日本武尊と白鳥神社

 
 今から約1900年前、第12代景行天皇の御子(皇太子)であった日本武尊(やまとたけるのみこと)が首尾よくクマソ兄弟を討ったかと思うと、すぐに出雲の国に転進し計略をもって、その国で暴れていたイズモタケルを平らげ、喜び勇んで大和に帰ってくると「こんどは東国に行ってエゾを討て」と父景行(けいこう)天皇に命ぜられました。

 そこで日本武尊は再び旅仕度をして都を出発して、途中伊勢神宮に詣で、叔母上のヤマト姫をたずねた時にヤマト姫から天叢雲の剣(あまのむらくものつるぎ)と御袋をお与えになり「万一の災難の時には、この袋のくちをあけなさい」と申されました。
 日本武尊は尾張国(現在の愛知県)から相模国に向かって勇躍東をさして進む道すがら、土地の暴れものに図られて四方から火攻めにあったときに、叔母上からいただいた袋の口を開くと火打石が入っており、ミコトはそこで先ずクサナギノ剣で草木を刈り払い、火打石で向火をつけて火の勢いを弱め、野原から難を逃れることが出来ました。これによって、今でもその地を焼津と言います。
 また上総(かずさ)へ渡る相模(さがみ)の海(浦賀水道)で、神が波をたてていて船が進むことが出来ませんんでした。そのとき、怒りを静めるために、弟橘姫(おとたちばなひめ)がミコトの身代わりに海中へ身を投じて入水すると、やがて荒波がおさまり、ミコトの船は無事に進むことが出来ました。その7日後にヒメの櫛が海辺に打ち寄せられたという悲しい目にもあいました。

 このように苦心惨憺(くしんさんたん)、ままならぬ東国のものどもをようやくに打ち平らげ、その帰途、碓日坂に立たれた時、遠く相模の方を眺められ、入水した姫(おきさき)を忍んで「吾妻者邪(あずまはや)妻こいし」とお叫び(さけび)になりました。

このことから現在でも群馬県に吾妻郡(あがつまぐん)があり嬬恋村(つまこいむら)と名づけられた村があります

 それから後、鳥居峠を越えて信濃国に入り、この地で滞在されました。近くの小さな海を見て、相模の海難を思い出されて、「この海も野となれ」と念じられ、それからこの地は海野(うんの)と言うようになったと云われております。

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日本武尊

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日本武尊

 それから大和への凱旋(がいせん)の帰途、伊吹山(滋賀県坂田郡伊吹町と岐阜県揖斐郡春日村との境にある山)まで来たとき、荒らぶる豪族との戦いに、不覚にも手痛い攻撃をこうむってしまった。
 この負け戦から長年の心労がどっと出て、あの山を越えれば大和だという一歩手前の鈴鹿の能煩野(のぼの)で、ついに動けない事態に陥って(おちいって)しまった。

auto_pZY4tD.jpg伊吹山

 苦難に満ちた戦いの思い出が走馬灯のようにミコトの胸をかけめぐり、「ああ、大和に帰りたい、大和は美しいなあ」とふるさとを懐かしみ、
 『大和の国は、日本の中でもすばらしい国である。
 山々が幾重にも重なり、青葉が茂り、山が垣のように囲み、その中にある大和の国はすばらしい。
 また、私のお伴の中で命が充分にある人は大和に帰り、平群の山(へぐりのやま)の茂った樫の葉をかんざしのように頭にさして、楽しく過ごしなさいよ。』こういって、ふるさとを恋いしたうミコトの声に従臣たちも目がしらを押えました。

 「父君に、東国を平定して参りましたと一言だけいいたいために、やっとここまで来たのに・・・・・・」ひたいには苦痛をこらえる油汗が玉のように吹き出ていました。
 「あーあ死んでも死にきれないなあ」とカッと目をひらかれたミコトはとうとう息を引きとってしまいました。
このとき、御歳わずか30才だったと云います。

 急使によって大和においでになったお妃や子たちが、取るものも取りあえずかけつけて地をかきむしってお嘆(なげき)きになりました。
 そしてミコトがおなくなりになった能煩野(三重県亀山市能煩野町)の地にお墓を築きましたが、そのお墓が出来上がった時、御陵の中から突然一羽の巨大な白鳥が舞い上がりました。

auto_tRuS1S.jpg能煩野陵

 あれよ、あれよといううちに巨大な白鳥は2回3回と旋回したかと思うと、生前ミコトがあれほど帰りたがっていた大和をさして飛んでいきました。
 どういうことか、この白鳥は奈良の琴弾(きんだん)の原に翼をしばらく休めた後、再び舞いあがり、それまでミコトが通った東国の道筋をたどって飛んでいきました。あちこちで休んで海野の地にも、この白鳥は飛んできて羽を休めました。

 この時、天皇は諸国に命令し、白鳥の止まった所に祠(ほこら)を建てミコトを祀るよう申されました。
 これが白鳥神社であるといわれております。    (古事記より)

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白鳥神社

 この付近には、これにまつわる地名が次のように多く残っております。

 羽毛山(はけやま)・羽毛田(はけた)・片羽(かたは)・尾野山(おのやま)・羽尾山(はねおやま)・両羽(もろは)・尾撫(おなで)・羽掛(はかけ)・尾掛神社(おかけじんじゃ)等がある。

 当白鳥神社は境内876坪、氏子149戸。祭神は日本武尊・白鳥大明神・須佐之男命(天照大神(あまてらすおおみのかみ)の弟で天の岩戸を押し開いたり、また出雲国では八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したという方)・貞元親王(さだもとしんのう)・善淵王(よしぶちおう))・海野広道で、中世の豪族海野氏の氏神(うじがみ)であったが、現在は本海野区の産土神(うぶすなかみ)として祀(まつ)られています。

uno_02_1.jpg白鳥神社

 この神社は第14代仲哀(ちゅうあい)天皇(足仲彦(たらしなかつひこ))から、ミコトの大功により、白鳥大明神と贈号をたまわり、神地・神職などをさだめられ、第15代応神(おうじん)天皇(誉田別(ほんたわけ))からも、また勅額を賜りました。

 その後、永久2年(1114)に至り、海野広道は当地領主の祖である貞元親王を本殿に合せ祀られました。

 久寿年間(1154ころ)海野幸明は、また善淵王と海野広道の2霊を合祀し、巨多の神領を寄附された。これより武家の尊信ますます厚く、文治6年(1190)海野氏幸は社殿を今の地に移して再建された。

日本武尊・海野氏・真田氏の先祖を祀る白鳥神社がある。いまは地域住民の氏神となっている。真田氏も白鳥神社の祭典には、その当主、もしくは名代を参拝させていた。 真田幸村の家臣に、いわゆる「真田十勇士」と呼ばれる架空の人々と考えられてきたが、史実としての真実味を帯びてしまうようだ。 海野三郎・祢津甚八・望月六郎は、滋野三家にかかわりがある。 筧十蔵は豊後国富来20,000石の城主の嫡男であると自称している。源平の壇の浦の合戦の時、宇佐八幡宮に火を放って殿宇を焼き払い、また義経の九州亡命を向かい入れようとしたかどで、上野国利根郡に流されている。信濃国であった浅間山山麓の延長ともいうべき、利根郡は真田氏が支配していたこともある。 三好清海入道・三好為三入道は、出羽国亀田城を本拠とした三好三人衆の後裔で、亀田城主の三好六郎の嫡子で、母が真田昌幸の母と姉妹であった。兄の清海は、老臣の勧めに従って縁故ある真田家を頼るべき、幸村の郎党に加わる。弟の為三は三好一族の支族矢島城に立て籠もって、東国の雄将佐竹右京と一戦を交えた。 由利鎌之助は、幸村の郎党になる前から、奥州藤原氏に随って出羽国由利郡を領有していた由利氏は、信濃の中原氏と同族である。中原兼遠の四男業平は今井の姓を名のり、佐久市今井に住み、二男兼光は樋口を名のり、八千穂村樋口に住んでいたが、南北朝争乱のころ、小笠原・大井氏の一族もまた佐久から由利郡に移住している。そのため佐久地方と同じ地名が多く見かける。また真田姓で六連銭を家紋とする家がぬきんでて多く居られます。猿飛佐助・霧隠才蔵は、猿飛は甲賀流忍者で滋賀県甲賀郡甲南町塩野の諏訪神社由緒書によると、蛇体の形をして初めて浅間山麓の大沼の池(御代田町塩野)に出現している。類似の伝承が甲賀の地にも、霧隠とかかわりのある伊賀の地にも伝えられている。穴山小助の穴山姓は、佐久地方と隣接する甲斐国北巨摩郡より起こって姓である

uno_02_3.jpg白鳥神社境内

 以来海野家累代から真田信之に至るまで数々社領を寄付し、盛んに祭祀を行ってきました。

 元和年間(1615ころ)に至り仙石忠政の領地となり社領を没収される。
 寛永元年(1624)9月、真田信之松代の地に移殿を再建しました。
 寛永17年(1640)仙石忠俊は更に3貫500文の社領を寄附された。

 のち寛保2年(1742)8月洪水のため社領すべて流失する。
 弘化3年(1846)12月には松城藩主真田信濃守幸貫(ゆきつら)より永代10石が寄進されました。

uno_02_2.jpg白鳥神社

 文化5年(1808)雷電為右衛門が信州に巡業のおり海野宿にも立ち寄り白鳥神社へ参拝し、そして毎年8月12日に行われている祭礼相撲のために、4本柱土俵が奉納されました。

 この文書は海野宿歴史民族資料館に展示してあります。
それから以後、明治時代を経て奉納相撲が昭和5年(1930)頃まで続いておりました。

 また神事の舞の一つで、心安らぐ平安な世を願い、昭和15年(1940)皇紀2600年の記念祝典のときにつくられた浦安の舞が、女子8人の舞姫による白鳥神社境内で、手ぶり・身ぶりをしのばせる典雅で荘重な舞、扇の舞と鈴の舞とに分かれております。

uno_02_7.jpg浦安の舞

 祭日は、毎年4月12日と11月23日に浦安の舞を奉納しております。特に11月の勤労感謝の日には「海野宿ふれあい祭り」に併せた大祭の折には赤いジュウタンを敷いた特設舞台が設けられて、カメラのフラッシュが集中します。

 この日近郷近在から海野宿の街並みには、ひとひとで溢れて、歩けないくらいの人が集まります。

uno_02_8.jpg海野宿ふれあい祭り

 また、この神社の社叢は、樹齢700年を越えた欅(けやき)・槐(えんじゅ)等の大木により、立派な鎮守の森となっており、町の天然記念物にも指定されております。

奈良正倉院と海野郷

 正倉院といえば、1,200余年も昔、光明皇太后が聖武天皇追善のために東大寺に献納された無数の宝物を収めた庫であります。その宝物は武器・楽器・遊具・服飾・調度品・文具等で日本が世界に誇る宝物庫であることは良く知られているところです。

uno_03_1.jpg正倉院

 
 この正倉院の御物の中に「信濃国小県郡(ちいさがたぐん)海野郷(うんのごう)戸主(へぬし)爪工部君調(はたくみべきみみつぎ)」と墨書された麻織物の紐の芯(ひものしん)があります。これには年号はないが織り方や墨書の形式から推定すると奈良時代の天平年代(729~741)の貢物であろうと推定できます。

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正倉院の墨書

 この頃小県郡に海野郷があり、ここに爪工部を名のる人々が住んでいたことを立証する史料であります。

国郡郷古代日本の行政組織で、それより前は「国評(郡)里」
または「国郡郷里」制
戸 主里に変わって新しく出来た郷の中に50戸が集まった戸の主
爪工部きぬがさ)(貴人の頭上にかざす団扇(うちわ)に、長い柄をつ
をつけたようなもの)をつくる職を持って宮中に奉仕した人々を言う
ここではその子孫という意味であろう
また爪工部は「宿祢(しゅくね)」という姓(かばね)を賜って
いるので、かなり位の高い家柄であったであろう
君という敬称がつけられていることは、この地方の土豪であった
調男子に課せられた貢物で、土地の物産を朝廷へ献上すること

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 どうして、このような職業身分の人たちが、この僻遠(へきえん)の地に定住したのだろうか。

 5世紀のころ、大和政権は逐次(ちくじ)その勢力を拡張するため東山道(ひがしやまみち)を通していました。

 この海野郷は中曽根親王塚をはじめ、多くの古墳が存在していることによって、早くから中央の文化が流れ込んだことはいうまでもありません。

 次項の「日本霊異記(りょういき)」には奈良時代に、この地に大伴連(おおともむらじ)という姓をもつ忍勝(おしかつ)なる人は、氏寺までもつという大きな勢力を張っていたことを記しているが、後世信濃の名族として海野氏は、この大伴の系譜をひくものであろう。
 
 また、当地に「県(あがた)」「三分(みやけ)(屯倉(みやけ))」等の古代の匂いの濃い地名が数多く残り、何れも古代中央の文化が盛んにおしよせてきたことを物語っております。
 しかもすぐ西方には、信濃国府、信濃国分寺があって、信濃国の政治・文化の中心となっていた。それらの文化とともに都から、ここに下って定住し、かなりの勢力者となったのであろう。
 
 そしてまた、何れにしても、この紐は今から1,200余年前、海野郷から信濃の牛か馬の背によって、はるばる奈良の都にもたらされ、そして宮中に入り、きらびやかな調度品の中につつましく身をおいて、その責務を果したものであろう。        (千曲20号より)

大伴氏と中曽根親王塚

 「日本国現報善悪霊異記(りょういき)」は、わが国最初の説話集であり、平安初期、弘仁14年(823)前後に奈良薬師寺の僧景戒が編集したと考察されている。
 奈良時代の全国66カ国中、28カ国の116の説話が収められており、東山道に11のうち、信濃国が2つ、しかもこの2つとも小県郡である。
 これは、当時小県郡に国府があり、信濃国の文化の中心であったことを物語るものであります。           

 【大伴連忍勝(おおともむらじおしかつ)は、信濃国小県郡嬢(おうな)の里(現在の東御市一帯の地域)の人である。大伴連らは心を合せて、その里に堂を造って大伴氏の氏寺とした。

 忍勝は大般若経を写すために願を立て、物を集め、髪を剃り袈裟をつけ、戒を受けて仏道を修行し、いつもその堂に住んでいた。
 宝亀5年(774)の春の3月のこと、突然人に落としいれられ、その堂の檀家の者に打たれて死んだ。檀家の者と忍勝とは同族である。
 親類は相はかって「檀家の者を殺人罪として裁いてもらおう」といった。
 そこですぐ忍勝の体を焼かないで、場所をきめて墓を作り、仮に埋葬しておいた。

 ところが5日すぎて忍勝は生き返って、親類の者に次のように言った。

 『5人の召使いが一緒に付いて急いで行った。行く道に非常な坂があった。
 坂の上に登って立ちどまってみると、3つに分れた大きな道があった。
 ひつの道は平らで広く、1つの道は草が生えて荒れ、1つの道は藪でふさがっていた。

 分かれ道の中に王がいた。使いの者が「呼んでまいりました」といった。王は平の道を指して「この道から連れて行け」といった。

 5人の使いがとりまいて行った。道のはずれに大きな釜があった。
焔のように湯気が立ち、波のようにわき返り、雷のようにうなっていた。
 そこで忍勝を捕まえて、生きながらざんぶと釜に放りこんだ。
 釜は冷えて4つに割れた。そこに3人の僧が出てきて忍勝に向って「おまえはどんなよい事をしたのか」とたずねた。

 「わたしはよい事もせず、ただ大般若経600巻を写そうと思ったので、先に願を立てましたがまだ写していません」といった。
 そのときに3枚の鉄の札を出して比べると、言うとおりであった。

 僧は忍勝に「おまえは本当に願を立てて出家し、仏道を修行した。
このようなよい事をしても、住んでいた堂の物を使ったので、おまえを呼んだのだ。いまは帰って願を果し、また堂の物をつぐなえ」といった。
 そしてやっと許されて帰ってきた。

  3つの分れ道を通りすぎ、坂を下ってみると生き返っていた。
これは願を立てた力と物を使ったための災難で、自分の招いた罪で、地獄のとがではない』といった。

 大般若経に「一体、銭1文は毎日2倍にしていくと20日で174万3貫968文になる。だから1文の銭も盗んで使ってはならない」といっている】

 奈良末期の宝亀5年(774)小県郡嬢(おうな)里(現本海野周辺一帯)に大伴連忍勝なるものがおり、その居館近くに氏寺を建立していることから相当の大氏族で海野郷の中心的人物ではなかっただろうか。

uno_04_2.jpg中曽根親王塚

 大伴氏は、わが国古代から大和政権期に軍事担当した氏族で、6世紀頃まで朝廷の最高権力者であった。
 中曽根親王塚も大伴氏の勢力を示すものではないかと言われている。

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中曽根親王塚

 中曽根親王塚は丸山ともよばれ、円墳のように見えますが、墳丘の麓の1辺の長さは52m内外、高さ11m余の膨大な方墳であります。
このような方墳は全国的に見ても数が少なく、東日本では、その規模において1~2を争うほどの大きさであって、5世紀後半に築造してものと推定されています。

uno_04_1.jpg中曽根親王塚

 奈良朝の末に朝廷は馬の必要性から朝鮮を経て蒙古の馬を導入し全国に32の勅旨牧をつくり、その半分の16の牧場が信濃国に設けられました。

 
 大伴氏は馬を飼う牧場経営者でありました。
この地方には信濃第一の望月の牧が望月氏が管理し、それに次ぐ新治の牧が祢津氏が管理し、その棟梁が海野にいた大伴氏ではなかろうかとも云われている。

 「信濃奇勝録」にもありますが、北御牧村下之城の両羽神社に奉納されている2体の木像があります。1体は海野氏の祖と言われる貞保親王の像で、もう1体は目が大きくて、牙があり総髪の異様なもので、ダッタン人(満州や沿海州をダッタンと言っていた)と呼ばれている船代の像であります。

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(左)貞保親王・(右)船代木像=ダッタン人(両羽神社)

 当時の日本は野生の馬だけでしてので、馬の飼育繁殖の技術指導のために高句麗や蒙古の人達が多く渡来しました。

 騎馬遊牧民族として名高い蒙古人が、牧場の仕事の合間に馬頭琴をひいたり、祖国のメロデーを口ずさんでおり、この美しい音色がやがて土地の歌となって「小諸節」や「江差追分」となり、その本流がモンゴルであると定説になっております。

 大伴氏の栄えた頃、大伴連忍勝も信濃に派遣された一族の末裔で、法華寺川(金原川の下流)に土着して居所を持ちこの嬢里に発生した土豪海野氏はこの大伴氏の血をひくものではないだろうか。 (上田小県誌より)

平将門と善淵王

 平貞盛は平将門(たいらのまさかど)が反乱を企てておると、時の政権をバックにして、ライバルの将門をたおそうと考えておりました。
 さらに将門が製鉄所をつくり、武器や甲胃(かっちゅう)を製造して、反乱を企てていると朝廷に訴えようとしたものであろう。

 地方に居って、醜い争いのまきぞいを食うよりも、将門を中傷するため上京し、それをきっかけに立身出世をしようというものであった。
 
 そこで平貞盛は、承平8年(938)2月中旬、東山道を京都に向けて出発しました。これを聞いた将門は、100余騎の兵をひきいて、まだ碓氷峠には厳雪のある季節これを蹴散らして峠を越え追撃した。

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平将門

 当時の東山道は小諸・海野・上田を経て、そこで千曲川を渡り浦野・保福寺峠と過ぎて松本にはいるのが順路であった。貞盛はこの経路をとり、小諸の西、滋野の総本家の海野古城に立よって、善淵王に助けを求めてこられました。
 
 善淵王と平貞盛との関係は、貞盛がかつて京都で左馬允の職にあった時、信濃御牧の牧監滋野氏と懇意でありました。
 
 この滋野氏は信濃の豪族で「続群書類従」によれば海野氏の祖であります。
 
 清和天皇--貞保親王--目宮王--善淵王 延喜5年(905)はじめて醍醐(だいご)天皇より滋野姓を賜う。
 
 また、以前に将門上京の際、貞盛の依頼によって宇治川を布陣、将門を亡きものにしようとした縁故があった。この協力を謝し、再び、ここでその厚意によって、一息つこうとしたものであろう。
 
 貞盛が海野に助けを求め、海野古城に滞留していることを知った平将門は先まわりして信濃国分寺付近に待機して、神川をはさんで千曲川合戦が行われたのであります。
 この日は冬まだ寒い2月29日のことであったといわれております。この戦火で旧信濃国分寺が焼失してしまったという。貞盛方上兵他田(おさだ)真樹はこの時矢に当って戦死、この他田氏は信濃国造の子孫であるとしているから、郡司として国府にあり、貞盛の危急を聞いて、一族郎党をひきいて応援にかけつけたものであろう。

 従来この上田には国分寺のみあり、国府は松本に移っていたという、貞盛は運よく山中にのがれ、将門は空しく引きあげました。

 「千たび首を掻(か)きて空しく堵邑(とゆう)に還りぬ」と
平将門は、その落胆ぶりを「将門記」に記しております。

uno_05_3.jpg国分寺周辺
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 旅の糧食を失って飢(うえ)と寒さに悩まされ、やっとのことで京都にたどり着いた貞盛は、太政官に訴え出ており、将門に対する召喚状(しょうかんじょう)が出されました。
 
 承平2年(932)平将門返逆の時に勅にして滋野姓を名乗っていた善淵王に御幡を賜りました。これが滋野氏の「州浜」の家紋となりました。

uno_05_6.jpg 州浜の家紋

 清和天皇の第4皇子に貞保親王という方がおり、「桂の親王」とか「四の宮」とも呼ばれておられました。
 貞保親王は琵琶がお上手でありました。ある日、親王が琵琶をお弾きになっていたところ、その演奏の妙なる音色に誘われて1羽のツバメが御殿に入ってきました。

 そのツバメは曲に合わせて飛び回りました。
 あまりにも優雅に飛ぶもので、周りの人達は驚きの声をあげたその瞬間、貞保親王は目を開いてツバメを見上げた時、ツバメの糞が目に入り、痛み出し名医に見てもらったも治りませんでした。

 そのとき信濃国の深井の里のむすめが「信濃国に不思議なほど病に効く加沢温泉があります。」と申し上げました。
 そこで親王は信濃国へ下向され、深井の館にお入りになって温泉に浴されたところ、お痛みはとれましたが、御目は不自由になられたので、そのまま海野庄に住みつくことになりました。

 深井某の娘は、盲目であった親王の身の回りの世話をしていましたが、やがて御子が生まれ、この御子が成長をして善淵王と称するようになりました。醍醐天皇の延喜5年(905)に善淵王は滋野姓を賜りました。

 善淵王は真言宗に深く信仰があり、寺を建立した。貞保親王を宮嶽山稜(みやたけさんりょう)に葬り、神として奉祀りした。
 これが祢津西宮(現東部町祢津)の四之宮権現である。
 天慶4年(941)1月20日に亡くなられ、善淵王の法名(海善寺殿滋王白保大禅定門)を取って海善寺と称された。

 
 600有余年を経て、永禄5年(1562)11月7日武田信玄が本寺を祈願所として寺領若干のほか、なおまた隠居免5貫文を寄附しております。翌年7月28日には、10坊ならび太鼓免36貫100文を寄附しております。

 その後天正15年(1587)頃、領主真田昌幸の時に至り、上田城より丑寅の方が鬼門に当るを以って、本寺を現今の地(上田市新田)に移し「大智山海禅寺」を再建して上田城の鬼門除けとなり、海善寺は廃寺となりました。

 その後江戸時代の大洪水すなわち、寛保2年(1742)の「戌の満水」によって大部分が流失しました。

uno_05_5.jpg海善寺跡

 その廃寺跡の畑から「廃海善寺石塔基礎」が掘り出されて、いま曽根の興善寺本堂の西側の建物軒下に保存されている。

 その1面に「文保□□□月十□ 比丘尼沙弥恵」と刻印され、何年であるかわからないが、文保は2年間しかないので1317年か1318年である。鎌倉時代末期であり、その頃すでにあったことがわかる貴重な資料であります。
 
 真田信之が元和8年(1622)松代西条にこの寺を移し、金剛山開禅寺と改め白鳥神社の別当とした。
 今の本堂は慶安3年(1650)7月に再建し、境内の経蔵は万治3年(1660)の建築で内部の八角輪蔵に天海版一切が納められている経蔵は県宝であります。

 また北御牧村下之城の両羽神社に善淵王の木造が安置されている。

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(左)貞保親王・(右)船代木像=ダッタン人(両羽神社)

木曽義仲と大夫房覚明

 旭将軍木曽義仲は信州を代表する武将で、爾(なんじ)今現在まで義仲の如き、偉大なる人物を残念ながら見ることは出来ません。
 
 義仲の父源義賢(よしかた)は甥の悪源太義平(15才)に急襲されて討死した。そのとき義賢の次男(後の義仲)は比企部(埼玉県)大倉館で久寿元年(1154)生れて間もない、わずか2才でありました。
 畠山重能(しげよし)に命じ、捜し出して必ず殺せと厳命を受けました。
難なく母子を捕えられたが2才の幼時を討つことができなかった。

 斉藤別当実盛に助けられ、それから信濃の木曽谷の土豪中原兼遠(かねとう)に、この駒王丸母子は預けられたのであります。
 駒王丸は、中原兼遠のもと、木曽谷ですくすく成長しました。
 長じて義仲と名のり、兼遠の子の樋口次郎兼光や今井四郎兼平らを家来とし、武将としての修行をしました。
 また、その娘をめとって義高・義基の二人の子がいました。
 
 治承4年(1180)義仲は27才を迎えていました。
 そんな折、以仁王(もちひとおう)の発した平家追討の令旨(りょうじ)は、山伏に変装し平家の目をくらまして、都を脱出した源行家によって諸国の源氏のもとに伝えられた。
 源頼朝のもとへは、4月下旬に、木曽の義仲へは5月上旬に到着しました。
 義仲が、平家討伐の旗挙げを木曽谷の八幡社でしたのは、その年の9月、27才の秋であった。
 かくて、10月には、義仲は上野(群馬県)に進出しました。
 上野国多胡郡は、20数年までは、亡父義賢の本拠地であった。
上野の地は短期間に殆んど勢力圏に収めることができました。
 しかし、約2ケ月の滞留の後、軍を信濃に帰したのである。
上野から下野の武蔵など、これ以上に進出することは、従兄の頼朝を刺激することになり、加うるに大豪族として越後から出羽(秋田・山形)にかけて、偉大な勢力の平氏一族の城氏から義仲を討たんとして、北方から信濃に進入の機をうかがっていたからであります。

 軍を直ちに信濃に還した義仲は、おそらく依田城(現上田市丸子)に入り、その年の正月をそこで過したのであろう。
 あくる治承5年春、城四郎助茂(すけもち)は全兵力を集め、6万を率いて信濃侵入を開始しました。
 信濃国境を突破した平家の先鋒、城軍は難なく善光寺平に進出してまいりました。
 一方、木曽義仲は信濃小県郡の白鳥河原に3千余騎の軍勢を集結したのであります。
それは治承5年(1181)初夏の6月10日前後のことであったであろう。

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 現在の白鳥河原(丸子方面より)
 

 白鳥河原で全軍の馬首をそろえたのは、木曽の樋口兼光・今井兼平・木曽中太・弥中太・検非違使(けびいし)太郎以下、諏訪の諏訪次郎・千野太郎・手塚別当以下、東信濃では根井小弥太・楯親忠・塩田高光・矢島行忠・落合兼行・桜井太郎・大室太郎・祢津神平・祢津貞行・祢津信貞・望月次郎一族・志賀七郎一族・平原景能、地元では総大将海野幸親・弥平四郎幸広、
それに上野・甲斐などにいた源氏の将が加わりました。
 
 東信濃の武士たちは、新張牧・望月牧・塩河牧の中心勢力者で騎馬の技術は戦闘に、進軍に予想外の威力を発揮したものであろう。

 白鳥河原への集結は交通の便もさることながら、義仲の旗挙げに力のあった長瀬氏の近くで、しかも集まりやすいということであった。
広大な河原であり地元の豪族海野一族の勢力があったと見ることができる。
 白鳥神社に戦勝祈願参拝、海善寺に先祖代々の霊に出陣の報告をして白鳥河原を後に出陣し、さっそうと千曲川の流れにそって横田河原に到着した。  
 合戦は6月14日朝8時頃、木曽方の奇策により平家のしるしとなっていた赤いのぼりを持つ兵を横手から近づけたら、平家方は見かたがえたと喜んだので、やにわ源氏の白いのぼりを振りかざして攻めつけたので、大敗した城氏は奥州へ落ちていった。かくして義仲の勢力は越後までのび、上洛への糸口ができた。
 大武士団である城氏が、義仲によってもろくも壊滅させられたとの報は、越後以西の北陸武士に決定的な影響を与えた。越中・加賀・能登。越前の郡小武士団は、次々と義仲の陣営に加わっていったのである。

 平家にとっては予想もしなかったことである。越前は東国の頼朝よりも近い。平家は前年から準備を進めてはいたが、勢力圏の根こそぎ動員を行って、10万余の大軍を平維盛・通盛らに率いさせて京都を発った。
 それは寿永2年(1183)4月である。難なく越前の国境を突破した平家軍は、敵が加賀・越中・能登の武士だけだったので5月初めには加賀まで占拠、先鋒の一隊は越中平野まで進出し、本隊の大軍は加賀と越中国境の砺波山倶利伽羅峠に陣取った。義仲軍はたちまち平家の先鋒を追い散らして、倶利伽羅の麓に進出した。

 決戦は翌朝からと寝静まった5月10日夜半、義仲は得意の奇襲作戦(牛の角に松明をくくりつけて敵陣に)出て、切り立った深い地獄谷を除いた三方から夜襲をかけた。あわれ平家は総崩れとなり、続く安宅・篠原の戦いと完膚なきまでに撃破され、都に逃げ帰ったものは僅かであった。

s_uno_13_2_6.jpg倶利伽羅合戦

 義仲は、6月初めには越前に進み、外交交渉で延暦寺を味方につけ、7月には本営を叡山において京都を眼下にするところまで迫った。
 この状況に直面した平家は、7月25日ついに安徳天皇を奉じ、一門あげて西海さして都落ちする。

 この時くつわを並べて戦ったのが、愛妾巴御前と彼女の兄今井兼平である。二人とも義仲の乳母子で、幼い頃から兄弟のようにして育った間柄だった。
 巴は「そのころ齢22、3なり。色白く髪長く、容顔まことに美麗なり。されども大力の強弓精兵」とたたえられた女武者である。

 28日、義仲は、以仁王の令旨わもたらした叔父行家とともに念願の入京を果たすのである。

 平家の乱以来、20数年ぶりに源氏の白旗が都にひるがえった。
直ちに義仲は、後白河法皇から京都守護を命ぜられ、従5位下左馬頭兼越後守に任ぜられた。
 しかし、滞京1~2ケ月で、政治性の貧弱さや部下の洛中狼藉などによって、義仲と公家の間は円滑でなくなる。また、西海から盛り返してきた平家との戦いも思うようにならなかった。

 義仲軍の粗野を嫌った後白河法皇が、鎌倉の源頼朝に義仲討伐を命じたからだ。 

 元暦元年(1184)正月早々従4位下に進んで、武門最高の栄官である征夷大将軍に任ぜられた。旭将軍の名は、これより起こるのである。
 しかし義仲が、この栄誉に輝いたのも数日、頼朝の代官として派遣された弟範頼・義経の率いる軍勢は、永寿3年(1184)1月に5万の大軍をさずけ、大手の瀬田と、からめ手の宇治川の二方面から都に攻め込ませた。

 義仲は今井兼平に5百の軍勢をつけて瀬田の唐橋を守らせ、自身はわずか3百騎をひきいて宇治川から攻め上がって来る義経軍に対したが、兵力の多寡はいかんともし難い。
 一度の合戦で守備陣を破られ、六条河原の戦にも大敗し、敵の包囲網を突き破って栗田口から脱出した時には、従う者は巴をはじめわずか6騎という有様だった。

 死ぬときは一緒にと、子供のころから兼平と誓い合っている。その約束を果たそうと山科を抜けて瀬田の唐橋へ向かっていると、大津の打出浜で兼平の一行50騎ばかりと出合った。
 勇気百倍した二人は、敗残の味方を集めて最後の合戦をこころみるが、敵陣の真っただ中に斬り込み、縦横・蜘蛛手・十文字に駆け破っても、敵は次々と新手をくり出してくる。
 さすがの義仲も、もはやこれまでと覚悟を定め、巴に木曽谷に逃げるように命じた。この戦いに敗れ粟津で討たれてしまったのです。時に31才、鎌倉にいた長子の義高(12才)も頼朝の手で殺された。

 義仲・兼平主従が討死してから数年後、一人の尼僧が義仲の墓の側に庵を結んで菩提を弔うようになった。里の者が素姓をたずねても、名も無き者と答えるばかりである。
 そのために庵は無名庵と呼ばれていたが、やがて尼僧は巴であることが分かった。

 後年その地には義仲寺が建てられ、現在も本堂や翁堂・無名庵・文庫などが残されている。今も仲良く、琵琶湖を望む景勝の地で、眠りについているのである。

 海野氏は義仲勢が滅びても騎馬武者の生命は衰えることなく頼朝をはじめ北条・足利・真田氏等に仕え騎馬弓射の道に長じて重く召抱えられました。

s_uno_06_1.jpg 徳音寺の義仲公像(木曽日義村)

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木曽義仲公墓所
左から、樋口兼光、巴御前、義仲公、小枝御前、今井兼平

 海野氏9代海野弥平四郎幸広は寿永2年(1183)11月備中水島の合戦で、木曽義仲の大将軍として討死しているが、弟の海野幸長(のちの大夫房覚明)の存在を見逃してはならない。頼朝には、かなりの文官の政治顧問がいたが、義仲には覚明がただひとりの文官であった。
 また義仲の祐筆として活躍され、この大夫房覚明こそ「平家物語」の語り手の1人ではないかといわれている。

 海野幸長は海野氏8代海野小太郎幸親の二男として、保元2年(1157)の生れ、俗名を海野蔵人通広といった。
 京に上って院御所に仕え、興福寺勧学院進士から文章博士となり、ときの勢力者平清盛を筆誅(文章でその責を問う)した名文は今に知られ、伊勢神宮の祭文は宝物として現存する。また、のちに出家して南都興福寺の学僧として名を知られるようになっり最乗坊信救と称した。
 治承4年(1180)園城寺(三井寺)が以仁王の平氏追討の令旨を奉じ、南都に送ったとき、信救はその返事を書いた。その書面に、平清盛大いに怒り、信救は南都に居れず東国に赴く途中、平家追討のため東国から都へ攻め上って三河国府にいた源行家に会い、行家の陣中に加わったが、行家が源頼朝と不和になると、木曽義仲のもとで軍師として平家追討に功があり、大夫房覚明と称した。

 「源平盛衰記」「吾妻鑑」「徒然草」などにも、その名が見られる。さらに近年「平家物語」の作者、信濃前司行長は、この人とする説が有力で、中世文学史に輝かしい業績を残したことがうかがえる。

 義仲には、木曽谷時代はもちろんのこと、信濃から上野・越後にかけて勢力を拡大している期間も、戦いの事だけであって神仏崇敬の事績はほとんどない。 諏訪・戸隠・穂高・弥彦の大明神や善光寺などの大寺があるにもかかわらずである。
 それが、越中から越前にかけての北陸一帯に進出してくるころになると、突然のように埴生八幡や白山権現などの諸社寺に、所領などを奉納して崇敬の誠を捧げる事象が現われてくる。これが、北陸の武士たちに与えた影響は実に大きいものがあった。彼らは、現実的利害だけでなく、精神的にも強く義仲に結びついてくるのである。

 それから半年後、苦境に陥った義仲から離反する武士が続出した。しかし北陸武士の多くは最後まで離れず、ほとんどが義仲と運命を共にしている。譜代の家人でなかった彼らがこのような行動に出ている背後には、前記の事情が介在していたのであろう。

 義仲のこうした態度の変化、それは社寺に捧げた願文の筆者がすべて覚明であることがわかるように、彼の献策にもとづくものであったことは疑う余地がない。記録には覚明を義仲の手書きとか祐筆としているが、彼は単なる書記であったのではないのである。

 義仲の上洛に最も不気味な存在であったのは、京都への入口の喉首を抑える絶好の位置を占めた比叡山延暦寺であった。山門と呼ばれた延暦寺は、平安時代から朝野の尊崇の的であった大寺院であるだけでなく、数千の僧兵を擁する大軍団でもあった。しかも平家とは不和ではない。
 これと戦ってたとえ勝っても、南都を攻めて東大寺・興福寺を焼いた平家と同じ非難を受けることは確実である。山門を味方しないまでも中立を保ち、入京への道を開かせることが最も肝要なのであるが、こうした高等政策は義仲や側近の武将にはとても不可能であった。このとき、遺憾なく能力を発揮したのが覚明である。

 覚明はまず、平家の無道を鳴らし義仲の軍が大義名分にもとづく所以を力説し、源氏と平家のいずれを選ぶかと迫った見事な牒状をそうして山門につきつけた。山門のような僧兵を擁する大寺院は、当時は、一山の大事は上層部だけで決めずに広く詮議と称する大衆討議にかけるのが普通であったようだが、そうした事情は各見様は熟知している。
 大衆討議ともなれば、リードのいかんによって結論は思いがけない方向に行くことがある。覚明は、旧知を頼っていろいろの工作をしたらしい。かなりの曲折を経て、山門は源氏に同心と決定、義仲の前に入京への大道が広々と開かれた。覚明の山門工作は大成功を収めたのである。平家一門の都落ちの直接のきっかけになったのは、この延暦寺の源氏同心であった。

 しかし、義仲の政治工作で成功をみたのは、後にも先にもただこの一回だけである。入京後の義仲には、そのもつ武力以上に政治手腕を発揮することが必要になる。すぐれた政治感覚で事を処理していかなければ、苦心して手に入れた軍事的成功も全く意味のないものに終わってしまう事態に、しばしば遭遇する。だが、義仲の側近にもはや覚明の姿を認めることはできない。 なぜ覚明が義仲のもとを去ったのかは、明らかでないが、入京後の義仲が、みじめな政治的失態を重ねていったことと、覚明以外にはほとんど政治的感覚にすぐれたもののなかったことと、密接な関係のあったことだけは確かである。

 寿永3年(1184)義仲の滅亡後、箱根山に隠れたが、比叡山の天台座主大僧の門に入り、ここで範宴(のちの親鸞聖人)を知る。建仁元年(1201)範宴と覚明は京都・吉水に下って法然上人の弟子になり円通院浄賀と改めた。後日浄賀は名を西佛房と改めた。

 承元元年(1207)念仏禁止の法難に遭った親鸞聖人は越後流罪となり、建暦元年(1211)流罪赦免後、越後から東国(関東地方)に布教に向かうが、西佛房は全て聖人と行を共にしている。越後から東国への旅の途中、たまたま信州角間(現上田市真田)にて法然上人の往生を知らせる使者に出会った親鸞聖人一行は、近くの海野庄(現東御市海野)に建暦2年(1212)3月、一庵を建立し、報恩の経を読誦した。親鸞聖人はこれを「報恩院」と命名された。これが康楽寺の草創である。
 
 西佛房は仁治2年(1242)1月28日に85才で死去した。

臼田文書と海野庄

 臼田氏の先祖の滋野光直は小県郡海野庄田中郷の地頭頭を勤めており、それを子の光氏に譲ったという古文書が茨城県稲敷郡(いなしきぐん)江戸崎町羽賀(はが)の臼田修家にあります。
 それは寛元(かんげん)元年(1243)、今から約770年も前のことである。
 
 臼田文書によれば田中郷は貞治6年(1367)に武蔵国帷郷(かたびらごう)(横浜市保土ヶ谷区)と共に臼田勘由左衛門尉直連に譲られた。
 
 小県郡海野庄に領地を持っていた滋野姓臼田氏が常陸に本拠を移したのは何の時代で、どのような理由によってであろうか正確なことは勿論、未だわかっておりません。
 
 上杉は南北朝時代に関東の執事であった。
上杉憲顕は足利兄弟に反抗し、正平6年(1351)信濃国に落ちた。
 その後貞治2年に関東管領に復活して下向し、憲顕の子憲方は常陸国信太荘を領地としたので、その子憲定から嘉慶元年(1387)に臼田氏は布佐郷(茨城県稲敷郡美浦村)を与えられたのであろう。
 臼田氏の移住したところは茨城県の霞ヶ浦南岸の大変に開けた土地であります。

 
 海野荘の加納田中郷(小県郡東部町田中)に所領を持っていた滋野氏の一族田中光氏(みつうじ)は、寛元元年(1243)10月6日に、自分の所領を分けて子供に譲り与えました。
 長男の経氏(つねうじ)、次男の景光(かげみつ)、浦野氏の女房になった女の子、孫の増御前と呼ぶ女の子、小野氏から嫁いできた光氏の妻、それに母の西妙(光氏の父滋野光直の妻)に、次のように譲り与えました。

  • 嫡子経氏 田中郷を譲るに当って、代々家に伝わっている下文(院庁・ 
          将軍政所などから下付された証文)2通、      
          父光直から貰った譲状1通、祖母西妙から貰った譲状1通
  • 子息景光 小太郎屋敷と田1丁
  • 浦野女房 宮三入道屋敷と在家付の田6反(没後経氏知行)
  • 孫増御前 藤入道在家と在家付の田6反(没後経氏知行)
  • 小野氏  父道直の屋敷「堀の内」と内作田2町3反(没後経氏知行)
  • 西妙   父光直の屋敷と作田および光直譲状

 滋野光直(妻は西妙)――田中(海野)四郎光氏(妻は小野氏)――滋野左衛門尉経氏(道阿)弟二男景光・妹長女浦野氏の妻・弟三男光直――滋野経長(妹増御前)――□――臼田四郎左衛門尉重経(宮一丸)弟宗氏――臼田四郎左衛門光重(沙弥至中)――臼田勘解由左衛門尉直連(妹大熊氏の妻)――臼田勘解由左衛門尉彦八滋野貞重(鶴宮九、沙弥定勝)――□――臼田勘解四右衛門尉小四郎貞氏――臼田藤四郎政重と続き地域で活躍される。

年号西暦関係事項
寛元2年124412月30日将軍藤原頼嗣から滋野経氏地頭職の安堵状を下付されております
建長6年125411月5日将軍藤原家政から左衛門尉滋野経氏地頭職の安堵状を下付されております
永仁3年 1295執権北条貞時から安堵状、望月神平六重直が海野庄鞍掛条賀沢村の内、田6反・在家一宇を小田切兵衛次郎から買い取る
永仁4年 12963月11日重直は伯母「尼道しょう」から海野庄三分条今井村の内、田1町1反、地頭職を譲られる。田在家望月左衛門重能の譲状並びに御下文相添えて甥の望月神平六重直に永代譲る
延慶2年 13093月3日重直は海野庄鞍掛条賀沢村の内、田を娘「媛夜叉」に譲る
延慶3年13103月7日鎌倉幕府から左衛門尉滋野経氏の田中郷の内田10町と在家42宇を滋野経長に領知せしむべき安堵状を下付されております
応長元年13112月9日武蔵の国帷の郷(現横浜市保土ヶ谷)の内、名田・在家、信濃の国の田中郷を孫の宮一丸に領地を譲られました
正中3年13263月25日幕府金沢貞顕が臼田四郎重経に領地3分の1を返し付けられる
嘉歴3年 1328諏訪上社5月会御頭役結番下知状に、共の庄桜井・野沢・臼田郷は丹波前司跡と記してある
嘉歴3年 1329諏訪頭役結番帳に海野氏が浦野氏の本拠地の隣の古泉庄や、青木峠を越えて会田地方まで勢力範囲としていた
元弘3年 133310月28日国司清原直人より、海野庄鞍掛条賀沢村の土地の安堵を申請して、承認される
建武3年 13368月5日足利幕府によって安堵される
観応2年1351海野庄田中郷の内 田在家 田3町5反・在家3軒を永代叔父宗氏に、大熊の女子に田5反・在家1宇、但し没後は叔父宗氏知行す、もし宗氏に子なき時は、惣領(家督をつぐべき家筋)の子孫に返して欲しい
嘉慶元年 1387滋野勘解由左衛門直連は上杉憲顕の孫上杉憲定(光照寺殿)から常陸国信太荘布佐郷をあてがわれる
正平9年 13542月23日臼田四郎左衛門尉光重が上総国与宇呂保の地を所望し、上杉憲顕が承知された
貞治6年1367沙弥至中なる臼田四郎左衛門尉光重から滋野勘解由左衛門直連に田中郷と帷郷を譲る。但し没後、鶴宮丸に永代譲り渡す
応安元年13683月23日時の幕府(将軍足利義満)から知行安堵の御教書下付
応永32年1425貞重から孫の小四郎貞氏に次通り譲る。田中郷・惣領職定勝知行分 田畠・在家等武蔵国師岡保小帷郷の内、岸弥三郎入道作本町6反・在家1宇等
文安3年1436政重 上杉憲景より遺跡を譲られる
天正18年1590秀吉の関東進攻は南常陸も一変させ、兵農分離が進んで羽賀に館をおいた臼田氏は、そこを離れた武士身分になろうとせず、ついてそこに土着する道を選んで現在に至る

uno_07_1.jpg茨城県臼田修家

如仲天誾と興善寺

 日本洞上聯燈録(にほんどうじょうれんとうろく)によると、如仲天誾(じょちゅうてんぎん)は海野氏の一族で、貞治(じょうぢ)4年(1365)9月5日に生れ、5才の時に母を亡くし、9才のときに伊那谷上穂(うわぶ)山(駒ヶ根市赤穂町白山天台宗光前寺)の恵明(えみょう)法師のもとで仏教に関する書物を学びましたが、たまたま法華経を読んでいたところ、「成物己来甚大久遠」という一節の文に疑いを持ち始め、ひそかに禅宗の寺を慕(した)って、上州の吉祥寺(群馬県利根郡川湯村臨済宗鎌倉建長寺派)大拙祖能公の門に入って髪を剃って僧侶となり、仏道の道を歩み始めました。

 その後、越前(今の福井県)坂井郡金津町御簾尾(みずのお)平田山瀧沢寺(りゅうたくじ)を開山した梅山聞本(ばいざんもんぼん)(美濃の生れ)をたずねて座禅をし、厳しい禅宗の修行を極めえることができた。
 応永10年(1403)に師の梅山は如仲に向って「この上は、深山幽谷に籠り草庵を結んで長養するがよい」とすすめられました。

 瀧沢寺を去って近江の国(今の滋賀県)に南下し、琵琶湖の北辺、塩津の祝(のろい)山(現 西浅井町祝山380-3)に入って洞春庵(どうしゅうあん)をかまえて世間から離れて悟(さと)り、それから修行に専念すること3年に及んだ。
 そんな如仲天誾の徳風を聞いて、多くの学徒で室が狭いくらいいっぱい集まりました。そこで弟子の道空に譲り、応永13年(1406)には、その東方余呉湖の東約5㎞の丹生川菅並(現 長浜市余呉町菅並492)の山谷が、中国五台山に似た勝地として移建、白山妙理権現より塩泉を施された塩谷山洞寿院(どうじゅいん)と号して開基した。
 安土桃山時代には、朱印寺となるなど格式の高い禅寺で、慶長10年1605)徳川秀忠から、ご朱印地として30石の領地と葵の紋章を寺紋とすることが許された。また、天明8年(1788)住職が京都霊鑑寺の戒師を務めていらい、宮家の尊崇を受け、菊の紋章を本堂につけることが許された。

auto_BhwICY.jpg 塩谷山洞寿院

 
 この頃遠江(今の静岡県)周知郡飯田城主に山内対馬守崇信(つしまのかみたかのぶ)(法号崇信寺(そうしんじ)玉山道美)という地頭級の小領主がおりました。遠く如仲の学徳を聞いて深く帰向し、応永8年(1401)崇信寺(そうしんじ(同郡森町飯田)を聞いて迎請(げいしょう)し開山しました。
 この崇信(たかのぷ)は信長・秀吉・家康に仕えて、山内家初代土佐藩主となった山内一豊の祖先であるといわれております。
 
 如仲は此処に閑静安住の地を見出したと思ったのも束の間に過ぎず、年と共に多数参集するに至ったので、3度盾れて北方6㎞余の橘谷(遠州一宮の神)の奥衾谷川の水源近い地に、応永18年(1411)橘谷山大洞院(きっこうざんだいどういん)を開創し、開山には梅山を第1世と仰ぎ、自らは 2世となったのです。

 応永28年(1421)2月には総持寺(そうじじ)の40世となっております。

 如仲はその後正長元年(1428)に梵鐘を鋳造しているが、これを鋳造した鋳物師(いもじ)は一宮庄内、特に天宮(あまのみや)神社の周辺に移住して、太田川の川隈等に堆積する砂鉄を利用していた一群である。
 梵鐘以下の寺院用鉄製仏具・朝廷や足利将軍に献納する調度品の外、色々な民需品を鋳造し、遠く近畿地方まで隊商を組織し広くこれを全国的に売り捌(さば)いていたのである。
 
 梅山がなくなったあと、瀧沢寺は住持(じゅうじ)が14年間もいなくなってしまいました。寺は荒れてしまっていましたので、檀家のひとたちは如仲天誾をはるばる遠州(今の静岡県)まで訪ねて瀧沢寺の住持となって欲しいと頼みました。永享2年(1430)4月、その強い熱意に応えて瀧沢寺の第6世となりました。

 廃(すた)ておりました寺の建物を直したり、梅山大和尚の教えをよく受けついで瀧沢寺の復興に尽くしましたので、後の世になり瀧沢寺中興の祖と仰がれて降ります。

 瀧沢寺に住持して8年、寺も復興してきたので、永享10年(1438)寺を去って再び近江の洞寿院へ帰りました。晩年には加賀の仏陀寺(ぶつだじ)にも住持した。如仲天誾は永享12年(1440)2月4日に亡くなり、享年75才であった。今もお墓は瀧沢寺にあります。

 門弟には英傑が出てそれぞれ一派をなし、近江・東海3州をはじめ、広く各地に繁延して太源門下梅山系の主流をなし、後世その門葉は大いに繁栄しました。

 
 橘谷山大洞院は、応永18年(1411)如仲天誾禅師の開いた寺で、時の将軍足利義持の寄進によりこの地に禅の大道場が建立されました。
 梅山聞本禅師を勧請の開山として仰いでおります。
 門前には、清水次郎長一家の名物男、森の石松の墓があります。
 余談になるが、近年この森の石松の墓をさすると、パチンコの玉の出がよいとか、株式売買で成功するとかで全国各地から噂がうわさを呼び、この墓をお参りに来る人が絶えない状態で、角が丸くなってしまったと云われております。

 またしても筆が勇んで横すべりしたと思われる。再び本筋に立ちかえります。

 曹洞宗寺数は17,549寺、永平寺末2,027ケ寺・総持寺末15,522ケ寺の中で中通幻派8,931ケ寺・大源派4,358ケ寺の中、如仲派3,200余ケ寺の末寺をもっております。

 その門末寺に火防守衛の総本山、秋葉総本殿万松山可睡斎(かすいさい)(静岡県袋井市久能)があります。
 可睡斎は曹洞宗屈指の名刹、およそ600年前の応永8年(1401)に如仲天誾禅師が開山で東陽軒と名付けたのがその始まりです。
 11代仙麟等膳和尚は若い時、駿河の慈非尾村増善寺で修行をしていました。
 そのころ家康公(竹千代丸といっていた)が今川義元の質子になっていたのを、ご覧になって、「この若者は他日、必ず立派な方になる」と見込まれ、日夜人格の指導に専念。
 ある夜にひそかに竹千代丸を葛籠に匿し、自ら負て清水から船に乗せ勢州篠島に渡り暫くかくれておったが、遂に三州岡崎城につれ戻されました。
 その後、次第に出世し浜松城主となった家康公は、に入られるや、等膳和尚を招いて夜更けまで旧事を語っていた席上でコクリコクリと無心に居眠りをする和尚を見て家康公はにこりせられ「和尚我を見ること愛児の如し、故に安心して眠る。われその親密の情を喜ぶ。和尚睡る如し」と言って、それ以来「可睡斎」と愛称せられ、後に寺号も「可睡斎」と改めた。
 また度々家康の心を安らかにした旧恩にむくいて、天正11年(1583)10月、駿河・遠州・三河の4ケ国の総録司という取締りの職をあたえ10万石の札をもって待遇せられた。
 以来、歴代の住職は高僧が相次ぎ、天下の「お可睡様」と呼ばれるにおよび、名実とも東海道における禅の大道場としての面目を充実しております。
 10万余坪の境内には、本堂をはじめ、御真殿・奥の院・経蔵・開運大黒殿・瑞竜閣・僧堂・位牌堂など壮麗な建造物が林間の中に連ねています。
 また、四階建ての末雲閣や170畳の斎堂があり、150畳に及ぶ大書院の東側には、みごとな滝があり、その大庭園の美観は賞讃そのものです。

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可睡斎(かすいさい)(静岡県袋井市久能)

 この末寺が東御市和にある海野小太郎開基の瑞泉山興善寺海野宿の北方の丘)であります。

 興善寺は、平安・鎌倉以来、戦国時代に至る600余年の間、この地に勢力を張っていたのが海野氏で、海野小太郎幸義(幸善ともかく)のとき、武田信虎・諏訪頼重・村上義清の圧迫するところとなったので、武運長久と領地の安泰を祈願して、永正10年(1513)曹洞宗の寺院を開基し自分の名前をそのまま幸善寺と命名されました。
 天文10年(1541)5月の海野平合戦に武田・諏訪・村上の連合軍に敗れ、29代海野幸義は神川にて戦死(法名瑞泉院殿器山道天大居士)。

 
 その後貞享3年(1696)火災のため建築物のすべてを焼失した。
それから20年ほどを経て、享保年間、名僧知識と言われた第13世泰音禅師のときに、檀家の協力を得て、現在の位置に本堂等再建されました。この復興したときから、幸善寺を興善寺と改められました。
 宝暦14年(1764)に全焼し、明治4年(1871)再度の火災に見舞われ、重要文献その他の貴重品の大部分を焼失されました。

uno_08_3_2.jpg興善寺山門

 歴代住職
 
 初代 林英宗甫 永正3年(1506)開堂、享禄4年(1531)8月12日寂
 2代 含山与白 永正16年(1519)開堂、天文2年(1533)4月寂
 3代 用山光受 天文2年(1533)開堂、弘治元年(1555)6月寂
 4代 慶山順賀 弘治元年(1555)開堂、永禄9年(1566)寂
 5代 昌山洞繁 永禄9年(1566)開堂、天正5年(1577)寂
 6代 大英智撮 天正5年(1577)開堂、天正19年(1591)寂
 7代 通山全達 天正5年(1577)開堂、元和元年(1615)寂
 世外 林月白光 元和元年(1615)開堂、寛永10年(1633)寂
 8代 不白三達 寛永10年(1633)開堂、寛永16年(1639)寂
 9代 秀山連察 寛永16年(1639)開堂、5年間
 世外 越 道 明暦3年(1657)まで
 世外 喚 竜 明暦3年(1657)~寛文12年(1672)まで
 10代 孝巖嶺中 寛文12年(1672)~貞亨4年(1687)まで、貞亨3年全焼
 11代 澄伝村竜 享保12年(1727)
 12代 印泉嶺寅 享保21年(1736)、小太郎碑建立(13代により)
 13代 潮光泰音 宝永4年(1754)、寺院復興
 14代 曇庭祖門 明和3年(1766)
 15代 無門慧璞 宝暦13年(1763)、宝暦14年全焼
 16代 中興智鏡慧泉 寛政7年(1795)寺院復興
 17代 景天庭嵓 寛政2年(1790)
 18代 巽堂泉随 文化5年(1808)能州総持寺の貫主となる
 19代 緑戒歓随 文政11年(1828)
 20代 素学智文 嘉永2年(1849)
 21代 正瞳活眼 嘉永元年(1848)
 22代 雲外玄竜 明治4年(1871)本堂全焼
 23代 道改仏眼 明治32年(1899)
 24代 法通開闢黙室弘道 明治44年(1909)、明治20年に本堂等再建
 25代 秀岳宗俊 大正7年(1918)
 26代 実明慧泉 昭和16年(1941)、全国同宗15,000寺より
                  宗務院特選議員となる
 27代 白翁慧鳳 昭和25年(1950)
 28代 大応善弘 昭和19年(1944)、陸軍少佐、ビルマにて戦死
 29代 柴田善亮
 現在は、30世柴田善達禅師に及んでおります。
 その間幾多の名僧を出しました。中でも18世泉随禅師は、能州総持寺(のちに鶴見に移る)の貫主となった名僧であります。

 興善寺の山号瑞泉山。曹洞宗、本尊は釈迦坐像(像高90㎝)で右に文殊菩薩坐像・左に普賢菩薩像。家紋は州浜・六連銭

 興善寺末寺は向陽院(丸子町塩川狐塚)・全宗院(上田市中吉田)・金窓寺(上田市諏訪形)・日輪寺(上田市横町)・大英寺(埴科郡坂城町)・天照寺(長野市篠ノ井小松原)。

 境内の敷地2,300余坪。本堂・位牌堂・庫裡・鐘楼・豪華な山門・豪壮な石垣。特に本堂の鬼瓦であるが、明治4年の火災のあと、同20年再建、80年ぶりで昭和38年屋根の葺き替え、本堂の鬼瓦を下ろされました。高さ4.9m、底の開き4.54m、重さ1.9t、片方25個の組立て、普請に当った瓦職人も、長野県内にこれだけの大きなものは見たことが無いと言っておりました。
 山門は、平成3年に再建する。

uno_08_2_1.jpg興善寺の石垣と山門

 また境内には、多孔質安山岩でつくられた、高さ28㎝・底面46㎝の直角の石塔基礎で昭和21年に海善寺跡の畑から出土したものであります。
 文保(1318)の年号が陰刻してあり、鎌倉時代にあったと思われる廃海善寺の歴史を物語る貴重な資料であり、武田信玄がこの寺で武運を祈ったと伝えられております。
 また、善淵王御座石・開基墓(享保20年)・庚申塔(明和4年)等がある。

 その後真田昌幸が上田城をつくられたときに鬼門除として移り海禅寺と改称し、真田信之の松代移封にともない寺も松代に移り開善寺と改称され今日に至っております。

uno_08_4.jpg山門から見た本堂

武田信玄と海野竜宝

 天文7年(1538)6月、北条軍との和議が成立して3年間武田信虎は珍しく戦がなく平穏な暮らしが続いていた。
 天文9年5月、24才で諏訪氏を継いだ頼重に信虎の娘の祢々(ねね)(晴信のちの信玄の妹)を11月に嫁がせております。
  信虎が最後の合戦を飾ったのは48才の天文10年(1541)の晩春に始まった信州の「佐久攻略」であった。
 晴信21才の初陣説は、このあたりから出ている。
 「甲陽軍艦(こうようぐんかん)」「武田三代軍記」などでは信虎・晴信父子の奮戦ぶりを克明に描いている。
 信虎軍は1日に36の城を攻め落としたと伝えられております。
 
 武田信虎軍は佐久を通って、現在の白樺湖に近い大門峠を降り、諏訪頼重は下諏訪の和田峠から山つたいに、村上義清軍は戸石城で兵力をそろえ、いずれも血に飢えたような連合軍で戦闘をいどんだ。
 折からの雨期に大雨が続いて戦場は水びたし、川はあふれ、おぼれる者さえ出る中を滋野三家の前衛とする城は次々とたたかれた。

 双方の主力がぶつかりあい。防衛軍は歯を食いしばって戦ったけれど、5月13日に尾野山(現丸子町生田)の城が落され、翌日海野平(現白鳥団地)を占拠され、海野城の本拠は陥落(かんらく)しました。

uno_09_1.jpg武田信玄の陣

 
 祢津元直は晴信の妹が妻であることと、諏訪神社の神官と縁をむすんでいたので特に許され、望月氏は武田軍に降伏した。
 
 この三者(武田・諏訪・村上)がどんなふうに海野討滅の計画をきめたかは、わからないが村上氏は前から海野をくつがえそうとねらっていたことは確かである。

 海野一族と隣り合わせで、同じ千曲の沿岸に葛尾城を強化した村上氏は海野氏を快く思っていなかったので応仁元年(1467)に両者が激突を起こし、海野氏を惨敗し、上田川西地方に勢力範囲を広げ野望をめざしていたが、武田信玄に弘治3年(1557)2月15日火攻めで落城しました。

uno_09_2.jpg海野平古戦場之図

 もう一人の諏訪氏も海野城を攻め入った翌年には、信玄にはかられて悲憤の最期をとげたし、武田信虎は、わが子の信玄に追放されるという運命に立たされました。
 
 のち天文22年(1553)に、あの有名な上杉謙信との川中島の戦いとなります。
 
 28代海野棟綱の嫡男幸義は海野平合戦で戦死。
 その後、永禄4年(1561)海野氏の家名を滅ぼすことは心ならぬと、信玄の二男次郎信親は、信濃の豪族海野幸義公の女子を妻として、海野民部亟竜宝と名乗り海野氏を継いだといわれております。
 信親の母は三条内大臣公頼女、天文7年(1538)生れた。生まれつきに目が不自由であったため、早くから仏門に帰依してしており、信玄の近くに仕えていた。居館は城北の聖道(しょうどう)小路。時の人お聖道(しょうどう)様という。また信親の兄は義信(長男)・弟は勝頼(三男)・盛信(五男)は仁科五郎盛信として「信濃の国の歌」り歌詞にもあるように安曇野の仁科家を継ぐのである。

 竜宝は海野の旧臣80騎の将となり、海野城主なる。性格は穏やかで慈しみ深く、人々から敬愛されていた。
 龍宝の陣代として春原(小草野)若狭守隆在に奥座の家名を賜る。100貫の知行から1,000貫を与え家老をつとめさせた。また弟の春原惣左衛門は甘利左衛門の同心に召し加えられ、本地30貫を300貫加増される。
 その小草野若狭守邸宅跡は、東御市県(瓜田団地の住宅から田中小学校の敷地周辺)に館を構えていたといわれている。
 現在は本海野区字瓜田にあり、昔人はここを奥座と称して夏目田組なれど本海野区の飛地となっている。

201409191705_0001.jpg 奥座屋敷跡

 この写真の松の木の根元には、祠が祀られていて湧水が出ていた。
今は、この松の木は伐採されている。
 
 永禄10年(1567)10月に信玄の長男が亡くなり、二男の信親は盲目であったため、三男の勝頼(麻績城主服部左衛門清信の娘が諏訪頼重に嫁ぎ、湖衣姫が生れ、のちに信玄の側室となり勝頼を産む)が継ぐことになった。

 その後、武田勝頼が采配を振るって更に領土を増やしたが、反勝頼派の新興勢力との家臣団の対立が表面化する。さらに武田の経済基盤ともいうべき黒川金山が枯渇するなど武田氏を取り巻く情勢は長篠の時期よりさらに困難になりつつあった。

 天正9年(1581)1月、勝頼は復権を賭け、真田昌幸に命じて韮崎に新府城の築城を始めた。その年の12月に勝頼は本拠地をつづじケ崎館からこの新府城に移す。

 翌天正10年1月、勝頼の義弟・木曽義昌が勝頼の課する重税に腹を立て謀反を起こした。信長はそれを合図に家康・北条らと四方から武田領に乱入する。織田勢の侵入を許すと、次々に家臣が離反。甲府にも織田勢が押し寄せ、海野信親の身を案じた法流山入明寺(甲府市住吉、浄土真宗・本尊は阿弥陀如来・信親の墓もある)住職栄順は、海野城から信親を寺に迎えて、隠まった。
 勝頼は新府城に籠城しようとしたが、城が未完成であったことや城を守るだけの兵力も残っていなかったため進退に窮する。この時、昌幸が進み出て勝頼の退却先として天嶮の要害で知られる自分の岩櫃城を提案する。ところが、重臣や譜代の小山田信茂が「真田は信用できない」と進言し、彼らの薦めもあり、小山田信茂の岩殿城を目指すこととなる。

 3月3日早朝、新府城に自ら火を放って岩殿城に向かった。勝沼の大善寺の本堂にこもり、武田家の再興と武運を祈って通夜とした。
 7日、勝頼一行は岩殿城を目指したが、その時、城主小山田信茂は人質として預けていた母を秘かに連れ去っていた。
 9日になっても小山田信茂が現われないので怪しんだ勝頼は岩殿城へ使者を出したところ、すでに笹子峠には小山田勢が勝頼を拒むべき固めていて、勝頼は空しく追い返された。

 勝頼らは武田家ゆかりの寺、天目山の栖雲寺を目指し落ちてゆく。古府中を出たときには一万の軍勢が追従していたが、兵たちは次々と逃散し、このころはわずか50名の家臣と40名の女性子供が従うのみ、やむなく田野の集落まで引き返す。

 11日、わずかな家臣が織田軍と必死の防戦し、時間を稼いでいる間に武田勝頼父子が自刃してはてた。勝頼37歳、夫人19歳、嫡男・信勝16歳であった。ここに名門甲斐武田家は500年で終焉した。

auto_Uy5un7.jpg中央が武田勝頼の墓

 武田氏は滅亡し、その3ヶ月後に信長が本能寺で死ぬと徳川家康は武田主従の追善を祈って、この地に一寺を興した。寺は6年後に完成し景徳院(田野寺)といった。安永4年(1775)に建てられた勝頼夫妻・信勝の墓と最後まで勝頼に従った54名の位牌も寺に安置されている。

 武田氏滅亡、その報を聞くと海野竜宝は入明寺で自害し果てた。42才であった。住職栄順は遺骸を寺内に埋め、法号を「長元院殿釋潭竜宝大居士」という。 海野竜宝には男子1人と娘2人がいた。嫡子信道(道快天正2年(1574)生れ~1643)は9才であった。
 祖母である三条夫人の縁故のある本願寺の顕如法王から顕の一字を与えられ顕了道快の僧名を賜った。
 その時、武田の血筋が絶えるのを心配した入明寺の栄順は、長延寺の実了師慶和和尚の養子になっていた。
 幼い顕了と母(竜宝室)を伴い敵の目から逃れ、長延寺領の信州伊那犬飼村に無事逃し、織田勢の捜索からうまく逃した。

勝頼37才辞世の歌
「おぼろなる 月もほのかに 春がすみ 晴れていくよの 西の山の端」
勝頼夫人19才辞世の歌
「黒かみの みだれたる夜ぞ はてしなき 思いに消ゆる つゆの玉のを」
また、小田原北条家を偲んで
「かえるかり たのむぞかくのことはを もちてさがみの 国におとせよ」 空を飛ぶ鳥があるならば、この武田家末路のようすを、私の実家である小田原北条家に伝えてほしい。

  uno_09_3.jpg入明寺

 武田神社の西側を北に向かって、丁度突き当りのところに小さな塔や仏像があり、ここは、竜宝の墓と伝えられ、近在の人達は昔から「お聖道様」と親しまれ、大切に保存して来られました。
 このあたりが、かって聖道小路という字名で、聖道の屋敷があったからだといいます。
  
 天正10年(1582)3月11日武田勝頼・信勝父子が天目山で自刃、海野竜宝も甲府入明寺にての自刃等武田家の滅亡はあったが、武田家の血縁者で生き延びたものも多いと言われる。
 海野竜宝の妹穴山梅雪夫人がいる。この妹は母が正室三条夫人であるので竜宝とは実の同母の兄弟である。
 この梅雪夫人は武田家滅亡後に髪を切り、見性院さまと呼ばれる尼となったのは42才のときである。

 見性院は、その後下総国に住み57才のとき、徳川家康より500石と現在の埼玉県うらわ市大牧の領地を与えられた。そして江戸城北の丸に移された。 見性院が北の丸に入ると大奥では比丘尼屋敷と呼ぶようになった。

 ここで余生をすごす見性院が66才になったとき、徳川二代使用郡秀忠の側室(お志津の方)が比丘尼屋敷に救いを求めてきた。秀忠の正室のうらみを受けて大奥にいられず見性院に相談のため、駆け込んできたという。

 比丘尼屋敷の見性院は大奥のもめごとの苦情相談の役目をしていたのだろうか。そして、このお志津の世話をまた頼まれたのが竜宝の妹、すなわち見性院の妹信松尼であったという。

 信松尼とは信玄と油川夫人との間に生まれた竜宝の異母の妹である。
この信松尼とは婚約者であった織田信忠を総大将とする織田軍が甲斐へ乱入する直前八王子に逃れた於松(松尼)である。

 見性院はお志津が江戸城から抜け出す手引きをし妹信松尼のいる八王子へ送り届けた。そして信松尼はお志津を、現在の埼玉県うらわ市大牧の地主の家に案内した。
 『うやまって申す祈願の事 南無氷川大明神
 ここにそれがし卑しき身として将軍の御想い者なり
 御種を宿して 当4・5月頃臨月たり
 しかれども正室(御台)嫉妬の御心深く
 江戸城 大奥(営中)に居ることを得ず
 いま信松尼のいたわりによって身をこのほとりに偲ぶ
 それがし全く卑しき身にして有難き御寵愛を破る神罰として
 かかる御種を身ごもり乍ら住む所にさまよう
 神明誠あらば それがし胎内の御種男子にして守護したまい
 二人とも生き全うして御運をひらく事を得 
 大願成就なさしめたまわれば心願の事必ずたがい奉るまじく候也 
     慶長16年(1611)2月             志津』  
 このとき、お志津は28才であり、出産する3ケ月前 埼玉うらわの氷川神社に安産祈願文を奉納したのである。
 お志津は、この年の5月7日に秀忠の三男を出産した。

 竜宝兄妹の見性院と信松尼の老いた姉妹が秀忠の三男の養育の世話をした。この三男が14才に成長した時、見性院の世話により信州高遠の城主保科正光の養子となった保科正之である。

 竜宝の妹見性院は保科正之の栄達を願いながら、元和8年(1622)5月9日比丘尼屋敷で77才の天寿を全うした。
 保科正之はのちに、高遠城から会津若松23万石の藩祖となって、寛文12年(1635)62さいで没した。

 昌幸の子孫の会津藩主松平容保(かたもり)は、安政5年(1858)3月見性院ゆかりの大牧村の菩提寺天台宗清泰寺に廟所を建て、
 法名 見性院殿高峯妙顕尊儀という。
 お志津の方は、寛永12年(1635)9月7日病没、52才。
 身延山久遠寺に墓所がある。

    60&武田龍宝墓所

信濃国小県郡海野の「姫宮」の地名と祠は「善光寺道名所図絵」にも記録されている。国道18号線の海野地籍に、レストラン「キャロット」がある西側の道を、赤石不動尊に北へ向かって200mほど右側に「姫宮」の祠がある。甲斐武田信玄の二男竜宝を父として、海野左京太夫幸義公の娘を母として生まれたのが、滋野勘七郎海野信音武田太郎能登守「蓮寿院殿光本鏡大居士」海野信音の室は甲斐の馬場家の娘で(武田と共に馬場家も滅亡)「蓮池院殿好厳貞鏡大大姉」その実家馬場家の命運も案じつつ、天正10年(1582)4月3日に、武田勝頼が天目山にて自刃したと聞いて、海野居館(姫宮の東側)にて夫と共に自害し通称「くろ姫」おひめさまとして赤石に祀られた。この地方に「姫宮」の話は大変悲しい話として伝承されている

 その年の6月2日、本能寺で織田信長が明智光秀に討たれて滅亡すると、逸早く甲府へ乗り込んできた徳川家康は、武田の旧制・旧法を尊重するとの触れ書で武田旧臣の懐柔を策した。実了上人は、伊那から顕了道快を連れ戻し、尊体寺で徳川家康に拝謁。ことの次第を訴えて長延寺再興を願い出た、家康は信玄の孫・顕了の住職を条件に復興を許可した。この時顕了は14才であったため、入明寺和尚が後見人となり長延寺は再興されたという。
 そして、慶長8年(1603)には実了の後を継いで長延寺(現在光澤寺)第二世となった。
 顕了道快は、その後、甲斐で活躍した元武田家臣だった土屋長安とも面識があったと考えられる。

 経理に秀でた土屋長安は、家康に仕え大久保忠隣の与力に任じられ、以後、大久保長安と称した。甲斐の復興を指揮し、堤防復旧や新田開発、甲斐の金山採掘などに尽力したと考えられる。
 天正18年(1590)、徳川家康が関東に入ると、翌年、八王子8,000石が大久保長安の領地となり、八王子の開発が始まった。

 また大久保長安は徳川家康に対して武蔵国の治安維持と国境警備の重要さを指摘し、八王子500人同心創設を具申して認められ、ここに旧武田家臣団を中心とした八王子500人同心が誕生した。慶長4年(1599)には関ヶ原の戦いに備えて同心を増やすことを家康から許され、八王子千人同心となった。

 徳川家康からも重用された大久保長安は旧武田家臣を保護しただけでなく、武田信玄の娘(松姫)などのも保護したらしい。

 慶長5年(1600)には、武田信道に子、武田信正が誕生している。

 慶長18年(1613)4月25日、69才で大久保長安が亡くなった後、金山産出の横領の疑いを掛けられ、5月17日に大久保一族や腹心は捕えられた。
 7月9日には、その捕えられた一族郎党が処刑される。
 また、武田信道や松姫を保護していたことから、武田氏が再興を企んでいるとも疑われ、武田信道と子の信正は常陸笠間城主松平康長丹波守の下に預けられたあと、元和元年(1615)武田信道と信正(教了)の親子と共に伊豆大島への流刑となった。時に顕了42才であった。武田信正の妻「ままの局」と家臣9人と共に伊豆大島の野増に居住した。(伊豆の武田氏と呼ばれる)
 伊豆大島には現在も供養塔や屋敷跡が残っている。

 永禄10年(1567)武田信玄の6女松姫(海野竜宝とは異母兄妹)7才と織田信長の長男奇応丸10才との政略結婚の婚約が成立したが、この婚約は松姫12才のときに解消された。
 そして信玄の死後、武田家の運命も退潮の方向につき進んでいった。  松姫は兄勝頼を心の底から思ってくれる真田昌幸・幸村父子の心が頼もしく心嬉しかった。
 信玄は、かって跡部勝資・真田昌幸の二人を「わしの両目である」と高く評価していたという。その真田父子が勝頼の……は落目の武田家であるが……
 真田幸村が恋慕の情をいだいた松姫も新府城落城後-甲府入明寺-開桃寺-恵林寺-向獄寺-それから武蔵国を目指しての流転の旅、東奥山・田無瀬と険しい山道を通り抜け八王子金照庵へ向かった、そして心源寺へ。
このように敗走の旅を続ける松姫に対して絶えず忍びの者を送り安否を気遣い情報収集をしていたのが真田幸村父子であった。
 松姫は信松尼として元和2年(1616)4月16日に、辛く寂しい56才の生涯を閉じた。真田幸村は徳川家康の本陣めがけて突撃して、大阪夏の陣において元和元年(1615)5月7日、49才で戦死する。(上田真田勢32人戦死・敵首29を得る)

 武田信道は寛永20年(1643)3月5日についに赦免の日を迎えることなく70才で伊豆大島で世を去った。子の武田信正もすでに43才、父顕了が島に流された歳に近かった。
 それからさらに20余年が過ぎ、信正66才、大島にきて厳しい流刑生活が実に48年の歳月が流れようとしていた折、上野寛永寺の法親王、公海上人の仲介などもあり、徳川家光公13回忌を契機に流刑が許されることが決まり、将軍徳川家綱より寛文3年(1663)3月赦免され江戸に戻ることができた。そして、寛文12年(1672)小山田信茂の娘香具姫を母に持つ、平藩主内藤忠興(内藤帯刀忠興)の娘(17才)との間に武田信興を設けた。

 武田信興は最初は内藤忠興の元で生活をしていたが、父武田信正が死去したのちは 柳沢保明(のちの柳沢吉保)の世話になって暮らしていた。

 そして、柳沢吉保の推挙により武田信興は元禄13年(1700)12月27日に徳川家臣として復帰し、甲斐・八代郡内に500石を与えられ、寄合に所属する旗本となる。

 翌年元禄14年(1701)1月には徳川綱吉に拝謁。9月には表高家に列することになり、江戸城・幸橋門外に新たに宅地を与えられ、宝永2年(1705)8月19日には領地を相模国大佐郡と高座郡内に移された。
 武田信興は元文3年(1738)7月9日死去、享年67才。芝の西信寺に葬られている。
 長男信安が家督を相続して、信明―護信-信典-信之-崇信-信任-要子-信保-昌信-邦信-英信と、その子孫は、武田信玄以来の血脈を保ち、現在第17代武田英信氏(嫡流武田氏)が東京に在住されている。(長男の場合は「信」を下に、養子・2~3男は「信」を上に)
 また、海野氏の末裔でも在られる。

大正3年(1914)大正天皇即位に際し、戦国の武将従四位下大膳大夫武田信玄の民生上の功績が認められ従三位が贈呈された。しかし、この位記宣命は、その正統の子孫に渡されることになっている。ところが、この事を聞いて、全国の武田信玄の後裔を名乗る人が多く表れて、当時の添田敬一郎山梨県知事は困惑された。そこで知事は提出された資料を当時の東京帝国大学史料編纂所に送って判定を依頼した。調査検討した結果次のことが実証された

長男太郎義信は幽死・2男は竜宝・3男は17才で早世・4男が四郎勝頼・5男は盛信は天正10年(1582)高遠城に敗死、従って信玄公の男系として天目山の難以後に生存していたのは竜宝と7男信清の二人である。竜宝は半僧半俗として天目山の難に際し、甲府入明寺に自殺したが、その子顕了道快は甲府長延寺に隠れ信長の目を逃れた。その子信近は赦免され、また、その子信興は幕府に仕えることとなり武田家は復興、その子孫伝承して現当主信玄公15世の孫武田信保氏に、位記宣命が下賜された。天目山の難を逃れた末子の信清は、祢津氏出身の母を持ち高野山に潜み、のち越後の上杉昌勝(夫人は信清の姉)の保護をうけ子孫相続して米沢に住する