海野氏は、往古の海野郷(長野県東御市)を根拠とした豪族で、新張・望月等の牧の管理者であった祢津・望月氏の両氏と共に、この東信濃に、その基盤を築いた。平安中期、海野・祢津・望月の三氏は、国司・牧官等として下って来た中央の名門滋野氏との関係を結び、やがて滋野三家と呼ばれる。平安末期の「保元の乱」には、源義朝の下で活躍し、治承5年(1181)木曽義仲の白鳥河原挙兵に際しては、その中心的となって奮闘した。また鎌倉時代には、源頼朝や北条氏に仕え、中央にも聞こえた弓馬の名家として重用された。 
 戦国時代、信濃国内でも守護小笠原氏の勢力が弱体化し、諸豪族間の争いが次第に激しくなった。
 天文10年(1541)、信濃侵略を企図した甲斐の武田氏は、村上・諏訪両氏と連合して海野氏を攻撃した「海野平の合戦」と称されるこの合戦は、海野氏の死命を制することとなった。一族の祢津・望月氏は降伏、当主海野棟綱は、上野に敗走、嫡子幸義は戦死し、信州屈指の名族海野氏の正系は、ここに滅亡した。なお、一族の真田幸隆も上野に敗走した。後に、武田氏に仕え、その翼下として信濃攻略に活躍し、名門真田氏発展の基礎を築いた。
 海野氏の歴史は、私たちの郷土に関わりがあるので、昭和52年に、海野史研究会を発足し、40余年に亘り調査研究して、その収集した資料等を編纂したので、右側の各項目をクリックして、御覧いただければ幸いです。
  
 古希をすぎて 2011.4.29開設 武舍秀雄製作   (last update 2019.10.15)
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