海野系寺院

 海野系寺院は全国に117ケ寺もあり、海野正統は滅亡したが、名族海野家を滅ぼしてはならないと、名ある御家人についたり、出家して住職になったりして海野氏は脈々と現在まで続いております。

寺 名住 職 名所 在 地宗 派
覚 英 寺海 野 覚 爾札幌市豊平浄土真宗
永 昌 寺海 野 義 清岩手県北上市曹 洞 宗
久 昌 寺海 野 講 栄岩手県盛岡市曹 洞 宗
康 善 寺海 野 卓 哉福島県福島市浄土真宗
安 養 寺海 野 寿 夫福島県伊達市浄土真宗
浄 厳 寺海 野 知 現新潟県出雲崎町浄土真宗
真 成 寺海 野 芳 雄富山県大山町浄土真宗
真 教 寺海 野   進石川県白山市浄土真宗
万 法 寺海 野 光 暁福井県鯖江(さばえ)市浄土真宗
玉 泉 寺海 野 泰 邦静岡県静岡市曹 洞 宗
勝 満 寺海 野 貞 行京都市上京区浄土真宗
貞 麟 寺海 野 喜 充長野県白馬村曹 洞 宗
極 楽 寺海 野 一 正松本市深志浄土真宗
西 生 寺海 野 祐 完松本市島立浄土真宗
妙 福 寺海 野 浄 英飯綱町芋川(いもかわ)浄土真宗
善 敬 寺海 野 浄 英長野市吉田浄土真宗
浄 專 寺海 野 弌 美長野市吉田浄土真宗
康 楽 寺海 野 浄 雄長野市東町浄土真宗
康 楽 寺海 野 昭 親長野市篠ノ井塩崎浄土真宗
専 精 寺海 野 教 恵長野市篠ノ井東福寺浄土真宗
上 宮 寺海 野 昭 親長野市篠ノ井塩崎浄土真宗
本 覚 寺海 野 玄 秀更埴市倉科浄土真宗
長 雲 寺海 野 慶 宗更埴市稲荷山真 言 宗
證 蓮 寺海 野 白 澄長野市松代町寺町浄土真宗
明 真 寺海 野 栄 子長野市松代町東条浄土真宗
陽 雲 寺海 野 秋 丸佐久市中小田切浄土真宗

 覚英寺 北海道札幌市豊平区豊平1条4-2-30  

 浄土真宗本願寺派  住職 海野覚爾師
 大正9年(1920)山形県の明善寺(山形市七日町5-9-3 ☏011-821-4114
の「海野覚照師」が大正初期に渡道し、白石区に開教し大正9年に本願寺豊平説教所を開設した。

auto_pwjcYy.jpg 覚英寺

 花岩山永昌寺 岩手県北上市更木33-105  

 曹洞宗 本尊 本師釈迦牟尼佛 住職 海野義清師
                         ☏0197-66-4240
 本堂裏にある古池の右側には、開山当時から存在したと思われる、全国でも珍しい「ネズコ」という巨木がそびえ立っている。
 毎年4月に開催される春の祭りでは、秋葉威徳大士を祀る神輿を先頭に集落ごとに趣向をこらした山車・地元に伝わる手踊りなど、笛や太鼓の音に合わせ市内を練り歩く。神輿が寺院から出るのは全国でも珍しいことである。

auto_5Tw8wc.jpg 永昌寺

奕葉山久昌寺 岩手県盛岡市大慈町1-5

 曹洞宗 本尊 釈迦年尼佛 住職 海野講栄 副住職 海野朋孝 
   ☏0196-22-2378                             
 創建当初は久昌庵という庵寺であって、十一屋某者(現盛岡市下ノ橋十一屋の先祖)が祇陀寺の奇山快秀和尚のために造った閉居でありました。
 快秀和尚は十一屋三代の当主高橋祐吉と相談し、周囲の谷地を求め、伽藍を建立し、布教・法要を執り行う道場として明暦2年(1656)開山導師として、報恩寺9世蘭翁嫩芝大和尚を勧請し、自ら2世大和尚として住職になられ、そのときから奕葉山久昌寺と称するようになりました。
 開山当時の建物は享保14年(1729)の大火に見舞われ、堂塔・仏具・過去帳等を焼失する。10世代に再興されましたが、明治17年(1884)大火に遭い、さらに明治31年(1898)9月23日に焼失、現在の本堂は大正5年(1916)建立されたものであります。
 本堂の釣天井造りで、大間の天井には真野暁亭の筆により龍の墨絵があり、東西の堂のふすまには16羅漢の墨絵・東側のふすまの裏側には竹林の七賢人の墨絵が描かれてありますが、いずれも真野暁亭の筆によるものです。
 また本堂内陣の天井には21世の筆で花鳥の絵があります。住職海野家は画人家柄で、海野梅岳・三岳の作品をはじめ、近年では岩手大学で教授を務められた海野経は先代の弟にあたられる。

auto_gBEnr6.jpg 久昌寺

 無為山泥洹院康善寺 福島県福島市五月町8-20 

 浄土真宗本願寺派 本尊 阿弥陀仏尊像 住職 25世海野卓哉師
                         ☏0245-22-3468
 康善寺略縁起によると、宗祖大師親鸞の弟子で明教房順智は、もと平氏の一族であったが、その没落後、源空(法然)のもとで出家し、東国に流された親鸞を慕って下りこれに仕えたという人である。
 初代 明教房順智 当寺開基 文永5年(1268)2月14日没 98才
    師は、東北教化のため、この地にとどまらり信夫郡黒岩村に秀安
    寺という草庵を営んだという。
 2代  映飾院就信 弘安7年(1284)8月13日没
 3代  茲心院転山 延慶元年(1308)11月20日没
 4代  徳豢院曻道 元享3年(1323)3月5日没
 5代  更教院樹玄 正慶2年(1333)1月14日没
 6代  偏岳院祥雲 延文5年(1360)7月5日没
 7代  徹窮院締道 慶永18年(1411)1月17日没
 8代  徳水院唯教 康正元年(1455)2月26日没
 9代  真容院義玄 文亀2年(1502)7月7日没
 10代 謄神院応範 元亀元年(1570)没
 11代 凝心院了教 文禄3年(1594)3月18日没
  この寺は、その後天正14年(1586)9月13日の兵火で焼失した。
  了教は軍勢四方を取り巻き逃げることも出来ず、宝櫃を阿武隈川に沈
  め、わずかに身をもって最上に逃れ6年を過ぎ、文禄元年(1592)7月
  10日に再び帰って宝櫃を河中より引き上げ赤間雅楽助の茅屋に安置し
  た。
 12代 性海院重覚 慶長9年(1604)6月4日没
 13代 徴輝院宗覚 元和2年(1616)10月24日没
  宗覚のとき、上杉定勝の家臣古河善平衛尉重吉が、郡代に任ぜられ福
  島に住し農民を災害から守るため自費で、西根・東根の両郷50余か村
  の水田開墾を志し延長数里の二大疏水を開墾し、阿武隈川40余里に便
  船を通そうと川底を浚渫しているうちに財産をつかい果たしてなお不
  足で、資金に困って藩金の3年分を無断で流用し、重吉は、罪を藩公
  に詫びる覚悟であったが、子孫を絶つことになれば、祖先に対して最
  大不孝であるとし、その責を一身に負い自刃した。
  兼ねて帰依せる宗覚と計り秀安寺を今の福島に移し、信州塩崎康楽寺
  の2男重覚を迎え重吉の第3女おまんと結婚させ第14代を継ぎ、康善
  寺と改称し、これ以来海野姓を名乗る。なお重吉は寛永14年
  (1637)12月14日屠腹、遺骨は康善寺に葬ってあります。
 14代 等量院重覚 延宝2年(1674)9月24日没
  信州塩崎の康楽寺12世浄祐の子養子
 15代 無為圓院一通 享保12年(1727)5月23日没
 16代 汏洹院致教  享保7年(1722)11月19日没
 17代 松寿院正教  天明8年(1788)7月16日没 85才
 18代 臨仙院恵教  寛政12年(1800)6月13日没
 19代 普得院宣教  文化9年(1812)12月21日没 江戸築地 明西寺
 20代 速成院宣教  文政5年(1822)11月16日没 越後高田 光明寺弟
 21代 珠綱院隆教  明治4年(1871)1月23日没
 22代 遊林院道教 明治27年(1894)8月14日没 65才 越後寺町浄光寺
 23代 ?
 24代 海野篤之 妻は福井県鯖江市 万法寺から
 25代 海野卓哉 現住職 

auto_3IN4JS.JPG 康善寺

 専修山安養寺 福島県伊達市梁川町清水町19 

 浄土真宗本願派  本尊 木造薬師如来坐像  住職 海野寿夫師
                         ☏245-77-2345
 寺伝によると、文禄4年(1595)上杉家の老臣須田第炊助が奥州梁川霞ケ城に遷移の時に、須田の家長中村内蔵助道喜は信心深く、君の院信州普願寺の2男である僧小山宗光賢誓法師と共に梁川に転移し、一宇を建立して仏法を広め、永くにわたり民族を和し安養浄土の法を流布せんことを君前に願われ、安養寺と寺号を給わり、真宗本願寺派の末寺となる。採算の大火に逢い、文政末年(1827~29)ころ真像を頂いて今日に至る。現在の本堂は明治14年(1881)4月に再建されたものである。第17世徹成-第18世壽夫(としお)-第19世は二男の康成-第20世寿夫氏が継いで今日に至る。
 なお、第18世の長男の海野寿康氏は現在五洋建設㈱で地盤工学者として活躍されておられます。

 雲谷山浄厳寺 新潟県三島郡出雲崎町住吉551  

 浄土真宗大谷派  住職 海野知現師   家紋 雁がね・六連銭
                         ☏0258-78-2247
 海野家先祖を海野小太郎廣道とし、これより18代目海野小太郎幸義の弟で甲州武田晴信に宿匿すること久しく、同国高島郡十八門村に居住を定め□谷宗兵衛と称し天正年間(1573~91)織田信長が石山本願寺を征める当時、大谷本願寺家老横田河内守に縁故ありて宗兵衛を召され、11代信楽院顕如上人に味方し不惜身命に勤めた結果、鷺の森へ退去の折に顕如上人より数品を賜せられ、その後、越後の国出雲埼に下向して今の住吉町に落着き、自ら仏門に帰って、自ら浄厳寺を元祖第1世開基
 第2世 宗安
 第3世 了庵
 第4世 了慶
 第5世 了廊
 第6世 了祐
 第7世 了諦
 第8世 了義
 第9世 了存
 第10世 了実
 第11世 了心
 第12世 了明
 第13世 了靖
 第14世 了智
 第15世 了勝
 第16世 了現

auto_WHaQpD.JPG 浄厳寺

 大宝山真成寺 富山県上新川郡大山町上大浦227 

 浄土真宗  住職 海野芳雄師    ☏076-483-0072  
 寺伝によると、平清盛の怒りにあった覚明が、この地に隠棲し、のちに木曽義仲に従うも、その後比叡山に登り、名を浄覚と改め、さらに真宗に転じた後西佛房と称したとある。
 開山は、正嘉元年(1257)10代海野幸氏の子海野三郎道敏(乗念房)とする。天文9年(1540)證如上人により大宝山真成寺の号を賜る。
 その後、10世慶乗、元亀3年(1572)石山本願寺の戦いに参戦する。また弟の寛玄は天正5年8月10日戦死する。11世敬正………21世慶順………
現住職の海野芳雄師と続いております。  (大日本寺院総覧による)

 法雲山真教寺  石川県白山市辰巳町56-2 

 浄土真宗大谷派  住職 海野 進師    ☏0762-75-0174
          メール bunkazai@city.hakusan.lg.jp
 浄土真宗大谷派に属し、松任四ケ寺のひとつで、養老3年(719)に大徳泰澄大師が37才の時、石川県石川郡美川町手取に開基し、天台宗を伝えたが、関白後は無住にて482年間経て、建仁元年(1201)の頃、信州の第10代海野小太郎氏幸の次男が出家して賢信房と称して当寺の住職となり、伽藍を創立した。
 承元元年(1207)3月20日、見真大師・親鸞が越後に流罪となった折に、手取川の洪水により当寺に滞留せられ、住僧深く聖人の教法に随喜して、その法弟となり、天台宗を改宗して浄土真宗に帰入した。 
 そして、慶長7年(1602)本願寺が東西に分派した際、9代浄信房の子10代圓誓の後見人となった浄信の弟浄貞が、祖師親鸞聖人御影、顕如上人御影等の宝物を携えて分離し、東本願寺第12世教如法主より寺号を改め真教寺と号して本吉・針道と移転し、現在地に元和元年(1615)建てられた。
 延宝年間(1673~80)に鐘楼が作ら、加賀藩の御用釜師で名工の初代宮崎彦九郎義一(寒雉)の作で、大きさは口径77cm・鐘身107cmで市有形文化財の指定されている。
 平成28年(2016)2月、近隣民家からの出火により寺は全焼してしまい、檀家により、復興再建を進めております。
 第10世 浄誓 元和6年(1620)生まれ、寛文11年(1671)に往生
 第11世 賢祐 
 第12世 賢貞
 第13世 玄貞 元和2年(1616)
 第14世 正慶 元禄3年(1690)
 第15世 授慶 正徳6年(1716)
 第16世 浄慶 安永7年(1778)8月7日小松市から松任市へ
 第17世 圓慶 嘉永2年(1849)3月22日往生 
 第18世 一慶 明治7年(1874)7月30日往生
 第19世 一成 文久元年(1861)2月23日往生
 第20世 聞慶 明治29年(1896)2月10日往生
 第21世 慶 新潟高田市浄楽寺より3才の時に来る 
 第22世 真證 
 第23世 進  現在に至る

auto_mAHWjx.jpg 真教寺

 本吉山万法寺 福井県鯖江市鳥羽1-7-31     

 浄土真宗本願寺派 住職 海野光暁師  ☏0778-51-2182
 福井県鯖江市にある万法寺の開基は古く大徳泰澄大師が37才の時、石川県石川郡美川町手取に養老3年(719)が開基し、天台宗を伝えたが、関白後は無住にて482年間経て、建仁元年(1201)の頃、第10代海野小太郎氏幸の次男が出家して賢信房と称して当寺の住職となり、伽藍を創立した。
 折しも、見真大師・親鸞聖人が越後の国へ流罪のとき、手取川の洪水により当寺に滞留せられ、住僧深く聖人の教法に随喜して、その法弟となり、天台宗を改宗して浄土真宗に帰入した。
 ときに、承元元年(1207)3月20日、此において旧宗の安置仏等は加州荒井柏野村の氏神に祀り、今なお該地に墓碑等が存在していて当寺真宗の本吉山万法寺を開基とする。
 慶長7年(1602)本願寺が東西に分派した際、9代浄信房の子10代圓誓の後見人となった浄信の弟浄貞が、祖師親鸞聖人御影、顕如上人御影等の宝物を携えて分離し、真教寺(現石川県白山市)を建立し、大谷派(お東)に属した。門徒の多くもこれに従い、万法寺は衰徴することになった。寛永10年1633)10代円誓の代になり、越前・足羽郡福井木田村に移転して、わずか9年の後、11代教淳の代、寛永19年(1642)同国今立郡鳥羽村に移転する。その後18代乗性の代、明治9年(1976)同国同郡西鯖江村に移転する。

 初代 賢信房 平氏の残党平定のためか、鎌倉幕府の役人として加賀の安宅関等
   へ来たのであろうと推定する。親鸞聖人が越後の国へ流罪のとき、めぐり合
   い出家して法弟となる。
   本尊の阿弥陀如来は見真大師が一泊の折に譲りうけたものである。
 2代 信敬房 正応3年(1290)本願寺3世覚如上人、北国へ御下向、
   祖師の旧跡を巡拝され万法寺に掛錫された。
 3代 祐賢房
 4代 賢真房 延元3年(1338)南朝方の源氏の流れをくむ新田義貞が越前37才で
   亡くなられているので、義貞の四天王の一人畑六郎左衛門が頼って来たもの
   と思われる。越中国の万法寺門徒は、この時より関係が結ばれた。
 5代 空順房
 6代 従信房
 7代 願賢房 文明3(1471)~7年(1475)ころ吉崎御坊を開かれた本願寺8代蓮如
   上人に帰依し、抜群の功績により祖師の真影を認可された加州加賀手取村か
   ら本吉浦(美小町)に移転する。
 8代 願信房
 9代 浄信房 弟浄貞が慶長7年(1602)本願寺が東西に分派した際、祖師親鸞聖
   人御影・顕如上人(分派前の最後上人)御影等の宝物を携えて分離し、真教寺
   (現在の石川県松任市)を建立し、大谷派(お東)に属した。
 10代 円誓 寛永10年(1633)に加賀本吉浦から越前足羽郡福井木田村に移転し
   越前万法寺の先祖なり、良如上人より涯如上人御影の免許があり、
   寛文3年6月23日往生
   坊守釈尼妙須 延宝4年(1676)3月15日往生
 11代 教淳 寛永19年(1642)同国今立郡鳥羽村へ越前藩主松平忠直公より土地
   を拝受し移転する。元禄15年(1702)3月5日往生。
   坊守釈尼妙専 享保13年(1728)10月6日往生。
 12代 教宗 延宝4年(1676)生、宝暦13年(1763)12月24日往生、86才
   43才の享保6年(1721)12月23日に西本願寺信解院寂如上人(71才の時)が
   木仏弥陀尊像を御高覧され仏宝とされ、祖師の直筆と寺伝されている。
   坊守釈尼清信 天明8年(1788)5月5日往生、80才(池田町清水家から嫁ぐ)
 13代 教栄 宝永5年(1708)生、明和6年(1769)11月4日往生、62才。
   前坊守釈尼栄寿 海野てよ 寛延3年(1750)3月25日往生、25才。
   後坊守釈尼妙従 海野さよ 安永2年(1773)7月20日往生、61才。 
 14代 教寿 南詢と号す寛保2年(1742)生、文化9年(1812)1月15日往生、72才
   坊守釈尼慶寿 天保12年(1841)8月29日往生、83才。
 15代 教了 博詢と号す 明和4年(1769)生、寛政元年(1789)5月15日往生、
   23才の早死にのため弟教乗が法灯を継ぐ。
 16代 教乗 大詢と号す明和7年(1770)生、天保9年(1838)12月5日往生、69才
   坊守釈尼貞寿 海野とみ 文化6年(1809)4月26日往生、30才。
   後坊守釈尼妙寿 海野幸 嘉永3年(1850)12月7日往生、59才。
 17代真珠院釋教貞 文化11年(1814)生、明治4年(1871)6月22日往生、58才。  
 18代真実院釋乗性 天保12年(1841)生、明治31年(1841)9月15日往生、57才。
   明治9年(1876)に現在の鯖江市民会館南隣へ移転する。
   坊守願入院釈尼常好 海野トヨ 大正9年(1920)7月6日往生、72才 
 19代 建法院釋雅亮 明治13年(1880)生、昭和10年12月23日往生、56才。
   明治40年(1907)2月2日に現在地鯖江市鳥羽に移住する。
   坊守興法院釈尼妙貞 海野サダ 昭和32年12月17日往生、72才。
 20代 澍法院釋雅竜 明治38年(1905)生、昭和27年(1952)3月22日往生48才。
   永代上座一等昇進、甲種特別衣体着用許可等。
    坊守 釈尼妙静 海野静子 明治44年(1911)9月26日生、
    武生市平出町、佐々木新左衛門の娘、昭和5年3月30日結婚。 
 21代 釋晃昭 昭和17年(1942)3月21日生、10歳の時先代とは死別し16才で
   得度。昭和39年3月大学で真宗学を終え、21才で住職となる
   師は教法に、ご活躍されておられましたが、平成24年3月往生、71才。
   坊守 釈尼妙恵 海野八千代 昭和19年1月3日生、
   福井市末町の専超寺より、昭和42年4月29日嫁ぐ。同年9月16日得度する。
 22代 海野光暁
   坊守 海野美春(晃昭の長女) 昭和43年4月4日生。

auto_NgCKPf.JPG 万法寺

 玉泉寺  静岡県静岡市駿河区中原370  

 曹洞宗  住職 海野康邦 ☏054-285-0012
 詳細は、調査中です。何かわかりませんので、ご教示いただきたいです。

 勝満寺 京都市上京区五辻町千本東入西五辻東68-1 

 浄土真宗本願寺派 住職 海野貞行  ☏075-451-3242   
 現在調査中です。詳細をお教えください。

 祥雲山貞麟寺 長野県北安曇郡白馬村大字神城6485 

 曹洞宗 本尊 聖観世音菩薩 住職 21世 海野喜充師
 家紋六連銭         ☏0261-75-2620
 天正15年(1587)3月、仁科氏の武将、沢渡九八郎平盛忠の代に菩提樹として、大沢寺9世巍母正鎮和尚創建する。
 継世18世住職篠崎天舟のとき寺の裏奥に「りん」さんが頭をまるめて庵を作り、仏門に入るといわれている。
 明治21年と昭和51年に火災により焼失し、20世海野仙厳師の父のときに広田四賀村より移転し、昭和53年に再建して現在に至る。
 4月下旬から5月上旬「シタレザクラ」が満開のころ、全国でも珍しい白桜と桃色桜が見られます。本堂の前にあり国の天然記念物に指定され、樹齢400年・樹周5m・樹高16mと桜の幹は時の流れを感じさせる巨木である。
 裏山の斜面の境内周辺一帯には「カタクリ」群生もあり見ごろになる。
 また、墓守は不要と自然に返るということで、墓石もなく、柵も囲いもない樹木葬が広がっている背景には、少子化や独身者の増加によって「墓を守っていく人がいない」という事情で、これまで30人が埋葬され、生前予約がすでに50件ほど入っているそうです。

auto_Y5lmsp.JPG 貞麟寺

 北林山西方院極楽寺 松本市深志2-4-27 

 浄土真宗本願派 本尊 阿弥陀如来 住職 26世海野一生師
                         ☏0263-35-1753
 寺伝によれば、開基の海野三郎広重は、親鸞聖人の弟子となって、広専坊と名のり、小県の海野の里の廃寺を再建して極楽寺としたという。
 蓮如上人徒弟に7世蓮智。
 のち11世了専のとき、武田信玄の命によって永禄3年(1560)松本市島立の北栗へ移った。
 12世了専。14世祐専。
 松本城主石川康長は、文禄2年(1593)に、松本城下の経営の一環として、寺を北栗の地から、女鳥羽川の南(旧本町1丁目)へ移した。しかし、水野氏の代の明暦2年(1656)に火災にあい焼失したため、現在地へ移された。
 松本藩主水野忠直が寺に参詣した折、大門が本町側にないことを不便に思い、本町側に道をあけ大門がつくられたのは、元禄10年(1697)である。
 明治21年(1888)1月、寺から出た火は、折からの南風にあおられて大火となり、南深志の町々を焼いた。
 現在ある入母屋造りの鐘楼は、この時の火災をまぬがれた建物で、安政5年(1858)の建立で、鐘は松本の鋳物師田中吉繁の元禄12年(1699)の作であったが、戦時中に供出され、現在の鐘は文化勲章受章者香取秀真・正彦父子の作である。
 25世海野一正師。
 昭和26年(1951)、現住職海野一生師は境内に深志保育園を設立し、昭和45年(1970)には、念願の本堂を再建した。

auto_ayPC0l.JPG 極楽寺

 西生寺  松本市大字島立字北栗3932  

 浄土 真宗本願派  住職 海野乗昭師     ☏0263-47-0938
 極楽寺の隠居寺として、寛永14年(1637)6月、善性和尚創建する。

 森尾山鎌田院妙福寺 上水内郡飯綱町芋川1517-1 

 浄土真宗大谷派 本尊 阿弥陀如来
 住職 海野浄英(善敬寺兼務)    ☏026-253-2223
 下総国の庄司鎌田兵衛政清の嫡子鎌田政守が、常陸国稲田において、専修念仏をひろめていた親鸞上人のでしとなり、妙善という法名を賜り、下総国鎌田村に一宇を創建して明福寺と称したが、貞永元年(1232)兵火にあい、、越後国頸城郡箱井村に移った。
 その後永禄10年(1567)、この地を支配していた芋川越前守が当地に堂宇を造営し、その庇護の下に現在地に移転し、寺号を妙福寺と改めたという。
 12世空善の代、寛文4年(1664)火災で堂宇を焼失し、現在の本堂は、その後再建されたものである。
 現在の寺地も芋川氏の居館址内の一部ではないかという。家紋は州浜。

auto_KsYezq.JPG 妙福寺

 白鳥山報恩院善敬寺 長野市吉田3-16-16  

 浄土真宗大谷派 本尊 阿弥陀如来 住職 海野正師  家紋州浜
                         ☏026-241-3771
 開基は塩崎康楽寺の2世法眼浄賀(絵がうまい)の二男の浄蓮(親鸞の伝記を書く)で、永仁元年(1293)10月、本願寺から山号と寺号をあたえられ一宇を建てられた。
 浄蓮の祖父西佛房覚明は海野小太郎幸親の子で、小県海野に一宇を建立した。
 西佛房の子に浄賀と浄宣があり、浄賀の系統が塩崎康楽寺となり、浄宣の系統が東町康楽寺となっている。
 善敬寺は、古くは善教寺と書いていた。
 応永4年(1371)本願寺3世覚如の著作「本願妙」を、その子存覚から書き写して授与されている。
 天正5年(1577)における織田信長の石山合戦のとき、当国の本願寺末寺および門徒25ケ寺が康楽寺の2百10俵を筆頭にそれぞれ兵糧米を寄進した。その中に当寺も10俵1斗のコメを本願寺に送っている。
 寺には石山本願寺を建立した蓮如の子実如や、その孫証如の花押のある「御文」等も現存している。
 寺の往時は四囲が堀であったが、慶長年間に長沼街道が整備された。ここに樹齢900年と言われる、長野市天然記念樹の「大いちよう」がある。
 前住職は海野浄英師。
 寺内に信行寺(右奥)・本覚寺(左入口)・浄専寺(左奥)・正宗寺の4寺を抱える浄土真宗があります。

auto_NnagU0.JPG 善敬寺

 浄専寺   善敬寺院内    

 浄土真宗大谷派  住職 海野弌美師   家紋州浜・結び雁がね
                        ☏026-241-4062
 文禄2年(1593)、塩崎康楽寺12世浄祐の子浄専が創建する。
 本堂は破壊せざるをもって、安政7年(1860)の建立である。

 白鳥山報恩院康楽寺  長野市東町163-1   

 浄土真宗本願寺派  住職  25世海野浄雄師  家紋州浜
                        ☏026-232-3098
 西佛房覚明は海野小太郎幸親の二男として保元2年(1157)に生まれ、幸長と名のった。甥には、木曽義仲の子の身代わりとなって義高の鎌倉脱出を助けた、海野小太郎幸氏がいる。幸長を行長と同一とし、「平家物語」の作者信濃前司行長は幸長のことだとする説がある。
 木曽義仲に従っていたが、義仲の死後は比叡山に登り、慈円に学んだ。
やがて親鸞の弟子となり、小県海野庄(現在の東御市)に康楽寺を開祖した。この寺は戦国期建暦2年(1212)3月25日に長谷の地(塩崎)に移転し、塩崎康楽寺となった。
 天福元年(1233)に西佛房の三男浄宣がここに住し、寺号を広敬寺としたという。
永禄期(1558~69)に火災により全焼した。寛文5年(1665)11月12日西本願寺から康楽寺の寺号をあたえられた。
 宝永10年(1760)4月22日下掘小路出火し、427軒が焼失下。寺は焼失からまぬがれた。
また、宝永11年(1761)3月28日出火し焼失し、現在の本堂前南傍に御災所の石碑がある。弘化4年(1847)3月24日の善光寺大地震のときも焼失している。翌嘉永元年(1848)に再建されたものです。
本堂が完成したのは、明治19年(1886)のことである。
 また善光寺周辺が大火にあったとき、康楽寺の庫裡が長野学校の仮校舎として使用されている。

 開 基  西佛房 仁治2年(1241)1月28日寂 85歳
 第2世  浄 宣 正応元年(1288)2月13日寂 82歳 浄賀法眼の弟で浄空ともいう
 第3世  西 念 寺号を広敬寺と賜る
 第4世  了 泰
 第5世  源 智
 第6世  雲 瑞 文明8年(1476)4月13日寂
 第7世  舒 照 文明16年(1484)10月12日寂
 第8世  了 西 弘治元年(1555)3月28日寂
 第9世  了 善 慶長2年(1597)1月16日寂 永禄年中(1558~59)全焼 
 第10世 了 動 元和9年(1623)10月15日寂
 第11世 了 信 寛永7年(1630)9月8日寂
 第12世 了 教 寛永13年(1673)2月5日寂 法名 高顕院釈涼信了教
         塩崎康楽寺が東本願寺派に転属したので、
         寛文5年(1665)11月12日本山より広教寺に康楽寺の寺号を賜る。
         坊守 法名 智光院釈貞静妙順 貞享3年(1686)2月5日寂
 第13世 了 誓 延宝9年(1681)3月14日寂 法名 聞名院釈智眼了誓
 第14世 玄 慧 貞享3念(1686)3月5日寂 法名 般舟院釈智淵玄慧
         坊守 法名 香厳院釈智誓妙教 貞享4年(1687)2月20日寂
 第15世 了 慧 宝暦11年(1761)9月29日寂(火災後、本堂再建の途上亡くなる)
         法名 証理院釈巨海了慧
         坊守 法名 光照院釈貞香妙慧 宝暦11年(1761)6月28日寂
         吉田村善教寺(現在の長野市吉田)より入寺、火災にあい半月で亡くなる
 第16世 了 意 天明2年(1782)5月13日寂 法名 応報院釈浄念了意
         宝暦の火災の本堂等再建復興する。
         坊守 法名 誠実院釈貞慶妙意 寛政元年(1789)8月13日寂
 第17世 了 智 文政10年(1827)6月19日寂 法名 無畏徳院釈浄慧了智 70歳
         安茂里村小市(現在の長野市安茂里)称名寺より入寺し旭山と号した。
         称名寺は、佐々木盛綱の開基、承元4年(1210)腰村(現在西長野新諏訪)
         坊守 法名 恭敬院釈貞信妙智 文化6年(1809)8月13日寂 
         後町の正法寺(現在の長野別院)より入寺する。
 第18世 浄 瞱 天保8年(1837)6月1日寂 法名 東岳院釈寛了浄瞱 53歳
         坊守は、浄瞱が亡くなったので郷里の越後高田御屋敷の村上家に帰る。
 第19世 浄 智 天保15年(1844)7月15日寂 法名 柔軟院釈智聞道 51歳 養子
         坊守 法名 浄顔院釈喜春貞了 天保8年(1837)1月8日寂
         後町正法寺より入寺し、俗名を喜登といい、子供がなかった。
 第20世 了 浄 弘化2年(1845)12月10日寂 法名 歓楽院釈了浄速証 50歳
         第17世了智の子供で、住職になって一年足らずで他界する。
 第21世 観 月 明治19年(1886)4月23日寂 法名 清涼院釈観月隆紹大法師 63歳
         越後直江津の勝蓮寺住職古河玄琳の次男、文政7年(1824)生まれ。
         天保15年(1844)当山に入寺、妻は千年といい7男5女あった。
         弘化4年(1847)3月24日に大地震、堂宇・庫裡など全焼。
         死者は町民1400人・旅人1000人余り、焼失家屋3000戸。
         明治12年(1879)1月に本堂再建に着手する。
         坊守千歳 法名 智行院釈妙覚理証法尼 大正7年1月9日寂 80歳 
 第22世 浄 峰 大正9年(1920)9月30日 法名 開明院釈慈然浄峰大法師 66歳
         第23世英俊の実兄である。
         坊守伊佐江 法名 闡道院釈応念静海法尼 昭和15年2月5日寂 75歳
 第23世 英 俊 昭和23年2月1日 法名 浄楽院釈英俊法師 70歳 
         坊守いさえ
 第24世 宣 証 昭和4年高田市寺町の高見山願重寺より入寺する。
         坊守孝子 第23世英俊の長女
 第25世 浄 雄 現在に至る

auto_pbVpNf.jpg 康楽寺
 

 白鳥山報恩院康楽寺 長野市篠ノ井塩崎角間3429 

 浄土真宗本願寺派 本尊 阿弥陀如来 住職 海野協親師 家紋州浜
                          ☏026-292-465
 寺の開基は、親鸞と苦楽を共にし、真宗の創業に尽力した西佛房である。
西佛房は俗名を海野通広といい、小県の名族、海野小太郎幸親の二男であり、保元2年(1157)の生まれ、仁治2年(1242)85才で死去した。
 京に上って院御所に仕え、勧学院進士から文章博士となり、進士蔵人通広と称したが、のちに出家して南都興福寺に入り西乗坊信救と称した。
 治承4年(1180)園城寺(三井寺)が以仁王の平氏追討の令旨を奉じ、南都に送ったとき、信救はその返事を書いた。その書面に、平清盛大いに怒り、信救は南都にいれず東国に赴く途中、平家追討のため東国から都へ攻め上って三河国府にいた源行家に会い、行家の陣中に加わったが、行家が源頼朝と不和になると、木曽義仲のもとで軍師として平家追討に功があり、大夫房覚明と称した。
 寿永3年(1184)義仲の滅亡後、箱根山に隠れたが、比叡山の天台座主大僧の門に入り、円通院浄賀と改めた。後日法然の弟子となり浄賀は名を法眼と改めた。
 小県海野庄白鳥に一庵を創立し、建暦2年(1212)3月、更級郡長谷の地にも草庵を修し、第2代 浄賀は絵をよくし、弘安3年(1280)本山より康楽寺の郷を許される。
第3代 浄耀宗舜大僧都
第4代 浄蓮大法師
第5代 浄明信宗法橋
……
第11代 浄林
第12代 浄祐
第13代 浄専
第14代 浄教 弘冶年中(1555~57)塩崎の現在地に堂宇を建立したと言われている。
                                 (信濃宝鑑より)
……
第28代 昭親 
第29代 協親 現在に至る

clip_0103.jpg 長野市塩崎の康楽寺 

 川中島の戦いの始まったころ、この辺の寺は、西方の山中などに難を避けたといわれる。
 この戦乱ときに、康楽寺が寺勢盛んな大寺とはいえ、いかにして同じ地に存続しえたのであろうか。寺に残る武田信玄の花押のある古文書などの書状により積極的に保護するとともに、その名声と信仰を利用したことを物語っている。
 『新潟県寺院名鑑(新潟県寺院名鑑刊行会)1983刊』は、この長い戦いが続いた戦国時代に、康楽寺と同じ浄土真宗の78を数える寺が信濃から越後に移ったとし、個別寺院ごとに、その年代まで明らかにしている。
 信濃から越後に移転した寺院一覧表

寺院名1宗派現 在 地移転年代
正福寺大谷派新潟市西堀天正3年
真浄寺 同 同
永法寺長岡市出雲町大永2年
妙宗寺 同 渡里町川中島の戦
明行寺 同 芹川町文禄3年
願敬寺同 黒津町天正8年
浄林寺本願寺派  同 天神町川中島の戦
西願寺高田派 同 呉服町天正8年
照行寺大谷派上越市東本町
林西寺  同 同 仲町永禄年間
西方寺  同 同 上野田
専念寺本願寺派 同 南本町永正1年
勝見寺  同 同 横曽根
明照寺  同 同 飯田永禄4年
蓮光寺  同 同 高和町天正16年
浄興寺浄興派 同 寺町永禄10年
浄正寺 同永禄年間
玄興寺 同 同
専称寺  同 同天正年間
正光寺 同 同永禄年間
常誓寺 同糸魚川市新鉄文禄年間
専念寺大谷派新井市吉木(妙高市)
康源寺 同 同 石塚(妙高市)天正年間
願生寺 同 同 除戸(妙高市)
照光寺 同 同 小出雲(妙高市)永禄年間
菓城寺 同 同  同(妙高市)永正3年
勝念寺 同 同 吉木(妙高市)天正年間
妙光寺 同西蒲原郡巻町(新潟市)天正16年
願善寺大谷派 同 岩室村和納(新潟市)天正年間
明誓寺本願寺派 同 西川町曽根(新潟市)川中島の戦
西敬寺 同 同 分水町熊森(燕市)天文10年
善興寺大谷派 同 吉田町鴻巣(燕市)天正15年
真浄寺 同 同 黒崎町島原(新潟市)天正年間
円明寺大谷派 同 中之口村六分一(新潟市)永正5年
蓮照寺 同南蒲原郡栄町鬼木(三条市)川中島の戦
光善寺 同 同  同 矢田((三条市)
本龍寺 同 同  同 帯織(三条市)川中島の戦
安浄寺 同三島郡越路町来迎寺(長岡市)永禄1年
明鏡寺本願寺派 同  同 飯塚(長岡市)天正年間
長永寺 同 同  同 浦(長岡市)永禄年間
西照寺大谷派 同 三島町上岩井(長岡市)天正年間
浄福寺 同 同  同 脇野町(長岡市)享禄年間
浄運寺 同 同  同 鳥越(長岡市)永禄年間
円満寺 同 同 与板町与板(長岡市)川中島の戦
蓮正寺本願寺派 同  同(長岡市)
養泉寺大谷派 同 寺泊町寺泊(長岡市)文禄3年
厳照寺 同刈羽郡刈羽村十日町天正年間
光徳寺 同 同 西山町北部(柏崎市)永禄年間
願隆寺 同 同  同 伊毛(柏崎市)文禄年間
願教寺本願寺派東頸城郡安塚町須川(上越市)永禄年間
福楽寺大谷派 同  牧村岩神(上越市)
浄福寺本願寺派中頚城郡柏崎町柏崎 (上越市)天正年間
啓明寺大谷派 同 頸城村増田新田(上越市)永禄年間
性徳寺 同 同 吉川町梶(上越市)
安楽寺本願寺派 同 中郷村二本木(上越市)永正3年
西蓮寺大谷派 同 板倉町山部(上越市)天正年間
勝楽寺 同 同  同 沢田(上越市)川中島の戦
本覚寺 同 同  同 長嶺(上越市)天文年間
浄覚寺本願寺派 同  同 針(上越市)永禄年間
浄通寺 同 同  同 清野村荒牧(上越市)
妙土寺大谷派  同  同 武士 (上越市)天正年間
専長寺 同 同 三和村窪 (上越市)
西性寺 同西頸城郡能生町木浦(糸魚川市)

海野山報恩院専精寺 長野市篠ノ井東福寺648 

 浄土真宗大谷派 本尊 阿弥陀仏 住職 23世海野教恵師 家紋州浜
                        ☏026-292-1128
 海野西佛房覚明の開基による。
 康楽寺11世浄林の二男尊祐が専精寺の住職となる。
 12世 尊祐 埴科郡土口村北山に永禄12年(1569)一宇を建立する。
 13世 玄祐 元和元年(1615)更級郡小森村に移転する。
 14世 玄長 天和2年(1682)本尊阿弥陀仏の許状、親鸞の絵像を受ける。
 15世 恵長 当寺飛檐地に昇階する。享保20年(1735)本堂造立する。
 16世 慈界 寛延3年(1749)蓮如上人絵像受ける。
 17世 恵賢 安永9年(1780)梵鐘及び鐘堂造立する。
 18世 権津 空山と号し、書・漢詩・砲術に上達する。
 19世 恵雋 安政5年(1858)余地間に昇階する。
 20世 徳雲 明治13年4月現在地に移す。
 21世 貞純 大正2年(1911)10月親鸞聖人700開基法要する。
 22世 俊恵 小学校の奇要因を務め、39才死去される。
 23世 教恵 本堂を改修し、現在に至る。

auto_0TMVln.JPG 専精寺

上宮寺 長野市篠ノ井塩崎

 浄土真宗    住職 海野昭親師  家紋州浜
 塩崎の康楽寺と同じだと思われます。詳細は調査中です。

白鳥山報恩院証蓮寺 長野市松代町寺町1301 

 浄土真宗大谷派  住職 海野良澄師 家紋州浜・結び雁がね
                        ☏026-278-3398
 塩崎の康楽寺の開山西乗坊信救、すなわち西佛房覚明のことで康楽寺2世浄賀の開創という。はじめ、永仁年中(1293~98)更級郡東条村に一宇を建立し、第2子浄応のとき白鳥山報恩院証蓮寺と号した。
 永禄2年(1559)10月3日 武田信玄の制札あり。
 天正10年(1582)4月5日 森長可の制札あり。
 慶長年中(1596~1614)に大久保地用安の寺領寄進状などがあり、現在地に移る。
 安永8年(1779)4月の類焼によって焼失する。
 前住職 海野忠英師
 現住職 海野昭親師

auto_8etSgO.jpg 証蓮寺

仏智山明真寺 長野市松代町東条1127 

                      ☏026-278-3967
 住職 海野栄子 福徳寺が管理している。詳細は調査中です。

白鳥山本覚寺 長野県千曲市倉科1050 

                      ☏026-272-2224
 浄土真宗本願寺派 本尊阿弥陀如来 住職 海野秀彦師 家紋州浜・雁がね
  海野玄秀師は平成28年9月17日に死去(89歳)されて、同年11月16日に同寺で葬儀。
  長男で社会福祉法人「杏の郷」理事長の海野秀彦師が引継ぐ。
 創始を相州鎌倉の住人、鎌倉権五郎景政の開基と称しているが明確ではない。元天台宗であったが、のちに住僧唯圓入寂の後、その後を継ぐ者がなく、廃寺に及んだために檀家ら相計って、康楽寺開山西佛房覚明の子、浄賀の三男浄玄(正和2年(1313)生まれ)を請じて開山住職となし、以後真宗となった。
 13世誠玄に至り、明暦3年(1657)藩主真田内記より旧縁をもって境内1町2反歩寄せれた。
 寛保2年(1742)の洪水にて山岳崩壊し、寺の堂宇とうが潰倒する。
宝暦5年(1755)、18世白玄の代に庫裡を再建する。
 安永7年(1778)4月、19世玄順の代に本堂を再建する。
 玄英師-玄秀師-秀彦師

龍燈山五大院長雲寺 千曲市稲荷山町2239 

                         ☏026-272-3730
 真言宗智山派   住職 26世海野慶宗師  家紋州浜 
 元暦年間(1180)高野山龍光院の快照大徳が当地を巡錫の不動の霊夢により当地え山将軍塚の辺りに龍灯の揚るを見て、この地を結縁の地と認め龍灯山長雲寺を開創した。
 天文年間(1510)兵火により焼失する。その後天正17年(1590)鎮雅和尚(松代藩出身)が住職として派遣されたときに仁和寺末の縁を結び、さらに宝永年間(1700)には仁和寺より良玄和尚(上田藩家老)が住職として赴任され、正徳5年(1715)には仁和寺27世守恕法親王より本尊として五大明王並びに愛染明王と阿弥陀如来の7躰を御寄進賜って五大院稲荷山長雲寺の号を拝領の令旨を受け中興開基となる。
 寛政年間(1790)大伽藍を建立し、上田城主伊賀守松平源頼公を願主となり領地内一帯の祈願所として配礼を許され寺が勢大に振わった。
 弘化4年(1748)当地を襲った地震により伽藍など消失するが、幸い仏像は難をまぬがれた。日の後仮建であったが、明治22年(1889)に良雅和尚(元国会議員倉石忠雄氏の祖父)代に現本堂を再建する。
 明治40年(1907)真言宗智山派に転派し、昭和40年秋より伽藍を境内地に改修工事をする。23世海野慶明、24世海野慶豊、25世海野慶雲と続いている。

auto_HgSMPh.JPG 長雲寺

白鳥山陽雲寺 長野県佐久市臼田町中小田切616 

                         ☏0267-82-3705
 浄土真宗大谷派 本尊 阿弥陀如来 住職 海野章一師
           家紋結び雁がね       
 「陽雲寺縁起」によると、安土桃山時代に三河国の石山本願寺の一向宗門徒は織田信長に敵対し、信長の弾圧をうけて、信州水内郡に逃れ、その中の一人僧月原道永が大工原氏とともに小田切の地に一宇を建てたと言い伝えられている。
 初代 天正12年(1584)8月釈道永開基創建 慶長9年(1604)8月22日没
 2代 釈空念 寛永9年(1632)9月23日没 83才
 3代 釈空受 正保2年(1645)3月25日没 70才
 4代 釈空與 寛永19年(1642)8月13日没
 5代 教證院釈空真 延宝2年(1674)2月4日没 79才
    慶安元年(1648)に現在地に本堂を移転建立された。
    坊守 陽誓院釈尼妙雲 寛文2年(1662)2月4日没 58才
 6代 耀真院釈達空 享保19年(1734)12月26日没 89才
    坊守 春松院釈尼寿貞 元文4年(1739)1月1日没
 7代 歡喜院釈南空 寛延4年(1751)8月17日没 75才
    坊守 真誓院釈尼妙寿 安永7年(1778)4月18日没 89才
 8代 浄證院釈嶺空 寛政7年(1795)4月3日没 80才
    坊守 随誓院釈尼妙聲 宝暦11年(1761)10月16日没
    後坊守 釈尼妙空 安永9年(1780)4月29日没
 9代 寛證院釈道空 文政9年(1826)1月2日没 86才
    坊守 寛誓院釈尼妙燁 寛政6年(1794)6月9日没
 10代 恵證院釈性空 嘉永7年(1854)4月8日没 79才
     坊守 報寿院釈尼妙道 安政7年(1860)2月2日没 79才
 11代 正解院釈成空 明治10年(1877)3月20日没 73才
     坊守 池光院釈尼妙水 明治19年(1886)8月6日没 78才
 12代 護信院釈西空 大正4年(1915)4月13日没 75才 
     坊守 護城院釈尼妙悠 昭和8年(1933)10月28日没 85才
 13代 快哉院釈明空  昭和44年7月26日没 84才
     坊守 護陽院釈尼妙清 昭和59年8月13日没 95才
 14代 海野秋丸師  大正5年10月10日生まれ
     坊守 海野豊子  大正14年10月生まれ  
 15代 海野章一師  昭和25年8月生まれ

auto_EH37SV.JPG 陽雲寺

瑞泉山興善寺 長野県東御市和1557(曽根) 

                         ☏0268-62-0186
 曹洞宗 本尊 木造釈迦座像 住職 30世柴田善達禅師
 詳細は、「海野史物語」をクリックして、その中の7行目の「如仲天誾と興善寺」の蘭をご覧ください。

白鳥神社  長野県東御市本海野1204-1

 詳細は、「海野史物語」をクリックして、その中の1行目の「日本武尊と白鳥神社」の蘭をご覧ください。

海野氏との関連寺院

白鳥山報恩院浄楽寺(上田市) 

 上田市中央5-5-2(上房山) ☏0268-22-3374  
 真宗本願寺派 本尊 阿弥陀如来  住職25世滋野礼一師
 西佛房信救が開創、西佛房信救は、俗名海野通廣といい、海野氏8代海野幸親の二男である。
はじめ京に上り、のち木曽義仲に仕えて、軍略に参加した。
義仲の滅亡後は箱根山に隠れたが、比叡山の慈円の法席にのぞみ、名を円通院浄寛と改めた。同地で範宴(親鸞)と知り合って弟子になり西佛房信救と称した。文暦元年(1234)ころ親鸞の命により信濃に帰り、小県郡海野庄白鳥に一宇を創建する。
 西佛房信救の長子浄賀が塩崎角間に寺を移したので、宗教弘通の道場を開設し、これを浄賀の弟の浄救に附し、その長子2世浄楽が暦応元年(1339)に塩崎角間に一宇を創立し浄楽寺と号す。以来その名をもって寺号となる。
 延宝6年(1678)14世峯仙のときに上田市常田庄房山に移し現在に至る。
 22世 實音
 24世 正美(明治36年1月6日生れ)
 25世 礼一

 寺の宝物に次の古器物があります。
1、六字名号 一幅
  宗祖見真大師の筆 器用と五条西洞院花園坊にて開基西佛房師令により
 天福元年(1233)正国信濃に下向の際親鸞聖人より懐中佛として授与す。
2、古印 印文万字形 丸釼獅子環附重量
 木曽太夫坊覚明所有物にて、元暦元年(1184)高野山に隠没の際に
  高嶋広教に授与する。
 建暦3年(1213)高嶋広教より覚明遺族なるをもって当寺に寄付する。
3、古石 小県郡海野鎮座白鳥神末社子安神白属物 自然石 重量1貫2百匁
4、大夫房覚明の位牌と『白鳥山法物縁起』なる一冊の古文書

auto_n8VOqj.JPG浄楽寺

大智山金剛院海禅寺(上田市)

 上田市中央北2-77-55 (房山新田)
 真言宗智山派 本尊 大日如来 住職飯島俊勝師  ☏0268-22-2972
 海禅寺の歴史は古く、創建は奈良時代にさかのぼり、貞観年中(859~76)承平5年(935)といわれ、もとは、海野の郷(現東御市海善寺)にあって「海善寺」といい、天延年中(973~5)に滋野氏の後裔である海野幸恒が再興したと伝えられ、東信濃きっての名族海野氏の祈願寺であった。その集落の西側に「海善寺址」があり、大坊・大門という地名も残されており、由緒あるよほどの大寺(10房)であったと伝えている。
 武田信玄は、天文年中(1532~54)信濃へ侵攻してきて、小県郡下を平定したとき、願文や安堵状をあげたのが、名社生島足島神社で、その次が海善寺で、永禄6年(1563)11月7日に祈願所とし、寺領のほかに隠居料5貫文を翌年36貫5百文を寄進している。
 天正11年(1583)真田昌幸が上田城築城の際、城下町をつくり、その中心に海野町・原町をつくり、海野の人々を海野町へ移住させ、海野からいくつもの寺社も移され、城から見て東北にあたる鬼門除けとして海善寺が移され、このときの寺名は「開善寺」で、住職は誓陵といい中興開山となった。
慶長6年(1601)8月には、真田信之から24貫文の寺領が寄進されている。

auto_grBE5G.JPG 海禅寺

 元和8年(1622)信之は松代へ移封を命じられ、海野郷にあった白鳥神社を移すにあたって、同社の別当寺として開善寺住職の5世尊海を伴い、松代西条の現在地に一寺を建立して開善寺とした。そのとき信之は真田氏の由緒ある寺の名を残し「海禅寺」と改めたものと思われる。
 松代に移ってからも歴代藩主の祈願寺として厚い保護をうけた。
慶安2年(1649)8月には、寺領として埴科郡西条村(長野市松代町西条)の内から50石を、幕府から朱印地として与えられ、藩からは御祈祷料120俵、大般若料金11両1分が進献された。
 寛永年代(1624~43)に焼失したものの、慶安4年(1651)8世俊栄のときに再建され現在に至る。
 寛保2年(1742)8月1日「寛保戌の大満水」と呼ばれた記録的な千曲川大洪水に際しては、水浸しになった城から藩主一行の避難先として開善寺が選ばれた。
 文化10年(1813)白鳥神社に武靖大明神(藩主真田信之公)を合祀し、社殿の再建以後騎射奉納の事が始まり、開善寺の大門先に東西12間(21.6m)南北108間(194.4m)の馬場が設けられ、騎射・流鏑馬等が盛大に行われるようになった。その馬場は幕末期に大砲や小銃の射撃演習の場として使用された。
 山腹にある経蔵は、宝型造り茅葺屋根で、八角輪蔵(回転する経本を入れる棚)には天海版一切経6,323巻が納められていて、県下最古のものとして、昭和41年10月県宝に指定された。

auto_Ner3pZ.JPG 開善寺

望富山陽泰寺 (上田市)

 上田市大字上野2463(伊勢山) ☏0268-22-8628
 曹洞宗 本尊 釈迦牟尼佛 住職第24世小林元亨師  
 戸石城を背に山麓の南面にあり、この戸石城は戦国時代に村上・武田両氏の争奪のばとなったが、武田方武将真田幸隆に攻略された。
 寺伝によれば創建は古く、奈良時代加賀白山の僧泰澄が当地に庵を結び、のちに行基が、その徳を慕って訪ね、泰澄養心の義から養泰寺と名づけたという。貞観年間に善淵王は当寺に帰依し、田地を寄進し、山号を向富山と命名し開基となる。のちに子孫は海野氏と称し、特に4代海野幸真公は、田地を寄付した功績により、海野氏の菩提寺としての養泰院の中興開基となる。
 裏山に「養泰院殿笑岩道讃庵主」の墓がある。
 鎌倉時代に建長寺開山の蘭渓道隆が当寺に巡錫したことに因み、当寺は臨済宗となる。将軍源実朝は五百貫の土地を賜り、寺をよく外護した。
 室町時代の明徳5年(1496)甲州の曹洞宗広厳院から龍州玄白大和尚が当寺に普山し、養泰寺の開山第一世となる。
 天文4年(1535)第26世海野幸棟公が山林・田畑を増した功徳により、の陽泰寺の中興開基とされる。
 慶長6年(1601)戸石城主真田信之公が五百貫文を寄付されている。
 享保12年(1727)第十世仏州自白大和尚に本堂を修理し山号を望富山、寺号を陽泰寺と改め、中興の祖と仰がれる。
 安永3年(1774)第十三世眼月慈雲大和尚代に鐘楼・庫裡を新改築。文化5年(1808)第十五世絶宗法宣大和尚代に壮麗雄大な山門が再建された。
 昭和38年第23世祥岳逸雲大和尚は全伽藍の屋根替え・布教の充実等により重興の称号を賜る。
 平成7~10年にわたり、現住職第24世瑞雲元亨大和尚に、創建五百年を記念して、本堂・山門・鐘楼の改修を、位牌堂・座禅堂・客殿・庫院の新築を達成した。
 また寺の城址の高台からは遠く富士山を望め絶景である。

auto_IxwBCM.jpg 陽泰寺

祥雲山洞源寺(上田市)

 上田市大字住吉1691  曹洞宗  住職 小林逸元師 
 後醍醐天皇の元弘2年(1332)に、海野氏第22代兵庫頭幸則公(元弘3年没、法名洞源院殿無山道一大居士)により開基されたと伝えられている。
 ここには上田盆地としても10指に数えられる貴重な石造文化財の2基が現存している。
 1、貞治2年(1363)2月15日在銘の宮石塔
 2、永和5年(1379)4月在銘の宮石塔の台石
共に南北朝時代の年号である。 
 開創当時の宗派は臨済宗、山号は養命山と号したようで、寺名は不詳である。その理由は、天文10年(1541)に海野氏を神川に滅ぼして当地に入部してきた村上義清が、海野氏ゆかりのこの城を徹底的に破壊し去ってしまったことによると考えられる。
 慶長5年(1600)の頃、金剛寺村居住の田中氏によって、ここに小堂が建立され、法灯がともされることとなった。まもなく陽泰寺の第5世白州梵徹大和尚が招かれて普山し、曹洞宗祥雲山洞源寺が発足し、以後陽泰寺の末寺となった。
 その後元禄8年(1695)染谷村の塚氏は、寺域を修復してその興隆に寄与し、さらに天明元年(1782)上田町房山の富豪兼子七郎右衛門が、当寺を全面的に改めて中興開基となった。現在の本堂・山門は兼子氏建立当時のものである。
 第二次世界大戦後農地法に伴い取り崩しされたが、僅か檀家10軒の拠出金と金剛寺区民の格別な協力を得て、昭和53年に本堂の全面的改修・山門の修理を行った。昭和62年4月21日附近から野火が発生し、同寺に迫ったが、地域の人々の涙ぐましい尽力で何とか被害から守られた。平成4年に庫裡が新築された。

auto_vUJF9P.jpg 洞源寺

潔泉山全宗院(上田市)

 上田市芳田2262-1  ☏0268-36-3108
 曹洞宗 本尊 釈迦牟尼佛 住職20世柴田一弘師 家紋 武田四陽菱
 武田信玄の第2子、武田竜宝が海野家遺跡相続し、海野竜宝としてこの辺を領した。この地の清らかな泉を愛されて、仏に仕えて菩提を弔い、庵を建て、潔泉院とした。その後、武田氏は滅亡、海野竜宝もその生涯を終えられた。戒名 潔泉院殿竜宝善宗居士
 その後、本海野興善寺第7世通山全達大和尚が開山となり、慶長15年(1610)海野竜宝(同寺に、その位牌がある)を開基とし、潔泉山全宗院として再興された。開基に家紋の武田四陽菱の紋をこれより掲げたとされている。
 享保3年(1718)本堂を焼失、明治23年にも火災に遭い、大正4年に16世秀岳宗俊大和尚により、今の本堂が再建された。昭和55年には開山堂兼位牌堂、平成7年には庫裡が新築される。
 当院の歴代住職
 開山 通山全達大和尚 本海野興善寺第7世開山
 2世 燈傳村龍大和尚
 3世 月海義光大和尚
 4世 大空燈門大和尚
 5世 智鏡恵泉大和尚
 6世 大蟲希雄大和尚
 7世 全関大堤大和尚
 8世 玉中恵金大和尚
 9世 縁戒観随大和尚
 10世 素学智紋大和尚
 11世 正瞳活眼大和尚
 12世 雲外玄龍大和尚
 13世 道改仏眼大和尚
 14世 黄山察玄大和尚
 15世 黙室弘道大和尚
 16世 秀岳宗俊大和尚 中興開基
 17世 白翁慧鳳大和尚
 18世 秀鳳次雄大和尚
 19世 儒玄善達大和尚
 20世 柴田一弘(現住職)

auto_MtlK7T.jpg 全宗院

天王山護国院龍法寺(上田市)

 上田市芳田245 護国寺末真言宗富山派、住職は松本明俊師
 創立年月は詳でないが、元海野氏の創立と言って、小井田村字鍛冶窪にあって、海野氏が秘蔵のタタラ師を隠匿して、其の守護としたので郷民の信仰が篤く信者も多かったが、海野幸氏が清水冠者義高(木曽義仲の子)に従って鎌倉に人質になったが、義高誅せられた時にその豪謄と弓馬の達人を買われて、頼朝の竉遇を受けて浅間の牧狩りの時、幸氏報恩のため、秘蔵鍛冶を頼朝公に献じて武器の修理をなさしめ、一人の鍛冶屋を残して置いたところ、別項怪談の怪異に驚いて、現在の東御市和地区のタタラ堂に逃避したので、この地を後世に鞴師(たたらし)の名を残してタタラ堂と命名されたといわれている。
 残った住民と寺は小井田に下って龍法寺を建て、現地には上荒または上番屋敷と鍛冶窪の地名が残っております。
 のちの天文10年(1541)海野棟綱が神川に滅びたとき、龍法寺も武田氏に焼かれて運命を倶にしたが、天正年間再建廃寺となっていたが、慶長10年(1605)明覚上人が中興したと伝えられている。海野氏創立より幾変遷し、詳でないが徳川の政策をして檀家寺領のないものは、経営できないから廃寺せよと言われるまで、龍水寺の末寺として余命を繋ぎ、延享3年(1746)祝融の災にかかり再建。明治2年上田騒動の際に林之郷無宿者の付火で焼失、明治3年4月庫裡再建、以来幾星霜念願かなって栄山上人が昭和11年に本堂再建。
昭和30年栄嶽師が矢沢陣屋の門が修道学校豊殿学校として長い間、修養の学校門であったのを移転改造山門として建立、いさいを放ち完成する。真言宗社会、再度の修養修験の道場として美観を呈した。昔は柴崎城の菩提樹と伝えられている。 (昭和32年9月1日発行、宮下昌太郎著「信仰と伝説」より)
 現在は殿城赤坂の瀧水寺の太平稔雄住職が平成8年から兼務している。

功徳山弘誓院願行寺(上田市)

 上田市中央2-16-14    ☏0268-22-2993       
 浄土宗京都知恩院末、本尊阿弥陀如来 住職 藤倉随順師 家紋六連銭 
 上田市指定有形建造物(s43.4.25)四脚門 
 願行寺は開祖松誉上人(鶴蓮社竹桐笈香)が、武州品川(現東京都品川)の人で、相州(現神奈川県)三浦の長安寺開山の善方(禅芳)上人の高弟である。信州に来りて小県郡海野郷岩下(現東御市)に住み、鎌倉時代より東信濃の雄として勢いのあった海野幸義公文学の師のために、海野において、一宇を開基し、功徳山広大院城巽林願行寺と号し、御父棟綱公の法名「「功潤徳崇大禅定門」大梁院殿と贈号し位所とする。すなわち師を請して小県郡海野郷願行寺の開祖とする。
 海野において10,000坪の地所をもって寺境とする。
 天文元年(1532)海野左京太夫幸義公の没落の際、兵火にかかり、すっかり燃えてしまった。幸義公の法名は「光厳寺殿龍團宗澤大禅定門」なり、上人老いて、元亀元年(1570)90才にして寂する。
 第2世 命誉上人は延蓮社存龍活雲と号し、泉州境(現堺市)の遍昭寺開山信誉上人の膝下なり、その後、来りて、願行寺第1世松誉上人の弟子となり願行寺に住み、姓氏行実(行った事実)、弟子一人おり東誉上人なり、この人が第4世となる。
 第3世安誉上人は、生蓮社笈往と号して、武田家の請に応じて甲府帰命寺開基する。慶長14年(1609)3月23日甲府にて寂する。
 願行寺第3世笈往(安誉)上人の開山あるいは再建・世代を継いだ寺は、次の通りである。
 西念寺(佐久市岩村田)
 歓喜院・功徳院・泉渋院(茅野市北山)
 心光寺・西光寺(茅野市豊平)
 柴雲寺・塩沢寺(茅野市米沢)
 正願寺・法光寺(茅野市岡村)
 称故院(諏訪市四賀)
 長久寺(上伊那郡伊那富)
 満光寺(上伊那郡高遠町)
 教安寺・帰命寺(甲府市東光寺町)
 願行寺(東御市海野)以上が笈往(安誉)上人に関係深井寺院である。
 第4世東誉上人は、日蓮社西応と号する。このころ寺は真田郷に移して(今も願行寺屋敷跡あり)、伊勢山にも建てた(願行寺洞という所あり)や不審なりが書史不明である。
 第5世笈誉道山上人は、崇蓮社はじめ頓蓮社と号す。甲州の人にして、武田の武族なり、その先祖は菅丞相(菅原道直)の裔、武蔵野国多摩郡保谷の住人の三男なり、師11才にして、甲府帰命院開山笈往上人の室に入る。功積みて両派(宗・戒)を川越の感誉上人より伝えられ、天正14年(1586)真田昌幸公が上田築城の際に請せられ、信州上田に甲府より道山上人笈誉を招いて5世住持で堂宇を建立した。
 その後元和7年(1621)焼失したため、現在地に寺を再建した。真田安房守昌幸墨付き一通及び天正14年(1586)堂宇建立につき除地の証などが寺に保存されている。
 信之公と実に友情厚く、法務の餘暇常に上田城中にあり、神川陣の時も、信之公と共に、籠城する。願行寺は池田長門守が警護する。
寺は始め昌幸公が上田に住するとき、いまの裏山の地に建てる。その後、城狭い故に、いまの横町に10,000坪の境地をもって移し建てる、今の上田願行寺(第1世)である。
 その後、元和8年(1622)真田信之公が松代海津城に移るとき、師を誘い、松代願行寺(第1世)開基となる。師は寛永4年(1627)寂する。松代在住6年、上田在住36年なった。
 上田願行寺の門は、堂宇の移転(海野郷から)と同時か、遅れてもあまりくだらない時期の建立と思われる。切妻屋根平入りの四脚門で、正面の唐破風妻飾りをはじめ全体として桃山建築の様式と風格をそのまま伝えているどっしりとした建築である。
 控柱は几帳面取で基盤をつけ、扉は乳付で、木鼻をはじめ各所に彫刻を多用する傾向がうかがえる。
 銅造善光寺如来一光三尊立像 上田市指定有形彫刻(s43.4.25)
  鎌倉中期から流行した、いわゆる善光寺仏の形式である。
中尊の納衣は通肩で、右手は施無畏、左手は下げて刀印をとる。
脇侍の観音及び勢至の両像ともに宝冠を冠り、梵篋印をすこぶる。
伝来は不詳であるが、製作年代は彫風から室町時代初期と推定される。
小像ながら鋳上りは、なかなか優れ、中尊・脇侍ともに型持穴が他と異なり、当時の鋳造の技法を知ることができる珍しい像である。
 上田城主最後の城主松平氏が菩提寺として今も一族の墓が数基残っている。
 寺の本堂には本尊として阿弥陀三尊が祭られているが、それまで観音堂に安置されていた一体の菩薩立像が文化庁の調査で鎌倉時代の初期に造られたことが分かった。
ヒノキの寄木造りで像の高さは52㎝。目には玉眼がはめ込まれ膝の上に施された金が今でもはっきりと残っている。また髪型は天平や白鳥彫刻を思わせる。腰を少しひねり右足を一歩手前に踏み出している。当時の世の中の苦しみを自らが救おうとする動きが感じられる。全体のバランスから考えおそらく阿弥陀如来の左脇に置かれていたものだろう。この像は市内に現存する鎌倉時代に造られた仏像の中では最も古いものに分類される。

(平成21年11月31日に富山大学松浦正明教授が講演会を開催され、その時の報告資料によると、享保15年(1730)に上田城下で大火が起きたとき、像を安置したお堂の前で火勢が鎮まったとの伝承から、「火伏せの観音」と呼ばれて親しまれてきたという観音として願行寺本堂に安置されている菩薩立像は、造立時の本来の尊名は弥勒菩薩であった。願行寺が摂関家領海野荘にあった仁安元年(1166)7月26日に関白藤原基実が24才で没し、9月8日に、その67日仏事供養が弥勒菩薩像を本尊として、のち室平盛子(平清盛女)のもとで行われ、摂関家各庄々から折櫃1,300合の調進がなされたことが、機縁となって海野荘にもたされた弥勒菩薩下生像であると考えられる。また割矧造りで面割玉眼の技法を駆使した現存最古の作例であり、また作風はのちの慶派様式の先駆をなすもので、鎌倉彫刻成立の道程で、その原点に立つ作品として日本彫刻史に重要な位置を占める)

auto_ygolwh.JPG 願行寺の唐破風妻飾門

向源寺(上田市)

 上田市常磐城2-9-2(新町)  ☏0268-22-2468 
 本尊 阿弥陀如来 本願寺東派  住職 第21世 池田都師(代)  
 向源寺の祖は平家の出てある池田采女と言い、仁治2年(1241)一族郎党を引倶して小県郡小泉庄上田原に隠棲したが、相当の勢力を有していたといわれる。そのころ、海野家の頭領が熊谷真実と共に親鸞の教えに恭順したが、采女もまた親鸞に帰依し、仏門に入り、上田原に一宇を建立、一族郎党の教化の道場としてと向源寺を興したと伝えられている。
 池田家七代当主向明に嫡男がなく、女子のみであったため、更級郡塩崎の康楽寺の次男浄空を入婿として迎えることになる、この頃本願寺第9代実如上人自筆の当寺所有の御絵像御本尊の裏書には永正17年(1548)8月9日願主向源寺とあるので、池田家八代が向源寺初代開基であろう。
 天文17年(1548)上田原を中心とし、武田・村上両軍の激戦が行われた際に武田信玄の本陣となり、永禄9年(1566)8月14日武田信玄は、この寺の境内に陣営をとることを禁じ、甲州方の家臣三枝宗四郎の取り計らいで、竜丸の朱印状(現存され市指定文化財となっている)を出し戦禍を免れようとしたが、その甲斐なく兵火にかかり、本堂・庫裡などことごとく焼失してしまった。しかし古文書・古記録をはじめ、寺宝などは危険が比較的早く予知できたので、郡下の安全地の支院等に搬出分散して置いたため幸に難を免れて殆ど全部現存している。
 寛永3年(1626)住職空意が上田原から現在地に移り堂宇を再建、教宣活動に誠意努力したが、完成に至らず。その後、宝暦6年(1756)12代廬伯の時に至って、ようやく現本堂・山門・鐘楼・太子経堂等全部再建が成就した。
 第14代住職煥怊(俳人小林一茶が訪ね数年間をこの寺で過ごしている)は学識広く、本山より寮司(りょうす)という学位を授けられ、また和歌をやっていたことから一茶とは対等のお付き合いをし親交が深かったといわれる。京都本願寺学問所の長として上洛もしばしばで、雲華院大含・頼山陽・香川黄中等の諸名士との親交も深く、これ等諸名士の書翰類をはじめ書籍類も多く当寺に所蔵している。中でも黄檗版鉄眼の一切経は煥怊寮司上洛に求めたもので全巻揃っている。   (千曲二巻5号 「一茶と向源寺」より)

auto_PNiSdf.JPG 向源寺

天照山日輪寺(上田市)

 上田市中央2-14-3(横町)  ☏0268-22-0571
 本尊 阿弥陀如来  住職 酒井泰成師   
 開創は天文14年(1545)、開山は興善寺3世用山光受大和尚、開基は海野幸義公で村上義清との合戦で戦死したため、海野氏の守り本尊として寺に祀り、海野家の菩提を弔った。山門からまっすぐのところに観音堂「普門閣」があり、ここには海野家の守り本尊「観音菩薩」が安置されている。
 同菩薩は上田市指定文化財で毎年8月9日には「りんご祭」としてにぎわい、信仰を集めている。この日は一日で46,000日参拝した功徳があるという観音様の縁日である。
 この夜は六文銭の紋所がついた「ほうずきちようちん」が並ぶ。この観音像は本海野の観音堂に祀られていたのが上田に移されたのである。
 このお堂の右側には子安堂があり、左側には勢至堂がある。このお堂は天明3年(1783)に海野町の右衛門が建立したもので、菩薩は知恵の仏様で、右から如意輪・勢至・聖の観音像が安置されている。
 第26世中興泰仁鳳山大和尚により、現在の本堂・庫裡・山門・子安観音堂の再建が行われた。

auto_9Zfq7P.jpg 日輪寺

傳叟山月窓寺(上田市)

 上田市中央6-4-13   ☏
 本尊 釈迦尼仏佛   住職 林一利師
 常田伊豫守隆水公の父は海野信濃守棟綱公である。
 隆水は四人兄弟の末っ子で兄は死産、次男は上田城主真田幸隆、三男は矢沢綱頼である。
 隆水は兄幸隆と共に上州長野原の箱岩城主となり、後に養子に常田家の家督を譲り、出家剃髪して月窓寺開基となる。
 永禄元年(1558)開山の易叟周賢大和尚に帰依し小県郡白鳥庄の常田の台に堂宇を建立した。
 永禄15年(1572)に戦火で諸堂焼失し、その後現在地に移転再建する。
 元亀3年(1570)7月8日没する、法名月窓院殿傳叟一天大居士。
 寺の境内に「赤松小三郎の墓」がある。天保2年(1831)上田藩士芦田勘兵衛のになんとして木町で生まれ、18才で江戸に出て、数学・測量・天文・蘭学や洋式砲術などを学びました。
 慶応2年(1866)日本の兵制の基礎確立に貢献し、薩摩藩主(島津候)より講師として迎えられ、その時の教え子に東郷平八郎らの英才たちがいた。
 慶応3年(1867)9月3日に京都伏見で疑われて間違って倒される。享年37才。

auto_vQmvuR.jpg 月窓寺

白山比咩神社(上田市)

 上田市上田二の宮(長島・蛇沢)  祭神 白山比咩神 応仁天皇
 もと白山大権現といい、むかし悪病流行の節、加賀の国白山の分霊を太郎山麓に誘致したと伝えられる。由来によると越前国鳥羽村、本吉山万法寺(現在福井県鯖江市)の旧記に土御門院の御代、建仁元年(1201)、建仁3年(1203)に当寺の住僧賢信房が所望あって、長島村の白山社に参拝するとある。
 もと白山大権現といい、むかし悪病流行の節、加賀の国白山の分霊を太郎山麓に斎きと伝えられている。
 また由来によると越前国鳥羽村、本吉山万法寺(現在福井県鯖江市)の旧記に土御門院の御代、建仁元年(1201)、建仁3年(1203)に当寺の住僧賢信房が所望あって、長島村の白山社に参拝するとある。
 長享年間(1487~9)大悾源左衛門家長が隣村の安吉村に一城を築いて移住し……中略…………境内の位置老松の下に憩い、末は千年の齢を保ち、また戦時には我領分を一目瞭然ならしめんがため物見の末と唱えて、当地の守護神として長島村用地の内3町歩を寄進したと古老より伝えられる。明治3年(1870)に白山比咩神社と改称許可される。
 
 また神社蔵遺文には、次のものがある。
 延喜4年(904)3月に滋野幸明再建棟札
 治承4年(1180)2月3日に木曽義仲花押が二通
 弘安元年(1278)に大江佐泰(上田太郎)が再建棟木
 天文2年(1533)9月3日に村上義清朱印
 天文17年(1548)2月10日に武田信玄朱印
 天正11年(1583)8月15日に真田昌幸朱印
 元和3年(1617)12月13日に真田信之朱印

愛宕神社(上田市)

 上田市御岳堂三角地籍
 祭神 軻遇突知神 火防の神 火伏せの神 疾病除け
 全国に800余の分社あり、多くの代議講があった。
 治承4年(1180)に、木曽義仲が依田城館からの挙兵・出陣に先立ち戦勝を占う「笠懸」の弓引きの儀式が社殿前で弓の名手8代海野幸親に命じて行ったと伝えられている。
的を射った、その「矢じり」は源氏の氏神である「八幡神社」(現在上丸子の安良居神社)に奉納されたという。    (丸子教育委員会より)

auto_kM8afZ.jpg 愛宕神社

 この愛宕神社は10代海野小太郎幸氏を祀っている。幸氏は、木曽義仲の息子義高を源頼朝への人質として鎌倉に差し出すときに随伴し、その武勇と忠勤心をかわれて、頼朝に認められ鎌倉御家人として仕えることになり、海野氏の中興の人である。

 源頼光・義家ら新田氏を祖とする岩松遠江太郎時兼の三男が、上州新田荘金井郷(現在の群馬県太田市)に住んで金井姓を名乗った。この金井三郎長義は元冠の役(1297)に肥前(現在の佐賀県)遠征している。
その孫の金井主水祐兼義は元弘の乱(1331年足利尊氏・新田義貞らにより幕府は倒壊した)後、鎌倉に居り、中先代の乱(1335年北条高時の遺子時行が挙兵して鎌倉幕府を復活)で討死する。
その妹が22代海野信濃守幸則に嫁ぎ、長男23代海野宮内少輔幸義、二男金井豊後守幸忠は応永年間(1400)に小県郡岩下に住し、大塔合戦に海野・村上氏らと旧宮方として結集して圧勝した。
 この幸忠の曾孫に四郎兵衛重勝、その娘が真田弾正忠幸隆公の奥勤めをしていて産んだ男子が高勝である。
幸隆には、長男信綱・二男昌輝は武田の軍将として長篠の戦(1575)に出陣して討死している。三男昌幸が真田家を家督し、四男信尹、五男高勝は『一徳斎殿御事跡稿』の中で金井の名跡を継承して金井宮内介高勝と称して、慶長11年(1606)6月26日に、真田信之より、飯沼村原郷(現在上田市生田)に寺領3貫文を賜り、高勝寺(寛文年中(1624~43)に寺号を龍顔寺と改称)を甲府の恵運院から開山僧を迎え開基した。高勝は同年7月7日に没している。
 高勝の子に金井六郎高次が丸子三角村の金井氏の祖である。天正11年(1583)1月と13年(1585)8月の戦いで戦功を挙げ真田昌幸から感状をもらい、また13年7月16日には原郷14貫文・五和12貫文、9月17日には岩門17貫文・大屋16貫文を戦功により受領している。元和2年(1616)4月5日大坂夏の陣で戦死し、夫婦の墓は大輪寺に建てられた。
 真田家が松代に移封後、高次の子清馬は松代に暮らしていたが、正保元年(1644)3月3日に病気で亡くなり大林寺に葬られている。
清馬が亡くなって、その子嘉兵衛は浪人し貧窮し表具師となる。
その子佐之助は、正保4年(1647)5月に三角村に金井四郎重勝の嫡男初太郎の子孫の金井伊左衛門に居候して帰農し、後に金井太郎兵衛の空き家に住む、その子孫の屋敷地から戌亥(北西)の方向に10代海野幸氏を祀る愛宕神社がある。 (郷土出版社「真田一族」松山記念館学芸員田中壽子より)

覚明零神(小県郡青木村)

 長野県小県郡青木村奈良本   (池田城東生が寄稿)
 霊峰瀧山に不動明王の祭られて居る事は余程遠隔の人達にも知られて居るが覚明零神の碑の建てられて居る事を知る人は極めて少数であろう。
 下奈良本の人家を離れて蜿々たる山道を登る事20余丁にして一ノ瀧に達す、一ノ瀧の下方数間の瀧川の清流に一大巨石の横たわるものがある、其の上に建てられて居るもの即ち覚明零神の碑である。

s_s_s_s_s_s_s_s_s_s_s_s_s_s_img_0194.jpg 覚明零神

 然らば覚明とは如何なる人であったか、覚明は信濃国小県郡海野在の人、木曽義仲の重臣海野平四郎幸広の兄、俗名通広、京都に出て勧学院文章博士となり蔵人に補任される。
 後出家して信救と号し南都興福寺の学僧たり、治承4年(1180)以仁王が平氏追討を企つるや興福寺はまたこれに応ず信救興って大に力あり、以仁王敗死するに及び清盛信救を求めて之を殺さんとした。
 信救逃れて信濃に入り義仲に仕へ大夫房覚明と称し帷幄の中に在って参割する所多し、源平盛衰記に伝う『木曽殿伝はるゝは、やゝ太夫殿幸に当国新八幡御賓前に近づき奉りて一戦を遂げんとす。今度の戦勝たん事疑なし、但且は後代の為、且当時の祈に願書一紙社殿に進せばやと存ず其相計らひ給ひと伝、覚明馬より下り、木曽が前に跪て箙の中より矢立取出し、墨筆に和して畳紙を染て押開て、古物を写すが如く案にも及ばず是れを書す其状伝(状は之を略す300余言の大文字なり)覚明其日の装束には楬彬の鎧直垂に首丁頭巾して捃縄目の冑に黒ツ羽の征矢負ふて3尺1寸の赤胴造之太刀を帯き塗籠藤の弓脇に挟で左の手に願書を捧、右の手に書を持てぞ居たりける。
 哀文武両道の達者哉とぞ見えたりける』云々義仲敗亡の後、信州に隠れしも、建久6年(1195)叡山に登り、慈鑑和尚の法席に列し、後親鸞上人の弟子となり始終陪従具に幸惨を営む、上人の為に信任せられ、文暦元年信州地方の布教を命ぜられ入信説教す。
 活仏として諸人の渇仰を受けたる人、更級郡塩崎村康楽寺を開く、開祖西仏坊、即ち是れなり。
 瀧川は塩田平より佐久地方を一望の間に収めて眺望絶佳零地として、また其の格好の地たるを探り同山にも一大寺院を計画し地方の衆生済度を志したが、業未だ成らざる。仁治2年(1241)、年85にして入寂す。
 覚明零神逝いて七百余才、一樹陰一河流永遠に変わるなし、今や然真燃ゆるが如き紅葉の季節は入らんとす。瀧川の清流は奇巌怪石の間を縫いて紅葉と相和し名月の之に反映する。
 その山紫水明の状筆舌の能く尽し能はざるものがある此の好季節に当り殊に文学に志すの青年は宜しく此の覚明霊神の杖を洩かれたる同山に来て此の紅葉の美を探賞しつつ文武両道の偉人、古代の大文豪を追想し、その偉徳を偲ぶも、また異議なき事ではないであろう。
       (昭和9年10月1日発行 青木時報 第157号より写す)

白鳥山報恩院行善寺(上水内郡信濃町)

 長野県上水内郡信濃町古間541  ☏026-255-2086
 浄土真宗大谷派  住職 23世白鳥宗靖師  家紋 州浜・雁がね
 創建年月不詳、往古に関川杉の沢に行善寺ありという。
 承久(1219)のころ、僧行善坊なる者が戸隠山に住し、天台宗にて同山坊中(昔36坊あり)の一つなりと言われている。
 親鸞聖人が戸隠山参詣の際、故ありて、その弟子となり、小松氏と一緒にこの地古間村に来て住し、一宇を建立したという。
 その後、数度の兵火に罹り、廃したり復興したりして僅か小宇を存在する。
 文政9年(1826)に火災にあい、翌10年(1827)4月に僧秀観禅師、その荒廃しておるのになげき、みんなの協力により堂宇を再建する。長野市吉田の善敬寺と親戚になる。
 住職は白鳥宗雄師-宗照師-宗靖師と続いておられる。

白鳥山正定寺(上水内郡飯綱町)

 長野県上水内郡飯綱町高坂706   ☏026-253-9631
 浄土真宗大谷派  住職 白鳥徳音師   家紋 州浜  
 現在の18号線より西側に遥か離れたところにいちしているが旧高坂村である。
 この村は地勢が西と南を高い山に囲まれ北に傾斜しているため、天候不順になると田方は青立ちとなって結実せず農民は難渋を極めたという。
 このようなところに寺が開基されたのは、なお存続していることは何故であろうか?その一つを挙げるならば、それは古くからの交通の要衝であったことであろう。すなわち、越後から善光寺へと、飯綱山麓を経て戸隠へ通づる古道として通じていたのである。
 永正5年(1508)、塩崎村康楽寺を浄祐5男祐圓が開基し、吉田村に移り道場を建ている。
寛文3年(1663)、僧祐圓が跡地へ寺堂を創建し、白鳥山正定寺と号する。
 延享2年(1745)高坂へ移し、寺堂を再建する。
 僧祐圓は、海野氏8代海野信濃守幸親の二男幸長(大夫房覚明)が康楽寺を開基し、2世浄賀-3世浄耀-3世浄蓮-4世浄明と続き、12世浄祐の5男が祐圓である。

白鳥山高山寺(上水内郡飯綱町)

 長野県上水内郡飯綱町平出208   ☏026-253-7173
 浄土真宗本願寺派  住職 20世 白鳥俊生師   家紋 州浜
 明治天皇・加賀候などの御通行に関する記録など貴重なものを沢山所蔵されている。
 正中元年(1324)僧祐圓が開山、塩崎郷角間に一宇を創建する。
 開祖の僧祐圓は、海野氏8代海野信濃守幸親の二男海野通広(幸長)のちに大夫房覚明と称し、その子浄賀、その子浄耀と続き、12世浄祐の5男が祐圓である。
 2世 釋了慶
 3世 釋了念
 4世 釋西念
 5世 釋西了 慶安4年(1651)平出村に移転し寺堂建立する。
 6世 釋了蕙
 7世 釋了閏
 8世 釋祐蕙
 9世 正明院釋覚可
 10世 實明院釋蕙洗
 11世 響誉院釋実道
 12世 響香庵釋貫絞
 13世 釋實文
 14世 智没院釋智筆
 15世 實明院釋晃耀
 16世 明春院釋広範
 17世
 18世 釋広範
 19世 釋岳史 平成29年1月16日午前9時に往生 81歳

報恩山白鳥院浄蓮寺(長野市)

 長野市川中島町四ツ谷263  ☏026-284-4527
 浄土真宗本願寺派  住職 25世祢津睦生師  家紋 月雁がね
 建暦2年(1212)僧敬佛が開基創建する。
 敬佛は祢津城主祢津神平貞直の弟、民部丞時直で、建久3年(1192)薙髪して、笠置寺解脱の弟子になり、正願という。のち見真大師の門に入り、名を敬佛と改め、本寺を創建する。
 慶長年代(1596~1614)松代城代花井遠江守吉成によって、上堰・中堰・下堰が開発され、四ツ谷村は、その堰守を命じられた。
 文政7年(1824)11月25日の夜、祝融の災により堂宇焼失した。
 弘化4年(1847)3月24日に、また善光寺地震により犀川決壊で四ツ谷村を直撃して全村流失の惨事に見舞われた。
 嘉永5年(1852)に仮堂を建て、明治20年(1887)本堂を建設する。
当山は創立以来、豊臣大閣の北殿、当山に帰依して奉納せられた金灯篭及び羽柴家より寄付の金灯篭は現存している。
 24世宗範師

auto_19WJdO.jpg 浄蓮寺

桑原山龍洞院(千曲市)

 〒387-0029 千曲市桑原2136  ☏026-273-1685
 曹洞宗 本尊 釈迦牟尼仏 脇立 大聖文殊菩薩・大行普賢菩薩
 応永年間(1394~1411)如仲天誾禅師が旧址の桑原観音堂に泊まり、北山に登ったところ、西北に竜の臥するが如き峯があり、奇勝絶佳の地なりなので、村上氏に属する郷士桑原左近大夫なるものが如仲天誾禅師と協力して一宇を建立し、龍燈寺と名付けたに始まるという。
 如仲天誾禅師は小県海野氏の出で、後に応永18年(1411)総持寺に出世し、永享9年(1437)寂した。また、郷士桑原左近大夫は死後龍洞院に葬られ、龍燈寺院殿乾雲雷音大居士の戒名である。
 寺は、その後兵火に罹り荒廃したが、永正元年(1504)桑原左近将監(桑原左近大夫の子)が、父の菩提のために、如仲の7世法孫大陽一鴒を請じて寺を現在地に移し、桑原山龍洞院と改称した。 
 大陽和尚が中興開山である。ちなみに桑原左近将監は天文7年(1538)6月9日に没し、戒名は桑原院殿雷峰一音大居士、墓が境内にある。
 その後、天正年間(1573~91)焼失。貞享年中(1684~87)旧松代藩士祢津直治が再中興したのである。
 天正15年(1587)上杉景勝の臣稲荷山城将小田切備前守昌安から、また、慶長9年(1604)7月海津城主松平忠輝から寺領が寄進されている。
 慶安2年(1649)8月には幕府から朱印15石を与えられ、寺中山竹林諸役が免除されて格式を誇った。
 現在の本堂は梅峯代の安永元年(1772)9月上棟、大工は越後国出雲埼の義右衛門である。

auto_I3Ri0f.jpg 龍洞院

神峯名山興禅寺(長野市)

 〒381-2414 長野市信州新町牧田中1889 ☏026-262-3520
 曹洞宗 本尊 釈迦牟尼仏 創建当初は臨済宗
 信濃国の牧官であっる滋野氏香坂宗清が佐久から移住し、初代牧城(現信州新町牧之島、犀川の東側段上の高所)主となり、見山崇喜を招いて正和年間(1312~16)に創建したといわれている。
 相当広大な規模の城郭をかまえ、周辺の牧を支配していた模様である。
更級郡下の牧原・中牧・南牧・須牧・北牧等7牧を支配経営することによるものと考えられる。
 崇喜は円覚寺開山の弟子南禅寺6世仏宗禅師と号し、「本朝高僧伝」の中にも壇信の招きによって信州興禅寺第1代をなすとある。
 興禅寺2世黙庵のとき、南北朝の建武2年(1335)6月23日、大塔宮護良親王は足利直義によって、中先代の乱で鎌倉において殺されるが、その遺命によって興禅寺の仏殿が建立されたとも寺伝は記している。
 建武中興のころ、護良親王と興禅寺とのかかわりあいは、現在の寺の入口門柱に
 「大塔宮 妙法印宮奉祀所 嵯峨御所祈願祀所 護国王院四箇衛場」の銘文が刻まれているが、南朝大塔宮護良親王の因縁ある寺として伝えられ、『大塔記』には、南朝に奉仕した香坂氏は、北朝方の南信小笠原長秀と抗争したことを伝えている。
 興禅寺蔵「鐘銘写」には康応2年(1390)3月、5世道詮のとき大檀那香坂宗継(左典厩滋野宗継)から大梵鐘を寄進され、牧城主の庇護を受けている。
 その鐘銘には、
 「信州更級郡神山興禅寺新鋳蒲牢 因而為之銘
     空門大器 法海長鯨 閻浮教休 即有聞声
     昏沈夢破 転飜迷情 雅簨雅簴 永同不傾
     旦那繁昌 山門安寧 竜天護持 神明褫成
   干□  康応2年庚牛3月吉日
            大工   左衛門太夫朝氏
            大檀那  左典厩滋野宗継
            当代   住持 比丘道詮 」とある。
 11世来応の代には遂に兵火に罹り、山門・僧堂・鐘楼・五重塔等が完備し、塔頭も久昌寺・正法印など諸堂焼失し、明応6年(1497)来応寂滅後は、あとを継ぐものがなかった。
 永平寺道元10世の孫であり、上州長源寺4世で佐久龍雲寺開創天英祥貞の弟子である如麟は、香坂氏の委嘱をうけて刻苦し、当寺の再興をはかり、師の祥貞を招請し中興開山し、以後曹洞宗となる。 
 その後、如麟は2世となり、龍雲寺4世まで代々興禅寺の住持を兼ねていた。また、小諸の正眼寺・長沼の妙笑寺・須坂の興国寺とは同開山同分寺である。
 香坂氏は弘治2年(1556)ころ、武田晴信によっさて八郎丸之郷(現松代皆神山麓)に配置替えされた模様で、代わって深志城将馬場美濃守信房の管轄となった。
 永禄9年(1566)牧之島城を築き、興禅寺の大檀越として帰依にあつく、その隆盛に寄与した。 

auto_XhhxdG.jpg 興禅寺

海野山高山寺(安曇野市)

 安曇野市豊科5805   ☏0263-72-0232
 浄土真宗本願寺派 住職 本多教存師   家紋 立葵
 当寺は、更級郡塩崎村(長野市篠ノ井塩崎角間)にあったが、新田町にあった同宗派の寺院(清浄山円証寺)が廃仏毀釈によって廃寺となったため、塩崎村を引き払い、新田まちに移転した。創建は元久2年(1205)と伝えられている。明治15年(1882)8月に当地へ移転する。

auto_q0qw4b.JPG 高山寺

性徳山洞光寺(松本市)

 松本市刈谷原町692  ☏0263-64-2776
 浄土真宗 本尊 薬師如来  住職 小林晟哲師
 淳和天皇の天長年中(824~33)弘法大姉の開基で、自作薬師如来を本尊として安置する。
 養和年中(1181~2)木曽義仲北国下向の折、当山へ参拝して、自ら兜を石上に置き戦勝の祈願書を自署して奉納し、倶利伽羅とうにて大勝を得た。今境内に兜石と称している。
 のち海野小太郎及び刈谷原鷹住根の城主太田弥助等の祈願所となり大いに崇敬された。
 天文21年(1552)8月10日、上田原合戦のおり、鷹住根落城と共に武田方の兵火により、講堂・庫裡。倉庫等を焼失、本堂の什器等に至っては大半灰燼となった。
 天正5年(1577)時の住職憲勤は檀信徒の浄財を募りて、ようやく再建された。憲勤は紀州高野山三味院より法流継承して、中興の祖と称されている。
 江戸時代には善光寺会堂苅谷原宿の近接の寺として栄えた。
 戦国時代の戦史に残る刈谷原の城は宿の背後にあり、洞光寺墓地には武田勢と戦って戦死した城主太田資忠の墓碑がある。
 寺宝に県部下財に指定されている、応永13年(1406)に描かれた八大高祖の絵像8軸がある。これは河内国錦部郡の観心寺榎本坊からの伝来である。(信濃宝鑑より)

西牧山真光寺(松本市)

 松本市梓川1918   ☏0263-78-4662
 曹洞宗永平寺末 本尊 阿弥陀如来
 梓川地区上野にある真光寺は「上野のお庚申さま」と呼ば親しまれているおてらで、信府統記によると、高野山金剛頂院の末寺で建仁年中(1201~4)に創建、天文15年(1546)大檀那滋野讃岐守貞兼(法名海厳淵成了源大居士)が中興し開基されている。
 滋野氏とは、東信濃における古代からの氏族で、平安時代に東信地方から移住してきた大伴氏のいちぞくで、中世西牧郷の地頭主として住吉庄及び旧梓川村の山麓地域を支配した豪族で古幡牧を経営していました。
 国府松本の西方むにあった牧場のため、西牧ともいわれ、のちに土地の名をとって西牧氏と称するようになったと言われています。
 木造阿弥陀如来坐像と両脇侍像と聖観世音菩薩像(左)、勢至菩薩像(右)がある。阿弥陀如来坐像は、純粋の鎌倉様式の男性的な堂々たる仏像である。佐久市望月の福王寺の阿弥陀如来像も建仁3年(1203)の作で、ほぼ同じような作柄である。勢至菩薩像は中尊の阿弥陀如来像とほぼ同じころの製作と思われるが、藤原様式の女性的な作である。聖観世音菩薩像は室町時代末の製作で、藤原様式を真似ているが、特にお顔は江戸時代の仏像によくみられる面相になっている。
 昭和12年(1937)に国の重要文化財に指定されており、当地方の逸品である。
 鎌倉時代初期に滋野一族の安泰を願い造られ、阿弥陀如来坐像の像内背部には、「奉造立阿弥陀如来一体并に菩薩像二体、信心大檀那滋野兼忠女大施主橘氏……(略)……建仁3年(1203)2月10日大仏師僧□海、仏師僧栄海」と墨書されております。

auto_8JlvNX.jpg 真光寺

福聚山広田寺(松本市)

 松本市会田566   ☏0263-64-3802  家紋 六連銭
 曹洞宗 本尊 木造阿弥陀如来坐像  住職 25世真田照禅師
 虚空蔵山の南麓に位置し、旧会田宿の北側で会田小学校を少し登った殿村の地にあり、雄大な山並みの景観が望まれる。
 鎌倉時代に、海野氏系の岩下豊後守(海野氏11代海野幸継の二男会田次郎幸持が会田岩下氏となる)がこの地を領しており菩提寺として創建された。
 小笠原家の菩提寺である広沢寺(小笠原家の菩提寺)の4世雪江玄固が中興開山。はじめ知見院と号したが、のち地名から知見寺と称し、天文年間(1532~54)に現在地に移して広田寺に改めたという。
 現在の本堂は宝永2年(1705)大工重右衛門源七により再建され、天明3年(1783)に棟梁枡屋広七によって入母屋造り茅葺の山門がつくられた。
享和3年(1803)棟梁幸介により改築される。
詳しくはここをクリックして御覧ください

両羽神社(東御市)

 長野県東御市下之城169-1
 古代から中世にかけて、この地方一帯に勢力を持った滋野氏一族の海野・祢津・望月・矢沢諸氏が共同で奉納した先祖及び軍中の安全祈願碑で、正慶2年(1333)造立されたことが石台にの銘で読み取れる。
 表面 元祖神前エ 軍中之祈念成就 海野・望月両家 敬白
 裏面 3月28日 癸酉裁 時ニ正慶2 之ヲ献ズ 矢澤・禰津氏ニ石 追而
 この銘文から、海野・望月両氏が元祖の神の前で「戦いに勝たして下さい」と誓っている。時に正慶2年(1333)癸酉3月28日、矢澤氏と禰津氏も、これに賛同し、祈念のために米2石をあとから届けたというものである。
 この年は足利尊氏が佐久の大井氏と結び、鎌倉に味方する滋野一族と対立する年である。そのため建武2年(1335)には大井氏に味方した市河氏によって望月城は攻略され、その城郭は破却されている。望月氏の命運を賭した石龕であった。

auto_UeWw7s.JPG 両羽神社
詳しくは、ここをクリック両羽神社

恵日山修学院津金寺(北佐久郡立科町)

 長野県北佐久郡立科町山部279   ☏0267-56-0505
 天台宗比叡山延暦寺末  住職 97世矢埼大悟師
 大宝2年(702)僧行基が、諸国巡錫の途中、山部の地に来たときに榧の木で3尺3寸の聖観音像を彫、一寺を結んだことにはじまるという。
 仁寿年中(851~3)その弟子円仁が諸堂を完成したという。
その後、応和3年(963)には良源(元三大師)の弟子禅瑜、長保3年(1001)に孫弟子たる寂昭などが寺門を監して四宗兼学の道場としての基礎を固めた。
 中世に入り応安6年(1373)穏海大僧正が来寺するにおよんで、寺中36院・24坊・門末48寺を数えた。
 武田氏が佐久に侵入し、元亀3年(1572)寺は信玄の「定」によって四宗兼学の道場から天台の法流に復帰してその保護をうけた。武田が滅亡後織田信長の兵火にあって数十年間衰徴された。
 寛永17年(1640)そう舜海が入山して中興開基となり、さらに小諸城主松平康国が修復して、今日の姿を残す基礎を開いた。
 滋野一族は、奈良時代から平安時代にかけて設置された朝廷の望月牧むの牧官として信濃に来た名族である。鎌倉時代は、源頼朝に仕えて弓の名手として信濃鎌倉武士の代表格の一族であった。
 宝塔は、寺の静かな裏山にあり、滋野某夫妻が承久2年(1220)4月8日に生前の供養を行って奉納したといわれる逆修供養塔が2基(北塔・中塔)と、滋野盛□らが嘉禄3年(1227)10月14日に亡父母の菩提を弔うために造立し、法華経などを書写して奉納したと伝えられる納経塔1基(南塔)がある。
 この3基の宝塔には、それぞれ正面に造立の年代などが陰刻されているが、法灯の軸部は、軟らかい火山の焼石を用いているため、すでに摩耗していて判読も国難な文字が多い。
 石造塔婆で、時代的特色を表している重要な数少ない石造文化財であり、昭和49年には長野県宝にも指定されている。
 寺の裏山に咲く「カタクリ」の花は見事なものです。

auto_n6zSRA.JPG 津金寺の三基の宝塔

白鳥山善念寺(上越市)

 新潟県上越市東本町3-2-51  ☏025-523-5671
 浄土真宗大谷派  住職 滋野範雄師(松代証連寺(海野姓)より養子)
 開基は正応5年(1293)に宗祖親鸞聖人の曾孫覚如上人が、親鸞聖人の伝記を著すため信州・越後の聖跡を調査の折に、案内したのが宗祖と一緒に法然上人に本願念仏の教えを聞いた西佛房の長男浄賀であった。
 この時覚如の勧めにより、浄賀は藤巻に一寺を建立した。今から約700余年前のことである。浄賀は自坊の法灯を継ぐため弟の浄賢が初代住職となった。
 本尊は浄賀の父(西佛房)が宗祖より賜ったもので、御長さ1尺8寸で恵信僧都作と寺伝に記されている。
 貞和年間(1345~49)に信州白鳥の宿(しなの鉄道線滋野駅近く)へ移転、理由は不詳だが、上杉謙信の祖父能景・父為景をして謙信が一向宗(浄土真宗)の禁止政策をとったことが考えられる。謙信は晩年真宗門徒と手を結んだためといわれている。
 天正年間(1573~91)に藤巻に戻る。念仏者堀氏の福島城下に殆どの寺院が集められたが、善念寺は藤巻にとどまり、寛永21年(1644)に現在地に移る。以来370余年の星霜を経る。

善念寺の歴代住職
 1代 浄賢 永和2年(1376)2月3日寂 95才
 室 妙専尼 永徳2年(1382)5月8日寂 92才
 2代 祐観 正長元年(1428)2月2日寂 74才
 室 妙祐尼 宝徳3年(1454)9月10日寂 70才
 3代 浄祐 文明15年(1483)10月18日寂 79才
 室 妙英尼 永正2年(1505)5月22日寂 82才
 4代 祐賢 正保2年(1645)8月24日寂 92才
 室 妙乗尼 天正元年(1573)4月18日寂 54才
 5代 乗賢 寛永8年(1631)6月3日寂 75才
 室 妙西尼 元和元年(1615)1月19日寂 60才
 6代 英賢 寛文2年(1662)7月12日寂 58才
 室 妙敬尼 寛文10年(1670)12月13日寂 63才
 7代 理賢 延宝8年(1680)1月7日寂 74才
 室 歓喜院妙円尼 元禄11年(1698)1月15日寂 96才
 8代 憶賢 延享3年(1746)10月26日寂 78才
 室 恵性院妙秀尼 寛延2年(1749)7月19日寂 82才
 9代 秀賢 宝暦6年(1756)12月8日寂
 10代 寂賢
 ……
 19代 浄栄の弟浄誓が白鳥山念仏寺(吉田字将軍塚)開基創建するが無壇になり、
    明治6年に廃寺となる。 

auto_Qm8Ulm.JPG 善念寺

伽羅陀山円性寺(高崎市)

 群馬県高崎市下小塙405    ☏027-343-0872
 真言宗豊山派    住職 小崎隆正師
 当寺に、高崎市の重要文化財に指定されている「文永年中在銘の地蔵菩薩像」がある。高さ31㎝の小さな鋳鉄で、以前は右手に錫杖(しゃくじょう)を、左手には宝珠(ほうじゅ)を持っていたようです。
 仏像の造られたのは、背中に刻まれている「信州小方郡海野宿に住む柏大夫入道と、その友法阿弥が、仏の力にすがって父母や自分たちが、安隠に生きられるように仏像を造った」とあり、「文永11年(1274)9月21日」の日付も見えます。
 この地蔵菩薩は、小県郡の海野宿から東山道を尼僧が背負われて、険しい碓氷峠を越えて、はるばる小深郷(鎌倉時代の小塙)まで運ばれてきたものでしょう。
 文永11年は、偶然にも一度目の蒙古から元寇の年です。フビライ率いる元・高麗の軍勢が博多周辺に上陸し、火薬を使った新兵器で、鎌倉の兵士たちを圧倒しました。(高崎市文化財保護課の広報より)

auto_dTOdsf.JPG 円性寺の地蔵菩薩

大洞山雲林寺(群馬県長野原町)

 群馬県吾妻郡長野原町大字長野原73   ☏ 0279-82-2201
 曹洞宗 本尊 釈迦如来   住職 29世 大典紀久師
 弘長3年(1263)、臨済宗妙心寺派に属する龍幡和尚が創建した。
大字長野原字火打花にあったが、その後貝瀬に移った。約300年間、非常に栄えていたが、大火災で焼失してしまう。
 永禄2年(1559)3月15日、海野幸光が開基となって現在地に伽藍を再建した。
海野幸光は西吾妻地方の吾妻川左岸に勢力を持ち、戦国時代に羽根尾城に拠った羽尾景幸の孫である。
しかし、天正9年(1581)、真田幸村の父昌幸に滅ぼされてしまう。
永禄2年(1559)、後閑(安中市上後閑)の長源寺9世、為景清春(イケイセイシュン)が曹洞宗大洞山雲林寺として創建されて現在に至っている。
 近世になり、沼田藩真田氏の支配下になり、寺領田畑30町歩、檀家400であった。

s_clip_0091.jpg 雲林寺参道

天明3年(1783)7月8日、浅間山の噴火によって吾妻川流域の村々は一瞬にして溶岩泥流に溢れ、泥海と化した。長野原町の死者数は当寺の人口の半分にあたる約200人、71軒の家屋が倒壊し田畑の8割が被害にあった。
寺も柱二本だけを残し泥流に消えたが、地元の有志の人たちにより再建した。そのときの住職であった13世枝転梅応和尚は、大噴火の祭、過去帳だけを逃げもちた為、明暦4年(1658)からの記録が保存されている。

s_clip_0090.jpg 雲林寺本堂

開山  為景清春大和尚
 二世  立山宗建大和尚
 三世  明堂芳球大和尚    
 五世  古山呑秀大和尚
 六世  瀾室建秀大和尚
 七世  不迷秀達大和尚
 八世  膠室種鸞大和尚
 九世  山堂易瑞大和尚
 十せ  野外柏応大和尚
 十一世 松草喚公大和尚
 十二世 華嶽春芳大和尚
 十三世 枝転梅応大和尚
 十四世 知道丈瑞大和尚
 十五世 大応円丈大和尚
 十六世 禅苗秀丈大和尚
 十七世 謄雲竜丈大和尚
 十八世 古龍雲松大和尚
 十九世 覚明原道大和尚
 二十世 古鏡春台大和尚
 二一世 甎鏡古明大和尚
 二二世 無角泰牛大和尚
 二三世 灑宝竜禅大和尚
 二四世 蘭翁秀苗大和尚
 二五世 禅山一丈大和尚
 二六世 巨海泰量大和尚
 二七世 古典省吾大和尚
 二八世 大慈提三大和尚
 二九世 大典紀久大和尚(現在) 

柏尾山大善寺(甲府市)

 山梨県甲府市勝沼町勝沼3559  ☏0553-44-027
 真言宗智山派  本尊 薬師如来像
 奈良時代に行基の開創と伝え(延慶3年(1310)「関東下知状」)本尊である像の様式から創建は平安時代前期と考えられている。
 薬師堂は天禄2年(971)三枝守国による建立とする伝承があり(天文14年(1545)「大善寺諸堂建立炎上記」)在県ー庁官人として甲府盆地東部の東郡地域で勢力を持った古代豪族である三枝氏の氏寺とされる。
 寺伝では養老2年(718)行基が甲斐国柏尾山の日川渓谷で修行したときに、夢の中に葡萄を持った薬師如来が現われ、満願を果たし、葡萄を持った薬師如来像を建立したことが当寺の起源であるとされている。
 鎌倉幕府が甲斐・信濃国において棟別銭を課して本堂を再建された。
天正10年(1582)織田・徳川連合軍に攻め込まれた武田勝頼が岩殿城(大月市)に向かうときに大善寺に戦勝を祈願したが、岩殿城主小山田信茂の離反に会い、天目山で自決した。この一部始終を目撃した理慶尼が記した武田滅亡記が大善寺に保管されている。
 寺の文化財は次の通りです。
 国宝        本堂(薬師堂)厨子1基
 重要文化財(国指定) 木造薬師如来及び両脇侍像
           木造十二神将立像
           木造日光・月光菩薩立像
 この寺の墓地には海野家の墓があり、その傍に理慶尼の墓もある。

auto_7nqPZW.JPG 大善寺

龍華院大猷院霊屋(掛川市)

 静岡県掛川市掛川1104   ☏0537-21-7740
 住職 海野栄久師
 明暦2年(1656)嗣子のない掛川城主北条氏重が三代将軍徳川家光の霊を祀り、家の存続を願ったといわれる三間四方の方型作りの霊廟です。
 文政5年(1822)に掛川城主太田資始により再建され、現在は県の有形文化財に指定されています。
 秋には見事な紅葉が満喫できる隠れた穴場となっています。(掛川市広報より)

auto_aQ0P1v.jpg 大猷院霊屋

玉井山長栄寺(静岡市)

 静岡県静岡市葵区籠上24-1   ☏054-271-3904
 曹洞宗  本尊 聖観音菩薩像
 戦国時代の永禄10年(1568)甲斐の戦国大名、武田信玄が今川氏の領土である駿河に侵攻してくる。
 慶長2年(1597)にこの村の農夫海野助左衛門の先祖が開基したと言われている。
 法名 甫庵長栄居士
 駿河今川氏7代目当主今川氏親は亡ぼされ、慚愧山城にいた姫は重臣と共に脱出した。
 安倍川の対岸にある増善寺に逃れることになり、家宝の聖観音菩薩像が武田軍に略奪されるのを防ぐため、長栄寺の井戸の中に隠しました。のちに井戸の中から発見された観音像は、井戸出現観音と称されて信仰を集めています。(掛川市観光ガイドより)
 安倍七騎「駿河国風土記」によると、杉山小太郎右衛門・望月四郎右衛門・石谷弥兵衛・狩野弥八郎・末高某・朝倉六兵衛・中村村海野弥兵衛の7人なりという。この海野と朝倉は七騎より大家にて家格七騎の上にありという。

その他全国滋野系寺院

 宝英寺 浄土真宗大谷派  住職 望月道雄師 
     秋田県仙北郡六郷町六郷54 ☏0187-84-1615
 東林寺 曹洞宗      住職 白鳥隆照師
     福島県田村郡船引町椚山追館239  ☏0247-78-0159
 長源寺 曹洞宗      住職 白鳥隆照師
     福島県田村郡大越町下大越103   ☏0247-78-0159
 西円寺 浄土真宗本願寺派 住職 真田信隆師
     福島県耶麻郡猪苗代湖町新町4899 ☏0242-62-2833
 幸生寺 浄土真宗大谷派  住職 真田正美師
     茨城県真壁郡明野町東保末716   ☏0296-53-8288
 本竜寺 浄土真宗大谷派  住職 白鳥滋雄
     新潟県南蒲原郡栄村帯織1238   ☏0256-45-2107
 西厳寺 浄土真宗大谷派  住職 白鳥滋雄(代)
     新潟県栃尾市谷内173       ☏0258-52-3089
 善福寺 浄土真宗大谷派  住職 滋野憲雄師(代)
     新潟県上越市本町2-12-29  ☏0255-24-7847
 等覚寺 浄土真宗大谷派  住職 滋野憲雄師(代)
     新潟県上越市大字諏訪17   ☏0255-20-7354
 唯願寺 浄土真宗大谷派  住職 白鳥哲照師
     新潟県上越市南城町2-70   ☏0255-23-5829
 明福寺 浄土真宗大谷派  住職 白鳥法淳師
     新潟県上越市中箱井181    ☏0255-25-1706
 明道寺 浄土真宗大谷派  住職 白鳥利恵師
     新潟県新井市十日町410-1   ☏0255-72-0213
 専長寺 浄土真宗大谷派  住職 白鳥智正師
     新潟県中頚城郡三和村窪    ☏0255-03-0645
 西円寺 浄土真宗大谷派  住職 白鳥宝心師
     富山県婦負郡婦中町小泉49   ☏0764-66-2693
 自福寺 曹洞宗      住職 真田光道師
     富山県黒部市若栗5269     ☏0765-52-6107
 立山寺 曹洞宗      住職 真田智光師
     富山県新川郡上市町眼目15   ☏0764-72-0699
 海恵寺 曹洞宗      住職 真田智光師(代)
     富山県滑川市追分1642     ☏0754-77-0905
 真月寺 曹洞宗      住職 滋野秀孝師
     富山県砺波市太郎丸277     ☏0763-32-0710
 専順寺 浄土真宗大谷派  住職 真田研寿師
     石川県鳳至郡穴水町甲「黒崎」  ☏0768-58-1068
 真乗寺 浄土真宗大谷派  住職 真田博師
     石川県金沢市本町2-17-30    ☏0762-31-1604
 称仏寺 浄土真宗大谷派  住職 滋野井恬師
     石川県能美郡寺井町寺井ラ154  ☏0761-57-0494
   
 西光寺 浄土真宗本願寺派 住職 宇野俊夫師
     滋賀県神崎郡五箇荘町下目吉312 ☏0748-48-2036
 善行寺 浄土真宗大谷派  住職 真田秀一師
     滋賀県彦根市野田山町280    ☏0749-22-2966
 
 法光寺 浄土真宗本願寺派 住職 宇野淳成師
     岐阜県霜新町36         ☏0582-65-2798
 長泉寺 曹洞宗      住職 真田智英師
     愛知県北設楽郡東栄町東薗目28  ☏0536-76-0988
 専立寺 浄土真宗大谷派  住職 真田隆専師
     山梨県東山梨郡勝沼町等々力1627 ☏0553-44-0393
 常現寺 曹洞宗      住職 望月良雄師
     静岡県掛川市日坂506-1     ☏0537-27-1050
 見性寺 曹洞宗      住職 望月智芳師
     静岡県静岡市新間1089-123   ☏0542-78-9790
 
 喜善寺 曹洞宗      住職 望月智芳師(代)
     静岡県静岡市新間702    
 龍洞院 曹洞宗      住職 望月正道師
     神奈川県小田原市萩窪172    ☏0465-34-2812
 宝安寺 曹洞宗      住職 望月正道師(代)
     神奈川県小田原市浜町1-4-38  ☏0465-22-3030
 妙林寺 浄土真宗本願寺派 住職 真田大道師
     京都市北区大将軍川端町71   ☏075-465-6704
 
 勝福寺 浄土真宗本願寺派 住職 真田秀範師
     京都市上京区中立売通松尾町西入新白水丸町455
                    ☏075-451-7529
 常福寺 浄土真宗本願寺派 住職 真田誓頌師
     奈良県大和郡山市柳4-39    ☏0743-52-2319
 真光寺 浄土真宗本願寺派 住職 真田季隆師
     奈良県宇陀郡榛原町大字橧枚206 ☏0745-82-4045
 全真寺 浄土真宗本願寺派 住職 真田信達師
     奈良県宇陀郡榛原町大字自明1292 ☏
 真楽寺 浄土真宗本願寺派 住職 真田智龍師
     奈良県宇陀郡榛原町高井502   ☏0745-82-1629
 瀧上寺 浄土真宗本願寺派 住職 宇野順治師
     奈良県吉野郡下市町善城27    ☏1757-52-2853
 光円寺 浄土真宗本願寺派 住職 宇野憲章師
     奈良県吉野郡下市町栃原1398   ☏0747-52-0654
 正念寺 浄土真宗本願寺派 住職 白鳥祐祥師
     長野県飯田市中央通2-9     ☏