海野系寺社

 海野系寺社は、全国に128ケ寺社もある。海野正統は滅亡したが、名族の海野家が絶えてはと、名族の御家人に仕たり、出家して住職になって、海野氏の血統は脈々と現在まで続いている。なお、住職の方の名前は、視察・調査時のものですので、違っていたら御許し下さい。

 覚英寺 北海道札幌市豊平区豊平1条4-2-30  

 浄土真宗本願寺派  住職 海野覚爾師
 大正9年(1920)山形県の明善寺(山形市七日町5-9-3 ☏011-821-4114)
の「海野覚照師」が大正初期に渡道し、白石区に開教して、大正9年に本願寺豊平説教所を開設した。

auto_vfb1Ck.jpg覚英寺

 花岩山永昌寺 岩手県北上市更木33-105  

 曹洞宗 本尊 本師釈迦牟尼佛 住職 海野義範師  前住職 海野義清師   
                         ☏0197-66-4240
 本堂裏にある古池の右側には、開山当時から存在していたと思われる、全国でも珍しい「ネズコ」という巨木がそびえ立っている。毎年4月に開催される春の祭りでは、秋葉威徳大士を祀る神輿を先頭に集落ごとに趣向をこらした山車・地元に伝わる手踊りなど、笛や太鼓の音に合わせ市内を練り歩く。

auto_5Tw8wc.jpg 永昌寺

 奕葉山久昌寺  岩手県盛岡市大慈町1-5

 曹洞宗 本尊 釈迦年尼佛  住職 海野講栄師  副住職 海野朋孝師
   ☏019-622-2378                         
 創建当初は、久昌庵という庵寺であって、十一屋某者(現在の盛岡市下ノ橋十一屋の先祖)が祇陀寺の奇山快秀和尚のために造った閉居であった。
 快秀和尚は十一屋三代の当主・高橋祐吉と相談し、周囲の谷地を探し、伽藍を建立し、布教・法要を執り行う道場として、明暦2年(1656)開山導師として、報恩寺九世蘭翁嫩芝大和尚を勧請し、自ら二世大和尚として住職になり、その時から奕葉山久昌寺と称された。
 開山当時の建物は享保14年(1729)の大火に見舞われ、堂塔・仏具・過去帳等を焼失した。10世の代により再興されたが、明治17年(1884)に大火に遭い、さらに明治31年(1898)9月23日に焼失、現在の本堂は大正5年(1916)建立された。
 本堂の釣天井造りで、大間の天井には真野暁亭の筆により龍の墨絵があり、東西の堂の襖には、16羅漢の墨絵・東側の襖の裏側には竹林の七賢人の墨絵が描かれているが、いずれも真野暁亭の筆による。
 また、本堂内陣の天井には、21世の筆で花鳥の絵がある。住職海野家は画人家柄で、海野梅岳・三岳の作品をはじめ、近年では岩手大学で教授を務めた海野経は先代の弟にあたる。

auto_gBEnr6.jpg 久昌寺

 宝英寺 秋田県仙北郡六郷町六郷54 

    浄土真宗大谷派  住職 望月道雄師  ☏0187-84-1615

                   

 白鳥山明善寺 山形県山形市七日町5-9-3

    浄土真宗本願寺派 本尊 阿弥陀仏尊  住職 16世鈴木幹雄師
                             ☎023-622-3537
 寺の資料によると、「白鳥山康楽寺」(長野県長野市篠ノ井)の10世の三男、釈覚玄が、現在の天童市山口地内に、寛永7年(1630)に開山したと伝えられている。
 享保年間(1716~35)に、現在地に移ってきた。現在の敷地は境内薬2,100坪、山形城主の堀田正虎(元禄13年(1700)~享保16年(1731))が帰依して寄進した。
 明治27年(1894)に、1,200戸を焼失した山形市内南の大火により明善寺も被災したが、中興の祖と言われる12世覚応の代に再興している。この時の設計者が米沢市出身の伊藤忠太博士(慶応3年(1867)~昭和29年(1954)東京帝国大学工科大学造家学科卒業、東京大学名誉教授、昭和18年(1943)文化勲章受章、米沢市名誉市民第1号)で、昭和2年(1927)に設計完了、昭和5年に工事着手し、4年の歳月を費やして昭和9年(1934)に完成した。
 本堂は木造平屋建。建築面積327㎡、本堂の左右にはアジアの寺院建築風の鐘楼(宝形造二層)と鼓楼(宝形造二層)が配されている。
 東北電力山形支店の角地から東に二つ目の道路を北の方向に歩くと、右手に時代劇に登場するような奥深い寺院の参道と門が見えて来る。門をくぐると正面に現れる本堂は、普通の仏閣の外観とはかなり異なり、和風の木造建築でありながら、不思議にも南アジアの寺院のようなムードを放っています。
 向かって左の塔楼が鐘楼、右側にが太鼓楼が配置され、本堂の大屋根も斜面が左右に流れている建築様式は日本の寺院としては異例である。
 設計は、日本近代建築の重鎮である米沢市出身の伊東忠太博士で、主な作品としては東京の築地本願寺や京都の平安神宮などがあるほか、知勇獄山西省の雲崗石窟寺院の調査でも知られる。
 明善寺は、江戸時代前期からの歴史があり、現存の本堂と塔楼は昭和9年(1934)の建築で、平成14年に国の登録文化財の指定を受けた。
 〈「山形歴史たてもの研究会」小林和彦より〉 

auto_8O8WLV.jpg明善寺

 若宮寺 山形県西村山郡朝日町山中244

              ☏0237-67-2458
 正平年間(1346~70)五百川若狭が弘法大姉の霊感により、大日如来を西船渡に祀り、一寺を建立したと伝えられている。
 慶長5年(1600)に上杉勢が五百川に侵攻の際に全焼した。
 同17年(1612)に配下としていた山野辺城主・山野辺右衛門義忠(最上義光四男)が
現在地に移転し、第一世尊孝法印は若宮中興の名僧といわれ復興に活躍された。

 山形市沼木の海野由美子氏の菩提寺である若宮寺をご案内していただいた。
 その御住職様から海野氏の由緒について、お話をお聞きした。
 出羽海野氏は、永禄2年(1559)に信州から高崎に移住した。この年は武田信玄が西上州を攻めた。その後、同6年(1563)に高崎より出州へ下向して一族郎党と共に出羽国寒河江庄に来たという。真田幸隆は鎌原城主羽尾道雲入道(幸全)の留守を聞き奪い返した。寒河江城主・大江高基公に預けられ、郡奉行申し付かり知行300石となった。
 朝日町の海野氏の初代海野信治は、武田信玄の孫であり、初代海野信治の
   父は、武田信玄の二男(海野次郎元治=龍宝)であるという。
 2代 海野忠治下総、次男海野善次郎長女・大谷白田監物の妻、
    次女・高田庄右衛門の妻
 3代 義治下総と改名・次男海野助衛門・三男善兵衛長女
 4代 善六 42歳で死亡・次男善九郎長女・次女
 5代 善七治右衛門・長女宮宿柴田七郎右衛門妻
 6代 善右衛門
 7代 光三郎次男寛兵衛・長女島七郎秘儀衛門妻
 8代 善七長女吉村鈴木治右衛門妻・次女八沼
 9代 与三郎・次男義三郎・三男加藤治・長女川通島平内妻
 10代 善七、安永7年(1778)34歳死亡・次男卯之助・
    長女伊藤六右衛門妻・次女田村柏倉六右衛門妻 
 11代 善七次男松之助・三男松之助・長女大谷白田長三郎妻
 12代 善七次男竹次郎・長女島藤源太郎妻・三男林治大巻菅井勘六養子
 13代 善七次男善作(分家丸山海野孝多)森治(分家海野善六)
 14代 善四郎子供善三郎・善四郎妻杉下
 15代 善三郎 妻真中
 16代 善七  妻橋上
 17代 信晴  妻上ノ原(現在寒河江に移住) 平成3年6月死去
 18代 ?   と続いている。
 甲斐夫人は、上杉景勝の室で、初代海野信治の叔母に当たる人で、海野次郎元治=竜法の妹である。初代海野次郎信治の伯父に当たる人が武田信清(武田信玄7男)である。

auto_uu2iXt.jpg 若宮寺

 無為山泥洹院康善寺 福島県福島市五月町8-20 

  浄土真宗本願寺派 本尊 阿弥陀仏尊像 住職 25世海野卓哉師
                         ☏0245-22-3468
 康善寺略縁起によると、宗祖大師親鸞の弟子で明教房順智は、元平氏の一族であったが、その没落後、源空(法然)のもとで出家し、東国に流された親鸞を慕って下り、これに仕えた人である。
 初代 明教房順智 当寺開基 文永5年(1268)2月14日没 98歳
師は、東北教化のため、この地に留まられ信夫郡黒岩村に秀安寺という草庵を営
    んだ。
 2代  映飾院就信 弘安7年(1284)8月13日没
 3代  茲心院転山 延慶元年(1308)11月20日没
 4代  徳豢院曻道 元享3年(1323)3月5日没
 5代  更教院樹玄 正慶2年(1333)1月14日没
 6代  偏岳院祥雲 延文5年(1360)7月5日没
 7代  徹窮院締道 慶永18年(1411)1月17日没
 8代  徳水院唯教 康正元年(1455)2月26日没
 9代  真容院義玄 文亀2年(1502)7月7日没
 10代 謄神院応範 元亀元年(1570)没
 11代 凝心院了教 文禄3年(1594)3月18日没
 この寺は、その後天正14年(1586)9月13日の兵火で焼失した。
了教は軍勢四方を取り巻き逃がれず、宝櫃(たからひつ)を阿武隈川に沈め、僅かに身を以って最上に逃れてから6年を過ぎ、文禄元年(1592)7月10日に再び帰って宝櫃を河中より引き上げ、赤間雅楽助(うたのすけ)の茅屋に安置した。
 12代 性海院重覚 慶長9年(1604)6月4日没
 13代 徴輝院宗覚 元和2年(1616)10月24日没
 宗覚の時、上杉定勝の家臣・古河善平衛尉重吉が、郡代に任ぜられ福島に住み農民を災害から守るため自費で、西根・東根の両郷50余か村の水田開墾を志し、延長数里の二大疏水を開墾し、阿武隈川40余里に便船を通そうと川底を浚渫して、財産を遣い果たして、なお不足で、資金に困って藩金の3年分を無断で流用し、重吉は、罪を藩公に詫びる覚悟であったが、子孫を絶つことになれば、祖先に対して最大不孝であるとし、その責を一身に負い自刃した。
 秀安寺を今の福島に移し、信州塩崎康楽寺の二男重覚を迎え重吉の三女「おまん」と結婚して第14代を継ぎ、康善寺と改称する。これ以来海野姓を名乗る。
なお重吉は寛永14年(1637)12月14日屠腹、遺骨は康善寺に葬る。
 14代 等量院重覚 延宝2年(1674)9月24日没
     信州塩崎の康楽寺12世浄祐の子養子
 15代 無為圓院一通 享保12年(1727)5月23日没
 16代 汏洹院致教  享保7年(1722)11月19日没
 17代 松寿院正教  天明8年(1788)7月16日没 85歳
 18代 臨仙院恵教  寛政12年(1800)6月13日没
 19代 普得院宣教  文化9年(1812)12月21日没 江戸築地 明西寺
 20代 速成院宣教  文政5年(1822)11月16日没 越後高田 光明寺弟
 21代 珠綱院隆教  明治4年(1871)1月23日没
 22代 遊林院道教  明治27年(1894)8月14日没 65歳 越後寺町浄光寺
 23代 ?
 24代 海野篤之 妻は福井県鯖江市の万法寺から
 25代 海野卓哉 現住職 

auto_3IN4JS.JPG 康善寺

 専修山安養寺 福島県伊達市梁川町清水町19 

 浄土真宗本願派  本尊 木造薬師如来坐像  住職 海野寿夫師
                         ☏024-577-2345
 寺伝によると、文禄4年(1595)上杉家の老臣・須田第炊助が、奥州梁川霞ケ城に遷移の時に、須田の家長・中村内蔵助道喜は信心深く、君の院信州普願寺の二男である僧小山宗光賢誓法師と共に梁川に転移し、一宇を建立して仏法を広め、永くに亘り民族を和し安養浄土の法を流布せんことを願い、安養寺と寺号を賜り、真宗本願寺派の末寺となる。再三の大火に逢い、文政末年(1827~29)ころ真像を頂いて今日に至る。
 現在の本堂は、明治14年(1881)4月に再建された。
 第17世徹成-第18世壽夫(としお)-第19世は壽夫の二男・康成-第20世寿夫氏が継いで今日に至る。
 第18世の長男の海野寿康氏は現在五洋建設㈱で地盤工学者として活躍されている。
この寺と、檀家の人々の中に信濃国須坂方面から会津に移った人々が居られ普願寺と須坂市の関係が偲ばれる。

auto_0SwO4y.jpg安養寺

 恵林寺  福島県田村郡船引町椚山追館239

   曹洞宗   住職 白鳥隆照師       ☏0247-78-0159

 長源寺  福島県田村郡大越町下大越103

   曹洞宗   住職 白鳥隆照師       ☏0247-78-0159

 西円寺  福島県耶麻郡猪苗代湖町新町4899

   浄土真宗本願寺派 住職 真田信隆師    ☏0242-62-2833

 幸生寺  茨城県真壁郡明野町東保末716 

   浄土真宗大谷派  住職 真田正美師    ☏0296-53-8288

 一乗院法満山千平寺  茨城県那珂郡那珂町鴻巣953 

    真言宗智山派 住職 海野一之師                  
  東京都武蔵野市関前4-8-33(☏0422-53-5420)』の小林静枝氏が
 「常陸(那珂)鴻巣海野氏の系譜」家系図本を平成4年1月発行 (全326頁)
 これによると、次の通りです。
  柳継親王-1代海野-2代海野氏祖行長-3代行勝-4代長男の勝宗と三男が陸奥国に、二男と四男が信州国に移住する 
  5代 胤宗 (慈恩院前衛舎義山圓識禅定門) 承安4年(1174)享年64歳
       勝宗の二男、勝宗の長男勝敷と三男敏興は信州水内に住む
     妻  (真解院淳定妙塔阿姉) 嘉応2年(1170)       
  6代 勝股 (常春院前萄門玄義道仙禅定門) 
         建仁元年(1201)2月16日  享年62歳      
 常陸鴻巣海野氏の先祖の居住地が長野県小県郡大字和村字西山の神であったと推測されています。それは現在の長野県東御市和地区で、田沢の氏神「美都穂神社」の北方水田地帯が「辻田地籍」であり、近くに「沓形石」がある。
     妻  (浄輪院貞室妙空禅定尼) 建久4年(1193)12月5日入
       勝股の弟胤尚(海野藤二郎)は信州の伯父勝敷嗣子
  7代 邦起 鎌倉将軍源實朝代旗本 元久2年、畠山旧領8千石拝領して
     武州へ赴任勝股の長男は元久元年(1204)実朝のとき信州海野執立
  8代 勝序 (法相院自性道雪居士)
      (勝股の二男)   延応元年(1239)12月7日享年69歳
     妻  (貞園寺真諦妙定禅定尼) 延応2年(1240) 8月11日
    弟覧易 宗閣道玄(秩父重忠戦で討死) 元久2年(1205)6月22日享年24歳
  9代 穏茂 (白露舎前吏官写山了月禅定門)
        文久7年(1270)9月12日享年68歳 
     妻 (知春院花山貞室近事女) 建治元年(1275)3月24日
  10代 満辰 (帰西院前中席道雪了義近事男) (穏茂二男) 
    嘉元2年(1304)11月21日 享年70歳 
     妻 (円如院浄好観月近事女) 延慶3年(1310)8月16日入
  11代 延勝 (藤舎前郎下玄如道泉居士)
     元徳2年(1330)6月18日 享年68歳
     妻 (自空院転月浄光妙尼) 嘉歴元年(1326)9月27日入
  12代 親祝 足利基国の客臣なり下野に行く、足利猶子加門、源姓に改む
        延勝の長男、海野氏
  13代 貫寛 (桐林前侍令慈雲浄閣居士) (延勝の二男)
        貞治6年(1367)4月5日 享年70歳 
     妻 (理定院雪相妙玄阿姉) 康安元年(1361)11月29日入
  14代 矯当 (荀門実体蓮茂大禅男) (貫寛の長男)
      応永15年(1408)11月17日享年71歳
     妻 (善光妙園大師) 応永16年(1409)8月晦日寂
  15代 節章 駿河足利持氏陣参陣、持氏の一字拝領、海野信濃守氏章と号
        矯当の長男
  16代 勝著 (浄心院前楯谷露山道空居士) (矯当の二男) 
        寛正元年(1460)8月11日 享年72歳
     妻 (摂取院貞郭妙恒禅定尼) 享徳元年(1452)4月27日卒
  17代 亮都 応仁元年6月、鎌倉府本丸旗本、足利政知御用所勤務
        勝著の二男
  18代 邦潔 明応2年(1493)和光院安楽寺草創(徳川光圀代より養徳院)
        勝著の四男
  19代 勝並 (皖蓮社淳誉道詣禅定門)享禄4年(1531)8月17日享年69歳
     妻 (喜見院棺誉妙街阿姉) 天文3年(1534)11月24日寂
  20代 庸水 (観誦院信誉道泉居士) 天文13年(1544)6月2日享年57歳
     妻 (宥泉院妙極大法女) 天文21年(1552)5月11日寂
  21代 股顕 永正11年(1514)2月生まれ、
     天文11年(1542)8月10日、今川義元臣朝日奈備中守、
     三州長沢城主小原藤五郎と対陣する。
     大平郷に戦闘参陣、その後、足利氏に仕属、駿河に住む、庸水の長男
  22代 貞慰 (浄知院證誉了閣大近事男) (庸水の二男) 
        永禄11年(1568)9月5日 享年49歳
     妻 (穹室□誉妙相法女) 天正6年(1578)11月25日寂57歳
  23代 茂周 (景林實覚了義禅定門) 慶長16年(1611)10月22日卒 65歳 
     妻 (相嫣妙雲近事女) 慶長14年(1609)2月29日享年62歳
  24代 貞顕 茂周の二男、天正14年(1586)8月生まれ、
        自当代正武臣、水戸徳川頼房代、
     寛永18年(1641)御検地帳御改時記名印焉 時56歳
  25代 紹方 治郎右衛門、貞顕の二男、本家相続
  26代 喜殷 縫左衛門 (青松道元信士) 正徳3年(1713)享年72歳
        貞顕の長男の喜之庄左衛門の二男
     妻 (落葉妙林信女) 享保3年(1718)
  27代 勝幹 吉左衛門 (得富深緑清信士) 延享5年(1748)享年82歳
        喜之庄左衛門の長男伊兵衛の長男
     妻 (良観浄識清信女) 寛延元年(1748)7月12日より
  28代 敏元 吉左衛門 (鑁明浮水清信士) 宝暦10年(1760)享年66歳
     妻 (紫雲妙綿清信女) 天明8年(1788)
  29代 勝照 吉左衛門 (阿光徹心清信士) (逆修) 飯田法満山一乗院住 
     妻 (同本円妙到信女) 権現僧都法印有栄代授与
     先妻 (芳菊妙董清信女) 天明元年(1781)
    現在まで続いて地域で活躍されている。

伽羅陀山円性寺 群馬県高崎市下小塙405    

  真言宗豊山派    住職 小崎隆正師  ☏027-343-0872
 当寺には、高崎市の重要文化財に指定されている「文永年中在銘の地蔵菩薩像」がある。高さ31㎝の小さな鋳鉄で、以前は右手に錫杖(しゃくじょう)を、左手には宝珠(ほうじゅ)を持っていたようです。
 仏像の造られたのは、背中に刻まれている「信州小方郡海野宿に住む柏大夫入道と、その友の法阿弥が、仏の力にすがって父母や自分たちが、安隠に生きられるように仏像を造った」とある。「文永11年(1274)9月21日」の日付も見える。
 この地蔵菩薩は、小県郡の海野宿から東山道を尼僧が背負って、険しい碓氷峠を越えて、はるばる小深郷(鎌倉時代の小塙)まで運ばれて来たという。
 文永11年は、偶然にも一度目の蒙古から元寇の年です。フビライ率いる元・高麗の軍勢が博多周辺に上陸し、火薬を使った新兵器で、鎌倉の兵士達を圧倒した。
〈高崎市文化財保護課の広報より〉

auto_dTOdsf.JPG 円性寺の地蔵菩薩

大洞山雲林寺 群馬県吾妻郡長野原町大字長野原73

 曹洞宗 本尊 釈迦如来   住職 29世 大典紀久師  ☏ 0279-82-2201
 弘長3年(1263)、臨済宗妙心寺派に属する龍幡和尚が創建した。以前は、大字長野原字火打花にあったが、その後、貝瀬に移った。このため、この地は寺屋敷と呼ばれて約300年間、非常に栄えていたが、大火災で焼失する。
 永禄2年(1559)3月15日、海野幸光が開基となり、現在地に伽藍を再建した。
海野幸光は西吾妻地方の吾妻川左岸に勢力を持ち、戦国時代に羽根尾城の城主だった羽尾景幸の孫である。
その後、天正9年(1581)、真田幸村の父昌幸に滅ぼされる。
永禄2年(1559)、後閑(安中市上後閑)の長源寺9世、為景清春(いけいせいしゅん)が曹洞宗大洞山雲林寺を創建して、現在に至る。
 近世になり、沼田藩真田氏の支配下になり、寺領田畑30町歩、檀家400である。

s_clip_0091.jpg 雲林寺参道

 天明3年(1783)7月8日、浅間山の噴火によって吾妻川流域の村々は、一瞬にして溶岩泥流に溢れ、泥海と化した。長野原町の死者数は、当寺の人口の半分にあたる約200人、71軒の家屋が倒壊し田畑の8割が被害にあったという。
寺も柱二本だけを残し泥流に消えたが、地元の有志の人達により再建した。そのときの住職であった13世・枝転梅応大和尚は、大噴火の祭、過去帳だけを持ち出した為、現在も明暦4年(1658)からの記録が保存されている。

s_clip_0090.jpg 雲林寺本堂

 開山  為景清春 天正11年(1583)3月28日示寂  前年本能寺の変
 2世  立山宗建 慶長3年(1598)8月14日示寂   豊臣秀吉死す
 3世  明堂芳球 慶長12年(1607)6月3日示寂   徳川家康江戸幕府(1603) 
  4世  高岩鷲道 慶長13年(1608)6月22日示寂  徳川秀忠将軍となる(1605) 
 5世  古山呑秀 寛永1年(1624)6月13日示寂  徳川家光将軍となる(1623) 
 6世  瀾室建秀 万治2年(1659)12月5日示寂  江戸大火(1657)
 7世  不迷秀達 天和2年(1682)9月30日示寂 
 8世  膠室種鸞 正徳3年(1713)11月18日示寂
 9世  山堂易瑞 享保11年(1726)4月13日示寂 吉宗将軍(1716) 
 10世  屋外柏応 寛延4年(1751)10月15日示寂 吉宗死す
 11世  松草喚公 安永6年(1777)5月27日示寂
 12世  華嶽春芳 安永6年(1777)8月26日示寂
 13世  枝転梅応 寛政4年(1792)5月20日示寂 浅間山大噴火(1783)
 14世  知道丈瑞 享和1年(1801)4月10日示寂
 15世  大応円丈 不詳 示寂 
 16世  禅苗秀丈 文化10年(1813)8月23日示寂 
 17世  謄雲竜丈 天保6年(1835)7月16日示寂
 18世  古韻雲松 天保12年(1841)5月27日示寂
 19世  覚明原道 嘉永4年(1851)9月4日示寂
 20世  古鏡春台 不詳 示寂
 21世  甎鏡古明 安政5年(1858)2月3日示寂
 22世  無角泰牛 不詳 示寂
 23世  灑宝竜禅 明治3年(1870)10月17日示寂
 24世  蘭翁秀苗 不詳 示寂
 25世  禅山一丈 明治12年(1879)3月6日示寂
 26世  巨海泰量 明治35年(1902)9月8日示寂
 27世  古典省吾 昭和21年(1946)3月4日示寂 
 28世  大慈提三 平成24年(2012)2月26日示寂
 29世  大典紀久(現在) 
             『雲林寺のホームページより』

龍洞院 神奈川県小田原市萩窪172                   曹洞宗   住職 望月正道師     ☏0465-34-2812

宝安寺 神奈川県小田原市浜町1-4-38                   曹洞宗    住職 望月正道師(代)  ☏0465-22-3030

威徳山班渓寺  神奈川県比企郡嵐山町鎌形1907 

     曹洞宗     ☏0403-62-2150
 この寺の梵鐘に次の文字が刻まれている。
「木曽義仲 長男 清水冠者源義高為 阿母威徳院殿班渓妙虎大姉 創建スル所也」
 妙虎大姉(山吹姫)は我が子義高を頼朝によって、その追に殺害された。夫・義仲と子・義高の菩提を弔って、母の山吹が、この寺を建てたという。
 寺の前には「木曽義仲公誕生之地」の石碑が立つ。境内の裏手の竹藪に清水が湧き出ている。その清水も義仲産湯の清水と伝わる。その辺りは木曽殿坂とか木曽殿館跡という。

auto_EhMkX0.jpg 鎌形の班渓寺

木曽義仲には何人かの女性がいたが、妻として有名なのは巴御前で、諸説には義高 
の母は、この巴御前とも言われている。巴御前は京の都で畠山重忠との一騎討ちの 
話が残されている。幼い駒王丸(義仲の幼名)を助けた畠山重能(重忠の父)の存 
在は、木曽義仲に一時は味方した畠山重能と、義経らと共に義仲を討った畠山重忠 
が同じ畠山氏の中にいたことを物語る。『吾妻鏡』では、最初平氏方の畠山重忠が 
源頼朝と出会い源氏の味方になって行く経緯がわかる。
 

 木曽義仲のもう一人の妻が、ここ班渓寺に眠る山吹姫です。木曽の中原兼遠の実兄・兼保の娘だと言われている。海野兼保は小県郡の豪族海野家の養子となり、山吹姫が誕生した。
 巴御前と山吹姫は重複するところがあり、共に女武者で幾多の合戦に参戦している。定説では義高の母は山吹姫である、とされている。
 班渓寺には「威徳院殿班渓妙虎大姉」と書かれた山吹姫の位牌が安置されて、境内の墓地には墓碑が建つ。
 信濃国東塩田(上田市東塩田)にも、巴・山吹姫の墓がある。

auto_bJhlXF.jpg班渓寺境内の山吹姫の墓

柏尾山大善寺  山梨県甲府市勝沼町勝沼3559

 真言宗智山派  本尊 薬師如来像  ☏0553-44-027
 奈良時代に行基の開創は、延慶3年(1310)「関東下知状」によると、本尊である薬師如来像の様式から創建は平安時代前期と考えられている。
 薬師堂は、天禄2年(971)三枝守国による建立とする伝承があり、天文14年(1545)「大善寺諸堂建立炎上記」によれば、在庁官人として甲府盆地東部の東郡地域で、勢力を持った古代豪族である三枝氏の氏寺とされる。
 寺伝では、養老2年(718)行基が、甲斐国柏尾山の日川渓谷で修行した時に、夢の中に葡萄(甲州ぶどう)を持った薬師如来が現われ、満願を果たし、葡萄を持った薬師如来像を建立したことが当寺の起源と言われている。
 甲州葡萄の始まりは、行基が法薬として葡萄の栽培法を村人に教えたことであるとも言われている。本尊の薬師如来像の持物は、長い間失われていたが、元は葡萄を持っていた伝説があり、現在は左手にひと房の葡萄を載せた姿に復元されている。こうした由来と、現在は寺内でワインを醸造し、参拝客に振舞って「ぶどう寺」とも呼ばれている。

 鎌倉幕府が甲斐・信濃国において棟別銭を課して本堂を再建した。
戦国時代の天文19年(1550)に郡内領主の小山田信有(出羽守)が二子を連れて参詣を行っている。〈『大善寺文書』より〉
 天正10年(1582)3月、織田・徳川連合軍の武田領侵攻に際して、3月3日に武田勝頼は、本拠である新府城(韮崎市中田町中條)から小山田信茂を頼り、都留郡の岩殿城(大月市賑岡町)に向かった。大善寺に立ち寄り戦勝を祈願したが、岩殿城主・小山田信茂の離反に会い日川をさかのぼり、3月11日に山梨郡田野(甲州市大和町)天目山で一族とともに自害したという。この一部始終を目撃した理慶尼が記した、武田滅亡記録を『理慶尼記』が大善寺に残る。
 『甲斐国志』によると、理慶尼は、武田一族の勝沼信友の娘で雨宮氏に嫁している。勝沼氏の処断により離縁されて大善寺で尼になった。勝頼を一晩大善寺に泊めると『理慶尼記』が記し、高野山引導院に奉納したという。
 寺の文化財は次の通りです。
 国宝        本堂(薬師堂)厨子1基
 重要文化財 (国指定) 木造薬師如来及び両脇侍像
           木造十二神将立像
           木造日光・月光菩薩立像
 この寺の墓地には、海野家の墓があり、その傍に理慶尼の墓もある。

 auto_ReFtS2.jpg大善寺

 専立寺  山梨県東山梨郡勝沼町等々力1627 

   浄土真宗大谷派  住職 真田隆専師   ☏0553-44-0393

 玉泉寺 北安曇郡小谷村大字中土144

   曹洞宗  住職  海野喜充師

 祥雲山貞麟寺 長野県北安曇郡白馬村大字神城6485 

   曹洞宗 本尊 聖観世音菩薩 住職 21世 海野喜充師
   寺紋六連銭         ☏0261-75-2620
 天正15年(1587)3月、仁科氏の武将、沢渡九八郎平盛忠の代に菩提樹として、大沢寺(大町市大町)9世巍母正鎮和尚創建する。
 継世18世住職篠崎天舟の時、寺の裏奥に「りん」さんが、頭をまるめて庵を作り、仏門に入に入った。
 明治21年と昭和51年に火災により焼失し、20世海野仙厳師の父の時に、広田四賀村(現在の松本市会田広田寺)より移転し、昭和53年に再建して、現在に至る。
 4月下旬から5月上旬「シタレザクラ」が満開のころ、全国でも珍しい白桜と桃色桜が見られる。本堂の前にあり国の天然記念物に指定され、樹齢400年・樹周5m・樹高16mと桜の幹は時の流れを感じさせる巨木がある。
 裏山の斜面の境内周辺一帯には「カタクリ」群生もあり見ごろになる。
 また、墓守は不要と自然に返るという事で、墓石もなく、柵も囲いもない樹木葬が広がっている背景には、少子化や独身者の増加によって「墓を守っていく人がいない」という事情で、これまで30人が埋葬され、生前予約がすでに50件ほど入っているそうだ。   〈「寺談話」より〉

auto_Y5lmsp.JPG 貞麟寺

 海野山高山寺  安曇野市豊科5805  

   浄土真宗本願寺派   住職 本多新師  寺紋 立葵 ☏0263-72-0232
 当寺は、更級郡塩崎村(長野市篠ノ井塩崎角間)にあったが、新田町にあった同宗派の寺院(清浄山円証寺)が廃仏毀釈によって廃寺となったため、塩崎村を引き払い、新田町に移転した。創建は元久2年(1205)と伝えられている。
 明治15年(1882)8月に当地へ移転した。

auto_q0qw4b.JPG 高山寺

光久寺薬師堂 安曇野市明科中川手5773 

     高野山真言宗     住職 伊藤義修師
 「光久寺薬師堂」は県宝に指定されている。
 寺伝によると、光久寺は大同2 年(802年)に高野山遍照光院の末寺として創建され、行基菩薩作の薬師如来を祀ったとされる。専門家は空海の入唐が804年なので、ありえない話だと述べているが、そのように伝わっている。高野山遍照光院については、覚音寺でも縁がある旨を聞いたことがあるが、全く無関係とは言い切れない。
 日光月光菩薩は、文保元年(1317)6月5日で、最も古い。記録上、分かっている限りで、妙海(仏師善光寺妙海房・34歳)が最も若い時に作った仏像である。日光月光菩薩の背面墨書から、滋野氏女(うめじ)と源盛長が旦那となって両像を造立したことがわかる。「木造日光菩薩立像(像高88㎝)・月光菩薩立像(像高89㎝)」
 光久寺は、今では無住になっており、地区の方々が管理されて、県宝に指定されている。安曇野市のサイトによると、毎月第三土曜日が公開日となっているが、それでも事前に安曇野市役所への連絡が必要だという。 
 薬師堂は棟札により、元禄3年(1690)の建立である。棟札によると、松本藩主・水野忠直を大檀那とし、大足村の滝沢九郎兵衛が発願主となって造立し、棟梁は大町村の曽根原安右衛門である。縁先に柱を立て軒先を支える外観に特徴があり、地域に伝わる先例に倣ったものと考えられる。屋根は、茅葺が鉄板葺となっているが、軸部は旧形態をよく残している。構造は簡素で、彫刻も少ないが、内部・外部には彩色・彩画が残る。彩色・彩画は、銘によって堂の建設時のものであることが明らかである。内陣には、春日厨子を安置する。その内部には、さらに小型の春日厨子(内厨子)が納められて、その扉に慶安3年(1650)の銘がある。春日厨子には銘はないが、脚部の文様等から、現在の薬師堂と同時期のものと考えられる。縁柱で軒を支える中世から、この地方に見られる形態をもち、堂の内外に彩色を主とした装飾を施すなど、近世の寺院建築としての特徴も備えている。小規模ながら、地方における寺社建築の変遷を示す指標となり得る建造物として価値が高い。
 仏師妙海作の仏像は、長野県内に、県宝は①波田町若沢寺の仁王、二体(元亨2年(1322))。②朝日村光輪寺の日光月光、二体(元亨3年(1323))。
国の重要文化財は③辰野町川島の十一面観音一体④麻績村福満寺の日光月光二体ある。光久寺の日光月光の発見により、九体となり、一番古いが傷んでいるので文化財にならない。〈「明科町史編纂便り」より〉

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 北林山西方院極楽寺 松本市深志2-4-27 

    浄土真宗本願派 本尊 阿弥陀如来 住職 27世 海野暁光師
                         ☏0263-35-1753
 寺伝によると、開基の海野三郎広重は、親鸞聖人の弟子となって、広専坊と名のり、小県の海野の里の廃寺を再建して極楽寺とした。
 蓮如上人徒弟に7世蓮智。後、11世了専のとき、武田信玄の命によって、永禄3年(1560)松本市島立の北栗へ移った。
 12世了専。14世祐専。
 松本城主・石川康長は、文禄2年(1593)に、松本城下の経営の一環として、寺を北栗の地から、女鳥羽川の南(旧本町1丁目)へ移した。しかし、水野氏の代の、明暦2年(1656)に火災により焼失したので、現在地へ移った。
 松本藩主・水野忠直が寺に参詣した折、大門が本町側にないことを不便に思い、本町側に道を開け大門が造られたのは、元禄10年(1697)である。
 明治21年(1888)1月、寺から出た火は、折からの南風にあおられて大火となり、南深志の町々を焼いた。
 現在ある入母屋造りの鐘楼は、この時の火災をまぬがれた建物で、安政5年(1858)の建立で、鐘は松本の鋳物師田中吉繁の元禄12年(1699)の作であったが、戦時中に供出され、現在の鐘は文化勲章受章者香取秀真・正彦父子の作である。
 25世海野一正師。
 昭和26年(1951)、前住職海野一生師は境内に深志保育園を設立し、昭和45年(1970)には、念願の本堂を再建した。

auto_ayPC0l.JPG 極楽寺

西生寺  松本市大字島立字北栗3932  

  浄土真宗本願派  住職 海野彰師
   前住職 海野乗昭師  ☏0263-47-0938
 極楽寺の隠居寺として、寛永14年(1637)6月、善性和尚創建する。

性徳山洞光寺 松本市刈谷原町692

  高野山真言宗 本尊 薬師如来  住職 松本諦宗師  ☏0263-64-2776
 淳和天皇の天長年中(824~33)、弘法大姉の開基で、自作薬師如来を本尊として安置した。
 養和年中(1181~2)木曽義仲北国下向の折、当山へ参拝して、自ら兜を石上に置き戦勝の祈願書を自署して奉納し、倶利伽羅峠にて大勝を得た。境内には兜石と称している石が残る。
 その後、12代海野小太郎幸春及び五男刈谷原五郎(荒神尾城主)及び鷹住根の城主・太田弥助等の祈願所となり大いに崇敬された。
 天文21年(1552)8月10日、上田原合戦のおり、鷹住根落城と共に武田方の兵火により、講堂・庫裡。倉庫等を焼失、本堂の什器等に至っては大半灰燼となった。
 天正5年(1577)時の住職・憲勤は、檀信徒の浄財を募って、ようやく再建された。憲勤は紀州高野山三味院より法流継承して、中興の祖と称されている。
 戦国時代の戦史に残る刈谷原の城は、善光寺街道苅谷原宿の背後にあり、洞光寺墓地には武田勢と戦って戦死した城主・太田資忠の墓碑がある。
 寺宝には、県文化財に指定されている、応永13年(1406)に描かれた八大高祖の絵像8軸がある。これは河内国錦部郡の観心寺榎本坊からの伝来である。〈『信濃宝鑑』より〉

auto_TcKKj0.jpg洞光寺

西牧山真光寺 松本市梓川1918 

   曹洞宗永平寺末 本尊 阿弥陀如来
       住職  秀晴師 ☏0263-78-4662 
 梓川地区上野にある真光寺は「上野のお庚申さま」と呼ばれ親しまれているお寺で、「信府統記」によると、高野山金剛頂院の末寺で建仁年中(1201~4)に創建、天文15年(1546)大檀那・滋野讃岐守貞兼(法名海厳淵成了源大居士)が中興し開基している。
 滋野氏とは、東信濃における古代からの氏族で、平安時代に東信地方から移住してきた大伴氏の一族で、中世西牧郷の地頭主として住吉庄及び旧梓川村の山麓地域を支配した豪族で古幡牧を経営していた。
 国府松本の西方にあったため、西牧とも言われる。地頭主は土地の名をとって西牧氏と称すると言われている。
 木造阿弥陀如来坐像と両脇侍像と聖観世音菩薩像(左)、勢至菩薩像(右)がある。阿弥陀如来坐像は、純粋の鎌倉様式の男性的な堂々たる仏像である。佐久市望月の福王寺の阿弥陀如来像も建仁3年(1203)の作で、ほぼ同じような作柄である。勢至菩薩像は、中尊の阿弥陀如来像とほぼ同じころの製作と思われるが、藤原様式の女性的な作である。聖観世音菩薩像は、室町時代末の製作で、藤原様式を真似ているが、特に顔は江戸時代の仏像によく見られる面相になっている。

auto_UUOiVn.jpg真光寺阿弥陀如来坐像

 昭和12年(1937)に国の重要文化財に指定されて、当地方の逸品である。
 鎌倉時代初期に滋野一族の安泰を願い造られ、阿弥陀如来坐像の像内背部には、「奉造立阿弥陀如来一体并に菩薩像二体、信心大檀那滋野兼忠女大施主橘氏……(略)……建仁3年(1203)2月10日大仏師僧□海、仏師僧栄海」と墨書されている。
これにより、仏像の大施主橘氏は滋野兼忠の娘であることがわかり、滋野氏の勢力が安曇地方にまで及んでいたことがわかる。〈安曇野市教育委員会より〉

auto_I7UMxd.jpg 真光寺

福聚山広田寺 松本市会田566 

   曹洞宗 本尊 木造阿弥陀如来坐像  寺紋 六連銭 
   現住職26世真田広雪師      ☏0263-64-3802
 虚空蔵山の南麓に位置し、旧会田宿の北側で会田小学校を少し登った殿村の地にあり、雄大な山並みの景観が望める。
 鎌倉時代に、海野氏系の岩下豊後守(11代海野幸継の二男会田次郎幸持が、会田岩下氏となる)が、この地を領しており菩提寺として創建された。
 小笠原家の菩提寺である広沢寺(小笠原家の菩提寺)の4世雪江玄固が中興開山。はじめ知見院と号したが、のち地名から知見寺と称し、天文年間(1532~54)に現在地に移して広田寺に改めたという。前住職25世真田照禅師

auto_HTZXl9.jpg広田寺

 現在の本堂は、宝永2年(1705)大工・重右衛門源七により再建され、天明3年(1783)に棟梁・枡屋広七によって入母屋造り茅葺の山門が造られた。
享和3年(1803)棟梁・幸介により改築される。『広田寺の由緒より』
詳しくは「広田寺」検索して御覧ください。

正念寺   長野県飯田市中央通2-9    

   浄土真宗本願寺派 住職 白鳥祐祥師
 

妙正寺 長野県飯田市大字豆木5203 日蓮宗 住職 望月龍昇師   

森尾山鎌田院妙福寺 上水内郡飯綱町芋川1517-1 

   浄土真宗大谷派 本尊 阿弥陀如来  住職 中殿秀晴師 寺紋は州浜
       前住職 海野浄英(善敬寺兼務)    ☏026-253-2223
 下総国(現在の千葉県市川市)の庄司・鎌田兵衛政清の嫡子・鎌田政守が、常陸国稲田(茨城県笠間市)において、専修念仏を広めていた親鸞上人の弟子となり、妙善という法名を賜り、下総国鎌田村(現在の千葉県市川市)に一宇を創建して明福寺と称した。貞永元年(1232)兵火にあい、越後国頸城郡箱井村(現在の新潟県頚城郡)に移った。
 その後、永禄10年(1567)、この地を支配していた芋川越前守が、当地に堂宇を造営し、その庇護の下に現在地に移転して、寺号を妙福寺と改めた。
 12世空善の代、寛文4年(1664)火災で堂宇を焼失し、現在の本堂は、その後再建された。
 現在の寺地も芋川氏の居館址内の一部ではないかという。

auto_KsYezq.JPG 妙福寺

白鳥山報恩院行善寺 長野県上水内郡信濃町古間541 

  浄土真宗大谷派  住職 24世白鳥勲師
            寺紋 州浜・雁がね ☏026-255-2086
 創建年月不詳、往古に関川杉の沢に行善寺がある。
 承久(1219)の頃、僧行善坊が戸隠山に住む、天台宗にて同山坊中(昔36坊あり)の一つなりと言われている。
 親鸞聖人が戸隠山参詣の際、故あって、その弟子となり、小松氏と一緒に、古間村に来て住み、一宇を建立したと。
 その後、数度の兵火に罹り、廃したり復興したりして僅かに小宇が存在する。
 文政9年(1826)に火災にあい、翌10年(1827)4月に僧秀観禅師、その荒廃しておるのになげき、皆の協力により堂宇を再建する。長野市吉田の善敬寺と親戚になる。
 住職は、21世白鳥宗雄師-22世宗照師-23世宗靖師-24世勲師と続いている。

auto_AMgqYU.jpg行善寺

白鳥山正定寺 長野県上水内郡飯綱町高坂706

  浄土真宗大谷派  住職 白鳥徳音師  寺紋 州浜  ☏026-253-9631
 現在の18号線より西側に、遥か離れたところに位置しているが旧高坂村である。
 この村は、地勢が西と南を高い山に囲まれ北に傾斜しているため、この地は天候不順になると田畑は、結実せず農民は難渋を強いられたという。
 この地に寺が開基され存続している訳は、古くからの交通の要衝であったこと、つまり越後から善光寺へと、飯綱山麓を経て戸隠へ通ずる古道として通じていたからであろう。
 永正5年(1508)、塩崎村康楽寺を浄祐5男祐圓が開基し、吉田村に移して道場を建立した。
 寛文3年(1663)、僧祐圓が跡地へ寺堂を創建し、白鳥山正定寺とした。
 延享2年(1745)高坂へ移し、寺堂を再建した。
 僧祐圓は、8代海野信濃守幸親の二男幸長(大夫房覚明)が康楽寺を開基し、2世浄賀-3世浄耀-4世浄蓮-5世浄明と続き、12世浄祐の5男が祐圓であった。

白鳥山高山寺 長野県上水内郡飯綱町平出208

  浄土真宗本願寺派  住職 20世 白鳥俊生師 
              寺紋 州浜 ☏026-253-7173
 明治天皇・加賀候などの御通行に関する記録など、貴重なものを沢山所蔵されている。
 正中元年(1324)僧祐圓が開山、塩崎郷角間に一宇を創建する。
 開祖の僧祐圓は、8代海野信濃守幸親の二男海野通広(幸長)後に大夫房覚明と称し、その子浄賀、その子浄耀と続き、12世浄祐の五男が祐圓である。
 2世 釋了慶
 3世 釋了念
 4世 釋西念
 5世 釋西了 慶安4年(1651)平出村に移転し寺堂建立する。
 6世 釋了蕙
 7世 釋了閏
 8世 釋祐蕙
 9世 正明院釋覚可
 10世 實明院釋蕙洗
 11世 響誉院釋実道
 12世 響香庵釋貫絞
 13世 釋實文
 14世 智没院釋智筆
 15世 實明院釋晃耀
 16世 明春院釋広範
 17世
 18世 釋広範
 19世 釋岳史 平成29年1月16日午前9時に往生 81歳
 20世 俊生 

 

大岩山普賢寺  須坂市大字小山(南原町)353   

   浄土真宗 住職 業田照賢師             
   副住職 業(ぎょう)田(た)昭(しょう)映(えい)師   ☏026-245-0305
 善光寺に匹敵する敷地で約5,000坪ある、檀徒は1,500戸、文化活動も熱心で、「故植木ひとし・さだまさし」の催しを開き平成25年には「中村美津子」の演歌を楽しんだという。
 鎌倉時代に埼玉県秩父で催されたのが始まりという。南北朝時代に本郷付近に移り、正和3年(1314)に本願寺覚如上人より寺号「普願寺」を賜り、文明5年(1473)に現在地に移った。
 元和3年(1617)には須坂藩主が陣屋を完成するまで仮宿として利用するなど関係が深かった。また須坂の豪商田中家の菩提寺として多くの寄進を受けている。
 現在の本堂は寛保2年(1742)に着工、延享4年(1747)に完成され、須坂を代表する寺院建築として平成4年に鐘楼(嘉永4年(1851建築))と共に須坂市指定有形文化財に指定されている。
 本堂の大工棟梁は越後国三島郡本与板村の丸山武兵衛である。鐘楼は亀原和田四郎嘉博作である。

auto_fI0wIu.jpg 普願寺

 善松寺   長野市妻科216

    曹洞宗   住職 真田清文師   ☏026-232-1622

 白鳥山報恩院善敬寺 長野市吉田3-16-16  

    浄土真宗大谷派 本尊 阿弥陀如来  住職 海野英順師  寺紋州浜
                     ☏026-241-3771
 開基は塩崎康楽寺の二世法眼浄賀(絵がうまいと言われていた)の二男の浄蓮(親鸞の伝記を書いた人)で、永仁元年(1293)10月、本願寺から山号と寺号を与えられ一宇を建てた。
 浄蓮の祖父・西佛房覚明は、8代海野小太郎幸親の子で、小県郡海野庄に一宇を建立した。
 西佛房の子に、浄賀と浄宣がおり、浄賀の系統が塩崎康楽寺となり、浄宣の系統が東町康楽寺となった。
 善敬寺は、古くは善教寺と書いていた。
 応永4年(1371)本願寺3世覚如の著作「本願妙」を、その子・存覚から書き写して授与されている。
 天正5年(1577)における織田信長の石山合戦の時、当国の本願寺末寺および門徒25カ寺が康楽寺の2百10俵を筆頭に、それぞれ兵糧米を寄進した。その中に、当寺も10俵1斗のコメを本願寺に送っている。
 寺には石山本願寺を建立した蓮如の子・実如や、その孫・証如の花押のある「御文」等も現存している。
 四囲には堀がめぐっていたが、慶長年間に長沼街道が整備された。樹齢900年と言われる、長野市天然記念樹の「大いちよう」がある。
 前住職は海野浄英師。
 寺内に信行寺(右奥)・本覚寺(左入口)・浄専寺(左奥)・正宗寺の4寺を抱える浄土真宗がある。

auto_SmxEh3.jpg善敬寺

 浄専寺    善敬寺院内    

 浄土真宗大谷派  住職  海野正師   寺紋州浜・結び雁がね
          前住職 海野弌美師       ☏026-241-4062
 文禄2年(1593)、塩崎康楽寺12世浄祐の子浄専が創建する。
 本堂は破壊せざるをもって、安政7年(1860)の建立である。

 延命観音寺   長野市大字西長野1169-1

    曹洞宗  住職 眞田卓宗師

 浄泉寺    長野市大字吉1553

    曹洞宗  住職 真田法海師

 善松寺    長野市大字南長野本郷216

    曹洞宗  住職 真田清史師

 方廣院    長野市大字入山1710

    曹洞宗  住職 常田秀孝師

 白鳥山報恩院康楽寺  長野市東町163-1   

 浄土真宗本願寺派  住職  26世海野正信師  寺紋州浜
                        ☏026-232-3098
 西佛房覚明は、8代海野小太郎幸親の二男として保元2年(1157)に生まれ、幸長と名のった。甥には、木曽義仲の子の身代わりとなって義高の鎌倉脱出を助けた、10代海野小太郎幸氏がいる。幸長を行長と同一とし、「平家物語」の作者信濃前司行長は幸長のことだとする説がある。
 行長は初め木曽義仲に従っていたが、義仲の死後は比叡山に登り、慈円に学んだという。やがて親鸞の弟子となり、小県海野庄(現在の東御市)に康楽寺を開祖した。戦国期の建暦2年(1212)3月25日に長谷の地(塩崎)に移転し、塩崎康楽寺とした。
 天福元年(1233)に西佛房の三男浄宣がここに住み、寺号を広敬寺とした。
 永禄期(1558~69)に火災により全焼した。
 寛文5年(1665)11月12日西本願寺から康楽寺の寺号を与えられた。
 宝永10年(1760)4月22日下掘小路出火。427軒が焼失したが寺は焼失から免れた。
また、宝永11年(1761)3月28日出火し焼失し、現在の本堂前南傍に御災所の石碑がある。弘化4年(1847)3月24日の善光寺大地震のときも焼失している。翌嘉永元年(1848)に再建された。明治19年(1886)に本堂が完成した。
 また善光寺周辺が大火にあった時、康楽寺の庫裡が長野学校の仮校舎として使用された。

 開 基  西佛房 仁治2年(1241)1月28日寂 85歳
 第2世  浄 宣 正応元年(1288)2月13日寂 82歳
          浄賀法眼の弟で浄空ともいう
 第3世  西 念 寺号を広敬寺と賜る
 第4世  了 泰
 第5世  源 智
 第6世  雲 瑞 文明8年(1476)4月13日寂
 第7世  舒 照 文明16年(1484)10月12日寂
 第8世  了 西 弘治元年(1555)3月28日寂
 第9世  了 善 慶長2年(1597)1月16日寂 永禄年中(1558~59)全焼 
 第10世 了 動 元和9年(1623)10月15日寂
 第11世 了 信 寛永7年(1630)9月8日寂
 第12世 了 教 寛永13年(1673)2月5日寂 (法名 高顕院釈涼信了教)
         塩崎康楽寺が東本願寺派に転属したので、
        文5年(1665)11月12日本山より広教寺に康楽寺の寺号を賜る。
         坊守 (法名 智光院釈貞静妙順) 貞享3年(1686)2月5日寂
 第13世 了 誓 延宝9年(1681)3月14日寂 (法名 聞名院釈智眼了誓)
 第14世 玄 慧 貞享3念(1686)3月5日寂 (法名 般舟院釈智淵玄慧)
         坊守 (法名 香厳院釈智誓妙教) 貞享4年(1687)2月20日寂
 第15世 了 慧 宝暦11年(1761)9月29日寂、火災後本堂再建の途上亡くなる
         (法名 証理院釈巨海了慧)
         坊守 (法名 光照院釈貞香妙慧 宝暦11年(1761)6月28日寂
        吉田村善教寺(長野市吉田)より入寺、火災にあい半月で亡くなる
 第16世 了 意 天明2年(1782)5月13日寂 (法名 応報院釈浄念了意)
         宝暦の火災の本堂等再建復興する。
         坊守 (法名 誠実院釈貞慶妙意) 寛政元年(1789)8月13日寂
 第17世 了 智 文政10年(1827)6月19日寂 (法名 無畏徳院釈浄慧了智)
   70歳。安茂里村小市(現在の長野市安茂里)称名寺より入寺し旭山と号した。
         称名寺は、佐々木盛綱の開基、
         承元4年(1210)腰村(現在西長野新諏訪)
         坊守 (法名 恭敬院釈貞信妙智)文化6年(1809)8月13日寂 
         後町の正法寺(現在の長野別院)より入寺する。
 第18世 浄 瞱 天保8年(1837)6月1日寂 (法名 東岳院釈寛了浄瞱) 53歳
     坊守は、浄瞱が亡くなったので郷里の越後高田御屋敷の村上家に帰る。
 第19世 浄 智 天保15年(1844)7月15日寂 (法名 柔軟院釈智聞道) 
   51歳 養子。後町正法寺より入寺し、俗名を喜登といい、子供がなかった。
         坊守(法名 浄顔院釈喜春貞了)天保8年(1837)1月8日寂
 第20世 了 浄 弘化2年(1845)12月10日寂(法名 歓楽院釈了浄速証) 50歳
         第17世了智の子供で、住職になって一年足らずで他界する。
 第21世 観 月 明治19年(1886)4月23日寂
         (法名 清涼院釈観月隆紹大法師) 63歳
       越後直江津の勝蓮寺住職古河玄琳の次男、文政7年(1824)生まれ。
         天保15年(1844)当山に入寺、妻は千年といい7男5女いた。
         弘化4年(1847)3月24日に大地震、堂宇・庫裡など全焼。
         死者は町民1400人・旅人1000人余り、焼失家屋3000戸。
         明治12年(1879)1月に本堂再建に着手する。
     坊守千歳 (法名 智行院釈妙覚理証法尼) 大正7年1月9日寂 80歳 
 第22世 浄 峰 大正9年(1920)9月30日 
         (法名 開明院釈慈然浄峰大法師) 66歳
          第23世英俊の実兄である。
     坊守伊佐江(法名 闡道院釈応念静海法尼) 昭和15年2月5日寂 75歳
 第23世 英 俊 昭和23年2月1日 (法名 浄楽院釈英俊法師) 70歳 
         坊守いさえ
 第24世 宣 証 昭和4年高田市寺町の高見山願重寺より入寺する。
         坊守孝子 第23世英俊の長女
 第25世 浄 雄 
 第26世 正 信 現在
auto_4kIGMA.jpg康楽寺
 

 白鳥山報恩院康楽寺 長野市篠ノ井塩崎角間3429 

 浄土真宗本願寺派 本尊 阿弥陀如来 住職 海野幸親師 寺紋 州浜
                          ☏026-292-2465
 寺の開基は、親鸞と苦楽を共にし、真宗の創業に尽力した西佛房である。
西佛房は、俗名を海野通広と言い、小県の名族、8代海野小太郎幸親の二男で、保元2年(1157)の生まれ、仁治2年(1242)85歳で死去した。
 京に上って院御所に仕え、勧学院進士から文章博士となり、進士蔵人通広と称した。後に、出家して南都興福寺に入り西乗坊信救と称した。
 治承4年(1180)園城寺(三井寺)が、以仁王の平氏追討の令旨を奉じ、南都に送ったとき、信救は、その返事を書いた。その書面に、平清盛大いに怒り、信救は、南都にいれずに東国に赴く途中、平家追討のため東国から都へ攻め上って三河国府にいた源行家に会い、行家の陣中に加わった。行家が源頼朝と不和になり、木曽義仲のもとで軍師として平家追討に功があり、大夫房覚明と称した。
 寿永3年(1184)義仲の滅亡後、箱根山に隠れたが、比叡山の天台座主大僧の門に入り、円通院浄賀と改めた。後日法然の弟子となり浄賀は名を法眼と改めた。
 小県海野庄白鳥に一庵を創立し、建暦2年(1212)3月、更級郡長谷の地にも草庵を修した。
第2代 浄賀は絵をよくし。弘安3年(1280)本山より康楽寺の郷を許される。
第3代 浄耀宗舜大僧都
第4代 浄蓮大法師
第5代 浄明信宗法橋
……
第11代 浄林
第12代 浄祐
第13代 浄専
第14代 浄教 弘冶年中(1555~57)塩崎の現在地に堂宇を建立したと言われている。
                         〈『信濃宝鑑』より〉 
……
第28代 昭親 
第29代 協親 
第30代 幸親 現在に至る

clip_0103.jpg 長野市塩崎の康楽寺 

 川中島の戦いの始まったころ、この辺の寺は、西方の山中などに難を避けたと言われる。
 康楽寺が戦火の中、同じ地に存続したのは、寺に残された武田信玄の花押のある古文書が物語る通り、武田家の名声と信仰を利用出来たことによるものと、思われる。 

海野山報恩院専精寺 長野市篠ノ井東福寺648 

   浄土真宗大谷派 本尊 阿弥陀仏 住職 23世海野教恵師 寺紋州浜
                        ☏026-292-1128
 海野西佛房覚明の開基による。
 康楽寺11世浄林の二男尊祐が専精寺の住職となった。
 12世 尊祐 埴科郡土口村北山に永禄12年(1569)一宇を建立した。
 13世 玄祐 元和元年(1615)更級郡小森村に移転した。
 14世 玄長 天和2年(1682)本尊阿弥陀仏の許状、親鸞の絵像を受けた。
 15世 恵長 当寺飛檐地に昇階する。享保20年(1735)本堂造立した。
 16世 慈界 寛延3年(1749)蓮如上人絵像受ける。
 17世 恵賢 安永9年(1780)梵鐘及び鐘堂造立する。
 18世 権津 空山と号し、書・漢詩・砲術に上達する。
 19世 恵雋 安政5年(1858)余地間に昇階する。
 20世 徳雲 明治13年4月現在地に移す。
 21世 貞純 大正2年(1911)10月親鸞聖人700開基法要した。
 22世 俊恵 小学校の奇要因を務め、39歳死去した。
 23世 教恵 本堂を改修し、現在に至る。

auto_0LZaIM.JPG専精寺

上宮寺 長野市篠ノ井塩崎

 浄土真宗    住職 海野幸親師  寺紋 州浜
 塩崎の康楽寺と同じだと思われます。詳細は調査中です。

白鳥山報恩院証蓮寺 長野市松代町寺町1301 

    浄土真宗大谷派  住職 海野良澄師 寺紋 州浜・結び雁がね
                        ☏026-278-3398
 塩崎の康楽寺の開山西乗坊信救、すなわち西佛房覚明のことで康楽寺2世浄賀の開創という。はじめ、永仁年中(1293~98)更級郡東条村に一宇を建立し、第2子浄応のとき白鳥山報恩院証蓮寺と号した。
 永禄2年(1559)10月3日 武田信玄の制札あり。
 天正10年(1582)4月5日 森長可の制札あり。
 慶長年中(1596~1614)に大久保長安の寺領寄進状などがあり、現在地に移る。
 安永8年(1779)4月の類焼によって焼失した。
 前々住職 海野忠英師
 前住職  海野昭親師
 
          auto_vE4Hqd.jpg証蓮寺

報恩山白鳥院浄蓮寺 長野市川中島町四ツ谷263  

  浄土真宗本願寺派  住職 26世祢津宗伸師  寺紋 月雁がね
                       ☏026-284-4527
 建暦2年(1212)僧・敬佛が開基創建した。
 敬佛は、祢津城主・祢津神平貞直の弟、民部丞時直で、建久3年(1192)薙髪して、笠置寺解脱の弟子になり、正願という。のち見真大師の門に入り、名を敬佛と改め、本寺を創建した。
 慶長年代(1596~1614)松代城代・花井遠江守吉成によって、上堰・中堰・下堰が開発され、四ツ谷村は、その堰守を命じられた。
 文政7年(1824)11月25日の夜、祝融の災(火をつかさどる神から転じて火事の意)により堂宇焼失した。
 弘化4年(1847)3月24日に、また善光寺地震により犀川決壊で四ツ谷村を直撃して全村流失の惨事に見舞われた。
 嘉永5年(1852)に仮堂を建て、明治20年(1887)本堂を建設した。
当山は創立以来、豊臣大閣の北殿、当山に帰依して奉納せられた金灯篭及び羽柴家より寄付の金灯篭は現存している。
 24世宗範師-25世睦生師-26世宗伸師

auto_19WJdO.jpg 浄蓮寺

仏智山明真寺 長野市松代町東条1127 

    真言宗豊山派                 ☏026-278-3967
    住職 海野栄子 福徳寺が管理している。詳細は調査中です。
 
 auto_b6GpOr.jpg明真寺

神峯名山興禅寺   長野市信州新町牧田中1889 

 曹洞宗 本尊 釈迦牟尼仏 創建当初は臨済宗
        住職 北村学爾師 ☏026-262-3520
 信濃国の牧官であった滋野系香坂宗清が佐久から移住し、初代牧城主(現信州新町牧之島、犀川の東側段上の高所)となり、見山崇喜を招いて正和年間(1312~16)に創建したと言われている。
 相当広大な規模の城郭を構え、周辺の牧を支配していた模様である。
更級郡下の牧原・中牧・南牧・須牧・北牧等7牧を支配経営してたと考えられる。
 崇喜は、円覚寺開山の弟子南禅寺6世仏宗禅師と号し、「本朝高僧伝」の中にも壇信の招きによって信州興禅寺初代一世となった。
 興禅寺2世黙庵の時、南北朝の建武2年(1335)6月23日、大塔宮護良親王は足利直義によって、中先代の乱で鎌倉において殺されるが、その遺命によって興禅寺の仏殿が建立されたとも寺伝は記している。
 建武中興のころ、護良親王と興禅寺との関わりは、現在の寺の入口門柱に
 「大塔宮 妙法印宮奉祀所 嵯峨御所祈願祀所 護国王院四箇衛場」の銘文が刻まれているが、南朝大塔宮護良親王の因縁ある寺として伝えられ、『大塔記』には、南朝に奉仕した香坂氏は、北朝方の南信小笠原長秀と抗争したことを伝えている。
 興禅寺蔵「鐘銘写」には康応2年(1390)3月、5世道詮のとき、大檀那・香坂宗継(左典厩滋野宗継)から大梵鐘を寄進され、牧城主の庇護を受けている。
 その鐘銘には、
 「信州更級郡神山興禅寺新鋳蒲牢 因而為之銘
     空門大器 法海長鯨 閻浮教休 即有聞声
     昏沈夢破 転飜迷情 雅簨雅簴 永同不傾
     旦那繁昌 山門安寧 竜天護持 神明褫成
   干□  康応2年庚牛3月吉日
            大工   左衛門太夫朝氏
            大檀那  左典厩滋野宗継
            当代   住持 比丘道詮 」とある。
 11世来応の代には、兵火に罹り、山門・僧堂・鐘楼・五重塔等が完備し、塔頭も久昌寺・正法院など諸堂焼失し、明応6年(1497)来応寂滅後は、あとを継ぐものがいなかった。そこで、平寺寺道元10世の孫であり、上州長源寺4世で佐久龍雲寺開創天英祥貞の弟子である如麟は、香坂氏の委嘱をうけて刻苦し、当寺の再興を図り、師の祥貞を招請し中興開山とし、以後は曹洞宗となる。 
 その後、如麟は2世となり、龍雲寺4世まで代々興禅寺の住持を兼ねていた。また、小諸の正眼寺・長沼の妙笑寺・須坂の興国寺とは同開山同分寺である。
 香坂氏は、弘治2年(1556)ころ、武田晴信によって八郎丸之郷(現在の松代町皆神山麓)に配置替えされた模様で、代わって深志城将馬場美濃守信房の管轄となった。
 永禄9年(1566)牧之島城を築き、興禅寺の大檀越として帰依に篤く、その隆盛に寄与した。 

auto_XhhxdG.jpg 興禅寺

白鳥山本覚寺 長野県千曲市倉科1050 

                      ☏026-272-2224
  浄土真宗本願寺派 本尊阿弥陀如来 住職 海野秀彦師 寺紋州浜・雁がね
 海野玄秀師は平成28年9月17日に死去(89歳)されて、同年11月16日に同寺で葬儀。長男の社会福祉法人「杏の郷」理事長の海野秀彦師が引継いだ。
 創始を相州鎌倉の住人、鎌倉権五郎景政の開基と称しているが明確ではない。 天台宗であったが、住僧・唯圓入寂の後、その後を継ぐ者がなく、廃寺になった。檀家ら相計って、康楽寺開山西佛房覚明の子、浄賀の三男浄玄(正和2年(1313)生まれ)を請じて開山住職とし、以後真宗となった。
 13世誠玄に至り、明暦3年(1657)松代藩主・真田内記より旧縁を以って境内1町2反歩が寄付された。
 寛保2年(1742)の洪水にて山岳崩壊し、寺の堂宇等が倒壊した。
宝暦5年(1755)、18世白玄の代に庫裡を再建した。
 安永7年(1778)4月、19世玄順の代に本堂を再建した。
 玄英師-玄秀師-秀彦師

          auto_lPElXz.jpg本覚寺

龍燈山五大院長雲寺 千曲市稲荷山町2239 

                         ☏026-272-3730
    真言宗智山派   住職 26世海野慶宗師  寺紋州浜 
 元暦年間(1180)高野山龍光院の快照大徳が当地を巡錫の不動の霊夢により、将軍塚の辺りに龍灯が見えたので、この地を結縁の地と認め龍灯山長雲寺を開創した。
 天文年間(1510)兵火により焼失する。その後天正17年(1590)鎮雅和尚(松代藩出身)が住職として派遣されたときに仁和寺末の縁を結び、さらに宝永年間(1700)には仁和寺より良玄和尚(上田藩家老)が住職として赴任され、正徳5年(1715)には仁和寺27世守恕法親王より本尊として五大明王並びに愛染明王と阿弥陀如来の7躰を御寄進賜って五大院稲荷山長雲寺の号を拝領の令旨を受け中興開基となる。
 寛政年間(1790)大伽藍を建立し、上田城主・伊賀守松平源頼公を願主となり領地内一帯の祈願所として配礼を許され、寺が勢大に振わった。
 弘化4年(1748)当地を襲った地震により伽藍など消失するが、幸い仏像は難を免れた。その後、仮建であったが、明治22年(1889)に良雅和尚(元国会議員故倉石忠雄氏の祖父)代に現本堂を再建する。
 明治40年(1907)真言宗智山派に転派し、昭和40年秋より伽藍を境内地に改修工事をする。23世海野慶明、24世海野慶豊、25世海野慶雲と続いている。

auto_2wkYEF.jpg長雲寺 

桑原山龍洞院   千曲市桑原2136  

   曹洞宗 本尊 釈迦牟尼仏 脇立 大聖文殊菩薩・大行普賢菩薩 
   住職 南澤道友師               ☏026-273-1685
 応永年間(1394~1411)如仲天誾禅師が、旧址の桑原観音堂に泊まり、北山に登ったところ、西北に竜の臥するが如き峯があり、奇勝絶佳の地なので、村上氏に属する郷士・桑原左近大夫が如仲天誾禅師と協力して一宇を建立し、龍燈寺と名付けた。
 如仲天誾禅師は、小県海野氏の出で、後に応永18年(1411)総持寺に出世し、永享9年(1437)寂した。桑原左近大夫は死後、龍洞院に葬られ、「戒名 龍燈寺院殿乾雲雷音大居士」。
 寺は、その後、兵火に罹り荒廃したが、永正元年(1504)桑原左近将監(桑原左近大夫の子)が、父の菩提のために、如仲天誾の7世法孫大陽一鴒を請じて寺を現在地に移し、桑原山龍洞院と改称した。 
 大陽和尚が中興開山である。ちなみに桑原左近将監は、天文7年(1538)6月9日に没し、「戒名は桑原院殿雷峰一音大居士」墓が境内にある。
 その後、天正年間(1573~91)焼失。貞享年中(1684~87)旧松代藩士・祢津直治が再建中興した。
 天正15年(1587)上杉景勝の臣稲荷山城将・小田切備前守昌安から、また、慶長9年(1604)7月海津城主・松平忠輝から寺領が寄進された。
 慶安2年(1649)8月には、幕府から朱印15石を与えられ、寺中山竹林諸役が免除されて格式を誇った。
 現在の本堂は梅峯代の安永元年(1772)9月上棟、大工は越後国出雲埼の義右衛門である。

auto_I3Ri0f.jpg 龍洞院

白鳥山報恩院浄楽寺  上田市中央5-5-2(上房山) 

 真宗本願寺派 本尊 阿弥陀如来 住職25世滋野眞師 ☏0268-22-3374
 西佛房信救が開創、西佛房信救は、俗名海野通廣といい、8代海野幸親の二男である。はじめ京に上り、後、木曽義仲に仕えて、軍略に参加した。
義仲の滅亡後は、箱根山に隠れた。比叡山の慈円の法席に臨み、名を円通院浄寛と改めた。同地で範宴(親鸞)と知り合って弟子になり西佛房信救と称した。
文暦元年(1234)ころ、親鸞の命により信濃に帰り、小県郡海野庄白鳥に一宇を創建する。
 西佛房信救の長子・浄賀が、塩崎角間に寺を移し、宗教弘通の道場を開設する。これを浄賀の弟の浄救に附し、その長子2世浄楽が暦応元年(1339)に塩崎角間に一宇を創立し浄楽寺と号す。
 延宝6年(1678)、14世峯仙の時に、上田市常田庄房山に移し現在に至る。
 22世 實音
 24世 正美(明治36年1月6日生れ)
 25世 礼一
 26世 眞
 寺の宝物に次の古器物がある。
1、六字名号 一幅
  宗祖見真大師の筆 器用と五条西洞院花園坊にて開基西佛房師令による。
 天福元年(1233)正国は、信濃に下向の際親鸞聖人より懐中佛として授与する。
2、古印 印文万字形 丸釼獅子環附重量
 木曽太夫坊覚明所有物にて、元暦元年(1184)高野山に隠没の際に
  高嶋広教に授与した。
 建暦3年(1213)高嶋広教より覚明の遺族のものなので当寺に寄付する。
3、古石 小県郡海野鎮座白鳥神末社子安神白属物 自然石 重量1貫2百匁
4、大夫房覚明の位牌と『白鳥山法物縁起』なる一冊の古文書

         auto_dJWbl8.JPG浄楽寺

大智山金剛院海禅寺 上田市中央北2-77-55 (房山新田)

  真言宗智山派 本尊 大日如来  住職 飯島俊勝師  ☏0268-22-2972
 海禅寺の歴史は古く、創建は奈良時代にさかのぼる。承平5年(935)5月に、海野の郷(現東御市海善寺)に一宇を建立された。親王の法号をとって「海善寺」と号した。(天慶4年(941)1月20日 海善寺殿滋王白保大禅定門)
 天延年中(973~5)に滋野氏の後裔である2代海野幸恒が再建したと伝えられ、東信濃きっての名族海野氏の祈願寺である。海善寺の集落の西側に「海善寺址」があり、大坊・大門という地名も残されている。由緒ある、大寺(10坊)であったと伝えられている。
 武田信玄は、天文年中(1532~54)信濃へ侵攻してきて、小県郡下を平定した時、願文や安堵状を揚げたのが、名社の生島足島神社で、次が海善寺で、永禄5年(1562)11月7日に祈願所とし、寺領のほかに隠居料5貫文を寄進した。翌年7月28日に十坊並びに、太鼓免36貫5百文を寄進された。
 その後、天正11年(1583)真田昌幸が上田城築城の際、城下町を築く際、その中心に海野町・原町を築くる。海野の人々を海野町へ移住させる。海野から幾つかの寺社も移され、城から見て東北にあたる鬼門除けとして海善寺が移された。寺名は「海禅寺」と改め、住職は誓陵が中興開山となった。
 慶長6年(1601)8月には、真田信之から24貫文の寺領が寄進されている。

          auto_InFitv.jpg 海禅寺(上田市)

 元和8年(1622)、真田信之は松代へ移封を命じられ、海野郷にあった白鳥神社を移すことになり、同社の別当寺として、海禅寺住職の阿闍梨法師5世尊海を伴い、松代西条の現在地に一寺を建立する。その時信之は、真田氏の由緒ある寺の名を残し、ここは「開善寺」と改めたものと思われる。松代に移ってからも歴代藩主の祈願寺として厚い保護を受けた。
 慶安2年(1649)8月には、寺領として埴科郡西条村(長野市松代町西条)の内から50石を、幕府から朱印地としても与えられ、藩からは御祈祷料120俵、大般若料金11両1分が進献された。
 寛永年代(1624~43)に焼失したものの、慶安3年(1650)8世俊栄の時に、再建され現在に至る。
 境内の経蔵は、
 寛保2年(1742)8月1日「寛保戌の大満水」と呼ばれた、記録的な千曲川大洪水の時は、水浸しになった松代城から、藩主一行の避難先として開善寺が選ばれた。
 文化10年(1813)白鳥神社に武靖大明神(藩主真田信之公)を合祀し、社殿の再建。その後、騎射奉納の事が始まる。開善寺の大門先に東西12間(21.6m)南北108間(194.4m)の馬場が設けられ、騎射・流鏑馬等が盛大に行われた。その馬場は幕末期に大砲や小銃の射撃演習の場として使用された。
 山腹にある経蔵は、宝型造り茅葺屋根で、万治3年(1660)の建築で内部の八角輪蔵(回転する経本を入れる棚)には、天海版一切経6,323巻が納められている。  県下最古のものとして、昭和41年10月県宝に指定された。
 宝物 弘法大師筆五大尊の軸物
    滋野親王の遺物楊柳観世音の軸
 上田市新田 大智山海禅寺 京都智積院末
 長野市松代 金剛山開善寺 本尊 地蔵菩薩 〈松代町誌より〉

auto_Ner3pZ.JPG 開善寺(松代町)

望富山陽泰寺   上田市大字上野2463(伊勢山) 

  曹洞宗 本尊 釈迦牟尼佛 住職 第25世小林逸元師  ☏0268-22-8628
 戸石城を背に山麓の南面にあり、この戸石城は戦国時代に村上・武田両氏の争奪の場となり、武田方武将の真田幸隆に攻略された。
 寺伝によれば創建は古く、奈良時代加賀白山の僧泰澄が、当地に庵を創る。後に行基が、その徳を慕って訪ね、泰澄養心の義から養泰寺と名づけたという。貞観年間に善淵王は当寺に帰依し、田地を寄進し、山号を向富山と命名し開基となった。後に善淵王の子孫は海野氏と称し、特に4代海野幸真公は、田地を寄付した功績により、海野氏の菩提寺、養泰院の中興開基となった。
 裏山に「養泰院殿笑岩道讃庵主」の墓がある。
 鎌倉時代に建長寺開山の蘭渓道隆が当寺に巡錫したことに因み、当寺は臨済宗となる。将軍源実朝からは、500貫の土地を賜ったという。
 室町時代の明徳5年(1496)甲州の曹洞宗広厳院から龍州玄白大和尚が当寺に普山し、養泰寺の開山第一世となる。
 天文4年(1535)第27世海野幸棟公が山林・田畑を増した功徳により、養泰寺の中興開基とされる。
 慶長6年(1601)戸石城主・真田信之公が、五百貫文を寄付した。
 享保12年(1727)第10世仏州自白大和尚に本堂を修理し山号を望富山、寺号を陽泰寺と改め、中興の祖となった。
 安永3年(1774)第十三世眼月慈雲大和尚代に鐘楼・庫裡を新改築。文化5年(1808)第15世絶宗法宣大和尚代に壮麗雄大な山門が再建する。
 昭和38年、第23世祥岳逸雲大和尚は、全伽藍の屋根替え・布教の充実等により重興の称号を賜った。
 平成7~10年にわたり、前住職第24世瑞雲元亨大和尚(平成30年6月29日卒 90歳)は、創建五百年を記念して、本堂・山門・鐘楼の改修を、位牌堂・座禅堂・客殿・庫院の新築を完成した。また寺の城址の高台からは、遠く富士山が望め絶景である。〈写真集曹洞宗東信の寺院(グリーン美術出版)より〉

auto_IxwBCM.jpg 陽泰寺

祥雲山洞源寺 上田市大字住吉1691(金剛寺小字荻久保)

    曹洞宗  住職 小林逸元師 
    本尊 釈迦牟尼仏  境内 約250坪
 第96代後醍醐天皇の元弘2年(1332)に、第22代海野兵庫頭幸則公(元弘3年(1333)没、法名洞源院殿無山道一大居士)により開基と伝えられている。
ここは、上田盆地としても10指に数えられる貴重な石造文化財の2基が現存している。
 1、貞治2年(1363)2月15日在銘の宮石塔
 2、永和5年(1379)4月在銘の宮石塔の台石
共に南北朝時代の年号である。 
 開創当時の宗派は臨済宗、山号は養命山と号し、寺名は不詳である。その理由は、天文10年(1541)に海野氏を神川に滅ぼして当地に入部してきた村上義清が、海野氏ゆかりの寺域を徹底的に破壊してしまったことによると考えられる。
 慶長5年(1600)の頃、金剛寺村居住の田中藤左衛門氏によって、ここに小堂が建立され、法灯が燈された。まもなく陽泰寺の第5世白州梵徹大和尚が招かれて普山し、曹洞宗祥雲山洞源寺が発足。以後は陽泰寺の末寺となった。
 その後、元禄8年(1695)染谷村の塚氏が寺域を修復し、興隆に寄与した。さらに天明元年(1782)上田町房山の富豪・兼子七郎右衛門が、当寺を全面的に改修して中興開基となった。現在の本堂・山門は兼子氏建立当時のものである。
 第二次世界大戦後の農地法に伴い取り崩されたが、僅か檀家10軒の拠出金と金剛寺区民の格別な協力を得て、昭和53年に本堂の全面的改修・山門の修理を行った。
 昭和62年4月21日附近から野火が発生し、同寺に迫ったが、地域の人々の涙ぐましい尽力で何とか被害から守られた。平成4年に庫裡が新築された。

auto_vUJF9P.jpg 洞源寺

万松山法心寺 上田市大字住吉3146

  曹洞宗  住職 本庄宗通師
 寺の由緒によれば、10代海野小太郎幸氏が鎌倉時代の建久4年(1193)に没し、法名は建福寺殿見応道安大居士が開基し、祖先の供養のために建立した寺である。
この時、臨済宗であったが、天文年間(1532~54)戦国時代に兵火により焼失した。
正保年間(1644~47)江戸時代の前期に入り至って再建され曹洞宗「法心寺」と号し、開山は、陽泰寺9世能厳龍芸大和尚で、当寺は、以来陽泰寺を本寺としている。

潔泉山全宗院    上田市芳田2262-1 

 曹洞宗 本尊 釈迦牟尼佛 住職20世柴田一弘師 
              寺紋武田四陽菱 ☏0268-36-3108
 武田信玄の第二子、武田竜宝が海野家遺跡相続し、海野竜宝として、この辺を領した。この地の清らかな泉を愛されて、仏に仕えて菩提を弔い、庵を建て、潔泉院とした。その後、武田氏は滅亡、海野竜宝もその生涯を終えた。(戒名 潔泉院殿竜宝善宗居士)
 その後、本海野興善寺第7世通山全達大和尚が開山となり、慶長15年(1610)海野竜宝(同寺に、その位牌がある)を開基とし、潔泉山全宗院として再興された。
 開基に家紋の武田四陽菱の紋をこれより掲げたとされている。
享保3年(1718)本堂を焼失、明治23年にも火災に遭い、大正4年に16世秀岳宗俊大和尚により、今の本堂が再建された。昭和55年には開山堂兼位牌堂、平成7年には庫裡が新築された。
 当院の歴代住職
 開山 通山全達大和尚 本海野興善寺第7世開山
 2世 燈傳村龍大和尚
 3世 月海義光大和尚
 4世 大空燈門大和尚
 5世 智鏡恵泉大和尚
 6世 大蟲希雄大和尚
 7世 全関大堤大和尚
 8世 玉中恵金大和尚
 9世 縁戒観随大和尚
 10世 素学智紋大和尚
 11世 正瞳活眼大和尚
 12世 雲外玄龍大和尚
 13世 道改仏眼大和尚
 14世 黄山察玄大和尚
 15世 黙室弘道大和尚
 16世 秀岳宗俊大和尚 中興開基
 17世 白翁慧鳳大和尚
 18世 秀鳳次雄大和尚
 19世 儒玄善達大和尚
 20世 柴田一弘師(現住職) 本海野の興善寺29代柴田善亮師の二男

auto_MtlK7T.jpg 全宗院

天王山護国院龍法寺 上田市芳田245

  護国寺末真言宗富山派、住職 大平稔雄師
 創立年月は詳でないが、元は海野氏の創立と言われる。小井田村字鍛冶窪にあって、海野氏が秘蔵のタタラ師を隠匿していたという。寺は、その守護とされて、郷民の信仰が篤く信者も多かった。10代海野幸氏が清水冠者義高(木曽義仲の子)に従って鎌倉に行った。人質になった義高誅せられた時に果敢に義高を守ろうとした。その豪謄さと卓越した弓馬の技を買われて、源頼朝の竉遇を受けるようになった。頼朝の浅間の牧狩りに、幸氏は秘蔵鍛冶を頼朝公に献じて武器の修理を行わせたという。当地に一人の鍛冶屋が残された。驚いた鍛冶屋は現在の東御市和地区のタタラ堂に逃避したという。そこで後世に、この地を鞴師(たたらし)の名を残して「タタラ堂」と命名されたと言われている。
 残された住民と寺は、小井田に下って龍法寺を建て、その地には「上荒」または「上番屋敷」と「鍛冶窪」の地名が残っている。
 後の、天文10年(1541)28代海野棟綱が神川から敗走した時、龍法寺も武田氏に焼かれて運命をともにした。天正年間は廃寺となっていたが、慶長10年(1605)明覚上人が中興したと伝えられている。海野氏創立より幾度かの変遷を経た。詳でないが檀家、寺領のない寺は、廃寺にせよという徳川幕府の意向があったものの、龍水寺の末寺として余命を繋いだ。延享3年(1746)火災になったので再建。明治2年上田騒動の際に、林之郷無宿者の付火で焼失したが、明治3年4月庫裡再建、以来幾星霜念願かなって栄山上人が昭和11年に本堂再建した。
昭和30年栄嶽師が、矢沢陣屋の門が、修道学校豊殿学校として長い間、修養の学校門であったのを移転改造山門として建立、異才を放ち完成する。真言宗社会で再度の修養修験の道場として美観を呈した。昔は柴崎城の菩提樹と伝えられている。
  〈昭和32年9月1日発行、宮下昌太郎著「信仰と伝説」より〉
 現在は殿城赤坂の瀧水寺の太平稔雄住職が平成8年から兼務している。

auto_LcljzY.jpg龍法寺

功徳山弘誓院願行寺  上田市中央2-16-14   ☏0268-22-2993

 浄土宗京都知恩院末、本尊 阿弥陀如来像 住職 藤倉泰弘師 寺紋梅鉢 
 上田市指定有形建造物(昭和43年4月25日)四脚門 
 願行寺の開祖松誉上人(鶴蓮社竹桐笈香)は、武州品川(現東京都品川)の人で、相州(現神奈川県)鎌倉の光明寺開山の善方(禅芳)上人の高弟であった。信州に来て小県郡海野郷岩下(現東御市)に住み、鎌倉時代より東信濃の雄として勢いのあった海野氏の当主30代海野幸義公り文学の師として、海野に一宇を開基し、功徳山弘誓院城巽林願行寺と号し、御父海野幸棟公の法名「「功潤徳崇大禅定門」大梁院殿と贈号し位所とした。すなわち師を請願して小県郡海野郷願行寺の開祖とする。
 海野において10,000坪の地所をもって寺領とした。
 天文10年(1541)、当時の29代海野左京太夫幸義公は武田信虎・村上義清・諏訪頼重の侵攻により討死、境内もその兵火にかかり、多くの堂宇・寺宝・記録などが、燃えてなくなった。唯一本尊である阿弥陀如来像なのが難を逃れたという。庇護者である海野氏が没落し、海野郷の願行寺も衰微した。幸義公の法名は「光厳寺殿龍團宗澤大禅定門」で、上人老いて、天文23年(1554)90歳にして寂する。
 第2世・命誉上人は、延蓮社存龍活雲と号し、泉州境(現堺市)の遍昭寺開山信誉上人の膝下なり、その後、願行寺第1世松誉上人の弟子となり願行寺に住み、姓氏行実(その人の行った事実)、弟子一人いて東誉上人なり、この人が第4世となった。
 第3世安誉上人は、生蓮社笈往と号して、武田家の請に応じて甲府帰命院開基した。慶長元年(1596)3月23日甲府にて寂した。
 願行寺第3世笈往(安誉)上人の開山あるいは再建・世代を継いだ寺は、次の通りである。
  西念寺(佐久市岩村田)
  歓喜院・功徳院・泉渋院(茅野市北山)
  心光寺・西光寺(茅野市豊平)
  柴雲寺・塩沢寺(茅野市米沢)
  正願寺・法光寺(茅野市岡村)
  称故院(諏訪市四賀)
  長久寺(上伊那郡伊那富)
  満光寺(上伊那郡高遠町)
  教安寺・帰命寺(甲府市東光寺町)
  願行寺(東御市海野)以上が笈往(安誉)上人に関係深い寺院であるという。
 第4世東誉上人は、日蓮社西応と号する。このころ寺は真田郷に移して(今も願行寺屋敷跡あり)、伊勢山にも建てた(願行寺洞という所あり)とあるが書史不明である。
 第5世笈誉道山上人は、崇蓮社はじめ頓蓮社と号す。甲州の人で武田の武族。その先祖は菅丞相(菅原道直)の末裔、武蔵野国多摩郡保谷の住人の三男なり、師11歳にして、甲府帰命院開山笈往上人の室に入る。功積みて両派(宗・戒)を川越の感誉上人より伝えられ、天正14年(1586)真田昌幸公が上田築城の際に請せられ、信州上田に甲府より道山上人笈誉を招いて5世住持中興開山し真田家の庇護により願行寺は再び隆盛した。

          auto_OZjaFL.jpg願行寺

  上田城築城の際、城内に寺域を持つ寺は願行事のみであったという。その後、城が手狭となり、いまの横町に10,000坪の境地をもって移建された。道山上人笈誉は上田願行寺(第一世)である。元和7年(1621)には、上田城下町整備のため現在地に再建されたが、その時の真田安房守昌幸墨付き一通及び天正14年(1586)堂宇建立につき除地の証などが寺に保存されているという。
 徳川秀忠の上田城攻撃の時、上人は昌幸、信繁父子とともに籠城したという。 この時願行寺は池田長門守が警護した。
 また、道山上人笈誉と信之公との友情は厚く、上人は法務の餘暇には常に上田城中で過ごした。その後、元和8年(1622)真田信之公が松代海津城に移る時、請われて松代願行寺(第一世)開基となった。上人は寛永4年(1627)寂した。上田在住36年の後の松代在住6年であった。
 上田願行寺の門は、堂宇の移転(海野郷から)と同時か、遅れても余りくだらない時期の建立と思われる。
 現在の四脚門は享保3年(1718)に再建されたもので切妻、本瓦葺〈安永7年(1778)に本瓦葺に葺き替えられた〉、正面の軒唐破風妻飾りを、はじめ全体として桃山建築の様式と風格を備えた重厚な建築物で昭和43年(1968)に上田市指定文化財に指定された。
 控柱は几帳面取で基盤をつけ、扉は乳付で木鼻をはじめ各所に彫刻を多用する傾向がみえる。

        auto_PSeO2O.jpg阿弥陀三尊

 銅造善光寺如来一光三尊立像 上田市指定有形彫刻(昭和43年4月25日)
  鎌倉中期から流行して、いわゆる善光寺仏の形式である。
 中尊(阿弥陀如来像47.5㎝)の納衣は通肩で、右手は施無畏、左手は下げて刀印をとる。
 脇侍の観音(32.8㎝)及び勢至(32.3㎝)の両像ともに宝冠を冠り、梵篋印をむすぶ。伝来は不詳であるが、製作年代は彫風から室町時代初期と推定される。
 小像ながら鋳上りは優れ、中尊・脇侍ともに型持穴が他と異なり、当時の鋳造の技法を知ることができる。
 上田城主最後の城主松平氏が、光照院のち願行寺に今も一族の墓が数基残っている。
 寺の本堂には本尊として秘仏善光寺如来一光三尊像が祭られていた。それまで観音堂に安置されていた一体の菩薩立像が文化庁の調査で鎌倉時代の初期に造られたことが分かった。
 阿弥陀三尊は、寛永2年(1625)から秘仏として念仏を唱えながら大数珠を回す行事「十夜法要」の時のみ檀家に公開されて来た。
 ヒノキの寄木造りで像の高さは52㎝。膝の上に施された金が今でもはっきりと残っている。
 また髪型は天平や白鳳彫刻を思わせる。腰を少しひねり右足を一歩手前に踏み出している。世の中の苦しみを自らが救おうとする滋味あふれる動きが感じられる。
 全体のバランスから考え、おそらく阿弥陀如来の左脇に置かれていたものだろう。
この像は市内に現存する鎌倉時代に造られた仏像の中では最も古いものに分類される。平成30年3月に県宝に指定された。〈『願行寺縁起』より〉

      auto_Qwx4JE.jpg;願行寺の唐破風妻飾門

(平成21年11月31日に富山大学松浦正明教授が講演会を開催された。その時の報告資料によると、享保15年(1730)に上田城下で大火が起きたとき、像を安置したお堂の前で火勢が鎮まったとの伝承から、「火伏せの観音」と呼ばれて親しまれてきたという。観音として願行寺本堂に安置されている菩薩立像は、造立時の本来の尊名は弥勒菩薩であった。この像は、仁安元年(1166)7月26日に関白藤原基実が24歳で没し、9月8日に、その67日仏事供養が弥勒菩薩像を本尊として、室・平盛子(平清盛女)のもとで行われたという。その際には、摂関家各庄々から折櫃1,300合の調進がなされたことが、機縁となって海野荘にもたされた弥勒菩薩下生像であると考えられる。13世紀、願行寺は海野郷にあった。海野郷は摂関家領の荘園であった。
割矧造りで面割玉眼の技法を駆使した現存最古の作例であり、また作風は、のちの慶派様式の先駆をなすもので、鎌倉彫刻成立の道程で、その原点に立つ作品として日本彫刻史に重要な位置を占める。従来鎌倉時代の仏像であるとされてきたものが、平安時代まで遡ることが判明した。

 ところで、松誉上人は信州に来て海野郷に住み、海野氏の当主30代海野幸義公の文学の師として、海野に一宇を開基し功徳山広大院城巽林願行寺と号したという。
30代(29代とも)海野幸義は「海野平合戦」で武田晴信・諏訪頼重らの連合軍に敗れ、神川で敗死した。海野願行寺の開基が武田晴信の信濃侵攻の頃であったとすれば、仁安元年(1166)7月26日に24歳で没した関白藤原基実と妻平盛子ゆかりの弥勒菩薩像(火伏の観音)が上田の願行寺に伝わっているのは事実としても、弥勒菩薩像が平安時代の作である、という事実が判明した以上、海野の願行寺開基以前に海野郷に何らかの寺があったのではないか、あったに違いない、と考えても不思議ではあるまい。(天文10年(1541)焼失)
 願行寺住職藤倉泰弘師は、海野史研究会の前会長(史研院教誉和遊居士)の法要の際、次のようなお話をして下さった。
「海野の方々なのでこのような話をするのですが、上田の願行寺は昔、海野にあった願行寺を上田城下に移したそうです。鎌倉時代の作と思っていた願行寺に伝わる弥勒菩薩像がこの頃、平安時代の作だと判ったのです。海野の願行寺は戦国時代の開基です。平安時代の弥勒菩薩像がうちの寺に伝えられていることは、海野の願行寺以前に、海野にすでに廃寺となった寺があり、その寺跡を継いだのが海野の願行寺だったのではないかと、考えるのです。その様な寺はあったのかどうか、ですが、一遍上人が来訪し滞在もした海野常照寺ではないか、と思っています。時宗本山の遊行寺の文書の中に何か手がかりになる文言がないか、いつか調べに行きたいと思っています」
その説は海野史研究にとっても、興味深い内容だと思わないではいられない。
これも前会長から託された課題のように思える。前会長からは「時宗教学年報第14」が託された。この本には橘俊道氏(当時、時宗教学林学頭)の「信濃路に幻の寺を求めて」と題する文が載る。氏は藤沢市の時宗遊行寺から海野にあったとされる常照寺跡を訪ねて海野に来訪されたのだった。 〈三、ものがたり「海野」 (七)一遍上人と海野常照寺 をご覧ください〉

向源寺 上田市常磐城2-9-2(新町)  

  本尊 阿弥陀如来 本願寺東派 
     住職第23世池田向一師 ☏0268-22-2468   
 向源寺の祖は、平家の出てある池田采女だと言われる。仁治2年(1241)一族郎党を引倶して小県郡小泉庄上田原に隠棲したが、相当の勢力を有していたと言われる。その頃、海野家の頭領が熊谷真実と共に親鸞の教えに恭順した。采女もまた親鸞に帰依し仏門に入って上田原に一宇を建立し、一族郎党の教化の道場として向源寺を興したという。
 池田家七代当主・向明に嫡男がなく、女子のみであったため、更級郡塩崎の康楽寺の次男浄空を入婿として迎える。この頃の本願寺第9代実如上人自筆の当寺所有の御絵像御本尊の裏書には、永正17年(1548)8月9日願主向源寺とあり、池田家八代が向源寺初代開基であろう。
 天文17年(1548)上田原を中心とし、武田・村上両軍の激戦が行われた際に、武田信玄の本陣となり、永禄9年(1566)8月14日武田信玄は、この寺の境内に陣営を執る事を禁じ、甲州方の家臣・三枝宗四郎の取り計らいで、竜丸の朱印状(現存は市指定文化財)を出し戦禍を免れようとしたが、その甲斐なく兵火にかかり、本堂・庫裡など、ことごとく焼失したという。しかし古文書・古記録をはじめ、寺宝などは危険が比較的早く予知できたので、郡下の安全地の支院等に搬出分散して置いたため幸に難を免れて殆ど全部現存している。
 寛永3年(1626)住職空意が上田原から現在地に移り堂宇を再建。教宣活動に誠意努力したが、完成に至らず。その後、宝暦6年(1756)12代廬伯の時に至って、漸く現本堂・山門・鐘楼・太子経堂等全部再建が成就した。
 第14代住職煥怊は学識広く、本山より寮司(りょうす)という学位を授けられ、また和歌をやっていたことから俳人小林一茶とは親交が深く、一茶が訪ね数年間をこの寺で過ごしている。京都本願寺学問所の長として上洛もしばしばで、雲華院大含・頼山陽・香川黄中等の諸名士との親交も深く、これ等諸名士の書翰類をはじめ多くの書籍類が所蔵されている。中でも黄檗版鉄眼の一切経は煥怊寮司上洛に求めたもので全巻揃っている。〈千曲二巻5号「一茶と向源寺」より〉  

auto_8kQdqH.jpg 向源寺

天照山日輪寺   上田市中央2-14-3(横町)  ☏0268-22-0571

 本尊 聖観音  住職 酒井泰成師   
 開創は天文14年(1545)、開山は興善寺3世用山光受大和尚、開基は、29代海野幸義公で、天文10年(1541)村上義清との海野平の戦でいで戦死したため、海野氏の守り本尊として寺に祀り、海野家の菩提を弔った。山門から真っすぐのところに観音堂「普門閣」があり、ここには海野家の守り本尊「観音菩薩」が安置されている。
 同菩薩は上田市指定文化財で毎年8月9日には「りんご祭」として賑わい、信仰を集めている。この日は一日で46,000日参拝した功徳があるという観音様の縁日である。
 この夜は、六文銭の紋所がついた「ほうずきちようちん」が並ぶ。この観音像は、本海野の観音堂に祀られていたのが上田に移されたのである。
 このお堂の右側には子安堂があり、左側には勢至堂がある。このお堂は、天明3年(1783)浅間山大噴火で犠牲になった人々を、弔うために海野町の仁右衛門が建立した。菩薩は、知恵の仏様で、右から如意輪・勢至・聖の観音像が安置されている。
 第26世中興泰仁鳳山大和尚により、現在の本堂・庫裡・山門・子安観音堂が再建された。
 境内には、江戸時代後期に、上田の地場産業に尽力した上田藩の実学者、経世家だった成沢寛経の墓があり、昭和53年(1978)に上田市指定史跡に指定されている。

             auto_zyClwi.jpg日輪寺

傳叟山月窓寺   上田市中央6-4-13 

  本尊 釈迦尼仏佛   住職 林利昌師 ☏0268-22-2249
 常田伊豫守隆水公の父は、28代海野信濃守棟綱公である。
 隆水は四人兄弟の末っ子で兄は死産、次男は上田城主真田幸隆、三男は矢沢綱頼であった。
 隆水は、兄幸隆と共に上州長野原の箱岩城主(現在の群馬県吾妻郡長野原町)となり、後に養子に常田家の家督を譲り、出家剃髪して月窓寺開基となったという。
 永禄元年(1558)開山の易叟周賢大和尚に帰依し、小県郡白鳥庄の常田の台に堂宇を建立した。
 元亀元年(1570)に戦火で諸堂焼失し、その後、現在地に移転再建した。
 元亀3年(1572)7月8日没する。(法名月窓院殿傳叟一天大居士)
 寺の境内に「赤松小三郎の墓」がある。天保2年(1831)上田藩士芦田勘兵衛の二男として木町で生まれ、18歳で江戸に出て、数学・測量・天文・蘭学や洋式砲術などを学んだ。
 慶応2年(1866)日本の兵制の基礎確立に貢献し、薩摩藩主(島津候)より講師として迎えられ、その時の教え子に東郷平八郎らの英才達がいる。
 慶応3年(1867)9月3日に、京都伏見で疑われて間違って倒される。享年37歳。

          auto_N4NPGi.jpg月窓寺

白山比咩神社 上田市上田二の宮(長島・蛇沢)

  祭神 白山比咩神 応仁天皇 神主 水科民英師
 元白山大権現と言われた。昔悪病流行の節、加賀国の白山の分霊を太郎山麓に誘致したと伝えられる。
 由来によると、越前国鳥羽村、本吉山万法寺(現在福井県鯖江市)の旧記に土御門院の御代、建仁元年(1201)、建仁3年(1203)に、当寺の住僧・賢信房が所望あって、長島村の白山社に参拝するとある。
 長享年間(1487~9)大悾源左衛門家長が隣村の安吉村に一城を築いて移住し……中略…………境内の位置老松の下に憩い末は千年の齢を保ち、また戦時には我領分を一目瞭然ならしめんがため物見の末と唱えて、当地の守護神として長島村用地の内3町歩を寄進したと古老より伝えられる。明治3年(1870)に、白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)と改称許可された。
         〈森田稲吉「白山信仰と真田氏の系譜」より〉

   auto_JOw3tc.jpg白山比咩神社
 
 また神社蔵遺文には、次のものがある。
 延喜4年(904)3月に、3代滋野幸明再建棟札
 治承4年(1180)2月3日に、木曽義仲花押が二通
 弘安元年(1278)に、大江佐泰(上田太郎)が再建棟木
 天文2年(1533)9月3日に、村上義清朱印
 天文17年(1548)2月10日に、武田信玄朱印
 天正11年(1583)8月15日に、真田昌幸朱印
 元和3年(1617)12月13日に、真田信之朱印

愛宕神社 上田市御岳堂三角地籍 

   神主 清住宗廣師
   祭神 軻遇突知神 火防の神 火伏せの神 疾病除け
 全国に800余の分社あり、多くの代議講があった。
 治承4年(1180)に、木曽義仲が依田城館からの挙兵・出陣に先立ち戦勝を占う「笠懸」の弓引きの儀式が社殿前で弓の名手8代海野幸親に命じて行ったと伝えられている。
 的を射った、その「矢じり」は源氏の氏神である「八幡神社」(現在上丸子の安良居神社)に奉納されたという。 〈丸子教育委員会より〉   

auto_kM8afZ.jpg 愛宕神社(上田市)

 この愛宕神社は、10代海野小太郎幸氏を祀っている。幸氏は、木曽義仲の息子義高を源頼朝への人質として鎌倉に差し出すときに随伴し、その武勇と忠勤心をかわれて、頼朝に認められ鎌倉御家人として仕えることとになり、海野氏の中興の人である。
 源頼光・義家ら新田氏を祖とする岩松遠江太郎時兼の三男が、上州新田荘金井郷(現在の群馬県太田市)に住んで金井姓を名乗った。この金井三郎長義は、元冠の役(1297)に肥前(現在の佐賀県)遠征した。
 孫の金井主水祐兼義は元弘の乱(1331年足利尊氏・新田義貞らにより幕府は倒壊した)後、鎌倉に居り中先代の乱(1335年北条高時の遺子時行が挙兵して鎌倉幕府を復活)で討死する。
 その妹が、22代海野信濃守幸則に嫁ぎ、その長男23代海野宮内少輔幸義、二男金井豊後守幸忠は、応永年間(1400)に小県郡岩下に住み、大塔合戦に海野・村上氏らと旧宮方として結集して圧勝した。
 この幸忠の曾孫に四郎兵衛重勝、その娘が真田弾正忠幸隆公の奥勤めをしていて産んだ男子が高勝である。
 幸隆の長男信綱・二男昌輝は武田の軍将として長篠の戦(1575)に出陣して討死している。三男昌幸が真田家を家督し、四男信尹、五男高勝は『一徳斎殿御事跡稿』によると金井の名跡を継承して金井宮内介高勝と称したという。
 高勝寺は甲府の恵運院から開山僧を迎え開基されたという。
慶長11年(1606)6月26日に、真田信之より、飯沼村原郷(現在上田市生田)に寺領3貫文を賜った。高勝は同年7月7日に没している。高勝寺は寛文年中(1624~43)に寺号を龍顔寺と改称された。
 高勝の子・金井六郎高次が丸子三角村の金井氏の祖である。天正11年(1583)1月と13年(1585)8月に岩櫃城の戦いで戦功を挙げ真田昌幸から感状をもらい、また13年7月16日には原郷14貫文・五和12貫文、9月17日には岩門17貫文・大屋16貫文を戦功により受領している。元和2年(1616)4月5日大坂夏の陣で戦死し、夫婦の墓は大輪寺に残る。
 真田家が松代に移封後、高次の子清馬は、松代に暮らしていたが、正保元年(1644)3月3日に病気で亡くなり大林寺に葬られた。
清馬が亡くなって、その子・嘉兵衛は浪人し貧窮し表具師となった。
その子・佐之助は、正保4年(1647)5月に三角村に金井四郎重勝の嫡男初太郎の子孫の金井伊左衛門に居候して帰農し、後に金井太郎兵衛の空き家に住んだ。その子孫の屋敷地から戌亥(北西)の方向に10代海野幸氏を祀る愛宕神社がある。
  〈郷土出版社「真田一族」松山記念館学芸員田中壽子より〉

覚明霊神 長野県小県郡青木村奈良本 

 池田城東生のが寄稿によると 
 霊峰瀧山に不動明王の祭られて居る事は、余程遠隔の人達にも知られているが、覚明霊神の碑の事を知る人は極めて少数であろう。
 下奈良本の人家を離れて蜿々たる山道を登る事20余丁にして一ノ瀧に達す、一ノ瀧の下方数間の瀧川の清流に一大巨石の横たわるものがある、其の上に建てられて居るもの即ち覚明霊神の碑である。
 余談になるが平成24年5月19日に青木村の尾沢薫明氏案内により宮下和友会長・桜井正敏副会長・武井一雄・武舍秀雄で残雪の残るぬかる山道をやっとこさ登り「覚明霊神」の碑を参拝した。その昔この付近で住んでいた人たちは長野市塩崎の康楽寺の辺に移り住み、その人たちは毎年お参りに訪れているそうです。
 
s_s_s_s_s_s_s_s_s_s_s_s_s_s_img_0194.jpg 覚明霊神

 然らば覚明とは、如何なる人であったか、覚明は、信濃国小県郡海野在の人、木曽義仲の重臣・海野平四郎幸広の兄、俗名通広、京都に出て勧学院文章博士となり蔵人に補任される。後出家して信救と号し南都興福寺の学僧たり、治承4年(1180)以仁王が平氏追討を企つるや興福寺は、またこれに応ず信救興って大に力あり、以仁王敗死するに及び清盛信救を求めて之を殺さんとした。
 信救逃れて信濃に入り義仲に仕へ大夫房覚明と称し、帷幄の中に在って参割する所多し、源平盛衰記に伝う
 『木曽殿伝わるのは、少々太夫殿幸に当国新八幡御賓前に近づき奉って、一戦を遂げんと。今度の戦勝たん事疑なし、但且は後代の為、且当時の祈に願書一紙社殿に進んで差出せばと存ず其相計らひ給いと伝、覚明馬より下り、木曽が前に跪箙の中より矢立取出し、墨筆に和して畳紙を染えて押開いて、古物を写すが如く案にも及ばず是を書す其状伝(状は之を略す300余言の大文字なり)覚明其日の装束には楬彬の鎧直垂に首丁頭巾して捃縄目の冑に黒ツ羽の征矢負ふて3尺1寸の赤胴造之太刀を帯塗籠藤の弓脇に挟で左の手に願書を捧、右の手に書を持てぞいたりける。
 哀文武両道の達者哉とぞ見えたける』云々
 義仲敗亡の後、信州に隠れしも、建久6年(1195)叡山に登り、慈鑑和尚の法席に列し後親鸞上人の弟子となり始終陪従具に幸惨を営む、上人の為に信任せられ、文暦元年(1234)に信州地方の布教を命ぜられ入信説教する。
 活仏として諸人の渇仰を受けたる人、更級郡塩崎村康楽寺を開く、開祖西仏房、即ち是なり。
 瀧川は塩田平より佐久地方を一望の間に収めて眺望絶佳零地として、また其の格好の地たるを探り同山にも一大寺院を計画し地方の衆生済度を志したが、業未だ成らざる。仁治2年(1241)、年85歳にして入寂す。
 覚明霊神逝いて七百余年、一樹陰一河流永遠に変わるなし、今や全身もゆるが如き紅葉の季節は入らんとす。瀧川の清流は奇巌怪石の間を縫いて紅葉と相和し名月の之に反映する。
 その山紫水明の状筆舌の能く尽し能はないものがある此の好季節に当り殊に文学に志す青年は宜しく此の覚明霊神の杖を洩かれたる同山に来て此の紅葉の美を探賞しつつ文武両道の偉人、古代の大文豪を追想し、その偉徳を偲ぶも、また異議なき事ではないであろう。
      〈昭和9年10月1日発行 青木時報 第157号より〉 

臨川山定津院勝興寺 長野県東御市祢津1734

   曹洞宗 本尊 釈迦牟尼佛 住職 37世五十嵐隆暁師 ☏0268-62-0323
 宝徳元年(1449)祢津領主・祢津上総介信貞公が拈笑宗(ねんしょうそう)英(えい)禅師を迎え開山し定津院の開祖となった。拈笑禅師は応永16年(1409)武州の太守・藤原頼久の二男に生まれ、幼くして仏門に入り15歳で髪をそり、正長元年(1428)20歳のとき比叡山で受戒、29歳で鎌倉の建長寺に入り座禅を修した。伊豆の最勝寺の吾宝和尚と逢い号を拈笑と授けた。その後甲州の武田氏に招かれ恵林寺の住職となった。拈笑派は甲斐を中心に末寺320余があった。天文10年(1541)兵火に焼かれ再建後慶長17年(1612)再び火災に遭った。寛永元年(1624)松平采女正忠節が小諸から分家し祢津知行所領主となってからも庇護をうけ慶安元年(1648)2月徳川家光公より寺領35石授与され他に10石5斗6升7合の除地があった。曹洞宗信濃五カ寺の一つとされ朱印地を有するのは郡内で本寺のみである。明和年中(1764~71)甲斐国山梨郡積翠寺興因寺に属する寺となった。本堂は元禄12年(1699)、開山堂は文化5年(1808)の建築であったが昭和56年10月開祖拈笑宗英禅師5百忌にあたり前年秋に開山堂・位牌堂を新築された。
         『信濃宝鑑』より〉                   
 開山 拈笑宗英禅師
 第2世 悦堂宗穆禅師
 第3世 雲鷹玄俊禅師                       
 第4世 海秀玄岱禅師 
 第5世 雪田宗岳禅師  
 第6世 王室舜栄禅師                      
 第7世 年室宗長禅師 
 第8世 大体玄忠禅師  
 第9世 雪堂英点禅師                      
 第10世 鸞峰英□禅師 
 第11世 嶺室宗雪禅師 
 第12世 班霑慧解禅師                      
 第13世 翠峰嫩長禅師 
 第14世 魯峰良恭禅師から
 現在37世五十嵐隆暁師まで続いている。〈『信濃史料叢書』より〉

  auto_83Xx03.jpg定津院

瑞泉山興善寺 長野県東御市和1557 

                         ☏0268-62-0186
 曹洞宗 本尊 釈迦牟尼佛(木造座像) 住職 30世柴田善達禅師
寺は海野氏ゆかりの禅寺で、創建当初は現在地より東方の赤石地籍に建てられた。寺の場所は東信の雄族だった海野氏の居館跡に隣接しており、洗馬地方(現在の上田市真田)を通り地蔵峠を越え松代へ抜ける古道に沿う場所であった。
 上田市史によると、27代海野幸棟は夫人(法名は禅量大禅尼)が、永正2年(1505)11月3日に没した。その翌年永正3年に夫人の菩提のため一宇を建立した。(これが興善寺という説がある)開山は遠州周智郡久野村(静岡県袋井市)の林英宗甫大和尚(可睡斎六世)によって現在地に再建され、その時に興善寺と改められた。海野幸棟は、大永4年(1524)7月16日没した。法名は瑞泉院殿器山道天禅定門である。詳細は〈「三、ものがたり「海野」の「(六)如仲天誾と興善寺」を参照下さい〉
                                                                          

白鳥神社  長野県東御市本海野1204-1

 詳細は「三、ものがたり「海野」の「(一)日本武尊と白鳥神社」を参照下さい。

両羽神社 長野県東御市下之城169-1

 祭神 天照大神・天児屋根命・天太玉命の三神  神官代表 井出行則師
 創立年代は、不詳だが、古い時代から、前記三神を産土神として祭ってきたらしい。
 両羽神社にある「御事歴由緒」によると、古昔は東の山上の原野の地に社を立て、社名を原宮または芝宮、八葉山大明神と称して、産土神であった。
 望月氏の所領になってから御牧七郷の総社とし、大宮大明神と改称した。
しかし、慶長年間(1596~1614)、原宮は野火のため社殿や棟札などを焼失した。その際、現在の社地に移転して宮社を建設し、焼失を免れた宝物類はすべて、この宮に納められた。大正5年(1916)3月「両羽神社祭神御事歴由緒」の要旨である。

auto_ynHOEp.jpg京都山科地図

 京都と大津の間に山科盆地があるが、この東海道山科駅の東北方の山科区四ノ宮町中在寺町に諸羽神社がある。祭神は北御牧と同じく天児屋根命と天太玉命である。

        auto_UuZSAd.jpg諸羽神社(京都山科)

 諸羽神社は、貞観年間(859~77)の創立という。この宮が元で、この付近一帯を四ノ宮と呼ぶようになった。ここ四ノ宮の地は、古代から東海道・東山道・北陸からの道が合わさって都に入る重要なところであり、望月牧の駒も、また駒牽く人も、必ず、この諸羽神社の前を、行き帰り通過していたであろう。資料にはないが、この様子を見ると、望月牧の時代に、この地から勧請、分祀されたものと考える。

auto_nSghik.jpg両羽神社(東御市下之城)

 両羽神社に奉納された二体の木像。その一体が「貞保親王像」とされるのは、望月牧を始めとする古代信濃牧と滋野氏との関係から充分推測される。具体的な物証として伝承され、貴重である。
 第56代清和天皇の第四皇子に貞保親王という方がおり、「桂の親王」とか「四の宮」とも呼ばれておられた。
 貞保親王は琵琶がお上手で、ある日、親王が琵琶をお弾きになっていたところ、ツバメの糞が目に入り、痛み出し治らず「信濃国に不思議なほど病に効く加沢温泉がある」と聞き、信濃国へ下向され、温泉に浴されたが、痛みはとれましたが、目は不自由になられた。 

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(左)貞保親王(75㎝)右)船代木像(60㎝)=ダッタン人

 「盲目となった貞保親王」とは、いかにも琵琶法師あたりが持ち歩くのに恰好の貴種流離譚であるが、現在の上田市田町にかつては「配当屋」なるものがあって琵琶法師などの遊芸の徒を差配し、しかも、永くその差配に当たったのは深井氏だったと言われている。
 貞保親王を祀るという四之宮神社と先に述べた両羽神社の門前には、かつて巫女たちが市を為したとの伝承もあり、両社がいわゆる「歩き筋」の聖所で、貞保親王は蝉丸と同じく盲目遊芸民の崇敬の的ではなかったかと推測させるにとどまる。
 しかし、史料では信濃下向の事実はなく、ただ琵琶・和琴・尺八などの名手であり、「管絃長者」「天下無比名手」と称されたとのみ伝えられる。横笛の名器「穴貴」を吹く時は、その音色が模糊として幽玄、さながら消えかかる霧のようで上霧(うわきり)と讃えられた。袖の雪を払った時に、ポキリと横笛は折れてしまった。勅命により笛や琵琶秘手の伝授を行なったという伝承もあり、『新撰横笛譜』『南宮琵琶譜』などを撰進して宮廷楽人に重宝されたとの記録も『体源抄』や『江談抄』などにあるという。
 深井氏は、貞保親王の世話をした娘の出た氏族であり、さらに深井氏は、滋野氏同族の紀氏流を称するなど、古代豪族として東信地方に確かな地盤を有していた。
 現在の東御市東深井、西深井は室町時代には小県郡深井郷と呼ばれていた。ここに拠る深井氏は、戦国時代に真田氏配下となり、松代城に移った真田信之にも従ったが、深井馬之介は元和8年(1622)の家臣団48騎退去事件に加わって武士を棄て郷里に帰農したと言われている。東深井には、今も深井姓の人が多く住んでいる。
 話に出て来る「加沢温泉」は現在は「鹿沢温泉」(かざわおんせん)と書かれ、群馬県吾妻郡嬬恋村にある。群馬県(旧上野国)に属するが、その昔は小県郡海野郷に拠る祢津氏の領地であった。
 県道94号東御嬬恋線を使えば、湯の丸高原の地蔵峠を越えて最初に辿り着く集落が鹿沢温泉郷である。その地で旅館「紅葉館」を営む小林家には、前に掲載した貞保親王信濃下向の話が残されて、『信州加澤郷薬湯縁起』と呼ばれている。

 両羽神社に奉納されたもう一つの木像は「船代木像」とか「ダッタン人」と呼ばれている。一見して分かるように、ずんぐりとした異様な風体である。この地方の伝承によれば、「船代」とは渤海からの渡来人で、貞保親王の調馬師となった人物であるという。
 実は『日本後紀』では、延暦17年(798)に派遣されてきた第14次の渤海使節大昌泰を送るため、翌年延暦18年に遣渤海使に任命されたのが、滋野宿禰船代(白)だった。滋野宿禰船代の事跡は典拠を詳らかにしないが、滋野氏系図では貞主・貞雄兄弟の父滋野宿禰家訳(いえおさ)の弟で、正六位上、式部少輔に任じられたとある。
 では、両羽神社の木像が「ダッタン人」とも伝えられるのはなぜか?
 当時の日本は野生の馬だけでしてので、大陸から伝来した渡来馬の飼育繁殖の技術指導のために高句麗や蒙古の人達が多く渡来した。
 その騎馬遊牧民族として名高い蒙古人が、牧場の仕事の合間に馬頭琴を弾いたり、祖国のメロデーを口ずさんでおり、この美しい音色がやがて土地の歌となって「小諸節」や「江差追分」となり、その本流がモンゴルであると定説になっている。

s_s_s_IMG_0011.JPG石龕

 石龕(いしがん)は、両羽神社前庭の収納庫にある。法隆寺の玉虫厨子を想わせる宮殿様のものを刻出した石造建造物で、昭和50年に長野県宝に指定されている。
 高さ120㎝、四石の安山岩からなっている。屋根は入母屋風で、大棟の左右に鴟尾が置かれ、全体的に非常に重厚な感じである。
 この石龕は、信濃奇勝録によると「慶長年中(1596~1614)野火のために神詞(原宮)延焼に及し時、神像は本祠の社壇に安置して(中略)近年本祠の後背老松の下に、苔むしたる古石半ば土中に埋もれてあり、掘り出してみると………」とあって、もと原宮にあったものらしい。
 古代から中世にかけて、この地方一帯に勢力を持った滋野氏一族の海野・祢津・望月・矢沢諸氏が、共同で奉納した先祖及び軍中の安全祈願碑で、正慶2年(1333)造立されたことが石台に刻まれた銘には、次の様な字句が残る。
 表面 先祖神前エ 軍中之祈念成就 海野・望月両家 敬白
 裏面 3月28日 癸酉裁 時に正慶2 之ヲ献ズ 矢澤・禰津氏ニ石 追而
 この銘文から、海野・望月両氏が元祖の神の前で「戦いに勝たして下さい」と誓っている。時に正慶2年(1333)癸酉3月28日、矢澤氏と禰津氏も、これに賛同し、祈念のために米2石を後から届けたという。
 この年は、足利尊氏が佐久の大井氏と結び、鎌倉に味方する滋野一族と対立する年で、そのため建武2年(1335)には、大井氏に味方した市河氏によって望月城は攻略され、その城郭は破却されている。望月氏の命運を賭した石龕である。〈北御牧村誌より〉

 

恵日山修学院津金寺 長野県北佐久郡立科町山部279 ☏0267-56-0505

  天台宗比叡山延暦寺末 前住職 97世矢埼大悟師(平成に入寂する行年65歳)
   現住職 98世矢埼大祐師
 大宝2年(702)僧行基が、諸国巡錫の途中、山部の地に来たときに、榧の木で3尺3寸の聖観音像を彫り、一寺を結んだことに始まるという。
 弘仁6年(815)東国巡錫の最澄が再興。
 仁寿年中(851~3)その弟子円仁が諸堂を完成した。
その後、応和3年(963)には良源(元三大師)の弟子禅瑜、長保3年(1001)に孫弟子たる寂昭などが寺門を通じて四宗兼学の道場としての基礎を固めた。
そして、滋野氏など地方豪族の尊信を受けて、寺運はいよいよ隆盛し、平安時代には、信濃五山の一つに数えられた。中世の応安6年(1373)穏海大僧正が来寺するに及んで、寺中36院・24坊・門末48寺を数えた。
 穏海は学徳高く「天台円宗四教五時津金寺名目」五巻を著わし、諸宗の学僧が多く登山した。やがて比叡山の学林として「修学院」を称するようになった。
 武田氏が佐久に侵入し、元亀3年(1572)寺は、信玄の「定」によって四宗兼学の道場から、天台の法流に復帰してその庇護をうけた。武田が滅亡後、天正10年(1582)に織田信長の軍勢によってに焼かれ、その時、古い書物は灰になってしまい、数十年間は衰徴する。
 寛永17年(1640)、僧・舜海が入山して中興開基となり、さらに小諸城主・松平康国が修復して、今日の姿を残す基礎を開いた。
また、佐久三十三番札所の最終札所として庶民の信仰を集めている。
 
auto_S32OJ3.JPG津金寺

 本堂裏山の中腹に、津金寺宝塔三基がある。古代から中世初頭にかけて東信濃に勢威を振るった豪族滋野一族のものである。
 滋野一族は、奈良時代から平安時代にかけて、設置された朝廷の望月牧の牧官として信濃を統治していた豪族である。鎌倉時代は、源頼朝に仕えて弓の名手として信濃鎌倉武士の代表格の一族であった。
 宝塔は、寺の静かな裏山にあり、承久2年(1220)滋野某夫妻が、4月8日釈迦降誕の日に、この石造の宝塔2基(北塔・中塔)を造立して、生前の供養を行って奉納したと言われる。その人は、それから5年を経た元仁2年(1225)1月20日に死去した。後人が、故人の建てて置いた宝塔(北塔)へ、その没年月日を追刻した。
 滋野盛道が嘉禄3年(1227)10月14日に、法華経と三部経とを如法に書写して、この石造の宝塔に納め、もって亡父母望月重隆夫婦の菩提を弔うために造立したと伝えられる納経塔1基(南塔)がある。

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 この3基の宝塔には、それぞれ正面に造立の年代などが陰刻されている。方形二重の台座の上に棗形の塔身と方形四注の屋根を置き、相輪は逆運の伏鉢と二輪だけを刻出した九輪が一石に刻まれて、高さ1.7mである。法灯の軸部は、軟らかい火山の焼石を用いているため、すでに摩耗していて判読も国難な文字が多い。
 石造塔婆で、時代的特色を表している重要な数少ない石造文化財であり、昭和49年3月22日に長野県宝にも指定された。
 裏山に咲く「カタクリ」の花は見事なもので毎年4月5日~5月5日ころ「カタクリ・野草まつり」を開催している。

auto_lkfhiC.JPG 津金寺の三基の宝塔

寺の周りを散策すると、観音堂の北側だけでなく妙見堂のまわり、裏山中腹の三基の宝塔の高い日吉王社までの登り道にも、石造供養塔が並んでいる。五輪塔が608基、宝篋印塔が10基、多宝塔が4基等の大部分は、現住職が土中から掘り起こし、なから似合いそうな大きさのものを組み合わせて立てたものと聞いている。まだ、沢山の供養塔が眠っているかもしれません。〈津金寺誌より〉

布引山曝厳院釈尊寺  長野県小諸市大久保2248

  天台宗延暦寺末 本尊 阿弥陀如来 住職 兼田龍彦師 ☏0267-23-0520
 寺伝によると神亀元年(724)4月行基菩薩創建と言う。天平20年(748)4月岩窟に伽藍を造営した。応永33年(1426)9月前立三躯観音を安置する。永正元年(1504)6月望月城主滋野遠江守昌頼・昌純の二氏が懸崖構造の観音堂礎柱八本を改修した。弘治4年(1558)7月滋野左衛門佐信雅は拝殿等の営繕をしたという。
 弘治2年(1556)本堂のみ再建したが、享保8年(1723)12月15日火災に遭い寛延2年(1749)75世祐海の時、小諸城主牧野周防守の外護を受けて諸堂が復興された。
 昭和60年前住職瓏順師により大改修が行われた。人々は「布引観音」と呼称している。古来善光寺とかかわりも深く、無信仰だった媼(おうな)の物語「牛に引かれて善光寺詣り」の発祥の地として知られている。

         auto_vUQg2x.jpg 釈尊寺

望月山城光院  長野県佐久市望月1347

  曹洞宗 本尊 釈迦牟尼仏 住職 勝山尊生師  ☏0267-53-2369
 望月氏は古代より勢力のあった滋野氏の一族で、御牧原は勅使牧として毎年朝廷に馬20~30頭が献上され、全国一の貢馬の産地として名をはせた。
 文明7年(1475年)望月城主・望月遠江守光恒が開基となり南浦宗清和尚を招いて開山として建立されたと伝えられる。当初は御牧が原の東方に密教系寺院として創建されたが武田氏の時代になって曹洞宗に変わり現在地に移った。
 その後兵火により寺暦資料は焼失する。
 天文18年(1549)佐久に侵攻した武田氏に服属した。 境内の裏山は望月城跡が聳え立ち、寺院前には鹿曲川が流れ、対岸は旧中山道望月宿である。城光院は望月氏代々の菩提寺として庇護された。
 真田十勇士の一人「望月六郎」は、この望月氏の子孫と言われている。
 城光院の本尊阿弥陀如来坐像は室町時代初期の作とされ、本堂は江戸後期の享和年間(1801~04)に再建された。 境内に安置されている石造庚申塔、石造十王像(10尊)、永正年中(1504~21)銘の石造宝篋院塔(4基)はいずれも佐久市指定有形文化財に指定されている。

         auto_04IzBF.jpg;城光院

雫田山福王寺  長野県佐久市協和1054

  真言宗智山派 本尊 阿弥陀如来 住職 桑澤俊胤師 ☏0267-53-2652
 大同2年(807)坂上田村麻呂の発願により創建。天正15年(1587)弘山和尚中興されたと伝承わる。寛永年中(1624~43)の火災により焼失したため寺暦資料は喪失した。寺には焼失を免れた鎌倉初期の仏像が数体残された。
 阿弥陀如来像(国の重要文化財)像内にあった墨書によると僧幸筌が建仁3年(1203)阿弥陀堂を建て、この像を造ったという。建長2年(1250)その弟子行西が修理した。暦応3年(1340)「大檀那地頭沙弥隆幸」と残り、この寺が滋野氏の厚い庇護のもとにあったことがわかる。

    auto_EZwuMD.jpg 福王寺

白鳥山陽雲寺 長野県佐久市臼田町中小田切616 

                         ☏0267-82-3705
 浄土真宗大谷派 本尊 阿弥陀如来 住職 海野章一師
           寺紋結び雁がね       
 『陽雲寺縁起』によると、安土桃山時代に三河国の石山本願寺の一向宗門徒は織田信長に敵対し、信長の弾圧を受けて、信州水内郡に逃れた。その中の一人僧月原道永が大工原氏と共に、小田切の地に一宇を建てたと伝わる。
 初代 天正12年(1584)8月釈道永開基創建 慶長9年(1604)8月22日没
 2代 釈空念 寛永9年(1632)9月23日没 83歳
 3代 釈空受 正保2年(1645)3月25日没 70歳
 4代 釈空與 寛永19年(1642)8月13日没
 5代 教證院釈空真 延宝2年(1674)2月4日没 79歳
    慶安元年(1648)に現在地に本堂を移転建立された。
    坊守 陽誓院釈尼妙雲 寛文2年(1662)2月4日没 58歳
 6代 耀真院釈達空 享保19年(1734)12月26日没 89歳
    坊守 春松院釈尼寿貞 元文4年(1739)1月1日没
 7代 歡喜院釈南空 寛延4年(1751)8月17日没 75歳
    坊守 真誓院釈尼妙寿 安永7年(1778)4月18日没 89歳
 8代 浄證院釈嶺空 寛政7年(1795)4月3日没 80歳
    坊守 随誓院釈尼妙聲 宝暦11年(1761)10月16日没
    後坊守 釈尼妙空 安永9年(1780)4月29日没
 9代 寛證院釈道空 文政9年(1826)1月2日没 86歳
    坊守 寛誓院釈尼妙燁 寛政6年(1794)6月9日没
 10代 恵證院釈性空 嘉永7年(1854)4月8日没 79歳
     坊守 報寿院釈尼妙道 安政7年(1860)2月2日没 79歳
 11代 正解院釈成空 明治10年(1877)3月20日没 73歳
     坊守 池光院釈尼妙水 明治19年(1886)8月6日没 78歳
 12代 護信院釈西空 大正4年(1915)4月13日没 75歳 
     坊守 護城院釈尼妙悠 昭和8年(1933)10月28日没 85歳
 13代 快哉院釈明空  昭和44年7月26日没 84歳
     坊守 護陽院釈尼妙清 昭和59年8月13日没 95歳
 14代 海野秋丸師  大正5年10月10日生まれ
     坊守 海野豊子  大正14年10月生まれ  
 15代 海野章一師  昭和25年8月生まれ

auto_dykr5u.jpg 陽雲寺

雲谷山浄厳寺  新潟県三島郡出雲崎町住吉551 

  浄土真宗大谷派  住職 海野知現師   寺紋 雁がね・六連銭
                         ☏0258-78-2247
 寺伝によると、先祖は海野小太郎廣道とし、29代海野小太郎幸義の弟で甲州武田晴信に宿匿すること久しく、同国高島郡十八門村に居住を定め□谷宗兵衛と称し、天正年間(1573~91)織田信長が石山本願寺を攻める時、大谷本願寺家老・横田河内守に縁故あって宗兵衛を召され、11代信楽院顕如上人に味方し不惜身命に勤めた結果、鷺の森へ退去の折に顕如上人より数品を賜わり、その後、越後の国出雲埼に下向して今の住吉町に落着き、仏門に入り自ら浄厳寺の祖、第1世として開基した。
 第2世 宗安
 第3世 了庵
 第4世 了慶
 第5世 了廊
 第6世 了祐
 第7世 了諦
 第8世 了義
 第9世 了存
 第10世 了実
 第11世 了心
 第12世 了明
 第13世 了靖
 第14世 了智
 第15世 了勝
 第16世 了現

 auto_o8h0Kj.JPG浄厳寺

白鳥山善念寺 新潟県上越市東本町3-2-51  ☏025-523-5671

  浄土真宗大谷派  住職 滋野範雄師(松代証連寺(海野姓)より養子)
 正応5年(1293)に宗祖親鸞聖人の曾孫覚如上人が、親鸞聖人の伝記を著すため信州・越後の聖跡を調査の時に、案内したのが宗祖と一緒に法然上人に本願念仏の教えを聞いた西佛房の長男浄賀であった。西佛房の長男浄賀が善念寺の開基である。
 この時、覚如の勧めにより、浄賀は藤巻(新潟県上越市)に一寺を建立した。
 今から約700余年前である。浄賀は自坊の法灯を継ぐため、弟の浄賢が初代住職となった。
 本尊は浄賀の父(西佛房)が宗祖より賜ったもので、御長さ1尺8寸で恵信僧都作と寺伝に記されている。
 貞和年間(1345~49)に、信州白鳥の宿(しなの鉄道線滋野駅近く)へ移転した。
 天正年間(1573~91)に藤巻に戻った。その理由は不明だが、上杉謙信が晩年に真宗門徒と手を結んだためと言われている。
 念仏者堀氏の福島城下に殆どの寺院が集められたが、善念寺は藤巻に留まり、寛永21年(1644)に現在地に移ったと言われる。以来370余年の星霜を経た。
善念寺の歴代住職
 初代 浄賢 永和2年(1376)2月3日寂 95歳
  室 妙専尼 永徳2年(1382)5月8日寂 92歳
 2代 祐観 正長元年(1428)2月2日寂 74歳
  室 妙祐尼 宝徳3年(1454)9月10日寂 70歳
 3代 浄祐 文明15年(1483)10月18日寂 79歳
  室 妙英尼 永正2年(1505)5月22日寂 82歳
 4代 祐賢 正保2年(1645)8月24日寂 92歳
  室 妙乗尼 天正元年(1573)4月18日寂 54歳
 5代 乗賢 寛永8年(1631)6月3日寂 75歳
  室 妙西尼 元和元年(1615)1月19日寂 60歳
 6代 英賢 寛文2年(1662)7月12日寂 58歳
  室 妙敬尼 寛文10年(1670)12月13日寂 63歳
 7代 理賢 延宝8年(1680)1月7日寂 74歳
  室 歓喜院妙円尼 元禄11年(1698)1月15日寂 96歳
 8代 憶賢 延享3年(1746)10月26日寂 78歳
  室 恵性院妙秀尼 寛延2年(1749)7月19日寂 82歳
 9代 秀賢 宝暦6年(1756)12月8日寂
 10代 寂賢
 ……
 19代 浄栄の弟浄誓が白鳥山念仏寺(吉田字将軍塚)開基創建するが無壇になり、
    明治6年に廃寺となる。 

auto_yC3nrs.jpg 善念寺

本竜寺  新潟県南蒲原郡栄村帯織1238 

     浄土真宗大谷派  住職 白鳥滋雄師 ☏0256-45-2107

西厳寺   新潟県栃尾市谷内173

     浄土真宗大谷派  住職 白鳥滋雄師(代) ☏0258-52-3089

善福寺   新潟県上越市本町2-12-29

     浄土真宗大谷派  住職 滋野憲雄師(代) ☏0255-24-7847

等覚寺 ""  新潟県上越市大字諏訪17

     浄土真宗大谷派  住職 滋野憲雄師(代) ☏0255-20-7354

唯願寺   新潟県上越市南城町2-70

     浄土真宗大谷派  住職 白鳥哲照師   ☏0255-23-5829

明福寺   新潟県上越市中箱井181

     浄土真宗大谷派  住職 白鳥法淳師   ☏0255-25-1706

明道寺   新潟県新井市十日町410-1 

     浄土真宗大谷派  住職 白鳥利恵師  ☏0255-72-0213

専長寺   新潟県中頚城郡三和村窪

     浄土真宗大谷派  住職 白鳥智正師    ☏0255-03-0645

雲谷山浄厳寺 新潟県三島郡出雲崎町住吉551  

 浄土真宗大谷派  住職 海野知現師   家紋 雁がね・六連銭
                         ☏0258-78-2247
 寺伝によると、先祖は海野小太郎廣道とし、それより29代目海野小太郎幸義の弟で甲州武田晴信に宿匿すること久しく、同国高島郡十八門村に居住を定め□谷宗兵衛と称し、天正年間(1573~91)織田信長が石山本願寺を攻める時、大谷本願寺家老・横田河内守に縁故あって宗兵衛を召され、11代信楽院顕如上人に味方し不惜身命に勤めた結果、鷺の森へ退去の折に顕如上人より数品を賜せられ、その後、越後の国出雲埼に下向して、今の住吉町に落着き、自ら仏門に帰って、自ら浄厳寺を元祖第1世開基
 第2世 宗安
 第3世 了庵
 第4世 了慶
 第5世 了廊
 第6世 了祐
 第7世 了諦
 第8世 了義
 第9世 了存
 第10世 了実
 第11世 了心
 第12世 了明
 第13世 了靖
 第14世 了智
 第15世 了勝
 第16世 了現

auto_WHaQpD.JPG 浄厳寺

大宝山真成寺 富山県上新川郡大山町上大浦227 

  浄土真宗  住職 海野芳雄師    ☏076-483-0072  
 寺伝によると、平清盛の怒りにあった覚明が、この地に隠棲し、のちに木曽義仲に従うも、その後、比叡山に登り、名を浄覚と改め真宗に転じた後、西佛房と称したとある。
 開山は、正嘉元年(1257)10代海野幸氏の子海野三郎道敏(乗念房)とする。
天文9年(1540)證如上人により大宝山真成寺の号を賜る。
 その後、10世慶乗、元亀3年(1572)石山本願寺の戦いに参戦した。
また弟の寛玄は天正5年8月10日戦死する。11世敬正………21世慶順………
現住職の海野芳雄師と続いている。〈「大日本寺院総覧」による〉 

auto_RZ6M33.jpg真成寺

 西円寺   富山県婦負郡婦中町小泉49   ☏0764-66-2693

     浄土真宗大谷派  住職 白鳥宝心師 [#kfbfe416]
     

 自福寺   富山県黒部市若栗5269     ☏0765-52-6107

     曹洞宗      住職 真田光道師 [#f182c947]
     

 立山寺   富山県新川郡上市町眼目15   ☏0764-72-0699

     曹洞宗      住職 真田智光師 [#p5228081]
     

 海恵寺   富山県滑川市追分1642     ☏0754-77-0905

     曹洞宗      住職 真田智光師(代) [#n79d9cae]
     

 真月寺   富山県砺波市太郎丸277     ☏0763-32-0710

     曹洞宗      住職 滋野秀孝師 [#d54ff978]
     

 法雲山真教寺  石川県白山市辰巳町56-2 

 浄土真宗大谷派  住職 海野 進師    ☏0762-75-0174
          メール bunkazai@city.hakusan.lg.jp
 浄土真宗大谷派に属する松任四ケ寺の一つで、養老3年(719)に大徳泰澄大師が37歳の時、石川県石川郡美川町手取に開基し、天台宗を伝えた。無住期間482年を経て、建仁元年(1201)の頃、信州の第10代海野小太郎氏幸の次男が出家して賢信房と称して当寺の住職となり、伽藍を創立した。
 承元元年(1207)3月20日、見真大師・親鸞が越後に流罪となった折に、手取川の洪水により当寺に滞留せられ、住僧深く聖人の教法に随喜して、その法弟となり、天台宗を改宗して浄土真宗に帰入したという。 
 慶長7年(1602)本願寺が東西に分派した際、9代浄信房の子・10代圓誓の時に、後見人である叔父・浄信の弟浄貞が、祖師親鸞聖人御影と顕如上人御影等の宝物を携(たずさ)えて分離し、東本願寺第12世教如法主より寺号を改め真教寺と号した。本吉・針道と移転し、現在地に元和元年(1615)建てた。
 延宝年間(1673~80)に鐘楼が作られ、加賀藩の御用釜師で名工の初代宮崎彦九郎義一(寒雉)の作で、大きさは口径77cm・鐘身107cmで、市有形文化財の指定された。
 平成29年(2017)2月、近隣民家からの出火により寺は全焼した。檀家により、6月15日に復興再建工事が始まり、30年6月耐火構造で完成したという。
 第10世 浄誓 元和6年(1620)生まれ、寛文11年(1671)に往生
 第11世 賢祐 
 第12世 賢貞
 第13世 玄貞 元和2年(1616)
 第14世 正慶 元禄3年(1690)
 第15世 授慶 正徳6年(1716)
 第16世 浄慶 安永7年(1778)8月7日小松市から松任市へ
 第17世 圓慶 嘉永2年(1849)3月22日往生 
 第18世 一慶 明治7年(1874)7月30日往生
 第19世 一成 文久元年(1861)2月23日往生
 第20世 聞慶 明治29年(1896)2月10日往生
 第21世 慶 新潟高田市浄楽寺より3歳の時に来る 
 第22世 真證 
 第23世 進  現在に至る

auto_mAHWjx.jpg 真教寺

 洞谷山永光寺  石川県羽咋市酒井町イ-11 

   曹洞宗 住職 中野松禅師  ☏0767-26-0156
 鎌倉時代末の正和元年(1312)の春、曹洞宗太祖常済大姉瑩山紹瑾大和尚45歳の時、羽咋郡中河の地頭、酒勾八郎頼親の娘(黙譜祖忍)と、その夫、海野三郎滋野信直の招請でその館に来訪し、翌正和2年(1312)8月20日に至り、かねて海野信直夫妻から施入を受けていた鹿島郡酒井保(現在の堺町)の山中に、はじめ茅屋を仮の庫裏とした。次いで文保元年(1317)に開創された。
 能登の地で多くの門弟を育てられ、元亨3年(1323)春には五老峯を築造し曹洞宗教団の基礎を作られた。
 五老峯伝灯寺の堂内には、五禅師の頂相・五尊牌が正面に安置され、向かって左には「当山開基黙譜祖忍禅尼和尚」(滋野信直夫人)などの尊碑が数基安置されており、また「当山大檀那信州海野三郎滋野氏妙浄沙弥」の尊碑が安置されている。
 永光寺の開創された当時は、石川県能都郡酒井中河の地頭酒匂氏が支配していた。地頭の酒匂八郎平頼親の時、その嫡女(名不明)の夫が滋野信直とされている。
 信濃国佐久郡・小県郡の地頭で海野庄の地頭海野氏から能登の酒井氏に養子縁組されたものと見られる。
 平氏の女・酒井頼親の嫡女某、後の永光寺開基黙譜祖忍禅尼が瑩山禅師を招聘して、今の永光寺の辺りに、瑩山禅師と滋野信直と二人にて、寺域を決めるために、その地に往来して寺域を決められた後に、酒井氏の館に寄宿されたことを禅師自らが述べられている。
 元応元年(1319)8月6日には、滋野信直の布陣、酒井頼親の嫡女某は永光寺において、瑩山禅師について、出家得度を求められ授戒をして「黙譜祖忍禅尼」と名付けられ、元享元年(1321)11月2日には海野三郎滋野信直も、瑩山禅師について授戒得度をして法名「妙浄」と称した。
 その後、応仁2年(1468)・天正7年(1579)の二度の大乱に遭い全山焼失、幸い印派仏師の作になる御本尊様等は、難をまぬがれ多くの文化財を所蔵されている。
 現在の伽藍は寛永以後の再建である。
 「当山開基黙譜祖忍禅尼和尚」(滋野信直夫人)の尊碑と
「当山大檀那信州海野三郎滋野氏妙浄沙弥」の尊碑が安置されている。
 昭和55年12月7日付けの北国新聞によると、永光寺に保存されていた武士の肖像画は二枚あり、12月6日、石川県文化財保護委員の画家山梨杏亭氏の鑑定で、一枚の裏には「酒勾八郎頼親祖忍父」と墨で記され、もう一枚は祖忍尼の夫「海野三郎滋野信直」と推定された。肖像画の唐紙の紙質から室町末期から江戸初期に書かれたものと推定され、祖忍尼が鎌倉時代に書かせたものが古くなったため、その時代に、もう一度書き直したとみられる。「貴重な資料」と折り紙を付けた。〈永光寺の資料より〉
 石川県松任市長嶋の白山神社・鶴来街中郷の真隆寺・川北町 中島の静泉寺・同じく川北町一ツ屋の浄秀寺などもある。

 専順寺   石川県鳳至郡穴水町甲「黒崎」  ☏0768-58-1068

     浄土真宗大谷派  住職 真田研寿師 [#kbbb331d]
     

 真乗寺   石川県金沢市本町2-17-30    ☏0762-31-1604

     浄土真宗大谷派  住職 真田博師 [#md850200]
     

 称仏寺   石川県能美郡寺井町寺井ラ154  ☏0761-57-0494

     浄土真宗大谷派  住職 滋野井恬師 [#od079dbf]

     

 本吉山万法寺 福井県鯖江市鳥羽1-7-31     

 浄土真宗本願寺派 住職 海野光暁師  ☏0778-51-2182
 福井県鯖江市にある万法寺の開基は古く大徳泰澄大師が37歳の時、石川県石川郡美川町手取に養老3年(719)が開基し、天台宗を伝えたが、関白後は無住にて482年間経て、建仁元年(1201)の頃、第10代海野小太郎氏幸の次男が出家して賢信房と称して当寺の住職となり、伽藍を創立した。
 折しも、見真大師・親鸞聖人が越後の国へ流罪のとき、手取川の洪水により当寺に滞留せられ、住僧深く聖人の教法に随喜して、その法弟となり、天台宗を改宗して浄土真宗に帰入した。
 時に、承元元年(1207)3月20日、此において旧宗の安置仏等は加州荒井柏野村の氏神に祀り、今なお該地に、墓碑等が存在していて、当寺真宗の本吉山万法寺を開基とする。
 慶長7年(1602)本願寺が東西に分派した際、9代浄信房の子10代圓誓の後見人となった浄信の弟・浄貞が、祖師親鸞聖人御影、顕如上人御影等の宝物を携えて分離し、真教寺(現石川県白山市)を建立し、大谷派(お東)に属した。門徒の多くもこれに従い、万法寺は衰徴することになった。寛永10年1633)10代円誓の代になり、越前・足羽郡福井木田村に移転して、わずか9年の後、11代教淳の代、寛永19年(1642)同国今立郡鳥羽村に移転する。その後18代乗性の代、明治9年(1976)同国同郡西鯖江村に移転した。

 初代 賢信房 平氏の残党平定のためか、鎌倉幕府の役人として加賀の安宅関等
   へ来たのであろうと推定する。親鸞聖人が越後の国へ流罪のとき、めぐり合
   い出家して法弟となる。
   本尊の阿弥陀如来は見真大師が一泊の折に譲り受けた。
 2代 信敬房 正応3年(1290)本願寺3世覚如上人、北国へ御下向、
        祖師の旧跡を巡拝され万法寺に掛錫された。
 3代 祐賢房
 4代 賢真房 延元3年(1338)南朝方の源氏の流れをくむ新田義貞が越前37歳で
  亡くなられ、義貞の四天王の一人畑六郎左衛門が頼って来たものと思われる。
   越中国の万法寺門徒は、この時より関係が結ばれた。
 5代 空順房
 6代 従信房
 7代 願賢房 文明3(1471)~7年(1475)ころ吉崎御坊を開かれた本願寺8代蓮如
   上人に帰依し、抜群の功績により祖師の真影を認可された加州加賀手取村か
   ら本吉浦(美小町)に移転する。
 8代 願信房
 9代 浄信房 弟浄貞は慶長7年(1602)本願寺が東西に分派した際、祖師親鸞聖
   人御影・顕如上人(分派前の最後上人)御影等の宝物を携えて分離し、真教寺
   (現在の石川県松任市)を建立し、大谷派(お東)に属した。
 10代 円誓 寛永10年(1633)に加賀本吉浦から越前足羽郡福井木田村に
   移転し、越前万法寺の先祖なり、良如上人より涯如上人御影の免許があり、
   寛文3年6月23日往生
   坊守釈尼妙須 延宝4年(1676)3月15日往生
 11代 教淳 寛永19年(1642)同国今立郡鳥羽村へ越前藩主松平忠直公より土地
   を拝受し移転する。元禄15年(1702)3月5日往生。
   坊守釈尼妙専 享保13年(1728)10月6日往生。
 12代 教宗 延宝4年(1676)生、宝暦13年(1763)12月24日往生、86歳
   43歳の享保6年(1721)12月23日に西本願寺信解院寂如上人(71歳の時)が
   木仏弥陀尊像を御高覧され仏宝とされ、祖師の直筆と寺伝されている。
   坊守釈尼清信 天明8年(1788)5月5日往生、80歳(池田町清水家から嫁ぐ)
 13代 教栄 宝永5年(1708)生、明和6年(1769)11月4日往生、62歳
   前坊守釈尼栄寿 海野てよ 寛延3年(1750)3月25日往生、25歳
   後坊守釈尼妙従 海野さよ 安永2年(1773)7月20日往生、61歳 
 14代 教寿 南詢と号す寛保2年(1742)生、文化9年(1812)1月15日往生、72歳
   坊守釈尼慶寿 天保12年(1841)8月29日往生、83歳
 15代 教了 博詢と号す 明和4年(1769)生、寛政元年(1789)5月15日往生、
   23歳の早死にのため弟教乗が法灯を継ぐ。
 16代 教乗 大詢と号す明和7年(1770)生、天保9年(1838)12月5日往生、69歳
   坊守釈尼貞寿 海野とみ 文化6年(1809)4月26日往生、30歳
   後坊守釈尼妙寿 海野幸 嘉永3年(1850)12月7日往生、59歳
 17代真珠院釋教貞 文化11年(1814)生、明治4年(1871)6月22日往生58歳  
 18代真実院釋乗性 天保12年(1841)生、明治31年(1841)9月15日往生、57歳
   明治9年(1876)に現在の鯖江市民会館南隣へ移転する。
   坊守願入院釈尼常好 海野トヨ 大正9年(1920)7月6日往生、72歳 
 19代 建法院釋雅亮 明治13年(1880)生、昭和10年12月23日往生、56歳。
   明治40年(1907)2月2日に現在地鯖江市鳥羽に移住する。
   坊守興法院釈尼妙貞 海野サダ 昭和32年12月17日往生、72歳
 20代 澍法院釋雅竜 明治38年(1905)生、昭和27年(1952)3月22日往生48歳
   永代上座一等昇進、甲種特別衣体着用許可等。
    坊守 釈尼妙静 海野静子 明治44年(1911)9月26日生、
    武生市平出町、佐々木新左衛門の娘、昭和5年3月30日結婚。 
 21代 釋晃昭 昭和17年(1942)3月21日生、10歳の時先代とは死別し16歳で
   得度。昭和39年3月大学で真宗学を終え、21歳で住職となる
   師は教法に、ご活躍されておられましたが、平成24年3月往生、71歳
   坊守 釈尼妙恵 海野八千代 昭和19年1月3日生、
   福井市末町の専超寺より、昭和42年4月29日嫁ぐ。同年9月16日得度する。
 22代 海野光暁
   坊守 海野美春(晃昭の長女) 昭和43年4月4日生。

auto_eOFVWv.jpg万法寺

 平田山龍沢寺   福井県あわら市御簾尾10-12  

 曹洞宗  本尊 土仏観世音菩薩  住職 川内秀典師 ☏0776-74-1733
今から6百年前、南北朝時代末期の永徳2年(1382)に能登の総持寺普蔵院の梅山聞本禅師が開いた寺である。
 元は七堂伽藍があり、本山直捌きの輪住寺院として多くの名僧知識が出て法燈を輝かしたが、天正3年(1575)7月織田信長の一揆討伐の際、兵火に焼かれてからは寺領をも失って衰退した。
 如仲天誾(海野氏)は梅山禅師の滅後、龍沢寺は住持を欠いたので、旦那を招き受けて永享2年(1430)4月、はるばる遠州から来て龍沢寺の第6世を継いだ。
廃れた伽藍を修め、先師の遺髪を継いで龍沢寺の復興に尽くし、後世に龍沢寺中興の祖と仰がれている。住院8年で永享10年(1438)龍沢寺を去って再び近江の洞寿院へ帰り、晩年には加賀の仏陀寺にも住持した。
 永享12年(1440)2月4日に75歳で没した。現在龍沢寺にも墓がある。

     auto_1kb5j5.jpg龍澤寺

法光寺   岐阜県霜新町36         ☏0582-65-2798

   浄土真宗本願寺派 住職 宇野淳成師 [#i9350a2a]
     

橘谷山大洞院 静岡県周智郡森町橘249 

  曹洞宗 本尊 麻蒔地蔵菩薩  〒437-0226 ☎0538-85-2009
  住職      

     auto_BddMZD.jpg如仲天誾画像

 如仲天誾(じょちゅうてんぎん)は覚明に継いで末派約3,000ケ寺の大多数を持つ曹洞宗大洞院を開基した。如仲天誾は海野氏で貞治4年(1365)生まれ、5歳のときに母を失い、9歳にして伊那谷上穂山(うわぶやま)(現在の駒ヶ根市天台宗光前寺)恵明(えみょう)法師に従って法華経を学び、感ずるところあって禅門を慕い、上野吉祥寺(現在の群馬県利根郡川湯村臨済宗鎌倉建長寺派)大拙祖能の門に入って剃髪したという。

    auto_ikSrCB.jpg大洞院

                  auto_RZDaMY.jpg光前寺

 如仲天誾は後に越前(福井県)坂井郡金津町御簾尾平田山龍沢寺開山梅山(ばいざん)聞本(もんぼん)の許に投じた。
 その後江州に南下し、琵琶湖の北辺(塩津)呪山に入って洞春庵を構えて悟り、それから修行に専念すること3年に及んだ。
 再三にわたり閑静安住の地を見つけたので、遠州周知郡天宮神社神主の中村大善と、その宮座衆を中心とする天宮村及びその周辺の農民たちを本願の施主として資材の寄附を仰ぎ、門下数人の禅僧を率いて洞寿院の基を開いた。
 応永18年(1411)に遠江の飯田城主(森町飯田)山内対馬守(山内一豊の祖先)は師の宗風を慕って再来を願った。

      auto_Vv3pB7.jpg如仲庵跡

 伝承によれば、院内の地を一時の庵室(あんしつ)とした如仲は、山内氏の外護により崇信寺を開いた。この場所は現在開発されてその跡に「如仲庵跡」の石碑を残すのみである。

   auto_gTqP9o.jpg崇信院

 如仲は、山内氏の懇望により、飯田の崇信院へ赴き、近い橘の地に橘谷山大洞院(静岡県周智郡森町橘)を開創し、開山には梅山を第一世と仰ぎ、自らは第二世となった。その後正長元年(1428)に梵鐘を鋳造した。
 如仲天誾の高い学徳の下に集まった多くの弟子の中に、特に優れた六人を、大洞六哲と呼び、その中の一人は、洞慶院の開祖石叟円柱で、不琢玄珪(雲林寺)・物外性応(海蔵寺)・真厳道空(可睡斎)・喜山性讃(竜渓院)・大輝霊曜(最福寺)であった。

         auto_xhJHh2.jpg如仲天誾禅師木造

 応永28年(1421)2月には総持寺40世に昇った。梅山の没後、平田山龍沢寺(福井県坂井郡金津町御簾尾)は住持を欠いたので、檀那の招きを受けて永享2年(1430)4月、はるばる遠州から来て6世を継いだ。廃れた伽藍を修め、先師の衣鉢を継いで、龍沢寺の復興に尽くしたので、後世に龍沢寺中興の祖と仰がれた。
 住院8年の永享10年(1438)に龍沢寺を去って再び近江の洞寿院に戻り、晩年には加賀の仏陀寺にも住持した。
 永享12年(1440)2月4日、齢75歳で没した。

     auto_1kb5j5.jpg龍澤寺

 また、更埴市桑原山龍洞院を如仲禅師が応永年間に桑原郷に泊まり、北山に登ったところ、西北に龍の臥するような峰があり、奇勝絶景の地であるとして寺を建て、龍燈院と名づけたのに始まるという。〈『日本洞上聯燈録』より〉

auto_WJMVsn.jpg如仲天誾系図

(上記の写真・図等は森町歴史民俗資料館に掲載)

如仲天誾は高祖の永平寺開山道元から数えて、7代目の40世である。
曹洞宗末寺15,000余りの内、3,200余りの寺が如仲天誾派である。
その中には、袋井市の可睡斎があり、海野氏との縁故の深い興善寺は可睡斎の末寺である。

天王山龍華院大猷院霊屋  静岡県掛川市掛川1104  

  天台宗 住職 海野栄久師  ☏0537-21-7740
 明暦2年(1656)嗣子のない掛川城主・北条氏重が、三代将軍徳川家光位牌を祀る霊廟を造営したのが創建とされている。家の存続を願ったと言われる三間四方の方型作りの霊廟である。
 家光は慶安4年(1651)に死去し戒名「大猷院殿贈正一位大相国公」に因み大猷院霊屋と呼ばれた。北条氏重は信濃国人衆の一人保科正直の四男で、後に北条氏勝の養子となり、最終的には掛川城3万石が与えられた。氏重には5人の娘が生まれ、跡継ぎの男子が生まれなかったので、幕府から跡継ぎ問題で優遇された。
 万治元年(1658)に氏重が死去すると北条家は断絶し、替わって井伊直好が3万5千石で掛川藩に入封し、以後歴代藩主から庇護された。
 創建当時の霊屋は文化15年(1818)の火災により焼失し、現在の霊屋は掛川藩5代藩主太田資始(江戸幕府寺社奉行・大阪城代・京都所司代・老中)が文政5年(1822)に再建した。宝形造・瓦葺(元は、これら葺)・桁行3間(5.5m)・梁間3間・正面1間向拝付・外壁は真壁造・板張・黒漆塗り・屋根軒下は弁柄色・木口と向拝部は金箔・細部の彫刻などは極彩色で彩られ、内部の天井は格天井で、それぞれに絵画が描かれ、春日厨子には家光の位牌が安置されている。
全体的に日光にある大猷院(栃木県日光市)に模した造りになっていて小規模ながら格式のある造りになっている。
 龍華院大猷院霊屋は、江戸時代後期の霊廟建築の遺構として貴重なことから、昭和29年(1954)に静岡県の有形文化財に指定された。
また、境内は掛川古城の本曲輪跡で紅葉の名所にもなっていて龍華院子角山公園として整備され、見事な紅葉が満喫できる隠れた穴場となっている。
    〈掛川市広報より〉

auto_ufnSDP.jpg大猷院霊屋

玉井山長栄寺 静岡県静岡市葵区籠上24-1   

   曹洞宗  本尊 聖観音菩薩像   ☏054-271-3904
 戦国時代の永禄10年(1568)甲斐の戦国大名・武田信玄が、今川氏の領土である駿河に侵攻した。
 慶長2年(1597)に、この村の農夫海野助左衛門の先祖が開基したと言われている。 (法名 甫庵長栄居士)
 駿河今川氏7代目当主・今川氏親は亡ぼされ、慚愧山城にいた姫は重臣と共に脱出した。
 安倍川の対岸にある増善寺に逃れることになり、家宝の聖観音菩薩像が武田軍に略奪されるのを防ぐため、長栄寺の井戸の中に隠した。後に、井戸の中から発見された観音像は、井戸出現観音と称されて信仰を集めている。
    〈掛川市観光ガイドより〉
 安倍七騎「駿河国風土記」によると、杉山小太郎右衛門・望月四郎右衛門・石谷弥兵衛・狩野弥八郎・末高某・朝倉六兵衛・中村村海野弥兵衛の7人なりと言う。この海野と朝倉は七騎より大家にて家格七騎の上にありといわれる。

auto_NnilJ4.jpg長栄寺

大井山龍泉院  静岡県静岡市葵区井川582  

   曹洞宗  本尊 聖観音菩薩  住職 漣徳潭師  ☏054-260-2125
 寺伝によると、開山は崇信寺6世椿翁栄松和尚で、享禄3年(1530)当寺に請待中、平僧寺を法地に直し開祖したと記されている。しかし、別の記録では、崇信寺4世・洞慶院4世賢窓常俊が永正元年(1504)に開祖とある。また、祖師像も賢窓なので、賢窓常俊が勧請開山でないかと思われる。
 崇信寺の開山は、海野氏出身の如仲天誾で、洞慶院の開山となった僧です。賢窓は大巌の弟子で、宗派最高の総持寺で大巌のあとを継ぎ崇信寺の住職を勤めた。また洞慶院にも行った。さらに、越前の龍沢寺、森の大洞院の住職になった。
 海野弥兵衛本定が活躍した戦国時代であり、海野氏等の金山衆は砂鉄・砂金などを採取する鉱業技術に通じていたので繁栄していた。大井川流域には、末寺9カ寺、孫寺6カ寺を開いた。
 当山世代の住職
開山  前総持椿翁栄松大和尚 天文13年(1544)3月6日
2世  前永平賢林永固 〃  天正9年(1581)2月3日   福寿院・千光寺開山
3世     金鸞安鸞 〃  慶長12年(1607)8月4日  建昌寺開山 
4世  前総持嶺岩伝達 〃  寛永16年(1639)9月10日 石雲寺開山
5世  前永平天振大鯨 〃  寛文6年(1666)7月1日   福王寺開山   
6世   〃 大圓尊覚 〃  元禄8年(1695)9月9日   東養軒開山
7世  前総持虎山鎮龍 〃  元禄2年(1689)12月27日
8世  前永平久山泉良 〃  宝永6年(1709)4月20日
9世   〃 檐月泉吸 〃  享保14年(1729)7月22日
10世  〃 蔵山亀節 〃  享保15年(1730)6月4日
11世     外峰慈天 〃  宝暦9年(1759)8月2日  洞慶院輪住
12世     舟嶽恵光 〃  天明元年(1781)9月19日 大洞院輪住
13世 前永平大堤喝宗 〃  安永7年(1778)3月9日
14世    ?
15世    義孝蒲庵 〃  寛政11年(1799)11月20日 
16世 前永平大寛光揮 〃  天保元年(1830)11月15日
17世  〃 相燈光見 〃  天保2年(1831)6月20日
18世    大寛輝和 〃  天保11年(1840)
19世    金嶺恵則 〃  
20世 前総持洞林哲仙 〃  
21世 前永平覚円雄大 〃  嘉永6年(1853)8月4日
22世  〃 正指見成 〃  
23世    覚海龍章 〃
24世    稲山珉竜 〃  明治26年(1893)2月18日
25世    月資梅岩 〃  明治31年(1898)
26世    巨梅洞門 〃  大正8年(1919)2月1日
27世    帰法道一 〃  大正13年(1924)12月退院 昭和11年6月27日没
28世    異翼鴻  〃  大正13年(1924)11月20日入山 昭和8年6月28日没
29世    漣徳潭  〃  現住職
宝物は、延宝3年(1675)に、第15世発願、大般若経600巻や徳川家康の茶壷などが所蔵している。

auto_Hp5ZU1.jpg静岡市 龍泉院

若宮八幡宮神社  静岡県賀茂郡東伊豆町稲取

  宮司  稲岡秀男師 
 海野英昭氏(蒲原在住で駿河海野会員)が調査に訪問されたら、稲岡家系譜に次の文言が記されていた。

(別山 周馬養子実は
清和天皇ノ皇子貞元親王ノ落胤信濃守海野小太郎幸棟ノ末葉海野鬼三男某ナリ父ヲ小太郎某ト伝ヒ世々甲斐国主武田家ニ仕ツ武田家滅亡ノ際鬼三男尚幼若ナリ密カニ脱シ当地ニ来タリ当家ヲ続グ然レト公然名ヲ現ズヲ欲セス別山ト改名ス
寛永元(1624)甲子年同上奉仕在職26年、万治元年(1658)5月12日卒)

 稲岡家に伝わる伝承では、上品な服装の女性が幼児を抱えともの女性を二人連れて、天正のころ同家を頼った。男子の無い周馬は、この幼児を養子にして娘と娶わせ同家を継がせたと、武田滅亡後に武田に仕えた海野一族が稲取の地に流れ、当地の若宮八幡神社の神宮の養子となり、やがて神主となり別山と称した。
 別山は次男(或るいは弟)をして海野家を再興させ、海野ではなく同じ呼び名の雲野(うんの)を姓とした。
 これが稲取の海野家の起こりである。家紋は「結び雁金」を使用している。

瑠璃光山玉泉寺  静岡県静岡市駿河区中原370  

    曹洞宗  住職 海野康邦師 ☏054-285-0012
 詳細は、調査中です。詳細をお教えください。

常現寺  静岡県掛川市日坂506-1     

    曹洞宗  住職 望月良雄師  ☏0537-27-1050
     

見性寺  静岡県静岡市新間1089-123    

    曹洞宗  住職 望月智芳師  ☏0542-78-9790
     

喜善寺  静岡県静岡市新間702  

    曹洞宗  住職 望月智芳師(代)

長泉寺  愛知県北設楽郡東栄町東薗目28  

    曹洞宗  住職 真田智英師  ☏0536-76-0988

曲谷山圓楽寺  滋賀県坂田郡伊吹町曲谷115  

 浄土真宗本願寺派 本尊 阿弥陀如来 住職 准海師  ☏0749-59-0134
 曲谷は、JR東海道線柏原駅から18㎞、柿川にそった集落で30余軒の民家がある。かつては村中が石屋であって、鎌倉時代から大正末期まで石臼づくりが続いていた。現在、石工は一軒だけで、かつては石臼づくりが唯一の生業であった。
 曲谷から柿川上流へと坂登った山に花崗岩床があり、ここから石を切り出していた。
 曲谷の石工の技術は、木曽義仲が元暦元年(1184)に敗死して、大夫房覚明は木曽の残党を率いて曲谷まで逃げてきた。大夫房覚明が信州より石工を呼寄せて、その技術を伝授したと言われている。

auto_7sMnUU.JPG 曲谷山圓楽寺

 圓楽寺には「西佛房」と称する石像が正面の阿弥陀仏像に向かって右側の間に祀られている。高さ40cmの旅の像をかたどったと思われる像である。

auto_SaGyK3.JPG 西佛房石像(圓楽寺本堂)

塩谷山洞寿院護国禅寺 滋賀県長浜市余呉町菅並492

                         ☏0749-86-2501
 曹洞宗 本尊 釈迦三尊  住職 大河内黙成師
 丹生川上流の菅並から、さらに支流・妙理川を坂登った渓間にあり、永平寺の開祖、道元禅師の直系、能登総持寺第11世梅山聞本を師とした如仲天誾(海野)禅師が開山で、修行の道場として大勢の禅僧を養育し、宗派を広げた。大本山総持寺の第40世にもなっている。
 応永13年(1406)には、その東方余呉湖の東約5㎞の丹生川菅並(現在の長浜市余呉町菅並492)の山谷が、中国五台山に似た勝地として移建、白山妙理権現より塩泉を施された塩谷山洞寿院(どうじゅいん)と号して開基した。
 安土桃山時代には、朱印寺となるなど格式の高い禅寺で、慶長10年1605)徳川秀忠から、ご朱印地として30石の領地と葵の紋章を寺紋とすることが許された。
また、天明8年(1788)住職が京都霊鑑寺の戒師を務めて以来、宮家の尊崇を受け、菊の紋章を本堂につけることが許された。
 鎌倉時代前期の造立銘を持つ、木造観音菩薩立像(国指定の重要文化財)や大日如来像・如仲天誾・梅山聞本禅師の像など寺宝は多くあるが、その一つに「龍の玉」がある。妙理川の中ほどに並ぶ夫婦滝に棲みついて、人々を苦しめていた龍を、開祖の如仲天誾禅師が法刀で済度すると、ある夜、龍が枕元に現れて寺院の守護となる証に、玉を置いていったと伝えられている。
 如仲天誾禅師は、全国に3千有余ケ寺の梵刹を建立し、その初開の道場である。春は楠花香り、夏は緑陰に座禅して暑気涼しく、秋は紅葉叢林を包んで錦をかざり、冬は全山白雪の清浄の霊域である。開祖以来第54世の古刹である。

 auto_Nc9CtP.jpg 塩谷山洞寿院

西光寺  滋賀県神崎郡五箇荘町下目吉312 

    浄土真宗本願寺派 住職 宇野俊夫師 ☏0748-48-2036
 

善行寺  滋賀県彦根市野田山町280

    浄土真宗大谷派  住職 真田秀一師  ☏0749-22-2966 

勝満寺  京都市上京区五辻町千本東入西五辻東68-1 

   浄土真宗本願寺派 住職 海野貞行師  ☏075-451-3242   
 現在調査中です。詳細をお教えください。

妙林寺  京都市北区大将軍川端町71

   浄土真宗本願寺派 住職 真田大道師    ☏075-465-6704

勝福寺  京都市上京区中立売通松尾町西入新白水丸町455

   浄土真宗本願寺派 住職 真田秀範師    ☏075-451-7529

常福寺   奈良県大和郡山市柳4-39

   浄土真宗本願寺派 住職 真田誓頌師    ☏0743-52-2319

真光寺   奈良県宇陀郡榛原町大字橧枚206

   浄土真宗本願寺派 住職 真田季隆師    ☏0745-82-4045

全真寺   奈良県宇陀郡榛原町大字自明1292

   浄土真宗本願寺派 住職 真田信達師

真楽寺   奈良県宇陀郡榛原町高井502

   浄土真宗本願寺派 住職 真田智龍師    ☏0745-82-1629 

藤谷山瀧上寺   奈良県吉野郡下市町善城26 

   浄土真宗本願寺派 住職 宇野順治師    ☏0747-52-2853

光円寺   奈良県吉野郡下市町栃原1398

   浄土真宗本願寺派 住職 宇野憲章師    ☏0747-52-0654

覚明神社 広島県御調郡向島町川尻覚明島

 文治元年(1185)覚明は、木曽義仲の三男(信州では二男)義重を奉じ三十六家臣と共に、泉州境港より西行し9月9日覚明島に上陸する。
 はじめ覚明は、ここに浄土寺を建立し源氏の菩提所とし、そばに庵を設けて義重を養う。のちに義重は現一之宮神社の境内の地に館を建て、覚明は現八幡社の地に館を建てたと言う。
 文治5年(1189)義重・覚明の発願により地蔵隠を創建した。
川尻に居を構えた家臣団は義重を教育しつつ、治水・灌漑・土地の開拓し農耕改良に尽くし、土地住民の信頼厚を得て、その徳を慕って、この地に『覚明神社』として祀り崇められていた。彼らの努力で向島の今日がある。

auto_VOYYEN.jpg 覚明神社

 覚明は家臣団の定着したのを見届け信州に帰る。
 義重は、この地で没し、その長男は信州に行き、二男以下は向島に永住したという。その子孫は中世、木曽姓を名乗った。向島町118軒・向東町60軒実在する。
 八百数十年の歳月を経ても、覚明神社・三十六苗荒神・木曽明神は彼らの子孫一族によって維持されて、その精神は島民の心に脈々として生き続けている。

 戦国時代に信濃から越後へ移った浄土真宗の寺
『新潟県寺院名鑑(新潟県寺院名鑑刊行会)1983刊』は、この長い戦いが続いた戦国時代に、康楽寺(長野市・覚明が開基)と同じ浄土真宗の78を数える寺が信濃から越後に移ったとし、個別寺院ごとに、その年代まで明らかにしている。
 信濃から越後に移転した寺院一覧表 

寺院名1宗派現 在 地移転年代
正福寺大谷派新潟市西堀天正3年
真浄寺 同 同
永法寺長岡市出雲町大永2年
妙宗寺 同 渡里町川中島の戦
明行寺 同 芹川町文禄3年
願敬寺同 黒津町天正8年
浄林寺本願寺派  同 天神町川中島の戦
西願寺高田派 同 呉服町天正8年
照行寺大谷派上越市東本町
林西寺  同 同 仲町永禄年間
西方寺  同 同 上野田
専念寺本願寺派 同 南本町永正1年
勝見寺  同 同 横曽根
明照寺  同 同 飯田永禄4年
蓮光寺  同 同 高和町天正16年
浄興寺浄興派 同 寺町永禄10年
浄正寺 同永禄年間
玄興寺 同 同
専称寺  同 同天正年間
正光寺 同 同永禄年間
玄瑞寺 同 同永禄年間
受徳寺大谷派柏崎市吉井天正年間
聞光寺 同 同 西本町天正12年
専念寺本願派 同
菓城寺大谷派新津市本町文禄2年
浄明寺本願寺派 同 飯塚永禄5年
専正寺大谷派小千谷市横町永禄4年
極楽寺本願寺派 同 寺町川中島の戦
専照寺大谷派加茂市下条
浄覚寺 同見附市元町永禄年間
明覚寺 同 同 葛巻町川中島の戦
明仁寺 同 同 新潟町川中島の戦
専正寺本願寺派 同 坂井町文禄年間
西蓮寺単 立 同 新町永正12年
福勝寺本願寺派燕市大曲永禄4年
常誓寺 同糸魚川市新鉄文禄年間
専念寺大谷派新井市吉木(妙高市)
康源寺 同 同 石塚(妙高市)天正年間
願生寺 同 同 除戸(妙高市)
照光寺 同 同 小出雲(妙高市)永禄年間
菓城寺 同 同  同(妙高市)永正3年
勝念寺 同 同 吉木(妙高市)天正年間
妙光寺 同西蒲原郡巻町(新潟市)天正16年
願善寺大谷派 同 岩室村和納(新潟市)天正年間
明誓寺本願寺派 同 西川町曽根(新潟市)川中島の戦
西敬寺 同 同 分水町熊森(燕市)天文10年
善興寺大谷派 同 吉田町鴻巣(燕市)天正15年
真浄寺 同 同 黒崎町島原(新潟市)天正年間
円明寺大谷派 同 中之口村六分一(新潟市)永正5年
蓮照寺 同南蒲原郡栄町鬼木(三条市)川中島の戦
光善寺 同 同  同 矢田((三条市)
本龍寺 同 同  同 帯織(三条市)川中島の戦
安浄寺 同三島郡越路町来迎寺(長岡市)永禄1年
明鏡寺本願寺派 同  同 飯塚(長岡市)天正年間
長永寺 同 同  同 浦(長岡市)永禄年間
西照寺大谷派 同 三島町上岩井(長岡市)天正年間
浄福寺 同 同  同 脇野町(長岡市)享禄年間
浄運寺 同 同  同 鳥越(長岡市)永禄年間
円満寺 同 同 与板町与板(長岡市)川中島の戦
蓮正寺本願寺派 同  同(長岡市)
養泉寺大谷派 同 寺泊町寺泊(長岡市)文禄3年
厳照寺 同刈羽郡刈羽村十日町天正年間
光徳寺 同 同 西山町北部(柏崎市)永禄年間
願隆寺 同 同  同 伊毛(柏崎市)文禄年間
願教寺本願寺派東頸城郡安塚町須川(上越市)永禄年間
福楽寺大谷派 同  牧村岩神(上越市)
浄福寺本願寺派中頚城郡柏崎町柏崎 (上越市)天正年間
啓明寺大谷派 同 頸城村増田新田(上越市)永禄年間
性徳寺 同 同 吉川町梶(上越市)
安楽寺本願寺派 同 中郷村二本木(上越市)永正3年
西蓮寺大谷派 同 板倉町山部(上越市)天正年間
勝楽寺 同 同  同 沢田(上越市)川中島の戦
本覚寺 同 同  同 長嶺(上越市)天文年間
浄覚寺本願寺派 同  同 針(上越市)永禄年間
浄通寺 同 同  同 清野村荒牧(上越市)
妙土寺大谷派  同  同 武士 (上越市)天正年間
専長寺 同 同 三和村窪 (上越市)
西性寺 同西頸城郡能生町木浦(糸魚川市)