海野歴史年表

飛鳥時代

西暦年号海野関係事項
110日本武尊、東夷征伐のち海野に滞在、その後白鳥神社を建立する
553馬の装身具、杏葉等古墳の中にある(昭和32年発掘)
648大化 4建内宿祢、小県の県主となる(古事記)

奈良時代

西暦年号 海野関係事項
717養老 1この頃、童女(おうな)堰(吉田堰)の開発行われる
738天平10正倉院に紐心麻綱に墨書あり 「信濃国小県郡海野郷戸主爪工部君調」
741天平13信濃国分寺建立
773宝亀 4小県郡嬢里(日本霊異記)
774宝亀 5嬢里の人、大伴連忍勝の名見える(日本霊異記)

平安時代

西暦年号海野関係事項
798延暦17家訳(いえつぐ)、滋野宿祢の姓を賜り、滋野氏の祖
831天長 8滋野朝臣貞主文章博士「秘府略」1000巻をあらわす
861貞観 3貞保親王海野氏の祖という
868貞観101月、滋野恒蔭信濃介となる(日本三代実録)
904延喜 4白山比咩(はくさんひめ)神社(上田市山口)の宝物に3代海野幸明の再建札あり
927延長 5海野古城創始(小県郡史)
935承平 5小県七郷に童女(海野)あり(倭名類聚)
938承平 82月、平貞盛に善淵王(よしぶちおう)加勢し平将門を千曲川合戦で敗る
941天慶 41月、海善寺善淵王開基
950天暦 42月、初代滋野恒信、望月牧監となり、海野に下向し 海野幸俊と改名する
973天延 19月、2代海野小太郎幸恒信濃介、海野庄下司す、殿下御領となる、その子幸明氏3代、第2子直家は祢津氏、第3子重俊は望月氏となる
1062康平 5陸奥の俘因長安倍頼時そむき、源頼朝に6代海野幸家から同族騎馬70騎従いてこれを討つ(前9年の役平定)
1087寛治 1源義家に7代海野幸勝ら同族180騎の棟梁として、これに従い陸奥の清原武衛を討つ(後3年の役平定) 
1156保元 18代海野幸親左衛門尉「保元の乱」に源義頼に属し、京都に上り300騎の左馬頭として参戦、海野幸長(のちの大夫房覚明)幸親の子として生まれる
1181治承 56月、木曽義仲が白鳥河原に挙兵し、海野氏援兵し横田河原の合戦に大勝する
1183寿永 211月、備中水島の合戦にて、大将軍9代海野弥平四郎幸広戦死す(源平盛衰記) 
1185寿永 4義仲死後も海野一族最後まで戦い、頼朝大いに怒り、海野一族死罪にすべしと命令す、10代海野幸氏は義高(木曽義仲の長子)の人質の御伴して鎌倉に送られる、この時望月重隆も同行する 

鎌倉時代

西暦年号 海野関係事項
1190文治 61月、10代海野幸氏、頼朝の射手として弓始に参加。幸氏白鳥神社を太平寺より現地に移す。海野幸長(のちの覚明)別所常楽寺を復旧する
1191建久 210代海野幸氏、居城を古城より太平寺(現白鳥台団地)に移し、源頼朝の重臣となる
1193建久 4源頼朝の富士野狩に従う。曽我兄弟あだ討ちのとりしずめに出て10代海野幸氏負傷する(吾妻鏡)
1195建久 610代海野幸氏、頼朝の鶴岡八幡宮参詣に随兵、信救得業(覚明)箱根山(吾妻鑑)海野庄に白鳥康楽寺創立
1197建久 810代海野幸氏、頼朝の善光寺参拝に随兵
1200正治 210代海野幸氏、頼朝の伊豆に狩りに射てとして共奉
1202建仁 2海野幸氏、越後鳥坂城にて城資盛を討つ
1203建仁 3滋野氏、真光寺(南安曇梓川村)阿弥陀如来像を造立する
1204元久 13代将軍源実朝、弓始で射手の名誉、2番手で海野幸氏賞にあずかる
1213建保 1和田義盛そむき、9代海野幸広が戦って討ち死にさせる(和田合戦)
1220承久 2滋野盛道、津金寺(佐久立科町)に石造宝塔造立する
1221承久 39代海野幸広(海野氏8代の長子)鎌倉幕府の正月弓始めに射手二番手を勤、5月に執権北条泰時幕府方の将として「承久の乱」美濃大井戸に参戦する
1225元仁 2滋野某夫妻死去、津金寺の石造宝塔に追記する
1227嘉禄 3滋野盛道、父母のため、津金寺に法華経を納め、石造宝塔建立する
1234文暦 1大夫房覚明、白鳥庄に康楽寺を建立す(のち篠ノ井塩崎に移す)この頃、海野幸春の弟は会田・塔原・田沢。刈屋原・光氏を称す
1241仁治 2滋野長氏左衛門太郎、執権北条経時に従い、伊豆藍沢に猟をする
1243寛元 1滋野光氏、所領小県郡海野庄加納田中郷地頭職を、子の経氏に譲る
1244寛元 2滋野経氏、所領小県郡海野庄加納田中郷地頭職を安堵される
1252建長 4海野矢四郎助氏、幕府の弓始めをつとめる
1253建長 5海野矢四郎助氏、幕府の弓始めをつとめる
1254建長 6海野矢四郎助氏、幕府の弓始め射手を、11人中の一人に選ばれる
1254建長 611月、海野庄加納田中郷地頭職を安堵され、但し舎弟並びに女子及び母堂分を除く
1274文永11高崎市下塙町円性寺の地蔵菩薩背名に「信州小県郡白鳥宿住人柏大夫入道」とあり
1281弘安 4「弘安の役」に塩田氏に従い、11代海野幸継出陣する
1294永仁 3望月重直、海野庄賀沢村田在家を安堵する
1309延慶 2滋野望月重直、海野庄加沢村を女子姫夜叉に譲渡する
1310延慶 3滋野経長、小県郡海野庄田中郷を安堵さ、経長の父は左衛門尉の道阿と云う
1311延慶 4滋野経長、海野庄田中郷を孫の宮一丸に譲渡する
1312正和 1滋野信直夫妻、瑩山禅師に帰依し永光寺(石川県羽咋市)の寺域を定める
1312正和 18月、滋野信直夫妻、永光寺の庫裡を建立、滋野信直夫人の兄頼基の臨終のとき遺言を因り指示する
1317文保 1海野三郎滋野信直、羽咋市永光寺開創の外護者となる
1318文保 2興善寺(長野県東御市和)境内に、廃海善寺の塔基石に「文保2年2月26日□□尼」年号の銘あり
1319元応 18月6日、滋野信直夫人、瑩山禅師に受戒得度する

| 1321 | 元亨 1| 12月2日、滋野信直、瑩山禅師に受戒得度する| 

1326正中 3滋野氏、海野庄の領地を安堵する
1329元徳 13月、海野二郎左衛門に海野庄のうち岩下郷を知行させる
1333正慶 23月、佐久北御牧村両羽神社に14代海野幸康一族、先祖軍中の安全を祈念し、石祠奉納建立する
1333正慶 2臼田四郎望月重直に海野庄加沢村を安堵する。なお小県郡浦野の大法寺の三重塔が建立される

南北朝時代

西暦年号 海野関係事項
1335建武 2諏訪頼重、海野一族とともに北条高時の遺児時行を擁して兵を挙げ、足利直義敗走する
1349正平 4南朝方足利直義、北朝方高師直と戦い、15代海野幸遠南朝方にて参加する
1352正平 75月、15代海野幸遠ら、宗良親王に従って、武蔵国小手指(こてさし)原で足利軍に大敗戦する
1365貞治 4海野氏、如仲天誾生まれる

室町時代

西暦年号 海野関係事項
1392明徳 3足利義満の相国寺供養に伴野次郎源長信が随兵に掻副広沢掃部充実綱・武舍六郎秀朝
1400応永 7「大塔(おおとう)合戦」信濃守護小笠原長秀に反乱し、16代海野幸永ら勝戦する
1440永享12「結城(ゆうき)合戦」結城氏朝に信濃守護小笠原政康の指揮下で参戦し、信濃勢30番中10番として24代海野幸数攻撃参加し戦勝する
1449宝徳 125代海野持幸、船山郷の地頭となる、持幸は鎌倉にて元服し、足利持氏より「持」の一字を賜う 、埴科郡御符礼5貫600文、代官海野平原直光、五月会に御射山御符礼3貫300文、代官武舍沙弥円照
1450宝徳 2海野本郷代官深井依満、大田中祢津花会御符礼5貫600文
1454亨徳 3諏訪御符礼3貫800文、頭役20貫
1455亨徳 4会田岩下入道沙弥重阿、花会御符礼1貫800文
1457長禄 1代官深井肥前守治光、海野本郷御符礼3貫300文
1459長禄 3花会に望月遠江守光盛、御符礼3貫300文、頭役20貫
1461寛正 2花会に海野青木郷、代官深井肥前守治光、御符礼2貫500文、頭役10貫、滋野飯田三郎左衛門秀忠、御射山に三塚、代官武舍宮内少輔常光、御符礼1貫800文、頭役10貫
1462寛正 3会田岩下入道沙弥重阿、花会御符礼3貫300文、頭役20貫
1463寛正 4御符礼500文、傳孫五郎弥八、頭役30貫
1464寛正 5御符礼3貫300文、頭役20貫
1465寛正 6花会結番に望月遠江守光盛、御符礼3貫300文、頭役20貫、軍神守礼1貫
1467応仁 112月14日村上義清と戦い26代海野氏幸戦死する
1468応仁 227代海野幸棟千葉の城とる。村上兵部少輔政清、自陣中返事、頭役50貫
1469応仁 3御射山、海野本郷、代官深井肥前守滋光
1470文明 2花会、海野代官深井肥前守滋光、御符礼5貫600文
1471文明 3花会、海野代官深井肥前守滋光、御符礼3貫300文、五月会明年御頭足、代官武舍中務入道沙弥道秀
1474文明 6明年御射山御頭足、会田 海野岩下増寿丸
1475文明 7御射山御頭足、代官深井肥前守滋光
1477文明 9花会、望月遠江守光重、軍神護符進1貫
1482文明14五月会、伴野越前守長拠本主、代官武舍宮内少輔秀家
1488長亨 2伴野越前守長伝、頭役花会御副状、代官武舍宮内少輔秀家

戦国時代

西暦年号 海野関係事項
1506永正 3前年夫人(禅量大禅尼)のため、27代海野幸棟、興善寺を開基
1511永正 827代海野幸棟、戸石要台寺(現陽泰寺)に墓あり、法名道三信濃入道
1524大永 47月、27代海野幸棟没、法名瑞泉院殿器山道天大居士
1527大永 75月、28代海野棟綱、高野山蓮花定院に宿坊約定書だす
1541天文105月、海野平合戦に武田信虎、諏訪頼重、村上義清の連合軍に敗れ、29代海野幸義神川に戦死(法名瑞泉院殿器山道天大居士)海野棟綱、幸隆(のちの真田氏)上州に逃げ、海野氏600余年の歴史は滅亡する
1561永禄 4武田信玄第2子信親(のちの龍宝)を海野氏継ぎ、30代海野竜宝80騎の将となる、川中島の戦いはじまる
1562永禄 5鎌原重澄に海野領へ移住をすすめる、信玄海善寺領安堵
1564永禄 7鎌原重澄に三原の地を安堵

安土桃山時代

西暦年号 海野関係事項
1574天正 25月、真田幸隆没(62才)法名月峯良心大庵主
1576天正 4海野長門守(幸光)海野能登守(輝幸)岩櫃城を落とし城代を勝頼より命令
1580天正 8海野長門守・海野能登守を沼田在城す
1581天正 911月、真田昌幸に誅伐され、海野長門守幸光(75才)岩櫃城で自刃、海野能登守輝幸(72才)海野中務太輔幸貞(38才)迦葉(かしょう)山女坂にて父子刺しちがいて壮烈な討死をとげる
1583天正114月、上田築城にともない、観音堂、願行寺、海善寺、八幡社、紺屋町、海野町、鍛冶町等海野から移し、上田城下町成る
1596慶長 1北国街道開通する
1600慶長 59月、徳川秀忠軍上田城を攻め、関ヶ原合戦に遅れ参戦する

江戸時代

西暦年号 海野関係事項
1614慶長19田中宿成立する(大阪冬の陣はじまる)
1615元和 1大阪夏の陣はじまる。翌年海野新田なる
1619元和 5上田城主仙石氏、上田領社寺改めできる(白鳥神社3貫250文
1625寛永 2海野宿成立、田中宿と半月交代で伝馬の仕事のみ、問屋武井作左衛門(慶長高10石2斗7升6合、元和~寛永)
1627寛永 4加沢平次左衛門(加沢記著者)生まれる
1631寛永 8千曲川満水、海野新田全部流失する
1632寛永 9海野新田宿場(西海野)成立、47軒
1637寛永14問屋藤田伝(五)左衛門となる〔市太夫(延宝)、栄吉(享保)〕
1642寛永1910月、凶作大飢きんとなる
1654承応 3上田藩各村貫高帳できる
1657明暦 34月、駅馬及び助郷馬の制が定まる
1675延宝 34月、駅馬及び助郷馬の制が定まる
1681天和 1加沢平次左衛門「加沢記」記述す
1692元禄 55月28日、加沢平次左衛門(65才)没す
1694元禄 7宿定助郷始まる
1705宝永 210月4日、地震、20日間屋内で火を焚く事が出来なかったという
1706宝永 3上田藩宝永差出帳できる
1735享保2011月、海野小太郎碑建立(旧小碑は下に埋める)
1740元文 510月、本海野に駒市をたてることを命ぜられる
1742寛保 28月、戌の満水、本海野宿家25軒押流し、42人流死す。田中宿被害甚大につき、本宿を本海野に移し、藤田氏本陣を兼任する
1754宝暦 4浅間山噴火、一面に灰が降り、煙が地を這(は)ったという
1758宝暦 8天然痘流行
1761宝暦1112月、宝暦騒動が起る。田中宿より半月交代の人馬継立訴え不調に終る
1766明和 3干天凶作、吉田堰「三枚はずし」があった
1771明和 8祢津四の宮神社の365段の石段竣工
1783天明 37月、浅間山大噴火、火山灰が一勺ほど積ったという。9月29日、天明騒動起る
1784天明 411月24日、本海野宿金左衛門失火西風烈しく47軒焼失する(寵数60)
1790寛政 29月、千曲川洪水
1791寛政 3白鳥神社本殿建立
1795寛政 7「滋野通記」できる
1796寛政 8海野宿に飯盛女免となる(雷電西方大関となる)
1806文化 3田中宿から再び訴えあり
1807文化 4上田原町の問屋、田中組の割番等仲介で解決す
1808文化 55月、雷電為右衛門、白鳥神社に参拝し、4本柱土俵を奉納する
1850嘉永 3海野宿助郷1年人足11,000人、馬10,500疋
1857安政 47月25日、洪水堤塘大破
1863文久 3洪水堤塘大破
1865慶応 1洪水堤塘大破

現代

西暦年号海野関係事項
1869明治 28月、巳年騒動本海野割番、庄屋、資産家被害ある
1871明治 44月、興善寺焼失する
1872明治 58月、助郷の制廃止、北国街道の諸宿に人力車を貸与する
1881明治14白鳥神社拝殿建立
1888明治2112月、信越線田中駅開設(海野駅を計画したが中止となる)
1890明治23養蚕、蚕種さかんになる
1910明治438月12日、大洪水にて枡形東側流失する
1949昭和246月19日貞明皇后、養蚕御視察記念碑
1949昭和24同日日本蚕糸会長皇太后陛下養蚕御視察記念碑
1973昭和483月6日、「海野宿」町史跡指定される
1980昭和5510月、海野宿保存のため研究会発足する
1983昭和587月28日、海野宿保存研究会と改名される
1984昭和594月、全国町並み保存連盟加入する
1986昭和618月10日、建設省より「日本の道百選」に選ばれる
1987昭和624月28日、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定(文部大臣)