、もと平氏の一族であったが、その没落後、源空(法然)のもとで出家し、東国に流された親鸞を慕って下りこれに仕えたという人である。
 初代 明教房順智 当寺開基 文永5年(1268)2月14日没 98才
 師は、東北教化のため、この地にとどまらり信夫郡黒岩村に秀安寺という草庵を営んだという。
 2代  映飾院就信 弘安7年(1284)8月13日没
 3代  茲心院転山 延慶元年(1308)11月20日没
 4代  徳豢院曻道 元享3年(1323)3月5日没
 5代  更教院樹玄 正慶2年(1333)1月14日没
 6代  偏岳院祥雲 延文5年(1360)7月5日没
 7代  徹窮院締道 慶永18年(1411)1月17日没
 8代  徳水院唯教 康正元年(1455)2月26日没
 9代  真容院義玄 文亀2年(1502)7月7日没
 10代 謄神院応範 元亀元年(1570)没
 11代 凝心院了教 文禄3年(1594)3月18日没
  この寺は、その後天正14年(1586)9月13日の兵火で焼失した。
了教は軍勢四方を取り巻き逃げることも出来ず、宝櫃を阿武隈川に沈め、
わずかに身をもって最上に逃れ6年を過ぎ、文禄元年(1592)7月10日に再び
帰って宝櫃を河中より引き上げ赤間雅楽助の茅屋に安置した。
 12代 性海院重覚 慶長9年(1604)6月4日没
 13代 徴輝院宗覚 元和2年(1616)10月24日没
 宗覚のとき、上杉定勝の家臣古河善平衛尉重吉が、郡代に任ぜられ福島に住し農民を災害から守るため自費で、西根・東根の両郷50余ケ村の水田開墾を志し延長数里の二大疏水を開墾し、阿武隈川40余里に便船を通そうと川底を浚渫しているうちに財産をつかい果たしてなお不足で、資金に困って藩金の3年分を無断で流用し、重吉は、罪を藩公に詫びる覚悟であったが、子孫を絶つことになれば、祖先に対して最大不孝であるとし、その責を一身に負い自刃した。
 兼ねて帰依せる宗覚と計り秀安寺を今の福島に移し、信州塩崎康楽寺の2男重覚を迎え重吉の第3女おまんと結婚させ第14代を継ぎ、康善寺と改称し、これ以来海野姓を名乗る。なお重吉は寛永14年(1637)12月14日屠腹、遺骨は康善寺に葬ってあります。
 14代 等量院重覚 延宝2年(1674)9月24日没
信州塩崎の康楽寺12世浄祐の子養子
 15代 無為圓院一通 享保12年(1727)5月23日没
 16代 汏洹院致教  享保7年(1722)11月19日没
 17代 松寿院正教  天明8年(1788)7月16日没 85才
 18代 臨仙院恵教  寛政12年(1800)6月13日没
 19代 普得院宣教  文化9年(1812)12月21日没 江戸築地 明西寺
 20代 速成院宣教  文政5年(1822)11月16日没 越後高田 光明寺弟
 21代 珠綱院隆教  明治4年(1871)1月23日没
 22代 遊林院道教 明治27年(1894)8月14日没 65才 越後寺町浄光寺
 23代 ?
 24代 海野篤之 妻は福井鯖江 万法寺から
 25代 海野卓哉 現住職   
auto_JlWqzd.JPG康善寺

専修山安養寺 福島県伊達市梁川町清水町19 ☏0245-77-2345

 浄土真宗本願派  本尊 木造薬師如来坐像  住職 海野寿夫師
 寺伝によると、文禄4年(1595)上杉家の老臣須田第炊助が奥州梁川霞ケ城に遷移の時に、須田の家長中村内蔵助道喜は信心深く、君の院信州普願寺の2男である僧小山宗光賢誓法師と共に梁川に転移し、一宇を建立して仏法を広め、永くにわたり民族を和し安養浄土の法を流布せんことを君前に願われ、安養寺と寺号を給わり、真宗本願寺派の末寺となる。採算の大火に逢い、文政末年(1827~29)ころ真像を頂いて今日に至る。現在の本堂は明治14年(1881)4月に再建されたものである。第17世徹成-第18世壽夫(としお)-第19世は二男の康成-第20世寿夫氏が継いで今日に至る。
 なお、第18世の長男の海野寿康氏は現在五洋建設㈱で地盤工学者として活躍されておられます。

雲谷山浄厳寺 新潟県三島郡出雲崎町住吉551  ☏0258-78-2247  

 浄土真宗大谷派  住職 海野知現師   家紋 雁がね・六連銭
 海野家先祖を海野小太郎廣道とし、これより18代目海野小太郎幸義の弟で甲州武田晴信に宿匿すること久しく、同国高島郡十八門村に居住を定め□谷宗兵衛と称し天正年間(1573~91)織田信長が石山本願寺を征める当時、大谷本願寺家老横田河内守に縁故ありて宗兵衛を召され、11代信楽院顕如上人に味方し不惜身命に勤めた結果、鷺の森へ退去の折に顕如上人より数品を賜せられ、その後、越後の国出雲埼に下向して今の住吉町に落着き、自ら仏門に帰って、自ら浄厳寺を元祖第1世開基
 第2世宗安
 第3世了庵
 第4世了慶
 第5世了廊
 第6世了祐
 第7世了諦
 第8世了義
 第9世了存
 第10世了実
 第11世了心
 第12世了明
 第13世了靖
 第14世了智
 第15世了勝
 第16世了現

auto_3X5vmK.JPG浄厳寺

大宝山真成寺 富山県上新川郡大山町上大浦227 

 浄土真宗  住職 海野芳雄師   ☏076-483-0072  
 寺伝によると、平清盛の怒りにあった覚明が、この地に隠棲し、のちに木曽義仲に従うも、その後比叡山に登り、名を浄覚と改め、さらに真宗に転じた後西佛房と称したとある。
 開山は、正嘉元年(1257)10代海野幸氏の子海野三郎道敏(乗念房)とする。天文9年(1540)證如上人により大宝山真成寺の号を賜る。
 その後、10世慶乗、元亀3年(1572)石山本願寺の戦いに参戦する。また弟の寛玄は天正5年8月10日戦死する。11世敬正………21世慶順………
現住職の海野芳雄師と続いております。  (大日本寺院総覧による)

法雲山真教寺  石川県松任市辰巳町56-2  ☏0762-75-0174

 浄土真宗大谷派  住職 海野進師 
 福井県鯖江市にある万法寺は慶長7年(1602)本願寺が東西に分派した際、9代浄信房の子10代圓誓の後見人となった浄信の弟浄貞が、祖師親鸞聖人御影、顕如上人御影等の宝物を携えて分離し、東本願寺第12世教如法主より寺号を改め真教寺(元和4年(1618)に現石川県松任市辰巳町)と賜る。
 第10世 浄誓 元和6年(1620)生まれ、寛文11年(1671)に往生
 第11世 賢祐 
 第12世 賢貞
 第13世 玄貞 元和2年(1616)
 第14世 正慶 元禄3年(1690)
 第15世 授慶 正徳6年(1716)
 第16世 浄慶 安永7年(1778)8月7日小松市から松任市へ
 第17世 圓慶 嘉永2年(1849)3月22日往生 
 第18世 一慶 明治7年(1874)7月30日往生
 第19世 一成 文久元年(1861)2月23日往生
 第20世 聞慶 明治29年(1896)2月10日往生
 第21世 ?慶 新潟高田市浄楽寺より3才の時に来る 
 第22世 真證 現住職

auto_NeY6dv.jpg真教寺

本吉山万法寺  福井県鯖江市鳥羽1-7-31 ☏0778-51-2182    

 浄土真宗本願寺派 住職 海野光暁師 
 福井県鯖江市にある万法寺の開基は古く大徳泰澄大師が37才の時、石川県石川郡美川町手取に養老3年(719)が開基し、天台宗を伝えたが、関白後は無住にて482年間経て、建仁元年(1201)の頃、第10代海野小太郎氏幸の次男が出家して賢信房と称して当寺の住職となり、伽藍を創立した。
 折りしも見真大師・親鸞聖人が越後の国へ流罪のとき、手取川の洪水により当寺に滞留せられ、住僧深く聖人の教法に随喜して、その法弟となり、天台宗を改宗して浄土真宗に帰入した。
 ときに承元元年(1207)3月20日、此において旧宗の安置仏等は加州荒井柏野村の氏神に祀り、今なお該地に墓碑等が存在していて当寺真宗の本吉山万法寺を開基とする。
 慶長7年(1602)本願寺が東西に分派した際、9代浄信房の子10代圓誓の後見人となった浄信の弟浄貞が、祖師親鸞聖人御影、顕如上人御影等の宝物を携えて分離し、真教寺(現石川県松任市)を建立し、大谷派(お東)に属した。門徒の多くもこれに従い、万法寺は衰徴することになった。寛永10年1633)10代円誓の代になり、越前・足羽郡福井木田村に移転して、わずか9年の後、11代教淳の代、寛永19年(1642)同国今立郡鳥羽村に移転する。その後18代乗性の代、明治9年(1976)同国同郡西鯖江村に移転する。

 初代 賢信房 平氏の残党平定のためか、鎌倉幕府の役人として加賀の
  安宅関等へ来たのであろうと推定する。本尊の阿弥陀如来は見真大師が一泊の折に譲りうけたものである。
 2代 信敬房 正応3年(1290)本願寺3世覚如上人、北国へ御下向、
   祖師の旧跡を巡拝され万法寺に掛錫された。
 3代 祐賢房
 4代 賢真房 延元3年(1338)南朝方の源氏の流れをくむ新田義貞が越前で37才で亡くなられているので、義貞の四天王の一人畑六郎左衛門が
頼って来たものと思われる。越中国の万法寺門徒は、この時より関係が結ばれた。
 5代 空順房
 6代 従信房
 7代 願賢房 文明3(1471)~7年(1475)ころ吉崎御坊を開かれた本願寺8代蓮如上人に帰依し、抜群の功績により祖師の真影を認可された。
  加州加賀手取村から本吉浦(美小町)に移転する。
 8代 願信房
 9代 浄信房 弟浄貞が慶長7年(1602)本願寺が東西に分派した際、祖師親鸞聖人御影・顕如上人(分派前の最後上人)御影等の宝物を携えて分
  離し、真教寺(現在の石川県松任市)を建立し、大谷派(お東)に属した。
 10代 円誓 寛永10年(1633)に加賀本吉浦から越前足羽郡福井木田村に移転し越前万法寺の先祖なり、良如上人より涯如上人御影の免許があり、寛文3年6月23日往生
  坊守釈尼妙須 延宝4年(1676)3月15日往生
 11代 教淳 寛永19年(1642)同国今立郡鳥羽村へ越前藩主松平忠直公より土地を拝受し移転する。元禄15年(1702)3月5日往生。
  坊守釈尼妙専 享保13年(1728)10月6日往生。
 12代 教宗 延宝4年(1676)生、宝暦13年(1763)12月24日往生、86才
  43才の享保6年(1721)12月23日に西本願寺信解院寂如上人(71才の
  時)が木仏弥陀尊像を御高覧され仏宝とされ、祖師の直筆と寺伝されている。
  坊守釈尼清信 天明8年(1788)5月5日往生、80才(池田町清水家から嫁ぐ)
 13代 教栄 宝永5年(1708)生、明和6年(1769)11月4日往生、62才。
  前坊守釈尼栄寿 海野てよ 寛延3年(1750)3月25日往生、25才。
  後坊守釈尼妙従 海野さよ 安永2年(1773)7月20日往生、61才。 
 14代 教寿 南詢と号す 寛保2年(1742)生、文化9年(1812)1月15日
  往生、72才
  坊守釈尼慶寿 天保12年(1841)8月29日往生、83才。
 15代 教了 博詢と号す 明和4年(1769)生、寛政元年(1789)5月15日
  往生、23才の早死にのため弟教乗が法灯を継ぐ。
 16代 教乗 大詢と号す 明和7年(1770)生、天保9年(1838)12月5日
  往生、69才
  坊守釈尼貞寿 海野とみ 文化6年(1809)4月26日往生、30才。
  後坊守釈尼妙寿 海野幸 嘉永3年(1850)12月7日往生、59才。
 17代 真珠院釋教貞 文化11年(1814)生、明治4年(1871)6月22日
  往生、58才。  
 18代 真実院釋乗性 天保12年(1841)生、明治31年(1841)9月15日
  往生、57才。明治9年(1876)に現在の鯖江市民会館南隣へ移転する。
   坊守願入院釈尼常好 海野トヨ 大正9年(1920)7月6日往生、72才 
 19代 建法院釋雅亮 明治13年(1880)生、昭和10年12月23日往生
  56才。明治40年(1907)2月2日に現在地鯖江市鳥羽に移住する。
  坊守興法院釈尼妙貞 海野サダ 昭和32年12月17日往生、72才。
 20代 澍法院釋雅竜 明治38年(1905)生、昭和27年(1952)3月22日
  往生、48才。永代上座一等昇進、甲種特別衣体着用許可等。
  坊守 釈尼妙静 海野静子 明治44年(1911)9月26日生、
  武生市平出町、佐々木新左衛門の娘、昭和5年3月30日結婚。 
 21代 釋晃昭 昭和17年(1942)3月21日生、10歳の時先代とは死別し
  16才で得度。昭和39年3月大学で真宗学を終え、21才で住職となる。師は現在教法に、ご活躍されておられ、平成24年3月往生、71才。
  坊守 釈尼妙恵 海野八千代 昭和19年1月3日生、福井市末町の専超寺より、昭和42年4月29日嫁ぐ。同年9月16日得度する。
 22代 海野光暁
  坊守 海野美春(晃昭の長女) 昭和43年4月4日生。

clip_0089.jpg万法寺

玉泉寺  静岡県静岡市駿河区中原370  ☏054-285-0012

 曹洞宗  住職 海野康邦
 詳細は、調査中です。何かわかりませんので、ご教示いただきたいです。

勝満寺 京都市上京区五辻町千本東入西五辻東68-1 

 浄土真宗本願寺派 住職 海野貞行  ☏075-451-3242   
 現在調査中です。詳細をお教えください。

祥雲山貞麟寺 長野県北安曇郡白馬村大字神城字沢渡6485 

 曹洞宗 本尊 聖観世音菩薩 住職 21世 海野喜充師
 家紋六連銭        ☏0261-75-2620
 天正15年(1587)3月、仁科氏の武将、沢渡九八郎平盛忠の代に菩提樹として、大沢寺9世巍母正鎮和尚創建する。
 継世18世住職篠崎天舟のとき寺の裏奥に「りん」さんが頭をまるめて庵を作り、仏門に入るといわれている。
 明治21年と昭和51年に火災により焼失し、20世海野仙厳師の父のときに広田四賀村より移転し、昭和53年に再建して現在に至る。
 4月下旬から5月上旬「シタレザクラ」が満開のころ、全国でも珍しい白桜と桃色桜が見られます。本堂の前にあり国の天然記念物に指定され、樹齢400年・樹周5m・樹高16mと桜の幹は時の流れを感じさせる巨木である。
 裏山の斜面の境内周辺一帯には「カタクリ」群生もあり見ごろになる。
 また、墓守は不要と自然に返るということで、墓石もなく、柵も囲いもない樹木葬が広がっている背景には、少子化や独身者の増加によって「墓を守っていく人がいない」という事情で、これまで30人が埋葬され、生前予約がすでに50件ほど入っているそうです。

auto_YR1ulX.JPG貞麟寺

北林山西方院極楽寺 松本市深志2-4-27 ☏0263-35-1753

 浄土真宗本願派 本尊 阿弥陀如来 住職 26世海野一生師
 寺伝によれば、開基の海野三郎広重は、親鸞聖人の弟子となって、広専坊と名のり、小県の海野の里の廃寺を再建して極楽寺としたという。
 のち11世了専のとき、武田信玄の命によって永禄3年(1560)松本市島立の北栗へ移った。
 松本城主石川康長は、文禄2年(1593)に、松本城下の経営の一環として、寺を北栗の地から、女鳥羽川の南(旧本町1丁目)へ移した。しかし、水野氏の代の明暦2年(1656)に火災にあい焼失したため、現在地へ移された。
 松本藩主水野忠直が寺に参詣した折、大門が本町側にないことを不便に思い、本町側に道をあけ大門がつくられたのは、元禄10年(1697)である。
 明治21年(1888)1月、寺から出た火は、折からの南風にあおられて大火となり、南深志の町々を焼いた。
 現在ある入母屋造りの鐘楼は、この時の火災をまぬがれた建物で、安政5年(1858)の建立で、鐘は松本の鋳物師田中吉繁の元禄12年(1699)の作であったが、戦時中に供出され、現在の鐘は文化勲章受章者香取秀真・正彦父子の作である。
 昭和26年(1951)、現住職海野一生師は境内に深志保育園を設立し、昭和45年(1970)には、念願の本堂を再建した。

auto_SK9JQA.JPG極楽寺

西生寺  松本市大字島立字北栗3932  ☏0263-47-0938

 浄土 真宗本願派  住職 海野乗昭師   
 極楽寺の隠居寺として、寛永14年(1637)6月、善性和尚創建する。

 

森尾山鎌田院妙福寺 上水内郡飯綱町芋川1517-1 

 浄土真宗大谷派 本尊 阿弥陀如来
 住職 海野浄英(善敬寺兼務)    ☏026-253-2223
 下総国の庄司鎌田兵衛政清の嫡子鎌田政守が、常陸国稲田において、専修念仏をひろめていた親鸞上人のでしとなり、妙善という法名を賜り、下総国鎌田村に一宇を創建して明福寺と称したが、貞永元年(1232)兵火にあい、、越後国頸城郡箱井村に移った。
 その後永禄10年(1567)、この地を支配していた芋川越前守が当地に堂宇を造営し、その庇護の下に現在地に移転し、寺号を妙福寺と改めたという。
 12世空善の代、寛文4年(1664)火災で堂宇を焼失し、現在の本堂は、その後再建されたものである。
 現在の寺地も芋川氏の居館址内の一部ではないかという。家紋は州浜。

auto_H0l5th.JPG妙福寺

白鳥山報恩院善敬寺 長野市吉田3-16-16  ☏026-241-3771

 浄土真宗大谷派 本尊 阿弥陀如来 住職 海野正師  家紋州浜
 開基は塩崎康楽寺の2世法眼浄賀(絵がうまい)の二男の浄蓮(親鸞の伝記を書く)で、永仁元年(1293)10月、本願寺から山号と寺号をあたえられ一宇を建てられた。
 浄蓮の祖父西佛房覚明は海野小太郎幸親の子で、小県海野に一宇を建立した。
 西佛房の子に浄賀と浄宣があり、浄賀の系統が塩崎康楽寺となり、浄宣の系統が東町康楽寺となっている。
 善敬寺は、古くは善教寺と書いていた。
 応永4年(1371)本願寺3世覚如の著作「本願妙」を、その子存覚から書き写して授与されている。
 天正5年(1577)における織田信長の石山合戦のとき、当国の本願寺末寺および門徒25カ寺が康楽寺の2百10俵を筆頭にそれぞれ兵糧米を寄進した。その中に当寺も10俵1斗のコメを本願寺に送っている。
 寺には石山本願寺を建立した蓮如の子実如や、その孫証如の花押のある「御文」等も現存している。
 寺の往時は四囲が堀であったが、慶長年間に長沼街道が整備された。ここに樹齢900年と言われる、長野市天然記念樹の「大いちよう」がある。
 寺内に信行寺(右奥)・本覚寺(左入口)・浄専寺(左奥)・正宗寺の4寺を抱える浄土真宗があります。
auto_riu4GL.JPG善敬寺

浄専寺   善敬寺院内     ☏026-241-4062

 浄土真宗大谷派  住職 海野弌美師   家紋州浜・結び雁がね
 文禄2年(1593)、塩崎康楽寺12世浄教の子浄専が創建する。
 本堂は破壊せざるをもって、安政7年(1860)の建立である。

白鳥山報恩院康楽寺  長野市東町163-1   ☏026-232-3098

 浄土真宗本願寺派  住職 25世海野浄雄師   家紋州浜
 建暦2年(1212)3月創立、西佛房覚明が開基する。
西佛房は海野小太郎幸親の二男として保元2年(1157)に生まれ、幸長と名のった。甥には、木曽義仲のこの身代わりとなって義高の鎌倉脱失を助けた、海野小太郎幸氏がいる。幸長を行長と同一とし、「平家物語」の作者信濃前司行長は幸長のことだとする説がある。
 木曽義仲に従っていたが、義仲死後は比叡山に登り、慈円に学んだ。
やがて親鸞の弟子となり、小県海野庄に康楽寺を開祖した。この寺は戦国期に塩崎に移転し、塩崎康楽寺となった。
 西佛房の三男浄宣がここに住し、寺号を広敬寺としたという。
永禄期(1558~69)に火災により全焼した。寛文5年(1665)11月12日西本願寺から康楽寺の寺号をあたえられた。
 宝永11年(1761)3月28日出火し焼失した。弘化4年(1847)3月24日の善光寺大地震のときも焼失している。翌嘉永元年(1848)に再建されたものです。本土が完成したのは、明治19年(1886)のことである。
 また善光寺周辺に大火があり、康楽寺の庫裡が長野学校の仮校舎として使用されている。

201409191455_0001.jpg康楽寺

白鳥山報恩院康楽寺 長野市篠ノ井塩崎角間3429 ☏026-292-465

 浄土真宗本願寺派 本尊 阿弥陀如来 住職 海野昭親師 家紋州浜
 寺の開基は、親鸞と苦楽を共にし、真宗の創業に尽力した西佛房である。
西佛房は俗名を海野通広といい、小県の名族、海野小太郎幸親の二男であり、保元2年(1157)の生まれ、仁治2年(1242)85才で死去した。
 京に上って院御所に仕え、勧学院進士から文章博士となり、進士蔵人通広と称したが、のちに出家して南都興福寺に入り西乗坊信救と称した。
 治承4年(1180)園城寺(三井寺)が以仁王の平氏追討の令旨を奉じ、南都に送ったとき、信救はその返事を書いた。その書面に、平清盛大いに怒り、信救は南都に居れず東国に赴く途中、平家追討のため東国から都へ攻め上って三河国府にいた源行家に会い、行家の陣中に加わったが、行家が源頼朝と不和になると、木曽義仲のもとで軍師として平家追討に功があり、大夫房覚明と称した。
 寿永3年(1184)義仲の滅亡後、箱根山に隠れたが、比叡山の天台座主大僧の門に入り、円通院浄賀と改めた。後日法然の弟子となり浄賀は名を西佛と改めた。
 建暦2年(1212)3月、小県海野庄白鳥に一庵を創立したという。更級郡長谷の地にも草庵を修し、第2代浄賀は絵をよくし、弘安3年(1280)本山より康楽寺の郷を許される。
 弘治4年(1558)第14代浄教のとき現在地に堂宇を建立したといわれてる。(信濃宝鑑より)

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長野市塩崎の康楽寺 

 川中島の戦いの始まったころ、この辺の寺は、西方の山中などに難を避けたといわれる。
 この戦乱ときに、康楽寺が寺勢盛んな大寺とはいえ、いかにして同じ地に存続しえたのであろうか。寺に残る武田信玄の花押のある古文書などの書状により積極的に保護するとともに、その名声と信仰を利用したことを物語っている。
 『新潟県寺院名鑑(新潟県寺院名鑑刊行会)1983刊』は、この長い戦いが続いた戦国時代に、康楽寺と同じ浄土真宗の78を数える寺が信濃から越後に移ったとし、個別寺院ごとに、その年代まで明らかにしている。
 信濃から越後に移転した寺院一覧表

寺院名宗派現在地移転年代
正福寺大谷派新潟市西堀天正3年
真浄寺 同 同
永法寺 同長岡市出雲町大永2年
妙宗寺 同  同 渡里町川中島の戦
明行寺 同 同 芹川町文禄3年
願敬寺 同 同 黒津町天正8年
浄林寺本願寺派 同 天神町川中島の戦
西願寺高田派 同 呉服町天正8年
照行寺大谷派上越市東本町
林西寺 同 同 仲町永禄年間
西方寺 同 同 上野田
専念寺本願寺派 同 南本町永正1年
勝見寺 同 同 横曽根
明照寺 同 同 飯田永禄4年
蓮光寺 同 同 高和町天正16年
浄興寺 浄興派 同 寺町永禄10年
浄正寺 同 同永禄年間
玄興寺 同 同
専称寺 同 同天正年間
正光寺 同 同永禄年間
玄瑞寺 同 同
受徳寺大谷派柏崎市吉井天正年間
聞光寺 同 同 西本町天正12年
専念寺本願寺派 同
菓城寺大谷派新津市本町(新潟市)文禄2年
浄明寺本願寺派 同 飯塚(新潟市)永禄5年
専正寺大谷派小千谷市横町永禄4年
極楽寺本願寺派 同 寺町川中島の戦
専照寺大谷派加茂市下条
浄覚寺 同見附市元町永禄年間
明覚寺 同 同 葛巻町川中島の戦
明仁寺 同 同 新潟町
専正寺 本願寺派 同 坂井町文禄年間
西蓮寺 単 立 同 新町永正12年
福勝寺本願寺派燕市大曲永禄4年
常誓寺大谷派糸魚川市新鉄文禄年間
専念寺 同新井市吉木(妙高市)
康源寺 同 同 石塚(妙高市)天正年間
願生寺 同 同 除戸(妙高市)
照光寺 同 同 小出雲(妙高市)永禄年間
菓城寺 同 同  同(妙高市)永正3年
勝念寺 同 同 吉木(妙高市)天正年間
妙光寺 同西蒲原郡巻町(新潟市)天正16年
願善寺大谷派 同 岩室村和納(新潟市)天正年間
明誓寺本願寺派 同 西川町曽根(新潟市)川中島の戦
西敬寺 同 同 分水町熊森(燕市)天文10年
善興寺大谷派 同 吉田町鴻巣(燕市)天正15年
真浄寺本願寺派 同 黒崎町島原(新潟市)天正年間
円明寺大谷派 同 中之口村六分一(新潟市)永正5年
蓮照寺 同南蒲原郡栄町鬼木(三条市)川中島の戦
光善寺 同 同  同 矢田((三条市)
本龍寺 同 同  同 帯織(三条市)川中島の戦
安浄寺 同三島郡越路町来迎寺(長岡市)永禄1年
明鏡寺本願寺派 同  同 飯塚(長岡市)天正年間
長永寺 同 同  同 浦(長岡市)永禄年間
西照寺大谷派 同 三島町上岩井(長岡市)天正年間
浄福寺 同 同  同 脇野町(長岡市)享禄年間
浄運寺 同 同  同 鳥越(長岡市)永禄年間
円満寺 同 同 与板町与板(長岡市)川中島の戦
蓮正寺本願寺派 同  同(長岡市) 同
養泉寺大谷派 同 寺泊町寺泊(長岡市)文禄3年
厳照寺 同刈羽郡刈羽村十日町天正年間
光徳寺 同 同 西山町北部(柏崎市)永禄年間
願隆寺 同 同  同 伊毛(柏崎市)文禄年間
願教寺本願寺派東頸城郡安塚町須川(上越市)永禄年間
福楽寺大谷派 同  牧村岩神(上越市) 同
浄福寺本願寺派中頚城郡柏崎町柏崎 (上越市)天正年間
啓明寺大谷派 同 頸城村増田新田(上越市)永禄年間
性徳寺 同 同 吉川町梶(上越市) 同
安楽寺本願寺派 同 中郷村二本木(上越市)永正3年
西蓮寺大谷派 同 板倉町山部(上越市)天正年間
勝楽寺 同 同  同 沢田(上越市)川中島の戦
本覚寺 同 同  同 長嶺(上越市)天文年間
浄覚寺本願寺派 同  同 針(上越市)永禄年間
浄通寺 同 同  同 清野村荒牧(上越市) 同
妙土寺大谷派 同  同 武士 (上越市)天正年間
専長寺 同 同 三和村窪 (上越市) 同
西性寺 同西頸城郡能生町木浦(糸魚川市) 同

海野山報恩院専精寺 長野市篠ノ井東福寺648  ☏026-292-1128

 浄土真宗大谷派 本尊 阿弥陀仏 住職 23世海野教恵師 家紋州浜
 海野西佛房覚明の開基による。
 康楽寺11世浄林の二男尊祐が、埴科郡土口村北山に永禄12年(1569)一宇を建立する。 
 13世玄祐 元和元年(1615)更級郡小森村に移転する。
 14世玄長 天和2年(1682)本尊阿弥陀仏の許状、親鸞の絵像を受ける。
 15世恵長 当寺飛檐地に昇階する。享保20年(1735)本堂造立する。
 16世慈界 寛延3年(1749)蓮如上人絵像受ける。
 17世恵賢 安永9年(1780)梵鐘及び鐘堂造立する。
 18世権津 空山と号し、書・漢詩・砲術に上達する。
 19世恵雋 安政5年(1858)余地間に昇階する。
 20世徳雲 明治13年4月現在地に移す。
 21世貞純 大正2年(1911)10月親鸞聖人700開基法要する。
 22世俊恵 小学校の奇要因を務め、39才死去される。
 23世教恵 本堂を改修し、現在に至る。

auto_r8o30A.JPG専精寺

上宮寺 長野市篠ノ井塩崎

 浄土真宗    住職 海野昭親師  家紋州浜
 塩崎の康楽寺と同じだと思われます。詳細は調査中です。

白鳥山報恩院証蓮寺 長野市松代町寺町1301 ☏026-278-3398

 浄土真宗大谷派  住職 海野良澄師 家紋州浜・結び雁がね
 塩崎の康楽寺の開山西乗坊信救、すなわち西佛房覚明のことで康楽寺2世浄賀の開創という。はじめ、永仁年中(1293~98)更級郡東条村に一宇を建立し、第2子浄応のとき白鳥山報恩院証蓮寺と号した。
 永禄2年(1559)10月3日 武田信玄の制札あり。
 天正10年(1582)4月5日 森長可の制札あり。
 慶長年中(1600)の大久保地用安の寺領寄進状などがあったが。
 安永8年(1779)4月の類焼によって焼失する。

auto_XGcCOe.JPG証蓮寺

仏智山明真寺 長野市松代町東条1127  ☏026-278-3967

 住職 海野栄子 福徳寺が管理している。詳細は調査中です。

白鳥山本覚寺 長野県千曲市倉科1050   ☏026-272-2224

 浄土真宗本願寺派 本尊阿弥陀如来 住職海野玄秀師 家紋州浜・雁がね
 創始を相州鎌倉の住人、鎌倉権五郎景政の開基と称しているが明確ではない。元天台宗であったが、のちに住僧唯圓入寂の後、その後を継ぐ者がなく、廃寺に及んだために檀家ら相計って、康楽寺開山西佛房覚明の子、浄賀の二男浄玄を請じて開山住職となし、以後真宗となった。
 13世誠玄に至り、明暦3年(1657)藩主真田内記より旧縁をもって境内1町2反歩寄せれしが、18世白玄の代、寛保2年(1742)の洪水にて山岳崩壊し、堂宇とう潰倒する。宝暦5年(1755)に庫裡をさいけんし、19世玄順の代、安永7年(1778)4月本堂を再建する。

龍燈山五大院長雲寺 千曲市稲荷山町2239 ☏026-272-3730

 真言宗智山派   住職 26世海野慶宗師  家紋州浜 
 元暦年間(1180)高野山龍光院の快照大徳が当地を巡錫の不動の霊夢により当地え山将軍塚の辺りに龍灯の揚るを見て、この地を結縁の地と認め龍灯山長雲寺を開創した。
 天文年間(1510)兵火により焼失する。その後天正17年(1590)鎮雅和尚(松代藩出身)が住職として派遣されたときに仁和寺末の縁を結び、さらに宝永年間(1700)には仁和寺より良玄和尚(上田藩家老)が住職として赴任され、正徳5年(1715)には仁和寺27世守恕法親王より本尊として五大明王並びに愛染明王と阿弥陀如来の7躰を御寄進賜って五大院稲荷山長雲寺の号を拝領の令旨を受け中興開基となる。
 寛政年間(1790)大伽藍を建立し、上田城主伊賀守松平源頼公を願主となり領地内一帯の祈願所として配礼を許され寺が勢大に振わった。
 弘化4年(1748)当地を襲った地震により伽藍など消失するが、幸い仏像は難をまぬがれた。日の後仮建であったが、明治22年(1889)に良雅和尚(元国会議員倉石忠雄氏の祖父)代に現本堂を再建する。
 明治40年(1907)真言宗智山派に転派し、昭和40年秋より伽藍を境内地に改修工事をする。23世海野慶明、24世海野慶豊、25世海野慶雲と続いている。

auto_HNIKm2.JPG長雲寺

白鳥山陽雲寺 長野県佐久市臼田町中小田切616 ☏0267-82-3705 

 浄土真宗大谷派 本尊 阿弥陀如来 住職 海野章一師 家紋結び雁がね
 「陽雲寺縁起」によると、安土桃山時代に三河国の石山本願寺の一向宗門徒は織田信長に敵対し、信長の弾圧をうけて、信州水内郡に逃れ、その中の一人僧月原道永が大工原氏とともに小田切の地に一宇を建てたと言い伝えられている。
 初代 天正12年(1584)8月釈道永開基創建 慶長9年(1604)8月22日没
 2代 釈空念 寛永9年(1632)9月23日没 83才
 3代 釈空受 正保2年(1645)3月25日没 70才
 4代 釈空與 寛永19年(1642)8月13日没
 5代 教證院釈空真 延宝2年(1674)2月4日没 79才
    慶安元年(1648)に現在地に本堂を移転建立された。
    坊守 陽誓院釈尼妙雲 寛文2年(1662)2月4日没 58才
 6代 耀真院釈達空 享保19年(1734)12月26日没 89才
    坊守 春松院釈尼寿貞 元文4年(1739)1月1日没
 7代 歡喜院釈南空 寛延4年(1751)8月17日没 75才
    坊守 真誓院釈尼妙寿 安永7年(1778)4月18日没 89才
 8代 浄證院釈嶺空 寛政7年(1795)4月3日没 80才
    坊守 随誓院釈尼妙聲 宝暦11年(1761)10月16日没
    後坊守 釈尼妙空 安永9年(1780)4月29日没
 9代 寛證院釈道空 文政9年(1826)1月2日没 86才
    坊守 寛誓院釈尼妙燁 寛政6年(1794)6月9日没
 10代 恵證院釈性空 嘉永7年(1854)4月8日没 79才
     坊守 報寿院釈尼妙道 安政7年(1860)2月2日没 79才
 11代 正解院釈成空 明治10年(1877)3月20日没 73才
     坊守 池光院釈尼妙水 明治19年(1886)8月6日没 78才
 12代 護信院釈西空 大正4年(1915)4月13日没 75才 
     坊守 護城院釈尼妙悠 昭和8年(1933)10月28日没 85才
 13代 快哉院釈明空  昭和44年7月26日没 84才
     坊守 護陽院釈尼妙清 昭和59年8月13日没 95才
 14代 海野秋丸師  大正5年10月10日生まれ
     坊守 海野豊子  大正14年10月生まれ  
 15代 海野章一師  昭和25年8月生まれ

auto_beZrc7.JPG陽雲寺 

瑞泉山興善寺 長野県東御市和1557(曽根)  ☏0268-62-0186

 曹洞宗 本尊 木造釈迦座像 住職 30世柴田善達禅師
 詳細は、「海野史物語」をクリックして、その中の7行目の「如仲天誾と興善寺」の蘭をご覧ください。

白鳥神社  長野県東御市本海野1204-1

 詳細は、「海野史物語」をクリックして、その中の1行目の「日本武尊と白鳥神社」の蘭をご覧ください。

海野氏との関連寺院

白鳥山報恩院浄楽寺(上田市) 

 上田市中央5-5-2(上房山) ☏0268-22-3374  
 真宗本願寺派 本尊 阿弥陀如来  住職25世滋野礼一師
 西佛房信救が開創、西佛房信救は、俗名海野通廣といい、海野氏8代海野幸親の二男である。
はじめ京に上り、のち木曽義仲に仕えて、軍略に参加した。
義仲の滅亡後は箱根山に隠れたが、比叡山の慈円の法席にのぞみ、名を円通院浄寛と改めた。同地で範宴(親鸞)と知り合って弟子になり西佛房信救と称した。文暦元年(1234)ころ親鸞の命により信濃に帰り、小県郡海野庄白鳥に一宇を創建する。
 西佛房信救の長子浄賀が塩崎角間に寺を移したので、宗教弘通の道場を開設し、これを浄賀の弟の浄救に附し、その長子2世浄楽が暦応元年(1339)に塩崎角間に一宇を創立し浄楽寺と号す。以来その名をもって寺号となる。
 延宝6年(1678)14世峯仙のときに上田市常田庄房山に移し現在に至る。
 22世 實音
 24世 正美(明治36年1月6日生れ)
 25世 礼一
 寺の宝物に次の古器物があります。
1、六字名号 一幅
  宗祖見真大師の筆 器用と五条西洞院花園坊にて開基西佛房師令により
 天福元年(1233)正国信濃に下向の際親鸞聖人より懐中佛として授与す。
2、古印 印文万字形 丸釼獅子環附重量
 木曽太夫坊覚明所有物にて、元暦元年(1184)高野山に隠没の際に
  高嶋広教に授与する。
 建暦3年(1213)高嶋広教より覚明遺族なるをもって当寺に寄付する。
3、古石 小県郡海野鎮座白鳥神末社子安神白属物 自然石 重量1貫2百匁
4、大夫房覚明の位牌と『白鳥山法物縁起』なる一冊の古文書

大智山金剛院海禅寺(上田市)

 上田市中央北2-77-55 (房山新田)
 真言宗智山派 本尊 大日如来 住職飯島俊勝師  ☏0268-22-2972
 海禅寺の歴史は古く、創建は奈良時代にさかのぼり、貞観年中(859~76)承平5年(935)といわれ、もとは、海野の郷(現東御市海善寺)にあって「海善寺」といい、天延年中(973~5)に滋野氏の後裔である海野幸恒が再興したと伝えられ、東信濃きっての名族海野氏の祈願寺であった。その集落の西側に「海善寺址」があり、大坊・大門という地名も残されており、由緒あるよほどの大寺(10房)であったと伝えている。
 武田信玄は、天文年中(1532~54)信濃へ侵攻してきて、小県郡下を平定したとき、願文や安堵状をあげたのが、名社生島足島神社で、その次が海善寺で、永禄6年(1563)11月7日に祈願所とし、寺領のほかに隠居料5貫文を翌年36貫5百文を寄進している。
 天正11年(1583)真田昌幸が上田城築城の際、城下町をつくり、その中心に海野町・原町をつくり、海野の人々を海野町へ移住させ、海野からいくつもの寺社も移され、城から見て東北にあたる鬼門除けとして海善寺が移され、このときの寺名は「開善寺」で、住職は誓陵といい中興開山となった。
慶長6年(1601)8月には、真田信之から24貫文の寺領が寄進されている。

auto_fZbgsB.jpg海禅寺

 元和8年(1622)信之は松代へ移封を命じられ、海野郷にあった白鳥神社を移すにあたって、同社の別当寺として開善寺住職の5世尊海を伴い、松代西条の現在地に一寺を建立して開善寺とした。そのとき信之は真田氏の由緒ある寺の名を残し「海禅寺」と改めたものと思われる。
 松代に移ってからも歴代藩主の祈願寺として厚い保護をうけた。
慶安2年(1649)8月には、寺領として埴科郡西条村(長野市松代町西条)の内から50石を、幕府から朱印地として与えられ、藩からは御祈祷料120俵、大般若料金11両1分が進献された。
 寛永年代(1624~43)に焼失したものの、慶安4年(1651)8世俊栄のときに再建され現在に至る。
 寛保2年(1742)8月1日「寛保戌の大満水」と呼ばれた記録的な千曲川大洪水に際しては、水浸しになった城から藩主一行の避難先として開善寺が選ばれた。
 文化10年(1813)白鳥神社に武靖大明神(藩主真田信之公)を合祀し、社殿の再建以後騎射奉納の事が始まり、開善寺の大門先に東西12間(21.6m)南北108間(194.4m)の馬場が設けられ、騎射・流鏑馬等が盛大に行われるようになった。その馬場は幕末期に大砲や小銃の射撃演習の場として使用された。
 山腹にある経蔵は、宝形造り茅葺屋根で、八角輪蔵(回転する経本を入れる棚)には天海版一切経6,323巻が納められていて、県下最古のものとして、昭和41年10月県宝に指定された。

auto_mSibDj.JPG開善寺

望富山陽泰寺 (上田市)

 上田市大字上野2463(伊勢山) ☏0268-22-8628
 曹洞宗 本尊 釈迦牟尼佛 住職第24世小林元亨師  
 戸石城を背に山麓の南面にあり、この戸石城は戦国時代に村上・武田両氏の争奪のばとなったが、武田方武将真田幸隆に攻略された。
 寺伝によれば創建は古く、奈良時代加賀白山の僧泰澄が当地に庵を結び、のちに行基が、その徳を慕って訪ね、泰澄養心の義から養泰寺と名づけたという。貞観年間に善淵王は当寺に帰依し、田地を寄進し、山号を向富山と命名し開基となる。のちに子孫は海野氏と称し、特に4代海野幸真公は、田地を寄付した功績により、海野氏の菩提寺としての養泰院の中興開基となる。
 裏山に「養泰院殿笑岩道讃庵主」の墓がある。
 鎌倉時代に建長寺開山の蘭渓道隆が当寺に巡錫したことに因み、当寺は臨済宗となる。将軍源実朝は五百貫の土地を賜り寺をよく外護した。
 室町時代の明徳5年(1496)甲州の曹洞宗広厳院から龍州玄白大和尚が当寺に普山し、養泰寺の開山第一世となる。
 天文4年(1535)第26世海野幸棟公が山林・田畑を増した功徳により、の陽泰寺の中興開基とされる。
 慶長6年(1601)戸石城主真田信之公が五百貫文を寄付されている。
 享保12年(1727)第十世仏州自白大和尚に本堂を修理し山号を望富山、寺号を陽泰寺と改め、中興の祖と仰がれる。
 安永3年(1774)第十三世眼月慈雲大和尚代に鐘楼・庫裡を新改築。文化5年(1808)第十五世絶宗法宣大和尚代に壮麗雄大な山門が再建された。
 昭和38年第23世祥岳逸雲大和尚は全伽藍の屋根替え・布教の充実等により重興の称号を賜る。
 平成7~10年にわたり、現住職第24世瑞雲元亨大和尚に、創建五百年を記念して、本堂・山門・鐘楼の改修を、位牌堂・座禅堂・客殿・庫院の新築を達成した。
 また寺の城址の高台からは遠く富士山を望め絶景である。

201409230824_0001.jpg陽泰寺

祥雲山洞源寺(上田市)

 上田市大字住吉1691  曹洞宗  住職 小林逸元師 
 後醍醐天皇の元弘2年(1332)に、海野氏第22代兵庫頭幸則公(元弘3年没、法名洞源院殿無山道一大居士)により開基されたと伝えられている。
 ここには上田盆地としても10指に数えられる貴重な石造文化財が2基が現存している。
 1、貞治2年(1363)2月15日在銘の宮石塔
 2、永和5年(1379)4月在銘の宮石塔の台石
共に南北朝時代の年号である。 
 開創当時の宗派は臨済宗、山号は養命山と号したようで、寺名は不詳である。その理由は、天文10年(1541)に海野氏を神川に滅ぼして当地に入部してきた村上義清が、海野氏ゆかりのこの城を徹底的に破壊し去ってしまったことによると考えられる。
 慶長5年(1600)の頃、金剛寺村居住の田中氏によって、ここに小堂が建立され、法灯がともされることとなった。まもなく陽泰寺の第5世白州梵徹大和尚が招かれて普山し、曹洞宗祥雲山洞源寺が発足し、以後陽泰寺の末寺となった。
 その後元禄8年(1695)染谷村の塚氏は、寺域を修復してその興隆に寄与し、さらに天明元年(1782)上田町房山の富豪兼子七郎右衛門が、当寺を全面的に改めて中興開基となった。現在の本堂・山門は兼子氏建立当時のものである。
 第二次世界大戦後農地法に伴い取り崩しされたが、僅か檀家10軒の拠出金と金剛寺区民の格別な協力を得て、昭和53年に本堂の全面的改修・山門の修理を行った。昭和62年4月21日附近から野火が発生し、同寺に迫ったが、地域の人々の涙ぐましい尽力で何とか被害から守られた。平成4年に庫裡が新築された。

201409230831_0001.jpg洞源寺

潔泉山全宗院(上田市)

 上田市芳田2262-1  ☏0268-36-3108
 曹洞宗 本尊 釈迦牟尼佛 住職20世柴田一弘師 家紋 武田四陽菱
 武田信玄の第2子、武田竜宝が海野家遺跡相続し、海野竜宝としてこの辺を領した。この地の清らかな泉を愛されて、仏に仕えて菩提を弔い、庵を建て、潔泉院とした。その後、武田氏は滅亡、海野竜宝もその生涯を終えられた。戒名 潔泉院殿竜宝善宗居士
 その後、本海野興善寺第7世通山全達大和尚が開山となり、慶長15年(1610)海野竜宝(同寺に、その位牌がある)を開基とし、潔泉山全宗院として再興された。開基に家紋の武田四陽菱の紋をこれより掲げたとされている。
 享保3年(1718)本堂を焼失、明治23年にも火災に遭い、大正4年に16世秀岳宗俊大和尚により、今の本堂が再建された。昭和55年には開山堂兼位牌堂、平成7年には庫裡が新築される。
 当院の歴代住職
 開山 通山全達大和尚 本海野興善寺第7世開山
 2世 燈傳村龍大和尚
 3世 月海義光大和尚
 4世 大空燈門大和尚
 5世 智鏡恵泉大和尚
 6世 大蟲希雄大和尚
 7世 全関大堤大和尚
 8世 玉中恵金大和尚
 9世 縁戒観随大和尚
 10世 素学智紋大和尚
 11世 正瞳活眼大和尚
 12世 雲外玄龍大和尚
 13世 道改仏眼大和尚
 14世 黄山察玄大和尚
 15世 黙室弘道大和尚
 16世 秀岳宗俊大和尚 中興開基
 17世 白翁慧鳳大和尚
 18世 秀鳳次雄大和尚
 19世 儒玄善達大和尚
 20世 柴田一弘(現住職)

auto_VFC1eg.jpg全宗院

天王山護国院龍法寺(上田市)

 上田市芳田245 護国寺末真言宗富山派、住職は松本明俊師
 創立年月は詳でないが、元海野氏の創立と言って、小井田村字鍛冶窪にあって、海野氏が秘蔵のタタラ師を隠匿して、其の守護としたので郷民の信仰が篤く信者も多かったが、海野幸氏が清水冠者義高(木曽義仲の子)に従って鎌倉に人質になったが、義高誅せられた時にその豪謄と弓馬の達人を買われて、頼朝の竉遇を受けて浅間の牧狩りの時、幸氏報恩のため、秘蔵鍛冶を頼朝公に献じて武器の修理をなさしめ、一人の鍛冶屋を残して置いたところ、別項怪談の怪異に驚いて、現在の東御市和地区のタタラ堂に逃避したので、この地を後世に鞴師(たたらし)の名を残してタタラ堂と命名されたといわれている。
 残った住民と寺は小井田に下って龍法寺を建て、現地には上荒または上番屋敷と鍛冶窪の地名が残っております。
 のちの天文10年(1541)海野棟綱が神川に滅びたとき、龍法寺も武田氏に焼かれて運命を倶にしたが、天正年間再建廃寺となっていたが、慶長10年(1605)明覚上人が中興したと伝えられている。海野氏創立より幾変遷し、詳でないが徳川の政策をして檀家寺領のないものは、経営できないから廃寺せよと言われるまで、龍水寺の末寺として余命を繋ぎ、延享3年(1746)祝融の災にかかり再建。明治2年上田騒動の際に林之郷無宿者の付火で焼失、明治3年4月庫裡再建、以来幾星霜念願かなって栄山上人が昭和11年に本堂再建。
昭和30年栄嶽師が矢沢陣屋の門が修道学校豊殿学校として長い間、修養の学校門であったのを移転改造山門として建立偉彩を放ち完成する。真言宗社会、再度の修養修験の道場として美観を呈した。昔は柴崎城の菩提樹と伝えられている。 (昭和32年9月1日発行、宮下昌太郎著「信仰と伝説」より)
 現在は殿城赤坂の瀧水寺の太平稔雄住職が平成8年から兼務している。

功徳山弘誓院願行寺(上田市)

 上田市中央2-16-14    ☏0268-22-2993       
 浄土宗京都知恩院末、本尊阿弥陀如来 住職 藤倉随順師 家紋六連銭 
 上田市指定有形建造物(s43.4.25)四脚門 
 願行寺は開祖松誉上人(鶴蓮社竹桐笈香)は、武州品川(現東京都品川)の人で、相州(現神奈川県)三浦の長安寺開山の善方(禅芳)上人の高弟である。信州に来りて小県郡海野郷岩下(現東御市)に住み、鎌倉時代より東信濃の雄として勢いのあった海野幸義公文学の師のために、海野において、一宇を開基し、功徳山広大院城巽林願行寺と号し、御父棟綱公の法名「「功潤徳崇大禅定門」大梁院殿と贈号し位所とする。すなわち師を請して小県郡海野郷願行寺の開祖とする。
 海野において10,000坪の地所をもって寺境とする。
 天文元年(1532)海野左京太夫幸義公の没落の際、兵火にかかり、すっかり燃えてしまった。幸義公の法名は「光厳寺殿龍團宗澤大禅定門」なり、上人老いて、元亀元年(1570)90才にして寂する。
 第2世 命誉上人は延蓮社存龍活雲と号し、泉州境(現堺市)の遍昭寺開山信誉上人の膝下なり、その後、来りて、願行寺第1世松誉上人の弟子となり願行寺に住み、姓氏行実(行った事実)、弟子一人おり東誉上人なり、この人が第4世となる。
 第3世安誉上人は、生蓮社笈往と号して、武田家の請に応じて甲府帰命寺開基する。慶長14年(1609)3月23日甲府にて寂する。
 願行寺第3世笈往(安誉)上人の開山あるいは再建・世代を継いだ寺は、次の通りである。
 西念寺(佐久市岩村田)
 歓喜院・功徳院・泉渋院(茅野市北山)
 心光寺・西光寺(茅野市豊平)
 柴雲寺・塩沢寺(茅野市米沢)
 正願寺・法光寺(茅野市岡村)
 称故院(諏訪市四賀)
 長久寺(上伊那郡伊那富)
 満光寺(上伊那郡高遠町)
 教安寺・帰命寺(甲府市東光寺町)
 願行寺(東御市海野)以上が笈往(安誉)上人に関係深井寺院である。
 第4世東誉上人は、日蓮社西応と号する。このころ寺は真田郷に移して(今も願行寺屋敷跡あり)、伊勢山にも建てたり(願行寺洞という所あり)や不審なりが書史不明である。
 第5世笈誉道山上人は、崇蓮社はじめ頓蓮社と号す。甲州の人にして、武田の武族なり、その先祖は菅丞相(菅原道直)の裔、武蔵野国多摩郡保谷の住人の三男なり、師11才にして、甲府帰命院開山笈往上人の室に入る。功積みて両派(宗・戒)を川越の感誉上人より伝えられ、天正14年(1586)真田昌幸公が上田築城の際に請せられ、信州上田に甲府より道山上人笈誉を招いて5世住持で堂宇を建立した。
 その後元和7年(1621)焼失したため、現在地に寺を再建した。真田安房守昌幸墨付き一通及び天正14年(1586)堂宇建立につき除地の証などが寺に保存されている。
 信之公と実に友情厚く、法務の餘暇常に上田城中にあり、神川陣の時も、信之公と共に、籠城する。願行寺は池田長門守が警護する。
寺は始め昌幸公が上田に住するとき、いまの裏山の地に建てる。その後、城狭い故に、いまの横町に10,000坪の境地をもって移し建てる、今の上田願行寺(第1世)である。
 その後、元和8年(1622)真田信之公が松代海津城に移るとき、師を誘い、松代願行寺(第1世)開基となる。師は寛永4年(1627)寂する。松代在住6年、上田在住36年なった。
 上田願行寺の門は、堂宇の移転(海野郷から)と同時か、遅れてもあまりくだらない時期の建立と思われる。切妻屋根平入りの四脚門で、正面の唐破風妻飾りをはじめ全体として桃山建築の様式と風格をそのまま伝えているどっしりとした建築である。
 控柱は几帳面取で基盤をつけ、扉は乳付で、木鼻をはじめ各所に彫刻を多用する傾向がうかがえる。
 銅造善光寺如来一光三尊立像 上田市指定有形彫刻(s43.4.25)
  鎌倉中期から流行した、いわゆる善光寺仏の形式である。
中尊の納衣は通肩で、右手は施無畏、左手は下げて刀印をとる。
脇侍の観音及び勢至の両像ともに宝冠を冠り、梵篋印をすこぶる。
伝来は不詳であるが、製作年代は彫風から室町時代初期と推定される。
小像ながら鋳上りは、なかなか優れ、中尊・脇侍ともに型持穴が他と異なり、当時の鋳造の技法を知ることができる珍しい像である。
 上田城主最後の城主松平氏が菩提寺として今も一族の墓が数基残っている。
 寺の本堂には本尊として阿弥陀三尊が祭られているが、それまで観音堂に安置されていた一体の菩薩立像が文化庁の調査で鎌倉時代の初期に造られたことが分かった。
ヒノキの寄木造りで像の高さは52㎝。目には玉眼がはめ込まれ膝の上に施された金が今でもはっきりと残っている。また髪型は天平や白鳥彫刻を思わせる。腰を少しひねり右足を一歩手前に踏み出している。当時の世の中の苦しみを自らが救おうとする動きが感じられる。全体のバランスから考えおそらく阿弥陀如来の左脇に置かれていたものだろう。この像は市内に現存する鎌倉時代に造られた仏像の中では最も古いものに分類される。

平成21年11月31日に富山大学松浦正明教授が講演会を開催され、その時の報告資料によると、享保15年(1730)に上田城下で大火が起きたとき、像を安置したお堂の前で火勢が鎮まったとの伝承から、「火伏せの観音」と呼ばれて親しまれてきたという観音として願行寺本堂に安置されている菩薩立像は、造立時の本来の尊名は弥勒菩薩であった。願行寺が摂関家領海野荘にあった仁安元年(1166)7月26日に関白藤原基実が24才で没し、9月8日に、その67日仏事供養が弥勒菩薩像を本尊として、のち室平盛子(平清盛女)のもとで行われ、摂関家各庄々から折櫃1,300合の調進がなされたことが、機縁となって海野荘にもたされた弥勒菩薩下生像であると考えられる。また割矧造りで面割玉眼の技法を駆使した現存最古の作例であり、また作風はのちの慶派様式の先駆をなすもので、鎌倉彫刻成立の道程で、その原点に立つ作品として日本彫刻史に重要な位置を占める

auto_HdNazX.jpg唐破風妻飾門の願行寺

向源寺(上田市)

 上田市常磐城2-9-2(新町)  ☏0268-22-2468 
 本尊 阿弥陀如来 本願寺東派  住職 第21世 池田都師(代)  
 向源寺の祖は平家の出てある池田采女と言い、仁治2年(1241)一族郎党を引倶して小県郡小泉庄上田原に隠棲したが、相当の勢力を有していたといわれる。そのころ、海野家の頭領が熊谷真実と共に親鸞の教えに恭順したが、采女もまた親鸞に帰依し、仏門に入り、上田原に一宇を建立、一族郎党の教化の道場としてと向源寺を興したと伝えられている。
 池田家七代当主向明に嫡男がなく、女子のみであったため、更級郡塩崎の康楽寺の次男浄空を入婿として迎えることになる、この頃本願寺第9代実如上人自筆の当寺所有の御絵像御本尊の裏書には永正17年(1548)8月9日願主向源寺とあるので、池田家八代が向源寺初代開基であろう。
 天文17年(1548)上田原を中心とし、武田・村上両軍の激戦が行われた際に武田信玄の本陣となり、永禄9年(1566)8月14日武田信玄は、この寺の境内に陣営をとることを禁じ、甲州方の家臣三枝宗四郎の取り計らいで、竜丸の朱印状(現存され市指定文化財となっている)を出し戦禍を免れようとしたが、その甲斐なく兵火にかかり、本堂・庫裡などことごとく焼失してしまった。しかし古文書・古記録をはじめ、寺宝などは危険が比較的早く予知できたので、郡下の安全地の支院等に搬出分散して置いたため幸に難を免れて殆ど全部現存している。
 寛永3年(1626)住職空意が上田原から現在地に移り堂宇を再建、教宣活動に誠意努力したが、完成に至らず。その後、宝暦6年(1756)12代廬伯の時に至って、ようやく現本堂・山門・鐘楼・太子経堂等全部再建が成就した。
 第14代住職煥怊(俳人小林一茶が訪ね数年間をこの寺で過ごしている)は学識広く、本山より寮司(りょうす)という学位を授けられ、また和歌をやっていたことから一茶とは対等のお付き合いをし親交が深かったといわれる。京都本願寺学問所の長として上洛もしばしばで、雲華院大含・頼山陽・香川黄中等の諸名士との親交も深く、これ等諸名士の書翰類をはじめ書籍類も多く当寺に所蔵している。中でも黄檗版鉄眼の一切経は煥怊寮司上洛に求めたもので全巻揃っている。   (千曲二巻5号 「一茶と向源寺」より)

auto_y48LN2.JPG向源寺

天照山日輪寺(上田市)

 上田市中央2-14-3(横町)  ☏0268-22-0571
 本尊 阿弥陀如来  住職 酒井泰成師   
 開創は天文14年(1545)、開山は興善寺3世用山光受大和尚、開基は海野幸義公で村上義清との合戦で戦死したため、海野氏の守り本尊として寺に祀り、海野家の菩提を弔った。山門からまっすぐのところに観音堂「普門閣」があり、ここには海野家の守り本尊「観音菩薩」が安置されている。
 同菩薩は上田市指定文化財で毎年8月9日には「りんご祭」としてにぎわい、信仰を集めている。この日は一日で46,000日参拝した功徳があるという観音様の縁日である。
 この夜は六文銭の紋所がついた「ほうずきちようちん」が並ぶ。この観音像は本海野の観音堂に祀られていたのが上田に移されたのである。
 このお堂の右側には子安堂があり、左側には勢至堂がある。このお堂は天明3年(1783)に海野町の右衛門が建立したもので、菩薩は知恵の仏様で、右から如意輪・勢至・聖の観音像が安置されている。
 第26世中興泰仁鳳山大和尚により、現在の本堂・庫裡・山門・子安観音堂の再建が行われた。

201409230830_0001.jpg日輪寺

傳叟山月窓寺(上田市)

 上田市中央6-4-13   ☏
 本尊 釈迦尼仏佛   住職 林一利師
 常田伊豫守隆水公の父は海野信濃守棟綱公である。
 隆水は四人兄弟の末っ子で兄は死産、次男は上田城主真田幸隆、三男は矢沢綱頼である。
 隆水は兄幸隆と共に上州長野原の箱岩城主となり、後に養子に常田家の家督を譲り、出家剃髪して月窓寺開基となる。
 永禄元年(1558)開山の易叟周賢大和尚に帰依し小県郡白鳥庄の常田の台に堂宇を建立した。
 永禄15年(1572)に戦火で諸堂焼失し、その後現在地に移転再建する。
 元亀3年(1570)7月8日没する、法名月窓院殿傳叟一天大居士。
 寺の境内に「赤松小三郎の墓」がある。天保2年(1831)上田藩士芦田勘兵衛のになんとして木町で生まれ、18才で江戸に出て、数学・測量・天文・蘭学や洋式砲術などを学びました。
 慶応2年(1866)日本の兵制の基礎確立に貢献し、薩摩藩主(島津候)より講師として迎えられ、その時の教え子に東郷平八郎らの英才たちがいた。
 慶応3年(1867)9月3日に京都伏見で疑われて間違って倒される。享年37才。
201409230828_0001.jpg月窓寺

白山比咩神社(上田市)

 上田市上田二の宮(長島・蛇沢)  祭神 白山比咩神 応仁天皇
 もと白山大権現といい、むかし悪病流行の節、加賀の国白山の分霊を太郎山麓に誘致したと伝えられる。由来によると越前国鳥羽村、本吉山万法寺(現在福井県鯖江市)の旧記に土御門院の御代、建仁元年(1201)、建仁3年(1203)に当寺の住僧賢信房が所望あって、長島村の白山社に参拝するとある。
 もと白山大権現といい、むかし悪病流行の節、加賀の国白山の分霊を太郎山麓に斎きと伝えられている。
 また由来によると越前国鳥羽村、本吉山万法寺(現在福井県鯖江市)の旧記に土御門院の御代、建仁元年(1201)、建仁3年(1203)に当寺の住僧賢信房が所望あって、長島村の白山社に参拝するとある。
 長享年間(1487~9)大悾源左衛門家長が隣村の安吉村に一城を築いて移住し……中略…………境内の位置老松の下に憩い、末は千年の齢を保ち、また戦時には我領分を一目瞭然ならしめんがため物見の末と唱えて、当地の守護神として長島村用地の内3町歩を寄進したと古老より伝えられる。明治3年(1870)に白山比咩神社と改称許可される。
 
 また神社蔵遺文には、次のものがある。
 延喜4年(904)3月に滋野幸明再建棟札
 治承4年(1180)2月3日に木曽義仲花押が二通
 弘安元年(1278)に大江佐泰(上田太郎)が再建棟木
 天文2年(1533)9月3日に村上義清朱印
 天文17年(1548)2月10日に武田信玄朱印
 天正11年(1583)8月15日に真田昌幸朱印
 元和3年(1617)12月13日に真田信之朱印

愛宕神社(上田市)

 上田市御岳堂三角地籍
 祭神 軻遇突知神 火防の神 火伏せの神 疾病除け
 全国に800余の分社あり、多くの代議講があった。
 治承4年(1180)に、木曽義仲が依田城館からの挙兵・出陣に先立ち戦勝を占う「笠懸」の弓引きの儀式が社殿前で弓の名手8代海野幸親に命じて行ったと伝えられている。
的を射った、その「矢じり」は源氏の氏神である「八幡神社」(現在上丸子の安良居神社)に奉納されたという。    (丸子教育委員会より)
 この愛宕神社は10代海野小太郎幸氏を祀っている。幸氏は、木曽義仲の息子義高を源頼朝への人質として鎌倉に差し出すときに随伴し、その武勇と忠勤心をかわれて、頼朝に認められ鎌倉御家人として仕えることになり、海野氏の中興の人である。

dsc00105.jpg愛宕神社
 
 源頼光・義家ら新田氏を祖とする岩松遠江太郎時兼の三男が、上州新田荘金井郷(現在の群馬県太田市)に住んで金井姓を名乗った。この金井三郎長義は元冠の役(1297)に肥前(現在の佐賀県)遠征している。
その孫の金井主水祐兼義は元弘の乱(1331年足利尊氏・新田義貞らにより幕府は倒壊した)後、鎌倉に居り、中先代の乱(1335年北条高時の遺子時行が挙兵して鎌倉幕府を復活)で討死する。
その妹が22代海野信濃守幸則に嫁ぎ、長男23代海野宮内少輔幸義、二男金井豊後守幸忠は応永年間(1400)に小県郡岩下に住し、大塔合戦に海野・村上氏らと旧宮方として結集して圧勝した。
 この幸忠の曾孫に四郎兵衛重勝、その娘が真田弾正忠幸隆公の奥勤めをしていて産んだ男子が高勝である。
幸隆には、長男信綱・二男昌輝は武田の軍将として長篠の戦(1575)に出陣して討死している。三男昌幸が真田家を家督し、四男信尹、五男高勝は『一徳斎殿御事跡稿』の中で金井の名跡を継承して金井宮内介高勝と称して、慶長11年(1606)6月26日に、真田信之より、飯沼村原郷(現在上田市生田)に寺領3貫文を賜り、高勝寺(寛文年中(1624~43)に寺号を龍顔寺と改称)を甲府の恵運院から開山僧を迎え開基した。高勝は同年7月7日に没している。
 高勝の子に金井六郎高次が丸子三角村の金井氏の祖である。天正11年(1583)1月と13年(1585)8月の戦いで戦功を挙げ真田昌幸から感状をもらい、また13年7月16日には原郷14貫文・五和12貫文、9月17日には岩門17貫文・大屋16貫文を戦功により受領している。元和2年(1616)4月5日大坂夏の陣で戦死し、夫婦の墓は大輪寺に建てられた。
 真田家が松代に移封後、高次の子清馬は松代に暮らしていたが、正保元年(1644)3月3日に病気で亡くなり大林寺に葬られている。
清馬が亡くなって、その子嘉兵衛は浪人し貧窮し表具師となる。
その子佐之助は、正保4年(1647)5月に三角村に金井四郎重勝の嫡男初太郎の子孫の金井伊左衛門に居候して帰農し、後に金井太郎兵衛の空き家に住む、その子孫の屋敷地から戌亥(北西)の方向に10代海野幸氏を祀る愛宕神社がある。 (郷土出版社「真田一族」松山記念館学芸員田中壽子より)

覚明零神(小県郡青木村)

 長野県小県郡青木村奈良本   (池田城東生が寄稿)
 霊峰瀧山に不動明王の祭られて居る事は余程遠隔の人達にも知られて居るが覚明零神の碑の建てられて居る事を知る人は極めて少数であろう。
 下奈良本の人家を離れて蜿々たる山道を登る事20余丁にして一ノ瀧に達す、一ノ瀧の下方数間の瀧川の清流に一大巨石の横たわるものがある、其の上に建てられて居るもの即ち覚明零神の碑である。

img_0194.jpg覚明零神

 然らば覚明とは如何なる人であったか、覚明は信濃国小県郡海野在の人、木曽義仲の重臣海野平四郎幸広の兄、俗名通広、京都に出て勧学院文章博士となり蔵人に補任される。
 後出家して信救と号し南都興福寺の学僧たり、治承4年(1180)以仁王が平氏追討を企つるや興福寺はまたこれに応ず信救興って大に力あり、以仁王敗死するに及び清盛信救を求めて之を殺さんとした。
 信救逃れて信濃に入り義仲に仕へ大夫房覚明と称し帷幄の中に在って参割する所多し、源平盛衰記に伝う『木曽殿伝はるゝは、やゝ太夫殿幸に当国新八幡御賓前に近づき奉りて一戦を遂げんとす。今度の戦勝たん事疑なし、但且は後代の為、且当時の祈に願書一紙社殿に進せばやと存ず其相計らひ給ひと伝、覚明馬より下り、木曽が前に跪て箙の中より矢立取出し、墨筆に和して畳紙を染て押開て、古物を写すが如く案にも及ばず是れを書す其状伝(状は之を略す300余言の大文字なり)覚明其日の装束には楬彬の鎧直垂に首丁頭巾して捃縄目の冑に黒ツ羽の征矢負ふて3尺1寸の赤胴造之太刀を帯き塗籠藤の弓脇に挟で左の手に願書を捧、右の手に書を持てぞ居たりける。
 哀文武両道の達者哉とぞ見えたりける』云々義仲敗亡の後、信州に隠れしも、建久6年(1195)叡山に登り、慈鑑和尚の法席に列し、後親鸞上人の弟子となり始終陪従具に幸惨を営む、上人の為に信任せられ、文暦元年信州地方の布教を命ぜられ入信説教す。
 活仏として諸人の渇仰を受けたる人、更級郡塩崎村康楽寺を開く、開祖西仏坊、即ち是れなり。
 瀧川は塩田平より佐久地方を一望の間に収めて眺望絶佳零地として、また其の格好の地たるを探り同山にも一大寺院を計画し地方の衆生済度を志したが、業未だ成らざる。仁治2年(1241)、年85にして入寂す。
 覚明零神逝いて七百余才、一樹陰一河流永遠に変わるなし、今や然真燃ゆるが如き紅葉の季節は入らんとす。瀧川の清流は奇巌怪石の間を縫いて紅葉と相和し名月の之に反映する。
 その山紫水明の状筆舌の能く尽し能はざるものがある此の好季節に当り殊に文学に志すの青年は宜しく此の覚明霊神の杖を洩かれたる同山に来て此の紅葉の美を探賞しつつ文武両道の偉人、古代の大文豪を追想し、その偉徳を偲ぶも、また異議なき事ではないであろう。
          (昭和9年10月1日発行 青木時報 第157号より写す)

白鳥山報恩院行善寺(上水内郡信濃町)

 長野県上水内郡信濃町古間541  ☏026-255-2086
 浄土真宗大谷派  住職 白鳥宗靖師  家紋 州浜・雁がね
 創建年月不詳、往古杉の沢に行善寺ありという。
 承久(1219)のころ、僧行善坊なる者が戸隠山に住し、天台宗にて同山坊中(昔36坊あり)の一つなりと言われている。
 親鸞聖人が戸隠山参詣の際、故ありて、その弟子となり、古間村に来て住し、一宇を建立したという。
 その後、数度の兵火に罹り、廃したり復興したりして僅か小宇を存在する。
 文政9年(1826)に火災にあい、翌10年(1827)4月に僧秀観禅師、その荒廃しておるのになげき、みんなの協力により堂宇を再建する。
 住職は白鳥宗雄師-宗照師-宗靖師と続いておられる。

白鳥山正定寺(上水内郡飯綱町)

 長野県上水内郡飯綱町高坂706   ☏026-253-9631
 浄土真宗大谷派  住職 白鳥徳音師   家紋 州浜  
 現在の18号線より西側に遥か離れたところにいちしているが旧高坂村である。
 この村は地勢が西と南を高い山に囲まれ北に傾斜しているため、天候不順になると田方は青立ちとなって結実せず農民は難渋を極めたという。
 このようなところに寺が開基されたのは、なお存続していることは何故であろうか?その一つを挙げるならば、それは古くからの交通の要衝であったことであろう。すなわち、越後から善光寺へと、飯綱山麓を経て戸隠へ通づる古道として通じていたのである。
 永正5年(1508)、塩崎村康楽寺を浄祐5男祐圓が開基し、吉田村に移り道場を建ている。
寛文3年(1663)、僧祐圓が跡地へ寺堂を創建し、白鳥山正定寺と号する。
 延享2年(1745)高坂へ移し、寺堂を再建する。
 僧祐圓は、海野氏8代海野信濃守幸親の二男幸長(大夫房覚明)が康楽寺を開基し、2世浄賀-3世浄耀-3世浄蓮-4世浄明と続き、12世浄祐の5男が祐圓である。

 

白鳥山高山寺(上水内郡飯綱町)

 長野県上水内郡飯綱町平出208   ☏026-253-7173
 浄土真宗本願寺派  住職 白鳥広範師   家紋 州浜
 明治天皇・加賀候などの御通行に関する記録など貴重なものを沢山所蔵されている。
 正中元年(1324)僧祐圓が開山、塩崎郷角間に一宇を創建する。
 開祖の僧祐圓は、海野氏8代海野信濃守幸親の二男海野通広(幸長)のちに大夫房覚明と称し、その子浄賀、その子浄耀と続き、12世浄祐の5男が祐圓である。
 2世 釋了慶
 3世 釋了念
 4世 釋西念
 5世 釋西了 慶安4年(1651)平出村に移転し寺堂建立する。
 6世 釋了蕙
 7世 釋了閏
 8世 釋祐蕙
 9世 正明院釋覚可
 10世 實明院釋蕙洗
 11世 響誉院釋実道
 12世 響香庵釋貫絞
 13世 釋實文
 14世 智没院釋智筆
 15世 實明院釋晃耀
 16世 明春院釋広範

報恩山白鳥院浄蓮寺(長野市)

 長野市川中島町四ツ谷263  ☏026-284-4527
 浄土真宗本願寺派  住職 25世 祢津睦生師  家紋 月雁がね
 建暦2年(1212)僧敬佛が開基創建する。
 敬佛は祢津城主祢津神平貞直の弟、民部丞時直で、建久3年(1192)薙髪して、笠置寺解脱の弟子になり、正願という。のち見真大師の門に入り、名を敬佛と改め、本寺を創建する。
 慶長年代(1596~1614)松代城代花井遠江守吉成によって、上堰・中堰・下堰が開発され、四ツ谷村は、その堰守を命じられた。
 文政7年(1824)11月25日の夜、祝融の災により堂宇焼失した。
 弘化4年(1847)3月24日に、また善光寺地震により犀川決壊で四ツ谷村を直撃して全村流失の惨事に見舞われた。
 嘉永5年(1852)に仮堂を建て、明治20年(1887)本堂を建設する。
当山は創立以来、豊臣大閣の北殿、当山に帰依して奉納せられた金灯篭及び羽柴家より寄付の金灯篭は現存している。

auto_JL0xtu.JPG浄蓮寺

桑原山龍洞院(千曲市)

 〒387-0029 千曲市桑原2136  ☏026-273-1685
 曹洞宗 本尊 釈迦牟尼仏 脇立 大聖文殊菩薩・大行普賢菩薩
 応永年間(1394~1411)如仲天誾禅師が旧址の桑原観音堂に泊まり、北山に登ったところ、西北に竜の臥するが如き峯があり、奇勝絶佳の地なりなので、村上氏に属する郷士桑原左近大夫なるものが如仲天誾禅師と協力して一宇を建立し、龍燈寺と名付けたに始まるという。
 如仲天誾禅師は小県海野氏の出で、後に応永18年(1411)総持寺に出世し、永享9年(1437)寂した。また、郷士桑原左近大夫は死後龍洞院に葬られ、龍燈寺院殿乾雲雷音大居士の戒名である。
 寺は、その後兵火に罹り荒廃したが、永正元年(1504)桑原左近将監(桑原左近大夫の子)が、父の菩提のために、如仲の7世法孫大陽一鴒を請じて寺を現在地に移し、桑原山龍洞院と改称した。 
 大陽和尚が中興開山である。ちなみに桑原左近将監は天文7年(1538)6月9日に没し、戒名は桑原院殿雷峰一音大居士、墓が境内にある。
 その後、天正年間(1573~91)焼失。貞享年中(1684~87)旧松代藩士祢津直治が再中興したのである。
 天正15年(1587)上杉景勝の臣稲荷山城将小田切備前守昌安から、また、慶長9年(1604)7月海津城主松平忠輝から寺領が寄進されている。
 慶安2年(1649)8月には幕府から朱印15石を与えられ、寺中山竹林諸役が免除されて格式を誇った。
 現在の本堂は梅峯代の安永元年(1772)9月上棟、大工は越後国出雲埼の義右衛門である。
auto_LkIjNT.jpg龍洞院

神峯名山興禅寺(長野市)

 〒381-2414 長野市信州新町牧田中1889 ☏026-262-3520
 曹洞宗 本尊 釈迦牟尼仏 創建当初は臨済宗
 信濃国の牧官であっる滋野氏香坂宗清が佐久から移住し、初代牧城(現信州新町牧之島、犀川の東側段上の高所)主となり、見山崇喜を招いて正和年間(1312~16)に創建したといわれている。
 相当広大な規模の城郭をかまえ、周辺の牧を支配していた模様である。
更級郡下の牧原・中牧・南牧・須牧・北牧等7牧を支配経営することによるものと考えられる。
 崇喜は円覚寺開山の弟子南禅寺6世仏宗禅師と号し、「本朝高僧伝」の中にも壇信の招きによって信州興禅寺第1代をなすとある。
 興禅寺2世黙庵のとき、南北朝の建武2年(1335)6月23日、大塔宮護良親王は足利直義によって、中先代の乱で鎌倉において殺されるが、その遺命によって興禅寺の仏殿が建立されたとも寺伝は記している。
 建武中興のころ、護良親王と興禅寺とのかかわりあいは、現在の寺の入口門柱に
 「大塔宮 妙法印宮奉祀所 嵯峨御所祈願祀所 護国王院四箇衛場」の銘文が刻まれているが、南朝大塔宮護良親王の因縁ある寺として伝えられ、『大塔記』には、南朝に奉仕した香坂氏は、北朝方の南信小笠原長秀と抗争したことを伝えている。
 興禅寺蔵「鐘銘写」には康応2年(1390)3月、5世道詮のとき大檀那香坂宗継(左典厩滋野宗継)から大梵鐘を寄進され、牧城主の庇護を受けている。
 その鐘銘には、
 「信州更級郡神山興禅寺新鋳蒲牢 因而為之銘
     空門大器 法海長鯨 閻浮教休 即有聞声
     昏沈夢破 転飜迷情 雅簨雅簴 永同不傾
     旦那繁昌 山門安寧 竜天護持 神明褫成
   干□  康応2年庚牛3月吉日
            大工   左衛門太夫朝氏
            大檀那  左典厩滋野宗継
            当代   住持 比丘道詮 」とある。

 11世来応の代には遂に兵火に罹り、山門・僧堂・鐘楼・五重塔等が完備し、塔頭も久昌寺・正法印など諸堂焼失し、明応6年(1497)来応寂滅後は、あとを継ぐものがなかった。
 永平寺道元10世の孫であり、上州長源寺4世で佐久龍雲寺開創天英祥貞の弟子である如麟は、香坂氏の委嘱をうけて刻苦し、当寺の再興をはかり、師の祥貞を招請し中興開山し、以後曹洞宗となる。 
 その後、如麟は2世となり、龍雲寺4世まで代々興禅寺の住持を兼ねていた。また、小諸の正眼寺・長沼の妙笑寺・須坂の興国寺とは同開山同分寺である。
 香坂氏は弘治2年(1556)ころ、武田晴信によっさて八郎丸之郷(現松代皆神山麓)に配置替えされた模様で、代わって深志城将馬場美濃守信房の管轄となった。
 永禄9年(1566)牧之島城を築き、興禅寺の大檀越として帰依にあつく、その隆盛に寄与した。 

auto_oxW9EK.jpg興禅寺

海野山高山寺(安曇野市)

 安曇野市豊科5805   ☏0263-72-0232
 浄土真宗本願寺派 住職 本多教存師   家紋 立葵
 当寺は、更級郡塩崎村(長野市篠ノ井塩崎角間)にあったが、新田町にあった同宗派の寺院(清浄山円証寺)が廃仏毀釈によって廃寺となったため、塩崎村を引き払い、新田まちに移転した。創建は元久2年(1205)と伝えられている。明治15年(1882)8月に当地へ移転する。

auto_LpmFZ2.JPG高山寺

性徳山洞光寺(松本市)

 松本市刈谷原町692  ☏0263-64-2776
 浄土真宗 本尊 薬師如来  住職 小林晟哲師
 淳和天皇の天長年中(824~33)弘法大姉の開基で、自作薬師如来を本尊として安置する。
 養和年中(1181~2)木曽義仲北国下向の折、当山へ参拝して、自ら兜を石上に置き戦勝の祈願書を自署して奉納し、倶利伽羅とうにて大勝を得た。今境内に兜石と称している。
 のち海野小太郎及び刈谷原鷹住根の城主太田弥助等の祈願所となり大いに崇敬された。
 天文21年(1552)8月10日、上田原合戦のおり、鷹住根落城と共に武田方の兵火により、講堂・庫裡。倉庫等を焼失、本堂の什器等に至っては大半灰燼となった。
 天正5年(1577)時の住職憲勤は檀信徒の浄財を募りて、ようやく再建された。憲勤は紀州高野山三味院より法流継承して、中興の祖と称されている。
 江戸時代には善光寺会堂苅谷原宿の近接の寺として栄えた。
 戦国時代の戦史に残る刈谷原の城は宿の背後にあり、洞光寺墓地には武田勢と戦って戦死した城主太田資忠の墓碑がある。
 寺宝に県部下財に指定されている、応永13年(1406)に描かれた八大高祖の絵像8軸がある。これは河内国錦部郡の観心寺榎本坊からの伝来である。(信濃宝鑑より)

西牧山真光寺(松本市)

 松本市梓川1918   ☏0263-78-4662
 曹洞宗永平寺末 本尊 阿弥陀如来
 梓川地区上野にある真光寺は「上野のお庚申さま」と呼ば親しまれているおてらで、信府統記によると、高野山金剛頂院の末寺で建仁年中(1201~4)に創建、天文15年(1546)大檀那滋野讃岐守貞兼(法名海厳淵成了源大居士)が中興し開基されている。
 滋野氏とは、東信濃における古代からの氏族で、平安時代に東信地方から移住してきた大伴氏のいちぞくで、中世西牧郷の地頭主として住吉庄及び旧梓川村の山麓地域を支配した豪族で古幡牧を経営していました。
 国府松本の西方むにあった牧場のため、西牧ともいわれ、のちに土地の名をとって西牧氏と称するようになったと言われています。
 木造阿弥陀如来坐像と両脇侍像と聖観世音菩薩像(左)、勢至菩薩像(右)がある。阿弥陀如来坐像は、純粋の鎌倉様式の男性的な堂々たる仏像である。佐久市望月の福王寺の阿弥陀如来像も建仁3年(1203)の作で、ほぼ同じような作柄である。勢至菩薩像は中尊の阿弥陀如来像とほぼ同じころの製作と思われるが、藤原様式の女性的な作である。聖観世音菩薩像は室町時代末の製作で、藤原様式を真似ているが、特にお顔は江戸時代の仏像によくみられる面相になっている。
 昭和12年(1937)に国の重要文化財に指定されており、当地方の逸品である。
 鎌倉時代初期に滋野一族の安泰を願い造られ、阿弥陀如来坐像の像内背部には、「奉造立阿弥陀如来一体并に菩薩像二体、信心大檀那滋野兼忠女大施主橘氏……(略)……建仁3年(1203)2月10日大仏師僧□海、仏師僧栄海」と墨書されております。

auto_HDMLVQ.jpg真光寺

福聚山広田寺(松本市)

 松本市会田566   ☏0263-64-3802  家紋 六連銭
 曹洞宗 本尊 木造阿弥陀如来坐像  住職 25世真田照禅師
 虚空蔵山の南麓に位置し、旧会田宿の北側で会田小学校を少し登った殿村の地にあり、雄大な山並みの景観が望まれる。
 鎌倉時代に、海野氏系の岩下豊後守(海野氏11代海野幸継の二男会田次郎幸持が会田岩下氏となる)がこの地を領しており菩提寺として創建された。
 小笠原家の菩提寺である広沢寺(小笠原家の菩提寺)の4世雪江玄固が中興開山。はじめ知見院と号したが、のち地名から知見寺と称し、天文年間(1532~54)に現在地に移して広田寺に改めたという。
 現在の本堂は宝永2年(1705)大工重右衛門源七により再建され、天明3年(1783)に棟梁枡屋広七によって入母屋造り茅葺の山門がつくられた。
享和3年(1803)棟梁幸介により改築される。
詳しくはここをクリック

両羽神社(東御市)

 長野県東御市下之城169-1
 古代から中世にかけて、この地方一帯に勢力を持った滋野氏一族の海野・祢津・望月・矢沢諸氏が共同で奉納した先祖及び軍中の安全祈願碑で、正慶2年(1333)造立されたことが石台にの銘で読み取れる。
 表面 元祖神前エ 軍中之祈念成就 海野・望月両家 敬白
 裏面 3月28日 癸酉裁 時ニ正慶2 之ヲ献ズ 矢澤・禰津氏ニ石 追而
 この銘文から、海野・望月両氏が元祖の神の前で「戦いに勝たして下さい」と誓っている。時に正慶2年(1333)癸酉3月28日、矢澤氏と禰津氏も、これに賛同し、祈念のために米2石をあとから届けたというものである。
 この年は足利尊氏が佐久の大井氏と結び、鎌倉に味方する滋野一族と対立する年である。そのため建武2年(1335)には大井氏に味方した市河氏によって望月城は攻略され、その城郭は破却されている。望月氏の命運を賭した石龕であった。

auto_vIvDgW.JPG両羽神社
 詳細は両羽神社ここをクリックしてご覧ください。

恵日山修学院津金寺(北佐久郡立科町)

 長野県北佐久郡立科町山部279   ☏0267-56-0505
 天台宗比叡山延暦寺末  住職 97世矢埼大悟師
 大宝2年(702)僧行基が、諸国巡錫の途中、山部の地に来たときに榧の木で3尺3寸の聖観音像を彫、一寺を結んだことにはじまるという。
 仁寿年中(851~3)その弟子円仁が諸堂を完成したという。
その後、応和3年(963)には良源(元三大師)の弟子禅瑜、長保3年(1001)に孫弟子たる寂昭などが寺門を監して四宗兼学の道場としての基礎を固めた。
 中世に入り応安6年(1373)穏海大僧正が来寺するにおよんで、寺中36院・24坊・門末48寺を数えた。
 武田氏が佐久に侵入し、元亀3年(1572)寺は信玄の「定」によって四宗兼学の道場から天台の法流に復帰してその保護をうけた。武田が滅亡後織田信長の兵火にあって数十年間衰徴された。
 寛永17年(1640)そう舜海が入山して中興開基となり、さらに小諸城主松平康国が修復して、今日の姿を残す基礎を開いた。
 滋野一族は、奈良時代から平安時代にかけて設置された朝廷の望月牧むの牧官として信濃に来た名族である。鎌倉時代は、源頼朝に仕えて弓の名手として信濃鎌倉武士の代表格の一族であった。
 宝塔は、寺の静かな裏山にあり、滋野某夫妻が承久2年(1220)4月8日に生前の供養を行って奉納したといわれる逆修供養塔が2基(北塔・中塔)と、滋野盛□らが嘉禄3年(1227)10月14日に亡父母の菩提を弔うために造立し、法華経などを書写して奉納したと伝えられる納経塔1基(南塔)がある。
 この3基の宝塔には、それぞれ正面に造立の年代などが陰刻されているが、法灯の軸部は、軟らかい火山の焼石を用いているため、すでに摩耗していて判読も国難な文字が多い。
 石造塔婆で、時代的特色を表している重要な数少ない石造文化財であり、昭和49年には長野県宝にも指定されている。
 寺の裏山に咲く「カタクリ」の花は見事なものです。

auto_ooPLS2.JPG津金寺の3基の宝塔

白鳥山善念寺(上越市)

 新潟県上越市東本町3-2-51  ☏025-523-5671
 浄土真宗大谷派  住職 滋野範雄師(松代証連寺(海野姓)より養子)
 開基は正応5年(1293)に宗祖親鸞聖人の曾孫覚如上人が、親鸞聖人の伝記を著すため信州・越後の聖跡を調査の折に、案内したのが宗祖と一緒に法然上人に本願念仏の教えを聞いた西佛房の長男浄賀であった。
 この時覚如の勧めにより、浄賀は藤巻に一寺を建立した。今から約700余年前のことである。浄賀は自坊の法灯を継ぐため弟の浄賢が初代住職となった。
 本尊は浄賀の父(西佛房)が宗祖より賜ったもので、御長ケ1尺8寸で恵信僧都作と寺伝に記されている。
 貞和年間(1345~49)に信州白鳥の宿(しなの鉄道線滋野駅近く)へ移転、理由は不詳だが、上杉謙信の祖父能景・父為景をして謙信が一向宗(浄土真宗)の禁止政策をとったことが考えられる。謙信は晩年真宗門徒と手を結んだためといわれている。
 天正年間(1573~91)に藤巻に戻る。念仏者堀氏の福島城下に殆どの寺院が集められたが、善念寺は藤巻にとどまり、寛永21年(1644)に現在地に移る。以来370余年の星霜を経る。
 善念寺の歴代住職
 1代 浄賢 永和2年(1376)2月3日寂 95才
 室 妙専尼 永徳2年(1382)5月8日寂 92才
 2代 祐観 正長元年(1428)2月2日寂 74才
 室 妙祐尼 宝徳3年(1454)9月10日寂 70才
 3代 浄祐 文明15年(1483)10月18日寂 79才
 室 妙英尼 永正2年(1505)5月22日寂 82才
 4代 祐賢 正保2年(1645)8月24日寂 92才
 室 妙乗尼 天正元年(1573)4月18日寂 54才
 5代 乗賢 寛永8年(1631)6月3日寂 75才
 室 妙西尼 元和元年(1615)1月19日寂 60才
 6代 英賢 寛文2年(1662)7月12日寂 58才
 室 妙敬尼 寛文10年(1670)12月13日寂 63才
 7代 理賢 延宝8年(1680)1月7日寂 74才
 室 歓喜院妙円尼 元禄11年(1698)1月15日寂 96才
 8代 憶賢 延享3年(1746)10月26日寂 78才
 室 恵性院妙秀尼 寛延2年(1749)7月19日寂 82才
 9代 秀賢 宝暦6年(1756)12月8日寂
 10代 寂賢

auto_kwLwGW.JPG善念寺

伽羅陀山円性寺(高崎市)

 群馬県高崎市下小塙405    ☏027-343-0872
 真言宗豊山派    住職 小崎隆正師
 当寺に、高崎市の重要文化財に指定されている「文永年中在銘の地蔵菩薩像」がある。高さ31㎝の小さな鋳鉄で、以前は右手に錫杖(しゃくじょう)を、左手には宝珠(ほうじゅ)を持っていたようです。
 仏像の造られたのは、背中に刻まれている「信州小方郡海野宿に住む柏大夫入道と、その友法阿弥が、仏の力にすがって父母や自分たちが、安隠に生きられるように仏像を造った」とあり、「文永11年(1274)9月21日」の日付も見えます。
 この地蔵菩薩は、小県郡の海野宿から東山道を尼僧が背負われて、険しい碓氷峠を越えて、はるばる小深郷(鎌倉時代の小塙)まで運ばれてきたものでしょう。
 文永11年は、偶然にも一度目の蒙古から元寇の年です。フビライ率いる元・高麗の軍勢が博多周辺に上陸し、火薬を使った新兵器で、鎌倉の兵士たちを圧倒しました。(高崎市文化財保護課の広報より)

auto_eRbUfm.JPG円性寺の地蔵菩薩

大洞山雲林寺(群馬県長野原町)

 群馬県吾妻郡長野原町大字長野原73   ☏ 0279-82-2201
 曹洞宗 本尊 釈迦如来   住職 29世 大典紀久師
 弘長3年(1263)、臨済宗妙心寺派に属する龍幡和尚が創建した。
大字長野原字火打花にあったが、その後貝瀬に移った。約300年間、非常に栄えていたが、大火災で焼失してしまう。
 永禄2年(1559)3月15日、海野幸光が開基となって現在地に伽藍を再建した。
海野幸光は西吾妻地方の吾妻川左岸に勢力を持ち、戦国時代に羽根尾城に拠った羽尾景幸の孫である。
しかし、天正9年(1581)、真田幸村の父昌幸に滅ぼされてしまう。
永禄2年(1559)、後閑(安中市上後閑)の長源寺9世、為景清春(イケイセイシュン)が曹洞宗大洞山雲林寺として創建されて現在に至っている。
 近世になり、沼田藩真田氏の支配下になり、寺領田畑30町歩、檀家400であった。
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 天明3年(1783)7月8日、浅間山の噴火によって吾妻川流域の村々は一瞬にして溶岩泥流に溢れ、泥海と化した。長野原町の死者数は当寺の人口の半分にあたる約200人、71軒の家屋が倒壊し田畑の8割が被害にあった。
寺も柱二本だけを残し泥流に消えたが、地元の有志の人たちにより再建した。そのときの住職であった13世枝転梅応和尚は、大噴火の祭、過去帳だけを逃げもちた為、明暦4年(1658)からの記録が保存されている。
clip_0090.jpg本堂         
 開山  為景清春大和尚
 二世  立山宗建大和尚
 三世  明堂芳球大和尚    
 五世  古山呑秀大和尚
 六世  瀾室建秀大和尚
 七世  不迷秀達大和尚
 八世  膠室種鸞大和尚
 九世  山堂易瑞大和尚
 十せ  野外柏応大和尚
 十一世 松草喚公大和尚
 十二世 華嶽春芳大和尚
 十三世 枝転梅応大和尚
 十四世 知道丈瑞大和尚
 十五世 大応円丈大和尚
 十六世 禅苗秀丈大和尚
 十七世 謄雲竜丈大和尚
 十八世 古龍雲松大和尚
 十九世 覚明原道大和尚
 二十世 古鏡春台大和尚
 二一世 甎鏡古明大和尚
 二二世 無角泰牛大和尚
 二三世 灑宝竜禅大和尚
 二四世 蘭翁秀苗大和尚
 二五世 禅山一丈大和尚
 二六世 巨海泰量大和尚
 二七世 古典省吾大和尚
 二八世 大慈提三大和尚
 二九世 大典紀久大和尚(現在) 

柏尾山大善寺(甲府市)

 山梨県甲府市勝沼町勝沼3559  ☏0553-44-027
 真言宗智山派  本尊 薬師如来像
 奈良時代に行基の開創と伝え(延慶3年(1310)「関東下知状」)本尊である像の様式から創建は平安時代前期と考えられている。
 薬師堂は天禄2年(971)三枝守国による建立とする伝承があり(天文14年(1545)「大善寺諸堂建立炎上記」)在県ー庁官人として甲府盆地東部の東郡地域で勢力を持った古代豪族である三枝氏の氏寺とされる。
 寺伝では養老2年(718)行基が甲斐国柏尾山の日川渓谷で修行したときに、夢の中に葡萄を持った薬師如来が現われ、満願を果たし、葡萄を持った薬師如来像を建立したことが当寺の起源であるとされている。
 鎌倉幕府が甲斐・信濃国において棟別銭を課して本堂を再建された。
天正10年(1582)織田・徳川連合軍に攻め込まれた武田勝頼が岩殿城(大月市)に向かうときに大善寺に戦勝を祈願したが、岩殿城主小山田信茂の離反に会い、天目山で自決した。この一部始終を目撃した理慶尼が記した武田滅亡記が大善寺に保管されている。
 寺の文化財は次の通りです。
 国宝        本堂(薬師堂)厨子1基
 重要文化財(国指定) 木造薬師如来及び両脇侍像
           木造十二神将立像
           木造日光・月光菩薩立像
 この寺の墓地には海野家の墓があり、その傍に理慶尼の墓もある。

auto_cVwjFu.JPG大善寺

龍華院大猷院霊屋(掛川市)

 静岡県掛川市掛川1104   ☏0537-21-7740
 住職 海野栄久師
 明暦2年(1656)嗣子のない掛川城主北条氏重が三代将軍徳川家光の霊を祀り、家の存続を願ったといわれる三間四方の方型作りの霊廟です。
 文政5年(1822)に掛川城主太田資始により再建され、現在は県の有形文化財に指定されています。
 秋には見事な紅葉が満喫できる隠れた穴場となっています。(掛川市広報より)

auto_5gz0sU.jpg大猷院霊屋

玉井山長栄寺(静岡市)

 静岡県静岡市葵区籠上24-1   ☏054-271-3904
 曹洞宗  本尊 聖観音菩薩像
 戦国時代の永禄10年(1568)甲斐の戦国大名、武田信玄が今川氏の領土である駿河に侵攻してくる。
 慶長2年(1597)にこの村の農夫海野助左衛門の先祖が開基したと言われている。
 法名 甫庵長栄居士
 駿河今川氏7代目当主今川氏親は亡ぼされ、慚愧山城にいた姫は重臣と共に脱出した。
 安倍川の対岸にある増善寺に逃れることになり、家宝の聖観音菩薩像が武田軍に略奪されるのを防ぐため、長栄寺の井戸の中に隠しました。のちに井戸の中から発見された観音像は、井戸出現観音と称されて信仰を集めています。(掛川市観光ガイドより)
 安倍七騎「駿河国風土記」によると、杉山小太郎右衛門・望月四郎右衛門・石谷弥兵衛・狩野弥八郎・末高某・朝倉六兵衛・中村村海野弥兵衛の7人なりという。この海野と朝倉は七騎より大家にて家格七騎の上にありという。

その他全国滋野系寺院

 宝英寺 浄土真宗大谷派  住職 望月道雄師 
     秋田県仙北郡六郷町六郷54 ☏0187-84-1615

 東林寺 曹洞宗      住職 白鳥隆照師
     福島県田村郡船引町椚山追館239  ☏0247-78-0159

 長源寺 曹洞宗      住職 白鳥隆照師
     福島県田村郡大越町下大越103   ☏0247-78-0159

 西円寺 浄土真宗本願寺派 住職 真田信隆師
     福島県耶麻郡猪苗代湖町新町4899 ☏0242-62-2833

 幸生寺 浄土真宗大谷派  住職 真田正美師
     茨城県真壁郡明野町東保末716   ☏0296-53-8288

 本竜寺 浄土真宗大谷派  住職 白鳥滋雄
     新潟県南蒲原郡栄村帯織1238   ☏0256-45-2107

 西厳寺 浄土真宗大谷派  住職 白鳥滋雄(代)
     新潟県栃尾市谷内173       ☏0258-52-3089

 善福寺 浄土真宗大谷派  住職 滋野憲雄師(代)
     新潟県上越市本町2-12-29  ☏0255-24-7847

 等覚寺 浄土真宗大谷派  住職 滋野憲雄師(代)
     新潟県上越市大字諏訪17   ☏0255-20-7354

 唯願寺 浄土真宗大谷派  住職 白鳥哲照師
     新潟県上越市南城町2-70   ☏0255-23-5829

 明福寺 浄土真宗大谷派  住職 白鳥法淳師
     新潟県上越市中箱井181    ☏0255-25-1706

 明道寺 浄土真宗大谷派  住職 白鳥利恵師
     新潟県新井市十日町410-1   ☏0255-72-0213

 専長寺 浄土真宗大谷派  住職 白鳥智正師
     新潟県中頚城郡三和村窪    ☏0255-03-0645

 西円寺 浄土真宗大谷派  住職 白鳥宝心師
     富山県婦負郡婦中町小泉49   ☏0764-66-2693

 自福寺 曹洞宗      住職 真田光道師
     富山県黒部市若栗5269     ☏0765-52-6107

 立山寺 曹洞宗      住職 真田智光師
     富山県新川郡上市町眼目15   ☏0764-72-0699

 海恵寺 曹洞宗      住職 真田智光師(代)
     富山県滑川市追分1642     ☏0754-77-0905

 真月寺 曹洞宗      住職 滋野秀孝師
     富山県砺波市太郎丸277     ☏0763-32-0710

 専順寺 浄土真宗大谷派  住職 真田研寿師
     石川県鳳至郡穴水町甲「黒崎」  ☏0768-58-1068

 真乗寺 浄土真宗大谷派  住職 真田博師
     石川県金沢市本町2-17-30    ☏0762-31-1604

 称仏寺 浄土真宗大谷派  住職 滋野井恬師
     石川県能美郡寺井町寺井ラ154  ☏0761-57-0494

   
 西光寺 浄土真宗本願寺派 住職 宇野俊夫師
     滋賀県神崎郡五箇荘町下目吉312 ☏0748-48-2036

 善行寺 浄土真宗大谷派  住職 真田秀一師
     滋賀県彦根市野田山町280    ☏0749-22-2966

 
 法光寺 浄土真宗本願寺派 住職 宇野淳成師
     岐阜県霜新町36         ☏0582-65-2798

 長泉寺 曹洞宗      住職 真田智英師
     愛知県北設楽郡東栄町東薗目28  ☏0536-76-0988

 専立寺 浄土真宗大谷派  住職 真田隆専師
     山梨県東山梨郡勝沼町等々力1627 ☏0553-44-0393

 常現寺 曹洞宗      住職 望月良雄師
     静岡県掛川市日坂506-1     ☏0537-27-1050

 見性寺 曹洞宗      住職 望月智芳師
     静岡県静岡市新間1089-123   ☏0542-78-9790
 
 喜善寺 曹洞宗      住職 望月智芳師(代)
     静岡県静岡市新間702    

 龍洞院 曹洞宗      住職 望月正道師
     神奈川県小田原市萩窪172    ☏0465-34-2812

 宝安寺 曹洞宗      住職 望月正道師(代)
     神奈川県小田原市浜町1-4-38  ☏0465-22-3030

 妙林寺 浄土真宗本願寺派 住職 真田大道師
     京都市北区大将軍川端町71   ☏075-465-6704
 
 勝福寺 浄土真宗本願寺派 住職 真田秀範師
     京都市上京区中立売通松尾町西入新白水丸町455
                    ☏075-451-7529

 常福寺 浄土真宗本願寺派 住職 真田誓頌師
     奈良県大和郡山市柳4-39    ☏0743-52-2319

 真光寺 浄土真宗本願寺派 住職 真田季隆師
     奈良県宇陀郡榛原町大字橧枚206 ☏0745-82-4045

 全真寺 浄土真宗本願寺派 住職 真田信達師
     奈良県宇陀郡榛原町大字自明1292 ☏

 真楽寺 浄土真宗本願寺派 住職 真田智龍師
     奈良県宇陀郡榛原町高井502   ☏0745-82-1629

 瀧上寺 浄土真宗本願寺派 住職 宇野順治師
     奈良県吉野郡下市町善城27    ☏1757-52-2853

 光円寺 浄土真宗本願寺派 住職 宇野憲章師
     奈良県吉野郡下市町栃原1398   ☏0747-52-0654

 正念寺 浄土真宗本願寺派 住職 白鳥祐祥師
     長野県飯田市中央通2-9     ☏

海野氏系図

州浜紋 結び雁金紋

海野氏系図