全国各地の海野氏について

 海野氏の都道府県別分布は、次の通りである。
「海野」「雲野」「宇野」「吽野」は、青森県・岩手県・宮城県・秋田県・山形県・福島県・茨城県・栃木県・群馬県・埼玉県・千葉県・神奈川県・山梨県・長野県・富山県・石川県・福井県・岐阜県・静岡県・愛知県・三重県・滋賀県・和歌山県・鳥取県・島根県では「うんの」と呼称されている、
 その他の府県の海野姓は、殆とんどの人達は「うみの」と呼称されていて「うんの」の方が少数と思われる。

海野氏」都道府県別分布

都道府県軒数都道府県軒数都道府県軒数
北海道162石 川28岡 山116
青 森23福 井12広 島63
岩 手26山 梨150山 口16
宮 城76長 野201徳 島10
秋 田8岐 阜22香 川46
山 形168静 岡2390愛 媛12
福 島91愛 知200高 知7
茨 城704三 重185福 岡51
栃 木48滋 賀14佐 賀3
群 馬63京 都35長 崎8
埼 玉260大 坂200熊 本8
千 葉220兵 庫89大 分17
東 京506奈 良25宮 崎258
神奈川421和歌山100鹿児島18
新 潟23鳥 取1沖 縄2
富 山45島 根1合 計7132

                (2006.1.調査の「苗字館」より)

長野県内の市町村別の海野氏

飯綱町の海野氏

  飯綱町の海野氏は森尾山鎌田院妙福の住職海野浄英氏のみです。

中野市の海野氏

  間山に海野氏が28軒、中野市には、海野(うんの)氏(間山を含む)が42軒ある。
 現在の海野高志家が総本家を務め、庭内に天照皇大神宮を祀り、「海野ま
 け」を全員で守っている。家紋は州浜です。
 総本家には系図が現在まで引き継がれている。それによると、
 海野家の先祖は、第27代海野小太郎幸棟とのことである。幸棟は応仁元年(1467)村上氏と戦い戦死した。
 海野小太郎幸種(幸棟より分家したと思われる)―海野和泉保幸―海野偁後幸忠―
  海野主膳宗幸―海野和泉幸澄―海野與惣兵衛幸厚
 世はまさに戦国時代であった。天文10年(1541)武田・諏訪・村上の連合軍に敗れ、海野家は各地に逃げ延び、名字をそれぞれ変えた。
 初代白鳥勘右衛門幸邦(間山の海野家先祖・盛隆寺の創建に尽力する)
 2代白鳥太郎兵衛幸英
 3代黒鳥文右衛門幸通
 4代黒鳥文左衛門幸信
 5代海野茂右衛門幸佐
  江戸時代の世になり安泰となったので元の海野姓を名乗るようになったのではないかと思われる。
 6代海野文内幸康(間山中村組佐藤要助養子)
 7代海野金蔵幸照(5代海野茂右衛門幸佐の五男文助)
 8代海野勘右衛門幸久(間山郷原組土屋久八の次男義三郎養子)
 9代海野文内幸貞
 10代海野勘右衛門幸延(子供がなく9代海野文内幸貞の弟)
 11代海野勘右衛門幸孝(10代海野勘右衛門幸延の次男辰太郎)
 12代海野勘右衛門幸家(菅村山本奥右衛門次男の仲一郎相続)
 13代海野恵紋幸固
 14代海野義一幸治
 15代海野幸吉―海野佳広―海野高志と継承され、地域のために
  活躍されている。
 明治30年4月12日に間山の海野家は小県郡海野郷白鳥神社に「杉苗20本」を寄付されている。

auto_klpAmb.jpg右端は宮下和友会長・左端は執筆者
  

須坂市の海野氏

 須坂市の海野氏は8軒ある。(電話帳調べ)

長野市の海野氏

  白鳥山報恩院善敬寺住職海野正師、浄専寺(善敬寺院内)住職海野弌美師。  
 白鳥山報恩院康楽寺住職海野浄雄師、白鳥山報恩院康楽寺住職海野昭親師。
 海野山報恩院専精寺住職海野教恵師、上宮寺住職海野昭親師。  
 白鳥山報恩院証蓮寺住職海野良澄師、仏智山明真寺住職海野栄子師をはじめ長野市の海野(うんの)氏は70軒ある。(電話帳調べ) 

 長野市の海野八百重氏から、系図とお便りをいただいた。家紋は「雁がね」

(総大将海野小太郎幸広は寿永2年(1183)10月1日、備中国水島合戦において、平家に敗北し、矢田義清と二人の大将が討ち死にし、命からがら京都へ逃げ帰った木曽軍は、ごく僅かであったと言われている。元暦元年(1184)海野小太郎幸代は信州水内郡若槻郷に、海野幸勝が隠居することを聞き、幸代は妻子を連れて鎌倉より立ち帰り、信濃海野氏の祖となり、子・孫へと続き、三皇神(稲田媛命・猿田命・碓女命)宮を祀る。慶長19年(1614)信州水内郡若槻郷蚊里田里(現在の東条)に住居し、三皇神を当屋敷へ移す。その後、加賀街道を開設された。その後、38代海野福太郎(現在は東京へ分家)は、三皇神を東泉寺境内に奉納して移したが、現在は寺が取り壊されて、公民館が建てられております。八百重さんの夫、41代目故海野国司氏は平成19年まで司法書士事務所を開設しておられた。氏のの本籍は長野市大字若槻東条で、現在は宅地だけ残っている。

 藤沢市に在住の上野家の「上野家所蔵文書」によると、
 移住の経路は、神奈川県→山形県米沢→福島県会津→越後国→信濃国葛山となっている。上杉家より下付された文書は、この間引き続き保存され、現在に至るという。
 葛山城とは、信濃の善光寺の裏山に当たる山城であり、標高809mの葛山には、葛山城跡が現存する。その山麓には「鑪」、僅か離れて「桜」の集落が続く。
 平安末期か、鎌倉初期には、香坂・大日向・小田切・春日などいずれも佐久地方の地名を姓とする滋野系の武士達が、この地方に所領を得て移住してきたが、落合氏も本貫は佐久落合らしい。葛山衆の一人、『鑪氏(たたらし)家譜』には次のように記されている。
「本姓は滋野本名落合・桜靭負尉・立岩伊豆守・鑪孫左衛門信満・上野新三郎幸親以上四家は海野の分家、これに香坂太郎左衛門・上屋小平・徳間平三を加えて葛山七騎という。菩提寺は米沢市北寺町浄土宗西蓮寺。鑪郷に住むのをもって鑪と称す(信濃国上水内郡芋井庄)」
 すなわち葛山衆の殆どは落合一族で領地の名称を姓とした。
 応永3年(1396)の大文字一揆注進状・永享12年(1440)の結城陣番帳に落合氏の名が見えるほか事績については明らかではない。
 この葛山衆が、信濃国小県郡海野郷に発祥した海野家を遠祖とする海野系の一族である。
 天文22年(1553)坂城の村上氏の葛尾城落城は、上杉謙信に属していた落合氏は葛山城の守りを厳しくしていた。
 そこで注目しなければならないのは、武田信玄の信濃攻略軍に従い、比較的平穏だった葛山衆も戦国の荒波に巻き込まれていった。
 北信濃の雄村上義清は、上田原と砥石城で二度までも信玄に痛打を浴びたが、砥石城は、真田幸隆の不意打ちであっけなく落城、近くの狐落城も内部の反乱で落城したため、義清は戦わずして鑪城・葛尾城を放棄し、越後の上杉謙信に助けを求めたことから、甲斐両雄激突の川中島合戦の幕が切つって落とされた。
 武田勢1万7千は、一挙に越後上杉方の重要前進基地葛山城に攻撃を開始した。
 葛尾城は、武田の攻撃に城を死守、備中守は必死の防戦を展開したが、敵はおりからの烈風に乗じて火を放ったので、たちまち全山猛火の海に包まれ城将・落合備中守は、援将小田切駿河守幸長・広瀬藤四郎、多くの将兵が打死にしたという。弘治3年(1557)2月15日、ついに落城し、武田の支配下にあって一族の苦難の再起が図られた。元亀元年(1570)9月付の信玄が葛山衆に与えられた朱印状がある。鑪与助が本領150貫と新知行100貫が与えられ「最前より幕下に参じ忠節比類なく」といった文面で、他も同様であるから武田について家筋を守っていることは確かである。
 長野市芋井にある松参寺は、曹洞宗、住職山口義孝師
開基した広瀬氏に代わって落合備中守が再建し、中興開基した。 
 天正10年(1582)武田氏滅亡し、織田の将・森長可から安堵城が与えられ、葛尾衆は21名であった。信長が殺された後、上杉景勝が占領、葛尾衆の長沼城代・島津忠道の指揮下に入った。
 天正11年(1583)2月、上野・立岩・鑪・江本・徳間・桜の六名は、家族共々越後の春日山へ移住を命じられた。島津お抱えのままの移住であったが、後に、上杉藩士となり奉行などに重要された者もでたという。
 文禄3年(1594)の禄高は、春日233石、鑪・上坂・日下野・原・桜・立岩は125石ずつ、上野99石、50石未満17名、計25名である。この中には春日・大日向など善光寺西山の地も含まれており、現在は、直江兼続の下で葛山衆の再編成が行われたことが窺える。
 慶長3年(1598)上杉氏は、会津転封により越後・北信濃45石から120万石となり、鑪氏は、125万石から300万石になるなど家臣の知行は倍増となり葛山衆25騎は、全部100万石以上となったが、ここで、先祖伝来の本領地の葛山郷から離れることになる。関ヶ原敗戦後上杉は30万石に、更に寛文4年(1664)米沢藩の滅封で知行も滅ぼされ、葛山衆は、縮小消滅の道を辿ったが、家系は保たれ多くの末裔が今も各地で活躍されている。
 藤沢市在住の上野家は、このような歴史を経て現在も藤沢市に繁栄している。
 8代海野幸親の長男幸広・三男根井親綱(桜井三郎・)四男矢島四郎幸忠・五男落合五郎兼行→葛尾衆・六男楯六郎親忠で、葛山7騎とは桜・立岩・鑪・上野・香坂・上屋・徳間である。
 〈以上鑪氏系譜は、長野市鑪区長の麻場氏が所持の記録を参照〉
 長野県内の東信地方に現存する上野姓の人たちの分布を見ると次のようである。
 上田市小泉   24戸    上田市半過・山口   11戸
 上田市生田   28戸    上田市沖(武石)     9戸
 東御市海善寺   4戸    小諸市        10戸
 佐久市望月   66戸
   望月細分布 大谷地 13戸 片倉 10戸 協和 10戸 春日 10戸
     下の宮 8戸 などとなっている。
 佐久市平井   18戸

徳間氏も、また葛山から越後→会津→米沢と上野氏と同様の経路を辿っている。
千曲市戸倉にも徳間集落がある。
 海野幸親から、根井・矢島・落合・楯・その他の諸氏が分かれている。
根井幸親は、佐久市根々井を本拠地としていた、そこに菩提寺の正法寺がある。 

 長野市の海野幸一氏は幼いころから文学を好み、17歳の時、白夜短歌会主宰の故宮原茂一氏の勧めで短歌を始めたという。昭和30(1955)年歌誌「白夜」が創刊された頃から参加し、白夜に載せる歌の選者や編集委員などを経て、2012年から代表となった。就職後も「今までにないものを創造したい」と時間を見つけて詠み続けたという。
 平成30年5月22日付の信毎の記事によると、県内の短歌愛好者約350人でつくる「白夜短歌会」、海野幸一代表(84歳)の歌碑を、長野市箱清水の小丸山公園内の「歌が丘」に建てられたという。高さ1.3m、幅1.6mの碑に、一年半ほど前の作品「雲である ことを忘れた かのように ぽつり 空に浮いている雲」を刻んだ。白夜の編集委員らが選定。海野氏によると、空に浮かんで流れていく雲のように自分も無心になりたい、との思いを込めたという。編集委員の竹内洋夫氏(73歳)らが会員から約350万円の寄付を集め、建設費に充てた。
 歌が丘には他に県歌「信濃の国」など数十の碑があり、白夜会関連では宮原氏ら歴代の代表3人の歌碑もある。

千曲市の海野氏

 白鳥山本覚寺の住職海野玄秀師。稲荷山五大院長雲寺の住職海野慶宗師をはじめ
千曲市の海野(うんの)氏は17軒ある。(電話帳調べ)
旧更埴市に8軒、戸倉町に8軒、上山田町には1軒ある。(電話帳調べ)  

 千曲市の海野雅信家、長野市の海野安彦家(海野薬品㈱)、埴科郡坂城町の海野義雄家、東御市の海野恒男家(山田薬局)の先祖は次の通りという。
 第25代海野小太郎持幸は、文安6年(1449)村上の領地、船山郷(戸倉町・五加村・埴生村・抗瀬下村等を合して船山郷と言う)の地頭となった。持幸は小県大平寺(現在の東御市白鳥団地)より来たという。
 宝徳2年(1450)小県大平寺より白鳥大明神を分社し寂蒔の地へ移した。また、平原城主は海野平原直光を代官とした。
 代官海野直光は船山郷船山へ地頭屋敷(現在の船山神社の横屋敷の地)を造った。
 持幸地頭は埴生寂蒔村の士族宮坂義洛院、士族丑丸、鋳物師屋、士族市河らと共に船山郷発展のために尽力した。
 ①館の堀割改築工事を完成させた。
  先住者市河氏館跡の南・東・北方面の堀割を更に大きく造り、現在その掘割は屋代用水となって農業用に使用されている。
 ②産業発展のため、鋳物師を連れて来た。
  農業の発展は農具、機械および鋳物の製造により産業の発展の草分けとなった。
 ③千曲川の洪水害を防いだ。
  寂蒔の上より船山までの土手補強工事を完成させ、船山郷を水害から守った。
 
 康正元年(1455)持幸は、足利義政将軍に呼ばれて京都に行き、丑丸家と共に、時の天皇に絹織物・錦織物・駒・農作物等を献上した。
 康正3年(1457)海野直光は代官を辞し、村上の臣、室賀貞信が代官となった。
寛正元年(1460)海野直光死去し、墓地を東山に造る。現在の海野家の墓地。
 応仁2年(1467)村上政清・政国父子が小県に出陣した。海野小太郎持幸と戦い海野チバ城のつめ口を取った。この後戦国時代となった。
 

坂城町の海野氏

 埴科郡坂城町に海野(うんの)氏が3軒あり。

 平成14年(2002)12月発行の「JAちくま」に海野義雄さん御家族の記事が載っていた。
 

坂城町南日名の山ふところの斜面に広大なリンゴ畑が続き、晩生種の主力品種「ふ 
じ」の収穫が真っ盛り。休憩所を兼ねた作業所「古城園」がリンゴ畑の中にあり、 
出荷作業に忙しい海野さんご家族。「この辺は粘土質で、南西に向いた斜面は日当 
たりも良く、色着きと食味は抜群ですよ」と、リンゴ栽培一筋に生きた義雄さんと 
玉子さんは口をそろえます。 義雄さんは幼い時に父を亡くし、人徳の厚い叔父に 
家族同様に育てられました。その伯父が戦中、紅玉や国光などリンゴ栽培を手が 
け、そのことが今の海野家の果樹栽培の基礎となっています。伯父の息子さん(義 
雄さんの従兄弟)も戦後の坂城地区でのリンゴ栽培の先駆者となり、その影響を強 
く受け、従兄弟から栽培技術を学びながら、共に栽培に励みました。 現在は政義 
さんが後継し、近接の果樹園も含め約250アールの規模で栽培しています。「苦労 
して築いたリンゴ園、経営を継いでくれて、親としてうれしい限り」と義雄さんは 
目を細めます。政義さんは義雄さんの期待に応えて、県農業大学校営農学部で果樹 
を先行した後就農。「少年の頃からリンゴの木に囲まれて育ったので、気負いもな 
くごく自然の選択でしたね」。父と一緒に栽培しながら技術も受け継いできまし 
た。「意見の違いはありますが(父の経験に勝るものはない)と、収穫の時に感じま 
す」と政義さん、全てを任された今、季節的な労力配分を考え「晩生種オンリーの 
克服」のため、早生種・中生種の新品種への転換も計画的に進めています。また中 
学生の地域農業体験学習では、受け入れ農家としてリンゴ園を学習の場に提供もし 
てきました。 奥さんの広子さんも子育てに励みながら、リンゴ園で働くお手伝い 
さんの送迎や、選果作業などで政義さんを支えています。翔君は3歳、来年は保育 
園児。古城園はお手伝いで働く人などで、休憩時間はとても賑やか。自然と人のふ 
れあいの環境の中で、元気いっぱいに育っています。

上田市の海野氏

  上田市古里の海野勝洋氏の他に海野(うんの)氏は6軒ある。(電話帳調べ)
 
 上田市の『石井家伝承系図』によると次の通りです。
 初代 石井(武石)幸邦は、27代海野幸棟の次男で、
    小次郎民部助・武石右兵衛尉・諏訪氏に属し、
    小県郡武石に住む、これより武石氏を称す。
    大井氏の支配下にあって、天文9年(1540)7月諏訪頼重に属す。
    (法名 高嶺院殿武石幸邦大禅定門)
 2代 石井重信(棟喜) 石井小次郎隼人祐 石井左京進
    天文12年(1543)望月・丸子・小泉・室賀等に譲り、武田氏に属す
    小県郡石井。海善寺本郷を宛行被った。
    主命により石井隼人祐と改め、居所を石井に移し、居所を姓とした。
    永禄10年(1567)海野家起請文に著名した。
    (法名 風積院殿石井信重大禅定門)
 3代 石井重宗 石井助之丞 武石氏に属した。
 4代 石井重之 石井金左衛門尉 
    上野国利根郡沼田城主真田伊豆守信之公命により奉仕。
    (法名 円誉道忠)
    室は備前国主松平相模守光仲公補佐 荒尾但馬守の女
 5代 石井重嗣 石井喜佐衛門尉 天正10年(1582)武田氏亡し、
    真田昌幸に属し、本領300貫文を安堵される。
    吾妻郡羽尾城主を命ぜられ、検地の上、羽尾にて相当の重恩地を賜った。
    のち、家老として上田領の藩政を担った。
    元和8年(1622)信之公松代移封を機に隠居した。
    金剛寺村城代屋敷にて余生を送った。
    この地に葬られ享保7年(1722)まで墓碑があった。
    新たに墓碑は米山城址に建てられ、
    里人は「石井荒神」と呼ばれている。
 6代 石井重政 天正3年(1575)5月21日真田信綱公に属し
    三河長篠設楽カ原討死。  
 7代 石井重親 石井舎人佐 天正13年(1585)8月2日の神川戦で奮戦した。
    慶長5年(1600)真田昌幸公高野山配流に随従。
    慶長20年(1615)5月7日に大阪夏の陣討死した。
    (法名 忠誠院一明了光禅定門)
    上野国利根郡宇楚井村浄土宗天阪山正行院に葬る
 8代 石井重政 石井舎人佐 室は重嗣養女 実重綱弟舎人佐重親女
    真田河内守信吉公に仕えた。 諸士頭 300名
    寛文6年(1666)8月20日卒 (法名 養成院重誉三光居士)
 9代 石井政茂 石井主殿助 真田沼田藩士 禄150石
 10代 石井重孝 石井喜沙門尉 真田伊賀守沼田藩主 
    鉄砲頭同心30人分預る。150石 
    天和元年(1681)11月12日 伊賀守改易被申渡
    12月8日 城請取並在藩目付沼田着
    12月9日 城回り並侍屋敷~19日まで 見分目付の案内役を勤む
    12月19日 沼田城引き渡し
    天和2年(1682)1月18日 期限にて侍屋敷明渡し完了、
    沼田近在に定住した。
    長女 恩田六左衛門尉成定の妻
    次女 青柳五右衛門順成の妻
    三女 岩下又右衛門の妻
 11代 石井信忠(棟重) 石井舎人政則 九郎右衛門信忠と改名
    妻は鈴子村塩入平左衛門の娘
    父重孝は沼田藩着先を見極めて信州に帰った。
    天和3年(1683)2月28日小県郡塩田庄保野村を定住の地と定めた。
    新田の開拓を始め、刀を鍬に替え、不慣れな野良仕事に音をあげては
    ならないと己を厳しく戒め、不退転の決意を込めていたと伝わる。
    (法名 託生院一誉蓮心居士) 宇保呂里に葬る
    妻 (法名 成生院学誉了栄大姉) 宇保呂里に葬る
    長男 石井信胤孫左衛門
    次男 石井信勝文左衛門
    三男 石井信成九郎右衛門
 以下略、以上の石井家の末裔の人々として、小県郡保野村(現上田市保野)に、32軒の方々が繁栄を続けている。なお、小泉には石井家が64軒もある。
 
 10代石井重孝の三女が嫁いだ岩下氏に付いては、小県郡岩下に住み、海野系岩下氏が姓としたという。小牧・岩下村を領した。世俗小牧殿と称し、岩下幸兼・幸邦などあり、岩下幸邦の弟にして、上之条に住み、竹鼻二郎左衛門と号し、のちに横尾領横尾但馬守と号し、世俗横尾殿、曲尾も小県洗馬地方には海野系半田氏も繁栄発展を続け屋代雨宮にも半田氏がいる。
 

東御市の海野氏

 東御市には、海野氏を名乗る人は一軒もいない。(30年前には3軒あった)

             

小諸市の海野氏

 小諸市に海野(うんの)氏は2軒のみです。(電話帳調べ)

 北佐久郡滝原村(現小諸市滝原)には、30余戸の白鳥姓の方々が存在しておられる。家紋は「対雁金」紋であり、海野から滝原村へ入植したといわれる。
   滝原村発願主
     白鳥 佐太夫
     白鳥 久兵衛
     白鳥藤右衛門
     白鳥 権之助
    天明7年(1787)8月12日
 上記の絵馬を白鳥神社に滝原村の代表4名が掲額している。
 8月12日は、本海野村の例大祭の日である。天明7年は、浅間山の大爆発で「天明の飢餓」と大災害が連続した年である。その直後に奉納されたものと思われる。 
 26代海野小太郎氏幸(応仁元年(1467)村上氏と戦い戦死した)
海野小太郎幸種(第27代幸棟より分家したと思われる)―海野和泉保幸―海野備後守幸忠―海野主膳宗幸―海野和泉幸澄―海野與惣兵衛幸厚(世はまさに戦国時代である、天文10年(1541)武田・諏訪・村上の連合軍に敗れ、海野家は各地に逃げ延び、名字をそれぞれ変えた)海野與惣兵衛幸厚の弟か子供が、白鳥姓に改姓して、滝原村の地域に移住したのではないだろうか。

 昆虫写真家、海野和男氏は昭和22年(1947)東京生まれ。物心ついたころから昆虫の魅力に取りつかれ、少年時代は蝶の採取や観察に明け暮れる。東京農工大学の日高敏隆研究室で昆虫行動学を学び、大学時代に撮影した「スジグロシロチョウの交尾否行動」の写真が雑誌に掲載され、それを契機にフリー写真家の道を歩んだ。
 氏は、東南アジアや中南米など世界各地で昆虫を撮影して、平成2年(1990)4月に小諸市大久保にアトリエを構えた。
 著書「昆虫の擬態」(平凡社)は1994年日本写真協会年度賞を受賞した。
最新刊に写真集「蛾蝶記」(福音館書店)。またNHKBSTV「海野和男の熱帯昆虫紀行」などに出演するなどテレビでも活躍、異次元から見た世界を追っている。  自然科学写真協会副会長・日本昆虫協会理事。
 東御市で撮影したオオルリシジミの交尾・佐久市のフクジュソウに止まったニホンミツバチ・東南アジアで撮った花の擬態をするハナカマキリなどの写真が目を引く。
 詳しくは「小諸日記」検索

 

佐久市の海野氏

  白鳥山陽雲寺の住職海野章一師の他に佐久市の海野(うんの)氏は2軒ある。(電話帳調べ)  

 信州佐久郡湯原村(佐久市)は、小田切村と隣り合ってできた集落で、ともに相当の古村である。小田切村(佐久市臼田町)は、弘安2年(1279)に、一遍上人がこの村の武士の館で、踊り念仏を始行しており、『一遍聖絵(六条縁起)』には村の一部が写生されている。
 小田切氏も、臼田氏と同様滋野氏の一支族とされている(滋野三家系図)。   承久の乱の参加者に小田切奥太があり(宇治川渡河戦)以下室町戦国時代にかけて小田切駿河守幸長以下、地方文献に名を出している小田切氏は少ない。
 嘉歴4年(1329)の『御射山頭役結番事』に小田切左衛門尉が見える。さらに『諏訪御符礼古書』によると、前後10数名の小田切氏が登場する。
 臼田氏・小田切氏・湯原氏の三氏は地理的にも血縁的にも、緊密な関係にあったことと思われる。
 臼田氏が早く佐久を離れ小県方面に転出したが、湯原氏も一部は湯原村に残存していた。湯原城陥落の際は小県方面に残存した臼田氏を頼り、あるいは遠く関東に移った臼田氏を頼って、常陸方面まで移住したのではなかろうか。
 常陸国稲敷郡羽賀(江戸崎町)を本拠として有力な土豪となっていた臼田氏を頼って、その近在の霞ヶ浦南辺の阿見町を中心の地帯に定着した湯原氏ではなかろうか。
 阿見町(稲敷郡旧阿見村・朝日村・君原村・船島村の一部が昭和34年合併)で、町内の若栗86戸・島津15戸・立の越5戸・西郷4戸・飯倉2戸に計112戸もある。その他、土浦市20戸・美浦村3戸・江戸崎町5戸・竜ヶ崎町29戸・利根村4戸・牛久町2戸等に分布して、下総分の栄町6戸・印西町2戸と湯川氏が存在している。詳しくは「三、ものがたり「海野」(五)善福寺と臼田文書)」を参照ください。
   

小谷村の海野氏

  玉泉寺の住職海野喜充師のみです。

白馬村の海野氏

  祥雲山貞麟寺の住職海野喜充師のみです。

安曇野市の海野氏

  安曇野市は海野(うんの)氏1軒のみです。

松本市の海野氏

 北林山西方胤極楽寺の住職海野一生師。西生寺の住職海野乗昭師をはじめ
 松本市の海野氏は18軒ある。(電話帳調べ)

辰野町の海野氏

 倉沢健郎さんは「私の先祖は海野氏です」と資料をいただいた。
次の通りである。
 親忠 橘氏、京都六条河原で戦死
 親基 南木曽町三留野、佐久にのがれ後に上野沼田に移った
 親茂 上野沼田に生れた
 親家 沼田姓を名のる、甲斐・鎌倉・木曽へと移った
 親仲 沼田姓 木曽に移住
 親教 沼田姓 木曽に移住
 親貞 沼田姓 木曽家定(弟)と北信に赴いた
 忠宗 兄忠宗倉沢姓に改め親範と改める、弟親頼前山姓を名のった
 忠正 滋野姓を名のった
 忠景 八島姓を名のる、東信濃に移り晩年木曽へ戻った
 忠定 根ノ井姓を名のる
 親光 倉沢姓を名のる、伊那在住、のち但馬守重清と号した
 親道 倉沢姓を名のる、伊那在住
 親方 倉沢姓を名のる、伊那在住、のち左衛門佐政清と号した
 義忠 倉沢二郎とも称し、伊那在住
 義治 木曽で育つ、倉沢姓を名のった。
 義景-景正-景斉-景栄-景陦-景陳-景臣-景長-景央-景辰(明治初期)-景誠-千景-健郎(義忠以降第15代目)と続いている。
 辰野町には、海野氏が一軒もない。

諏訪市の海野氏

 諏訪市の海野氏は2軒ある。(電話帳調べ)  

飯田市の海野家

 飯田市の海野氏は6軒ある。(電話帳調べ)

その他、長野県の飯山市に6軒、茅野市に9軒、下諏訪町に3軒、伊那市に11軒、
長野県には、201軒の海野氏がある。(電話帳調べ)

県外の都道府県の海野氏

北海道の海野氏

 覚英寺の住職海野覚爾師の他に札幌市内に海野家が33軒、北海道には162軒あり、「ウミノ」と呼称されている方は62軒と半数ある(電話帳調べ)
 
 海野義昌氏について昭和54年「老壮の友」3月号(日本老壮福祉協会発行)によると、北海道札幌市に在住の海野義治さんは110歳は北海道の男性第一位の長寿者です。
 翁は慶応4年4月27日に函館市中浜で父義智(85歳没)と母つた(99歳没)とに生れて間もなく両親に伴われて、小樽の奥沢に移住して、旅館を経営し屋号を「本陣」と称した。
 この海野氏の先祖は…第29代海野小太郎左京太夫幸義(村上義清との合戦の時戦
 死)―海野四郎幸綱(真田弾正忠幸隆の弟で、武田信玄に属し天文6年(1537)8月3日甲斐府中にて病死)
 初代海野六良衛義綱は穴山義宗の六男養子とし、
  真田幸村に仕え高野山に蟄居、大阪城で元和元年(1615)5月6日戦死
 2代海野左兵衛幸知 越前国敦賀郡敦賀川向村で、幼名秀千代、
              寛文10年(1670)9月23日病死
 3代海野左七郎義昌 寛文8年(668))名役元禄11年(1698)6月6日病死
 4代海野左兵衛幸宗 元禄10年(1697)名役、享保13年(1728)5月16日病死  
 5代海野左吉郎義氏 享保13年(1728)名役、享保18年(1733)3月23日病死
 6代海野左七郎幸経 父の名役を継ぎ延享元年(1744)3月16日病死
 7代海野左兵衛義国 延享元年(1744)6月8日浄徳寺孫助の次男を養子、
              安永3年(1774)2月2日病死
 8代海野左兵衛幸安 文化2年(1805)1月13日病死
 9代海野左吉郎義信 文政5年(1822)10月31日病死
 10代海野左吉郎幸長 文政6年(1823)8月7日病死
 11代海野左七郎義知 天保10年(1839)浄徳孫兵衛の四男を養子、
           明治2年公用を帯び北海道後志国小樽郡に転住する、
           のちに小樽郡戸長   
 12代海野次郎義治  17~18歳の頃、単身横浜に出て貿易商館に勤務の傍ら
           諸学校で簿記を教えた。
           10年小樽に帰り家業を手伝った。
           明治13年(1890)明治天皇がご巡幸の際、札幌に向かわれ
           天皇の先導を勤める。30歳でとく(20歳)と結婚。
           とくさんは昭和33年80歳で死去された。
           明治30年頃、旭川に転居して第7師団の御用商人と
           なった。その間に2男2女をもうけ、
           明治36年に札幌に移り郵便局に奉仕後、
           札幌石材会社に移り、大正2年頃再び旭川にもどり、
           富士電機会社に入社して定年まで勤務した。  
           次男義昌方に隠居した。
 13代義昌 義治の次男、妻とめよ
 14代隆義 義昌の長男、妻信子 と続き、地域で活躍されている。

 

青森県の海野氏

 青森県三戸郡市野沢の下洗にも海野氏がおり、三戸南部氏と共に、この地に来て「笹りんどう」の紋を伝えて今に至るという。ほかに八戸市には17軒、青森市・三沢市にはそれぞれ2軒の海野氏がおられ、青森県には23軒の海野(うんの)氏がいる。

岩手県の海野氏

 奕葉山久昌寺の住職海野講栄師の他に盛岡市に14軒、北上市に花岩山永昌寺の住職海野義憲師がおられ、岩手県には26軒の海野(うんの)氏がいる。(電話帳調べ)
 
 海野氏の先祖が、「後三年の役」(1083~87)に源義家の軍に従って東磐井郡川崎村に入り定住したという。
また、南北朝時代に滋野姓臼田氏の常陸(茨城県)移住に伴い、同族が海野姓を名乗り、その一部の海野氏が移住したと思われる。
 

宮城県の海野氏 

 登米郡米山町に海野氏16軒あり、仙台市に37軒、迫町に6軒、宮城県には76軒の海野(うんの)氏がいる。
 遠田郡涌谷町は日本で初めて金が採れた地で、宮城岩手に広がる地域は平泉黄金文化につながる一大産金地であった。
 一説には静岡県の安部川筋に金の採取場所を求めて、多胡(田子)の浦で金を掘った楢原東人の子孫が安部に移住したとも言われているそうだが、それは伝承として語り継ぐべきことと思われる。
 平成30年10月に、仙台市の司書海野修市氏(図書館問題研究会)が海野の研究のために東御市に来られ、海野に関係する史跡等を案内した。

秋田県の海野氏

 秋田県秋田市2軒、横手市・湯沢市に各1軒の海野(うんの)氏が、秋田県には8軒おる(電話帳調べ)

山形県の海野氏

  西村山郡朝日町に68軒、山形市に32軒、寒河江市に13軒、天童市に5軒、米沢市に6軒、南陽市に7軒、山形県には168軒の海野(うんの)氏がいる。(電話帳調べ)

 山形市沼木の海野由美子氏の菩提寺である若宮寺をご案内していただいた。
 その御住職様から海野氏の由緒について、お話をお聞きした。
 出羽海野氏は、永禄2年(1559)に信州から高崎に移住した。この年は武田信玄が西上州を攻めた。その後、同6年(1563)には高崎より出州へ下向して一族郎党と共に出羽国寒河江庄に来たという。真田幸隆は鎌原城主羽尾道雲入道(幸全)の留守を聞き奪い返した。寒河江城主大江高基公に預けられ、郡奉行申し付かり知行300石となった。朝日町の海野氏の初代海野信治は、武田信玄の孫であり、初代海野信治の父は、武田信玄の二男(海野次郎元治=龍宝)であるという。
 2代 海野忠治下総、次男海野善次郎長女・大谷白田監物の妻、
   次女・高田庄右衛門の妻
 3代 義治下総と改名・次男海野助衛門・三男善兵衛長女
 4代 善六 42歳で死亡・次男善九郎長女・次女
 5代 善七治右衛門・長女宮宿柴田七郎右衛門妻
 6代 善右衛門
 7代 光三郎次男寛兵衛・長女島七郎秘儀衛門妻
 8代 善七長女吉村鈴木治右衛門妻・次女八沼
 9代 与三郎・次男義三郎・三男加藤治・長女川通島平内妻
 10代 善七、安永7年(1778)34歳死亡・次男卯之助・
    長女伊藤六右衛門妻・次女田村柏倉六右衛門妻 
 11代 善七次男松之助・三男松之助・長女大谷白田長三郎妻
 12代 善七次男竹次郎・長女島藤源太郎妻・三男林治大巻菅井勘六養子
 13代 善七次男善作(分家丸山海野孝多)森治(分家海野善六)
 14代 善四郎子供善三郎・善四郎妻杉下
 15代 善三郎 妻真中
 16代 善七  妻橋上
 17代 信晴  妻上ノ原(現在寒河江に移住) 平成3年6月死去
 18代 ?   と続いている。
 甲斐夫人は、上杉景勝の室で、初代海野信治の叔母に当たる人で、海野次郎元治=竜法の妹である。初代海野次郎信治のおじに当たる人が武田信清(武田信玄7男)である。
 

福島県の海野氏

 無為山泥洹院康善寺の住職海野卓哉師、専修山安養寺の住職海野寿夫師をはじめ大沼郡新鶴村に海野(うんの)氏11軒。
 他に、いわき市に30軒、福島市に17軒、郡山市に10軒、白河市に7軒、東白河郡矢祭町に7軒、会津若松市に6軒、須賀川市に6軒、福島県には91軒の海野氏がいる。

 

茨城県の海野氏

 茨城県には海野(うんの)氏が704軒もあり全国第2位である。

 常陸の国(茨城県)に海野氏がいる。来歴は不明であるが、戦国時代の永禄の頃、山野尾城(または串形城ともいい、多賀郡十王町友部にあった)の城主・小野崎義昌の家中に海野安太郎がいた。義昌は佐竹義昭の子で、小野崎成通の養子となったが、その際佐竹家から附入として来たという。
 天文13年に信州から上州に移った海野棟綱の一族が、更に常陸に赴いたとも言われている。また、同じ日立市に、代々五郎兵衛を襲名する家もあり、当初は「六文銭」の紋を使用し中途から「七曜」に改めたという。現当主海野喜七氏である。
 日立市鮎川町に海野あきの氏の情報では、鮎川町に13軒、旧壱浦町川尻と旧国分村大久保に6軒の海野氏がある 
 勝田市中根に海野(うんの)氏は29軒ある。

 日立市田尻の海野忠家所蔵『古碑銘祭文』(享和3年(1803)7月6日)によれば、
先祖は海野紀伊守義三で、滋野親王の末裔、子孫海野左衛門尉幸氏の枝葉である。
 慶長年間(1596)以前までは、水戸城主・佐竹氏に属し、その配下となり、武功に輝く英雄であったという。
 慶長3年(1598)水戸城主・佐竹一族は羽州秋田城に遷ったが、海野家は秋田に移動せず常陸に留まった。武士から民間に降り、田志理邑(田尻宿)の駅吏となったという。
 没後、ときの田尻淑海野家当主、息子の義次は碑を建立し祭祀を怠なかったという。その後碑面が摩滅したために、義次の志を継いだ子孫が新しい建碑をなした。
碑文は「累世にわたり武功を重ねた海野家の当主も空しく一塚の中に埋もれる。
哀しい哉!かなしいかな!」

 日立市に120軒、水戸市に126軒、勝田市に84軒、常陸太田市28軒。
 那珂町に155軒(鴻巣31、後台27、杉19、門部18、菅谷18)また吽野(うんの)氏が那珂町に57軒(鴻巣51軒、後台1軒、菅谷5軒)そして宇野氏が那珂町に8軒(鴻巣2軒、杉1軒、菅谷5軒)おり、那珂町鴻巣では、高畑・吽野・海野・大内・細谷姓が特に多いが、海野姓は第3位である。

 この那珂町雌雄辺は、奈良朝末期から北関東の豪族佐竹氏の支配下であった。 鎌倉時代から戦国時代にかけて、多くの士族が興亡したが、結局、常陸太田に城を構えた佐竹氏が常陸を統一した。
 江戸時代には、佐竹氏が出羽秋田に転封され、代わって親藩御三家の水戸家の時代となったころ、海野家の人々の中にも、武士を捨て、農に就いた人も多かったのであろう。
 水戸藩でも、2代光圀の代から藩財政の困窮は表面化して、藩士の生活難も深まっただけでなく農村でも田畑の荒廃が目立ち、人口が減って農業生産力が衰えていったという。海野姓の人々は一団となって互いに手を取り合って生き抜いてこられ、親から子へ、子から孫へと「先祖の地は信濃国の海野である」ことも語り継がれてきたことであろう。
 

栃木県の海野氏

 電話帳で調べると、芳賀町に12軒、足利市に9軒、宇都宮市に8軒と栃木県に48軒の海野(うんの)氏がいる。

 足利市の白鳥家所蔵の家系図によると
 26代海野小太郎氏幸(応仁元年(1467)村上氏と戦い戦死した。
海野小太郎幸種信濃守(第27代海野幸棟より分家したと思われる)――海野和泉保幸―海野備後守幸忠―海野主膳宗幸―海野和泉幸澄―海野与惣兵衛幸厚と続いた。
その後、この海野与惣兵衛幸厚は海野邑にて始めて民間に下って、白鳥姓に改姓した。世はまさに戦国時代であった。天文10年(1541)武田・諏訪・村上の連合軍に敗れた海野氏は各地に逃げ延び、名字を変えている。
幸厚の弟白鳥勘右衛門幸邦白鳥修理は海野邑から長野県中野市間山に移った。
 その地で、白鳥三左衛門幸輝の弟白鳥市兵衛元幸は元和6年(1620)に公儀より西間村(現在の長野県中野市の中野扇状地の西南端の湧水地帯で、中野西高校の辺)の開拓を命じられた。
 足利白鳥家の発祥の地は長野県西間村で始祖はその地で新田開墾の棟梁を務めたとし、家紋洲浜が受け継がれている。

群馬県の海野氏

 桐生市15軒、前橋市・高崎市・伊勢崎市各6軒、
 群馬県の海野(うんの)氏は63軒である。
岩櫃落城後に僧となり、吾妻郡吾妻町岩下の「菅原神社」天満宮別当となった海野恭斎氏がおられる。同家の伝承によると、先祖は、海野氏滅亡で棟綱が上州に亡命した一族が住み着いたと言われている。
 『天山見聞感録』に記載されている『当院中興記』〈第11代順円、寛政6年(1794)〉の記録にもあり。代々菅原神社の社掌祢宜として現在に至る、現当主海野信義氏は吾妻町岩下に居住している。
 吾妻郡嬬恋村田代の海野西五郎氏によると
 海野西五郎氏の祖は信濃海野氏で、鎌倉から南北朝時代に西上州に進出し土地を開墾して豪族となった。菩提寺は火災に遭い焼失して詳しいことはわからないが、土地の名前を姓として分家した下屋氏・鎌原氏・羽尾氏等と称し、繁栄したという。

埼玉県の海野氏

 浦和市に17軒、熊谷市に21軒、川越市に11軒、大宮市に18軒、川口市に16件、越谷市に13軒、上尾市に15軒、板戸市に10軒、北葛飾郡吉川町に5軒、埼玉県に海野(うんの)氏は260軒がある。
 
 海野楊斎(医師の墓石) 本庄市中央3-3-6 若泉山安養院無量寺の墓地内 
 墓石の高さ120㎝、台石40㎝の碑文は次のとおりである。
 翁名は敦、号は槐庵。父は殿木四郎と言い、駿河海野村海野僧嶺の娘をめとり、翁を江戸にて生みて没す。4歳、祖母翁をひいて駿に返り、授くるに書を以てす。8歳、文選を読み、帰りて花岡流宮川氏に随ウ。18歳海野氏を冒す。 21歳房州の蘭学某に学ぶ。25歳にして還り、江戸に開業す。28歳緒方氏を師とす。30歳にして返り、開業す。公候、治を求むる者おびただし。翁、紛譁を厭い、嘉永6年小川に移る。後上州境にうつる。文政3年、武州本庄に転ず。明治12年8月21日没す。歳70.安養院に葬る。翁、細目にして豊下、襟期・高邁たり。舎蜜・兵津と火器を造り外科器をつくるとより、以て鉄筆・隷字に至り皆其の妙を極む。しかして時に或いは、吟哦・遊猟し、世表に脱落す。然るに其の才を展ること能わずして没す。命なるかな。詩有りて云う。「医を学び 兵を学は、規無きがごとし。兵は詭道を要し、薬は奇を要す。若くし 詭奇を以て大意を論ぜば、人・身・家・国是れ同て治む」。其の志知るべきかな。嶋立甫曰く。
     海 野 楊 斎 墓 
 治術は、坪井・竹内・大槻・伊東より浮る。祖母、本居氏を師とし、元加州の娘某君の師たり。翁の成就・才識もまた淵源有るなり。弟は賢助という。二姉有り。子無し。妻田中氏、後事を経理すと云う。
 明治12年8月        元安中儒員佐々木溥 撰文
 
clip_0101.jpg 本姓 田中海野政女石を建つ

 上記の書類を埼玉県北本市北本宿182-7 金子幸生氏 ☏048-592-5616
からいただきました。

 平成5年6月中旬に海野一族(兄弟・姉妹)九名で遠祖の地(海野宿)を来訪された。
  所沢市     海野 一男
  飯能市     三輪 信男・澄子(旧姓海野)
  飯能市     海野 武人
  入間市     吉原 文雄・里子(旧姓海野)
  日高市     海野 昭夫・京子
  東京都東大和市 小川 正子(旧姓海野)以上九名は茨城県のご出身である。
 三輪澄子氏・吉原里子氏・小川正子氏も茨城県の海野家から、海野京子氏は茨城県の海野昭夫氏と結婚されている。

 井出永昌碑について
南崎玉郡出羽村(現越谷市)の豪士・井出氏の中世の祖は会田清右衛門という。
 海野幸氏の支裔、故ありて、井出郷に住んで農を業として、井出氏を称す。
 その名を立て、志を遂げんとして、信州を去り、武蔵に移り、越ケ谷駅吏を勤める。同門会田出羽のもとに赴く。しかして出羽没する。
 その子、幼少の故、会田と改めて越ケ谷町の名主を勤める。出羽の子が長ずるに及んで、その職をその子に譲り、美田が広がる桃戸郷(七左新田)に家を建てて移り住み、七左衛門世襲、名主の基を開いた。寛永(1624~44)年間に死去。
 その跡は養子井出三右衛門が継いで、姓を再び井出氏に改め英敏と称した。その才能は人に優れ関東郡代伊奈氏に仕え、利根川・江戸川の修治にあたったが、元禄(1688~1704)年間には租税の吏に任ぜられた。この間、伊奈氏の重臣酒井氏に精勤抜群のかどで賞を賜った。享保14年(1729)に死去した。
 その跡を継いだのは喜太夫と称したが生来、学を好み識量豊で、はじめ官学所で幕政を学び、帰郷後伊奈氏に仕え、武州総州の農政に尽力した。寛永4年(1775)に死去する。
 その跡は義資と称し、四時粁と号した。権蔵が井出家を継いだ。生来才気にすぐれ、独立心強く、捷才、安永(1772~80)年間の洪水には、道路の水除堤を決壊しようとした上郷村の衆を、快力をもって撃退させ村人の信頼を一新に集めた。天明4年(1784)に死去した。
 その跡は清右衛門が継いだ。学を好み、気宇広大、越ケ谷駅長(問屋)を兼務したが、のち越ケ谷の別荘に移り財産を蓄積した。文化5年(1805)に死去する。
 その後は田中氏より養子を迎えて井出家を継いだ。智義と称し春耕幹と号した。生来実励にして、志厚く、かつ神仏を敬う念が強かった。
家業のかたわら、子弟に読み書きを教え、その名を高めた。文化2年(1805)に死去した。
 その跡は、その子の勇蔵が継いだ。生来温厚親に孝、学を納めて土功水利に長じたが、さらに渦動抜芸にも長じ、訪れる文人墨客が多かった。天保10年(1839)に死去し、子の門平が継いだ。幼くして父を失ったが昼は農耕、夜は学習に励み、万延元年(1860)から越ケ谷駅長問屋を兼掌したが激務のため失明、衆人これを哀れんだが、その才能は死ぬまで衰えなかった。明治15年死去した。
 その跡を継いだのは門平の子庸造で梅香と号した。聡明・篤学・俊才で率先して農耕に奮励した。これを見習い村民は自ら一和した。明治維新にあたっては、県会議員も歴任し、明治22年の町村合併にあたっては、出羽村初代の村長に選ばれた。その徳は一郷に薫る。
 明治28年の春、梅香の嗣子斉義、庭中に碑を建立する。「兵陽 増田 貢 撰」
 
 

千葉県の海野氏

 「三つ蝶」「雁金」「州浜」の家紋を伝える流れもあり、現当主海野武幸氏は東御市から流山市に居住したという。

 千葉市に44軒、市川市に29軒、松戸市に23軒、船橋市に19軒、大網白里町に10軒、柏市に9軒、流山市に9軒、野田市に9軒、佐原市に8軒、千葉県には海野(うんの)氏が220軒ある。
 

東京都の海野氏

 
 千代田区大手町1-9-5  海野 弘(評論家) 1939年生まれ、 
  早稲田大学文学部卒業。出版社を経て、美術・映画・
  音楽・都市論・華道・小説など幅広い分野で執筆活動に従事する。
  主著に『モダン都市東京』『プルーストの部屋』(中公文庫)
  『陰謀の世界史』『スパイの世界史』(文藝春秋)などがある。 

 明治大学文学部教授に海野福寿(昭和6年東京都に生れ)東大大学院修了、農学博士
   静岡大法経短大部教授を経て、現職。近代日本経済史専攻。
   著書に「明治の貿易」等あります。

 明治大学政治経済学部教授に海野素央 
 
 東京金管五重奏団(トーキンファイブ)の一人に海野貴裕がいる。氏は1985年東京コンセルヴァトアール演奏研究科ホルン専攻卆。ホルンを工藤光博・沖田安宏の各氏に師事。在学中より室内楽で公演・録音を行い、卒業後は室内楽を中心にバンドディレクターや後進の指導にあたる。FM放送録画・レコーディング・リサイタルをはじめ、全国で青少年のためのコンサートを開催、その数は年間180回にも及んでいる。数々の金賞をもたらし、久留島武彦文化賞受賞。

 「世界の水道」(技報堂出版)著者の海野信好は精力的にヨーロッパ・北アメリカ等の水道を視察されて、各地の事情がわかり興味深かったという。緻密な調査を個人的に重ねての出版に敬意を表します。

 海野一隆の著書「地図の史話」(雄松堂出版)は、東西159点の地図との対話による興味あふれる読物。たわむれの地図・いつわりの地図・漢民族と砂漠・西遊記の世界像・アジア人の地理観などの記事が載る。

(海野勝珉(眠)は、天保15年(1844)5月15日に伝右衛門の四男として水戸で生れ、幼名竹次郎。大正4年(1915)10月5日没、享年71歳。別号は東華斎・芳州という、叔父にあたる水戸藩士だった初代海野美盛に金属彫刻を学ぶ。更に美盛の紹介で、当時水戸彫金界の泰斗だった同藩士萩谷勝平から、金属工芸の諸技術を収めて、基平と名乗った。「勝珉」の名は、師である萩谷勝平の「勝」と、江戸時代の名彫金家である横谷宗珉の「珉」を合わせ後に名乗ったと考えられる。また水戸時代には、安達梅渓に絵を、武庄次郎に漢籍も学び、高い教養も身につけている。明治初年に上京、明治9年(1876)駒込千駄木町で開業した。明治10年第1回内国勧業博覧会、明治14年第2回内国勧業博覧会で褒状、明治23年(1890)第3回同博覧会で「蘭陸王」で妙技一等賞、翌年東京美術学校助教授となり、先達で同校教授だった加納夏雄に師事し、更なる研鑽を積んだ。明治27年(1894)東京美術学校教授、翌年の第4回同博覧会では審査員。明治29年(1896)6月30日には帝室技芸員を拝命。明治38年(1905)加納に続き勲六等瑞宝章を受けた。大正4年(1915)に死去後は、従四位勲四等に叙せられた。墓所は豊島区駒込の染井霊園。弟の海野盛寿も彫金家。また、三男海野清(1884~1956)は日本芸術院会員、人間国宝、東京芸大教授、日本の伝統技法に西洋の題材・造形を融合させて創作を行った

 東京都の海野氏は506軒のうち「ウミノ」呼称される方は221軒である。

神奈川県の海野氏

 神奈川県には、小田原市に29軒、川崎市に56軒、横須賀市に20軒、茅ケ崎市に16軒、藤沢市に15軒、大和市に11軒、足柄下郡真鶴町に11軒、横浜市に10軒、鎌倉市に10軒、神奈川県に海野(うんの)氏は421軒ある。

 横浜市栄区笠間4-10-1大船パークタウンB707(〒247-0006)
海野秀男氏(☏045-894-9575)は、和同エンジニアリング㈱に勤めながら、孫のためにツールを調査されており、今までの調査経緯は次の通りという。
 天暦4年(950)滋野幸俊が海野家の初代で、天正10年(1541)28代海野棟綱で海野宗家は600年の歴史に幕を閉じて滅亡したが、海野家再興の祖として傍系の羽尾幸全の息子の羽尾輝幸(海野能登守輝幸)が沼田城主であった頃、彼を妬む者の讒言を信じた真田昌幸に討伐された、と沼田市岡谷町に市の指定史跡として教育委員会名で建立されている。  
 沼田市岡谷町に海野能登守と子の幸貞が自刃した海野塚があり、その流れが茨城県水戸・那珂町周辺から福島県白河市の菩提寺である常宣寺(六連銭)に海野家累代の墓があるので逆に調べた処「海野甚蔵」が居ったことが判った。その間、白河市教育委員会より阿部家資料群(記号Ⅰ)先祖書のコピーを載き、その原書の冒頭に「米50俵2人扶持・本国信州・生国武蔵」とあり、その下に海野甚蔵の名前が記されている。その資料によると、今の埼玉県行田市の忍城に阿部藩主5代目昌喬氏に仕えており、正徳5年(1715)となっており、それ以降の系図も分ったが、群馬県沼田で天正9年(1581)に討死した海野能登守輝幸から埼玉県行田市の忍城にて生まれた海野甚蔵「正徳5年(1715)」の間、約150年は不明なので、どなたかの助言・情報をお願いする。 
 平成31年3月15日に小田原市に海野裕幾氏から連絡があった。
それによりますと「当家の海野は信濃より甲斐を通り駿河(徳川領域で徳川に仕えていたようであるが、その役職は定かでない)、さらに駿東へ、そして三島(茅町)に移住したと、これは、祖父の故角次郎より、私が幼いころ聞かされた話です。角次郎の妻は、信州飯田の在所奥から来た」
 

山梨県の海野氏

  甲斐に残った海野氏で、山梨郡勝沼村に海宝院を開いた一族がいて、京都の醍醐三宝院の号を賜るよう運動したという伝えがあるという。
 現当主海野金作氏は今も勝沼町に居り、遠祖は左京大夫幸義であるという。 
  鰍沢町海野家は、天文10年(1541)のころ、信濃海野氏滅亡後、一族の者が武田の家臣となり、武田氏が滅亡後鰍沢の地に帰農したと思われる。

 甲府市49軒、昭和町18軒、鰍沢町16軒、白州町7軒、身延町5軒、敷島町4軒、一宮町4軒など、山梨県の海野氏は150軒ある。

新潟県の海野氏

 雲谷山浄厳寺の住職海野知現師をはじめ
 新潟県の海野家は23軒あり、「ウミノ」と呼称される方は6軒ある。
 「五、海野系寺社」の末尾に「戦国時代に信濃から越後に移った浄土真宗の寺」を列記したが、多くの寺が移住した背景を考えると、村上氏が上杉謙信を頼って越後に逃散したことと関係があるように思われる。

富山県の海野氏

 大宝山真成寺の住職海野芳雄師がおられる。。
 
 他に、黒部市宇奈月町352-7 宇奈月ニューオータニホテル(☏0765-62-1311) の社名が㈲ヒューマニック雲野(うんの)とあり、聞き取りはしてないが、
海野氏に関係がありそうだ。。
 また富山県平村五箇山海野氏に関係深いと思われ、今後の研究がまたれます。

 魚津市に27軒と富山県の海野氏は45軒ある。

石川県の海野氏

 法雲山真教寺の住職海野進師をはじめ
 石川郡美川町に10軒、石川県の海野(うんの)氏は28軒ある。
 

福井県の海野氏

 本吉山万法寺の住職海野光暁師をはじめ福井県には12軒の海野(うんの)氏がある。
  
 われわれ、海野史研究会一行44名は昭和57年(1982)4月19日に、本吉山万法寺を訪ね一泊研修をした。
 

岐阜県の海野氏

 岐阜県の海野(うんの)氏は22軒ある。 
 
 瑞浪市寺河戸町常盤通りに「四季の膳 ひさご」☏0572-68-2658
FAX 0572-67-2658 料亭を経営している海野一美氏がおられる。
料理人でもあり作曲も手掛ける異色の人物で、店内の壁をくり貫いて陶器の町らしく器が展示してあり、まるで美術館に来たような空間造りが圧巻だ。
 海野家は昭和20年に静岡市から引っ越してきた、元々父親が料亭をやっていたのだたいう。祖が代々は静岡だが、海野家のルーツは信州の海野という。詳しくは「ひさご」検索。 

静岡県の海野氏

  現在、海野(うんの)氏は葵区1,670軒(静岡市に1,626軒を中心に井川12軒・梅ケ島1軒・落合27軒・岡部町27軒)、清水区251軒(清水市209軒を中心に蒲原町38軒・由比町4軒)、富士市102軒(富士市94軒・富士川町8軒)、藤枝市97軒、焼津市63軒、沼津市69軒、浜松市36軒、三島市25軒、袋井市22軒、島田市18軒、掛川市19軒、伊東市13軒、熱海市11軒、榛原郡川根本町11軒、磐田市11軒、小笠町10軒、御殿場市9軒、下田市6軒、菊川市6軒、御前崎市5軒など、静岡県には2,390軒の海野氏がおり軒数は全国で第1位である。
 
 静岡県静岡市西豊田小学校玄関脇に童謡「せいくらべ」の碑がある。
作者海野厚は、本名厚一という。この碑は、昭和36年11月3日建てられた。この歌は大正8年ころの作で、北原白秋に認められて、多忙の中山晋平が曲を付けている。発表の二年後に28歳で早世したという。ほかに「おもちゃのマーチ」「ろじのほそみち」「からくり」なども、この人の作である。海野厚は曲金村の大地主11代海野伊三郎の長男(12代)として明治29年8月12日に生まれ、早稲田大学卒、大正14年5月20日28歳で没した。
 静岡市の駿府公園にも、昭和63年に設置され、海野厚作詞の不巧の名曲♪背くらべ♪ ♬玩具のマーチ♬の美しいメロデーが流れ時を告げている。また同年に童謡作詞家海野厚氏の歌碑が「背くらべ」の歌詞にある、5月5日に菩提寺の宝厳寺に建立された。 
長頸子と号し俳句も作った。
 奇縁というか、「せいくらべ」の作曲した中山晋平の生れ故郷である長野県中野市の間山にも多くの海野氏が28戸あり、毎年海野家の先祖祭りを執り行なっている。

 海野宏之氏の「海野氏世代略書」によると、この曲金村の海野家は、初代海野久右衛門源忠宗が寛永11年(1634)8月14日卆、法名義林院體室全正居士とある。
妻は足久保の梶山氏娘、法名瑞松院年算永寿大姉、寛永11年7月9日卆。
 2代久左衛門源忠常の三男小兵衛(宝永元年(1704)5月13日卆)は
  曲金村より柚木村に分家し山根の海野の祖として
 11代海野芳敬氏
 12代海野宏之氏と続いて地域で活躍され、駿河海野会の事務局長も兼務
 されている。 
 
 海野光弘は1939年11月生れ、1979年9月に39歳の若さで脳出血のた死去。1959年4月に中学1年生の時、日記の中で版画を制作。その後版画に没頭したという。海野さんが亡くなられたあと、遺族が遺作の全作品と版木・日記・スケッチなどの資料400点を、島田市に寄贈した。「海野光弘版画記念館」は島田宿大井川、川越遺跡街に建つが、明治23年(1890)に建築された桜井邸の建物と庭を島田市が改装して2000年4月28日に開館したという。整備費用1億4千万円、母屋は木造二階建て延べ面積350㎡。
 
 シスター海野(本名海野常世)は静岡市生まれ、約40年間旧満州や日本各地で幼稚園長を務め、昭和47年4月、「第二の人生は恵まれない人のために」とフィリピンへ渡った。マニラからルソン島のバギオに向かうベンゲット道路の建設は大勢の日本人が従事し、数百人が犠牲なったという。 日本から訪れる遺骨収集団や戦跡慰霊団に呼びかけて寄付を募り、奨学金を設立した。いま、150人余の日系人やフィリピン人の高校・大学生が援助を受けている。平成元年12月31日午後10時50分、胃がんのためフランスシスコ修道院で死去した。78歳。

 永禄初期(1560~)ごろ諏訪刑部信真「永禄12年(1569)5月卆、法名 儀鏡院殿節当祖忠大居士」が一男一女(元眞とその姉)を伴って南アルプスを越え駿州安部郡井川に入り、元眞は武田氏に随身を拒み駿府城の今川義元に仕えた。今川より地名の安倍の姓を賜り、安倍大蔵と名乗った。
 その後、永禄11年12月13日、武田信玄に駿府城が攻略され、今川義元の一子氏実は掛川城に入り、元眞は、その子の信勝と共に岡部次郎左衛門と協力し、本丸は岡部氏が、二の丸は元眞父子が守っていたが、戦が不利になり大井川を南下して遠州の徳川家康の援助を求め、家康に仕え援軍を得て、武田勢の拠点筒野城・水見色城・川根城・土岐城・天野城・花沢の城等を攻略するなど徳川山岳戦に従い幾多の功績を掲げたので家康お墨付の感状をいただいた。
 その後元眞「天正15年(1587)10月10日卆、75歳で病死する、法名龍泉院殿心清浄安大居士」が隠居し、子の信勝「武州5250石、慶長5年(1600)1月2日卆、法名大正院殿捐館等山源勝大居士」に譲り、再び井川に戻った。
 10代海野幸氏の子、五男海野矢四郎助氏、その子弥兵衛泰信、その子泰勝、その子泰秀、その子泰頼「慶長20年(1615)10月1日卒、法名天生宗眼禅定門」と続いた。元眞の井川の家督は泰頼の長男本定を養子に迎え、諏訪氏の出である安倍大蔵元眞の娘を妻とし、本定は海野姓を復活した。
 初代海野弥兵衛尉本定と名乗り徳川に仕え、安倍金山の奉行、安倍山の材木の御用、刎橋の建設の御用、家康の御用茶を生産し保管する御茶壺詰用、家康の鷹狩に用いる鷹の捕獲をする御巣鷹の御用を勤め、そのために7カ村の百姓の支配と共に口坂本村の知行も認められた。また、駿府城に登り御茶の御用をも勤めた。元和3年(1617)に没し、曹洞宗大井山龍泉院に葬られた。法名は松雲常筠居士。
 2代本定の嫡子弥兵衛元重も父と同様7カ村の百姓の支配を認められ、
  金山・刎橋・木材・御茶壺詰・巣鷹等の御用を勤め家康に奉公し、
  その後は徳川頼宣に仕えた。元重は寛文5年(1665)に病死し龍泉院に葬られ、
   (法名見寿院殿松山道鷹居士)です。
 3代元重の長男五左衛門正成は駿河大納言徳川忠長の側近として仕えた。
   忠長乱功行の責任を問われ石見国に追放された。
 4代元重の次男信典が家督を継ぐが、家運は衰退の一途を辿るが、しかし、 
   長年に亘り井川郷で築いた先祖の遺徳に支えられ、近代まで「井川の殿様」
   の地位は続いた。元禄14年(1701)に没し、(法名名山)
 5代信氏は享保13年(1728)に没し、(法名日山)
 6代信武は天明4年(1784)に没し、(法名厳霜)
 7代信包は寛政12年(1800)に没し、(法名釋栄)
 8代信能は文政7年(1824)に没し、(法名唯佛) 田代村 源蔵倅
 9代信茂は明治3年(1870)に没し、(法名見量) 服織村 石上久左衛門倅
 10代信孝は明治12年(1879)に没し、(法名良圓)駿府本陣 木村仁兵衛倅
 11代信常(孝三郎)は昭和2年(1927)に没し、(法名徹心)
 12代現当主海野久弥家の皆様がご活躍されている。
 本定より数えて11代目海野信常(孝三郎)は、は母かん(駿府城勤め禄高百俵取旗本秋田三郎右衛門の娘)の実家で、嘉永5年(1852)2月1日に生まれ、井川で父信孝に学問を教わり、慶応3年(1867)16歳の時、江戸に出て慶應義塾に学び、大阪や京に出て見聞を広め、明治2年父信孝の死に伴い家督を継いだ。
 明治の政治制度により、安倍郡は五大区となり初代区長に孝三郎が任命された。続いて県会議員制度が出来て、初代県会議員に推薦され、県政で活躍し、本業の茶業の発展に尽力し、全国茶業の組織し茶業発展の基礎を築いた。
 また井川に発電所の設立を計画し、完成すると、安倍鉄道の設立にも尽力した。その後は井川村長も務め、昭和2年11月1日、76歳で死去した。
 曲金の法蔵寺に法名、信孝院殿徹心樹高大居士として葬られる。
 静岡市史編纂委員の宮本勉先生は「海野は駿河の名族である」と言う。
また、井川には金・お茶・美林等があり、駿河の今川氏も甲斐の武田氏も狙っておった場所でもあった。
 海野氏を代表するのが、「井川の殿さま」として有名な井川の海野家である。その子孫に清水港を開港した海野孝三郎がいます。
 昭和12年(1937)に彼の功績を讃えた頌功碑が天下の名勝日本平に建てられた。
 日本平の山頂には翁の銅像が港を見守っている。

 

愛知県の海野氏

 名古屋市に海野氏が83軒 
 愛知県には海野(うんの)氏が200軒もある。

三重県の海野氏

 四日市市に14軒、津市に38軒の海野氏がある。
 三重県には海野(うんの)氏が185軒ある。(電話帳調べ)

 安濃町安芸郡栗加(現在津市安濃町栗加)の海野輝夫氏から、次のような情報をいただいた。海野姓は、栗加地区に43軒あり、世帯の殆どを占めている。
 三重県の史跡に指定されている田丸城(度合郡玉城町)は、今より約650年以前に北畠親房らによって築城された。北畠親房の子の北畠顕家は、それより以前に陸奥守に任ぜられた。後醍醐天皇の皇子(義良親王、後年の後村上天皇)を擁して多賀城に拠っていた。陸奥守の大介として、義良親王の補佐の任にあたり、陸奥の地に、睨みを利かせた。
 南北朝時代に後醍醐天皇が吉野に脱出して、南朝を開いた。延元元年(1336)には、足利尊氏討伐の綸旨を全国に発信したが、この時、北畠顕家は、父の親房とともに多賀城(宮城県多賀城市)で、綸旨を受け、兵を集めて親房と共に先ず鎌倉を目ざした。
 やがて北畠親房は、伊勢の田丸城を拠点にして京都奪回に執念を燃やしたが、しかし南朝の勢力挽回のために働いたが衰退は覆(おお)いようもなかった。
伊勢は北畠氏の地盤であり、伊勢栗加の海野氏も、伊勢田丸城を拠点として北畠軍と行動をともにした。
 栗加地区に集中している海野氏は、南北朝時代に北畠氏の家臣であり、後世に居を移して、帰農したものであろう。
 延元元年(1336)には、朝廷は義良親王方を各地に派遣して、指揮・連絡に当たらせている。
 宗良親王は10月に遠州に入り、そして、12月には後醍醐天皇は吉野へ、これより南北朝時代が始まった。
 北畠顕家の率いる奥州の大軍は、遠州に到着し、宗良親王は遠州の数千の兵をもって参加合流したという。
 延元2年(1337)には、宗良親王は、伊勢一瀬城にて御歌
 「み山をは 独りな出てそ ほととぎす われも都の 人を待つらむ」
 一瀬城は、現在の三重県度合郡脇出の宮川上流である。
 延元3年(1338)2月14日北畠顕家は、北朝軍と伊勢の河又河口に戦い、3月8日北畠顕家は北軍を天王寺に撃破した。
9月には伊勢大湊を出港して台風にあい、宗良親王は、遠江(現在の静岡県)に、北畠親房は常陸(現在の茨城県)に着いている。
 暦応3年(1240)には宗良親王は、駿河より信濃へ赴き大河原(現在の下伊那郡大鹿村)に至り香坂高宗家に身を託した。
 香坂高宗家の子孫は大河原城にあり、一族のうち更級郡牧之島城に移る者もあった。後に禅正宗重は、武田氏に仕えて、香坂昌信は武田信玄の24将の名門香坂家を中興させている。
 

滋賀県の海野氏

 五箇所町の青蓮寺等も海野氏に関係深いと思われので、今後の研究がまたれる。
 
 滋賀県に海野氏は14軒ある。

京都府の海野氏

 京都市中京区仁生中川町9に「天狗堂海野製パン所」があり、東映撮影所が近いため、芸能関係者のファンも多い。創業は大正11年、社長海野滋、社員6名、営業時間は午前7時~午後8時まで、休日は日曜日。☏075-841-9883。

 京都府には海野氏が35軒の内「ウミノ」と呼称される方は19件ある。

大阪府の海野氏

 大阪市に40軒、堺市と高槻市にそれぞれ11軒、大阪府に海野氏は200軒もあり、「ウミノ」と呼称される方は半分の100軒ある。 

 豊中市永楽荘4丁目の海野(宇野)浩二氏の系図は、
次のように記している。
 海野氏9代海野幸広(海野小太郎四郎代々用雁金之紋)宇野家が始まり
 2代海野幸氏(海野小太郎左衛門尉)
 3代海野幸継(海野信濃守於同所賜十万町)
 4代幸家
 5代氏広
 6代氏経(海野平次、織田信長不用風諫故切腹)
 7代氏行(海野小左衛門、食居於泉州、毎祈大鳥明神、武門再興)
 8代氏道
 9代幸勝(海野平次右衛門、童名槌千代以大鳥明神氏神、日本武尊也室者)
 10代幸経
 11代幸成
 12代行辰
 13代幸則
 14代孝教(宇野源次兵衛、延享年中(1744~47))初代宇野家の創立

 2代幸久(宇野幸久)
 3代氏景(宇野武右衛門、宝暦年中(1751~63))
 4代景龍(宇野彦左衛門、明和年中(1764~71))
 5代顕興(宇野彦兵衛門、弘化年中(1844~47))
 6代格(宇野善三郎姓滋野、嘉永2年(1849)10月大阪天満与力町で与力、
    明治2年10月4日被大阪府少属云々)
 7代六三郎(宇野善三郎次男)39歳死去、妻キョウ(大阪府南郡岸和田北町十番
   屋敷、福岡家生まれ、母は里勢といい美人で、キョウも美しかった)26歳、
   長男崎太郎11歳、浩二3歳、六三郎の葬式は、ビックリするほど盛大で
   あった。中学校と師範学校の教員を兼ねていたから二校の全生徒が、
   ことごとく参列し、西公園側の南港町から東公園の式場まで一里近く
   続いたといわれている。
 8代浩二(宇野格次郎、明治24年7月26日次男として福岡市生まれ)ついでに述べ
   ておくと、兄の崎太郎の「崎」は、六三郎が長崎の学校に勤めていた時に
   生れたので、父が地名の一字をとって付けたという。
   幼い時に父と死別、明治43年早稲田大学英文科予科に入学、
   大正4年同大学中退、小説家を志す。大正8年に発表した「蔵の中」
  「苦の世界」で文壇に認められ、以後創作活動を行った。
   まとまった仕事をするために、よく諏訪を訪れ、そこで出会った子持ち芸者
  「原とみ」に思慕を寄せ、「諏訪もの」と呼ばれる一連の作品を発表した。
   特に「一と踊」「山恋ひ」は佳作であった。
   また戦時中は東筑摩郡島立村(現松本市)に疎開したが、
   この地で妻キヌを病で失った。戦後「思び川」の名作を発表し、
   一方昭和24年に芸術会員に選出され、晩年には広津和郎とともに
   松川事件にも尽力、36年9月21日肺結核で死去、70歳、
   東京都台東区広大寺に葬られる。
    〈上田市 田中七郎氏調べ〉               

 一方、岸和田市編纂委員玉谷哲氏の解説された「岸和田藩主海野家所蔵の系譜」により、その系譜を示すと
 幸隆-昌幸と続き、昌幸には子息二人、兄信之(初代松代城主)、弟は信繁(真田幸村)で、兄信之は徳川将軍に仕え、弟幸村は豊臣家に仕えた。
 兄信之の子が三人おり、長男信吉は沼田城主に、二男信政は二代松代城主、三男信重は岸和田藩主の海野家へと続いている。
 信重-信可 信州の浪人、岸和田藩に仕えて、知行150石
 可政 200石加増す、350石
 幸勝
 政忠 350石から浪人
 忠幸 10石二人持
 忠陳 10石二人持から100石二人持
 忠行 100石
 忠益 幼名七蔵 伯事奉行
     (以下省略)

 岸和田藩主は、
 初代岡部長盛 山崎藩(下総国茨城・千葉県)
         天正18年(1590)~慶長14年(1609) 12,000石
        亀山藩(明治2年に亀岡藩と改称)
         天和7年(1621) 32,000石から34,000石
        福知山藩(丹羽の国・京都府)
         天和7年から寛永元年(1624) 50,000石
        大垣藩(美濃の国・岐阜県) 
         寛永元年から寛永9年(1632) 50,000石
 二代岡部宜勝 龍野藩(播磨の国・兵庫県)
         寛永9年から寛永17年(1640) 50,000石
        高槻藩(摂津の国)
         寛永13年から寛永17年    50,000石
        岸和田藩(和泉の国・大阪府)
         寛永17年から明治2年2月藩籍奉還 60,000石
 徳川家康の妹の洞仙院の子の岡部宜勝は、龍野・高槻を経て寛永19年に岸和田藩6万石へ、入封以来230年余りにわたって在封、将軍家光の信任が厚く、紀州徳川家の抑えとして、岸和田に封じられてと言う。

兵庫県の海野氏

 神戸市に24軒、尾崎市に14軒、西宮市に9軒、兵庫県の海野氏は89軒あり、「ウミノ」と呼称される方は64軒ある。

 国際ジャパネスク歌舞伎、代表海野光子氏
 神戸の外国人学校カネディアン・アカデミィの日本語教師であった海野光子氏は、生徒達に日本文化をより理解させるため、1970年に日本文化研究会を創設した。その活動の一つとしてカナデアン歌舞伎「修禅寺物語」を翌71年に上演した。以後学内だけが、76年から神戸文化ホールで、77年には東京公演、80年の10周年記念講演には、海外からも卒業生が参加。演目は「番町皿屋敷」「頼朝の死」「元禄忠臣蔵」「勧進帳」「助六」にまで及んだという。
 

和歌山県の海野氏

 新宮市に27軒、和歌山市に12軒、御坊市10軒、和歌山県の海野(うんの)氏は100軒がある。

 永禄初期(1560~)ごろ諏訪刑部(永禄12年(1569)5月卆、法名 儀鏡院殿節当祖忠大居士)が一男一女(元眞とその姉)を伴って南アルプスを越え駿州安倍郡井川に入り、元眞は武田氏に随身を拒み駿府城の今川義元に仕える。
 今川より地名の安倍の姓を賜り、安倍大蔵と名乗った。
その後永禄11年12月13日、武田信玄に駿府城が攻略され、義元の一子氏実は掛川城に入った。元眞と、その子・信勝は二の丸を守り、岡部次郎左衛門が本丸を守ったが、戦況が不利になると、大井川を南下して遠州の徳川家康の援助を求めた。
 家康に仕え援軍を得て、武田勢の拠点筒野城・水見色城・川根城・土岐城・天野城・花沢の城等を攻略するなど徳川山岳戦に従い幾多の功績を掲げたので家康お墨付の感状を賜ったという。
 その後元眞(天正15年(1587)10月10日卆、法名龍泉院殿心清浄安大居士)は隠居し子の信勝(武州5250石、慶長5年(1600)1月2日卆、法名大正院殿捐館等山源勝大居士)に譲り、再び井川に戻り、海野泰頼(慶長20年(1615)10月1日卒、法名天生宗眼禅定門)の長男本定を養子に迎え、本定は海野姓を復活した。
 海野弥兵衛尉本定と名乗った本定は徳川に仕えた。その二男海野兵左衛門良次(紀州初代海野氏、1150石、勘定奉行)が元和5年(1619)徳川頼宣に従って紀州に入国したという。
寛永19年(1642)5月14日死去、(法名観翁道夢居士)、和歌山市男之芝町天年山吹上寺に葬られている。
 2代 海野兵左衛門清長 寄合組頭、400石、延宝5年(1677)病死
 3代 海野平左衛門幸隆 徒頭、300石、元禄13年(1700)病死
 4代 海野兵左衛門清詮 持筒頭、持弓頭、400石、明和6年(1769)病死、87歳
 5代 海野兵左衛門伴高 中の間番頭格、400石、安永9年(1780)病死、71歳
 6代 海野兵左衛門清雄 徒頭格、使役頭、400石、寛政8年(1796)病死、76歳
 7代 海野兵左衛門勤 寺社奉行、持弓頭、寄合組頭、400石、
    後に御用人千石、大目付五百石、大寄合格千三百石、
    天保8年(1839)病死、74歳)
 8代 海野兵左衛門希元 中奥小姓、勘定奉行格、天保15年 (1844)病死、47歳
 9代 希與とつづき、以来紀州で代々徳川家に重用された。 
 その子孫に、和歌山県議会事務局長の海野正幸氏がおられ、昭和62年に、初代海野良次「観翁道夢居士」の350回忌にお墓の修理をし、父の50回忌も併せて追福の法事を行った。その時「観翁道夢記」を発行の際、筆者は「先祖の開眼供養と記念誌発行を祝して」と題して寄せ書きを添えた。 
 海野正幸氏は、平成3年7月に亡くなられ、妻の貞子さんと長男の篤人氏が守っておられる。

島根県の海野氏

 神奈川県相模原市在住の海野基之様は、六文銭を家紋とする海野系の末裔とのことである。島根県の海野氏はこの方のみである。
 祖は松江藩の藩学の教授を歴任された。
後世に至り所蔵図書を、島根大学図書館に寄贈して「海野文庫」と命名された。代々の氏名は「之」を襲名して今日に至っている。
 松江藩主松平氏は、松本藩主(長野県)より島根県に移封された。その折りに海野基之氏のご先祖も松本から島根県の松江に同行移住したものであろう。

広島県の海野氏

 広島県には63軒の海野氏があり、「ウミノ」と呼称される方は22軒ある。

大分県の海野氏

 大分県の17軒は全軒が海野(うみの)氏である。

 日向市細島の海野氏から、2017年3月23日に投稿があったので掲載します。
 「私の祖父からの墓が大分市内にある。平成15年に他界した父の金庫から、昭和59年に細島の方からの手紙が出てきた。それは、細島にある海野の墓が移動したとの件でした。その方に連絡をした所、連絡不通だった。平成27年夏に、昭和52年からの知り合いが、東京から奥様の実家の細島に引越したとの事で大分市内にてお会いした。偶然にも、その方の住所が昭和59年に頂いた鮫島からの手紙の隣の番地だった。友の言うには「秋に日向市細島に海野の祖先の墓が藪の中から現れた」という。
 細島は、鉾島神社の縁起書には神武天皇が東征の途中、ここに立ち寄り鉾を祀ったとの記述がある。細島の名称は、港を囲む細長い半島に由来するという説に加えて鉾島が転訛したという説がある。
 細島港は、東九州の玄関口として、日向の国諸藩薩摩藩も参勤交代で利用していた。また工業港として大型船舶用に整備され、数々の客船・貨物船・自衛艦などの寄港地となっている。特に2006年には、日本最大のクルーズ客船「飛鳥2号」(50,142トン)が寄港している。
 

宮崎県の海野氏

  平成30年9月28日に宮崎県の人にお逢い出来たので紹介する。。
 宮崎県東臼杵郡美郷町南郷区神門48出身 海野(うみの)尚武様(長崎大学経済学部卒)

 九州地方で「ウミノ」という呼び方が多く、宮崎県の258軒は全軒が海野(うみの)氏である。
ちなみに、大分県17軒(内17軒ウミノ)、福岡県51軒(内19軒ウミノ)、佐賀県3軒、長崎県8軒(内6軒ウミノ)、熊本県8軒(内4軒ウミノ)と鹿児島県18軒(内18軒ウミノ)の海野氏がいる。

沖縄県の海野氏

 島尻郡知念村海野149に「海野漁港セリ市場」☏098-947-1810あり。
 この村に海野という地名があり、しかも海野漁港があり、今後の研究がまたれる。
 沖縄県の海野(うんの)氏は2軒ある。

そのた都道府県の海野氏

 その他の、奈良県25軒(内10軒ウミノ)、鳥取県1軒、岡山県に116軒(内96軒ウミノ)、山口県16軒(内12軒ウミノ)、徳島県10軒(内3軒ウミノ)、香川県46軒(内40軒ウミノ)、愛媛県12軒(内8軒ウミノ)、高知県7軒(内6軒ウミノ)、福岡県51軒(内19件ウミノ)、佐賀県3軒、長崎県8軒(内6軒ウミノ)、熊本県8軒(4軒ウミノ)、鹿児島県(18軒全員ウミノ)の海野氏がある。全国には7,132軒 の海野氏がいる。(電話帳調べ)
 この調査研究は今後も続けますので、海野氏に関する情報をお知らせ下さり御教示いただければ幸です。お待ちしております。

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