真田氏のルーツを探る

(1)真田氏の謎

 真田信繁(のぶしげ)の祖父幸隆(幸綱(ゆきつな))以降の三代は「真田三代」などと呼ばれ、武門の名家として有名で人気も高い。しかし真田三代の歴史は百年余りである。
 「真田氏」が載る文書史料は真田幸隆以降で、真田氏の家系が幸隆以前にさかのぼれないのが現状である。幸隆の前半生についても謎が多い。史料が乏しいのは、意図的に破棄されたか隠蔽されたためであろうか。武田信玄に仕える以前の前半生は江戸時代の「軍記物」や「講談本」などで逸話が生まれ、真田氏のルーツとしての説は幾つか残る。多くの人は幸隆の出自を第56代清和天皇にさかのぼると信じているのではないだろうか。また、26代海野小太郎棟綱の嫡男であるという説に、ほかに棟綱の娘(または妹)が真田禅正忠に嫁ぎ、その子が幸隆であるとする…等の説がある。
 

auto_21Kzix.jpg上田駅前の真田幸村の像

 結局、幸隆以前の家系について定説はなく、幸隆(真田氏)の出自は謎につつまれている、と言わざるを得ないのだが、ここでは、幾つかの仮説について検証してみたい。
 その一つに角間渓谷の麓で発見された「日向畑遺跡」の石塔群がある。

auto_RGC4I7.jpg日向畑遺跡の石塔群(上田市真田)

 昭和46年(1971)に、発掘調査で出土した石塔群は、その形式から室町時代から戦国時代にかけてのものとされ、真田氏に縁のある人々の墓ではないかとされている。
 しかし幸隆の親や祖父母はおろか祖と思われる人は祀られておらず、この石塔群と真田氏を結びつけ得る要素はない。この角間渓谷は講談で有名になった真田十勇士の一人猿飛佐助が修業の地とされていることから、真田氏のルーツの地としたいという、地域の人々の心情から生まれた逸話なのかもしれない。
 幸隆以前の真田氏は記録に残ることのない弱小勢力であったと考えらるがだとうであろう。とすると、真田氏の祖は東信濃国に古代から栄えた滋野一族に属する海野氏の流れと考え、真田氏は海野氏の直系か分系ではないかとの説が生まれた。
 幸隆のほかにも、真田なる家が存在していたことは事実であるから、幸隆以前の真田氏を示す系図や古文書なり、信頼のおける文学史料や遺品などが残っていても不思議はないと思うのだが、そうしたものは現存しないようだ。
 一志茂樹氏の説を紹介しよう。645年に大化改新がなされ、それまで国造が執行していた地方政治は、朝廷が直接地方を支配するようになった。国府(今でいう県庁)が置かれ、大和政権が任命した国司や郡司が配置された。信濃国の国府は上田市の国分寺付近に置かれたという。国府には軍馬や役人や物資を運ぶ馬がなくてはならず、良質な馬を多数供給できる牧場や馬を飼育しそれを守る衛士が必要となる。旧真田町には駒形神社(牧場の守護神)や馬頭観音を祀る古代の寺が残る。野馬除・鞍掛・牧内など牧に関係すると思われる地名や遺跡も多い。国府直属の牧経営に携(たずさ)わり、古代から成長してきたのが真田氏だとするのが一志氏の説である
一方今から1,200年前、信濃国に古代の名族大伴氏が栄え、牧の経営にかけては比類のない力を発揮していた。大伴氏については文字史料として『日本霊異記』に大伴連なる豪族が東信濃の海野郷にいたことが記されている。大伴氏に係る「大伴神社」は北佐久郡望月に鎮座している。
 
auto_Intlac.jpg大伴神社(佐久市望月)

 勅旨牧は信濃・上野・甲斐・武蔵の四カ国に限って32牧が指定されている。信濃国だけで、その半数の16牧が勅旨牧となっている。新治牧(現在の東御市新張)、御牧原台地(旧北御牧村)の望月牧は、良馬「望月の駒」の産地として、歌にも多く詠まれている。
 国府直属の牧経営を真田の地で行い、古代から成長してきたのが真田氏であるとする一志氏の説を検証するため、信濃の国牧の牧名を探したが、真田らしき名は見あたらなかった。このことは海野氏・望月氏らが「御牧」(朝廷の勅旨牧)の経営者であったのに対し、真田氏は「国牧」(国府直轄の牧場)の管理者という性格を持っていたからではなかろうか、と考える。
 やがて中央政権の没落とともに「国牧」も私牧化された。その頃から真田氏を名乗り私牧を基盤として、地方の土豪に成長したものと考える方が自然であろう。
  やはり、『源平盛衰記』『吾妻鑑』『平家物語』の信濃の武士の中に真田氏の名が見られず、真田幸隆の出自は謎に包まれているとしか言いようがない。
 

(2)真田家系図と祭神

 江戸時代に幕府の求めに応じて作成された『真田家系図』によると、真田氏は清和源氏の発祥で、信濃国小県郡海野郷(現在の長野県東御市)の海野棟綱の子である幸隆が小県郡真田の庄を領し、松尾城に居住して真田姓を名乗ったとしている。
 当時、戦国大名家の系図づくりの際出自を名族に結びつけることは常道であり、真田氏の場合も清和源氏を出自とする説は根拠に乏しい。
 また、真田氏が本家筋としている海野氏は滋野氏嫡流を称しているので、これも清和源氏説と矛盾している。海野氏からの改称も自らを滋野一族の宗家の嫡流として出自を結びつけた可能性があり、こちらも確証とは言い難い。
 海野氏には、第56代清和天皇の第四皇子・貞保親王を始祖とする伝承がある。貞保親王は音楽の名人で「南宮(なんぐう)管絃仙(かんげんせん)」と呼ばれていた。ある日、御所で管絃が行われ貞保親王は琵琶を弾じていた。その音色に誘われた燕が一羽室内に飛び込んできた。親王がその燕に目を向けた時、燕の糞が眼の中に入り、痛み出し名医に診てもらったが回復せず「信濃国に不思議なほど病に効く鹿沢温泉(現在の群馬県吾妻郡嬬恋村)がある」と聞いた。そこで親王は信濃国に赴(おもむ)き、深井という家に滞在しながら湯治に努められたところ、眼の痛みは消えた。目は不自由になられたので、親王はそのまま都に帰らず、小県郡海野白鳥庄で暮らすことになった。やがて世話をしていた深井某の娘との間に子が生まれ善淵王と称した。善淵王は後に、第60代醍醐天皇から滋野姓を賜ったという。さらに善淵王の孫にあたる滋野則広の子・重道の代に、長男が海野を名のり、その弟達が祢津氏・望月氏へと分かれた。一族を滋野三家と称して信濃国小県郡や佐久郡を中心として、広く上州へも勢力を広げていった。
 また『新撰姓氏録』によると滋野宿祢は神魂命五世の孫天道根命の後裔とも伝わる。
 伝承の域を出ない起源譚は、京都山科に伝わる貞保親王説話が、信濃で在地化されてきたものと考えられるが、これが海野・真田氏の氏神、白鳥神社の祭神伝承であり、松代藩の編纂した『真武内伝』に伝わる滋野一族の起こりであろう。
 
uno_02_1.jpg白鳥神社

 やがて善淵王が、天慶4年(941)1月20日に死去された。菩提を弔う寺は王の法名「海善寺殿滋王白保大禅定門」を取って「海善寺」と名づけられた。真田昌幸の上田築城の時には、城下の鎮護の寺として移築され「海禅寺」に、真田信之の松代移封においては一族の氏神・白鳥神社と共に遷(うつ)され「開善寺」と改称されて、今日に至っている。海野の海善寺跡は海野氏居館の鬼門の位置に残っている。
また、貞保親王を祀っている宮嶽山陵神社(現在東御市祢津)が建立された。江戸時代には、松代藩主真田家より先祖への御供料として毎年米10石が進納されている記録が残る。真田家当主により「先祖」としているところが興味深いところであり、真田氏が滋野一族と深い関わりがあると考えるのは、不自然ではない。

(3)伝承(海野氏と真田氏)

 滋野一族とは信濃の小県から佐久方面に、また西上州方面にも勢力のあった名族の総称であることから、滋野一族の流れから海野氏・真田氏を考察しよう。まずこの章では、両氏に関する文書や伝承、史跡などについてあげてみたい。
滋野姓そのものの名は古く『六国史』に滋野(しげの)朝(あ)臣(そん)貞(さだ)主(ぬし)とある。その父は楢原造(ならはらづくり)東人(あずまびと)なる人物である。ゆかりが深いとされる地名「楢原」は大和国葛上郡楢原(現在の奈良県御所市楢原)にある。この地に「駒形大重神社」が鎮座し、祭神二座のうち一座は滋野貞主が祀られている。全国にも数少ない楢原(奈良原)という地名と、東人を東国出身の人物とし、楢原東人の先祖の地を推察する際、信濃国の楢原(現在の東御市奈良原)とも何らかの繋(つな)がりがあると考えるのは自然であろう。
 楢原貞主は奈良の平城京から平安京への遷都により、平安京の滋野という地に移住したことから、そこの地名をとって滋野貞主となったと言われる。この貞主の孫が滋野恒蔭(つねかげ)、その恒蔭の子・恒成(つねなり)は第56代清和天皇の皇子貞保親王の家司となり、妹は貞保親王に嫁いだという。滋野恒成の子恒信(つねのぶ)は天暦4年(950)2月信濃国望月の牧監となって下向、地名をとって海野幸俊と改名し初代海野当主となったという。
 どうやら始祖伝承への伏線が垣間見えるところである。
 海野の一族で、他に祢津氏(現在の東御市祢津)と望月氏(現在の佐久市望月)の両者はともに牧の管理者として居住していた。その海野・祢津・望月の三氏を滋野三家と呼ばれ、海野氏は早くからその頭角を現し、最も勢力盛んになった。当主は代々信濃守を称した。
 鎌倉時代に10代海野小太郎幸氏(ゆきうじ)が騎手の名手として名を馳(は)せ、この頃から海野氏は各地に支族を広げ繁延していった。信州筑摩郡に移住した一族に会田・塔ノ原・田沢・苅屋原・光の諸氏ばかりでなく、上州吾妻郡に入ったものは鎌原・西窪・湯本・下屋・大厩・羽尾氏などが海野氏から派生した武士だと言われ、この頃の海野一族は、信濃と上州の国境を隔てた広大な地域を勢力範囲として、その地方を開拓して栄えていた。
 海野氏としての最古の初見は保元元年(1156)7月「保元の乱」の記述にある。8代海野小太郎幸親は天皇方の将、源義朝に属して京都に上り、信濃武士3百余騎を率いる左馬頭として武功をたてたという。以後、鎌倉時代は幕府の御家人となり、代々弓馬の誉れ高き一族として名を馳せている。
 『浅羽本信州滋野三家系図』によると、真田氏の祖は海野氏から早い段階で分かれた一族で古く鎌倉時代中期とされる。すなわち、源頼朝の御家人で弓の名射手として活躍した10代海野小太郎幸氏の孫で、11代海野幸継の子に、七男・七郎幸春が真田に住み、その在名をもって真田氏と称したことに始まるとしている。
 確たる証拠がなく裏づけがないものの、この「真田七郎幸春」が真田氏発生の祖ではないか、と思われる。
 
 滋野流海野氏の功名の一大起点は木曽義仲(よしなか)の挙兵であろう。8代海野幸親を筆頭に滋野一族の後楯もあり、さらに北信の源氏や上州武士団も加わり白鳥河原に3千騎が集結し、越後の城四郎長茂の大軍を横田河原合戦で破り、さらに倶利伽羅合戦で平家の大軍を撃ち破り京へと進軍した。この時参戦した信濃の武士の中に真田の名前はない。
『源平盛衰記』によれば、8代海野幸親の嫡男・9代幸広は、義仲軍の侍大将として活躍、都落ちした平家の追手として、水島合戦に挑むも不慣れな海戦で、平家の逆襲を受け討死した。そのとき海面に浮いた渦が銭を連ねたように見えたということから、今までの「洲浜」を「六連銭」紋にして旗印とした、と松代藩編纂の『滋野通記』は伝えている。六連戦は六文銭ともいい。海野広幸が人間の不義や天災、悪疫、合戦などによる、傷ましい世の中から衆生を救うという、仏教へのあこがれに由来するものだと伝わる。旗印に死の覚悟を示しながら戦うという意味もあり、死んで三途の川を渡るときは、渡り賃として六文を払うと言われのある真田氏の旗印「六連銭」は海野氏が最初に使用した家紋であった。

 信濃の荘園は京から遠く離れており年貢米輸送も不便であった。初期には発達せず院政時代に入ってから寄進型荘園として成立した。
 『吾妻鑑』は源頼朝が以仁王の令旨を受けて伊豆で挙兵した、治承4年(1180)から文永3年(1266)までの、87年間の鎌倉幕府に関わることが日記の形で記されている歴史書である。その中に信濃国内にどんな荘園があったのかが、文治2年(1186)3月12日の条に記録されている。この中から上田小県地方の荘園と牧は次の通りである。
  日吉社領    浦野庄
  最勝光院家領  塩田庄
  一条大納言家領 小泉庄
  八条院領    常田庄
  殿下御領    海野庄 教俊(のりとし)朝臣 高陽院領内
  前斎院御領   依田庄
 教俊は海野庄の所領で、関白藤原忠実(ただざね)の娘が長承2年(1133)に鳥羽上皇の后となった高陽院泰子に譲ったので、高陽(かや)院領と言われるようになった。
 このように、年貢未済として書き上げられた荘園のうち、上田小県地方に、皇室領として塩田・常田・依田庄が、寺社領として浦野庄が、諸家領として海野庄・小泉庄があり、ほかに左馬寮領として新張牧・塩原牧・塩河牧があった。
 この中に、真田地方のものと思われる荘園の名が見当たらないのは、真田地方の荘園が弱小荘園であったためであろうか。

  次に、両羽神社(東御市下之城)について言及したい。
両羽神社には二体の木像が祀られている。これは当神社の祭神、船代と貞保親王の木像である。また境内の収納庫に石龕(せきがん)があり、台座に正慶2年(1333)3月28日海野・望月両氏が先祖の神前で戦勝祈願し、これに祢津・矢沢氏も賛同した。祈念のために米二石をあとから届けるとした銘が残る。この年に、鎌倉に味方する滋野一族と足利尊氏が佐久の大井氏と結んで対立したという。2年後の建武2年(1335)には大井氏の味方した市河氏によって望月城は攻略され、その城郭は破却されている。望月氏の命運を賭(と)した石龕であった。この時も、矢沢氏と同族である真田氏の名前がここにも出てこないのは、やはり弱小勢力であったためと考えられる。

 s_IMG_0011.JPG両羽神社の石龕

 応永7年(1400)9月信濃守護に補任された小笠原長秀の傲慢な振る舞いに対して、古くからの国人達が団結して長秀を都に追い返した。その時の信濃各地の豪族の動向は『大塔物語』に記録されている。その中心人物は、村上満信であるが、その戦いには、佐久勢(伴野・望月等)・海野宮内少輔幸義ら小県軍勢・高梨勢、井上勢・大文字一揆は仁科と祢津遠江守を中心に大集結した。この大塔城攻めで、海野氏のもとに集結した中村・会田岩下・深井・土肥などの諸氏の中に参戦した真田七郎幸春は、10代海野小太郎幸氏の孫とされ、会田次郎幸持・塔原三郎幸次・田沢四郎幸国・刈屋原五郎・光之六郎幸之の兄弟らと行動したと思われる。

 この真田幸春は、真田郷に住んでいた初代真田氏と考えられる。
また大手一の攻口の大将として小県から国人方の祢津遠江守遠光のもとで合戦に加わった東信濃の武士の中に、桜井・別府・小田中・横尾・曲尾氏などの諸氏の中に「実田」が併記され、ともに参加していたと記されている。ここにある「実田」が「真田」とおもわれる名の初見で、当時の真田氏の動向を示す唯一の記録と見られ、数集落を支配していた小領主と考えられる。「横尾」「曲尾」も現在真田地域の小字名に見られる。
「実田」は「真田」と読み間違いか当時はそうだったのか不明だが、読みの音や意味的には近いものと思われ、この頃真田氏が横尾氏や曲尾氏とともに真田一帯の地を三分する形で領有していたことを物語る。真田氏は神川の左岸一帯、横尾氏は神川の右岸横尾から戸沢にかけての一帯、曲尾氏は傍陽川沿いの曲尾・萩・中組等の一帯をそれぞれ領地としていた。海野流真田氏とすれば、祢津氏も滋野一族であり、海野氏への同族意識ゆえの行動だったと思われる。

 この後も信濃では領主の反乱が続いたが、小笠原政(まさ)康(やす)(長秀の弟)は次第に勢力を伸ばし、応永32年(1425)信濃守護となり、永享12年(1440)の3月から翌嘉吉元年(1441)4月にかけて、下総の結城城を囲んで大合戦が繰り広げられた。結城氏朝(うじとも)が室町幕府を相手に挑んだ戦いで、現在の関東地方で起こった。この合戦に24代海野小太郎幸数が信濃勢30番を率いて攻撃軍に参加した。
 このときの『結城陣番帳』にも信濃の諸豪族が記録されており、30番のうち10番として24代海野小太郎幸数の名が、27番として大井三河守らとともに祢津遠江守の名がみられる。その東信濃勢の中に、この戦いに幕府方として、村上頼清とそれに従った真田源太・同源五・同源六が参戦し、幕府軍の勝利に貢献している。ここにみえる真田氏こそ戦国期の真田氏にあたると考えられ真田郷から参陣した可能性が高いとされる。
 この時期の海野氏所領は、海野郷を中心にして、東は祢津の東側一帯の別府氏支配地域、北は鳥居峠付近の西上州境付近の祢津氏所領、西は房山・踏入、南は千曲川北岸小田中氏所領までとされており、海野平の海善寺と大平寺の一族は代官として従い、深井・小宮山・今井・平原・岩下氏らを被官として、これらの地域を支配して、いた。江戸時代の石高に換算すると1万から2万石と考えられる。
 信濃一之宮諏訪大社の祭祀に関する記録で『諏訪御符礼(みふれい)之古書』には、25代海野小太郎持幸(もちゆき)・26代海野小太郎氏幸(うじゆき)らが頭役を勤仕したことが記されている。また、望月・祢津氏の「滋野三家」、岩下・小宮山・浦野氏らも頭役を勤仕したことが記されているが、真田氏の名は全く見られない。これは真田郷が頭役にあたらなかったのか、真田氏が存在していなかったのか、なんとも不思議なことである。
〈信濃毎日新聞社 田中豊茂著「信濃中世武家伝」参考〉
室町時代末期になると、海野氏には衰退の兆しが訪れた。
 千曲川の川西地方に勢力範囲を広げ野心を秘めていた村上頼清は、川東地方に勢力を張っていた海野氏を快くおもわず、応仁元年(1467) 両者は激突に至った。
海野方は惨敗し、12月に岩下で26代海野氏幸は戦死している。
  26代海野小太郎氏幸の子・27代海野信濃守幸棟(ゆきむね)のころからがいわゆる戦国時代となった。幸棟は、永正2年(1505)1月13日に没した夫人「禅量大禅尼」のために、翌年3年興善寺(現在の東御市和)開基となった。
 

(4)諸説ある真田幸隆の出自

 真田幸隆は永正10年(1513)に生まれたという。
海野幸棟は大永4年(1524)7月16日に没し、興禅寺に葬られた。法名は瑞泉院殿器山道天大禅定門で、陽泰寺(上田市伊勢山)の中興開基とされる。
 幸棟の子・28代海野信濃守棟綱(むねつな)は大永7年(1527)5月20日、高野山蓮華定院宛の宿坊定書に著判している。海野氏と高野山蓮華定院とは親密な関係があったことが窺える。この高野山蓮華定院では、天文9年(1540)4月26日に真田幸隆の母の供養が行われている。(戒名 玉窓貞音大禅定尼)
このことから、真田幸隆の母は海野氏の血族であった可能性が大きいように思える。
 
 auto_jHmqc2.jpg高野山蓮華定院宛の宿坊定書

 真田幸隆の出自について諸説あって、一定のものはないという。ここでは便宜上「海野氏のあしあと」(結城合戦)で掲載した系図をもとに話を進めたい。

 時は室町末期となり、戦国の暗雲が漂ってくる中、甲斐の武田信虎(のぶとら)・晴信(はるのぶ)(後の信玄)が甲斐統一と今川・諏訪両氏との同盟締結を果たし、信濃攻略の手始めに天文9年(1540)には佐久地方への侵入を開始した。
 信虎は、その年に息女・祢々御料人(信玄の妹)を諏訪頼重の正室として嫁がせて諏訪氏との同盟を強化すると、滋野一族と険悪な村上義清を誘い、武田・諏訪氏とともに小県郡侵攻を企画した。義清はこれを了承したという。武田軍は佐久郡から、村上軍は砥石城を基盤として大軍を繰出し、諏訪軍は和田峠を越えて小県郡に侵入し、それぞれ滋野諸族の属城を攻め落として、海野平を三方から包囲した。
 海野棟綱を統領とする滋野一族は各地で抵抗するが、天文10年(1541)5月13日、前衛とする尾野山の城が落とされた。さらに翌日は武田信虎・村上義清・諏訪頼重の三氏が一斉に海野平へ兵を進め滋野諸族を攻めた。折り悪く五月雨が降り続き、千曲川も神川も増水していたので上杉軍の援軍が遅れたこともあり、海野平は連合軍に占領され、5月25日に総崩れとなった海野棟綱をはじめとする滋野一族と家臣の多くは関東管領上杉憲政を頼って上野国に逃散した。
 真田幸隆の本領はじめ滋野一族の支配領域が村上義清の支配下となった。
 同族の祢津元直と矢沢頼綱らは諏訪頼重により助命され旧領を安堵され、望月氏も武田氏に降伏した。
 28代海野棟綱ら滋野一族が、鳥居峠を越えて上州吾妻郡羽根尾へ落ち延びていったのは、そこで上杉憲政の援助を得ようとしたからであった。
 同じく逃散した真田幸隆は、居城(松尾城)の下にあった先祖の墓所が破棄されたが、その後、復旧した痕跡はない。家伝文書などもこの時に失われたと考えられるが、本家筋ではない幸隆にとって、先祖を祀る意識が薄く名族海野氏との関係を強調することで真田家初代としての地位を確立しようという意図があったのかもしれない。
 28代海野棟綱は家督を子(又は弟)の幸義に継がせたものの、この戦いでその29代海野左京太夫幸義は神川で戦死してしまった。そこで真田幸隆が名跡を継承したとされる。海野幸義は真田幸隆の母の兄であり、幸隆にとっては伯父であった。真田幸隆は海野幸義の遺骸を葬り、供養を行なったという。幸義は享年32歳。法名は「赫□院殿瑞山幸善大居士」とされる。
 信州屈指の名族であった海野氏の正系は滅亡したが、海野棟綱と真田幸隆は、ともに羽尾に潜んで将来を期し、先祖伝来の地、東信濃に復帰する夢をいだき続けた。
 さて、真田幸隆以前の真田の系譜は種々多様に残っていて、一定のものを見ない。ここでいくつかの系図を見ながら幸隆の出自について考えてみよう。 

①『真田家系図』によると室町時代末期、海野信濃守棟綱の嫡男・幸隆が
  真田に住んで、はじめて真田を称した。
  海野棟綱の弟の幸義は叔父にあたる。

auto_8yOLmM.jpg「真田家系図」

②『真武内伝(竹内軌定所蔵)』によると、海野棟綱の長男幸義が戦死し、
  幸義の弟の幸隆が真田に住み真田を称した。(享保16年(1731))

auto_pWbZUl.jpg「真武内伝」

③『滋野世紀(松代藩士桃井友直が享保18年(1733)に編纂)』によると、
  海野棟綱の二男・幸隆「真田元祖弾正忠幸隆入道一徳斎」と申し、
  戦死した幸義の弟とする。

auto_nwNYck.jpg「滋野世紀」

④『寛政重修諸家譜』によると、海野棟綱の孫、すなわち海野幸義の嫡男
  が幸隆とする。(寛政11年(1799))

auto_n9W36o.jpg「寛政重修諸家譜」

⑤『滋野正統家系図(真田家臣飯島家所蔵)』によると、海野棟綱の
  女の子(幸義の妹)が真田禅正忠に嫁ぎ、その子が幸隆とする。

auto_qqfJqV.jpg「滋野正統家系図」

⑥『海野系図(東御市海野・白鳥神社所蔵)』によると、幸隆の母は幸義の妹で
  棟綱の孫にあたるという、海野家が断絶したため海野名跡を継いだとされる。

auto_02Rk5o.jpg「海野系図」

⑦『滋野通記(馬場政常所蔵)』によると、海野棟綱の長男で永正10年(1513)
  生まれ、海野信濃守松尾城主・真田家中興の太祖、行年62歳。

auto_wUIxlv.jpg「滋野通記」

⑧『加沢記(加沢平次左衛門)』によると、海野棟綱の長男が戦死し、
  幸義の弟が幸隆とする。 

auto_2oSaOR.jpg「加沢記」

⑨『矢沢氏系図(良泉寺)』によると、海野棟綱の女の子(幸義の妹)が真田
  右馬佐頼昌に嫁ぎ、その子・長男が幸隆、次男が綱頼(矢沢)、
  三男が隆永(常田)とする。
  これが現在は有力説のようであるが、頼昌を実父とする資料は、
  この矢沢氏系図のみである。頼昌の法名は「真田道端居士」といい、
  真田の長谷寺に位牌が安置されて大永3年(1523)3月15日に没する。

auto_USenxT.jpg「矢沢氏系図」

〈上記は学研「真田戦記」久保浩美氏の稿参考〉

 これらは未だに確証を得ていないが、いずれにしても真田幸隆が滋野一族の流れを汲む海野氏と深い関わりがあることが諸記録で一致している。 
 滋野諸族は関東管領上杉氏の被官で上州海野諸族も上杉氏の被官になっていた。
 天文10年(1541)7月海野棟綱の救援要請を受けた関東管領の上杉憲政は、箕輪城主・長野業政を総大将とし3千騎を率いて関東から出陣させ、真田幸隆も佐久へ入り、小県郡の村上義清を攻めて海野を回復しようと試みたが、諏訪頼重が長窪へ出陣して村上義清支援の姿勢を示したため、戦う前に上杉憲政が諏訪頼重と和睦、海野氏の旧領に入ることなく帰陣している。
 また、このことが後に幸隆が上杉氏を見限り武田氏に臣従する遠因とも考えられる。
 海野棟綱は旧領を回復できぬまま歴史から姿を消すが、嫡男幸義の遺児・幸貞とその一族らは武田氏に仕えている。
 棟綱の消息は、このころ以後史実にも伝説や風聞にも一切登場しなくなり、完全に足跡が消えてしまった。名族の頭領としては、不可解なことであるが、あるいは棟綱は幸隆によって抹殺されたのかもしれない。
翌永禄6年(1563)幸隆が武田氏の押しも押されえぬ武将になっていたころ、上州岩櫃城の攻略が武田軍によって行われた。岩櫃城には斉藤越前守憲(のり)広(ひろ)と羽尾入道幸(ゆき)全(ぜん)が立て籠もっており城攻めの大将は幸隆であった。
 幸全は、ほかならぬ幸隆の妻の父であり以前に海野一族が敗亡した時に親身になって励ましてくれた恩人であった。幸隆にも苦衷があったが、それを乗りこえて城攻めを敢行し激戦となった。幸全は戦死し、その子・源六郎は信州高井郡へ逃亡した。

 ここで、是非紹介しておきたい一文がある。これは当時草津町町誌編集委員長だった中沢晃三氏から歴史研究「海野」1月号への寄稿だった。
 新春の「海野」の巻頭文を飾る光栄に浴しましたことは、長年郷土史研究にたずさわった私にとって無常の喜びであります。
 昨年私は「海野氏の滅亡」と題する一文を公にしました。それは信州の名族海野氏の嫡流海野棟綱が天文10年5月に武田信虎と村上義清の連合軍に敗れ、一族及び娘婿真田幸隆らとともに上州平井城主上杉憲政の下に亡命しました。海野棟綱はその後上杉謙信に仕え、真田幸隆は上州を離れ武田信玄に仕え、宿命的な対立の後真田幸隆昌幸父子に海野棟綱が滅亡される過程を明らかにしたものでした。
 海野棟綱は平井城主上杉憲政の下に逃れますが、憲政は後に北条氏康に攻められて越後の長尾景虎の下に逃れ、景虎を養嗣子にして上杉家の家督と関東管領職を譲ります。海野棟綱は上州箕輪城主長野業盛の配下として吾妻郡羽尾城に拠り、信州帰還の志を立て海野領と羽尾領の間を支配する鎌原氏と対立します。
鎌原氏は鎌倉時代に海野氏から分かれた一族で鎌原城に拠って浅間山麓を支配していました。棟綱に攻められた鎌原宮内少輔は武田信玄に助けを乞い、信州を落ちます。
 このころ真田幸隆は上州箕輪城主長野業盛の許に寄寓していましたが、家臣に辱められたことから、箕輪を離れ武田信玄に仕えます。そして後鎌原氏とともに羽尾城主海野棟綱と宿命的な対立をし、羽尾城を奪い、棟綱を大戸城主大戸氏の許に走らせ、永禄年中に棟綱を滅ぼします。
 棟綱の嫡子源五郎は大柏木城主として大戸氏の配下にありましたが真田幸隆の嫡子昌幸に滅亡させられます。
 ここに海野棟綱の直族が滅亡しますが当時の吾妻郡の歴史を記した「加沢記」に海野棟綱の名は出て来ず、羽尾城主を羽尾入道幸全と記しています。この羽尾入道幸全が海野棟綱であると推論したのが、私の「海野氏の滅亡」であります。
 石和氏系図によりますと海野棟綱の弟、幸義を養嗣子として海野氏の家督を継がせていますが幸義の嫡子が海野左馬亮幸光であります。村上氏関係の文献によりますと海野棟綱の上州亡命に行をともにした武将の中に海野左馬亮の名があります。そしてこの幸光が「加沢記」に登場する海野長門守幸光であると思われます。何故ならば、上州では当時海野氏を名乗る武将は、この海野長門守幸光と弟の海野能登守輝幸以外にいないからであります。海野幸光は上州吾妻郡岩櫃城主斎藤越前守に仕え、これを攻めた真田昌幸と城内から通じ、斎藤越前守の甥の弥四郎とともに謀反を起こし、斎藤氏を滅亡させて、真田昌幸の重臣となります。そして大柏木城に拠った棟綱の嫡子源五郎を滅ぼします。
 海野長門守幸光は、岩櫃城代として弟の能登守輝幸とともに真田昌幸の幕下として重き位置にありますが、後に昌幸の為に忠誠を疑われて滅亡させられます。
 ここに海野棟綱の直族が滅亡しますが当時の吾妻郡の歴史を記した「加沢記」に海野棟綱の名は出て来ず、羽尾城主を羽尾入道幸全と記しています。この羽尾入道幸全が海野棟綱であると推論したのが、私の「海野氏の滅亡」であります。
 石和氏系図によりますと海野棟綱の弟、幸義を養嗣子として海野氏の家督を継がせていますが幸義の嫡子が海野左馬亮幸光であります。村上氏関係の文献によりますと海野棟綱の上州亡命に行をともにした武将の中に海野左馬亮の名があります。そしてこの幸光が「加沢記」に登場する海野長門守幸光であると思われます。何故ならば、上州では当時海野氏を名乗る武将は、この海野長門守幸光と弟の海野能登守輝幸以外にいないからであります。海野幸光は上州吾妻郡岩櫃城主斎藤越前守に仕え、これを攻めた真田昌幸と城内から通じ、斎藤越前守の甥の弥四郎とともに謀反を起こし、斎藤氏を滅亡させて、真田昌幸の重臣となります。そして大柏木城に拠った棟綱の嫡子源五郎を滅ぼします。
 海野長門守幸光は、岩櫃城代として弟の能登守輝幸とともに真田昌幸の幕下として重き位置にありますが、後に昌幸の為に忠誠を疑われて滅亡させられます。
 ここに信州の名族海野氏の門葉の悉(ことごと)く真田昌幸によって滅ぼされ、真田昌幸が海野の名跡を襲う結果となったのです。このことは、今まで信州でも上州でも論ぜられたことがありませんでした。海野史研究会の方々の後考を願うばかりです。
 〈 歴史研究「海野」昭和63年1月18日第73号 から〉
 中沢晃三氏はこの一文とともに『加沢記』を前会長宮下氏に託されたという。
 このことは海野史研究会に託された課題の一つと言えよう。

(5)群雄割拠の時代

①上田原合戦

 武田信玄は父・信虎を駿河に追放してから諏訪・小笠原両氏を降だし、いよいよ北信攻略に着手した。信玄は難敵の村上氏を抜くために婚姻関係にあった祢津元直に相談したのではなかろうか。相談の結果、上州に逃亡している幸隆に白羽の矢が当てられたのであろう。元直は弟の矢沢綱頼に話を持ち掛け安中の長源寺にいた幸隆に武田家仕官の交渉をしたと思われる。天文12年(1543) 幸隆は武田家臣として佐久郡岩尾城代となり信州先方衆として活躍し始めた。4月7日武田晴信が高遠城を攻めたが、高遠城主高遠頼継は前日の夜に西の天竜川沿いの伊那の福与城主・藤沢頼親に頼り城を脱出し城は、もぬけのからだった。
 6月駿府の今川義元の援軍は、板垣玄蕃一行と上原城に居る板垣信方の兵と合流し、小笠原長時の出城である竜ケ崎城を攻めると同時に福与城も攻め落した。
天文13年(1544)12月祢津・望月等海野一族が来会して3百余騎となり、北佐久郡を全部平定した。信玄は大いにこれを賞し幸隆に岩尾城を与えた。
 天文14年(1545)真田幸隆は本領松尾城に復帰を果たした。
 天文15年(1546)武田家との闘いにやぶれた佐久郡の豪族・大井貞(さだ)隆(たか)の子の貞(さだ)清(きよ)が、内山城に立て籠って武田家に戦いをいどんだとき幸隆は武田の先鋒として闘い苦戦ののち降伏させた。このとき幸隆は貞清を、殺すには惜しい剛直な若者とみて晴信に助命嘆願を行い許された。翌年武田家では志賀城主笠原新三郎と激戦を繰り返し志賀城も落とした。幸隆は再度の城攻めに先方衆として謀略戦闘の両面において活躍した。内山・志賀の両城が落ちて、佐久郡南部は武田の勢力圏となった。いよいよ北信の村上氏は、武田に脅威をいだき両者の激突は必然となった。武田軍は佐久郡平定以来、意気軒昂と諏訪郡から大門峠を越え、さらに砂原峠をへて塩田平へ進んだ。 翌天文16年(1547)8月武田晴信が志賀城の笠原清繁を攻略し小田井原城も攻略した。上野国から上杉憲政の援軍が来襲したが、武田方は小田井原で迎え撃ち板垣信方を大将として、飯富虎昌・上原昌辰とともに真田幸隆が参戦して勝利した。
〈「小田井原合戦」より〉

 甲信の軍勢は約8千で、村上軍は本城葛尾城から、さらに砥石城の兵も繰り出した。両軍は天文17年(1548)の上田原において激突し激戦に及んだ。
 天文17年(1548)2月甲斐を出発した武田晴信(後の信玄)は雪の大門峠(現在長和町大門)、砂原峠(現在上田市塩田)を越え、総勢8千余の武田勢は倉升山の麓の御陣ケ入に陣を構えた。倉升山一帯には武田方が陣を据えたことを物語る名前が陣ケ入・御陣ケ原・兵糧山・相図山・物見山・味方原等の小字名が今も残っている。
 一方の村上義清は武田晴信出陣の報に接すると大老職の屋代政国・清野清秀・楽岩寺光氏に出陣を命じた。さらに楽岩寺光氏を通して高井郡の高梨政頼・井上清政、水内郡の島津規久等川中島四郡の諸将は無論のこと、上州(群馬県)の諸士にも出兵を促した。義清は家臣諸山上総介を上野国へ派遣し上州の諸将の間を奔走させた。さらに義清は上州と親密な大井貞清を通じ小林平四郎等の上州勢を味方に取り込んだ。
 義清は葛尾城に諸将を集め武田の攻勢をどう迎え討つか評議した。
義清の老中に佐久郡志賀城の笠原清繁の縁者・親類が多くは志賀城陥落の怨(うら)みがあり弔い合戦を是非すべきと、さもなくは村上家の武威を失うので直ちに出陣と老中が奨(すす)めて義清はこれに賛同し出陣した。
 2月14日夜明け寅の刻(午前3時)村上勢は楽岩寺光氏以下3千の兵を葛尾城に残し、義清以下7千余の兵は千曲川の北側に沿って南下し、上田の和合城(上田市岩鼻)に3百余の兵を残し、岩鼻口より渡河し浦野川を前に、天白山の麓の塩田川原に、産川を前にして陣を構えた。
 この日は朝から細雨が降りしきり、夕方には霙(みぞれ)に変わった。
 村上勢は、一陣に高梨政頼・井上清政・清野清秀等、二陣に須田満親・島津規久・会田清幸ら小田切清定・大日方平武等、左陣に室賀満正(信俊)、右陣に栗田国時、後陣は山田豊前・斎藤等が固めた。
 一方武田勢は、一陣に板垣信方、二陣に飯富虎昌・小山田信有・小山田昌辰・武田信繁、右に諸角虎貞・真田幸隆、左に馬場信春、後陣は内藤昌豊、遊軍は原正俊の布陣であった。
 ようやく早春の気配が感じられ、太郎山に逆霧がおり、風が肌を刺すように冷たく、いつもなら東の方に秀麗な姿を見せる烏帽子岳も、厚い雲に覆われていた。真田幸隆は武田晴信の家臣として出撃し、下之条から上田原付近で村上義清と激戦が展開された。この合戦を「上田原合戦」という。
  辰の刻(午前8時)武田方が行動を開始し下之条付近で両軍が激突した。板垣信方が先陣を切り、3千5百の兵力で村上方の陣に突進し、続いて小山田・甘利・才間・初鹿野の各隊も突入し、壮大な野戦が繰り広げられた。板垣信方は村上方の一陣を打ち崩し、およそ150の首をとったと伝えられている。義清は直ちに兵を繰り出し、村上勢は板垣信方の陣を急襲する。不意をつかれた板垣勢は狼狽し敗走する。信方は床机に腰かけていたが、安中一藤太の槍で倒れるところを、尾州浪人上条織部に首を取られた。

auto_OZhdTy.jpg板垣信方の墓(上田市上田原)

 義清は再度突撃した。これに対して武田方の馬場民部信房・内藤修理昌豊が左右から義清を挟撃し諸角豊後が帰路を遮った。甲兵久保田助之丞が義清の馬を刺し、馬が驚いて棒立ちになり義清が落馬し負傷した。武田方の兵が群がり寄ってきたので義清は最早これまでかと自刃するのを屋代源五が押し留めた。そこへ義清旗本14~15騎、雑兵40~50人が駆けつけた。従臣赤池修理亮は義清を救い上げ自分の馬を義清に授けた。そして一団となって石隅淵の方面から室賀峠を越え泉口付近(坂城町網掛)に兵を収容し葛尾城に凱旋した。
 義清が戦場から引き揚げたので晴信は、かろうじて陣を立て直すことができ、そのまま上田原に滞留した。武田方は、板垣駿河守信方をはじめ、甘利備前守虎泰・初鹿野伝右衛門・才間河内守等名だたる将を含め7百余が討たれた。
 一方村上方も、大将の義清が負傷、屋代源五基綱(父は屋代正国)・小島権兵衛重成・雨宮刑部正利・西条義忠・森村清秀・若槻清尚・中里清純等名のある武将も討たれ340~350人が戦死するなど大きな打撃を受けた。

石久摩神社の本殿裏に武田方・村上方の武将の墓という五輪塔、周辺には上田原合戦での無名戦死者の墓と思われる石積みが残っている。

村上義清が生れたのは文亀元年(1501)で、父は葛尾城主(現在の埴科郡坂城町)顕国、母は室町幕府管領(将軍を補佐して幕府の政務を総括する役職)の斯波義寛の娘で、家臣の出浦周防守国則の妻が乳母と言われている。幼名は武王丸、正室は信濃守護の小笠原長棟の娘で、子に村上(山浦)国清がいた。

 この板垣信方(始祖は甲斐源氏の板垣三郎兼信で延徳元年(1489)生まれ)は、武田信虎・晴信の二代に仕えた武田家の重臣であると共に、傳役(ふやく)(教育係)として若き日の信玄を支えてきたことから、晴信から大きな信頼を得ていたと言われている。天文11年(1542)の諏訪攻略については副将として采配を振るった。その後諏訪郡代となり晴信の信濃攻めの中心的な役割を果たした。戦いで敗れた武田軍は石久摩淵の台上で漸く陣を立て直し、旗塚一帯で両軍は再度戦うも決着がつかず上田原に布陣したままでいた。天文17年(1548)3月5日武田軍は諏訪上原城に移動地元に帰還した。
  7月10日武田軍は古府中の躑躅ケ崎の武田館を出発し、15日に甲信国境の小淵沢で休息した。7月19日寅の上刻(午前4時)奇襲作戦に出て、塩尻峠に信濃守護職小笠原長時本陣へ総攻撃を開始した。
 9月1日北佐久郡の田の口城を奪回して小山田信有らを救出し、前山城を押さえて、捕虜を5日後に甲斐黒川金山へ人夫として送り込んだ。
 天文18年(1549)3月真田幸隆は望月源三郎・望月新六ら一族を武田氏に服属させ、蘆田(あしだ)(依田新左衛門)・伴野氏らも武田方に降った。4月武田晴信が佐久春日城を攻略。7月小笠原長時が武田方を急襲(塩尻峠合戦)したが、武田晴信は迎え撃った。9月武田晴信が佐久前山城を攻略、平原城を焼き、真田幸隆が参戦した。

②戸石崩れ

 幸隆は、天文19年(1550)砥石城を攻略し、村上義清らと戦い武田家臣としての地位を固めた。村上氏の要衝・砥石城は、元々真田氏もしくは滋野一族の小宮山氏が築いた城を村上氏が奪取したと推定されている。
天文19年(1550)7月初旬武田軍は小山田信有らと諏訪郡へ出馬、10日諏訪を経て筑摩の馬場民部殿が築いた村井城に入り、小笠原氏の属城の攻略を督励した。
 武田軍は先ず15日深志(後の松本城)の出城なる戌亥(いぬい)城を猛攻してこれを占領、ついで信濃守護職城主・小笠原長時の林城をはじめ深志・岡田・桐原・山家・島立・浅間の諸城を攻め落とし、小笠原長時は逃亡した。安曇野の豪族仁科道外も降伏した。
 晴信は19日深志城へ入り馬場民部信春を城代に任じ、下旬には一旦諏訪へもどり兵糧を備え出陣した。
 天文19年(1550)8月29日武田晴信は陣馬山に本陣を構え大兵を率いて村上氏の砥石城を囲む戦闘を始める前の行事である「矢合わせ」が行われた。
 9月3日砥石城へ本陣を寄せた。
 9月9日午前6時武田軍の総攻撃が始まった。20日間にわたって攻撃は続いたが横田備中守高松の死が報じられた。それと同時に大将を失った甘利隊・横田隊が崩れて陣形は、たちまちのうちに混乱を極めた。
  11日小尾豊信が身代わりとなり討死した。城攻めの手詰まりから武田軍は陣形を立て直して策したが、功を果たせず敗色が濃くなってきた。
 晴信は一戦の小山田隊と後陣の両角隊に連絡を取り、全軍一丸となって村上軍に当ることを策した。このとき勘助は敵陣を混乱させさえすれば、あとは信玄の若さと捨て身が味方の陣形を立て直すだろうと考えた。勘助の作戦と活躍で信玄方は危うい急場を凌ぐことができた。
 10月1日早朝から武田軍は退却を始めた。これを見て取った義清軍は直ちに追撃を始めたので、武田軍は大きな犠牲(小山田備中守信有が討死する)を払いながらの退却となった。この時、真田幸隆は村上家に属する川中島平の須田新左衛門氏・寺尾氏・清野氏(苅谷原氏が後に川中島の清野と大塚に分家)・春原氏らを味方にすることに成功した。村上義清は高梨政頼と手を組み、武田に寝返った清野氏の寺尾城を攻め、この知らせに驚いた幸隆は晴信に急報し自らは寺尾城救援に赴いた。11月1日攻囲一カ月に及んだが落城させることができず囲みを解いて退却した。
 
 真田幸隆は善光寺平へ進んで村上義清の背後を攪乱していた。急遽(きゅうきょ)晴信の本陣に帰り状況の急変を告げた。それは北信濃の反乱を鎮めた義清が全力を奮って砥石城攻めの救援に来るというものだった。砥石城攻めは完全に失敗であったが、晴信は機を逃さず戦場を離脱したのである。この退却は幸隆の献策に対して武田晴信より諏訪形1千貫文の地を与えた。天文20年(1551)5月20日武田軍が引き上げたので、義清は砥石城に僅かな兵を残して本隊を引き上げた。この有様をじっと見ていた真田幸隆は砥石城を守る義清軍に手をまわし、城中に何人かを味方にして、その中の矢沢氏が武田氏に内応し火を樓櫓に放し敵を導き攻撃を仕掛けた。
 要害頑固な砥石城も真田幸隆の天才的な知略によって、砥石城は殆ど一兵も損ずることなく不意を襲って「乗っ取る」という形で落城させた。
 7月25日武田晴信が信濃に出陣する旨を飯富虎昌が真田幸隆に連絡するが、これは飯富虎昌と上原昌辰宛ての武田晴信の書状であり、晴信が小県へ出馬する旨を真田方にも伝えてくれとあった。これは小諸城主・飯富虎昌、内山城主・上原昌辰と同列に扱っていることから、真田幸隆の武田家臣としての地位が固まった。
 9月内山城代・上原伊賀守昌重が、先に討死した小山田備中守昌行の名跡を継ぎ小山田備中守昌辰と名乗った。

        auto_6WXaW9.jpg砥石城跡

戸石城(標高800m)の支域ともいう米山城(村上義清公の石碑がある)には、有名な白米城伝説がある。武田信玄は戸石城を猛烈に攻め、ついに水の手を断った。守る村上義清勢は、白米を馬の背に流して洗うふりをし、遠目には水がいくらでもあるように見せかけた。こうして信玄の猛攻を防ぎながら、義清は城を捨てて越後へ落ち延びて行ったという。米山城は戸石城から続く尾根が上田方面に突出した地点にあり、上田盆地が一望できる見晴らしの良いところで、ハイキングコースとしても親しまれている。今でも少し地面を掘れば焼き米が出る。この焼き米は、籾のまま煎った兵糧ではないかと言われている。

 2007年のNHK大河ドラマ「風林火山」は原作井上靖、脚本大森寿美夫だった。
㉞〈真田の本懐〉では真田幸隆は武田晴信の配下で、砥石城を攻めかねていた。村上方についていた幸隆の弟、常田隆永に再三武田方につくよう働きかけていた。
武田軍の軍師山本勘助は「真田家・常田家はともに海野家。兄弟協力して武田に滅ぼされた海野家を再興してはどうか」と助言した。海野家に幼い姫がいることを知った晴信は出家させていた二男竜宝とその姫を娶せ海野家を再興させようと、幸隆に持ちかけた。その回では「海野」という語句が20回以上登場した。
録画を観た宮下前会長は
「これで真田氏が元々は海野氏と深い結びつきがあったことが、地元でも広く知られるようになり海野が見直されるきっかけになった…」と喜んでいた。長年の海野氏研究が報われた瞬間だったと思う。
 
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海野宿ふれあいまつり」で侍に扮する前会長(写真左)

③川中島合戦

 天文22年(1553)4月9日午前8時ころ村上義清は、武田方の勢いを見て戦わずして葛尾城を逃れ、長尾景虎(上杉謙信)を頼って越後へ落ち延びた。その後義清自身も一騎打ちで有名な永禄4年(1561)の川中島合戦などに従軍して、旧領の回復を目指したが、達成できず永禄8年(1565)に越後の根知城主(現在の糸魚川市根知)となり、嫡男・国清は上杉謙信の養子に迎えられて山浦景国と改名し上杉一門となった。

村上義清は武田氏によって攻撃され居城が消失した。義清の夫人は逃れて千曲川の岸に至り、お金をもっていなかったため、お礼に自分の笄(こうがい・櫛)をとって船頭に与えて川を渡った。しかし武田軍に取り囲まれ、夫人は逃れることができないのを悟り自刃した。後に夫人の霊を祀って石の祠を建立された。これが有名な「笄の渡し」伝説である。

 義清は元亀4年(1573)に亡くなり光源寺(現在の上越市)に埋葬された。義清の墓所は坂城町にもあるが、根知城下の根小屋の安福寺(糸魚川市)に五輪塔もある。このほかにも新潟県津南町や上水内郡飯綱町にも墓があり、それだけ義清が慕われていたという証かも知れない。

村上義清の墓は、第3代坂木代官長谷川安左衛門利次が名家遺跡が失われないよう、明暦3年(1657)義清公の孫義豊や村上氏の臣出浦氏の子孫、正左衛門清重らに図り、自ら施主となって出浦氏所有の墓地に義清公供養のための墓碑「坂木府君正四位少将兼兵部小輔源朝臣村上義清公神位」を寄進設立した。その後、寛保2年(1742)清重の子清平が玉垣を築き、寛政3年(1791)清平の子清命が石柱「御墓所村上義清公敬白」を建てた。昭和45年以来諸整備補修が行われ昭和47年墓碑の上屋と鉄柵が設置され、平成8年には全面的改修となり、現在の諸施設となった。

 ここでも真田幸隆は大須賀氏を調略しており、幸隆の活躍が大きかった。
真田幸隆は戸石城の普請の実務担当を務めた。また幸隆は仏門に入り一徳斎良心と号す。

 上杉謙信(長尾景虎)は川中島に出兵し天文22年(1553)4月22日甲越両軍最初の衝突で川中島合戦の始まった。武田軍は後退し義清は旧領を恢復して小県郡塩田城に立て籠もる。
 8月5日武田信玄(晴信)が塩田城を落とし義清は城を棄てて越後国へ逃亡する。
 8月10日真田昌幸(11歳)を人質として甲府へ送り、代わりに上田秋和350貫文の地を与えられた。
 9月信玄が再び川中島に出兵し各地で武田軍は戦った。9月20日上杉謙信は一定の戦果を挙げたとして越後に引き揚げた。信玄も10月17日に甲府へ帰還した。
 天文24年(1555)4月川中島合戦激戦開戦。
 弘治元年(1555)7月、川中島合戦二回目の対戦。対陣4カ月におよび10月15日駿河国の今川義元の仲裁により休戦し両軍和睦して撤退する。武田軍は諏訪に退く。11月6日諏訪の湖衣姫は逝去する。享年25歳。
 弘治2年(1556)9月8日信玄が真田幸隆に、その攻略を即し埴科郡東条の雨飾城を攻め落して城将となった。
 弘治3年(1557)2月武田軍が葛山城(善光寺裏の山)を落とした。
 4月謙信が信濃に出陣し川中島合戦は三回目となった。
 永禄元年(1558)4月幸隆が小山田昌行と共に東条(雨飾)籠城衆に定められた。
 永禄2年(1559)5月末、長延寺の実了僧都に越中の一向宗門徒をまとめてもらう約束した。岐秀大和尚により出家し薙髪して晴信改め法名信玄を授かった。
 永禄3年(1560)羽尾入道・海野長門守幸光は鎌原の砦を攻め鎌原敗れる。
鎌原宮内少輔筑前守幸重父子平原において信玄に出仕した。
 この頃、幸隆を通じて上野の海野一族は信玄に随順する。
 また、海津築城に幸隆も助力する。
 永禄4年(1561)5月、真田幸隆は西上野に出陣する。
 また海津築城に幸隆も助力した。
 『甲陽軍鑑』によると、永禄4年(1561)に信玄が信濃名族、仁科・高坂氏に勝利している。5月真田幸隆は西上野に出陣した。
 8月真田幸隆岩櫃城を攻めた。
 8月23日上田原古戦場にて敵前法要し、1万6千余兵力で海津城へ向かう。
 8月29日上杉軍は兵1万8千をもって妻女山に陣をとった。
 9月8日夕方雨、9日晴れ、夜半から10日の夜明けにかけて濃い霧が発生した。
 21日四回目の川中島合戦が激戦となる、真田幸隆・信綱父子は武田方の将として、この川中島合戦に参戦した。真田幸隆・信綱・昌輝・昌幸父子は妻女山を攻めた。
 これが、有名な武田信玄(武田晴信)と上杉謙信(長尾景虎)の一騎打ちとして伝えられる。

 小諸市滝原の萩原秀市氏の所蔵文書で、先祖の萩原又左衛門が武田大善大夫晴信から永禄4年に受け取っていて、小諸市内の個人所有では一番古い貴重なものであると語られている。「此の度、信州川中島合戦の砌(さい)、早速、駆付、抜群の働きにより弐百貫匁を處下され候也」とある。
弐百貫は、江戸期では「壱貫は10石であるから」壱貫×二百倍となり、米10石は20俵であるので、20俵×二百倍、そんなに大量を受領したのか?

 当地の海野でも同様に、小県郡海野(現在の東御市本海野)の所伊賀守も武田信玄よりの古文書を所有している。「永禄4年8月29日午刻於信州川中島合戦の砌、敵首二ツ討取候段………神妙ノ至り………」法性院徳栄軒信玄から所伊賀守宛となっている。
この8月29日に所伊賀守は川中島に於いて抜群の戦功を挙げている。
 この合戦では、甲軍死者4千5百人、負傷者1万3千人であり、越軍死者3千6百人、負傷者6千人とも伝えられている。
 その数年後に、所伊賀守は三増峠(神奈川県)の戦いの戦功による文書を受領している。
それは元亀元年(1570)8月の文書には「今18日相州三増峠過日の働きにより、信州小県郡の内……宛行うもの也」馬場美濃守奉之とある。
北条勢は三増峠の頂上付近に陣取り、夜明けと共に進軍を開始した武田の本隊は、馬場隊を先頭に勝頼隊・荷駄隊・浅利隊が後続して、峠の坂道を南方から登って、激しい銃撃な激戦となるが、武田勢は動きを止めず、馬場隊は多くの死傷者を出すが、北条勢は総崩れとなる。

 元亀元年(1570)この頃、真田信綱に上野の最前線を守らせた。
 4月信玄は春日虎綱(高坂弾正)に後の事を任せて真田信綱に託して伊豆侵入の武田軍に加わるよう命じた。
 元亀3年(1572)3月幸隆が計略で上野白井城を落とした。信玄はそれを賞し、箕輪城に在城して春日虎綱(高坂弾正)の支持を受けるよう命じた。
 12月22日に「三方ケ原合戦」で武田信玄は徳川家康・織田信長連合軍を破った。信玄は川中島地方からの逃亡者の逮捕を小県の諸領主祢津松鴎軒(常安政直)・真田信綱・室賀大和入道・浦野源一郎・小泉昌宗らに命じた。
 天正元年(1573)3月白井城が上杉軍のために奪われ、幸隆は引続き上野で上杉方と戦った。4月12日武田信玄が三河より帰陣の途次に病に倒れ伊那郡駒場で死去した。天正2年(1574)5月19日真田一徳斎幸隆(永正10年(1513)に生まれ)が砥石城で病死した 法名「笑傲院殿月峯良心大庵主」 享年62歳(高野山蓮華定院過去帳)長子・真田源太左衛門信綱が家督を継いだ。38歳。
  武田信玄の死後、その子・勝頼は天文15年(1546)の生まれ、28歳で後を継いだ。勝頼が天正3年(1575)5月奥平信昌の守る三河の長篠城を囲むと、同月18日に信昌救援の織田・徳川連合軍が3万の大軍をもって設楽原に進出し、同月21日に決戦となった。
 武田信実(信玄の六男)が守る鳶ケ巣山の砦が酒井忠次に奪われ、設楽原に押し出された形となった、この設楽原決戦場の柳田集落の住民にも武田氏は手を延ばしており、いざという時は必ず味方になってくれると武田方は思っていた。戦いの準備が始まると、この土地の人々は織田・徳川連合軍の人夫になって、堀を掘ったり柵を造ったりしていたという。決戦の日は武田軍に不利になった。勝頼軍は織田信長・徳川家康の連合軍と三河長篠城(愛知県鳳来町)で戦い壊滅的な敗北を喫した。これが世にいう「長篠の合戦」という。
 設楽原では真田源太左衛門尉信綱・真田兵部丞昌輝の兄弟は右翼隊に属し、穴山信君・一条信竜・馬場信春・土屋昌次らとともに奮戦した。古戦場の三子山で真田信綱・昌輝兄弟は、一族の常田図書・祢津神平(桂林院殿月岑常圓居士)・鎌原筑前その他宗徒の家臣らとともに、乱戦の中で討ち死した。
 その場(愛知県新庄市八束穂)には一基墓碑が建っている。その墓碑には真田信綱・昌輝兄弟の名が刻まれている。墓は今でも宮脇の安済久夫氏がお守りしている。
 信綱の首は、徳川の士・渡辺半十郎政綱がとったという。信綱は武勇抜群で武田信玄・勝頼両代にわたって功績が多かった。上田市真田の信綱寺には信綱の墓がある。
 山門に桜の古木があり長篠の戦いで討死した信綱の首級を、その臣・白川勘解由兄弟が持ち帰り、ここに埋めて殉死したと伝えられている。その後寺の裏山に改葬して、立派な墓を建立した。宝篋印塔二基があり、一基は信綱のである。他の一基は妻のものと言われているが、妻の墓は別の寺にあり、昌輝のものとも言い切れないとのことである。本堂には信綱の鎧の胴、首級を包んできたという白川勘解由の陣羽織・白絹地の背旗などが宝蔵されている。渡辺半十郎政綱が取ったほどの乱戦であったとすれば、弟の昌輝の首を兄信綱のものと誤認したのではないかとさえ考えられる。
 昌輝の墓は、設楽原だけということになる。
 信綱は享年39歳、(法名 信綱寺殿大室道也大禅定門)
 昌輝は享年33歳、(法名 嶺梅院殿風山良薫大禅定門)
 三男昌幸は信綱に代わり、武藤家を辞して真田姓に復し家督を継いだ。10月昌幸が河原隆正(母の兄)に真田町屋敷年貢を宛行った。11月昌幸が四阿山別当職を安堵された。長篠で戦死した望月昌頼の家に、武田信豊の女を養子とし望月の家督を継がせた。武田氏の勢力は大きく後退し佐久郡は上杉氏に小県郡は村上義清の支配となった。  

(6)上田城を取り巻く戦い

 真田家を継いだ昌幸は天正11年(1583)、砥石城を降り、自立の道を歩むため上田城築城に着手した。
 築城にあたり城郭周辺に先祖の地、海野郷の太平寺村(現在の東御市本海野白鳥台団地)から58戸の全員招いて、今の海野町を造った。その本末を明らかにするため、もとの地を「本海野」と称した。
 市(いち)の街として栄えていた海野郷からは多くの商人・職人が移り、鍛工の山寺・前沢・中村・武井・若林氏の五家により鍛冶町、染工の倉沢勘右衛門の祖により紺屋町などの城下町も形成された。
また、願行寺・海禅寺・日輪寺・八幡社等ゆかりある寺社も移築され、まさに幸隆以後の海野氏本領の再構築を成した。

 海禅寺は真言宗智山派の智積院に属する。参道わきにある数本のうち一本の杉の木は、すでに幹の先が枯れていて、上田城にある老杉と同じような姿で年輪を刻んでいる。昔は瓦葺屋根だったが銅版に葺き替えられて、本堂の棟の中央には、光る六文銭と州浜紋が、その昔を偲ばせている。
この州浜紋は真田の先祖で、この地方きっての豪族・海野氏の家紋である。寺歴によれば、海野氏が天慶4年(941)1月20日に「海善寺殿滋王白保大禅定門」のために海野郷海善寺村に創建したとあるから、上田に信濃国分寺ができて200年程後となる。
 600有余年を経て、永禄5年(1563)11月7日武田信玄20貫の地を寄進、隠居分5貫文寄進、翌6年(1564)7月28日、10坊ならびに太鼓免6貫500文寄進されている。これは上杉謙信と川中島の合戦をしていたので武運長久を祈願している状勢を知り得る好史料である。
また、慶長6年(1601)、真田家より24貫の地を寄付されている。

 真田昌幸が上田城を築いたとき、城の東北方に鬼門除けの寺として、そのころ海野郷にあった海善寺を移した。そのため海野郷には寺のあとは地名だけが残り寺はない。
 真田信之が元和8年(1622)松代へ移された時、真田家の海善寺も松代へ移し開善寺となり、残された上田城の守りに海禅寺に名が改められて、この寺を残したものと考える。また願行寺も松代に移された。
その一方では、旧真田の先祖の地といわれている真田郷からは、この時は、神社・寺院等は一つも移設されていない。。

auto_g5tiYW.jpg上田城

 天正10年(1582)6月2日本能寺の変で織田信長が倒れた後、明智光秀・柴田勝家を共に敗死し、豊臣秀吉が徳川家康と対決した。家康は小田原の北条氏直に協力を求め、援軍の約束を得たが、このとき氏直が条件として、上州の沼田城の引渡しを要求した。
 真田昌幸の離反によって沼田・北条間には再び軍事的緊張が走り、北条氏邦は、徳川勢と甲斐新府・若神子間で睨み合ううち、主力より5千の兵を向け10月初旬に沼田城攻略を開始した。
 沼田城最南端にある支城、長井坂城・森下城は陥落し、北条氏邦は川額に陣を敷いた。
 氏邦は、猛将・猪俣能登守に川田を、上泉主計・難波主税之介に阿曽をそれぞれ兵2千にて攻略に向かわせた。矢沢薩摩守頼綱(よりつな)は、このまま北条軍が勢いに乗って支城を攻略されれば、沼田城の将兵の士気の低下と内応者がでる危惧を考慮し、10月19日自らが最前線で一戦して籠城の士気を高めようと5百の兵を率いて出陣した。この時、頼綱64歳。
老齢ではありながら積極果敢な勇将であり、川田を攻略中だった猪俣能登守は頼綱出陣の報を受けて城の包囲に5百の兵を残し、頼綱の布陣する阿曽の北西・沼須ケ原に向かった。猪俣能登守1千5百、薩摩守頼綱5百は激しい野戦を繰り広げ、猪俣能登守は優越した兵力で押すが、頼綱は少数の味方を督戦して陣を崩すことなく押し返した。
当初の劣勢から猪俣能登守の陣を突き崩した頼綱は、首300を討ち取るまで盛り返し、ついに猪俣能登守を砥石明神の境内へ敗走させ大勝を果たした。21日には長井坂城の要害も失い、28日より裸になった沼田城に北条軍5千の総攻撃が開始した。
 矢沢頼綱は寡兵で籠城し三日間城を守り抜き、北条勢は沼田の険は強襲では落ちぬと判断し阿曽に兵を引いた。
矢沢頼綱はこれを逃がさず、かえって阿曽に夜討ちをかけ優勢に気を抜いていた北条軍に打撃を与え沼田城の守りを固めた。
一方、真田昌幸は、北条軍の退路を断つため密かに沼田・厩橋を撃墜するというゲリラ戦が行われた。北条軍はゲリラ戦に苦しみ沼田での短期決戦を諦め、兵をまとめて厩橋城(群馬県前橋城)に退却した。
 8月22日には南信濃の木曽義昌が徳川方に付いて、長期対陣する北条軍不在の間に佐竹義重が関東を押さえこみ始めた。北条家は、この膠着(こうちゃく)に利なしと判断し10月29日に徳川家との和議を成立させた。

 天正13年(1585)8月北条氏照は、上杉家の手に渡っていた厩橋城を攻め、城主北条高広を追って沼田攻略の機会を狙っていた。翌年、家康は秀吉との小牧長久手合戦が膠着(こうちゃく)すると北条との盟約を強固にしようと考える。
4月徳川家康から真田の領地である上州沼田(群馬県沼田市)を北条家に引渡せと要求された真田昌幸は「上田と双壁をなす最重要拠点」であるとし、命令を拒んだのが原因で神川合戦(第一次上田合戦)へと突入した。

 上田城が出来上がった翌天正13年(1585)のことであった。徳川は8千5百の大軍で、長瀬河原から国分寺付近に押し寄せ上田城に迫った。上田城本丸には城主真田昌幸以下4百ばかり、昌幸の長子信・之(信幸)は8百余騎を率いて伊勢山(砥石城)に布陣、また、武装農民3千も動員したという。真田はたった1千2百の兵であった。
信之は上田城下に出て小競り合いを繰り返しながら巧みに敵を城におびき寄せたという。
 真田勢を、あなぞった徳川軍は一気に攻め落とそうと大手門を突破し、本丸に殺到した。まさにその時、本丸の門の上に吊ってあった大木が徳川軍の頭上に落とされ、城内から弓矢・鉄砲が射かけられ、それに呼応して信之の兵が激しく挟撃、さらに昌幸の兵が横あいから攻撃を開始したが、六倍にあまる徳川勢は奇襲にあい大損害を被り敗走したという。
 昌幸は大勝したものの、再度せめて来る徳川勢との戦いを想定し、越後の上杉景勝に救援を求めた。二男信繁を人質にする条件で、この交渉を成功させた。
上杉軍の気配を感じて徳川勢は全軍引き上げたが、整えつつあった上田城下町は戦場と化した。

 この動きに呼応して9月北条氏直が小田原から氏照・氏邦と共に3万の軍勢を動員、昌幸から後詰を期待できない沼田攻略を開始した。氏直は軍を二手に分け、氏照は吾妻・今井峠から、自らは勢多郡から沼田領に侵入した。
 矢沢頼綱は上杉景勝の後詰を得て、城外での奇襲で取って返して城に籠るという真田家のお家芸「ゲリラ戦法」をとり北条軍に効果的な攻撃を与えた。
頼綱が再び千の兵を率いて城を出たという報を聞いた氏直は、猪俣能登守に3千の兵を与え迎撃させたため、頼綱は猪俣能登守に攻められて多勢に無勢、名胡桃に逃走した。
 猪俣勢は仇敵・頼綱を追いつめようと、薄根ケ原まで追い立てるが、榛名の森にいた伏兵と頼綱の反転・挟撃を受け、さらに名胡桃城より鈴木主水正も門を開けて打って出た。矢沢頼綱は首200を挙げ快勝を収めたという。
猪俣能登守の敗走を知った氏直は怒り沼田城に総攻撃をかけた。
 しかし矢沢頼綱は、城下の出入り口の七か所に木戸を設けて北条軍を誘い込み、木戸を落として火をかけ孤立した先手を包囲殱滅(せんめつ)した。
 農民までも動員する徹底されたゲリラ戦は、またも北条軍に打撃を与えた。吾妻・今井峠から沼田に向かった氏照の軍勢は沼田の支城・川田城に攻め寄せるが、城壁まで近づくと川田城は、もぬけの殻であった。北条の大軍を前に城を放棄したと考え入城した。北条氏直に続き氏照までも戦果無く、大きな損害を出して小田原に退却した。

 天正14年(1586)4月沼田城奪還に燃える北条氏直は攻略に本腰を入れるため、上野・武蔵・下野・常陸・安房・上総・下総の各支配下から約7万の兵力を繰り出し出陣した。対する矢沢頼綱は率いる兵は2万のみであったという。
 厩橋を経由し北条氏直は、まず氏照・氏邦・氏規を先手として沼田を攻撃させた。
 長雨が続き利根川・片品川の水量は増し、片品川の橋はすべて流されていた。 北条の先手隊は橋架・渡河するが大雨・洪水の中での行軍は難行し、北条軍は段丘上から沼田城を威嚇(いかく)する構えを取った。すると北条の陣所に頼綱の矢文が射掛けられた。「北条は、この小勢の沼田に大軍で攻めてくるというが未だに攻撃の気配はなく、早々に合戦が無いので、兵が退屈して困る」という大胆で挑発的な内容だった。
5月11日、氏邦は怒りを押さえて頼綱の投降を促す返書を送った。それでも頼綱が投降する気配はなく5月25日北条先発隊は、劣悪な戦場を尻目に一斉に滝棚の原から沼田城を突撃した。この際も、天正13年と同じく、深入りした北条軍は橋を落とされ木戸によって退路を失った。頼綱は鉄砲を一斉に撃ちかけて北条勢を殱滅(せんめつ)した。混乱した北条勢は同士討ちを起こし、また増水した片品川に落ちて溺死者が続出した。またしても大きな痛手を被り、退却の途を取らざるを得なかった。
 
 矢沢頼綱の三度にわたる戦いぶりは、神川合戦での昌幸に酷似しており、頼綱の兄・一徳斎幸隆譲りなのか、甥の昌幸と示し合わせたものなのか……兎も角、真田一族のゲリラ戦術の実戦指揮能力は、おそらく武田・上杉と並んで戦国最強と思われる。

 天正15年(1587)2月北条は4度目の正直で猪俣能登守と太田金山城の由良国繁に沼田攻略を命ずるが、頼綱は片品川にて由良の軍勢を撃破し猪俣勢を手玉にとって孤立させた。この時矢沢頼綱は69歳だったという。

 信玄を二度撃破した村上義清と長野業正と言い、真田幸隆・昌幸・幸村・矢沢頼綱の真田一族と言い、上州にはかくも城塞戦・ゲリラ戦の有能な将が多く輩出している。おそらく険しい山野を知り抜いているからこそ、その土地勘が戦術共鳴させ、一族結束して、困難な作戦を可能に出来たのだろう。

 昌幸は頼綱に勝利のたびに恩賞を送ったという。天正13年の合戦では上杉景勝も頼綱に感状を送っている。豊臣秀吉の命により、天正17年(1589)沼田城は真田の手から北条へと明け渡された。

 慶長5年(1600)9月5日の関ケ原合戦では、信之は妻が家康の養女となっていた本田忠勝の娘であるし、領地沼田も徳川に安堵されていたので、血縁的にも主従関係でも徳川方の立場に立った。
一方弟の信繁は妻が石田三成の同志大谷刑部の娘であるから石田方に与せざるを得なかった。徳川秀忠は昌幸に城を明け渡すか、攻め寄せて城をとるか、いずれか上田城を処分した上で関ケ原に、馳せ参ずるはずであった。
9月1日徳川秀忠は3万余の大軍を率いて中山道から北国街道にまわり、上田城の包囲網を敷いた。堀を挟んで鉄砲の撃ち合いが続いた。真田昌幸・信繁父子は戦略をめぐらせて城門を固く閉じ籠城作戦に出た。秀忠勢は上田城を包囲した。守兵わずか2~3千のため包囲さえ続ければ、真田が頭を下げてくると思ったらしい。
真田軍に手こずり、本格的な戦闘もないまま時間をつぶした秀忠軍は、七日間も釘づけにされた。上田城攻めを断念した秀忠軍は、関ケ原合戦に間に合わせるため、大門峠をまわり関が原に向かったという。関ケ原参戦に間に合わなかった秀忠は、家康から大目玉をくらったという。〈「戦国籠城伝」参考〉
 千早・長篠とともに天下の三大籠城作戦の一つとして名高い上田籠城であった。

 この戦いで上田城下町一帯は再び戦場と化し、海野氏の祖が建立した寺院などが焼失した。

 この戦いの間、上田城は一時城主を失い廃城同様になったと言われている。
 その後、上田城を与えられた昌幸の子信之も、反逆の疑いをかけられるのを避けるためか直ちに入城はしなかった。慶長16年(1611)5月昌幸が高野山で病没(64歳 戒名 長谷寺院殿一翁千雪大居士)し、元和元年(1615)5月大坂夏の陣で弟・幸村も戦死、翌2年4月に徳川家康が病死するという時の流れを見据えながら15年間も城主は不在のままであった。城も町も相当廃れてしまったと思われる。

 信之が上田の領主となってから、旧真田町本原から集落を移転させ、原町が形成された。一説では原町の形成は江戸時代後期からとも言われている。

 元和8年(1622)、信之が上田から松代へ移封され、幕末まで約250年に及ぶ真田松代藩の歴史が始まった。子孫の方々は現在この地で活躍され繁栄されておられる。

 結局のところ真田氏の確たるルーツは判然としないものの、その背景から、東信濃の小土豪としての命脈を保ち、戦乱にその名を轟かせたことがわかる。
 そして、天下の覇権を争う大勢力を相手に、その狭間を巧みに生き抜いた真田三代は、かつて源平合戦で活躍し、名族滋野氏流海野一族の血脈としての誇を受け継ぐ名将であったと言えよう。
真田家の先祖について探ることは、信濃武士たちの知られざる歴史と名誉をたどることでもあるようだ。

真田信繁の家臣に、いわゆる「真田十勇士」と呼ばれる架空の人々と考えられた 
が、海野三郎・祢津甚八・望月六郎は滋野三家に関わりがある。筧十蔵は豊後(ぶ 
んご)国(くに)「大分県」)富来2万石の城主の嫡男であると自称している。源平の 
壇の浦の合戦の時、宇佐八幡宮(大分県宇佐市)に火を放って殿宇を焼き払い、また 
義経の九州亡命を向かい入れようとしたかどで、上野国利根郡に流されている。浅 
間山山麓東信濃と上州利根郡は海野氏や真田氏が支配していた地でもある。 
三好清海入道・三好為三入道は、出羽国(秋田県由利郡亀田「現在は由利本荘市」) 
亀田城を本拠とした三好三人衆の後裔で、亀田城主(真田信繁の子に所縁がある)の 
三好六郎の嫡子で、母が真田昌幸の母と姉妹であった。兄の清海は、老臣の勧めに 
従って縁故ある真田家を頼るべきと考え、信繁の郎党に加わった。弟の為三は三好 
一族の支族矢島城に立て籠もって、東国の雄将佐竹右京と一戦を交えた。 由利鎌 
之助は、信繁の郎党になる前から、奥州藤原氏に随って出羽国由利郡を領有してい 
た。由利氏は信濃の中原氏と同族である。中原兼遠の四男業平は今井の姓を名の 
り、佐久市今井に住み、二男兼光は樋口を名のり、八千穂村樋口に住んでいたが、 
南北朝争乱のころ、小笠原・大井氏の一族もまた佐久から由利郡に移住している。 
そのため佐久地方と同じ地名が多く見かけられる。また真田姓で六連銭を家紋とす 
る家がぬきんでて多く居られる。猿飛佐助・霧隠才蔵は、猿飛は甲賀流忍者で滋賀 
県甲賀郡甲南町塩野の諏訪神社由緒書によると、蛇体の形をして初めて浅間山麓の 
大沼の池(御代田町塩野)に出現している。類似の伝承が甲賀の地にも、霧隠とかか 
わりのある伊賀の地にも伝えられている。穴山小助の穴山姓は、佐久地方と隣接す 
る甲斐国北巨摩郡より起った姓である。 〈歴史読本「忍者のすべて」より〉 

明治4年(1871)7月廃藩置県により上田藩にも終止符が打たれた。上田城は真田昌幸父子により築かれた。真田・仙石・松平と三度城主をかえて築城から288年目を経た明治4年(1871)8月18日には兵部省所管となった。新政府によって東京と大阪に鎮台が設けられ、上田城内にも鎮台が置かれることになった。その第二分営の第四番大隊の駐屯がきまり、乃木稀典少佐が隊長として滞在し、信濃全域がその所管となったという。分営廃止となり、城と城地は800円に見積もられたが、なかなか売れず、櫓ひとつ6円などと処分されたという。太郎山麓の遊郭に売られ解体移築後遊女屋になっていたが、第二次世界大戦中に上田市が譲り受け復元したという。9つの櫓のうち現存する正面入り口の二層の櫓は真田神社をはさんだもう一つの櫓とともに上田城の本丸を形成していた風格を今に伝えている。

上田城跡を中心にして上田公園は、市内の有志の寄付によって明治29年ごろには、一応の体制を整えていた。しかし、二の丸の中に監獄があり、深編み笠や後ろ手に縛られた姿をみると、行楽気分が一遍に飛んでしまうなどと騒がれ、そのため昭和3年になって他へ移され、真田を偲ぶ堀の桜・花園・動物園などが、取り巻く「児童遊園地」などの公園施設が作られた。
その年に長野県会の議決によって5万円の県費補助が決まり、市費10万余円をつぎ込んで、今の野球場をはじめ陸上競技場や庭球場などは、二の丸の外堀あとを利用して造成された。
また、昭和44年には県の蚕業試験場跡を買収して、体育館を建てるなどの拡張をはかった結果、体育施設を含む上田公園の面積は約53,000坪に及んでいる。

『郷土出版社「上田の歴史」参考』

(7)余話

①東御市在住の幸隆の子孫

 金井氏発祥の地は群馬県だという。
源頼光・義家らの新田氏を祖とする岩松東遠江太郎時兼の三男の金井三郎長義蔵人が、上州新田荘金井郷(現在の群馬県太田市新田金井町)に住んで金井姓を名乗ったのが始まりという。
 金井三郎長義蔵人は、永仁5年(1297)元冠の役に肥前(現在の佐賀県)に遠征した。孫の金井主水佑兼義は元弘元年(1331)の元弘の乱で足利尊氏・新田義貞らによって鎌倉幕府が倒壊した後、鎌倉にとどまり、建武2年(1335)中先代の乱(鎌倉幕府復活を期し北条高時の遺子・時行が挙兵した)で討死したという。
 兼義の妹が22代海野信濃守幸則に嫁ぎ、その長男・23代海野宮内少輔幸義、二男・金井豊後守幸忠は応永年間(1400)に信濃国小県郡岩下に住み、応永7年(1400)「大塔合戦」に海野・村上氏らと旧宮方が結集して圧勝した。
 幸忠の戒名 金龍院殿良悦善導子。
 幸忠の孫である兵庫介貞幸は、松代の寺尾氏家老職となり
 永正7年(1510)に金井山城主となっている。
 その二男が四郎兵衛重勝で、天文15年(1546)2月7日死去。
      (戒名 號養院一應自休居士) 
 重勝の妻は永禄7年(1564)10月13日没(戒名 養泰院城良一堂大姉)  
 重勝の娘は真田左馬充頼昌の長男・真田弾正忠幸隆公に嫁いだ。真田頼昌の二男が矢沢薩摩守綱頼、三男が常田出羽盛俊綱である。
 真田頼昌長男・幸隆には、長男・真田源太左衛門信綱、二男・真田兵部丞昌輝は武田の軍将として天正3年(1575)5月長篠の戦いに出陣して討死した。
 三男・真田安房守昌幸は真田家を家督し、四男真田隠岐盛信尹、五男真田宮内介高勝(信光)は天文18年(1549)生まれ、『一徳斎殿御事跡稿』によると金井の名跡を継承して金井宮内介高勝と称したという。
 高勝は真田信之にとって叔父にあたり、帰農したとはいえ高勝も昌幸や幸村と同様に、忘れがたい武将であった。叔父の冥福を祈って、飯沼村原郷(現在の上田市生田)に寺領3貫文の所領を寄進して、甲府の恵運院二世光厳東旭大和尚の二番弟子である葉山存荷大和尚を開山僧に迎えて寺を開基している。これが高勝寺である。
 高勝が同年7月7日に没した。
戒名「高勝院殿龍顔宗白大居士」より寺の名を「高勝寺」と言い、拝殿を構えた石祠があり、宮内介の霊を祀る「真田宮内大神」が鎮座している。
 地元の人からは宮内宮とか宮内様と呼ばれ、龍願寺西方の居館跡に二重の堀跡が残っている。高勝寺は寛永年中(1624~43)に寺号を龍願寺と改められた。
 
       auto_PbO1Y4.jpg龍願寺

           auto_RSg9B5.jpg高勝の五輪塔

 高勝の子の金井六郎高次が、丸子三角村(現在の上田市生田)に住み、初代金井姓の祖となった。
 天正11年(1583)1月の岩櫃城の戦いで戦功を挙げ、真田昌幸から天正13年(1585)7月16日に原郷14貫文と五加12貫文を、同年9月17日に岩門17貫文と大屋16貫文を戦功により受領した。高次は元和2年(1616)4月5日に大阪夏の陣で戦死した(戒名 乾徳院正億湖真居士)
 高次の妻は、元和4年(1618)8月14日に没、(戒名 松窓院正輿幽門大姉)
 夫婦は、ともに上田の大輪寺に葬られている。 

 真田家が松代に移封後、高次の子・2代清馬(信次)は松代に居住していた。
 正保元年(1644)3月3日に病没し松代の大林寺に葬られている。
     (戒名 春山桃源居士) 
     清馬の妻は寛永3年(1626)9月13日没 (戒名 一門不秀大姉)
3代嘉兵衛信定 元禄10年(1697)10月5日没 (戒名 観渓常音信士)
     妻は保科八太郎の娘
4代佐之助吉信 宝永6年(1709)5月16日没 (戒名 戎岩高俊禅定門)
     佐之助の妻は延宝6年(1678)5月16日没 (戒名 安楽妙寿信女)
5代由左衛門清保 享保10年(1725)7月11日没 (戒名 嶽峯月海禅定門) 
     上田市御嶽堂 宗龍寺に葬る
     由左衛門の妻は天文4年(1739)6月3日没 (戒名 満月乗船善女) 85歳
6代九左衛門道政 享保11年(1726)7月17日没 (戒名 直入禅□禅定門) 51歳
     九左衛門の妻は享保13年(1728)11月24日没(戒名 量山連器禅定尼) 
7代嘉兵衛高直 天明6年(1786)11月8日没 (戒名 渓山良異禅定門) 84歳
     嘉兵衛の妻は天明4年(1784)6月12日病死 (戒名 雲月知周善女)
8代国蔵吉瀬 安永6年(1777)4月16日に大水で的場の畑が流失する
     享和2年(1802)4月2日病死 (戒名 一朝直指禅定門) 77歳
     国蔵の妻・おみつは天保6年(1835)1月16日没 (戒名 萬峯仙重信女)
9代廣左衛門高保は国蔵の娘養子、
     天保3年(1832)11月30日没 (戒名 誨外似教信士)
     廣左衛門の妻は天保8年(1837)1月2日没 (戒名 露泡明堂信女)71歳
10代織蔵(折蔵)は廣左衛門の二男、
     慶應2年(1866)5月28日没(戒名 観法恵念信士)67歳
     織蔵の妻は明治11年(1878)7月6日没 (戒名 迅戒智速信女)
11代利兵衛(北御牧村八重原の黒沢喜藤太の兄)は織蔵の娘・うたの養子
     明治27年(1894)10月11日没 (戒名 戀応道春清信士) 68歳
     利兵衛の妻は明治23年(1890)3月2日没 (戒名 巒格妙春清信女)62歳
12代與兵衛 昭和39年4月29日没 (戒名 光徳諦道居士) 82歳
     東御市常田長久寺葬る
     與兵衛の妻・馬能は昭和37年4月29日没 (戒名 真楽常法大姉) 82歳
     菩提寺は東御市常田の長久寺に変更する。

 この金井家の子孫は、現在も『金井系図古文書』を持回りし、金井八家として「先祖祀り」を4月に毎年存続して行われている。

 なお、分家筋になるが、12代金井與兵衛は小諸市の大井源吉で鍛冶の修業をし、「金井」名称刻印を師匠からいただき、鍛冶をはじめた。

 與兵衛の二男・令宣(のりよし)の代になっても、小諸・大里等から農具の先掛けに訪れる人が絶えず、鍛冶と農具を大切にした人物だったという。
 鉄の仕入れは、小諸の茂原・上田の宮入鉄工・上田房山の柳田政太郎商店などであった。昭和10年10月に依田村(現在の上田市生田)から常田(現在の東御市常田)に転籍し、地域に貢献して繁栄した。
13代金井令宣 平成2年12月30日没 (戒名 徹心尚道居士) 79歳 
     令宣の妻は和村(現在の東御市和) 田中滝五郎・ゆ宇 の三女
     平成16年7月13日没 (戒名 慈心壽照大姉) 92歳
14代令宣の長男・健一  妻・多賀子
15代健一の長男・宏   妻・美香
16代宏の長男・伶穏、宏の長女・梨聖
と続いて現在も地域で活躍されて居られる。
  〈「金井系図古文書」より〉

②真田信繁生存伝説

 真田信繁(幸村)は生き延びて薩摩に逃げていた? 
信繁の生存伝説は複数の影武者がいたことによる。わかっている影武者は、望月宇右衛門・山田喜知平・穴山小助・高橋式部・穴山市右衛門の5人、このうち、穴山小助は真田十勇士で、信繁が亡くなる少し前に「俺が真田幸村だ」と言いながら、池に飛び込んで亡くなっている。徳川方が引き上げたが鎧に「穴山小助」と書いてあったため、信繁でないことがばれてしまったという。

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 昭和16年3月15日信濃毎日新聞

 信濃毎日新聞掲載の記事によると、鹿児島別格官幣菊池神社嘱託、元同地の高商教授澤田延喜氏「純正天皇聖跡史」等多くの著書をもち、最近は真田研究に没頭、近く著書によって学界へ問うべく各関係地を訪れ資料の整備を行っているが、14日来田天下の将「幸村」は大坂の陣に於て壮烈なる戦死を遂げたとの今日までの史実を反論している。

幸村は大坂で戦死したものでなく鹿児島に逃れて、この地で亡くなり、立派な墓も 
あり、その直系が現存している。今日まで伝説としては伝えられていたものが、立 
派に鹿児島落ちの真証が出来るので国定教科書の訂正もやがて行われるであろう 
云々…と発表した。
即ち、幸村の直孫は数年前東京に出て、現在は東京市牛込区横寺町37番地にアパ 
ートを営む山口博清氏(63)、三代前別家した山口なお子さん(54)は現在鹿児島市 
仲町32に青物商を営んでいる、同地の「草牟田」の丘陸地には信繁及びその子大 
助(昌幸)の墓碑がある。

 澤田氏曰く
 元和元年(1615)5月8日、幸村は大坂落城の際42歳で死んだことになっているが、墓石によると元和2年に鹿児島で死んで居り、大助は町人となっている。
島津家の書翰 
 大助幸昌は秀頼に殉じた事になっている、上田市史も保存されていて「客人をよろしく頼む」とあり、秀頼の子孫は、現在「八色」の姓を名乗って同地にある云々……とある。
 尚、前記山口家の過去帳によれば、
 1、月江常心居士 元和2年(1616)11月9日卒
     草牟田の墓碑高さ6尺六角形 側面に始祖滋野朝臣幸村
     俗名真田左衛門佐 後称山口兵部左衛門 月江常心居士室秋月家家臣
 2、烈岳俊揚居士 承応2年(1653)7月14日卒
     幸村の子大助(幸昌)は滋野朝臣幸安 俗山口九兵衛 室秋月家家臣
     更に大助後の過去帳を繰ると
 3、玆雲元明居士 元禄9年(1696)5月11日卒
     大助の子は滋野朝臣惟幸 俗山口兵衛  室海野治兵衛女
 4、山口兵太郎  滋野惟村  室分陽氏女
 5、山口利左衛門 滋野惟村  室重久氏
 6、山口伊右衛門 滋野惟之  室川辺氏
 7、山口伊吉衛門 滋野惟正 初称利右衛門 室二宮氏
 8、山口伊左衛門 滋野惟定 室吉田氏
上紀の過去帳は「祖先代々之霊神」とあり、これによって見ると幸村の後代は、明治・大正・昭和と連綿として続き、現当主山口博清氏へ続いている。
山口の姓を名乗った事については、幸村が上田城の前は山城であった砥石城であった時、その山裾の集落が山口村であったところから、これを姓にとったかとも思われる。           『以上は、高木喜一郎著「興善寺」参考』 
 
 真田信繁は、通説では大坂夏の陣で戦死しているが、全国各地に信繁は生きていたという伝説が残っている。「真田三代記」によれば信繁は豊臣秀頼とともに抜け穴から大坂城を脱出し、船に乗って逃れて鹿児島県南九州市に移り住んだという。  

 執者は、鹿児島県南九州市顕蛙(えい)町牧野内雪丸にある「真田幸村の墓」を訪ねてみた。伝説の地は、同市頴娃町の雪丸集落。南国鹿児島で雪がつく地名は珍しく、幸村(信繁)がなまったと伝わる。この集落は、その名も「雪丸」、ユキムラという文字と、真田丸のマルという文字が変異したと言われている。地元の伝承によると真田信繁は芦塚左衛門と名を変異したと言われている。その子・真田大助(幸昌)は芦塚中左衛門と呼ばれたという。そして、孫は芦塚小左衛門としていたようで、幸村の墓は、顕蛙町の田原家の私有林の墓石と言い、その中にある。

また、長崎県南島原市西有家町のお籠もり堂には昔から、地元の信仰を集める立 
派な墓があるが、近年になり真田幸村の墓ではないかと話題になっている。
この伝承によると、幸村は芦塚大左衛門、大助(幸昌)は中左衛門、その孫は小左衛 
門を名乗ったという。大助の子孫といわれる山田芦塚家の墓は、雲仙市吾妻町牧之 
内にある。

 信繁の墓とされる同市の石塔を訪れる人は増えており、地元は伝説にあやかった地域おこしに取り組んでいる。信繁の薩摩落ち伝説は京童たちが歌った「花の様(やう)なる秀頼様を、鬼のようなる真田がつれて、退(の)きものいたよ加護島(かごしま)へ」との歌で有名になったと言われる。
 墓とされる石塔は、山中にあり、墓石は島津家が「特別な石材」とした山川石製。文字や模様は刻まれていない。墓に通じる坂道は地元で「とんどん坂(殿どの坂)」と言われ、雪丸自治会の雪丸重光会長は「親から近づかないように言いつけられていた」と話す。

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 雪丸集落にある真田幸村の墓(鹿児島県九州市顕蛙町)

 墓には丸い小石がたくさん供えられている。これは信繁の子を身ごもった女性を徳川の追っ手から守るため同町の大川地区に嫁がせ、その子孫が墓参りの際に小石を賽銭代わりに置いたとされる。その女性が産んだ男の子は、真田の2文字の間に江という字を挟んだ「真江田(まえだ)」の姓を名乗ったという。
 真江田氏は幕末には薩摩藩から帯刀を許されており、大川の真江田家や難波家の墓には真田の家紋「六文銭」が刻まれている。
 集落の有志は、平成28年11月、NHKドラマ「真田丸」の放送開始を控え、墓の見学者をもてなそうと「雪丸幸せ村プロジェクト」と銘打った地域おこしを開始し、駐車場を整備し、参道入り口には杖を収める小屋を建設、山道に椅子や手すりを設置した。
 平成29年に入ってからは「ゆきまるくん」と名付けた武将キャラクターを制作し、道案内の看板を作ったり、地元特産の茶を使った焼き菓子や六文銭クッキーを開発した。
 5月には大河ドラマで主役を演じた「堺雅人さん夫妻」が訪れ、集落の商店でクッキーなどを購入したという。プロジェクトリーダーの田原三知恵さんは「世代を超えた関係が築け、集落が元気になった」と語ったという。
 参道の入り口に4月から置いているサイン帳には、国内外から1,466人の書き込みがあり、 最終回翌日の19日に訪れた女性は「泣きました。一年間楽しかった」と記してあった。20日に東京から訪れた「加藤孝伸・繭美さん夫妻」は「ここが信繁の最期の地であってほしい」と話したという。
 信繁の薩摩落ち伝説は多くの信繁ファンの歴史ロマンを駆り立てそうだ。
    〈「西日本新聞」の2016年12月22日付より〉

 鹿児島県には信繁の墓が、もう一か所ある。それは、鹿児島湾の対岸にある大隅半島の旧大根占町の落司(おとし)集落である。そこに落司平墓地という公園があり、その一角に真田稲荷神社跡がある。現在は残っていないが、跡地に真田幸村(信繁)の墓と、真田大助の墓とされるものが落司平墓地に現存する。
 〈「真田家の館」より〉 

 信繁は薩摩で死なず、東北の出羽(秋田県)で亡くなったという伝説もある。
信繁は主君供養のため諸国霊場の巡礼して出羽にたどり着き、当地に根を下ろしたという。当初は真田紐の販売をしていたが、後に酒の製造・販売に乗り出し、漸く安定した暮らしを手に入れた。この頃「長左衛門」と名乗っていた信繁は、店の屋号を故郷の「信濃屋」とし、平穏な後半生を送り、寛永18年(1641)に76歳で没したという。秋田県大館市の浄土宗一心院には、信繁から14代目にあたる子孫が建立したという墓がある。
 また、信繁は四国にも足跡を残している。香川県さぬき市寒川町には幸村の四男の「之親」と子孫の墓があり、明治になり真田姓に復したという。
   〈直系子孫が明かす! 真田幸村の真実より〉

③仙台真田氏の事実

 大阪夏の陣は元和元年(1615)5月7日の戦いだった。
大坂城落城前日にあたる5月6日夜、自らの死を覚悟した真田信繁は大坂城内に入城させてあった三女阿(お)梅(うめ)「幼名徳子・12歳」を、敵方である独眼竜伊達政宗の重臣・片倉小十郎景(かげ)綱(つな)の長男の片倉小十郎重長(31歳)を知勇兼備と見込み密かに送り届けたという。既に信繁はこの年3月に11歳の五女御(おん)田(た)姫(ひめ)と母隆清院(三好中納言秀次の女)を京都の祖父母瑞龍院のもとに避難させている。御田姫は後に岩城但馬守と結婚し出羽国由利郡亀田(秋田県由利郡亀田町)に移ったという。
決戦当日片倉小十郎重長は道明寺口において大坂城から出撃してきた後藤又兵衛の軍と相対し、城外真田丸の真田軍とも激戦を繰り広げたという。信繁は全兵力をもって徳川家康・秀忠の本陣めがけて総攻撃を敢行した。家康本隊に突撃するすさまじさに家康本陣は大混乱に陥り、家康自身わずか数名の兵に守られて三里程も退却したという。奮闘の後信繁は安居神社(現在の天王寺区)付近で休息していた所、松平忠直隊の鉄砲組・西尾仁左衛門宗次に見つかり戦死を遂げた。5月8日信繁の長男幸昌(大助・信昌)は大坂城内にて豊臣秀頼に殉じ14歳で切腹したという。

   auto_sjl8Ow.JPG安居神社(大阪市天王寺区) 

 大坂落城の後、伊達政宗の軍勢は5月9日から7月23日まで京都に駐屯した。ここで、また重綱のもとに信繁の遺臣・三井(みつい)景(かげ)国(くに)の家臣・我妻(あがつま)佐渡(さど)・西村(にしむら)孫之(まごの)進(しん)に護られながら、幸村の六女「阿(お)菖蒲(しょうぶ)」、四女「あぐり」、七女「おかね」、そして次男「大八」が送り届けられた。7月23日信繁の子女五名は伊達政宗の軍勢に匿(かくま)われる形で京都を出発した。江戸を経て仙台に到着したのは9月5日だった。

ちなみに、信繁の二女「於市」の母は家臣高橋内記の娘で、九度山で早世、長女 
「菊(すえ)」 は中山道の長久保宿(長野県長和町)の本陣を勤める石合十蔵道定に嫁 
いでいる。石合家には「娘を案じ、後の事はよろしく…」という信繁からの手紙が 
残るという。

 auto_wZPXT0.JPG中山道長久保宿本陣跡

 仙台到着後、子女達は片倉景綱の保護を受け、四人の姫は白石城内にて養育された。後に「阿梅」(23歳)は白石城主・片倉二代小十郎重長の後妻(先妻は病にて他界)となり、「阿菖蒲」は田村金兵衛定広(のちに片倉)の妻に、また「おかね」は京の茶人石川備前守貞清宗雲(元備州犬山城主・号宗林)に、それぞれ嫁した。また大坂夏の陣の後も京で暮らしていた幸村の六女「阿(お)菖蒲(しょうぶ)」は後に片倉重綱によって白石に呼び寄せられ、重綱・阿梅夫妻の養女として田村定広(天正18年(1590)、三春城主30代田村宗顕のとき豊臣秀吉によって没収された戦国大名田村氏の末裔。田村氏没落後は牛縊(うしくびり)氏と改姓して伊具郡内(宮城県)に暮らしていたが、伊達政宗の妻愛姫(めごひめ)の計らいにより、政宗の乳母片倉喜多子の名跡を継いで片倉姓を名乗り伊達家に仕えた)に嫁いだ。田村定広は延宝3年(1675)3月7日没。「阿菖蒲」は寛永12年(1635)7月29日没した。
 七女の「おかね」は元犬山城主石川宗林の長男石川重正に嫁いだ、この石川家は関ケ原の戦いのあと金融業を営んで大名貸しをしていた。この石川宗林の妻は大谷刑部の妹、つまり竹林院の叔母にあたる。さらに重正の姉妹は京都の大商人「大文字屋」(疋田家)に嫁いでいる。この大文字屋が大坂の陣で伊達政宗に軍資金を用立てていたというから、竹林院が叔母や従姉妹の関係を通じて、伊達政宗に子供達の保護を持ちかけていたのではないだろうか。竹林院は娘の「おかね」の世話になり安楽に暮らしていたと伝えられている。
 信繁の三男幸(ゆき)信(のぶ)(三好左次郎左馬助)は13歳の時、実姉御田姫の嫁ぎ先の出羽亀田岩城家に迎えられ墓地は由利郡岩城町の妙慶寺にある。
 信繁の四男之(これ)親(ちか)は夏の陣の際に幸村末子の之親の保護を讃岐(香川県)の石田(のち細川)民部大輔に頼んでいる。
 一方、信繁の次男大八は名を片倉久米(くめ)介(すけ)と改め、片倉氏から百貫文の食客禄を与えられて客分として白石城外で養育され、元服後は四郎兵衛守信と名乗った。真田大八が白石にて養育されているという事実は厳重に秘匿(ひとく)された。これは白石で養育された繁信の女子達の存在を公にしていたのと正反対で、大八が「真田幸村の男子」であったがための処遇だった。
 徳川方から見れば真田信繁は大坂の陣での大罪人であり、その血脈を伝える男子が生きているとなれば、徳川にとって末代までの禍根となる。露見すれば大八本人の処刑は言うに及ばず、大八を匿(かくま)っていた片倉氏、伊達氏までもが罪に問われることになる。最悪の場合は仙台藩62万石が取り漬される危険すらあった。白石において大八は片倉久米介と改名するとともに、姉達と異なり城外で育てられた。また、大坂落城後数年の間に、「真田大八は京都で死亡していた」という情報が流布された。これは明らかに偽情報であり、出所も不明であるが、おそらくは片倉重綱、あるいは伊達政宗が仕組んだものだと思われる。
 さらに片倉重綱・伊達政宗は、守信が幸村の叔父真田信尹(のぶただ)の子孫であるとした系図まで造ったとも言われる。寛永17年(1640)守信は真田四郎兵衛を名乗り、仙台藩主伊達忠宗(ただむね)に召し出された。家格は永代召(めし)出(だし)二番座、待遇は蔵米三十貫文取で江戸御番組馬上役を命じられた。すなわちこの年、父祖より伝わる真田の姓に復するということと、やがて武士として世に出るということ、ふたつの悲願が達成された。この悲願達成は一人守信だけのものでなく、幼少の頃から守信を保護し続けてきた片倉氏・伊達氏にとっても、長年の配慮が実を結んだ瞬間であった。ところが守信は、せっかく名乗った真田姓を、すぐまた片倉姓に戻してしまった。これは片倉重綱が「当家親戚、阿梅を頼ってきた真田姓の者につき、親戚として待遇して来たことから片倉姓を名乗らせたい」と藩に願い出て、片倉に改めたのだと伝わる。実のところは仙台藩が真田姓を名乗る者を家臣としたことに疑念を抱いた幕府が、藩に対して守信の家系調査を命じて来たことが発端だった。仙台藩士となった守信には、仙台城下五(いつつ)橋(はし)通に屋敷が与えられた。この屋敷は推定で表四十間・裏三十間、千二百坪の屋敷地で、仙台藩の規定では知行八十~百貫文の家臣に与えられる程度の屋敷地であり、三十貫文の守信には分不相応な屋敷地だった。片倉家養育時代に宛行われていた食客禄百貫文が、伊達家召し抱え後も継続しており、しかもそれが守信の知行に含まれると見なされていたことが読み取れる。寛永17年(1640)、守信が仙台藩士となった際の待遇は蔵米三十貫文(三百石)取で、蔵米取とは、藩直轄領より収納された年貢米(蔵米)から所定の禄高を給する雇用形態であった。仙台真田氏の開祖となった片倉守信は、再び真田姓を名乗ることができないまま、寛文10年(1670)に死去した。

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      当信寺(宮城県白石市)阿梅の墓(左)と大八の墓(右)

 守信は白石城下奥州街道沿いの功徳山当信寺に葬られた。当信寺は守信の実姉・信繁四女阿梅の菩提寺で、阿梅生前より片倉家の保護を受けていた。寺紋は阿梅生家の紋である「六文銭」を用いている。現在は、守信の墓碑と阿梅の墓標とが仲良く並んで建立されている。藩政時代に白石郊外の森合に、月心院があったが、現在は廃寺となっている。この月心院は、2代小十郎重長の後妻「阿梅」の方が建立した寺で、真田信繁の菩提を弔ったという。信繁の法名は「月心院殿単翁宗傳大居士」
 阿梅の墓石は如意輪観音像を像っており、首をかしげ右の掌を頬に当てるポーズから「その形が歯痛のため頬を抑えているようで可哀想に見えるところから、虫歯に苦しむ人達は、この墓石を削り飲むとよく効くとの迷信が生まれた。阿梅は、天和元年(1681)2月8日、病を得て静かに息を引き取った、享年78歳であった。法号「泰陽院殿松源寿清大姉」この泰陽院の墓と並んで大八守信の墓が建っている。
 JR白石駅前にある観光案内所の根方さんは「阿梅さまのことですね…」と呼んでいた。平成の世になっても阿梅は「阿梅さま」として、敬愛されていることがわかった。
 寛保3年(1743)、仙台真田氏三代真田信成は、自らの領地から三十石余(全て刈田郡曲竹村内)を割いて弟英信(惟信)に与え、分家した。
 真田分家創立の経緯は判っていないが、実際に領地分与が行われたのが信成・英信兄弟の父辰信が没した翌年の享保5年(1720)であることから、辰信の遺言によるものとも考えられる。

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 仙台真田氏の本拠地とされる片倉守信所領地(宮城県蔵王町矢附) 
写真奥の青麻山の麓には信繁の遺児らを守ってこの地に来た我妻佐渡の末裔宅がある。

 あるいは辰信は、正徳2年(1712)に真田姓に復帰できたことに続いて、「真田信繁の血脈を絶やさず後世に伝える」という使命を講じようとしたのかもしれない。分家があれば、何らかの事情で宗家の後継が絶えたとしても、分家を以って信繁の血脈を伝えていくことができるわけである。江戸時代後期の分家当主幸清は宗家の養子となって家督を継いだこともあり、宗家とともに真田信繁の血脈を伝える使命を全うしてきたことが窺える。
 時代は下って、真田9代喜平太(幸歓)の建言のうち最も驚くべきものが「郡県制建白」で、これは、大政奉還の報を聞いた喜平太が藩主慶邦(よしくに)に建言した三カ条のうちの一つ「天皇による政治体制を実現するには、諸大名の領地・人民を全て天皇に返し、郡県制による統治を行うことが必要」という案であった。喜平太はこの案を慶邦が最初に提案することで、伊達氏が新政権の主導権を握ることができると考えた。喜平太が建言した郡県制は、後に明治政府がとった「版籍奉還」「廃藩置県」「郡県制導入」などの政策に通じるものであり、喜平太の卓越した先見性が窺える。慶応4年(1868)、喜平太は若年寄に任命され、やがて軍の目付役となった。東北諸藩を中心に奥羽越列藩同盟が締結され戊辰戦争に至った時、喜平太は総指揮官として奮戦したが、仙台藩は降伏した。明治の世になってからの喜平太は、牡鹿(おしか)郡石巻(現在の石巻市)に暮らし、学校教育関係の事務官や、牡鹿郡の書記官などを勤めた。明治10年(1877)に西南戦争が勃発した際は、県内の旧仙台藩士から巡査7百名を募集した。喜平太はその総長に推薦されたが辞退した。もし、喜平太の建言が採択され、仙台藩の改革が実現していたら、明治維新後の歴史は大きく変わっていたことと思われる。仙台藩は「雄藩(ゆうはん)」の一つとして明治新政府の一翼を担う存在となり、喜平太は、その能力を存分に発揮して日本を正しく導いた人物として後世に名を残したに違いない。喜平太とその妻、そして息子昌棟は石巻で死去、当地の西光寺に葬られた。三者は、後に成覚寺に改葬されたが、墓碑は西光寺に残された。西光寺側で請うて残してもらったと伝えられている。喜平太の墓碑は高さ2mを超える立派なもので、喜平太の業績が刻まれている。なお、西光寺は東日本大震災の津波によって壊滅的な被害を受け、喜平太の墓碑も倒壊し現在も再建はなされていない。
片倉守信から数えて13代の真田徹氏は、上田市の真田まつりで信繁に扮するなど父祖の地東信濃を訪ね、交流を重ねておられる。
〈小西幸雄著「仙台真田代々記」・白石市「しろいしの真田物語」より〉