真田氏の始祖

謎の多い真田氏

 真田といえば、現在でこそ武門の名家として人気が高く、日本中で知らぬ人のない真田一族だが、そのルーツについては、謎に包まれている部分が多く、家系などの記録の信頼性に幅広い見解があり、真田氏がいつごろから始まったのか、真田幸隆の出生についても決定的な史料が無く、真田氏の起源や幸隆以前の家系について様々な推測はできても確定させることは出来ないのが現状であり、今も謎に包まれております。
 もっとも、これは真田家だけに限ったことではなく、数ある戦国大名家でも、由緒正しい名家といえる一族は少ない。
 
 真田家の家系が詳しくわかるのは、信繁の祖父幸隆(幸綱)以降で、ゆえに真田氏については(真田三代)などと呼ばれ、幸隆以前にはさかのぼれないのが現状である。幸隆以後(真田三代)の歴史は、わずか百年余りである。

auto_21Kzix.jpg上田駅前の真田幸村の像

 だが、江戸時代になって軍記物の流行や講談本などの流布により、真田家は圧倒的な人気を博しております。なかでも徳川家康を相手に二度にわたって戦いをいどんで苦杯をのませた父の昌幸とともに、信繁は「真田幸村」の名で大坂冬・夏の陣で天下の軍勢を向こうにまわして大活躍を演じて、一躍英雄となり戦史に名をとどめている。
そうしたなかで、真田家の逸話も多彩に広がっていて、虚実も含めての真田家のルーツを物語る話や寺社・遺物・遺跡もいくつかがある。

 戦後、多くの歴史研究者によって、真田幸隆以前の真田氏の存在した様々な説が出てきています。
いくつかの説は唱えられているが、真偽は不明のままで、研究上の問題が残されている。
 
 そのひとつに角間渓谷の麓で発見された日向畑遺跡の石塔群があります。
昭和46年(1971)に発掘調査で出土した石塔群の形式が室町から戦国時代にかけてのものと見られ、真田氏に縁のある先祖の墓と考えられている。しかし実際には幸隆以前の真田氏の動向など伝える資料(幸隆の両親・祖父母を祀っていない)もなく、出土したこれらの石塔群と結びつける要素は何もなく、確かなことは分からない。
奇しくも、この角間渓谷は、講談・真田十勇士の猿飛佐助修業の地ともいわれ、真田氏のルーツとして考えたい願望が、地域の人の心に根強くあったのかもしれない。

 やはり幸隆以前の真田氏とは、記録に残ることのない弱小勢力であったと考えられている。
そんな関係から注目することは、地域の史観には、真田氏の先祖は信濃国東部に古代から栄えていた滋野一族に属する海野氏の流れと考える向きもあって、直系ではなく、その分かれには違いなかったと思われる。
 幸隆のほかにも真田なる家が存在していたことは事実であるから、幸隆以前の真田氏を示す系図や古文書なり、信頼のおける史料や遺品なりがあってもよいとおもわれるのだが、なぜかそうした類のものは伝存されておらず、ほとんど出てこないのである。

 今からおよそ1,300年ほど前の奈良時代の大化改新(645)によって、国造により地方政治は、大和政権から任命された国司・郡司による政治へと変革された。
朝廷が地方を支配するために国府(今でいう県庁にあたる)が各地に設置されました。
 地方の研究家の説としては、信濃の政治をおこなう国府が上田近辺(国分寺付近)に置かれ、その国府には政治や軍事のための軍馬・役人の乗馬・物資の輸送手段として馬は大事なもので、国府があったところには良質な馬を多数備えられる牧場がなくてはならない。
したがって当然この馬を飼育し、それを守る衛士が必要であり、その国府直属の牧経営にあたったのが真田氏の祖であろうというもので、国府兵馬の運営を基盤に、古代から成長してきた家だというのである。
 古代の牧場に関係する地名(野馬除・鞍掛・牧内など)や遺跡が多く残されていて、また牧場の守護神といわれる駒形神社や馬頭観音を祀る古代の寺も現存している。

 今から1,200年前、信濃国に古代の名族大伴氏が栄えていて、牧の経営にかけては比類のない力を発揮したといわれている。
東信濃でも平安初期に書かれた古い書物『日本霊異記』に大伴氏なる豪族が海野郷にいたことが記されている。
また、北佐久郡の有名な望月の牧には「大伴神社」が祀られています。

 この勅旨牧は、信濃・上野・甲斐・武蔵の四カ国に限って32牧が指定されており、信濃国は、一国だけでその半数の16牧が勅旨牧となっている。
 新治牧(現在の東御市新張)、御牧原台地(旧北御牧村)の望月牧は、良馬を出すことで「望月の駒」として詠にも多く詠まれたことはよく知られているとおりである。
だが、信濃の国牧の牧名に真田らしき名が見あたらないことから、これは海野・望月氏らは「御牧」(朝廷の勅旨牧)の経営者であったのに対し、真田氏は「国牧」(国府直轄の牧場)の管理者という違った性格をもっていたからではなかろうか。
やがて中央政権の没落とともに「国牧」も私牧化され、そのころから真田氏を名乗ったのではなかろうか。真田氏は、この私牧を基盤として地方の土豪に成長したものと考える方が自然であろう。
また信濃国牧のなかにも牧名がなく、南北朝の争いの頃の信濃の武士の中にも名が見られないことからも、これまでに確証されるには至っていなく、推測の域を出ません。

 このほかに、真田氏を日本武尊の末裔の綾公という説。また『真武内伝』には、仁明天皇のころ来朝した百済国の王の子孫とする説まである。

真田家系図

 さらに、その海野氏に証明できる清和天皇に繋がる伝承があります。
清和天皇の第四皇子貞保親王を始祖とするものです。
貞保親王は、音楽の名人だといわれ、そのため「南宮管絃仙」と呼ばれていました。
 ある日、御所で管絃が行われ、貞保親王は琵琶を弾じていました。
その音色に誘われて、燕が一羽室内に飛び込んできました。親王はツバメに目を向けたそのとき燕が糞を落とし、それが親王の眼の中に入り、親王はそれが原因で重い眼病を患ってしまう。
 しかし都の名医に診せても一向に治らない。
ある人が「信濃国の加沢温泉(現在の群馬県嬬恋村)に眼病が治るそうです」と聞き、そこで親王は信濃国に赴き、深井という家に滞在して湯治に努められた。
眼の痛みは消えたが視力は回復しなかった。結局盲目になってしまった。
そのため親王は都には帰ることなく、小県郡海野白鳥庄で暮らすこととなった。
 やがて世話をしていた深井某の娘との間に子が生れ善淵王と称し、初めて滋野姓を賜るという。
 善淵王の玄孫にあたる滋野則広の子・重道の代には海野氏を名乗るようになり、その子の代には祢津氏・望月氏へと分かれていく。一族を滋野三家とも称され、信濃国小県郡や佐久郡を中心として、広く上州へも栄えていった。
また「新撰姓氏録」によると滋野宿祢は神魂命五世の孫天道根命の後裔ともいわれている。

 また、江戸時代に幕府の求めに応じて作成された『真田家系図』によると、真田氏は清和源氏の発祥で、信濃国小県郡海野郷(現在の長野県東御市)の海野棟綱の子である幸隆が小県郡真田の庄を領し、松尾城に居住して以後、真田姓を名乗ったとしている。
 当時、戦国大名家の系図づくりの際、出自を名族に結びつけることは常道であり、真田氏の場合も清和源氏を出自とするのは疑わしいものです。
また、真田氏が本家筋としている海野氏は滋野氏嫡流を称しているので、これも清和源氏説と矛盾してしまう。海野氏からの改称も、自らを信濃の名族、滋野一族の宗家の嫡流として出自を結びつけた可能性があり、こちらも確証できていない。

真田系祭神

 伝承の域を出ない起源譚は、京都山科に伝わる貞保親王説話が信濃で在地化されてきたものと考えられるが、これが海野・真田氏の氏神、白鳥神社の祭神伝承であり、松代藩の編纂した『真武内伝』に伝わる滋野一族のおこりである。

uno_02_1.jpg白鳥神社

 やがて親王が延喜2年(902)4月に死去され、法名「海善寺殿」とし、のちに海野氏居館の鬼門に建立された海善寺の開基と伝えられている。
その後、真田昌幸の上田築城のときに城下の鎮護の寺として移築され「海禅寺」に、真田信之の松代移封においては一族の氏神・白鳥神社とともに遷され「開善寺」と改称されて、今日に至っております。

auto_PAqPFv.jpg海禅寺

 また親王を祀っている宮嶽山稜神社(現在東御市祢津)が建立された。
その後、江戸時代に松代藩主真田家より先祖への御供料として毎年米10石が進納されている記録がある。
真田家当主により「先祖」としているところが研究者の興味を引くのである。

 こうした点から、真田氏が海野氏らの滋野一族と深いかかわりがあると考えるのは、なにも不自然なことではない。ここでいう滋野一族とは信濃の小県から佐久方面に、また西上州方面にも勢力のあった名族の総称であることから、まず滋野一族の流れから海野・真田氏を考察してみよう。

滋野氏と海野氏

 滋野姓そのものの名は古く、平安時代の『六国史』に滋野朝臣貞主とある。
その父は楢原造東人なる人物で、ゆかりが深いとされる大和国葛上群楢原(現在の奈良県御所市楢原)にある地名である。
ここに駒形大重神社が鎮座し、祭神は二座で一座は滋野貞主が祀られている。
全国にも数少ない楢原(奈良原)という地名と、東人を東国出身の人物と考え、楢原東人の先祖の地を推察するに信濃国の楢原(現在の東御市奈良原)にも何らかのつながりがあるのだろうか。

 楢原貞主は、奈良の平城京から大同元年(806)5月18日平安遷都により、平安京の滋野という地 (京都御所西南の府庁の地)に移住し地名をとって滋野貞主となったと思われる。
この貞主の孫が滋野恒蔭、その恒蔭の子恒成は清和天皇の皇子貞保親王の家司となっている。
妹は貞保親王に嫁いだ。
滋野恒成の子恒信は、天暦4年(950)2月に信濃国望月の牧監となって下向、地名をとって海野幸俊と改名し初代海野当主となったという。
どうやら始祖伝承への伏線が垣間見えるところである。
 
 海野の一族で他に祢津氏(現在の東御市祢津)と望月氏(現在の佐久市望月)の両者は共に牧の管理者として居住していた。
その海野・祢津・望月の三氏を滋野三家とよんでいる。
その中でも海野氏は早くからその頭角をあらわし、もっとも勢力さかんで、当主は代々信濃守を称した。
 鎌倉時代に10代海野小太郎幸氏が出て、騎手の名手として名をはぜ、このころから海野氏は各地に支族をひろげ繁延していった。信州筑摩郡に移住したものに、会田・塔ノ原・田沢・苅屋原・光の諸氏ばかりでなく、上州吾妻郡に入ったものは鎌原・西窪・湯本・下尾・大厩・羽尾氏などが海野氏から派生した武士だといわれ、この頃の海野氏一族は信濃と上州の国境を隔てた広大な地域を勢力範囲として、その地方を開拓して栄えていた。

 海野氏としての最古の書見が保元元年(1156)7月に起きた「保元の乱」の記述にある。
8代海野幸親は天皇方の将、源義朝に属して京都に上り、信濃武士300余騎を率いる左馬頭として武功をたてたという。
以後、鎌倉時代は幕府の御家人となり、代々、弓馬の誉れ高き一族として名を馳せている。

 『浅羽本』信州滋野三家系図に記されている。
この系図によると真田氏の祖は、海野氏から早い段階で分かれ一族で、古く鎌倉時代(1,200ごろ)中期とされております。
すなわち、源頼朝の御家人で弓の名射手として活躍した海野小太郎幸氏の孫で、海野長氏の子に、四男七郎幸春が真田に住み、その在名をもって真田氏と称したことに始まるとしている。
この『真田七郎幸春』が真田氏発生の源流ではあるまいか。
ただし、これも証拠がなく裏づけがとれません。

 滋野氏流海野氏の功名の一大起点は木曽義仲の挙兵であろう。
源義朝の異母弟義賢の子として生まれた義仲は、源氏の内紛を逃れ木曽の中原兼遠に預けられ育てられた。
 治承4年(1180)以仁王より平家追討の令旨を受けた義仲は、東信濃の馬飼の豪族、滋野一族根井行親らを頼り挙兵する。
 8代海野幸親を筆頭に滋野一族の全面的な後楯もあり、さらに北信の源氏も上州武士団も加わり、海野氏の氏神である白鳥神社前の白鳥河原に3,000騎を集結し、越後の城四郎長茂の大軍を横田河原合戦で破り、さらに倶利伽羅合戦で平家の大軍を撃ち破り京へと進軍した。

『源平盛衰記』によれば、海野幸親の嫡男、9代幸広は義仲軍の侍大将として活躍、都落ちした平家の追手として水島合戦に挑むも不慣れな海戦で平家の逆襲を受け討死にした。
その際、海面に浮いた渦が銭を連ねたように見えたということから、今までの州浜から「六連銭」紋を旗印としたと、松代藩編纂による『滋野通記』は伝えている。

六文銭ともいう。海野広幸が、人間の不義や天災、悪疫それに合戦などによる、いたましい世の中から衆生を救うという、仏教のあこがれからきたものだと伝えられている。旗印に死の覚悟を示しながら戦うという意味もあり、死んで三途の川を渡るときは、渡り賃として六文を払うといわれがある。

 信濃の荘園は、京から遠く離れており年貢米輸送も不便であったところから初期には発達せず、院政時代に入ってから寄進型荘園として成立する。
文治2年(1182)3月に年貢未済として書き上げられた荘園のうち、小県地方に、皇室領として塩田荘・常田荘・依田荘、寺社領として浦野荘、諸家領として海野荘・小泉荘、左馬寮領として新張牧がある。
しかし、真田地方には荘園の名は見あたらない。

 幸広の子、10代海野幸氏は、義仲の嫡男、義高が人質として源頼朝のもとへ送られたときに随伴して鎌倉に赴き、義高への忠誠心をかわれ源頼朝に仕えることになる。
鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』には、この幸氏が弓馬の活躍が幾度なく記されている。
文治3年(1187)8月の放生会では一番手を若干16歳の海野幸氏、二番手を名手、諏訪盛澄が行った。
文治5年(1189)正月の弓始めに三浦義連と並んで四番目の射手を命ぜられる。
建久元年(1190)の頼朝上洛に祢津次郎らと共に随行しておる。
建久6年3月の将軍家東大寺供養に祢津次郎らと共に随行しておる。
また建久8年の頼朝善光寺参詣にも、随兵として後陣を命ぜられている。晩年には北条時頼の弓を指南し、あの西行から伝授された弓の極意が幸氏の語りで『吾妻鏡』に記されている。
 このころ海野幸氏は白鳥神社を現在地(現在の東御市本海野)移す。
また、海野氏は古城から太平寺村に海野氏館(現在東御市本海野、100万ドルの社長宅の辺)も移す。

 海野幸親の二男幸長(通広)は、義仲の祐筆「大夫房覚明」であるといわれている。
『源平盛衰記』の三箇の馬場願事によると、侍僧の覚明が白山妙理権現に願文を綴り、最後に「.....寿永2年5月9日、源義仲敬白」と結ばれて、白山を礼拝し、戦勝を祈ったと記述されている。
この願文を書いた覚明は、その後も倶利伽羅合戦(砺波山合戦)を前にして「埴生新八幡宮」に残る義仲必勝祈願の願文や、さらには「比叡山延暦寺への回文」なども書いている。
これらは、調略の木曽山門牒状の名文で知られる軍師でもあった。
 義仲滅亡後は、親鸞に帰依し、故郷の海野庄に戻り康楽寺を開基(現在の長野市篠ノ井康楽寺の縁起)した。

『平家物語』の作者の一人とも考えられている異才の僧である。
 覚明伝説も含め、海野氏は僧侶や修験者も多く輩出している。
室町時代の曹洞宗の名僧、如仲天誾も海野氏出身である。
『日本洞上聨燈録』によれば遠州の大洞院(静岡県周智郡森町橘)の開基で、その流れに徳川家康ゆかりの可睡斎(静岡県袋井市)があり、海野氏菩提寺の興善寺(現在の東御市和)は、その末寺として今に繋がる。

uno_08_2_1.jpg興善寺の石垣と山門

 また、浅間山を霊場とした吾妻修験道は平安末期に上州を開拓した海野幸房こと下屋氏が統括者で、四阿山信仰にも繋がりがある。
現在ではとかく修験を怪しげな存在に据えがちだが、中世においては、仏法と神道が一体化した一大宗教組織であった。
山形の羽黒山修験には鎌倉時代から真田という家があるが、はたして修験を司る海野一族との交流があったのか、今後の研究課題としたい。

 両羽神社(現在の東御市下の城)に船代と善淵王の二人の木像が祭神されている。また境内の収納庫に石龕(せきがん)があり、台座に正慶2年(1333)3月28日海野・望月氏が元祖の神の前で戦勝祈願を誓い、これに祢津・矢沢氏も賛同し、祈念のために米二石をあとから届けるという銘がある。
 この年は足利尊氏が佐久の大井氏と結び、鎌倉に味方する滋野一族と対立し、建武2年(1335)には大井氏の味方した市河氏によって望月城は攻略それ、その城郭は破却されている。望月氏の命運を賭した石龕であった。
 しかも、この時も矢沢氏と同族である真田氏の名前は存在していない。

s_IMG_0011.JPG両羽神社の石龕

 
 そのように文武、経済の多面的な統治を広げた滋野一族であるが、開発領主として連合した政治行動も起こしている。

 南北朝時代、鎌倉での北條氏敗北が、北條勢力の一掃を意味するわけではなく、全国各地にはなお北條氏に心寄せる武士もいた。
ことに信濃では北條高時の遺児時行を諏訪頼重・大祝時継らがかくまい、時節の到来を待っていたが、足利尊氏と結んだ守護小笠原貞宗・村上信貞らの勢いも強く、建武2年(1335)7月時行は挙兵し、滋野一族の祢津・望月・海野らは、これに応じた。
勢いに乗じた時行軍は、足利直義らの防戦を退け、7月25日鎌倉を回復して、これを中先代と称せられた。
しかし僅か20日ほどの後には足利軍に攻められて破れ、頼重・時継は自害した。
だが、建武新政は同じ年10月の尊氏氾濫で早くも分裂し、宮方(南朝)と武家方(北朝)にわかれて戦闘を始めた。すると時行は使いを後醍醐天皇の吉野行在所に送って帰順を表明し、ここに信濃の中先代党(北條党)は宮方につくこととなった。
しかし武家方の勢力は小笠原氏・村上氏を中心に強力で、諏訪氏・金刺氏を中核とする宮方を圧倒し、暦応3年(1340)に伊那・大徳王寺城で挙兵した時行を討って、その優勢ははっきりとし、文和4年(1355)の桔梗ケ原の戦いで宮方の退潮が決定的となった。

 応永7年(1400)7月、念願の信濃守護に補任された小笠原長秀は、信濃に入り各地の豪族(国人)を招集した。しかし長秀の傲慢なふるまいに対して、東信濃や北信濃の古くからの在地豪族が反感を招き、いわゆる信濃の国人たちが団結して立ち上がり、長秀を打ち破って、都に追い返してしまう事件が勃発した。
同年9月のことで、場所は大塔(長野市篠ノ井)の古要害に逃げ込んだ守護方300余騎が、ほとんど自害・討死するという凄惨な結末を戦場としたことから大塔合戦と称せられた。
このときの様子を綴った『大塔物語』には、信濃各地の豪族の動向が記録されている。
その中心人物は村上満信であるが、その戦いには佐久勢(伴野・望月等)は700余騎で雨の宮対岸に、海野宮内少輔幸義ら小県軍勢は300余騎で篠ノ井山王堂に、高梨勢は500余騎で篠ノ井二つ柳に、井上勢は500余騎で千曲川式に、大文字一揆は仁科と祢津遠江守を中心に800余騎で布施城後方の芳田崎石川にと、総数3,300余騎が大集結した。
 その大塔城攻めで、海野氏のもとに中村・会田岩下・深井・土肥などの諸氏、また大手一の攻口の大将として小県から国人方の祢津遠江守遠光のもとで、合戦に加わった東信濃の武士の中に、桜井・別府・小田中・実田・横尾・曲尾氏などの諸氏が参加していたと書かれている。
ここにある「実田」が「真田」とおもわれる名の初見で、当時の真田氏の動向を示す唯一の記録がみられ、数集落を支配していた小領主と考えられる。
「横尾」「曲尾」も現在、真田地域の小字名に見られるものである。
「実田」は「真田」と読み間違いか、当時はそうだったのか不明だが、読みの音や意味的には近いと思われる。
この頃、真田氏が横尾氏や曲尾氏とともに、真田一帯の地を三分する形で領有していたことを物語るものであり、真田氏は神川の左岸一帯、横尾氏は神川の右岸横尾から戸沢にかけての一帯、曲尾氏は傍陽川沿いの曲尾・萩・中組等の一帯をそれぞれ領地としていた。
海野流真田氏とすれば、祢津氏も滋野一族であり、海野氏とは同族意識があっての行動であろう。

 この合戦後も信濃では領主の反乱が続いたが、小笠原政康(長秀の弟)は次第に勢力を伸ばし、応永32年(1425)信濃守護となり、永享12年(1440)の3月から翌嘉吉元年(1441)4月にかけて、一年の余も、ここにあった下総の結城城を囲んで大合戦が行われた。
上杉氏との戦いで滅びた鎌倉公方の足利氏を公方として再興させるために、結城氏朝が室町幕府を相手に戦いを挑んだ戦いで、現在の関東地方で起こりました。
この合戦に信濃勢30番を率いて攻撃軍に参加した。
このとき作られた『結城陣番帳』にも信濃の諸豪族が記録されており、30番のうち10番として24代海野幸数があり、27番として大井三河守らと共に祢津遠江守の名がみられる。
 その東信濃勢の中に、この戦いに幕府方として、村上頼清とそれに従った真田源太・同源五・同源六が参戦し、幕府軍の勝利に貢献されている。つまり、ここにみえる真田氏こそ戦国期の真田氏の祖にあたると考えられ、真田郷から参陣した可能性が高いとされる。

 この時期の海野氏の所領は、海野郷を中心にして、東は祢津の東側一帯の別府氏支配地域、北は鳥居峠付近の西上州境付近の祢津氏所領、西は房山・踏入、南は千曲川北岸小田中氏所領までとされており、海野平の海善寺と大平寺の一族は代官として従い、深井・小宮山・今井・平原・岩下氏らを被官として、これらの地域を支配していたと考えられる。
江戸時代の石高に換算すると1万から2万石と考えられる。
室町時代末期の海野氏は衰亡期ともいえる。

 この頃、千曲川の川西地方に勢力範囲を広げ野心を秘めていた村上頼清は、川東地方に勢力を張っていた海野氏を快くおもわず、応仁元年(1467) に両者は激突。海野方は惨敗し、12月に岩下で26代海野氏幸は戦死している。
このころ、真田氏は海野一族として記録などに、その名がみられない弱小地侍として海野勢の有力構成員となり得なかったのであろう。

 海野氏幸の子、27代信濃守幸棟のころからが戦国時代に突入した時期となる。
永正2年(1505)1月13日に没した夫人「禅量大禅尼」のために、翌年3年興善寺(現在の東御市和)開基となる。
永正10年(1513)、幸隆は生まれる。滋野一族の流れをくむ海野氏と深い関わりがあったと考えられる。
幸棟は大永4年(1524)7月16日に没している。興禅寺に葬られている。
法名は瑞泉院殿器山道天大禅定門 陽泰寺(上田市伊勢山)に墓がある。
幸棟の子の28代海野信濃守棟綱が同7年(1527)5月20日、高野山蓮華定院宛の宿坊定書に著判している。
天文9年(1540)4月26日、高野山蓮華定院において、幸隆の母の供養が行われている。(戒名 玉窓貞音大禅定尼)

 時は室町末期となり、戦国の暗雲が漂ってくるなか、甲斐の武田信虎・晴信(信玄)が甲斐統一と今川・諏訪両氏の同盟締結を果たし信濃経略を指向するようになり、天文9年(1540)には佐久郡攻めを始めた。
信虎は、その年に息女・祢々御料人(信玄の妹)を諏訪頼重の正室として嫁がせて諏訪氏との同盟を強化すると、滋野一族と険悪な村上義清を誘い、武田・諏訪氏とともに小県郡侵攻を企画し義清はこれを了承する。
 
 武田軍は佐久郡から侵略を開始し、村上軍は砥石城を基盤として大軍をくりだし、諏訪軍は和田峠を越えて小県郡に侵入し、それぞれ滋野諸族の属城を攻め落として、海野平を三方から包囲した。
 海野棟綱を統領とする滋野一族は各地で抵抗するが、天文10年(1541)5月13日、前衛とする尾野山の城が落とされ、翌日、武田信虎・村上義清・諏訪頼重の三氏はともにはかって兵を海野平へ進めて滋野諸族を攻めた。
 ところが折り悪く五月雨が降り続き、千曲川も神川も増水して上杉軍の援軍が遅れた。攻防はともに困難をきわめ、海野平は占領されて相次いで敗退する。5月25日に総崩れとなり海野棟綱をはじめとする滋野一族と家臣の多くは関東管領上杉憲政を頼って上野国に亡命する。
 真田幸隆の本領はもちろん、滋野一族領域が村上義清の支配下となりました。
 同族にあった祢津元直と矢沢頼綱らは諏訪頼重により助命され、旧領を安堵され、望月氏も武田氏に降伏した。

 28代海野棟綱ら滋野一族は破れ、鳥居峠を越えて上州吾妻郡羽根尾へ落ち延びていったのは、そこで上杉範政の援助を得ようとしたからである。
一方、幸隆は居城(松尾城)下にあった先祖の墓所を破棄・埋没したが、その後復旧された痕跡もなく、幸隆が故郷をおわれ家伝文書なども、この時に失われたと考えられる。
それは、本家筋ではない幸隆にとって、先祖を祀る意識がなく、名族海野氏との関係を強調することで、真田家初代としての地位を確立しようという意図があったのではないだろうか。

 当初は棟綱は家督を子の幸義に嗣がせようとしたのであるが、この戦いで29代海野左京太夫幸義は神川の戦いで戦死したので幸隆が名跡を継承したとされる。真田幸隆の妻の兄であり、幸隆にとっては義兄であり、遺骸を葬る。
享年32歳。法名「赫□院殿瑞山幸善大居士」
ここに、信州屈指の名族であった海野氏の正系は、ここに滅亡した。

 ところが幸いなことに、上州吾妻郡には、鎌倉時代から海野氏より分かれた支族たちが栄えていた。ここは棟綱や幸隆にとって身をおちつけた羽根尾は、羽尾入道幸全の領地であり、幸隆の妻は幸全の娘である。二人の間には5歳になる長男・信綱がいた。戦いに敗れて、幸隆は妻の実家の庇護をうける身となった。

真田幸隆の謎

 海野棟綱と真田幸隆はともに羽尾にひそんで将来を期し、ちりぢりに四散した一族の生き残りと密な連絡をとりあった。棟綱は先祖伝来の地、信州海野平らに復帰する夢をいだき、幸隆は各地を流浪ののちにゼロからふたたび身を起こし、信州に故地を回復し、その後、大をなしていった。

 真田の家名は、昌幸・幸村によって高くなったが、幸隆は身をもって、不撓不屈の精神で戦国の世を息抜き、真田家の礎を築いた。
 幸隆、その出自には、いくつかの系図が残されている。

 ①「真田家系図」によれば、室町時代末期、海野信濃守棟綱の嫡男・幸隆が真田に住んで、はじめて真田を称したとある。
海野棟綱の弟の幸義は叔父にあたるとしている。

 ②「真武内伝」(竹内軌定所蔵)によると、海野棟綱の二男、戦死した幸義の弟とするもの。(享保16年(1731))

 ③「滋野世紀」(松代藩士桃井友直が享保18年(1733)に編纂)によると、海野棟綱の二男、戦死した幸義の弟とするもの。

 ④「寛政重修諸家譜」によると、海野棟綱の孫、すなわち海野幸義の嫡男とするもの。(寛政11年(1799))

 ⑤「滋野正統家系図」(真田家臣飯島家所蔵)によると、海野棟綱の女の子(幸義の妹)が真田禅正忠に嫁ぎ、その子が幸隆とするもの。

 ⑥「海野系図」(東御市海野・白鳥神社所蔵)によると、幸隆の母は幸義の妹で棟綱の孫という、海野家が断絶したため海野名跡を継いだとされるもの。

 ⑦「滋野通記」(馬場政常所蔵)によると、海野棟綱の長男で、永正10年(1513)に生まれ、海野信濃守松尾城主、真田家中興の太祖、行年62歳。

 ⑧「加沢記」(加沢平次左衛門)によると、海野棟綱の二男、戦死した幸義の弟とするもの。

 ⑨「矢沢氏系図」(良泉寺)によると、海野棟綱の女の子(幸義の妹)が真田右馬佐頼昌に嫁ぎ、その子が幸隆、次男が綱頼(矢沢)、三男が隆永(常田)とするもの。

 それらは未だに確証を得ていないのだが、いずれも、海野棟綱からの血縁を誇示することは、ほぼ諸記録が一致しております。

 もともと、滋野諸族は関東管領上杉氏の被官で、上州海野諸族も上杉氏の被官になっていた。
 天文10年(1541)7月、海野棟綱の救援要請を受けた関東管領の上杉憲政は箕輪城主長野業政を総大将とし3,000騎を率いて関東から出陣させ、真田幸隆も佐久へ入り、小県郡の村上義清を攻めて海野を回復しようと試みたが、諏訪頼重が長窪へ出陣して村上義清支援の姿勢を示したため、戦う前に上杉憲政が諏訪頼重と和睦、海野氏の旧領に入ることなく帰陣してしている。
 また、このことが、後に幸隆が上杉氏を見限り武田氏に臣従する遠因とも考えられる。
 海野棟綱は悔いかな旧領を回復できぬまま歴史から姿を消すが、嫡男幸義の遺児・幸貞とその一族らは武田氏に仕えている。
 

棟綱の消息は、このころ以後、史実にも伝説や風聞にもいっさい登場しなくなった。完全に足跡が消えてしまった。だから、どのような最後をとげたのか全然わからない。名族の頭領としては、いたって不可解なことである。
もしかすれば、棟綱は幸隆によって抹殺されたのかもしれない。

  
 武田信玄は父・信虎を駿河に追放してから諏訪・小笠原両氏を降ろし、いよいよ北信攻略に着手してる。
難敵の村上氏を抜くためには北信地方の情報に熟知した人物が必要不可欠で、婚姻関係にあった祢津元直に信玄は相談したのではなかろうか。
二人が相談した結果、上州に逃亡している幸隆に白羽の矢が当てられたのである。
そして元直は弟の矢沢綱頼に話を持ち掛け、安中の長源寺に潜んでいた幸隆に、武田家士官の交渉をしたと思われる。

 武田晴信に臣従した真田幸隆は天文12年(1543)に佐久郡の岩尾城代となり、信州先方衆としての活躍をはじめる。
幸隆は、天文14年(1545)に本領松尾城に復帰を果たした。

 天文15年(1546)、かって武田家と闘い、やぶれて斬られた佐久郡の豪族、大井貞隆の子の貞清が、内山城に立てこもって武田家に戦いをいどんできたとき、幸隆は武田の先鋒として闘い、苦戦ののち降伏させた。
そのとき、幸隆は貞清を殺すには惜しい剛直な若者とみて、晴信に助命、嘆願をおこない、許される。
 翌年、武田家では志賀城主笠原新三郎と激戦をくりかえした後、志賀城も落とした。幸隆は、再度の城攻めに先方衆として謀略、戦闘の両面において活躍した。
 内山・志賀の両城がおちて、佐久郡南部は武田の勢力圏となった。こうなると北信の村上氏は武田に脅威をいだき、両者の激突は必然の成りゆきとなった。武田軍は佐久郡平定以来、意気軒昂で、やや村上軍をあなどっていた。諏訪郡から大門峠を越え、さらに砂原峠をへて、塩田平へ進んだ。甲信の軍勢、約8,000である。
 村上軍は本城葛尾城から、さらに砥石城の兵もくりだされた。
両軍は天文17年(1548)の上田原において激突し、激戦に及んだ。
 天文19年(1550)、戸石城攻略と、信玄の北信計略をめぐって村上義清らと戦い、幸隆は武田家臣としての地位が固めていった。
村上氏の要衝・砥石城は、もともと真田氏もしくは滋野一族の小宮山氏が築いた城を村上氏が奪取したと推定されており、真田氏と双方は激しい対立関係にあったのであろう。

 『甲陽軍鑑』では、永禄4年(1561)に信玄が信濃名族、仁科・高坂氏を成敗しいる。
 
 永禄5年(1562)、四阿山の山家神社奥宮殿の造営を息子信綱(昌幸)と実施した。
 翌永禄6年(1563)幸隆が武田の押しも押されぬ武将になっていたころ、上州岩櫃城の攻略が武田軍によっておこなわれた。
岩櫃城には斉藤越前守憲広と羽尾入道幸全が立て籠もっており、城攻めの大将は幸隆であった。
幸全は、ほかならぬ幸隆の妻の父であり、かって海野一族が敗亡した時に親身になって、励ましてくれた恩人であった。
幸隆にも苦衷があったが、それを乗りこえて城攻めを敢行し激戦となった。幸全は戦死し、その子源六郎は信州高井郡へ逃亡していった。

 それは、生島足島神社(上田市下之郷)の起請文に残されている永禄9年(1566)10年の起請文83通は、その多くが、この地の武将によって書かれている。
 この内容の大要は、武田信玄に対して異心のないことを神かけて誓ったものである。武田晴信に従っていたものとして、祢津松鷂軒常安と祢津被官衆、海野三河守幸貞とその一族、真田綱吉・石井棟喜・桜井鉄砲衆などがいたことがわかる。
 それは武田傘下とはいえ、先祖伝来の地、海野一族の復権という本懐を遂げる行動指針ともいえよう。

auto_E24aGM.jpg長谷寺の真田家の墓
(中央が幸隆 天正2年(1574)5月19日没す62才(戒名月峯良心庵主)・左は夫人・右は昌幸)

真田昌幸上田築城

 その後の、真田家を継いだ昌幸は天正11年(1583)、砥石城を降り、自立の道を歩むため上田城築城に着手した。
築城にあたり、城郭周辺に先祖の地、海野郷の太平寺村(現在の東御市本海野白鳥台団地)から58戸の全員まねいて、今の海野町をつくった。その本末を明らかにするため、もとの地を「本海野」と称した。
海野氏の城と城下町の体裁をとっていたともいえる。
 市(いち)の街として栄えてた海野郷からは多くの商人、職人が移り、鍛冶町、紺屋町などの城下町も形成された。
願行寺・海禅寺・日輪寺・八幡社等、ゆかりある寺社も移築され、まさに幸隆以後の海野氏本領の再構築を成したのである。

 海禅寺は真言宗智山派の智積院に属する。参道わきにある数本のうち一本の杉の木は、すでに幹の先が枯れていて、上田城にある老杉と同じような姿で年輪を刻んでいる。
昔はわらぶき屋根だったか゛銅版に葺きかえられて、本堂の棟の中央に光る六文銭と州浜紋が、その昔をしのばせている。
この州浜紋は、真田の先祖であった、この地方きっての豪族、海野氏の家紋である。寺歴によれば、海野氏が天慶4年(941)1月20日に「海善寺殿滋王白保大禅定門」のために海野郷海善寺村に創建したとあるから、上田に信濃国分寺ができて200年ほどたったころとなる。
天文7年(1538)、武田信玄20貫の地を寄進、永禄5年(1563)11月7日、隠居分5貫文寄進、翌6年(1564)7月28日、10坊ならびに太鼓免6貫500文寄進されている。これは上杉謙信と川中島の合戦をしていたので武運長久を祈願している状勢を知り得る好史料である。
また、慶長6年(1601)、真田家より24貫の地を寄されている。
 真田昌幸が上田城を築いたとき、城の東北方に鬼門除けの寺として、そのころ海野郷にあった海善寺を移したものである。
そのため今の海善寺には、地名だけで寺はない。
 真田信之が元和8年(1622)松代へ移されたとき、真田家の海善寺も松代へ移し開善寺となり、残された上田城の守りに海禅寺に名が改められて、この寺を残したものと考える。また願行寺も松代に移される。
(詳細については全国各地の海野氏海野系寺院を御覧ください)

その一方では、旧真田の先祖の地といわれている真田郷からは神社・寺院等は一つも移設されていない。

auto_g5tiYW.jpg上田城

 天正10年(1582)、本能寺の変で織田信長が倒れた後、明智光秀・柴田勝家を共に敗死させ、巨大な大坂城を築いた豊臣秀吉が徳川家康と対決した。家康は小田原の北條氏直に協力を求め、援軍の約束を得たが、このとき氏直が条件として、上州の沼田城の引渡しであった。

 城が出来上がった翌天正13年(1585)には上田合戦が起こった。
これは徳川家康から真田の領地である上州沼田(群馬県沼田市)を北條家に引渡せと要求された真田昌幸は、これを敢然と拒否をして、命令を拒んだのが原因で戦いに発展した。
そのため徳川は8,500の大軍をひきいて、長瀬河原から国分寺付近に押し寄せ、上田城に迫った。上田城本丸には城主真田昌幸以下400ばかり、昌幸の長子信之(信幸)は800余騎を率いて伊勢山(砥石城)に布陣、また、農民3,000を動員して伏兵としたという。
真田はたった1,200の兵であった。
信之の兵は上田の城下に出て小競り合いを繰り返しながら、巧みに敵を城におびき寄せた。
真田勢をあなぞった徳川軍は一気に攻め落とそうと大手門を突破し、本丸に殺到した。まさにその時、本丸の門の上に吊ってった大木が徳川軍の頭上に落とされた。と同時に城内から弓矢・鉄砲が射かけられ、それに呼応して信之の兵が激しく挟撃、さらに昌幸の兵が横あいから攻撃を開始した。
六倍にあまる徳川勢は、奇襲にあい大損害をこうむり敗走した。
しかし昌幸は、大勝したといえども徳川勢がいつ、また兵力を整えて攻めてくるかもしれないと心配して、越後の上杉景勝に救援を求めた。策をほどこして昌幸の二男幸村を人質として、この交渉を成功させた。上杉軍の気配をかんじて、徳川勢は全軍引き上げとなったのである。
上記の如く上田城の攻撃となり、上田城下町が戦場となり、市街戦で小県の領地は戦場の渦に化した。

 慶長5年(1600)9月5日には、関ケ原合戦が起こる。
信之は、妻が家康の養女となっていた本田忠勝の娘であるし、領地沼田も徳川に安堵されていたので、血縁的にも主従関係でも徳川方の立場に立った。
幸村は、妻が石田三成の同志大谷刑部の娘であったから石田方に与せざるを得なかった。かくして兄弟が敵・見方として争う結果が生じた。
この戦いのまえに、徳川秀忠は昌幸に城をあけ渡させるか、攻め寄せて城をとるか、いずれか上田城を処分したうえで関ケ原に、はせ参ずるはずであった。
そこで、9月1日関が原合戦にのぞむ徳川秀忠は、3万余の大軍をひきいて中仙道から途中、上田城攻略へ進めて、まず上田城を包囲網をしき、堀を挟んで鉄砲の撃ち合いが続いた。これをうけてたった真田父子は戦略をめぐらせて城門を固く閉じ籠城作戦に出た。秀忠勢は上田城を包囲し、守兵わずか2~3千のため包囲していれば、真田が頭を下げてくると思ったらしい。
真田軍にてこずり、本格的な戦闘もないまま時間をつぶして、とうとう秀忠軍は、七日間も釘つけにされて、関ケ原合戦に間に合わせるため、上田城攻めを断念して大門峠をまわり関が原に向かうため、そのまま引揚げてしまった。
その結果、秀忠は関ケ原参戦に遅れてしまい、家康から大目玉をくわされたという。

 これが有名な上田籠城である。
千早・長篠とともに、天下の三大籠城のひとつとして史上名高いのである。
 再び上田城・近辺城下町は、この攻防戦で激戦場に化し、海野氏が建立した寺院などの、一帯は焼土となった。

この 関が原の戦いの間、上田城は一時城主を失い廃城同様になったといわれる。
 その後上田城を与えられた昌幸の子信之も、反逆の疑いをかけられるのを避けるためか直ちに入城はせず、慶長16年(1611)5月、昌幸が高野山で病没(64才 戒名 長谷寺院殿一翁千雪大居士)し、元和元年(1615)5月、大坂夏の陣で、弟幸村も戦死、翌2年4月に徳川家康の病死するという時の流れを見据えながら15年間も城主はいず、城と町は相当すたれてしまったと考えられるのである。

 信之が上田の領主となってから、旧真田町本原から移転させ、原町が形成された。一説では江戸の後期か明治になってから原町は形成されたとも言う。

 結局のところ真田氏の確たるルーツは判然としないものの、その背景から、東信濃の小土豪としての命脈を保ち、戦乱にその名を轟かせたことがわかる。

 そして、天下の覇権を争う大勢力を相手に、その狭間を巧みに生き抜いた真田三代の喪心に流れていたのは、かつて源平合戦で活躍した、名族滋野氏流海野一族の血を受け継ぐという、信濃の名家としての誇りであったといえよう。

 真田家の先祖について探ることは、信濃武士たちの知られざる歴史と名誉をたどることでもあるのだ。

明治4年(1871)7月廃藩置県があり、上田藩にも終止符が打たれた。旧上田城は真田昌幸父子を中心に築かれて真田・仙石・松平と三度城主をかえて288年目にして、8月18日兵部省所管に変わった日である。
そして新政府によって東京と大阪に鎮台が設けられ、上田城内に置かれることになった。その第二分営の第四番大隊の駐屯がきまり、乃木稀典少佐隊長として滞在し、信濃全域がその所管となった。
しかし、同6年1月分営廃止の運命となった。
城と城地は800円に見積もられたが、なかなか売れず、櫓ひとつ6円などと処分された。9つの櫓のうち西櫓だけ壊しかねて残り、遊女屋となっていた櫓二つは、現在は城址公園に復元されている。

上田城跡を中心にして上田公園は、はじめは市内の有志の寄付によって、明治29年ごろには、いちおうの体制を整えていた。
しかし、二の丸の中に監獄があった。深編み笠や後ろ手にしばられた姿をみると、行楽気分がいっぺんに飛んでしまう。そのため昭和3年になってほかへ移され、そこへ児童遊園地などの公園施設が作られた。
その年に長野県会の議決によって5万円の県費補助がきまり、市費10万余円をつぎ込んで、今の野球場をはじめ陸上競技場や庭球場などは二の丸の外堀あとを利用している。
また、昭和44年には、県の蚕業試験場あとを買収して、体育館を建てるなどの拡張をはかった結果、体育施設を含む上田公園の面積は約53,000坪に及んでいる。