全国各地の海野氏について

海野氏」都道府県別分布

都道府県軒数都道府県軒数都道府県軒数
北海道162石 川28岡 山116
青 森23福 井12広 島63
岩 手26山 梨150山 口16
宮 城76長 野201徳 島10
秋 田8岐 阜22香 川46
山 形168静 岡2390愛 媛12
福 島91愛 知200高 知7
茨 城704三 重185福 岡51
栃 木48滋 賀14佐 賀3
群 馬63京 都35長 崎8
埼 玉260大 坂200熊 本8
千 葉220兵 庫89大 分17
東 京506奈 良25宮 崎258
神奈川421和歌山100鹿児島18
新 潟23鳥 取1沖 縄2
富 山45島 根1合 計7132

                (2006.1.調査の「苗字館」より)

長野県の海野氏

飯綱町の海野氏

 森尾山鎌田院妙福寺 上水内郡飯綱町芋川1517-1  ☏026-253-2223
 浄土真宗大谷派 本尊 阿弥陀如来 住職 海野浄英(善敬寺兼務)
 詳細は、下記に記載の「海野氏と寺院」をご覧ください。 
 飯綱町の海野家は、この住職だけです。

中野市の海野氏

 現在海野幸治家が総本家を務め、庭内に天照皇大神宮を祀り、「海野ま
 け」を全員で守っております。家紋は州浜です。
 総本家には系図が現在まで引き継がれております。それによりますと、
 海野家の先祖は………………
 海野氏第26代海野小太郎氏幸(応仁元年(1467)村上氏と戦い戦死する)
 海野小太郎幸種(幸棟より分家したと思われる)―海野和泉保幸―海野偁後幸忠―海野主膳宗幸―海野和泉幸澄―海野與惣兵衛幸厚(世はまさに戦国時代である、天文10年(1541)武田・諏訪・村上の連合軍に敗れ、海野家は各地に逃げ延び、名字をそれぞれ変えている)
 初代白鳥勘右衛門幸邦(間山の海野家先祖・盛隆寺の創建に尽力する)
 2代白鳥太郎兵衛幸英
 3代黒鳥文右衛門幸通
 4代黒鳥文左衛門幸信
 5代海野茂右衛門幸佐(江戸時代の世になり安泰となったので
  元の海野姓を名乗るようになったのではないかと推測する)
 6代海野文内幸康(間山中村組佐藤要助養子)
 7代海野金蔵幸照(5代海野茂右衛門幸佐の五男文助)
 8代海野勘右衛門幸久(間山郷原組土屋久八の次男義三郎養子)
 9代海野文内幸貞
 10代海野勘右衛門幸延(子供がなく9代海野文内幸貞の弟)
 11代海野勘右衛門幸孝(10代海野勘右衛門幸延の次男辰太郎)
 12代海野勘右衛門幸家(菅村山本奥右衛門次男の仲一郎相続)
 13代海野恵紋幸固
 14代海野義一幸治
 15代海野幸吉―海野佳広―海野高志と継承され、地域のために
  活躍されておられます。
 明治30年4月12日に間山の海野家は小県郡海野郷白鳥神社に「杉苗20本」を寄付されている。

auto_klpAmb.jpg右端は宮下和友会長・左端武舍秀雄

 間山には海野富治・海野米次・海野和好・海野サチ子・海野竹男氏他28軒あります。 

 中野市中央1-2-3(〒383-0022)海野正寿(S32.4.21生)☏22-2348
 中野氏松川幸町1630-7 海野忠夫
 中野氏岩船       海野正夫 
 

須坂市の海野氏

 須坂市の海野家は8軒あります。(電話帳調べ)

長野市の海野氏

 白鳥山報恩院善敬寺  長野市吉田3-16-16  ☏026-241-3771
 浄土真宗大谷派 本尊 阿弥陀如来 住職 海野正師  家紋州浜
 詳細は、「海野系寺院」をご覧ください。

 浄専寺   善敬寺院内     ☏026-241-4062
 浄土真宗大谷派  住職 海野弌美師   家紋結び雁がね
 詳細は、「海野系寺院」をご覧ください。
 
 白鳥山報恩院康楽寺  長野市東町163-1  ☏026-232-3098
 浄土真宗本願寺派  住職 25世海野浄雄師   家紋州浜
 詳細は、「海野系寺院」をご覧ください。

 白鳥山報恩院康楽寺 長野市篠ノ井塩崎角間3429 ☏026-292-465
 浄土真宗本願寺派 本尊 阿弥陀如来 住職 海野昭親師 家紋州浜
 詳細は、「海野系寺院」をご覧ください。

 海野山報恩院専精寺 長野市篠ノ井東福寺648 ☏026-292-1128
 浄土真宗大谷派 本尊 阿弥陀仏 住職 23世海野教恵師  家紋州浜
 詳細は、「海野系寺院」をご覧ください。

 上宮寺 長野市篠ノ井塩崎
 浄土真宗   住職 海野昭親師  家紋州浜
 塩崎の康楽寺と同じだと思われます。詳細は調査中です。

 白鳥山報恩院証蓮寺 松代町寺町1301   ☏026-278-3398 
 浄土真宗大谷派  住職 海野良澄師 家紋州浜・結び雁がね
 詳細は、「海野系寺院」をご覧ください。

 仏智山明真寺   松代町東条1127   ☏026-278-3967
 住職 海野栄子 福徳寺が管理している。詳細は調査中です。

 長野市長野狐池1212 海野八百重(☏235-4754)から系図とお便りをいただき要約すると次の通りです。家紋は雁がねです。

(総大将海野小太郎幸広は寿永2年(1183)10月1日、備中国水島合戦において、平家に敗北し、矢田義清と二人の大将が討ち死にし、命からがら京都へ逃げ帰った木曽軍は、ごく僅かであったと言われている。元暦元年(1184)海野小太郎幸代は信州水内郡若槻郷に、海野幸勝が隠居することを聞き、幸代は妻子を連れて鎌倉より立ち帰り、信濃海野氏の祖となり、子・孫へと続き、三皇神(稲田媛命・猿田命・碓女命)宮を祀る。慶長19年(1614)信州水内郡若槻郷蚊里田里(現在の東条)に住居し、三皇神を当屋敷へ移す。その後、加賀街道を開設される。その後、38代海野福太郎(現在は東京へ分家)は、三皇神を東泉寺境内に奉納して移したが、現在は寺が取り壊されて、公民館が建てられております。現在は、八百重さんの夫、41代目故海野国司(平成19年まで司法書士開設)の本籍は長野市大字若槻東条572に宅地だけあります)

 藤沢市に在住の上野家の「上野家所蔵文書」によると、
 神奈川県→山形県米沢→福島県会津→越後国→信濃国葛山 となっている。
この間、上杉家より下付された文書を所持しておられるので、その経路は鮮明である。
 葛山城とは、信濃の善光寺の裏山に当たる山城であり、標高809mの葛山には、葛山城跡が、今なお現存している。その山麓には鑪、僅か離れて桜の集落が続いている。
 平安末期か、鎌倉初期のころ、香坂・大日向・小田切・春日などいずれも佐久地方の地名を姓とする滋野系の武士たちが、この地方に所領を得て移住してきたが、落合氏も本貫は作落合らしい。

 葛山衆の一人、鑪氏家譜は次のように記す。
「本姓は滋野本名落合・桜靭負尉・立岩伊豆守・鑪孫左衛門信満・上野新三郎幸親以上四家は海野の分家、これに香坂太郎左衛門・上屋小平・徳間平三を加えて葛山七騎という。菩提寺は米沢市北寺町浄土宗西蓮寺」「鑪郷に住せしをもって鑪と称す(信濃国上水内郡芋井庄)」と、すなわち葛山衆の殆どは落合一族で領地の名称を姓とした。
 応永3年(1396)の大文字一揆注進状・永享12年(1440)の結城陣番帳に落合氏の名がみえるほか事績については明らかではない。
 この葛山衆が、信濃国小県郡海野郷に発祥した海野家を遠祖とする海野系の一族である。
 天文22年(1553)坂城の村上氏の葛尾城落城は、上杉謙信に属していた落合氏は葛山城の守りを厳しくしていた。
 そこで注目しなければならないのは、武田信玄の信濃攻略の進に従い、比較的平穏だった葛山衆も戦国の荒波に巻き込まれていく。
 北信濃の雄村上義清は上田原と砥石城で二度までも信玄に痛打を浴びたが、砥石城は真田幸隆の不意打ちであっけなく落城、近くの狐落城も内部の反乱で落城したため、義清は戦わずして鑪城葛尾城を放棄し、越後の上杉謙信に助けを求め、甲斐両雄激突の川中島合戦の幕が切られたのである。
 武田勢17,000は、一挙に越後上杉方の重要前進基地葛山城に攻撃を開始した。
 葛尾城は、武田の攻撃に城を死守、激戦を展開、備中森は、必死の防戦を展開するが、敵は折からの烈風に乗じて、火を放ったので、たちまち全山猛火の海につつまれ、遂に城将落合備中守は、援将小田切駿河守幸長・広瀬藤四郎も共に多くの将兵が打死した。時に弘治3年(1557)2月15日、ついに落城し、武田の支配下にあって一族の苦難の再起が図られたことと思われる。元亀元年(1570)9月付の信玄が葛山衆に与えられた朱印状がある。鑪与助が本領150貫と新知行100貫が与えられ「最前より幕下に参じ忠節比類なく」といった文面で、他も同様であるから武田について家筋を守っていることは確かである。
 長野市芋井にある松参寺は、曹洞宗、住職山口義孝師
開基した広瀬氏は、衰運にむかい、お寺を再建する力がなくなっていたので代わって落合備中守が再建して、中興開基した。 
 天正10年(1582)武田氏滅亡し、織田の将森長可から安堵城が与えられ、葛尾衆は21名である。信長が殺された後上杉景勝が占領、葛尾衆の長沼城代島津忠道の指揮下に入った。
 天正11年(1583)2月、上野・立岩・鑪・江本・徳間・桜の六名は、家族共々衛ちこ゛春日山へ移住を命じられる。
 文禄3年(1594)の禄高は、春日233石、鑪・上坂・日下野・原・桜・立岩は125石ずつ、上野99石、50石未満17名、計25名である。
 慶長3年(1598)上杉氏は会津転封により越後・来た信濃45石から120石となり、鑪氏は125石から300石になるなど家臣の知行は倍増となり葛山衆25騎は全部100石以上となったが、ここで先祖伝来の本領地葛山郷から離れることになる。関ヶ原敗戦後上杉は30万石に、寛文4年(1664)米沢藩の滅封で知行も滅ぼされ、葛山衆は縮小消滅の道を辿るのである。しかし、家系は保たれ、多くの末裔の人たちが今も各地で活躍されておられます。
 藤沢市在住の上野家は、このような歴史にを経て現在藤沢市に繁栄しておられるのである。
 
 8代海野幸親の長男幸広・三男根井親綱(桜井三郎・)四男矢島四郎幸忠・五男落合五郎兼行→葛尾衆・六男楯六郎親忠で、葛山7騎とは桜・立岩・鑪・上野・香坂・上屋・徳間である。以上鑪氏系譜は長野市鑪区長の麻場氏が所持の記録を参照させていただいた。
 長野県内の東信地方に現存する上野姓の人たちの分布を見ると次のようである。
 上田市小泉   24戸    上田市半過・山口   11戸
 上田市生田   28戸    上田市沖(武石)     9戸
 東御市海善寺   4戸    小諸市        10戸
 佐久市望月   66戸
   細分布 大谷地 13戸 戸倉 10戸 協和 10戸 春日 10戸
     下の宮 8戸 などとなっている。
 佐久市平井   18戸

徳間氏も、また葛山から越後→会津→米沢と上野氏と同様の経路を辿っている。千曲市戸倉にも徳間集落がある。
 海野幸親から、根井・矢島・落合・楯・その他の諸氏が分かれている。
根井幸親は、佐久市根々井を本拠地としていた、そこに菩提寺の正法寺がある。

 長野市屋敷田241-59 ながの東急(☏243-2237)海野徹也(s16.7.6生)
 長野市若槻団地3-178二幸機材㈱(☏241-0721)海野信昭(s8.1.18生)
 長野市安茂里2005-7 海野悦次 土地改良事業一筋
 長野市岡田町176 第一法規出版㈱(☏226-4901) 海野幸人

 長野市の海野家70軒あります。(電話帳調べ)

千曲市の海野氏

 白鳥山本覚寺   千曲市倉科1050   ☏026-272-2224
 浄土真宗本願寺派 住職 海野玄秀師 平成28年9月17日死去89歳  家紋結び雁がね
    長男の福祉法人「杏の郷」理事長 海野秀彦が引継ぐ
 詳細は、「海野系寺院」をご覧ください。

 稲荷山五大院長雲寺 千曲市稲荷山町2239  ☏026-272-3730
 浄土真宗智山派   住職 26世海野慶宗師  家紋州浜
 詳細は、「海野系寺院」をご覧ください。

 千曲市小島の海野雅信家、長野市篠ノ井布施高田の海野安彦家(海野薬品㈱)、埴科郡坂城町の海野義雄家、東御市の海野恒男家(山田薬局)の先祖は………………
 第23代海野小太郎持幸は、文安6年(1449)村上の領地、船山郷(戸倉町・五加村・埴生村・抗瀬下村等を合して船山郷と言う)へ地頭となり小県大平寺(現在の東御市白鳥団地)より来る。
 宝徳2年(1450)小県大平寺より白鳥大明神を分社し寂蒔の地へ移す。持幸地頭になるやいなや、すぐその時に代官を平原城主は海野平原直光を代官として、この地に来る。
 代官海野直光、船山郷船山へ地頭屋敷(現在の船山神社の横屋敷地)を造る。
 持幸地頭となるや代官海野直光をして埴生寂蒔村士族宮坂義洛院・士族丑丸、鋳物師屋士族市河等と共に船山郷発展のために尽力する。
 ①館の堀割改築工事を完成する。
  先住者市河氏館跡の南・東・北方面の堀割を更に大きく造り、現在そ
  の堀割は屋代用水となって農業用に使用されている。
 ②産業発展のため、鋳物師を連れてくる。
  農業の発展は農具、機械および鋳物の製造により産業の発展の草分け
  と呼んでいる。
 ③千曲川の洪水害を防ぐ。
  寂蒔の上より船山までの土手補強工事を完成させ、船山郷を水害から
  守った。
 
 康正元年(1455)持幸は、足利義政将軍に呼ばれ京都に行く、そのときに持幸・丑丸家と共に、時の天皇に絹織物・錦織物・駒・農作物等を献上する。
 康正3年(1457)海野直光は代官を辞する。村上の臣、室賀貞信を代官とする。
寛正元年(1460)海野直光死去し、墓地を東山に造る。現在の海野家の墓地。
 応仁2年(1467)村上政清・政国父子が兵を小県に出す。海野小太郎持幸と戦い海野チバ城のつめ口を取る。政清小県を侵す。以後戦国時代となる。

 千曲市寂蒔325-1 東特巻線㈱(☏242-3131) 海野安綏(s13.3.7生)
 千曲市八幡2246㈲海野鉄筋工業所(☏272-2634)海野竹雄(s12.1.10生)

 千曲市の海野家は17軒あります。(電話帳調べ)

 旧更埴市に8軒、戸倉町に海野家8軒、上山田町には海野家1軒あります。(電話帳調べ)

坂城町の海野氏

 埴科郡坂城町坂城6261   海野 泉(☏0268-82-2003)
 埴科郡坂城町坂城6105-4  海野義雄(☏0268-82-4610)の3戸あり。

(平成14年(2002)12月発行のJAちくまに海野義雄さん御家族の記事が次の通り掲載されていました。坂城町南日名の山ふところの斜面に広大なリンゴ畑が続きます。晩生種の主力品種「ふじ」の収穫が真っ盛り。休憩所を兼ねた作業所「古城園」がリンゴ畑の中にあり、出荷作業に忙しい海野さんご家族。「この辺は粘土質で、南西に向いた斜面は日当たりも良く、色着きと食味は抜群ですよ」と、リンゴ栽培一筋に生きた義雄さんと玉子さんは口をそろえます。 義雄さんは幼い時に父を亡くし、人徳の厚い祖父に家族同様に育てられました。その伯父が戦中、紅玉や国光などリンゴ栽培を手がけ、そのことが今の海野家の果樹栽培の基礎となっています。伯父の息子さん(義雄さんの従兄弟)も戦後の坂城地区でのリンゴ栽培の先駆者となり、その影響を強く受け、従兄弟から栽培技術を学びながら、共に栽培に励みました。 現在は政義さんが後継し、近接の果樹園も含め約250アールの規模で栽培しています。「苦労して築いたリンゴ園、経営を継いでくれて、親としてうれしい限り」と義雄さんは目を細めます。政義さんは義雄さんの期待に応えて、県農業大学校営農学部で果樹を先行した後就農。「少年の頃からリンゴの木に囲まれて育ったので、気負いもなくごく自然の選択でしたね」。父と一緒に栽培しながら技術も受け継いできました。「いろいろと意見の違いもあるのですが『父の経験に勝るものはない』と、収穫の時に感じます」と政義さん、全てを任された今、季節的な労力配分を考え「晩生種オンリーの克服」のため、早生種・中生種の新品種への転換も計画的に進めています。また中学生の地域農業体験学習では、受け入れ農家としてリンゴ園を学習の場に提供もしてきました。 奥さんの広子さんも子育てに励みながら、リンゴ園で働くお手伝いさんの送迎や、選果作業などで政義さんを支えています。翔君は3才、来年は保育園児。古城園はお手伝いで働く人などで、休憩時間はとても賑やか。自然と人のふれあいの環境の中で、元気いっぱいに育っています)

上田市の海野氏

 上田市の「石井家伝承系図」によると次の通りです。
 初代 石井(武石)幸邦 幸棟の次男幸邦は小次郎民部助・武石右兵衛尉
  諏訪氏に属し、小県郡武石に住し、これより武石氏を称す。
  大井氏の支配下にありて、天文9年(1540)7月諏訪頼重に属す。
  法名 高嶺院殿武石幸邦大禅定門
 2代 石井重信(棟喜) 石井小次郎隼人祐 石井左京進
  天文12年(1543)望月・丸子・小泉・室賀等に譲り、武田氏に属す。
  小県郡石井。海善寺本郷を宛行被る。
  主命により石井隼人祐と改む、居所を石井に移し、よって居所を姓と
  す。
  永禄10年(1567)海野家起請文に著名す
  法名 風積院殿石井信重大禅定門
 3代 石井重宗 石井助之丞 武石氏に属す
 4代 石井重之 石井金左衛門尉 
  上野国利根郡沼田城主真田伊豆守信之公命により奉仕。
  法名 円誉道忠
  室は備前国主松平相模守光仲公補佐 荒尾但馬守の女
 5代 石井重嗣 石井喜佐衛門尉 天正10年(1582)武田氏亡し、
  真田昌幸に属し、
  本領300貫文を安堵される。
  吾妻郡羽尾城主を命ぜられ、検地の上、羽尾にて相当の重恩地を賜 
  る。
  のち、家老として上田領の藩政を担う。
  元和8年(1622)信之公松代移封を機に隠居する。
  金剛寺村城代屋敷にて余生を送る。
  ここに葬られ、享保7年(1722)まで墓碑があった。
  移転し、新たに墓碑を米山城址に建する。
  里人は「石井荒神」と呼んでいる。
 6代 石井重政 天正3年(1575)5月21日真田信綱公に属し、
  三河長篠設楽ケ原討死
 7代 石井重親 石井舎人佐 天正13年(1585)8月2日の神川戦におい
  て粉骨する。
  慶長5年(1600)真田昌幸公高野山配流に随従。
  慶長20年(1615)5月7日に大阪夏の陣討死。
  法名 忠誠院一明了光禅定門
  上野国利根郡宇楚井村浄土宗天阪山正行院に葬る
 8代 石井重政 石井舎人佐 室は重嗣養女 実重綱弟舎人佐重親女
  真田河内守信吉公に仕える。 諸士頭 300名
  寛文6年(1666)8月20日卒 法名 養成院重誉三光居士
 9代 石井政茂 石井主殿助 真田沼田藩士 禄150石
 10代 石井重孝 石井喜沙門尉 真田伊賀守沼田藩主 
  鉄砲頭同心30人分預り、150石 
  天和元年(1681)11月12日 伊賀守改易被申渡
  12月8日 城請取並在藩目付沼田着
  12月9日 城回り並侍屋敷~19日まで 見分目付の案内役を勤む
  12月19日 沼田城引き渡し
  天和2年(1682)1月18日 期限にて侍屋敷明渡し完了、
  沼田近在に定住する。
  長女 恩田六左衛門尉成定の妻
  次女 青柳五右衛門順成の妻
  三女 岩下又右衛門の妻
 11代 石井信忠(棟重) 石井舎人政則 九郎右衛門信忠と改名
  妻は鈴子村塩入平左衛門の娘
  父重孝は沼田藩着先を見極めて信州に帰る。
  天和3年(1683)2月28日小県郡塩田庄保野村を定住の地と定む。
  新田の開拓を始め、刀を鍬に替え、不慣れな野良仕事に音をあげては
  ならないと己を厳しく戒め、不退転の決意を込めてと思われると伝え
  られている。
  法名 託生院一誉蓮心居士 宇保呂里に葬る
  妻 法名 成生院学誉了栄大姉 宇保呂里に葬る
  長男 石井信胤孫左衛門
  次男 石井信勝文左衛門
  三男 石井信成九郎右衛門
 以下略、以上の石井家の末裔の人々として、小県郡保野村(現上田市保野)に、次の方々が繁栄を続けている。
 石井審一・石井華一郎・石井市四郎・石井七四郎・石井清射・石井美郎・石井義一・石井新治・石井賢一・石井一平・石井一雄・石井袈裟春・石井重雄・石井典雅・石井信充・石井茂久・石井文郷・石井謹一・石井公共・石井佐助・石井三郎・石井章雅・石井堅・石井茂人・石井昭一・石井敏朗・石井博・石井文一郎・石井文夫・石井光男・石井幸男・石井吉男。
なお、小泉には石井家が64軒も居られます。
 
 小県郡岩下に住し、海野系岩下氏が姓となす。領所は小牧・岩下村を領す。世俗小牧殿と称し、岩下幸兼・幸邦などあり、岩下幸邦の弟にして、上之条に住み、竹鼻二郎左衛門と号し、のちに横尾領横尾但馬守と号し、世俗横尾殿、曲尾も小県洗馬地方には海野系半田氏も繁栄発展を続け屋代雨宮にも半田氏がおる。

 上田市古里132 ㈱アグロ信州(☏23-2135)代表取締役 海野晴彦
 上田市古里132 ㈱アグロ信州       取 締 役 海野 寛
 上田市古里37-5-B3  海野勝洋 (☏22-0915)
 上田市上丸子362    海野 正 (☏42-6299)
 上田市大屋10-6    海野広三 
 上田市下塩尻120-3-32 海野博之 (☏22-5736)
 上田市芳田1380-84  海野良三 (☏236-4017)
 長野大学社会福祉学部 海野恵美子教授 女性・高齢者の働く場を
 長野大学生活協同組合 海野英顕    恋愛や人生の相談に回答

 上田市の海野家は5軒ある。(電話帳調べ)

東御市の海野氏

 東御市滋野乙1302㈱タイヨーエンジニア(☏62-1700)に海野武幸

 東御市には海野家を名乗る人は一軒もない。

             

小諸市の海野氏

 北佐久郡滝原村(現小諸市滝原)には、30余戸の白鳥姓の方々が存在しておられます。家紋は「対雁金」紋であり、海野から滝原村へ入植したといわれる。
   滝原村発願主
     白鳥 佐太夫
     白鳥 久兵衛
     白鳥藤右衛門
     白鳥 権之助
    天明7年(1787)8月12日
 上記の絵馬を白鳥神社に滝原村の代表4名が掲額している。
 8月12日は、本海野村の例大祭の日である。天明7年は、浅間山の大爆発で「天明の飢餓」と大災害が連続した年である。その直後に奉納されたのであろう。 
 海野氏第26代海野小太郎氏幸(応仁元年(1467)村上氏と戦い戦死する)
海野小太郎幸種(海野氏第27代幸棟より分家したと思われる)―海野和泉保幸―海野備後守幸忠―海野主膳宗幸―海野和泉幸澄―海野與惣兵衛幸厚(世はまさに戦国時代である、天文10年(1541)武田・諏訪・村上の連合軍に敗れ、海野家は各地に逃げ延び、名字をそれぞれ変えている)
 海野與惣兵衛幸厚の弟か子どもが、白鳥姓に改姓して、滝原村の地域に移住ししたのではないだろうか。

 海野和男(昆虫写真家)さんは、昭和22年(1947)東京生まれの昆虫を中心とする自然写真家。もの心ついたころから昆虫の魅力にとりつかれ、少年時代は蝶の採取や観察に明け暮れる。東京農工大学の日高敏隆研究室で昆虫行動学を学び、大学時代に撮影した「スジグロシロチョウの交尾否行動」の写真が雑誌に掲載され、それを契機にフリー写真家の道を歩む。
 海野さんは、東南アジアや中南米など世界各地で昆虫を撮影して、平成2年(1990)4月に小諸市大久保にアトリエを構えた。
 著書「昆虫の擬態」(平凡社)は1994年日本写真協会年度賞を受賞した。
最新刊に写真集「蛾蝶記」(福音館書店)。またNHKBSTV「海野和男の熱帯昆虫紀行」などに出演するなどテレビでも活躍、異次元から見た世界を追っている。自然科学写真協会副会長・日本昆虫協会理事。
 東御市で撮影したオオルリシジミの交尾・佐久市のフクジュソウに止まったニホンミツバチ・東南アジアで撮った花の擬態をするハナカマキリなどの写真が目を引きます。詳しくは小諸日記

 小諸市平原1043-35 ぎようせい(☏23-2841) 海野一男
 小諸市大久保2353  海野和男氏の2軒のみあります。(電話帳調べ)

 

佐久市の海野氏

 白鳥山陽雲寺 佐久市臼田町中小田切616  ☏0267-82-3705 
 浄土真宗大谷派 本尊 阿弥陀如来 住職海野章一師 家紋結び雁がね
 詳細は、「海野系寺院」をご覧ください。

 信州佐久郡湯原村(佐久市)は、小田切村と隣り合ってできた集落で、ともに相当の古村である。
 小田切村(佐久市臼田町)は、弘安2年(1279)に、一遍上人がこの村の武士の館で、踊り念仏を始行しており、一遍聖絵(六条縁起)には村の一部が写生されている。
 小田切氏も、臼田氏と同様滋野氏の一支族とされている(滋野三家系図)。承久の乱の参加者に小田切奥太があり(宇治川渡河戦)以下室町戦国時代にかけて小田切駿河守幸長以下、地方文献に名を出している小田切氏は少ない。
嘉歴4年(1329)の「御射山頭役結番事」に小田切左衛門尉が見える。さらに「諏訪御符礼古書」になると、前後10数名の小田切氏が登場している。
 臼田氏・小田切氏・湯原氏の三氏は地理的にも血縁的にも、緊密な関係にあったことは想像される。
 臼田氏が早く佐久を離れ小県方面に転出したが、湯原氏も一部は湯原村に残存していと思われる。湯原城陥落の際はその縁を辿って、小県方面に残存した臼田氏を頼り、或いは遠く関東に移った臼田氏を頼って、常陸方面まで移住したのではなかろうか。
 常陸国稲敷郡羽賀(江戸崎町)を本拠として有力な土豪となっていた臼田氏を頼って、その近在の霞ヶ浦南辺の阿見町を中心の地帯に定着した湯原氏ではなかろうか。
 阿見町(稲敷郡旧阿見村・朝日村・君原村・船島村の一部が昭和34年合併)で、町内の若栗86戸・島津15戸・立の越5戸・西郷4戸・飯倉2戸に計112戸もある。その他、土浦市20戸・美浦村3戸・江戸崎町5戸・竜ヶ崎町29戸・利根村4戸・牛久町2戸等に分布して、下総分の栄町6戸・印西町2戸と湯川氏が存在している。詳しくは「海野史物語」の臼田文書と海野庄を参照ください。

 佐久市の海野家は2軒あります。(電話帳調べ)

飯田市の海野家

 シチズン平和時計㈱(☏0265-28-1500)代表取締役海野幹夫(H19現在)
 シチズン時計

 飯田市の海野家は2軒あります。(電話帳調べ)

諏訪市の海野氏

 諏訪市元町1-14(☏58-1121)㈲山大海野物産 海野秀男(S9.9.18生)

 諏訪市の海野家は2軒あります。(電話帳調べ) 

辰野町の海野氏

 倉沢健郎さんは「私の先祖は海野氏です」と資料をいただき、それによると次の通りです。
 親忠 橘氏、京都六条河原で戦死
 親基 南木曽町三留野、佐久にのがれ後に上野沼田に移る
 親茂 上野沼田に生れる
 親家 沼田姓を名のる、甲斐・鎌倉・木曽へと移る
 親仲 沼田姓 木曽に移住
 親教 沼田姓 木曽に移住
 親貞 沼田姓 木曽家定(弟)と北信に赴く
 忠宗 兄忠宗倉沢姓に改め親範と改める、弟親頼前山姓を名のる
 忠正 滋野姓を名のる
 忠景 八島姓を名のる、東信濃に移り晩年木曽へ戻る
 忠定 根ノ井姓を名のる
 親光 倉沢姓を名のる、伊那在住、のち但馬守重清と号す
 親道 倉沢姓を名のる、伊那在住
 親方 倉沢姓を名のる、伊那在住、のち左衛門佐政清と号す
 義忠 倉沢二郎とも称し、伊那在住
 義治 木曽で育つ、倉沢姓を名のる
 義景-景正-景斉-景栄-景陦-景陳-景臣-景長-景央-景辰(明治初期)-景誠-千景-健郎(義忠以降第15代目)と続いている。

白馬村の海野氏

 祥雲山貞麟寺 北安曇郡白馬村大字神城字沢渡6485 ☏0261-75-
                              2620
 曹洞宗 本尊 聖観世音菩薩 住職 21世 海野喜充師  家紋六連銭
  詳細は、「海野系寺院」をご覧ください。

 白馬村の海野家は、この住職のみです。

安曇野市の海野氏

 安曇野市高家中曽根4733(〒399-8204) 海野邦幸

 そのほか長野県には201軒の海野家がある。(電話帳調べ)

松本市の海野氏

 北林山西方胤極楽寺 松本市深志2-4-27  ☏0263-35-1753
 浄土真宗本願は 本尊 阿弥陀如来 住職 26世海野一生師
 詳細は、「海野系寺院」をご覧ください。

 西生寺  松本市大字島立字北栗3932   ☏0263-47-0938
 浄土真宗本願派  住職 海野乗昭師
 極楽寺の隠居寺として、寛永14年(1637)6月、善性和尚創建する。

 松本市の海野家は13軒あります。(電話帳調べ)

 茅野市に6軒、伊那市に8軒、飯山市に5軒、下諏訪町に3軒と長野県には201軒の海野家がおります。(電話帳調べ)

北海道の海野氏

 覚英寺 札幌市豊平区豊平1条4-2-30  ☏011-821-4114
 浄土真宗本願寺派  住職 海野覚爾師
 詳細は、「海野系寺院」をご覧ください。

 海野義昌  札幌市中央区南6条西8丁目  ☏011-52-1375
 昭和54年「老壮の友」3月号(日本老壮福祉協会発行)によると、北海道札幌市に在住の海野義治さんは110才で、北海道の男性第一位の長寿者です。
 翁は慶応4年4月27日に函館市中浜で父義智(85才没)と母つた(99才没)とに生れて間もなく両親に伴われて、小樽の奥沢に移住して、旅館を経営し屋号を「本陣」と称した。
この海野氏の先祖は…………第29代海野小太郎左京太夫幸義(村上義清との合戦の時戦死)―海野四郎幸綱(真田弾正忠幸隆の弟で、武田信玄に属し天文6年(1537)8月3日甲斐府中にて病死)
 初代海野六良衛義綱(穴山義宗の六男養子とし、
  真田幸村に仕え高野山に蟄居、大阪城で元和元年(1615)5月6日戦死
 2代海野左兵衛幸知(越前国敦賀郡敦賀川向村で、幼名秀千代、寛文10
  年(1670)9月23日病死)
 3代海野左七郎義昌(寛文8年(668))名役元禄11年(1698)6月6日病死)
 4代海野左兵衛幸宗(元禄10年(1697)名役、享保13年(1728)5月16日病
  死)
 5代海野左吉郎義氏(享保13年(1728)名役、享保18年(1733)3月23日病
  死)
 6代海野左七郎幸経(父の名役を継ぎ延享元年(1744)3月16日病死
 7代海野左兵衛義国(延享元年(1744)6月8日浄徳寺孫助の次男を養子、
   安永3年(1774)2月2日病死)
 8代海野左兵衛幸安(文化2年(1805)1月13日病死)
 9代海野左吉郎義信(文政5年(1822)10月31日病死)
 10代海野左吉郎幸長(文政6年(1823)8月7日病死)
 11代海野左七郎義知(天保10年(1839)浄徳孫兵衛の四男を養子、
   明治2年公用を帯び北海道後志国小樽郡に転住する、のちに小樽郡
   戸長)
 12代海野次郎義治(明治13年(1890)明治天皇がご巡幸の際、札幌に向
   かわれ天皇の先導を勤める。17~18才の頃、単身横浜に出て貿易
   商館に勤務のかたわら諸学校で簿記を教えたりし10年、小樽に帰り
   家業を手伝い、30才で「とく(20才)」さんと結婚。とくさんは昭
   和33年80才で死去された。明治30年頃、旭川に転居して第7師団
   の御用商人となる、その間に2男2女をもうけ、明治36年に札幌に
   移り郵便局に奉仕後札幌石材会社に移り、大正2年頃再び旭川にも
   どり、富士電機会社に入社して定年まで勤務した。  
   (次男義昌方に隠居)
 13代義昌(義治の次男、妻とめよ)
 14代隆義(義昌の長男、妻信子)と続き、地域で活躍されておられます

 北海道には162軒おられます(電話帳調べ)

青森県の海野氏

 
 陸奥(青森県)の三戸郡市野沢の下洗にも海野氏がおり、三戸南部氏と共に、この地に来て「笹りんどう」の紋を伝えて今におよび多くの海野氏23軒がおられます。

秋田県の海野氏

 秋田県には8軒おられます(電話帳調べ)

岩手県の海野氏

 花岩山永昌寺 北上市更木33-105 ☏0197-66-4240
 曹洞宗 本尊 本師釈迦牟尼佛 住職 海野義清師
 詳細は、「海野系寺院」をご覧ください。

 奕葉山久昌寺 盛岡市大慈町1-5  ☏019-622-2378
 曹洞宗 本尊 釈迦年尼佛 住職 海野講栄 副住職 海野朋孝
 詳細は、「海野系寺院」をご覧ください。

 遠野市大工町1-3  海野吉之助  ☏62-2442
 遠野市中央通り   海野洋之   ☏62-8630

 岩手県に26軒の海野家がおおられます(電話帳調べ)

山形県の海野氏

 明善寺 山形市七日町5-9-3  ☏023-622-3537
 東北電力山形支店の角地から東に二つ目の道路を北の方向に歩くと、右手に時代劇に登場するような奥深い寺院の参道と門が見えてきます。
 門をくぐると正面に現れる本堂は普通の仏閣の外観とはかなりことなり、和風の木造建築でありながら不思議にも南アジアの寺院のようなムードを放っています。
 向かって左の塔楼が鐘楼、右側にが太鼓楼が配置され、本堂の大屋根も斜面が左右に流れている建築様式は日本の寺院としては異例です。
 設計は日本近代建築の重鎮である米沢市出身の伊東忠太博士で、主な作品としては東京の築地本願寺や京都の平安神宮などがあるほか、知勇獄山西省の雲崗石窟寺院の調査でも知られている。
 明善寺は江戸時代前期からの歴史がありますが、現存の本堂と塔楼は昭和9年(1934)の建築で、平成14年に国の登録文化財になりました。(山形歴史たてもの研究会/小林和彦より)
 詳細をご教示お願いします。

auto_RI1eZ4.jpg 明善寺

山形市沼木の海野由美子さんの菩提寺である若宮寺をご案内していただきました。
 そのご住職様から海野氏の由緒について、お話をお聞きしました。
 出羽海野氏は永禄2年(1559)に信州から高崎に移住する。
 (この年は武田信玄が西上州を攻めている)
 同6年(1563)に高崎より出州へ下向して(このころは真田幸隆は鎌原城主羽尾道雲入道(幸全)の留守を聞き奪い返した)一族郎党と共に出羽国寒河江庄に来る。
 寒河江城主大江高基公の介抱に預り、のちに郡奉行申し付かり知行300石となる。
 朝日町の海野氏の初代海野信治は武田信玄の孫であり、初代海野信治の
   父は、武田信玄の二男(海野次郎元治=竜法)である。
 2代 海野忠治下総、次男海野善次郎長女・大谷白田監物の妻、次女・
    高田庄右衛門の妻
 3代 義治下総と改名・次男海野助衛門・三男善兵衛長女
 4代 善六 42才で死亡・次男善九郎長女・次女
 5代 善七治右衛門・長女宮宿柴田七郎右衛門妻
 6代 善右衛門
 7代 光三郎次男寛兵衛・長女島七郎秘儀衛門妻
 8代 善七長女吉村鈴木治右衛門妻・次女八沼
 9代 与三郎・次男義三郎・三男加藤治・長女川通島平内妻
 10代 善七、安永7年(1778)34才死亡・次男卯之助・
    長女伊藤六右衛門妻・次女田村柏倉六右衛門妻 
 11代 善七次男松之助・三男松之助・長女大谷白田長三郎妻
 12代 善七次男竹次郎・長女島藤源太郎妻・三男林治大巻菅井勘六養子
 13代 善七次男善作(分家丸山海野孝多)森治(分家海野善六)
 14代 善四郎子供善三郎・善四郎妻杉下
 15代 善三郎 妻真中
 16代 善七  妻橋上
 17代 信晴  妻上ノ原(現在寒河江に移住) 平成3年6月死去
 18代 ?   と続いておられます。
 甲斐夫人は、上杉景勝の室で、初代海野信治のおばさんに当たる人で、海野次郎元治=竜法の妹である。初代海野次郎信治のおじさんに当たる人が武田信清(武田信玄7男)である。菩提寺の由緒歴史は次の通りです。
  
 若宮寺  山形県西村山郡朝日町山中244   ☏0237-67-2458
 正平年間(1346~70)五百川若狭が弘法大姉の霊感により、大日如来を西船渡に祀り、一寺を建立したと伝えられている。
 慶長5年(1600)に上杉勢が五百川に侵攻の際に全焼する。
 同17年(1612)に配下としていた山野辺城主山野辺右衛門義忠(最上義光4男)か゜現在地に移転し、第一世尊孝法印は若宮中興の名僧といわれ復興に活躍されました。

auto_uu2iXt.jpg 若宮寺
 
山形県には168軒の海野家がおられます(電話帳調べ)

福島県の海野氏

 
 無為山泥洹院康善寺 福島市五月町8-20 ☏0245-22-3468
 浄土真宗本願寺派 本尊 阿弥陀仏尊像 住職 25世海野卓哉師
 詳細は、「海野系寺院」をご覧ください。

 専修山安養寺  伊達市梁川町清水町19   ☏0245-77-2345
 浄土真宗本願寺派  本尊 木造薬師如来坐像  住職 海野寿夫師
 詳細は、「海野系寺院」をご覧ください。

 この寺と長野県須坂市の普願寺と関係が深い寺院である。
 檀家の人々の中に須坂方面から会津に移った人たちがおられるとのことです。
 詳しくは次の通りです。

(大岩山普願寺 須坂市大字小山(南原町)353 ☏026-245-0305
浄土真宗  住職 業田照賢師 副住職 業田昭映師(なりたしょうえい)善光寺に匹敵する敷地で約5,000坪はあるかも、檀徒は1,500戸にも、文化活動も熱心で、故植木ひとし・さだまさしらの催しを毎年開き、平成25年には中村美津子さんの演歌を楽しんだ。鎌倉時代に現在の埼玉県秩父に開かれたのが始まりと伝えられています。南北朝時代に本郷付近に移り、正和3年(1314)に本願寺覚如上人より「普願寺」寺号を賜り、文明5年(1473)に現在地に移る。元和3年(1617)には須坂藩主が陣屋を完成するまで仮宿として利用するなど関係が深かったとされています。また、須坂の豪商田中家の菩提寺として多くの寄進を受けています。現在の本堂は寛保2年(1742)に着工、延享4年(1747)に完成され、須坂を代費用する寺院建築として平成4年に鐘楼(嘉永4年(1851建築))と共に須坂市指定有形文化財に指定されています。本堂の大工棟梁は越後国三島郡本与板村の丸山武兵衛である。鐘楼は亀原和田四郎嘉博作である

auto_fI0wIu.jpg 普願寺

当地に30軒位の海野家がおられます。
 
 新鶴村に次の海野氏が在住されておられる。
 海野国雄 78-3018    海野幸喜 78-2120
 海野重雄 78-3022    海野静夫 78-2084
 海野晶子 78-2080    海野哲夫 78-2090
 海野利意 78-3017    海野政栄 78-3019
 海野芳明 78-2193
 福島県には91軒の海野家がおられます。

宮城県の海野氏

 登米郡米山町桜岡の待井  海野栄治氏はじめ10数軒あり
 電話帳で調べると、宮城県には76の海野家がおられます。

茨城県の海野氏

 
 常陸の国(茨城県)に海野氏がいる。来歴は不明であるが、戦国時代の永禄の頃、山野尾城(または串形城ともいい、多賀郡十王町友部にあった)の城主小野崎義昌の家中に海野安太郎あり、義昌は佐竹義昭の子で、小野崎成通の養子となったが、その際佐竹家から附入として来たという。

 天文13年に信州から上州に移った海野棟綱の一族が、更に常陸に赴いたともいわれている。また、同じ日立市に、代々五郎兵衛を襲名する家もあり、当初は「六文銭」の紋を使用し中途から「七曜」に改めたという。
現当主海野喜七氏。

 海野一之 『那珂郡那珂町鴻巣953 一乗院法満山千平寺(真言宗智山派)の菩提寺』が家系図本を発行(平成4年1月)されました。それは『東京都武蔵野市関前4-8-33(☏0422-53-5420)』にお住いの小林静枝さんが「常陸(那珂)鴻巣海野氏の系譜」(全326ページ)という題で、非常に詳細に書かれておられます。

これによると、次の通りです。
 柳継親王-1代海野-2代海野氏祖行長-3代行勝-4代長男・三男が陸
      奥国 
 5代 胤宗 慈恩院前衛舎義山圓識禅定門 承安4年(1174)享年64才
    妻  真解院淳定妙塔阿姉 嘉応2年(1170)
 6代 勝股 常春院前萄門玄義道仙禅定門 建仁元年(1201)享年62才
    妻  浄輪院貞室妙空禅定尼 建久4年(1193)
 7代 邦起 鎌倉将軍源實朝代旗本 畠山旧領8千石拝領して武州へ赴任
 8代 勝序 法相院自性道雪居士 延応元年(1239)享年69才
    妻  貞園寺真諦妙定禅定尼 延応2年(1240)
    弟覧易 宗閣道玄(秩父重忠戦で討死) 元久2年(1205)享年24才
 9代 穏茂 白露舎前吏官写山了月禅定門 文久7年(1270)享年68才
    妻  知春院花山貞室近事女 建治元年(1275)
 10代 満辰 帰西院前中席道雪了義近事男 嘉元2年(1304)享年70才
     妻 円如院浄好観月近事女 延慶3年(1310)
 11代 延勝 藤舎前下玄如道泉居士 元徳2年(1330)享年68才
     妻 自空院転月浄光妙尼 嘉歴元年(1326)
 12代 親祝 足利基国客臣なり下野に行く、足利猶子、加門、源姓に改
       む
 13代 貫寛 桐林前侍令慈雲浄閣居士 貞治6年(1367)享年70才
     妻 理定院幸相妙玄阿姉 康安元年(1361)
 14代 矯当 荀門実体蓮茂大禅男 応永15年(1408)享年71才
     妻 善光妙園大師 応永16年(1409)
 15代 節章 駿河足利持氏陣参陣、持氏の一字拝領、海野信濃守氏章と
       号
 16代 勝著 浄心院前楯谷露山道空居士 寛正元年(1460)享年72才
     妻 摂取院貞郭妙恒禅定尼 享徳元年(1452)
 17代 亮都 応仁元年6月、鎌倉府本丸旗本、足利政知御用所勤務
 18代 邦潔 明応2年(1493)和光院安楽寺草創(徳川光圀代より養徳院)
 19代 勝並 皖蓮社淳誉道詣禅定門 享禄4年(1531)享年69才
     妻 喜見院棺誉妙街阿姉 天文3年(1534)
 20代 庸誦院信誉道泉居士 天文13年(1544)享年57才
     妻 宥泉院妙極大法女 天文21年(1552)
 21代 股顕 今川義元陣天文11年参陣、足利仕、駿河に住む
 22代 貞慰 浄知院證誉了閣大近事男 永禄11年(1568)享年49才
     妻 穹室□誉妙相法女 
 23代 茂周 景林實覚了義禅定門 慶長16年(1611)器用年65才
     妻 相嫣妙雲近事女  慶長14年(1609)
 24代 貞顕 自当代正武臣、水戸トン側頼房代、
       寛永18年御検地帳御改時記名印焉 時56才
 25代 紹方 治郎右衛門
 26代 縫左衛門 青松道元信士 正徳3年(1713)享年72才
     妻 落葉妙林信女 享保3年(1718)
 27代 勝幹 吉左衛門 得富深緑信士 延享5年(1748)享年82才
     妻 良観浄識清信女 寛延元年(1748)7月12日より寛延となる
 28代 敏元 吉左衛門 鑁明浮水清信士 宝暦10年(1760)享年66才
     妻 紫雲妙綿清信女 天明8年(1788)
 29代 勝照 吉左衛門 阿光徹心清信男(逆修)飯田法満山一乗院住
     妻 同本円妙到信女 権現僧都法印有栄代授与
    先妻 芳菊妙董清信女 天明元年(1781)
 現在まで続いて地域で活躍されております。

 〒316-0036 日立市鮎川町6-5-32 海野あきの(☏0294-35-8286)の情報によると、鮎川町に13軒、旧壱浦町川尻と旧国分村大久保に6軒の海野家がおるそうです。
 
 日立市田尻   海野 忠
 勝田市中根   海野正元      中根に29軒あり

 日立市に120軒、水戸市に126軒、勝田市に76軒、常陸太田市28軒

 那珂町に155軒(鴻巣31、後台27、杉19、門部18、菅谷18)また吽野(うんの)氏が那珂町に57軒(鴻巣51軒、後台1軒、菅谷5軒)そして宇野氏が那珂町に8軒(鴻巣2軒、杉1軒、菅谷5軒)おり、那珂町鴻巣では、高畑・吽野・海野・大内・細谷姓が特に多いが、海野姓は第3位である。
 この那珂町雌雄辺は、奈良朝末期から北関東の豪族佐竹氏の支配下であった。鎌倉時代から戦国時代にかけて、多くの士族が興亡したが、結局、常陸太田に城を構えた佐竹氏が常陸を統一した。
 江戸時代には、佐竹氏が出羽秋田に転封され、代わって親藩御三家の水戸家の時代となったころ、海野家の人々の中にも、官を離れ、武士を捨て、濃に就いた人も多いのであろう。
 水戸藩でも、2代光圀の代からすでに藩財政の困窮は、表面化して、藩士の生活難も、しだいに深まっただけでなく農村でも田畑の荒廃が目立ち、人口が減少し、農業生産力がも衰えていったという。このような窮状の中、海野姓の人々は、一団となって互いに手を取り合って、生き抜いてこられ、親から子へ、子から孫へと「先祖の地は信濃国の海野である」ことも語り継がれてきたことであろう。

 茨城県には海野家が704軒もおられます。

栃木県の海野氏

 足利市の白鳥家所蔵の家系図によりますと
 海野氏第26代海野小太郎氏幸(応仁元年(1467)村上氏と戦い戦死する)
海野小太郎幸種信濃守(海野氏第27代幸棟より分家したと思われる)――海野和泉保幸―海野備後守幸忠―海野主膳宗幸―海野和泉幸澄―海野与惣兵衛幸厚(海野邑の地に始めて民間に下り白鳥姓に改姓する、世はまさに戦国時代である、天文10年(1541)武田・諏訪・村上の連合軍に敗れ、海野家は各地に逃げ延び、名字をそれぞれ変えている。幸厚の弟白鳥勘右衛門幸邦白鳥修理は中野市間山の海野氏の祖となる)―白鳥三左衛門幸輝の弟白鳥市兵衛元幸が元和6年(1620)(今から約380余年前)御公儀より西間村(現在の長野県中野市の中野扇状地の西南端の湧水地帯で、中野西高校の辺)の開拓を命じられる。
 新田開墾の棟梁は当家の始祖である。ここが足利白鳥家の発祥の地である。家紋は州浜です。
 なお、海野家の存在する間山集落及び作曲家の中山晋平の生家も近いところにある。

 電話帳で調べると、栃木県に48軒の海野家がおられます。

千葉県の海野氏

 
 「三つ蝶」「雁金」「州浜」の家紋を伝える流れもあり、現当主海野武幸氏は流山市に居住している。

 千葉市に44軒、市川市に29軒、松戸市に23軒、船橋市 に19軒、大網白里町に10軒、柏市に9軒、流山市に9軒。野田市に9軒、市 原市に8軒と千葉県には海野家が220軒おられます。

埼玉県の海野氏

 
 威徳山班渓寺 〒355-0225 比企郡嵐山町鎌形1907 ☏0403-62-2150
 班渓寺は曹洞宗の寺で威徳山班渓寺といいます。この寺の梵鐘に次の文字が刻まれているそうです。「木曽義仲 長男 清水冠者源義高為 阿母威徳院殿班渓妙虎大姉 創建スル所也」
 妙虎大姉(山吹姫)が我が子義高を頼朝によってその追ってに殺害され、夫義仲と子の義高の菩提を弔って、母の山吹が、この寺を建てたという。
 寺の前には「木曽義仲公誕生之地」の石碑が立っています。寺の境内の裏に竹藪があり、そこに清水が湧き出ているそうです。その清水も義仲産湯の清水と思われているそうです。その辺りを木曽殿坂とか木曽殿館跡というそうです。

auto_EhMkX0.jpg 鎌形の班渓寺

(木曽義仲には何人かの女性がいたようです。彼の妻として有名なのは巴御前です。数ある諸説には義高の母はこの巴御前になっているものもあります。巴御前といえば京の都で畠山重忠との一騎討ちの話が知られているようです。そこで面白いのが、幼い駒王丸(義仲の幼名)を助けた畠山重能がいて、重能は重忠の父にあたります。木曽義仲に一時は味方した畠山重能と、義経らと共に義仲を討った畠山重忠がいるわけです。『吾妻鏡』などを読むと、最初平氏方の畠山重忠が源頼朝と出会い源氏方に付いた経緯がわかります。このへんが平氏と源氏の逆転劇のヒントになるようです)

 話が逸れたので元に戻って、木曽義仲のもうひとりの妻がここ班渓寺に眠る山吹姫です。山吹姫は木曽の中原兼遠の兄にあたる2男の兼保の娘だといわれいる。海野兼保は、中原兼遠の実兄で小県郡の豪族海野家の養子となり、山吹媛が歎じようした。
 巴御前と山吹姫は重複するところがあり、共に女武者で幾多の合戦に参戦しているようです。定説では義高の母は山吹姫であることになっているようです。
 又班渓寺には「威徳院殿班渓妙虎大姉」と書かれた山吹姫の位牌が安置されて、墓碑が境内の墓地に建っている。
 なお信濃国の東塩田(上田市)にも、巴・山吹姫の墓がある。

auto_bJhlXF.jpg 山吹姫の墓

 海野楊斎(医師の墓石) 本庄市中央3-3-6 若泉山安養院無量寺の墓地内  墓石の高さ120㎝、台石40㎝の碑文である。
 翁名は敦、号は槐庵。父は殿木四郎と言い、駿河海野村海野僧嶺の娘をめとり、翁を江戸にて生みて没す。4才、祖母翁をひいて駿に返り、授くるに書を以てす。8才、文選を読み、帰りて花岡流宮川氏に随ウ。18才海野氏を冒す。 21才房州の蘭学某に学ぶ。25さいにして還り、江戸に開業す。28才緒方氏を師とす。30にして返り、開業す。公候、治を求むる者おびただし。翁、紛譁を厭い、嘉永6年小川に移る。後上州境にうつる。文政3年、武州本庄に転ず。明治12年8月21日没す。歳70.安養院に葬る。翁、細目にして豊下、襟期・高邁たり。舎蜜・兵津と火器を造り外科器をつくるとより、以て鉄筆・隷字に至り皆其の妙を極む。しかして時に或いは、吟哦・遊猟し、世表に脱落す。然るに其の才を展ること能わずして没す。命なるかな。詩有りて云う。「医を学び 兵を学は、規無きがごとし。兵は詭道を要し、薬は奇を要す。若くし 詭奇を以て大意を論ぜば、人・身・家・国是れ同て治む」。其の志知るべきかな。嶋立甫曰く。
     海 野 楊 斎 墓 
 治術は、坪井・竹内・大槻・伊東より浮る。祖母、本居氏を師とし、元加州の娘某君の師たり。翁の成就・才識もまた淵源有るなり。弟は賢助という。2姉有り。子無し。妻田中氏、後事を経理すと云う。
 明治12年8月        元安中儒員佐々木溥 撰文
 
clip_0101.jpg 本姓 田中海野政女石を建つ

 上記の書類を埼玉県北本市北本宿182-7 金子幸生 ☏048-592-5616
からいただきました。何か手がかりをご教示ください。

 平成5年6月中旬に海野一族(兄弟・姉妹)9名で遠祖の地(海野宿)を訪ねられた。
 所沢市     海野 一男
 飯能市     三輪 信男・澄子(旧姓海野)
 飯能市     海野 武人
 入間市     吉原 文雄・里子(旧姓海野)
 日高市     海野 昭夫・京子
 東京都東大和市 小川 正子(旧姓海野)以上9名は茨城県のご出身である。
 三輪澄子さん・吉原里子さん・小川 正子さんも茨城県の海野家から、海野京子さんは茨城県の海野昭夫さんと結婚されている。

 井出(会田)清右衛門 南崎玉郡出羽村(現越谷市)
 海野幸氏の支裔、故ありて、井出郷に住んで、井出氏を称す。
 その名を立て、志を遂げんとして、信州を去り、武蔵に移り、越ケ谷駅吏を勤める。同門会田出羽のもとに赴く。シカシデを没する。
 その子、幼少の故、会田と改めて越ケ谷町の名主を勤める。出羽の子が長ずるに及んで、その職をその子に譲り、美田が広がる桃戸郷(七左新田)に家を建てて移り住み、七左衛門世襲名主の基を開いた。寛永(1624~44)年間に死去。
 その跡は養子井出三右衛門が継いで、姓を再び井出氏に改め英敏と称した。その才能は人に優れ、関東郡代伊奈氏に仕え、利根川・江戸川の修治にあたったが、元禄(1688~1704)年間には租税の吏に任ぜられた。この間伊奈氏の重臣酒井氏に精勤抜群のかどで賞を賜った。享保14年(1729)に死去。
 その跡を継いだのは喜太夫と称したが生来、学を好み識量豊で、はじめ官学所で幕政を学び、帰郷後伊奈氏に仕え、武州総州の農政に尽力する。寛永4年(1775)に死去する。
 その跡は義資と称し、四時粁と号した。権蔵が井出家を継いだ。生来才気にすぐれ、独立心強く、捷才、安永(1772~80)年間の洪水には、道路の水除堤を決壊しようとした上郷村の衆を、快力をもって撃退させ村人の信頼を一新に集めた。天明4年(1784)に死去する。
 その跡は清右衛門が継いだ。学を好み、気宇広大、越ケ谷駅長(問屋)を兼務したが、とくに訴訟・法論を弁士頼まれて出席することが少なかった。のち越ケ谷の別荘に移り財産を蓄積した。文化5年(1805)に死去する。
 その後は田中氏より養子が井出家を継いだ。智義と称し春耕幹と号した。生来実励にして、志厚く、かつ神仏を敬う念が強かった。
家業のかたわら子弟に読み書きを教え、その名を高めた。文化2年(1805)に死去する。
 その跡は、その子の勇蔵が継いだ。生来温厚親に孝、学を納めて土功水利に長じたが、さらに渦動抜芸にも長じ、訪れる文人墨客が多かった。天保10年(1839)に死去する。
 その跡を、その子門平が継いだ。幼くして父を失ったが昼は農耕、夜は学習に励み、万延元年(1860)から越ケ谷駅長問屋 を兼掌したが激務のため失明、衆人これをあわれんだが、その才能は死ぬまで衰えなかった。明治15年死去する。
 その跡を継いだのは門平の子庸造で梅香と号した。聡明・篤学・俊才で率先して農耕に奮励した。これを見習い村民は自ら一和した。明治維新にあたっては、県会議員も歴任し、明治22年の町村合併にあたっては、出羽村初代の村長に選ばれた。その徳は一郷に薫る。
 明治28年の春、梅香の嗣子斉義、庭中に碑を建立する。

 上尾市富士見町2-19-17(〒362-0041)海野洋義(☏048-775-4893)
 行田市               海野隆夫

 埼玉県に260軒がおられます。

群馬県の海野氏

 岩櫃落城後に僧となり、吾妻郡岩下村内野の天満宮別当となった海野氏がある。
 「天山見聞感録」に記載されている『当院中興記』「第11代順円、寛政6年(1794)」の記録にもあり。以来菅原神社の社掌祢宜として現在に至る、現当主海野信義氏は吾妻町岩下に居住している。

 吾妻郡嬬恋村田代  海野西五郎

 群馬県の電話帳で海野家は63軒がおられます。

東京都の海野氏

 三鷹市中原4-12-21   海野みずえ(☏0422-45-1204)
 三鷹市中原4-12-21   海野  力(☏0422-46-1867)
 江戸川区一之江5-7-17 海野 幸男(☏033-651-8809)
 東大和市湖畔2-325-64 海野美智子
 千代田区大手町1-9-5  海野 弘(評論家) 1939年生まれ、 
  早稲田大学文学部卒業。出版社を経て、美術・映画・
  音楽・都市論・華道・小説など幅広い分野で執筆活動に従事する。
  主著に『モダン都市東京』『プルーストの部屋』(中公文庫)
  『陰謀の世界史』『スパイの世界史』(文藝春秋)などがある。
 千代田区九段南3-9-11 海野和男
 世田谷区桜新町12-12-40 海野 修
 台東区竜泉1-25-2    海野徳弥

 明治大学文学部教授に海野福寿(昭和6年東京都に生れ)東大大学院修了、農学博士、静岡大法経短大部教授を経て、現職。近代日本経済史専攻。著書に「明治の貿易」等あります。 
 
 東京金管五重奏団(トーキンファイブ)の一人に海野貴裕がいる。彼は1985年東京コンセルヴァトアール演奏研究科ホルン専攻卆。ホルンを工藤光博・沖田安宏の各氏に師事。在学中より室内楽で公演・録音を行い、卒業後は室内楽を中心にバンドディレクターや後進の指導にあたる。数々の金賞をもたらし、久留島武彦文化賞受賞。
現在、FM放送録画・レコーディング・リサイタルをはじめ、全国で青少年のためのコンサートを開催、その数は年間180回にも及びます。
ためのコンサートを開催、その数は年間180回にも及びます。

 「世界の水道」(技報堂出版)著者の海野信好がおる。海野氏は精力的にヨーロッパ・北アメリカ等の水道を視察されていて、各地の事情がわかり興味深かった。これだけの事を殆ど個人的に調査で出版されたことに敬意を表します。

 「地図の史話」(雄松堂出版)の著者の海野一隆がおる。東西159点の地図との対話による興味あふれる読物。たわむれの地図・いつわりの地図・漢民族と砂漠・西遊記の世界像・アジア人の地理観など。

(海野勝眠は天保15年(1844)5月15日に水戸で生れ、幼名竹次郎。大正4年(1877)10月5日没、享年71才。別号は東華斎・芳州という、伯父の初代海野美盛。萩原勝平に師事し、明治初年に上京、明治10年(1877)第一回内国勧業博覧会で褒状、明治23年(1890)第3回同博覧会で「蘭陸王」で妙技一等賞、明治27年(1894)東京美術学校教授、明治29年(1896)帝室技芸員。三男は日本芸術院会員で人間国宝の海野清がおる。彫金家(1884~1956)東京生まれ、東京芸大教授、日本の伝統技法に西洋の題材・造形を融合させて創作を行った)

 上記のほかに東京都の海野家は506軒おられます。

神奈川県の海野氏

 横浜市栄区笠間4-10-1大船パークタウンB707(〒247-0006)
海野秀男(☏045-894-9575)氏は和同エンジニアリング㈱に勤めながら、孫のためにツールを調査されております。参考情報をお願いいたします。今までの調査経緯は次の通り………
 天暦4年(950)滋野幸俊が海野家の初代で、天正10年(1541)28代海野棟綱で海野宗家は600年の歴史に幕を閉じて滅亡しましたが、海野家再興の祖として傍系の羽尾幸全の息子の羽尾輝幸(海野能登守輝幸)がおったが沼田城主であった頃、彼を妬む者の讒言を信じた真田昌幸に討伐され沼田市岡谷町に市の指定史跡として教育委員会名で建立されている。  
そこまでは分りますが後の調査が暗礁に上がっている。
 沼田市岡谷町に海野能登守と子の幸貞が自刃した海野塚があり、その流れが茨城県水戸・那珂町周辺から福島県白河市の菩提寺である常宣寺(六連銭)に海野家累代の墓があるので逆に調べた処「海野甚蔵」がおりました。その間、白河市教育委員会より阿部家資料群記号Ⅰ先祖書のコピーを載き、その原書の冒頭に『米50俵2人扶持・本国信州・生国武蔵』とあり、その下に海野甚蔵の名前が書いてありました。その資料によると、今の埼玉県行田市の忍城に阿部藩主5代目昌喬氏に仕えており、正徳5年(1715)となっており、それ以降の系図は分りましたが、群馬県沼田で天正9年(1581)に討死した海野能登守輝幸から埼玉県行田市の忍城にて生まれた海野甚蔵『正徳5年(1715)』の間、約150年の空白が分らないので調べようと思います。
何か知っておられる方の助言・情報をよろしくお願いします。

 藤沢市に在住の上野家の「上野家所蔵文書」によると、
 神奈川県→山形県米沢→福島県会津→越後国→信濃国葛山 となっている。
この間、上杉家より下付された文書を所持しておられるので、その経路は鮮明である。
 葛山城とは、信濃の善光寺の裏山に当たる山城であり、標高809mの葛山には、葛山城跡が、今なお現存している。その山麓には鑪、僅か離れて桜の集落が続いている。
 平安末期か、鎌倉初期のころ、香坂・大日向・小田切・春日などいずれも佐久地方の地名を姓とする滋野系の武士たちが、この地方に所領を得て移住してきたが、落合氏も本貫は作落合らしい。
 葛山衆の一人、鑪氏家譜は次のように記す。
「本姓は滋野本名落合・桜靭負尉・立岩伊豆守・鑪孫左衛門信満・上野新三郎幸親以上四家は海野の分家、これに香坂太郎左衛門・上屋小平・徳間平三を加えて葛山七騎という。菩提寺は米沢市北寺町浄土宗西蓮寺」「鑪郷に住せしをもって鑪と称す(信濃国上水内郡芋井庄)」と、すなわち葛山衆の殆どは落合一族で領地の名称を姓とした。
 応永3年(1396)の大文字一揆注進状・永享12年(1440)の結城陣番帳に落合氏の名がみえるほか事績については明らかではない。
 この葛山衆が、信濃国小県郡海野郷に発祥した海野家を遠祖とする海野系の一族である。
 そこで注目しなければならないのは、武田信玄の信濃攻略の進に従い、比較的平穏だった葛山衆も戦国の荒波に巻き込まれていく。北信濃の雄村上義清は上田原と砥石城で二度までも信玄に痛打を浴びたが、砥石城は真田幸隆の不意打ちであっけなく落城、近くの狐落城も内部の反乱で落城したため、義清は戦わずして鑪城葛尾城を放棄し、越後の上杉謙信に助けを求め、甲斐両雄激突の川中島合戦の幕が切られたのである。
 葛尾城は、武田の攻撃に城を死守、激戦を展開、城将落合・援将小田切など多くの将兵が打死し、弘治3年(1557)2月15日ついに落城し、武田の支配下にあって一族の苦難の再起が図られたことと思われる。元亀元年(1570)9月付の信玄が葛山衆に与えられた朱印状がある。鑪与助が本領150貫と新知行100貫が与えられ「最前より幕下に参じ忠節比類なく」といった文面で、他も同様であるから武田について家筋を守っていることは確かである。
 天正10年(1582)武田氏滅亡し、織田の将森長可から安堵城が与えられ、葛尾衆は21名である。信長が殺された後上杉景勝が占領、葛尾衆の長沼城代島津忠道の指揮下に入った。
 天正11年(1583)2月、上野・立岩・鑪・江本・徳間・桜の六名は、家族共々衛ちこ゛春日山へ移住を命じられる。
 文禄3年(1594)の禄高は、春日233石、鑪・上坂・日下野・原・桜・立岩は125石ずつ、上野99石、50石未満17名、計25名である。
 慶長3年(1598)上杉氏は会津転封により越後・来た信濃45石から120石となり、鑪氏は125石から300石になるなど家臣の知行は倍増となり葛山衆25騎は全部100石以上となったが、ここで先祖伝来の本領地葛山郷から離れることになる。関ヶ原敗戦後上杉は30万石に、寛文4年(1664)米沢藩の滅封で知行も滅ぼされ、葛山衆は縮小消滅の道を辿るのである。しかし、家系は保たれ、多くの末裔の人たちが今も各地で活躍されておられます。
 藤沢市在住の上野家は、このような歴史にを経て現在藤沢市に繁栄しておられるのである。
 
 8代海野幸親の長男幸広・三男根井親綱(桜井三郎・)四男矢島四郎幸忠・五男落合五郎兼行→葛尾衆・六男楯六郎親忠で、葛山7騎とは桜・立岩・鑪・上野・香坂・上屋・徳間である。以上鑪氏系譜は長野市鑪区長の麻場氏が所持の記録を参照させていただいた。

 長野県内の東信地方に現存する上野姓の人たちの分布を見ると次のようである。
 上田市小泉   24戸    上田市半過・山口   11戸
 上田市生田   28戸    上田市沖(武石)     9戸
 東御市海善寺   4戸    小諸市        10戸
 佐久市望月   66戸
   細分布 大谷地 13戸 戸倉 10戸 協和 10戸 春日 10戸
       下の宮 8戸 などとなっている。
 佐久市平井   18戸

徳間氏も、また葛山から越後→会津→米沢と上野氏と同様の経路を辿っている。千曲市戸倉にも徳間集落がある。
 海野幸親から、根井・矢島・落合・楯・その他の諸氏が分かれている。
根井幸親は、佐久市根々井を本拠地としていた、そこに菩提寺の正法寺がある。

 神奈川県に海野家は421軒おられます。

山梨県の海野氏

 
 甲斐に残った海野氏で、山梨郡勝沼村に海宝院を開いた流れがある。
 京都の醍醐三宝院の号を賜るよう運動したという伝えがある。
 現当主海野金作氏は今も勝沼町におり、遠祖は左京大夫幸義であるとい
 う。

 甲府市49軒、昭和町18軒、鰍沢町16軒、白州町7軒、身延町5軒、敷島町4軒、一宮町4軒など、山梨県の海野家は150軒おられます。

新潟県の海野氏

 雲谷山浄厳寺  三島郡出雲崎町住吉551  ☏0258-78-2247
 浄土真宗大谷派  住職 海野知現師
 詳細は、「海野系寺院」をご覧ください。
 
 新潟県の海野家は23軒おられます。

富山県の海野氏

 大宝山真成寺 上新川郡大山町上大浦227 
 浄土真宗  住職 海野芳雄師    ☏076-483-0072
 詳細は、「海野系寺院」をご覧ください。 

 黒部市宇奈月町352-7
宇奈月ニューオータニホテル   ☏0765-62-1311
社名が㈲ヒューマニック雲野(うんの)
海野氏に関係がありそうです。 今後の調査が待たれます。

 また富山県平村五箇山海野氏に関係深いと思われますので今後の研究がまたれます。

 富山県の海野家は45軒おられます。

石川県の海野氏

 法雲山真教寺  松任市辰巳町56-2  ☏0762-75-0174
 浄土真宗大谷派  住職 海野進師
 詳細は、「海野系寺院」をご覧ください。

 洞谷山永光寺  羽咋市酒井町イ-11  ☏0767-26-0156
 曹洞宗 住職 中野松禅師

 鎌倉時代末の正和元年(1312)の春、曹洞宗太祖常済大姉瑩山紹瑾大和尚45才の時、羽咋郡中河の地頭、酒勾八郎頼親の娘(黙譜祖忍)と、その夫海野三郎滋野信直の招請でその館に来訪し、翌正和2年(1312)8月20日に至り、かねて海野信直夫妻から施入をうけていた鹿島郡酒井保(現在の堺町)の山中に、はじめ茅屋を仮の庫裏とした。次いで文保元年(1317)に開創された。
 能登の地で多くの門弟を育てられ、元亨3年(1323)春には五老峯を築造し曹洞宗教団の基礎を作られました。
 五老峯伝灯寺の堂内には、五禅師の頂相・五尊牌が正面に安置され、向かって左には「当山開基黙譜祖忍禅尼和尚」(滋野信直夫人)などの尊碑が数基安置されており、また「当山大檀那信州海野三郎滋野氏妙浄沙弥」の尊碑が安置されている。
 永光寺の開創された当時は、石川県能都郡酒井中河の地頭酒匂氏が支配していた模様である。
 地頭の酒匂八郎平頼親のとき、その嫡女(名不明)の夫が滋野信直とされている。
 信濃国佐久郡・小県郡の地頭で海野庄の地頭海野氏から能登の酒井氏に養子縁組されたものと見られる。
 平氏の女・酒井頼親の嫡女某、後の永光寺開基黙譜祖忍禅尼が瑩山禅師を招聘して、今の永光寺の辺りにか、瑩山禅師と滋野信直と二人にて、寺域を決めるために、その地に往来して寺域を決められた後に、酒井氏の館に寄宿されたことを禅師自らが述べられている。
 元応元年(1319)8月6日には滋野信直の布陣、酒井頼親の嫡女某は永光寺において、瑩山禅師について、出家得度を求められ授戒をして「黙譜祖忍禅尼」と名付けられ、元享元年(1321)11月2日には海野三郎滋野信直も、瑩山禅師について授戒得度をして法名「妙浄」と称した。
 その後、応仁2年(1468)・天正7年(1579)の二度の大乱に遭い全山焼失、幸い印派仏師の作になる御本尊様等は難をまぬがれ多くの文化財を所蔵されている。現在の伽藍は寛永以後の再建であります。

 「当山開基黙譜祖忍禅尼和尚」(滋野信直夫人)の尊碑と
「当山大檀那信州海野三郎滋野氏妙浄沙弥」の尊碑が安置されておられる。
 これを実証するニュースが報道された。昭和55年12月7日付けの北国新聞によると、永光寺に保存されていた武士の肖像画は二枚あり、12月6日、石川県文化財保護委員の画家山梨杏亭氏の鑑定で、一枚の裏には「酒勾八郎頼親祖忍父」と墨で記され、もう一枚は祖忍尼の夫「海野三郎滋野信直」と推定された。肖像画の唐紙の紙質から室町末期から江戸初期に書かれたものと推定され、祖忍尼が鎌倉時代に書かせたものが古くなったため、その時代に、もう一度書き直したとみられる。「貴重な資料」と折り紙を付けた。
 
 石川県松任市長嶋の白山神社・鶴来街中郷の真隆寺・川北町 中島の静泉寺・同じく川北町一ツ屋の浄秀寺などもある。

 石川県の海野家は28軒おられます。

福井県の海野氏

 本吉山万法寺  鯖江市鳥羽1-7-31 ☏0778-51-2182 
 浄土真宗本願寺派  住職 海野光暁師            
 詳細は、「海野系寺院」をご覧ください。 
  
 昭和57年(1982)4月19日に海野史研究会一行44名は寺で一泊しました。
 平田山瀧沢寺  坂井郡金津町御簾尾  ☏0776-74-1733
 曹洞宗  本尊 土仏観世音菩薩  住職 川内秀典師
今から6百年前、南北朝時代末期の永徳2年(1382)に能登の総持寺普蔵院の梅山聞本禅師が開いた寺である。
 もとは七堂伽藍があり、その間、本山直捌きの輪住寺院として多くの名僧知識が出て法燈を輝かしたが、天正3年(1575)7月織田信長の一揆討伐の際、兵火に焼かれてからは寺領をも失って衰退した。
 如仲天誾は梅山禅師の滅後、瀧沢寺は住持を欠いたので、旦那を招き受けて永享2年(1430)4月、はるばる遠州から来て瀧沢寺の第6世を継いだ。
廃れた伽藍を修め、先師の遺髪をついでよく瀧沢寺の復興に尽くしたので、後世瀧沢寺中興の祖と仰がれている。住院8年で永享10年(1438)瀧沢寺を去って再び近江の洞寿院へ帰り、晩年には加賀の仏陀寺にも住持した。
 永享12年(1440)2月4日に75才で没した。現在瀧沢寺にも墓がある。

 福井県には12軒の海野家がおられます。

 

静岡県の海野氏

 
 永禄初期(1560~)ごろ諏訪刑部信真『永禄12年(1569)5月卆、法名儀鏡院殿節当祖忠大居士』が一男一女(元眞とその姉)を伴って南アルプスを越え駿州安部郡井川に入り、元眞は武田氏に随身を拒み駿府城の今川義元に仕える。 今川より地名の安倍の姓を賜り、安倍大蔵と名乗った。

auto_JSmJwP.JPG 安倍大蔵の墓と右側に諏訪刑部大輔信真の墓

 その後、永禄11年12月13日、武田信玄に駿府城が攻略され、今川義元の一子氏実は掛川城に入り、元眞は、その子信勝と共に岡部次郎左衛門と協力し、本丸は岡部氏が、二の丸は元眞父子が守っていたが、戦が不利になり大井川を南下して遠州の徳川家康の援助を求め、家康に仕え援軍を得て、武田勢の拠点筒野城・水見色城・川根城・土岐城・天野城・花沢の城等を攻略するなど徳川山岳戦に従い幾多の功績を掲げたので家康お墨付の感状をいただいた。

 その後元眞『天正15年(1587)10月10日卆、75才で病死する、法名龍泉院殿心清浄安大居士』が隠居し、子の信勝『武州5250石、慶長5年(1600)1月2日卆、法名大正院殿捐館等山源勝大居士』に譲り、再び井川に戻りました。

 前にも記した海野氏の系図に、海野氏10代海野幸氏の子、五男海野矢四郎助氏、その子弥兵衛泰信、その子泰勝、その子泰秀、その子泰頼『慶長20年(1615)10月1日卒、法名天生宗眼禅定門』と続いています。

元眞の井川の家督は泰頼の長男本定を養子に迎え、諏訪氏の出である安倍大蔵元眞の娘を妻とし、本定は海野姓を復活する。
 初代海野弥兵衛尉本定と名乗り徳川に仕え、安倍金山の奉行、安倍山の
   材木の御用、刎橋の建設の御用、家康の御用茶を生産し保管する御
   茶壺詰用、家康の鷹狩に用いる鷹の捕獲をする御巣鷹の御用を勤
   め、さのために7ケ村の百姓の支配と共に口坂本村の知行も認められ
   ました。また、駿府城に登り御茶の御用をも勤めました。
   元和3年(1617)に没し、曹洞宗大井山龍泉院に葬られ、法名は松雲
   常筠居士であります。
 2代本定の嫡子弥兵衛元重も父と同様7ケ村の百姓の支配を認められ、金
   山・刎橋・木 材・御茶壺詰・巣鷹等の御用を勤め家康に奉公し、
   その後は徳川頼宣に仕えました。元重は寛文5年(1665)に病死し
   龍泉院に葬られ、法名見寿院殿松山道鷹居士であります。
 3代元重の長男五左衛門正成は駿河大納言徳川忠長の側近として仕えま
   した。忠長乱功行の責任を問われ石見国に追放されました。
 4代元重の次男信典が家督を継ぎましたが、家運は衰退の一途を辿る
   が、しかし、長年に亘り井川郷で築いた先祖の遺徳に支えられ、近
   代まで「井川の殿様」の地位は続きました。元禄14年(1701)に没
   し、法名名山
 5代信氏は享保13年(1728)に没し、法名日山
 6代信武は天明4年(1784)に没し、法名厳霜
 7代信包は寛政12年(1800)に没し、法名釋栄
 8代信能は文政7年(1824)に没し、法名唯佛 田代村 源蔵倅
 9代信茂は明治3年(1870)に没し、法名見量 服織村 石上久左衛門倅
 10代信孝は明治12年(1879)に没し、法名良圓 駿府本陣 木村仁兵衛
   倅
 11代信常(孝三郎)は昭和2年(1927)に没し、法名徹心
 12代現当主海野久弥家の皆様がご活躍されておられます。
 本定より数えて11代目海野信常(孝三郎)は母かん(駿府城勤め禄高百俵取旗本秋田三郎右衛門の娘)の実家で、嘉永5年(1852)2月1日に生まれ、井川で父信孝に学問を教わり、慶応3年(1867)16才の時、江戸に出て慶應義塾に学び、大阪や京に出て見聞を広め、明治2年父信孝の死に伴い家督を継ぐ。
 明治の政治制度により、安倍郡は五大区となり初代区長に孝三郎が任命される。続いて県会議員制度が出来て、初代県会議員に推薦され、県政で活躍し、本業の茶業の発展に尽力し、全国茶業の組織し茶業発展の基礎を築く。
 また井川に発電所の設立を計画し、完成すると、安倍鉄道の設立にも尽力する。その後は井川村長も務め、昭和2年11月1日、76才で死去する。
 曲金の法蔵寺に法名、信孝院殿徹心樹高大居士として葬られておる。

 静岡市史編纂委員の宮本勉先生は「海野は駿河の名族である」と言う。
また、井川には金・お茶・美林等があり、駿河の今川氏も甲斐の武田氏も狙っておった場所でもあった。
 海野氏を代表するのが、「井川の殿さま」として有名な井川の海野家です。その子孫に清水港を開港した海野孝三郎がいます。
 昭和12年(1937)に彼の功績を讃えた頌功碑が天下の名勝日本平に建てられました。 日本平の山頂には翁の銅像が港を見守っています。

 そのほかに
 静岡県静岡市西豊田小学校玄関脇に「せいくらべ」の童謡碑がある。
この童謡の作者海野厚は、本名厚一といい、曲金の大地主11代海野伊三郎の長男(12代)として明治29年8月12日に生れ、早稲田大学卒、大正14年5月20日28才で没した。
 長頸子と号し俳句も作つた。特に「おもちゃのマーチ」「ろじのほそみち」「からくり」などは、この人の作として有名である。
 この碑は、昭和36年11月3日建てられた。
 この歌は大正8年ころの作で、作曲は中山晋平である。
 静岡市の駿府公園にも、昭和63年に設置され、海野厚作詞の不巧の名曲♪背くらべ♪ ♬玩具のマーチ♬の美しいメロデーが流れ時を告げている。また同年に童謡作詞家海野厚氏の歌碑が「背いくらべ」の歌詞にある、5月5日に菩提寺の宝厳寺に建立された。

(奇縁というか、この作曲した中山晋平の生れ故郷である長野県中野市の間山にも多くの海野家が28戸もあり、毎年海野家の先祖祭りを執り行なっている)

 この曲金村の海野家は、海野宏之氏の「海野氏世代略書」によると、
初代海野久右衛門源忠宗が寛永11年(1634)8月14日卆
法名義林院體室全正居士とある。
妻は足久保の梶山氏娘、法名瑞松院年算永寿大姉、寛永11年7月9日卆。
 2代久左衛門源忠常の三男小兵衛(宝永元年(1704)5月13日卆)は
 曲金村より柚木村に分家し山根の海野の祖として
 11代海野芳敬氏
 12代海野宏之氏と続いて地域で活躍され、駿河海野会の事務局長も兼務
 されている。
 静岡市柚木250 (〒420-0821) ☏054-261-3239

 萬松山可睡斎   袋井市久能   ☏0538-42-2121
 曹洞宗 本尊 釈迦牟尼佛
 詳細は、「海野史物語」をクリックして、「如仲天誾と興善寺」の蘭をご覧ください。

 玉泉寺  静岡市駿河区中原370  ☏054-285-0012
 曹洞宗  住職 海野康邦
 詳細は、調査中です。何かわかりませんので、ご教示いただきたいです。

 若宮八幡宮神社  賀茂郡東伊豆町稲取
  宮司  稲岡秀男 
 海野英昭氏(蒲原在住で駿河海野会員)が調査に訪問されたら、稲岡家系譜に次の文言が記されていました。

(別山 周馬養子実は
清和天皇ノ皇子貞元親王ノ落胤信濃守海野小太郎幸棟ノ末葉海野鬼三男某ナリ父ヲ小太郎某ト伝ヒ世々甲斐国主武田家ニ仕ツ武田家滅亡ノ際鬼三男尚幼若ナリ密カニ脱シ当地ニ来タリ当家ヲ続グ然レト公然名ヲ現ズヲ欲セス別山ト改名ス
寛永元(1624)甲子年同上奉仕在職26年、万治元年(1658)5月12日卒)

とあります。
 これが稲岡家に伝わる系譜の伝承ですが、同家の伝承では、上品な服装の女性が、幼児を抱え、共の女性を二人連れて、天正のころ同家を頼り、男子の無い周馬は、この幼児を養子にして娘と娶わせ同家を継がせたと、武田滅亡後に武田に仕えた海野一族が稲取の地に流れ、当地の若宮八幡神社の神宮の養子となり、やがて神主となり別山と称した。
 別山は次男(あるいわ弟)をして海野家を再興させ、海野を名乗らず、々呼び名の雲野(うんの)を姓とされた。
 これが稲取の海野家の起こりである。
 家紋は「結び雁金」を使用している。

(海野光弘版画記念館、島田宿大井川、川越遺跡街並みにあります。それは明治23年(1890)に建築された桜井邸という旧家を修復したものである。その建物と庭を使って島田市が、2000年4月28日に改装オープンされた記念館である。整備費用1億4千万円、母屋は木造二階建て延べ面積350㎡。海野さんが亡くなられたあと、遺族が遺作の全作品と版木・日記・スケッチなどの資料400点を、そっくり島田市に寄贈されたので、この分館が出来た。海野光弘は1939年11月生れ、1979年9月に39才の若さで脳出血のた死去。1959年4月に中学1年生の時、日記の中で版画を制作。その後版画に没頭)

 

(シスター海野(本名海野常世)は静岡市生まれ、約40年間、旧満州や日本各地で幼稚園長を務め、昭和47年4月、「第二の人生は恵まれない人のために」とフィリピンへ渡った。マニラからルソン島のバギオに向かうベンゲット道路の建設は大勢の日本人が従事し、数百人が犠牲なった。 また日本から訪れる遺骨収集団や戦跡慰霊団に呼びかけて寄付を募り、奨学金を設立した。いま、150人余の日系人やフィリピン人の高校・大学生が援助を受けている。平成元年12月31日午後10時50分、胃がんのためフランスシスコ修道院で死去した。78才)

 
 静岡市西島912-12  海野 武 (☏0542-82-5092)
 静岡市曲金6-1-57  海野英雄 (☏0542-81-0574) 
 静岡市岳美33-2  海野忠良 (☏0542-45-8708)
 静岡市内牧978  海野 徹 (☏0542-96-2184) 
 静岡市羽鳥1131  海野秀雄 (☏0542-78-7018)
 静岡市中田294-7   海野俊男 (☏0542-83-8204)
 静岡市井川南アルプス入口(旅館大西屋) 海野由人
 静岡市篭上     海野泰一
 静岡市山崎     海野三郎
 静岡市富士見台   海野 実
 静岡市城東     海野銀治
 静岡市安西町    海野陽介
 静岡市広野     海野光弘
 静岡市秋山町    海野義男
 静岡市井川     海野周一
 静岡市内牧     海野すみ
 静岡市馬淵     海野 慈
 静岡市油山     海野光二
 静岡市大岩1-8-6  海野幸正
 静岡市丸子新田   海野省吾
 清水市草薙332-90  海野栄幸 (☏0543-46-4317)
 小笠郡菊川町青葉台 海野義治
 庵原郡蒲原町神沢  海野英昭      
  
 現在、海野家は葵区1,670軒(静岡市に1,626軒を中心に井川12軒・梅ケ島1軒・落合27軒・岡部町27軒)、清水区251軒(清水市209軒を中心に蒲原町38軒・由比町4軒)、富士市102軒(富士市94軒・富士川町8軒)、藤枝市97軒、焼津市63軒、沼津市69軒、浜松市36軒、三島市25軒、袋井市22軒、島田市18軒、掛川市19軒、伊東市13軒、熱海市11軒、榛原郡川根本町11軒、磐田市11軒、小笠町10軒、御殿場市9軒、下田市6軒、菊川市6軒、御前崎市5軒など、静岡県には2,390軒の海野家に及んでおります。

岐阜県の海野氏

 瑞浪市寺河戸町常盤通りに「四季の膳 ひさご」☏0572-68-2658
FAX 0572-67-2658 料亭を経営している海野一美氏がおられます。
料理人でもあり作曲も手掛ける異色の人物で、店内の壁をくり貫いて陶器の町らしく器が展示してあり、まるで美術館に来たような空間づくりです。
 海野家は昭和20年に静岡市から引っ越してきた。もともと父親が料亭をやっていた。先祖代々は静岡だが、海野家のルーツは信州の海野という。詳しくは「ひさご」

 岐阜県の海野家は22軒おられます。

滋賀県の海野氏

 曲谷山圓楽寺  坂田郡伊吹町曲谷104  ☏0749-5-0134
 浄土真宗本願寺派 本尊 阿弥陀如来 住職 准海師

 曲谷は、JR東海道線柏原駅から18㎞、柿川にそった集落で30余軒の民家がある。かつては村中が石屋であって、鎌倉時代から大正末期まで石臼づくりが続いていた。
 現在、石工は一軒だけで、かつては石臼づくりが唯一の生業であった。
 曲谷から柿川上流へとさかのぼった山に花崗岩床があり、ここから石を切り出していた。
 この曲谷の石工の技術は、木曽義仲が元暦元年(1184)に敗死して、大夫房覚明は木曽の残党を率いて曲谷まで逃げてきた。大夫房覚明が信州より石工を呼寄せて、その技術を伝授したとされている。

auto_7sMnUU.JPG 曲谷山圓楽寺

 圓楽寺には「西佛房」と称する石像が正面の阿弥陀仏像に向かって右側の間に祀られている。高さ40cmの旅の像をかたどったと思われる像である。

auto_SaGyK3.JPG 西佛房石像

 塩谷山洞寿院護国禅寺 長浜市余呉町菅並492  ☏0749-86-2501
 曹洞宗 本尊 釈迦三尊 寺宝 木造観音菩薩立像(重文) 住職 大河内黙成師

 丹生川上流の菅並から、さらに支流・妙理川をさかのぼった渓間にあり、永平寺の開祖、道元禅師の直系、能登総持寺第11世梅山聞本を師とした如仲天誾禅師が開山で、修行の道場として大勢の禅僧を養育し、宗派を広げました。大本山総持寺の第40世にもなっている。
 応永13年(1406)には、その東方余呉湖の東約5㎞の丹生川菅並(現 長浜市余呉町菅並492)の山谷が、中国五台山に似た勝地として移建、白山妙理権現より塩泉を施された塩谷山洞寿院(どうじゅいん)と号して開基した。
 安土桃山時代には、朱印寺となるなど格式の高い禅寺で、慶長10年1605)徳川秀忠から、ご朱印地として30石の領地と葵の紋章を寺紋とすることが許された。また、天明8年(1788)住職が京都霊鑑寺の戒師を務めていらい、宮家の尊崇を受け、菊の紋章を本堂につけることが許された。
 鎌倉時代前期の造立銘を持つ、木造観音菩薩立像(国指定の重要文化財)や大日如来像・如仲天誾・梅山聞本禅師の像など寺宝は多くありますが、その一つに「龍の玉」があります。妙理川の中ほどに並ぶ夫婦滝に棲みついて、人々を苦しめていた龍を、開祖の如仲天誾禅師が法刀で済度すると、ある夜、龍が枕元に現れて寺院の守護となる証に、玉を置いていったと伝えられています。
 如仲天誾禅師は、全国に3千有余ケ寺の梵刹を建立し、その初開の道場である。春は楠花香り、夏は緑陰に座禅して暑気涼しく、秋は紅葉叢林を包んで錦をかざり、冬は全山白雪の清浄の霊域である。開祖以来第54世の古刹である。

auto_Nc9CtP.jpg 塩谷山洞寿院

 五箇所町の青蓮寺等も海野氏に関係深いと思われますので今後の研究がまたれます。

 滋賀県大津    海野俊樹

 滋賀県に海野家は14軒おられます。

京都府の海野氏

 勝満寺 京都市上京区五辻町千本東入西五辻東68-1
 浄土真宗本願寺派 住職 海野貞行  ☏075-451-3242
 現在調査中です。詳細をお教えください。

 京都市中京区仁生中川町9に「天狗堂海野製パン所」があり、東映撮影所が近いため、芸能関係者のファンも多い。創業は大正11年、社長海野滋、社員6名、営業時間は午前7時~午後8時まで、休日は日曜日。☏075-841-9883。詳しくは
 
 京都府には海野家が35軒おられます。

愛知県の海野氏

 
 名古屋市緑区神沢2-20-12 海野房子
 
 愛知県には海野家が200軒おられます。

三重県の海野氏

 安濃町安芸郡栗加(現在津市安濃町栗加)の海野輝夫さんから、次のようなの情報をいただきました。
海野姓は栗加地区に43軒あり、世帯の殆どを占めています。
 三重県の史跡に指定されている田丸城(度合郡玉城町)は、今より約650年以前に北畠親房らによって築城された。北畠親房の子の北畠顕家は、それより以前に陸奥守に任ぜられた。後醍醐天皇の皇子(義良親王、後年の後村上天皇)を擁して多賀城に拠っていた。 陸奥守の大介として、義良親王の補佐の任にあたり、みちのくの地に、にらみを利かしていた。
 南北朝時代に後醍醐天皇が、吉野に脱出して、南朝を開き、延元元年(1336)には、足利尊氏討伐の綸旨を全国に発信した。
 この時、北畠顕家は父の親房とともに多賀城(宮城県多賀城市)にいた。
綸旨を受け、兵を集めて親房とともに先ず鎌倉をめざした。
 やがて北畠親房は、伊勢の田丸城を拠点にして京都奪回に執念を燃やしたが、しかし南朝の勢力挽回のために働いたが衰退はおおいようもなかった。
伊勢は北畠氏の地盤である。
 このとき、伊勢栗加の海野氏も、伊勢田丸城を拠点として北畠軍と行を共にしたのであろう。
 栗加地区に集中している海野氏は、南北朝時代に北畠氏の家臣であり、後世に居を移して、帰農したものであろう。

 延元元年(1336)には、朝廷は義良親王方を各地に派遣して、指揮・連絡に当たらせている。
 宗良親王は10月に遠州に入り、そして、12月には後醍醐天皇は吉野へ、これより南北朝時代が始まっている。
 北畠顕家の率いる奥州の大軍は、遠州に到着し、宗良親王は遠州の数千の兵をもって参加合流した。
 延元2年(1337)には、宗良親王は、伊勢一瀬城にて御歌
 「み山をは 独りな出てそ ほととぎす われも都の 人を待つらむ」
一瀬城は現在の三重県度合郡脇出の宮川上流である。
 延元3年(1338)2月14日北畠顕家は、北朝軍と伊勢の河又河口に戦う。
3月8日北畠顕家は北軍を天王寺に撃破する。
9月には伊勢大湊を出港して台風にあい、宗良親王は、遠江(現静岡県)に、北畠親房は常陸(現茨城県)に着いている。
 暦応3年(1240)には宗良親王は、駿河より信濃へ赴き大河原(現下伊那郡大鹿村)に至り香坂高宗家に身を託す。
 その後、香坂高宗家の子孫は大河原城にあり、一族のうち更級郡牧之島城に移る者もあった。後に禅正宗重は、武田氏に仕えて、香坂昌信は武田信玄の24将の名門香坂家を中興させている。

 津市安濃町栗加   海野利通
 津市安濃町栗加2212 〒514-2324 海野整形外科 ☏059-267-1221
 津市には38軒の海野家がある。

 三重県には海野家が185軒おられます。(電話帳調べ)

和歌山県の海野氏

 永禄初期(1560~)ごろ諏訪刑部(永禄12年(1569)5月卆、法名 儀鏡院殿節当祖忠大居士)が一男一女(元眞とその姉)を伴って南アルプスを越え駿州安倍郡井川に入り、元眞は武田氏に随身を拒み駿府城の今川義元に仕える。
 今川より地名の安倍の姓を賜り、安倍大蔵と名乗った。
その後永禄11年12月13日、武田信玄に駿府城が攻略され、義元の一子氏実は掛川城に入り、元眞は、その子信勝と共に岡部次郎左衛門と協力し、本丸は岡部氏が、二の丸は元眞父子が守っていたが、戦が不利になり大井川を南下して遠州の徳川家康の援助を求め、家康に仕え援軍を得て、武田勢の拠点筒野城・水見色城・川根城・土岐城・天野城・花沢の城等を攻略するなど徳川山岳戦に従い幾多の功績を掲げたので家康お墨付の感状をいただいた。
 その後元眞(天正15年(1587)10月10日卆、法名龍泉院殿心清浄安大居士)隠居し子の信勝(武州5250石、慶長5年(1600)1月2日卆、法名大正院殿捐館等山源勝大居士)に譲り、再び井川に戻り、海野泰頼(慶長20年(1615)10月1日卒、法名天生宗眼禅定門)の長男本定を養子に迎え、本定は海野姓を復活する。
 海野弥兵衛尉本定と名乗り徳川に仕えた。その二男海野兵左衛門良次(紀州初代海野氏、1150石、勘定奉行)が元和5年(1619)徳川頼宣に従って紀州に入国する。寛永19年(1642)5月14日死去、法名観翁道夢居士、和歌山市男之芝町天年山吹上寺に葬られている。
 2代 海野兵左衛門清長(寄合組頭、400石、延宝5年(1677)病死)
 3代 海野平左衛門幸隆(徒頭、300石、元禄13年(1700)病死)
 4代 海野兵左衛門清詮(持筒頭、持弓頭、400石、明和6年(1769)病 死、87才)
 5代 海野兵左衛門伴高(中の間番頭格、400石、安永9年(1780)病死、71才)
 6代 海野兵左衛門清雄(徒頭格、使役頭、400石、寛政8年(1796)病
死、76才)
 7代 海野兵左衛門勤(寺社奉行、持弓頭、寄合組頭、400石、後に、御用人千石、大目付五百石、大寄合格千三百石、天保8年(1839)病死、74才)
 8代 海野兵左衛門希元(中奥小姓、勘定奉行格、天保15年天保15年 (1844)美容師、47才)
 9代 希與とつづき、以来紀州で代々徳川家に重く用いられ活躍してい
る。 
 その子孫に、和歌山県議会事務局長の海野正幸氏がおられ、昭和62年に、初代海野良次「観翁道夢居士」の350回忌にお墓の修理をし、父の50回忌もあわせて追福の法事を行った。
 和歌山市葵町7-18(〒640-8273) ☏0734-22-8880
 ただ残念なことに、海野正幸氏は平成3年7月に亡くなられ、妻の貞子さんと長男の篤人氏が守っておられます。

 和歌山県新宮市市議会議員に海野義男氏がおられる。
 和歌山県の海野家は100軒がおられます。

大阪府の海野氏

 豊中市永楽荘4丁目の海野(宇野)浩二さんの系図は、次のように記している。
 海野氏9代海野幸広(海野小太郎四郎代々用雁金之紋)宇野家が始まり
 2代海野幸氏(海野小太郎左衛門尉)
 3代海野幸継(海野信濃守於同所賜十万町)
 4代幸家
 5代氏広
 6代氏経(海野平次、織田信長不用風諫故切腹)
 7代氏行(海野小左衛門、食居於泉州、毎祈大鳥明神、武門再興)
 8代氏道
 9代幸勝(海野平次右衛門、童名槌千代以大鳥明神氏神、日本武尊也室 者)
 10代幸経
 11代幸成
 12代行辰
 13代幸則
 14代孝教(宇野源次兵衛、延享年中(1744~47))初代宇野家の創立
 2代幸久(宇野幸久)
 3代氏景(宇野武右衛門、宝暦年中(1751~63))
 4代景龍(宇野彦左衛門、明和年中(1764~71))
 5代顕興(宇野彦兵衛門、弘化年中(1844~47))
 6代格(宇野善三郎姓滋野、嘉永2年(1849)10月大阪天満与力町で与 力、明治2年10月4日被大阪府少属云々)
 7代六三郎(宇野善三郎次男)39才死去、妻キョウ(大阪府南郡岸和田北町十番屋敷、福岡家生まれ、母は里勢といい美人で、キョウも美しかっ)26才、長男崎太郎11才、浩二3才、六三郎の葬式は、ビックリするほど盛大であった。中学校と師範学校の教員を兼ねていたから二校の全生徒が、ことごとく参列し、西公園側の南港町から東公園の式場まで一里近く続いたといわれている。
 8代浩二(宇野格次郎、明治24年7月26日次男として福岡市生まれ)ついでに述べておくと、兄の崎太郎の「崎」は、六三郎が長崎の学校に勤めていた時に生れたので、父が地名の一字をとって付けたという。
 幼い時に父と死別、明治43年早稲田大学英文科予科に入学、大正4年同大学中退、小説家を志す。大正8年に発表した「蔵の中」「苦の世界」で文壇に認められ、以後創作活動を行った。まとまった仕事をするために、よく諏訪を訪れ、そこで出会った子持ち芸者「原とみ」に思慕いを寄せ、「諏訪もの」と呼ばれる一連の作品を発表した。
 特に「一と踊」「山恋ひ」は佳作であった。また戦時中は東筑摩郡島立村(現松本市)に疎開したが、この地で妻キヌを病で失った。
 戦後「思び川」の名作を発表し、一方昭和24年に芸術会員に選出され、晩年には広津和郎とともに松川事件にも尽力、36年9月21日肺結核で死去、70才、東京都台東区広大寺に葬られる。
                     (上田市 田中七郎氏調べ)

 一方、岸和田市編纂委員玉谷哲氏の解説された「岸和田藩主海野家所蔵の系譜」により、次に、その系譜を示すと
 幸隆-昌幸と続き、昌幸には子息二人、兄信之(初代松代城主)、弟は信繁(真田幸村)で、兄信之は徳川将軍に仕え、弟幸村は豊臣家に仕える。
 兄信之の子が三人おり、長男信吉は沼田城主に、二男信政は二代松代城主、三男信重は岸和田藩主の海野家へと続いている。
 信重-信可 信州の浪人、岸和田藩に仕えて、知行150石
 可政 200石加増す、350石
 幸勝
 政忠 350石から浪人
 忠幸 10石二人持
 忠陳 10石二人持から100石二人持
 忠行 100石
 忠益 幼名七蔵 伯事奉行
     (以下省略)

 岸和田藩主は、
 初代岡部長盛 山崎藩(下総国茨城・千葉県)
         天正18年(1590)~慶長14年(1609) 12,000石
        亀山藩(明治2年に亀岡藩と改称)
         天和7年(1621) 32,000石から34,000石
        福知山藩(丹羽の国・京都府)
         天和7年から寛永元年(1624) 50,000石
        大垣藩(美濃の国・岐阜県) 
         寛永元年から寛永9年(1632) 50,000石
 二代岡部宜勝 龍野藩(播磨の国・兵庫県)
         寛永9年から寛永17年(1640) 50,000石
        高槻藩(摂津の国)
         寛永13年から寛永17年    50,000石
        岸和田藩(和泉の国・大阪府)
         寛永17年から明治2年2月藩籍奉還 60,000石
 徳川家康の妹の洞仙院の子の岡部宜勝は、龍野・高槻を経て寛永19年に岸和田藩6万石へ、入封以来230年余りにわたって在封、将軍家光の信任が厚く、紀州徳川家の抑えとして、岸和田に封じられてともいわれる。
  
 大阪府に海野氏は200軒おられます。

兵庫県の海野氏

 
 国際ジャパネスク歌舞伎、代表海野光子。
 神戸の外国人学校カネディアン・アカデミィの日本語教師であった海野光子氏は、生徒達に日本文化をより理解させるため、1970年に日本文化研究会を創設。その活動の一つとしてカナデアン歌舞伎「修禅寺物語」を翌71年に上演された。以後学内だけが、76年から神戸文化ホールで、77年には東京公演、80年の10周年記念講演には、海外からも卒業生が参加。「番町皿屋敷」「頼朝の死」「元禄忠臣蔵」「勧進帳」「助六」にまで及んでいる。1982年に現在の名称に改めた。

 兵庫県の海野家は89軒おられます。

広島県の海野氏

 覚明神社 御調郡向島町川尻覚明島

 文治元年(1185)覚明は、木曽義仲の三男(信州では二男)義重を奉じ三十六家臣と共に、泉州境港より西行し9月9日覚明島に上陸する。
 はじめ覚明は、ここに浄土寺を建立し源氏の菩提所とし、そばに庵を設けて義重を養う。のちに義重は現一之宮神社の境内の地に館を建て、覚明は現八幡社の地に館を建てたという。
 文治5年(1189)義重・覚明の発願により地蔵隠を創建する。
川尻に居を構えた家臣団は義重を教育しつつ、治水・灌漑・土地の開拓し農耕改良に尽くし、土地住民の信頼厚きを得て、その徳を慕って、この地に『覚明神社』として祀り崇目られた。彼らの努力で向島の今日がある。

auto_VOYYEN.jpg 覚明神社

 覚明は家臣団の定着したのを見届け信州に帰る。
 義重は、この地で没し、その長男は信州に行き、二男以下は向島に永住したという。その子孫は中世、木曽姓を名乗った。向島町118軒・向東町60軒実在する。
 八百数十年の歳月を経ても、覚明神社・三十六苗荒神・木曽明神は彼らの子孫一族によって維持されて、その精神は島民の心に脈々として生き続けている。

 広島県には63軒の海野家がおられます。

島根県の海野氏

 神奈川県相模原市在住の海野基之様は六文銭を家紋とする海野系の末裔とのことである。
 ご先祖は、松江藩の藩学の教授を歴任された高貴な家系である。
後世に至り所蔵図書を、島根大学図書館に寄贈して「海野文庫」と命名された。代々の氏名は「之」を襲名して今日に至る。
 松江藩主松平氏は松本藩主(長野県)より島根県に移封され、その節、海野基之氏のご先祖も松本頼島根県の松江に同行移住したものであろう。

 島根県の海野氏は1軒のみである。

大分県の海野氏

 日向市細島の海野さんから、2017年3月23日に投稿がありましたので掲載いたします。
それによりますと………
 「私の祖父からの墓が大分市内にあります。平成15年に他界した父の金庫から、昭和59年に細島の方からの手紙が出てきました。それは、細島にある海野の墓が移動しましたとの件でした。その方に連絡をしたのですが、連絡不通でしたので、そのままにしておりました。平成27年夏に、昭和52年からの知り合いが、東京から、奥様の実家の細島に引越したとのことで大分市内でお会いしたら、その方の住所が、昭和59年の手紙の隣の番地でしたので、その手紙を渡しましたら、秋に日向市細島に海野の祖先の墓が藪の中から現れました。不思議な出来事に驚いて降ります」と……

 細島は、鉾島神社の縁起書には神武天皇が東征の途中ここに立ち寄り鉾を祀ったとの記述がある。細島の名称は、港を囲む細長い半島に由来するという説に加えて鉾島が転訛したという説がある。
細島港は、東九州の玄関口として、日向の国諸藩薩摩藩も参勤交代で利用していました。また工業港として大型船舶用に整備され、数々の客船・貨物船・自衛艦などの寄港地となっている。特に2006年には、日本最大のクルーズ客船「飛鳥2号」(50,142トン)が寄港している。

 大分県の海野家は17軒おられます。

沖縄県の海野氏

 
 島尻郡知念村海野149に「海野漁港セリ市場」☏098-947-1810あり。
 この村に海野という地名があり、しかも海野漁港があり、今後の研究がまたれる。

 沖縄県の海野家は2軒おられます。

そのた都道府県の海野氏

 その他に、奈良県25軒、岡山県に116軒、鳥取県1軒、徳島県10軒、香川県46軒、愛媛県12軒、高知県7軒、福岡県51軒、佐賀県3軒、長崎県8軒、熊本県8軒、宮崎県には258軒の海野家がおられ、全国には7,132軒 の海野家がおられます。(電話帳調べ)
 
 なお、海野氏に関する情報をお知らせください。
 これからも調査・研究を続けておりますので、いろいろと御教示いただければ幸であります。

 下記メールにお願いします。(但し、*印を@に変更して下さい)
 info*musha/mobi
 お待ちしております。

海野氏系図

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