はじめに

 旅に出てみたとき、やすらぎのとき、光ってみたい、雄大なドラマ、素敵な出逢い………………今あなたが主人公、あなたが作る、あなたの旅がここにある。感じてほしい旅の思いで…………。
 信州の小諸と上田市にはさまれた東御市は、全国一の生産量と品質を誇るクルミと巨峰、高原野菜の名産地。
 それに、広大な自然環境が巨体をはぐくんだのであろうか、天明・寛政年間の"幻の横綱"雷電為右衛門の故郷でもある。
 ここはまた、観光的にも貴重な見どころが多い。
 たとえば、宿場の面影を残す北国街道海野宿、旧鹿沢温泉の湯治客が往来した「山の湯道」とその沿道につらなる百体観音。上信越高原国立公園の湯の丸高原。
 国の重要文化財に指定されている春原家住宅。長野県宝の旧和小学校校舎など、そのほか数えきれないほどの史蹟・文化財がある。
 俗化を知らぬこの素朴な山里を訪ねて、田園的な独特の魅力をさぐってみてはいかがでしょう !

日 本 一

相撲勝率日本一

 力士雷電為右衛門の生家(大石)が昭和59年に復元された。雷電は大関在位16年間、土つかず23場所で優勝25回、勝率9割6分2厘と相撲界においては日本一の勝率。(雷電為右衛門の欄を参照して下さい)

宿場保存状態日本一

 工学院大学長伊藤鄭爾先生、日本大学吉田桂二先生、全国町並み保存連盟会長林文二氏ら多くの建築学者も「海野宿は宿場町の町並みとして日本一」と折り紙を付けている。(海野宿の欄を参照して下さい)

史蹟国指定第一号

 原口の戍立石器時代住居跡は、今から3500年前の縄文時代の遺跡である。昭和5年に発掘され、同8年2月26日に我が国で初めて史跡の指定を受けた。
(戌立石器時代住居跡の欄を参照して下さい)

日本最古の回り舞台

 西宮の歌舞伎舞台(回り舞台)は、文化13年(1816)に建てられた。
回しのない舞台では、この舞台より古いものが報告されているが、回しのある舞台では世界で最も古いと言われている。(西宮の歌舞伎舞台の欄をご覧ください)

納め刀の数が日本一

 東町の大日堂境内の石尊社に、豊作祈願のため奉納された納め刀が天明元年(1781)を最古に105振り残っている。数は日本一である。

巫女養育日本一

 祢津は、信濃巫女発祥の地として、全国でも有名である。徳川時代300年を通じて全国の巫女を養育し、大規模な巫女村では我が国随一であった。

巨峰の品質日本一

 東御市は降水量が少なく、地形が緩い南面傾斜地であるので、排水と陽当たりがよい。
 また、ブドウづくりには昼夜の温度差が影響するが、町は適地である。町の巨峰は他産地のものに比べ、着色、糖度、日持ちが優れており、品質は日本一である。

くるみの生産日本一

 東御市はかしぐるみの生産量が日本一で、57年には町全体で67tの収穫があった。
 これは同年の全国の収穫量1346tの約5%、県全体の収穫量600tの約11%に当たる。

蜂の巣の高さ日本一

 世界初のスズメバチの芸術館蜂天国『加沢435-1 ☏ 0268(63)3888』
 キイロスズメバチの巣を⑳個合体、6mのハチの巣の高さが日本一である。

-このほかにも身近に日本一、世界一と思われるようなものがあるかもしれません。さがしてみてください-

名所・旧跡

雷電為右衛門と生家

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 抜群の強さゆえ将軍家斉より「天下無双」「天下無類」の」二号を授けられた不世出の名大関雷電為右衛門。
 彼の故郷が、ここ東御市滋野の大石です。

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昭和59年に復元された生家

 雷電は今から約250年前、明和4年(1767)に、父は半右衛門29才、母けんは新屋村(現東御市新屋)後藤家から嫁ぎ19才の時、大石村(現東御市滋野)に生まれる。幼名を太郎吉といい、生れながらに力あり怪童と言われいた。

 父は田舎相撲の大関格で、お酒が大好きであった。
 7才のお祝いについた餅を、いっぺんに2升5合もたいらげたとか。
 13才の夏の午後、母が庭の風呂で入浴中、急に雷鳴とともに激しい夕立がきて、太郎吉は母を風呂桶ごとかかえて、家の土間まで運んだという。

 また15才のとき、細く険しい碓氷峠の山道を太郎吉もいっぱい荷物を積んだ馬をひいてきたところ、加賀百万石の藩主前田公の行列に出会ってしまった。
 よけることもできず困った太郎吉は、荷を積んだまま馬の足を両手で持ち上げて、無事に行列を、お通ししたので、殿様から「あっぱれであった」とおほめにあずかったというエピソードも残っている。

 その後、太郎吉は見込まれて、近くの長瀬村(現上田市長瀬)庄屋上原源五右衛門により、寺子屋師匠のかたわら、石尊の辻という相撲場を作り、若者を集め泊まり込みで、学問と相撲の技を磨いていた。
 修行して三年が過ぎたころ、江戸相撲の浦風林右衛門一行が、地方巡業で善光寺奉納相撲の帰りに上原家を訪ねられた折に、その才能と肢幹を認められ、天明4年(1784)18才で浦風の部屋に入り、谷風梶之助の内弟子となった。

 天明8年(1788)9月22才で、松江藩主松平治郷公の、お抱え力士となり、士分として8石三人扶持ちを与えられた。
 寛政2年(1790)11月、24才で初土俵、西の関脇で8勝2預りで初優勝。
 寛政7年(1795には、29才で西の大関に昇進、以来16年間、27場所にわたった大関の座を守り、9割6分2厘という勝率で、優勝25回で、ほとんどが優勝という成績であります。
 
 身長は1m97㎝。体重は169㎏。
 その成績がスゴイ。254勝10敗。優勝25回。

 このように書くと鬼のような大男を想いがちですが、彼は親思いで人情厚い人柄であります。
 寛政10年(1798)32才のとき、金50両で生家を建てなおしました。
その家は、自分が少年年時代世話になった長瀬村の庄屋上原家より小さく建てた。ここに義理堅い雷電の一面がうかがえる。
 家の竣工祝いに、建築費と同額の50両を使って、村びとたちをよんで大盤振舞をしたという。
 この家は、土間に土俵が作られていることと、二階が桟敷席になっており、相撲ぶりが観覧できるのが特徴である。

 その年に父半右衛門は59才で、また幼い娘もなくしています。酒好きだった父親のために酒樽と大盃と桝とを形どった珍しい墓が目につく。あの世で酒に不自由しないようにと、人一倍孝心あつく、愛妻家でもあったという。また、神社や寺にも寄進を欠かしませんでした。

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父 半右衛門の墓

 文化8年(1811)2月、45才で現役を引退され、そのまま松江藩相撲頭として9年間務めました。
 
 現役時代に巡業中に書かれた旅日記、「諸国相撲控帳」2冊と、相撲頭当時の日記、「萬御用覚帳」の1冊は、文筆にもすぐれており文武両道の達人でありました。
 また閂(かんぬき)・張り手・突っ張りの三手は、禁じられても、勝つ者はなかったそうです。 
 このような業績を残された雷電も寿命には勝てず、文政8年(1825)2月11日、妻八重に看取られながら、江戸四ッ谷伝馬町の本宅で、59才の生涯を終わりました。
 法名は「電聲院釋関高為輪信士」。

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雷電為右衛門の墓

 彼の墓は生家の近くにあり、滋野駅の近くには『雷電の碑』も建ち、子どもの成長を願う人々が訪れています。  
 文久元年(1861)5月に歿後37回忌に幕末の偉才佐久間象山先生の撰文ならび書により碑が建立された。
 がしかし大力士雷電の碑片を身につけると、子供が丈夫に育つとか立身出世の守り本尊になるとかいう迷信のために、心なき人々にかきとられたため碑文は全く判続できなくなった。

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力士雷電の碑

 そこで旧碑に向かって左側に明治28年(1895)3月、雷電一代の略歴が刻まれて、再建された。
 詳しくは雷電(クリックしてください)

百体観音

 今までカメラを担いであちこち散策してきました。陽気のよさに誘われて、今回は百体観音めぐりに出かけることにしました。

 一番観音から小旅は始まります。
 東御市新張から群馬県嬬恋村旧鹿沢温泉まで1町(110メートル)ごとに観音石仏が祀られています。
これを「百体観音石造町石」と言います。
 旅の安全を祈って刻まれた石仏は、道しるべとしての役割を果たしていました。
 この観音(聖観音をはじめ六種の観音)の像を刻んだのは、一番と百番 は有名な高遠石工三沢伊兵衛の女婿中山暉雲であることがわかっているが、 その他は石工の名前が不明である。

 現在の県道新鹿沢新張線を「湯道」と呼び、特に大勢の湯治客が通ったという。また初夏のワラビ・ウド・タラの芽などの山菜狩り、秋の甘露梅や、キノコ狩りなど近所の人々が誘い合って出かけ、一泊の入湯を楽しむ人々でにぎわい、当時の農民の唯一の保養場であった。
 この山の湯道の土標として作られたのが百体観音である。

 "山の湯"をめざして、湯治客が馬の背の両側にコタツやぐらを逆さにしてとりつけ、両方に一人ずつ客を乗せて温泉場へと運ぶ風景が昭和十年ごろまで見られたという。

しかもこの道は昭和のはじめまで嬬恋村田代から、馬二十頭ぐらいに繭を積んだ仲買人のキャラバン隊が、しきりに峠を越えて南へと下って、繭市場のある田中(現在東御市田中)まで22キロのみちのり、つまり"日本のシルクロード"だったのである

 一体一体大きさも違い、10番ごとに大きく作られていて、特に一番、五十番、百番観音は目をひきます。なかには見つけにくい場所にあったり道路標識のために不自然な位置にあったりとさまざまで、一つ一つシャッターに収めるたびに満足感を覚えていき、最後の百体観音にたどりついたときは、何かを成し遂げた後の充実感でいっぱいでした。

 さて、ご一緒に百体観音めぐりはいかかでしょうか!

一番観音~二十番観音

s_1-1.jpg一番 如意輪観音
 
 新張の名は昔、この一帯に牧場があり、馬を「みはる」という名からつけられたという。湯道の入り口にあるのが一番観音だ。

新張にある一番観音(如意輪座像)の台座に「西国一番」と刻まれ ているところから、西国、坂東、秩父の3霊場巡礼の功徳にすがり、 湯治の効能にあずかろうとした、当時の人々の深い観音信仰によって 造立されたものと思われる

 この百体観音は、大体、江戸末期から明治初期にかけて造立されたもので、 一番観音は地元新張区の寄進であり、その他寄進者は、郷村、個人もある。 不明のものも多いが、中には他府県の名前も読み取れる。

 観音の表情は思案深そうで、自然石の上に六角の石柱の上に乗った立体座像の如意輪観音である。ふつう如意輪観音は右足を立て膝し、右の手を頬にあてた思惟の形をとる。

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 四番 十一面観音 s_s_4.jpg裏手にあるのが諏訪神社
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 七番 如意輪観音 煩悩を除去し、延命・安産・除難を祈願
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 十番  聖観音
 わりと小型の半肉掘りの聖観音である。通常、観音というのは六観音の中の聖観音をさし、観音の総体とされる。
 十一番 准胝観音 難病が治り、健康な生活を祈願
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異色の見どころ、うわさの生チーズ工房アトリエ・ド・フロマージュ創業者の松岡茂夫・容子さん夫妻が、フランス仕込の技術と経験を活かして、生チーズづくりを33年前に始めました。現在ではブルーチーズが国内・海外でも認められるようになり様々なチーズが売店に並んでいます。カフェとイタリアレストランも併設されています。
カフェではドリンクヨーグト・フランス料理などが大好評です。

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 二十番  千手観音
 無数の衆生の苦しみに対して一度に手を差しのべんとする千手観音で、バックに美ヶ原・蓼科山・八ヶ岳などが広がる。

二十一番観音~四十番観音

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 二十九番 馬頭観音 馬の病気と安全を祈願
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 三十番  千手観音
 ここに旅館あさま苑
 と学生むらがある奈良原温泉、夏はテニスをする若人でにぎわう。これから道路は急になりカラマツ林の続く高原の中へと進む。
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 四十番  准胝観音 

四十一番観音~六十番観音

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右に大きく急カーブの手前のところに昔は橋がかかっていたという。今は道路が整備されて面影がないが橋の名を日暮れ橋といい平安の嵯峨天皇の時代に弘法大師が諸国行脚の折、昼ごろ、この地にさしかかったところ樹木が茂っているため暗く、日暮れと間違い岩陰に宿を求めたという

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四十二番を左にカーブをする、目の前の丘に乳石(うば岩)という岩がある。昔は、この峠越えは困難を極め、転落や、ゆき倒れなど大勢の犠牲者が出た。 秋も深まりこがらしもさすように冷たくなったある日、この峠をひとりの若き母親が、まだ五つほどの小さな子の手を引いて歩いておった。かわいそうに子どもは病気にかかっており、峠を越えた鹿沢の湯に湯治に行く途中だった。いつしかあたりが夕日に染まり始め、行く先の方から、山仕事を終えた村の男衆が、一日の仕事の出来具合などを話しなから近づいて来た。そっと行き過ぎようとする姿に目をとめた村人たちの、ひとりが声をかけた。「もうすぐに暗くなるのに、これからの峠越えは男でも危ねえよ。近くにおれたちの山小屋があるので、今日はここで休んで行くがええ」若い母親は深々とおじきをしながら、「ありがとうございます。しかし病気のこの子を一刻も早く鹿沢の湯につからせてやりたいのです。お気持ちだけありがたくちようだいして、もう少し先に進んでみます」と、疲れのためかすれた声で言った。それでも、危険だから引き留める村人たちに母親はもう一度頭を下げると、子どもをそばにだきよせ、暗くなりかけている向こうの山に向って歩き出した。村人たちは心配のため声を掛けみたが、二度と振り返らない母子の後ろ姿を見守るだけだった。その夜はたいそうな冷えこみで、山里の村にはいつもの年より少し早い初雪が降った。 母子が飢えと寒さで倒れ、胸にきつくだきしめる母、そしてしっかりと抱きついている子ども。その悲しい姿は村人たちの涙をさそった。母子の死をあわれみ丘に埋葬して石の祠を建てた。ところがふしぎなことに、その石は乳房のように岩が隆起し、まるで寄り添って抱き合う母子の姿のようになり、いつしか「乳岩」と呼ばれるようになり、この乳岩に祈願した旅人は、飢えと水に苦しむことなく安全な旅ができたという。 村衆は「山うば」の伝説から「うば岩」ともいい、今も信仰されている

 ここから美ヶ原の受信塔がみえる。

 塩沢(所沢)で三方ケ峰・池の平が望める。塩沢は昔から千古不滅の原始林といわれ、シカ・カモシカ・クマなどの動物が多く、特に猟師の熊狩りの穴場で知られている。

 沢には「女石」・「天狗の住家」・「鬼の門」など奇景が多い。
鬼の門は太古火山の溶岩流出によりできた奇景で次の伝説が伝わる。

昔ここに炭焼き小屋があり、そこに茂作という、人のいい老人が住んでいました。まだ若い頃、鉄砲水で妻も子どももなくし、一人でさみしく暮らしていました。 ある日、茂作じいさんが山へ木を切りに行く途中、タヌキは村人が仕掛けたわなにはまり、苦しそうにもがいていました。優しい茂作じいさんは、誰も見ていないのを確認して、そっとわなを外しタヌキを放してやりました。 ある冬の夜、たいそう美しい娘が寒さに震えながら表に立っていました。その娘の顔は、むかし茂作じいさんがなくした娘と瓜二つで、急いで家の中に入れると、いろりに薪をたくさんくべ、暖めました。そして、熱い汁物を作って食べさせ、ひとときの幸せな時間を過ごしました。やがて火中の薪の炭が急にはじけて娘の「へそ」に入り驚いてアッとさけんで「タヌキ」と化して逃げ出した。その炭がもとで、小屋は全焼し、老人は座ったまま灰となり、頭の「マゲ」のみ焼けずに残ったという。 あの夜に、現われたタヌキこそ、茂作じいさんに助けられたタヌキだった。さびしがっている茂作じいさんを、なぐさめることで恩返しができると信じ、わざわざ合いに来たことが、逆に茂作じいさんを、この世から去らせることになってしまったという

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 五十番  馬頭観音
 五十番観音は三面はっぴをした立体座像の馬頭観音だ。馬が牧草を食べるように、煩悩や悪心を退治することをちかった観音で、憤怒の形相をしている。正面からみると右側の顔が微笑んだように見えて興味深い。

観音の隣りの大木が大師のさかさ杖で、弘法大師が手にしていた杖を大地にさしたところ根付いたのが、この大木である。別名「しなの木」とも呼ぶ。伝説によると平安時代からだから、この大木は樹齢は何年になろうか

 道路の左側の谷に所沢川が流れ渓流釣りの穴場だ。イワナ・ヤマメ・サンショウ魚が釣れる。
また、高原一帯は山菜の宝庫で、はるにはフキノトウ、初夏にはワラビ・やまウド・ゼンマイ・カタクリ・ノビル・トトキ・タラノメなど取れ、秋には多くの種類のキノコ・アケビが取れて、春から秋の季節には釣りや山菜取りで多くの人々でにぎわう。

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この中間あたりの左側の渓流をはさんだ山の中腹の断崖にある岩が山姫のつづみ岩である。 春のおぼろ月の夜になると、その夫婦岩の間からポンポンとつづみの尾とが聞こえ、山里の村々に響きわたると山姫様の豊作の知らせとして村人たちは大変喜んだと伝わる岩である

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 伝説のあずき橋である。

昔この付近に五郎と呼ばれた年老の「むじな」がいて、冬は穴を掘って土の中に居て、ふだんはおとなしく人間に危害を及ぼさなかった。 だか雨が降ると急に猛々しくなり、橋の上に現われて「小豆とろうか人取って喰うか」と叫んで村人を驚かしたという。 橋の林の中に五郎の滝があり、水量は少ないが味のある滝である。江戸時代の頃は水量が多く旅人の目を楽しませたという

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 さらにカラマツ林の高原の中を道路が続く。この辺一帯のカラマツは明治の後期から末期ごろ植えられ、樹齢60年を数える。

頭上にネットをかぶった大きな安山岩で出来た岩がある。これが獅子岩で、日本武尊が山越えの途中、鬼どもの反逆にあい難渋した時に平定を神に願ったところ、巨大な「しし」が現われ鬼どもを追い散らしたが、毒矢に倒れ岩と化したところから獅子岩と呼ばれている。 また真田十勇士の猿飛佐助が、この岩を忍術の修行の場としたと言ういわくつきの岩である

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 六十番  如意輪観音

六十一番観音~八十番観音

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 道路右側の下方にガット岩(岩突岩)がある。

この岩は天明3年(1783)浅間山の大噴火が5月から10月にかけて、噴火は多くの被害を出した。 噴火は一層強く爆発し、夕刻には石や砂は雷雨のように降ってきました。 多くの人が寝具ふとん・鍋・釜・桶などをかぶって逃げ出しました。 焼石のため多くの家が焼け、また、交通が途絶して、各宿場には旅人が釘付けになりました。 噴火の時、大石が幾つか落下しました。その中でも特に大きい石が落下した岩はガット岩と伝えられている

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 七十番  馬頭観音
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 義仲の駒返しが伝わるところ

(1181年に木曽義仲が平家追討のため、御岳堂の依田の館に入った。依田氏・丸子氏・長瀬氏・海野氏・祢津氏・望月氏など東信の武士を結集し、かって亡父義賢が収めていた上野をも勢力下に置こうとしていた。義仲はひそかに何回となく地蔵峠を越えて上野の有力武士に呼びかけていた。冬になろうとする頃、僅かな家来を連れ、いつものように地蔵峠を越えようとした。突然猛吹雪に変わり、兵を進めることができず駒を返したという

 
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 八十番  聖観音
 ここが地蔵峠、標高1,800米の湯の丸高原である。

湯の丸高原ホテル
シティオス地蔵
ぎんれい荘
ロッジ花紋
 の4軒の宿があります。

富士山も八ヶ岳も浅間山も北アルプスも、すべて見られ、360度の大パノラマが楽しめるのが、湯の丸山・烏帽子岳・篭登山などのハイキングは峠から登りやすいコースです

 高原の中心エリア・地蔵峠から池の平までの道は、無数の花たちに出会えるフラワー・トレッキングルートです。
 とくに見事なのは、池の平駐車場から徒歩で15分ほどで行ける池の平湿原 

 7月のアヤメの大群落は、まるで紫の絨毯のようで、まさに息をのむ美しさです。春から秋にかけて、この一帯は、イワカガミ、スズラン、レンゲツツジ、シャクナゲ、コマクサ、ヤナギラン、マツムシソウ、そしてリンドウなど650種に及ぶ高山植物の宝庫。晩夏から秋にかけては、薄い霧がかかり、色とりどりの花々の中にたたずんでいると、とても幻想的な雰囲気に包まれます。
 そして、有名なのが、湯の丸高原一帯に咲き乱れるレンゲツツジ。花の見ごろは6月下旬ですが、この季節、全山が燃え立つような紅いろに染め上がります。

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 そして高原はレンゲツツジの花どころ、ことに池の平の大湿原には高山植物の女王コマクサ・マツムシソウなどの宝庫。また、高原にはアカハラ・オオルリなどの野鳥もいっぱい、図鑑をバックにしのばせて、高原に……湯の丸高原

風ひんやり高原に24面のテニスコートがあり、4月下旬から11月上旬までプレイOK! 東京から一番近いスキー場はサラサラのパウダースノー。リフト・ゴンドラ・スキースクール・診療所・レンタルスキーなども完備されています

八十一番観音~百番観音

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 九十番  聖観音

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 百番   千手観音
 鹿沢温泉湯本紅葉館

 ここは、雪山賛歌が作られたところです。 当時京大山岳部員で、のちに第一次南極観測隊の越冬隊長をつとめた故西堀栄三郎氏(1903-1989)が、昭和26年に仲間と、この冬山で訓練をしたときに、この宿で作ったと言われる

 やがて北アルプス登山の山男たちに歌われ、山の歌として知られるようになった。冬山登山の魅力や雄大な自然が歌われている。

 雪 山 賛 歌   西 堀  栄 三 郎  作 詞
           アメリカ民謡「いとしのクレメンタイン」 曲
 一、雪よ 岩よ われらが宿り
   俺たちゃ町には 住めないからに

 二、シール はずして パイプの煙
   輝く尾根に 春風そよぐ

 三、けむい 小屋でも 黄金の御殿
   早く行こうよ 谷間の小屋へ

 四、テントの中でも 月見はできる
   雨が降ったら ぬれればいいさ

 五、吹雪の日には 本当に辛い
   ピッケルにぎる 手がこごえるよ

 六、荒れて狂うは 吹雪か雪崩
   俺たちゃそんなもの 恐れはせぬぞ

 七、雪の 間に間に きらきら光る
   明日はのぼるよ あの頂に

 八、朝日に輝く 新雪ふんで
   今日も行こうよ あの山こえて

 九、山よさよなら ごきげんよろしゅう
   また来る時にも 笑っておくれ 


 

和学校記念館(県宝)

 明治12年に、共立校、東上田校、東田沢校の三校を統合し和(かのう)学校を創立した。

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 この建物は、県下では中込・開智の両校につぎ、上小では最古の学校建築である。この校舎は洋風のプランに和風の屋根を取り入れた和洋折衷の様式で、規模雄大にして、重厚であり、明治初期の学校建築としては天下に誇りうるものである。
 昭和39年まで校舎として使われ、41年街に移管後「和記念館」郷土資料室となった。木造二階建ての入母屋造り、擬洋風建築をとり入れた堂々たる後者である。のべ面積469㎡。
 一階の各教室には、時代別の小学生の衣服・教科書・学用品・遊び道具・生活用品がぎっしり。
 二階講堂には昔の農蚕器具類・古墳出土品・歴代校長と村長の写真・卒業記念写真・文集が実に整然と展示されている。

春原家住宅(国の重文)

 春原家(すのはらけ)は江戸時代初期よりこの地に住み、慶安、元禄の頃には名字を許され、300年以前位以前に既に40数坪の建物が建てられたという点から、ただ単なる農家ではなかったことが伺える。
 また、今回の解体修理(昭和55~56年)において、建物の年代を示すものが、見いだされなかったが、細い小屋梁を使用し、居室部が閉鎖的である点から17世紀末(元禄頃)の建物と考えられる。
 この建物は、南面し、寄棟造、芽葺。規模は桁行10間半、梁間4間半、広間型である。
 間取りは、西方に床上部を配し、東方には桁行6間、梁間4間のダイドコ(土間)を配する。床上部は、南寄に西よりザシキ、チャノマ、北寄西隅にオヘヤ、ネドコ、キタノマを設ける。

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 建物の構造は概略次のとおり。柱間は6尺1間を基準とし、上屋下屋にわかれ、下屋部は柱1間ごと、上屋部は2間ごとに柱が建つ。柱は礎石建ちがほとんどで、小屋組みは、上屋部は上屋梁上に棟束、小屋貫、叉首、下屋部の追叉首は当地方の特色である。繋梁尻に傾ほぞ、柱上部にほぞ差を交互に納め、母屋・棟木をうける。すいは叉首の間に木のすい1本を納め、他は竹すいにして、母屋棟木に縄がらみとする。
 このように春原家住宅は、長野県東南部の特色がよくあらわれていて、同系統の民家の中では年代がきわだって古い。

戌立石器時代住居跡(国史跡)

 この住居跡は、昭和5年に地元の協力をえて発掘され、敷石のある住居跡、土器類などが発掘された。
 昭和8年文部省の指定史跡となり、昭和25年の文化財保護法制定後も特別史跡に指定されている。
 発掘後、復元家屋が建てられた。これは、わが国で最初の復元家屋として貴重なものとされている。
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 落雷で焼失し、その後炉跡をはじめ破壊された。

 昭和63年に再び復元する。

東町歌舞伎回り舞台(県文化財)

 東町の歌舞伎舞台は、祢津東町の日吉神社の境内にあって、その位置は本殿の後方に北向きに建てられている。
 この舞台は切妻平入りで、柱は崖の斜面を切り取って建てられている。屋根は現在瓦葺きであるが、創建当時は草葺きであろう。
 建物の規模は、間口8間(14.5m)、奥行5.5間(9.1m)、床高1.07mでコマ回し式の回り舞台があるる。また回転部分の直径は7.1mある。
 舞台の左右に「せりあげ」がそれぞれ一つずつあり、回転装置と共に幕あいを縮め演技表現の立体化とスピードアップの効果を高めている。
 舞台両側には下座が設けられ、三味線にあわせ義太夫が語られた。床下の奈落へは小階段で降りられ、ここは役者たちが化粧する仕度部屋でもある。
 舞台の前庭半分は平坦な客席だが、後方部分は自然の傾斜面に三段の石積みした階段式客席である。しかも、舞台へ向かってゆるい半楕円を描いた扇形をなし、観る人本位に地取りされた歌舞伎舞台である点が特徴と言えよう。

 この舞台の創建は、文化14年(1817)と言われているが、その後文政4年(1821)と明治29年の二回、改修されたことが棟札で明らかにされている。最近では、昭和21年、23年に舞台が開かれた。
 東町の歌舞伎舞台は、西宮の舞台とともに江戸期から昭和初期に及ぶ庶民文化の殿党として役割は大きい。
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 現在も、保存会を中心として、歌舞伎が上演が続けられており、地元の小学生たちによる子供歌舞伎や地域に伝わる民話・伝説を児童劇として上演し、伝統芸能の継承・創造に一役かっています。 
 平成8年9月には、西宮の歌舞伎舞台とともに「第7回全国地芝居サミット・イン・とうぶ」の主会場となりました。

西宮歌舞伎回り舞台(県文化財)

 この歌舞伎舞台(まわし舞台)は、西町の田畑家にのこっている文書によると、文化13年(1816)に造られたことがはっきりしている。
 まわしのない舞台では、この舞台より古いものが報告されているが、まわしのある舞台では日本で最も古い舞台であるといわれている。
 この舞台の構造は、桁行8間(14.5m)、梁間4間半(8.1m)、後方4間に1間の下屋がつき、建坪は約40坪、屋根は寄棟造茅葺(現在はトタンぶき)崖づくり、床高は前面桟敷から2.64尺、奈落で7尺、柱高10.9尺、舞台総板張り、奈落は土間。

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・ 舞台 - 大臣柱の間が4間、まわしは直径3間。
・ 廻り舞台 - 2条の溝がきざまれており、この溝と舞台の溝とを一致させ、せりわけ、せり出しによって二重屋台をうごかす。
・ せりあげ、せりさげ - 舞台の前面に3ヵ所あり、人力によって操作された。
・ 高座・下座 - 建物の中にとりこみ、窓を斜めに張り出している。

 この舞台の構造は、江戸の歌舞伎舞台の構造に近い。江戸では大臣柱が宝暦の頃にはなくなっているが、この舞台には現存しているなど、演劇史上からも貴重である。
 この舞台は、規模の大きさ・能舞台の遺構がみられること。
背面の窓を開けると裏山を背景として用いることができる。
 歌舞伎は、ごく近年まで、村の人達によって演じられ、例祭とか、秋の豊年祝などに、舞台があき、娯楽の少なかった当時の村人たちとの生活と密着していたものと思われる。

中曽根親王塚古墳(県史蹟)

 丸山とも呼ばれ、一見円墳のように見えるが、実は方墳である。墳丘の麓の一辺の長さ40m内外で高さ10m余の膨大な墳丘である。
 墳頂は平坦面をなし、その広さは約8m四方である。北西角に裾から中段にかけて、径約20cmほどの河原石をもって整然と葺石が見られ、そこに稜が認められる。
 なお東側には幅10m北側及び西側は幅15m余の周湟のあったことが確認されている。

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 この大墳丘の中に蔵されている墓室については、今のところなんら考察すべき手がかりがないが、墳頂部に竪穴式石室が存する可能性が強い。
 方墳は全国的にみても数が少なく、東日本では少ない方墳の中にあって、親王塚はその規模において1~2を争う大きさをもっており、当地方の古墳時代にとって貴重な遺跡である。

山浦刀匠宅(県史蹟)

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 山浦真雄宅跡は広い敷地の中に、真雄、清麿兄弟が鍛刀した鍛治場跡があり、晩年真雄が「老の寝ざめ」を著わした旧居宅跡と、弟子兼虎と最後の鍛刀(主に短刀)をした所といわれる鍛治場(間口2.04m奥行1.96m)がそのままに残されている。
 真雄は文化元年(1804)8月28日 この地に生まれ、少年の頃から剣道を学び、23才江戸に出て一刀流を修めた。
 文政11年(1828)3月25才で江戸の水心子正秀の弟子季世を尋ねて作刀の手ほどきを受け、翌12年上田藩の刀工河村寿隆の門をたたいた。天保10年(1839)36才で小諸藩主牧野氏より佩刀製作の命をうけ小諸に出て藩工の生活にはいった。
 弘化4年(1847)中国筋へ修業に旅すること1年、嘉永元年(1848)4月上田藩主松平氏の需めによって城下にうつり45才から50才までの5年間円熟した名作をのこした。
 嘉永6年(1853)2月松平藩主真田幸貫に招かれ、きびしい試し切りの末、藩工に採用され、長巻百振の製作を命ぜられたので、一子兼虎をも呼びよせ鍛刀にはげんだ。これよりのち15年間は完成期にあたり立派な作品を制作した。

 明治4年(1871)8月隠居、赤岩にもどって悠々自適、回顧録に筆をとり、心ゆくまで作刀を試み、明治7年(1874)5月71才、44年の作刀の生涯を閉じた。
 真雄は信州の刀業界にすぐれた鍛刀技術を残し、その卓越した人格は、弟清麿、兼虎をはじめ山浦一門の刀工を育てた。