海野氏のあしあと

海野氏の誕生

 大和王権は大王を中心として地方の国造に支配を委ねる国造制をしき、国家統治の基準法として律令を制定し、その律令に基づいて人々を戸籍に記し、税を徴収する体制を確立していた。信濃国もその律令国家の中に組み入れられていた。
 滋野恒蔭の子恒成(つねなり)は、正六位下因幡(いなば)介(すけ)となり、第56代清和天皇の皇子・貞保親王の家司となる。滋野恒成の妹は貞保親王に嫁いだ、また恒成の子の恒信(幸俊)は、正六位上左馬権助となり、天暦4年(950)2月に信濃国望月牧監(ぼくかん)となって下向し、幸俊(ゆきとし)と改名し海野氏の初代当主となった。
 望月牧監幸俊の子の信濃守海野小太郎幸経(ゆきつね)(幸恒)は、天延元年(973)9月海野荘の下司となる。
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 海野の祖と伝えられる、幸俊から幸氏に至る系図は次のとおりである。2代当主海野小太郎幸恒信濃守の長男・海野信濃守幸明が3代目当主となる。弟たちは分家して、二男・直家は祢津氏、三男・重俊は望月氏を起している。
 幸恒の孫の海野小太郎幸真は、4代を継ぎ、海野小太郎幸盛が5代目当主となる。

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 海野・祢津・望月を滋野三家といい、三家は緊密で「保元の乱」などの際には、海野が中、右祢津、左望月となり、三家一体となって敵に当ったという。
 この頃の家紋は、海野氏が洲浜や結び雁金で、祢津氏は丸に月で、望月氏は七曜または九曜の紋であったと言われている。
 海野氏と同族の雄族は、信州・上州はじめ近江・甲賀にも進出して一大勢力となった。各地で諏訪神社等の神官となった者、出家して寺を開基した者もいる。
上田市上野の砥石城跡の山麓には、この丘より富士山が望めることから、山号を望(ぼう)富山(ふさん)陽泰寺(禅宗)という古刹があるが、縁起は白鳳11年(683)である。加賀白山の僧泰澄がしばらく錫杖を止めた。後に僧行基がその徳を慕って訪ね「養泰院」と称したという。また、4代海野小太郎幸真はこの寺に深く帰依し田畑を寄進した功徳により、海野氏の菩提寺として中興開基となり、以後海野氏が代々外(げ)護(ご)の任を果たしたという。
 海野小太郎幸真(法名 陽泰院殿笑岩道讃庵主)の墓は、寺院の裏山に建立されている。(寺紋は「洲浜」)
 

前九年の役と6代海野幸家

 6代海野小太郎幸家は前九年の役に参戦した。
 この戦いを知る上で律令国家の対蝦夷政策について考えておく必要があろう。律令国家に属さない人々は「辺境の異民族」とされ、東北地方は異民族の住む「蝦夷」の地であった。大化の改新後間もなく、その地には城柵と郡が設置され公民が移配された。蝦夷には貢物を納めさせ、それに対し国家は禄として律令国家の品々を与えるという、友好関係が結ばれていた。国家による統括の拠点として、神亀元年(724)多賀城(現在の宮城県)が置かれ、さらに北を目指して城柵の設置が強行された。それが引き金となって蝦夷の不満が爆発し大規模な戦いが38年続いた。いわゆる38年戦争である。やがて第50代桓武天皇は財政的理由から蝦夷との戦いを強硬に進めることを諦め、国家側に服属した蝦夷を諸国に分散させて勢力の分断を図ることとした。その中から蝦夷に出自をもつ安倍氏と清原氏が台頭し律令国家との結びつきを後ろ盾として、勢力を拡大していった。
 永承6年(1051)、奥六郡(おくろくぐん「現在の岩手県」)、衣川(ころもがわ)以北六郡を領していた安倍氏が、朝廷に反抗して貢税の義務を果たさず、また安倍頼時は衣川を越えて南下してきたので、陸奥守(むつのかみ・東北地方の長官)藤原登任(なりとう)が鎮圧のために朝廷軍を率いて鬼切部(おにきりぶ・現在の宮城県鳴子町)の戦いで頼時軍と戦ったが惨敗してしまい、命からがら逃げ去った。翌年(1052)に朝廷は、新興の武士団「源氏」の棟梁・源頼義を陸奥守兼鎮守府将軍に任命し、多賀城に向かわせた。安倍氏は源頼義のに対して服従姿勢を示したので罪は許され、頼義の在任中陸奥国は平穏であった。

 5年後の、天喜4年(1056)頼義は胆沢城から多賀城へ帰る途中の阿久利川(一関市)で野営中「夜襲を受けた」と藤原光貞が告げた。犯人は「安倍貞任(頼時の息子)の仕業に違いない」として、朝廷に従う態度を見せてきた安倍頼時と源頼義との戦端が開かれた。戦いの端緒は、この阿久利川事件(頼義陰謀説の疑問)であった。

 源氏は歩騎数万にて優勢に戦いを進めた。安倍頼時は、鳥海棚(とのみのさく.岩手県江刺郡金ケ崎)付近で天喜5年(1057)7月に流れ矢に当り戦死した。9月になると朝廷から安倍氏討伐の宣旨(朝廷の命令)を受けていたので頼時の敗死を報告した。その後安倍頼時の子・貞任、宗任らが後を継ぎ、抵抗を続けた。

                 auto_ZqXkFD.jpg鳥海棚跡

 安倍氏の結束は固く河崎棚(岩手県東磐井郡)に結集し源氏軍を黄海(きのみ・同郡東部藤沢町)で追撃した。天喜5年(1057)11月風雪の中、食料も十分でない状態で、重囲された源頼義軍は敗れ、わずかな家臣と共に戦場から逃れた。戦いを続けられなくなったが、19歳になった頼義の嫡男・義家の勇猛果敢な活躍により九死に一生を得た。

      auto_m4bjZe.jpg河崎棚跡

 安倍貞任らの勢いが盛んとなる中で源氏は窮状打開のため最後の手段として「夷は夷を以って制す」の方法をとり、出羽仙北三郡(秋田県の雄勝・平鹿・仙北)の俘囚長(奥羽地方の首長)清原(きよはら)氏に応援を求めた。

 康平5年(1062)、清原武則(たけのり)は同族と共に1万余りの兵を率いて出陣(源氏は3千と言われてる)した。源氏・清原の混成部隊はわずか1カ月で難攻の小松棚(一関市)で安倍軍を破り、天下の要塞と言われていた衣川関(ころもがわさく(岩手県))の戦でも大勝、最後の拠点である厨川棚(くりやがわさく・盛岡市の西北)で安倍貞任・宗任軍は、地獄絵のように落ちのび安倍氏は、滅亡した。

 源氏の危機を救った清原武則は、翌年従五位下鎮守府将軍となり、俘囚(朝廷に帰順した蝦夷)の長としては破格の栄誉を得、仙北三郡と奥六郡を支配地とした。
 頼義は嫡男・義家を伴い奥州に向かう途中、東山道の道筋にあたる6代海野小太郎幸家に頼時追討の戦いに加わるよう援兵の要請した。海野幸家は同族騎馬80騎の棟梁として総勢270人を引きつれ、源頼義に従い安部頼時の制圧に乗り出したが頑強な抵抗にあって清原氏に援兵を請い、安倍頼時を倒し嫡男・貞仁と弟の宗仁を捕虜として、戦乱を終息させた。
 この乱は、源頼義の奥州下向より終息するまでの、11年間(1051~1062)に及ぶ戦いで、後に前九年の役と称された。〈㈱西東社「日本の合戦大辞典」より〉

 この戦いに、同行した赤石藤次郎友信(6代海野小太郎幸家の重臣)は、戦勝を祈願して、無事帰還できたので、正行院を南屋敷の一角に開基した。
 その地は現在の東御市の海野保育園から100mほど東側にあったが、天文年中(1532~54)の火災により焼失し今は五輪のみが残っている。寛永15年(1638)法誉永讃和尚が中興して、青龍山正行院地蔵寺と称した。元禄4年(1691)2月寂誉知足(江戸高輪の龍原寺僧)が再興して北屋敷(白鳥神社の西側)に移した。大師堂があり海野宿に関する数多くの資料を保存していたが、昭和26年に火災によりほとんどが灰になってしまった。その後昭和29年に願行寺へ合併した。文化9年(1812)6月建立した石灯篭「媒地蔵(なかだちじぞう)」と法印石燈等が現存している。

西上州の海野氏

 6代海野小太郎幸家の弟幸房は、領地の争いが続くうち、戦争に嫌気がさし修験者となって、平安朝末期のころ、人も住めぬ荒地の三原(群馬県妻恋村)に住んだ。天仁元年(1108)の浅間山噴火により、嬬恋村は壊滅的な状態になった。幸房は吾妻川岸の段上に粗末な小屋を建て「棄城庵(きじょうあん・城を棄てて作った小屋)」と名付けて武具・甲胄などを埋めてしまった。下屋将藍と改名した幸房は、子孫とともに修験道信仰をよりどころとして、噴火で壊滅した嬬恋村を見事に再生させた。吾妻川に沿って開拓して、その地域の草分けとなった。下屋本家は修験道に励み西吾妻地方の荘園領主として、平和国家を維持していた。
 幸房の子幸友下屋出羽守は、法号を昌慶と称し父の棄城庵の志を継いだ。
幸房の孫・幸兼は下屋形部太郎といい、はじめて鎌原郷に移り住んでいた。
 幸兼の弟は、大厩伊弥藤五郎・西窪伊弥三郎・万座新三郎入道・門谷弥四郎として、それぞれの移住の地を氏として分れ住み、幸兼の長男・重友は、武人として頼朝の浅間の狩に従って、鎌の字を賜って鎌原太郎を名乗った。
 幸兼の二男の友康は名伊越形部三郎といって常法院の祖となった。
 孫幸兼の孫・友成は形部三郎出羽守といい、友成の弟たちは赤羽根に住んで赤羽幸兼など・今井形部三郎・芦生田丹藤太として、いずれも住居地名を氏として分れた。

       auto_XIppRd.jpg沼田城跡

 浅間山麓の鎌原郷に土着した鎌原氏は、三原庄きっての土豪として、代々三原庄の地頭につき、頼朝の鎌倉幕府に務め、その後上杉氏に属し戦国の世は武田氏に出仕して、武田氏滅亡後は引きつづき真田氏の沼田藩に仕えた。天和の改易まで約5百年この地にあって、この地を支配してきた。元和元年(1681)沼田藩5千石余の家老職となった。
 〈「嬬恋村誌」より〉

後三年の役と7代海野幸勝

 
 7代海野小太郎幸勝は源義家に従い後三年の役に参戦した。
前九年の役の後清原氏は三代約20年を経過し、鎮守府将軍清原武則の孫・清原真衡の代になり一族の間に争いが起った。

 清原真衡には子がなく海道平氏出身の成衡を養子にしていた。真衡の異母弟清衡(きよひら)・家衡(いえひら)は後継者の座をめぐって真衡と対立した。 
永保3年(1083)陸奥守として多賀城(宮城県)赴任した源義家(よしいえ)は、真衡から援軍要請を受け自ら出陣して清衡・家衡を攻めた。出羽で真衡が戦没し、清衡・家衡は義家に降伏した。二人を許した義家は領地を半分ずつ分け与えた。ところが家衡はこの条件に不満で、応徳3年(1086)に清衡の館を襲撃したという。清衡から援軍を要請された義家は清衡に味方して、家衡が立てこもる沼(ぬまの)柵(さく)を攻撃したが失敗に終わった。翌年、義家と清衡は大軍を率いて家衡が立てこもる金沢柵を包囲したが、攻め落とせなかった。そこで義家が兵糧攻めを決行したため、食糧を絶たれた家衡は金沢柵に火を放って逃げた後、捕らえられて殺されたという。戦いが終わったのは、寛治元年(1087)11月14日であった。この戦いは後三年の役と言われる。

 海野氏には、この時も源義家から援兵の請いがあり、7代海野小太郎幸勝は、同族80騎の棟梁として総勢480人をつれて義家に従い、遠い奥州の地まで軍馬を進め清原清衡と共に戦った。朝廷は、この戦いを「義家が勝手にはじめたもの」として褒美を与えなかったので、義家は自分の財産から戦いに参加した武士たちに褒美を与えた。義家も京都に戻り、新たにこの地方に君臨したのが清衡であった。 

 清原清衡は姓を「清原」から「藤原」へ改め、荒廃した領地を復興し浄土「理想郷」を創ろうとした。以後4代百年にわたり平泉黄金文化が花開いた。国宝中尊寺金色堂は浄土思想が息づく阿弥陀堂で、内外を黒漆で塗られその上に金箔で押したため、金色堂とよばれている。ほかに、毛越寺観自在王院跡・無量院跡・金鶏山が織りなす極楽浄土の世界を勘能できる。柳の御所跡を含め平泉は平成23年(2011)6月26日世界遺産に登録された。

             auto_lwI8iF.jpg中尊寺金色堂

 

保元の乱と8代海野幸親 

 保元元年(1156)7月11日に夜明けに起きた「保元の乱」の原因は、天皇家の内紛と関白や摂関家の争いで戦うことになった乱である。

     auto_wIEmIl.jpg保元の乱

 そもそも応徳3年(1086)、第72代白河天皇は自分の子に天皇の位をゆずって自らは上皇になった後も、天皇に代わって執政を続けた。白河上皇の執政期間は43年間続いた。白河上皇の没後、権力を握った鳥羽上皇は、長男第75代崇徳(すとく)天皇を嫌い、弟の後白河天皇(第77代)を位につけた。兄の崇徳上皇と弟の後白河天皇の家督争いが摂関家を巻き込んだ武力衝突に発展していくことになる。
 鳥羽上皇が病死すると、天皇家の対立には摂関家でも弟の左大臣・藤原頼長は崇徳上皇方に、兄の関白・藤原忠通は後白河天皇方につき、兄弟による骨肉の争いとなった。
 この戦いで活躍したのが、源氏と平氏の二大勢力に代表される新興勢力の武士団であった。
 平氏は平清盛とその息子・基盛が後白河天皇方に、清盛の叔父である平忠正、平家弘、平康弘らは、崇徳上皇方に分かれた。
 源氏では棟梁の源為義と、その息子の頼賢・頼仲・為朝(弓の名手)・為仲の4人は、崇徳上皇方についたが、嫡男の源義朝と為義の祖父である源義家の孫の足利義康、源氏一族の源頼政らは後白河天皇方についた。こうして、天皇家・摂関家・源氏と平氏の一族も親子や兄弟でも敵同士となって戦った。
 両者は、前日保元元年(1156)7月10日から兵を集めだした。高松殿に結集した6百余騎の天皇方は、11日未明に3隊に分れて鴨川を渡った。
 平清盛を大将とする3百余騎が二条大路を進み、源義朝を大将とする2百余騎は大炊御門大路を進み、足利義康を大将とする百余騎は近衛大路を進んで、上皇方が集まる前斉院統子内親王の御所(東三条邸)に向かい夜襲を行った。

   auto_YgcrrJ.jpg御所

 この時、強弓で敵を射倒す上皇方の源為朝らが奮戦したが、勢いは天皇方にあり、崇徳上皇と藤原頼長は逃亡した。天皇方の源義朝の火攻めにより後白河天皇方が勝利し、崇徳上皇側の敗北をもって終結した四時間ほどの攻防であった。
 捕らえられた崇徳上皇や源為朝は讃岐に流罪され、平清盛は叔父・平忠正を処刑するだけだったが、源義朝は為義ら一族のほとんどを処刑しなければならなかった。

 『保元物語』によると、信濃から、この戦いに馳せ参じた武士の中に望月氏や祢津神平貞直の名が見られる。また8代海野小太郎幸親も後白河天皇側として源義朝に属し、信濃武士3百騎の棟梁として武功を立てた。
 海野氏の直轄領は、海野郷の周辺はもとより西上州(群馬県吾妻郡)、佐久地方、四賀村(松本市)付近まで広がり、その支族は海野氏の被官となり、海野氏を盟主とした連合体を組んでいた。

平治の乱

 保元の乱の敗者崇徳上皇方は崇徳上皇が讃岐に流され、藤原頼長は流れ矢で重傷を負い間もなく死亡し、源為義・為朝や平忠正はじめ多くの武士が死罪となった。
 一族を敵にまわしてまで後白河天皇側に加担した源義朝は、勝利に大きく貢献したにものの恩賞は少なく、この乱で手柄も上げなかった平清盛に比べて任官が低くかった。恩賞の多少を決定したのは、武勲の大小でなくて院との結びつきの強さであった。
 源義朝と平清盛の両者の対立は、いよいよ激しそを増していくことになる。

auto_iHC169.jpg平治の乱

 後白河天皇は三年間在位し、子の守仁親王に位を譲って二条天皇(第78代)とし、自らは院政を開いた。後白河院の近臣少納言・藤原道憲(信西)の計略で清盛は、上皇の近臣として権勢をふるい勢力を伸ばした。一方の義朝は上皇の信西(しんぜい)と対立関係にあった摂関家・藤原信頼と組んでついに反撃に出た。

 平治元年(1159)12月9日、藤原信頼・源義朝軍は、平清盛が熊野(和歌山県)へ参詣に出かけたすきに挙兵し、後白河上皇を内裏に移し信西の三条東殿屋敷に焼き討ちをかけた。信西は宇治田原で首を刎(は)ねられ成敗された。信頼(のぶより)は自ら大臣・大将となり、義朝を播磨守に任命した。しかし、熊野に向かう途中に事件を知った清盛は、ひそかに帰京して、本拠地の六波羅邸に入った。清盛は味方の貴族を内裏に送りこみ、二条天皇に女性の服を着せて内裏から脱出させ、六波羅邸に迎え入れた。後白河上皇も密かに内裏を抜け出した。
 天皇と上皇の脱出を知った貴族たちは、清盛の味方し、信頼と義朝は孤立した。
 清盛は内裏が戦場になるのを避けるため、内裏に攻め込んだ後、わざと退却した。
義朝軍は平氏軍を追撃し、六条河原(鴨川の東岸)に着いた。しかし、そこには清盛の率いる平氏軍が待ち構えていたため、激しい攻撃を受けた義朝軍は敗北した。
 逃れた信頼は捕らえられ処刑された。義朝は長男の義平や三男の頼朝ら源氏一族とともに敗れて、東国を目指した。義朝は尾張国(現在の愛知県)の内海荘にて家臣の館に泊まったが、裏切りに逢い殺された。頼朝も捕えられ幼かった牛若らも母とともに捕えられた。
 この後、平氏は全盛期を迎え政治の実権は貴族から武士の手に移った。古代貴族政権の時代は終り、中世武家政権の時代が始まっていた。

 信濃武士として義朝軍の中に片桐小八郎大夫景重・木曽仲太・弥仲太・常盤井・榑(くれ)・強戸などの名が見えるが、東信濃の根井・祢津氏等の滋野一族は、すでに運命の傾いていた義朝に、これ以上忠勤を励む必要がないと思ったのか参戦していない。少なくとも源義朝と直接の深い関係を持っていなかったであろう。〈「上田小県誌」より〉

木曽義仲の旗挙げ

 義仲は久寿元年(1154)源義賢の次男として、武蔵国大倉館(現在の埼玉県嵐山町)で生まれ、幼名を駒王丸といった。駒王丸が二歳のとき、父義賢は兄義朝の長男義平に襲われ討たれてしまった。このとき義平は15歳、悪源太義平という異名も、このため呼ばれるようになったと言われている。
 義賢を討った義平は、畠山重能(はたけやましげとし)に、駒王丸を生かしておくことは、後々の禍(わざわい)のもとになるから探し出して、必ず殺すようにと命じた。
畠山重能は、武蔵国の豪族で早くから源氏の家人となっていて、大倉館の戦いには義平に従っていた。畠山重能が駒王丸を探し出してみると、わずか二歳の幼児で殺す気になれず斉藤実盛に預けた。駒王丸は乳母の夫である木曽の土豪中原兼遠の庇護のもとで育ち、元服して木曽義仲と名乗った。
 治承4年(1180)8月17日伊豆の蛭島(ひるがしま)で流人の生活を送っていた源頼朝が平家打倒のため挙兵した。義仲は父義賢を頼朝の兄の義平に殺されているので、義仲にとって頼朝はいわば仇の弟であった。義仲は頼朝より先に平家を倒してしまいたい思いを養父中原兼遠に相談をした。
 源頼政は平治の乱で清盛に味方し出世していた。しかし清盛が、平氏一門の血を引く高倉天皇(第80代)を位につかせたことに反対し、藤原氏の血を引く高倉天皇の兄の以仁王(後白河法皇の第二皇子)が即位すべきだと考えており、以仁王とともに平氏を倒す計画を立てた。
 清盛が高倉天皇に位をゆずらせて自分の孫の安徳天皇(第81代)を位につかせると、治承4年(1180)4月以仁王は全国の源氏一族に平氏追討の令旨を出した。この情報は直ちに清盛の耳に入ったため、危機を感じた以仁王は都を脱出し頼政と合流して奈良に逃れた。
 平重衡の率いる平氏軍約2万8千騎は、これを追撃した。
 宇治で追いつかれた頼政は以仁王を逃がした後、宇治橋の橋板を外して平氏軍が宇治川を渡れないようにした。
しかし平氏軍は馬を寄せて馬筏(うまいかだ)をつくり宇治川を渡ってきたので、頼政は平等院まで逃げた後に自害した。以仁王も逃げる途中に矢が当たって亡くなった。

 以仁王から源行家(みなもとゆきいえ)を使者として関東甲信の源氏や木曽の義仲に、挙兵の令旨が伝えられた。約一か月後の治承4年(1180)9月7日に、義仲は中原兼遠(なかはらかねとう)とその子ら樋口兼光・今井兼平・巴御前らと、木曽柏原で兵を挙げた。
 義仲軍は信濃「市原の合戦」(現在の信州大学工学部付近)で笠原頼直(かさはらよりなお)と戦い、初戦は大勝利であった。
 信濃国府に戻る。一息入れた後、治承4年(1180)10月諏訪から佐久や小県の信濃武士らが続々と宮の腰(長野県木曽郡木曽町日義)に集まり、その日のうちに千騎になったとも、また反対に武士の数も少なく、心細い旗挙げだったとも言われている。
 八幡宮で勝利を祈願した義仲は、信濃武士らを従えて父の故郷である上野国多胡庄(現在の群馬県多野郡吉井町)に入った。

          auto_eiS85Q.jpg多胡庄

 一方、伊豆の蛭島(ひるがしま)の源頼朝のもとにも、以仁王の令旨が届き頼朝は兵を挙げたが、石橋山の戦いで平氏軍に敗れた。船で安房(現在の千葉県)に逃れた頼朝は、東国(関東)の武士達を次々と味方につけ北に向かった。数万の大軍になった頼朝軍は駿河(現在の静岡県)に向けて進軍を開始した。
 平氏は、平維盛を総大将にして源氏討伐軍を組織したが、戦意は低く逃げ出す者が相次ぎ、駿河に到着した頃には、わずか2千騎ほどになっていたという。
 源氏軍と平氏軍は、富士川(静岡県)を挟んで向かい合ったが、源氏軍を恐れていた平氏軍は、近くの沼から飛び立った水鳥の羽音を夜襲と勘違いし、戦うことなく逃げ出した。
 翌日黄瀬川に陣を構えていた頼朝のもとへ、弟義経が奥州から駆けつけた。
 敗戦を知った平清盛は激怒したが、翌年の治承5年(1181)に病死した。義仲にとって上野(群馬県)多胡郡は20数年前まで父・義賢の本拠地であったので、上野の地を10月には勢力圏に収めることが出来た。これ以上勢力圏を広めることは、従兄の頼朝を刺激することになると考えた義仲は、越後の城氏が義仲を討とうと北方から信濃へ侵攻の機をうかがっていたこともあり、二カ月後に信濃への退却をした。 
 義仲は、まだ27歳で、諸豪族を従えていくためには、世間に名の通ったより強力な後楯となる人物が必要であったが、中原兼遠は、その座を退いて根井行親(42歳)に後事一切が託されていた。
 木曽義仲率いる千余騎は、根々井を中心とした佐久平一円の集落で宿営をした。
 翌朝、根井行親は、矢嶋四郎に命じて義仲に白馬を贈った。矢嶋ガ原で育った馬の中でも最も優れた馬であったという。気品がありながら馬力や脚力抜群の名馬であった。貢馬が行われている頃であったら、帝の馬として召されたであろうと思わせる程であった。
 義仲は、行親父子の温情に感謝し、以後死ぬまで、この馬を手離さなかった。木曽からの武者たちや矢嶋四郎にも相応の馬を贈られ義仲軍の士気もあがった。〈宮下功著「木曽義仲を溯る」より〉

中原兼遠は、円光と号して仏門に入ったと伝えられている。治承5年の5月に病気に伏し同年6月15日、義仲の横田河原での大勝利の報を待たずに生涯を閉じた。

横田河原合戦

 木曽義仲は越後の平氏城氏と千曲川左岸横田河原(上田原から26㎞余下流)で治承5年(1181)に戦った。横田河原の合戦である。
 義仲は、依田城(現在の上田市御嶽堂)を本拠とした。それは東信濃を中心とした滋野党の勢力の強い地域だったからである。滋野党は、奈良時代以前から名馬を大量に育成し、保持していた。東信濃には望月牧・新張牧・塩原牧・塩川牧・塩野牧・菱野牧・長倉牧など、御牧が特に多く分布していて馬の調達に大変有利な地域であった。
馬は現在なら、戦車・トラック・乗用車に匹敵する戦力であった。

 この頃8代海野小太郎幸親は滋野三家(海野・祢津・望月)の筆頭で、根(ね)井(い)行(ゆき)親(ちか)は滋野三家の全面的な後楯を得ていた。さらに北信濃の源氏、諏訪の金刺氏、上野国の武士らも加わって義仲軍は相当な勢力となった。義仲軍の動きは、京の平家や隣国越後の豪族、城氏の知るところとなった。義仲は、越後軍が横田河原に出陣したとの知らせを聞き、ただちに依田城を出て、治承5年(1181)6月10日ころ、海野氏の氏神白鳥神社に戦勝祈願をして、白鳥河原(千曲川河川敷)に集結した。
この時集結した主な東・北信濃出身の武士その本貫地は次の通りであった。   
 根井小弥太行忠(根井行親の嫡男)(佐久市根井)  
 海野弥平四郎幸広(のち海野氏9代)(東御市本海野)    
 楯六郎親忠(佐久穂町館)    根津小次郎貞行(東御市祢津)
 根津三郎信貞(東御市祢津)   小室太郎忠兼(小諸市御所)  
 望月三郎重忠(佐久市望月)   望月二郎(佐久市望月)   
 志賀七郎(佐久市志賀)     桜井太郎(佐久市桜井)  
 桜井次郎(佐久市桜井)      野沢太郎(佐久市野沢)      
 本沢次郎(南佐久郡小海町)   落合五郎兼行(佐久市落合)   
 塩田八郎高光(上田市五加)   矢島四郎行忠(佐久市浅科矢島)
 高梨忠直(須坂市高梨)      平原次郎景能(小諸市平原)    
 井上太郎光盛(須坂市井上)  
次に南信濃の武士をあげると  
 今井四郎兼平・与次・与三(木曽郡日義村)
 樋口二郎兼光(木曽郡日義村) 木曽仲太(木曽郡日義村)  
 木曽弥中太(木曽郡日義村)     諏訪次郎(茅野市諏訪上社)
 千野太郎栄朝(茅野市諏訪上社) 手塚別当光重(下諏訪町下社)
 手塚太郎光盛(下諏訪町下社)   仁科太郎盛弘(安曇野市)
なお西上州の諸武士は次のごとくである。         
 那和太郎(群馬県伊勢崎市)    桃井五郎(群馬県北群馬榛名町)
 小角六郎(群馬県新田郡新田町) 西広助(群馬県伊勢崎市)  
 瀬下四郎(群馬県富岡市)らおよそ3千騎の精兵であった。

        auto_xVNXAj.jpg八幡社

 盾六郎親忠が横田河原への敵情偵察を申し出して、海野・上田・塩尻から千曲川の狭間、岩鼻の岩山(現在の上田市千曲公園)に登り義仲に敵状を伝えると、義仲軍は夜を徹して馬を飛ばし、途中で八幡社(現在の長野県千曲市八幡の武水別神社)に戦勝を祈願し横田河原の対岸に陣を敷き、虎視眈々(こしたんたん)と機の熟すのを待った。

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横田河原周辺図

 義仲が雨の宮付近から攻撃を仕掛けたのは、治承5年(1181)6月14日であった。横田河原一帯を包む濃い川霧が次第に晴れ上がり眼前に殺到する木曽軍に不意をつかれた越後の城四郎長茂の大軍4万騎は惨敗し、直江津から会津まで逃げて行ってしまったと言われている。
おりしも、この年の養和元年(1181)2月4日、平家の棟梁平清盛が熱病がもとで、64歳の生涯を閉じている。

     auto_H3d0Yt.jpg横田城跡

 横田河原の合戦の勝利した義仲は越後国府に入り越後の実権を握った。若狭・越前などの北陸諸国で反平氏勢力が勢いを増すと、義仲は北陸制覇する基盤を獲得した。
 治承4年(1180)、養和元年(1181)、寿永元年(1182)は三年続きの大凶作で、平家方も義仲も兵を動かせずにいた。また、義仲と頼朝の間に険悪な空気が漂い始めた。
 自分は「頼朝に敵対心を抱く理由は何もない」と宣言し、その証として、嫡子義高を頼朝の長女大姫と結婚させることを条件に、人質として鎌倉に送ることにした。
 お供には10代海野小太郎幸氏(8代海野小太郎幸親の三男)・望月三郎重隆・藤沢二郎清親・諏訪などの信濃武士を随行させた。
 しかも義高は、父義仲の死後、入間の河原で頼朝に殺されてしまう。義高の死を聞いた大姫は、悲嘆のあまり食事も取らず廃人と化し、19歳の生涯を終えた。大姫は義高を兄のように慕っていたのだという。義高の墓は鎌倉市大船の常楽寺に、また終焉の地の狭山市には、義高を祀る「清水八幡」がある。〈「上田小県誌」第一巻第五章より〉

燧ケ城・般若野合戦

 義仲と頼朝の間に軋轢(あつれき)が生れ頼朝が信濃に攻め入ったのは、寿永2年(1183)3月の初めだった。平家方が追討軍を編成した時は、義仲と頼朝の間には和睦が成立していた。
 『源平盛衰記』によると、平家方は要請に応じて集まった兵は山陰・山陽・四国・九州を中心に、平維盛を総大将として10万余騎で、寿永2年(1183)4月17日に都を出発、平家の威信にかけても義仲を倒そうと、琵琶湖の両岸に道を分けて北陸道めざして進撃した。
 4月26日平家軍により越前国の要害、燧ケ城(ひうちがじょう「現在の福井県南条郡南越前町今庄」)で戦いの火ぶたが切って落とされた。この城は木曽陣営の最前線基地で義仲は越後国府にいた。城を守る義仲軍は信濃国の仁科盛弘(守弘)をはじめとして北陸道の武将を中心に、加賀国の林光明・倉光成澄、近江国の甲賀成覚などの諸将や、越前の名刹平泉寺の長吏斎明の率いる兵など6千余騎だった。

 auto_c8sG0n.jpg燧ケ城
 
 仁科守弘は、日野川の支流の能美・新道の二つの川の落ち合う地点で水をせき止めて、人工の湖を作り平家方の進出に備えた。平家の大軍も進撃できず両軍は、にらみあって日数が過ぎた。しかし、城を守る木曽郡の中で裏切り者が出た。それは平泉寺の長吏斎明だった。その夜平家軍は大石を取り除き、柵を切り崩して水を落とし、一気に城に攻め込んできたため、木曽軍は総退陣を余儀なくされ加賀へ逃げ込んだ。
 越前・加賀の戦は平家方の大勝利であった。木曽軍は名だたる武将が数多く討死し、平家に寝返った一族も多々あったという。
 勢いに乗じた平維盛は大軍を率いて加賀国篠原(石川県加賀市)に進み、砺波山を越えて、越中国般若野(はんにゃの・富山県高岡市)に陣を構えた。
 越後国府にいた義仲は軍勢を率いて越中国府(富山県高岡市伏木)に着くと、大夫房覚明(8代海野小太郎幸親の二男)を招いて、加賀・越前・美濃三馬場の白山社に宛てた願文をしたためさせて戦勝を祈願した。
 5月3日義仲は今井兼平に精鋭6千騎をあずけて越中へ出陣させた。兼平の率いる先鋒隊が呉羽山(くれはやま)の山裾にある八幡社(福井県小浜市小浜男山9)に戦勝を祈願し備えを固めたころ、平維盛も越中前司盛俊に5千騎をあずけて越中へ向かわせた。

            auto_g5Fjbv.jpg呉羽山八幡社

 「道案内の斉明威儀師の計らいの通りにせよ」と言われていたものの、遅れをとった平盛俊は5月8日やむなく呉羽山の手前、般若野に陣を構えて今井兼平軍と対峙した。 
 その夜、兼平軍は暗闇にまぎれて山を下り、夜明けとともに白旗30本を高くかかげ全軍ときの声をあげて般若野へ押し出し、敵陣へ突入し、息きつく暇もない戦いが7~8時間続いた。維盛軍が2千余の死傷者や逃亡者を出して小矢部川へ敗走し、夜には倶利伽羅峠を越え加賀まで退いてしまった。
                  

倶利伽羅合戦

 宮下功著「木曽義仲を溯る」によると、本隊を率いて越後から越中へ移動していた義仲は、平家軍の総大将平維盛の軍が倶利伽羅峠へ向かったことを知った。砺波平野の彼方に見える倶利伽羅峠を見た義仲は「いかなることがあろうとも、平家軍に、この峠を越えさせてはならない」との思いを強くしたという。
 倶利伽羅峠(標高260m)は、石川県津幡町と富山県小矢部市の境にある砺波山の峠である。この峠を通り、砺波山の尾根筋に沿って延びていた旧北陸道は、明治時代を迎えるまで加賀と越中を結ぶ幹線道路であった。幹線といっても昔は人が三人並んで歩くのがやっとの道幅であった。
 峠に平家の大軍を封じ込めるため義仲は先手を打った。小矢部側の麓に源氏の白旗30本を立てさせた。狙いどおり平家軍は峠の倶利伽羅不動寺から、やや小矢部よりの猿ケ馬場に本陣をおいた。維盛は、まんまと義仲の術中にはまったのである。
 敗走してきた盛俊軍を平家軍の本隊に吸収して作戦を立て直し、全軍10万の兵を二手に分けて本隊7万余騎は倶利伽羅峠の天険を利用して砺波山へ、一方からめ手3万余騎は志雄山(羽咋市志雄町)に向かい、木曽軍の背後を衝いて挟み撃ちにしようとの作戦であった。 

 義仲も越後を出発して越中へ向かう途中、越前諸族・能登の武士団・越中の軍団らも加えた兵5万余騎が先発隊の今井軍と合流し、寿永2年(1183)5月10日の夜、軍議を開いた。
 翌11日義仲のもとに二隊に分れて平家軍が進軍中との情報が入ってきたので、義仲は軍勢を7手に分けて、
 まず第一手は伯父の新宮十郎行家に矢田判官代義清・盾六郎親忠・
      9代海野弥四郎幸広ら1万騎を志雄山へ。
 第二手は根井行親を大将とする2千余騎に弥勒山へ。
 第三手は今井兼平の2千余騎を日ノ宮林へ。 
 第四手は樋口兼光の3千騎は竹橋へ。 
 第五手は依田次郎・丸子小中太・諏訪三郎ら3千騎を倶利伽羅峠の西端の葎原へ。
 第六手は巴の千騎を鷲ヶ峰の麓へ。
 第七手は義仲自身の率いる3万余騎は小矢部川を渡り、砺波山の北はずれ埴生護国八幡宮(富山県小矢部市埴生2992)の背後に本隊を置いた。
 義仲は大夫房覚明に八幡宮に宛てた戦勝の願文をしたためさせ、鏑矢13本を添えて奉納し決戦に臨んだ。  〈「上田小県誌第二巻」より〉

auto_mwEhZe.jpg埴生護国八幡宮

auto_0drF2Y.jpg埴生護国八幡宮103段の石段

 現在の護国八幡宮とも埴生八幡宮ともに祐呼ばれるこの神社には、その時の願書と2本の矢が大切に社宝として保存されている。

     auto_zfljey.jpg軍師の覚明が書いた祈願文

 5月11日は小競り合いのうちに暮れた。翌日の決戦に備えて平家軍は疲れを癒すべき仮眠に入った同じ頃、木曽軍の兵士たちは音をたてず声を殺して谷をよじ登り、平家軍に近づいた。戦い上手な義仲が練りに練った作戦であった。平家方に義仲の夜襲に対する警戒心がまったくなかったわけでなかろうが、大半の兵士は行軍の疲れもあって不覚にも寝入ってしまった。
 義仲軍は暗闇にまぎれて平家軍に忍び寄り、静まりかえった夜の倶利伽羅峠に、北から南から白旗を掲げ太鼓を鳴らし、ほら貝を響かせ、ときの声を轟かせた。虚をつかれた平家軍10万の眼前に、角に燃えさかる松明をくくりつけられた牛の大群が猛然と襲いかかった。これは「田単火牛の策」といい中国春秋時代の田単将軍の故事に則ったものである。
 寝ぼけ眼の平家の兵士たちは自分の刀・弓・薙刀がどこにあるのかわからず、一つの武器を4、5人が取り合ったという。暗闇で大混乱に陥った平家の軍勢は、義仲軍に攻め立てられるままで、倶利伽羅の峠の深い谷に雪崩(なだれ)を打って落ちていったという。
 谷底は、降り積もった兵・馬で埋め尽くされ、地獄と化した。おびただしい数の死体から出た血や膿が流れ込んだ小川は、「膿川」と今日まで呼ばれてきた。大量の白骨が散らばったこの谷は地元の人々は「地獄谷」と呼ばれ今日に至っている。こうして夜の倶利伽羅峠の合戦は義仲軍の大勝利に終わった。〈北国新聞 平成24年3月20日掲載より〉  
          
 翌5月12日には奥州藤原秀衡から義仲に名馬二頭が贈られたという。奥州の大豪族藤原氏と木曽義仲との間に軍治同盟が結ばれていたことがわかる。

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倶利伽羅合戦図

 倶利伽羅峠で大勝した義仲は余勢をかつて6月1日続く安宅合戦と篠原合戦も平家の派遣軍を破り、平家方は京に向けて逃げ帰っていった。
 平氏方の将・斎藤実盛は、ただ一騎ふみ留まり、今の上田市塩田の手塚を本拠としていた手塚太郎光盛に討たれた。この実盛は義仲が駒王丸と呼ばれた二歳のとき、母とともに木曽へかくまってくれた命の恩人でた。打ち取った首を樋口兼光が池(首洗池・石川県加賀市篠原)の水で洗ってみると、白髪を黒く染めていた実盛だと知った義仲は大恩を思い、悲しみにくれた。首洗池ほとりには義仲・兼光・光盛の像が残る。

 義仲は当時の山門と呼ばれた比叡山延暦寺(滋賀県大津市)の山法師軍団の動向が気にかかっていた。
 大夫房覚明に牒状(俗人である義仲から寺に差し出した文書)を書かせて山門に送った。
牒状の内容は「源義仲が平氏の逆乱を停めようとしているのは、平氏一門が朝廷に対し人臣の礼を欠き権門勢家を追捕し荘園を奪うなど横暴の限りをつくしているので、平氏を亡ぼすようにという以仁王の令旨に応えるためである。山門三千の衆徒は源氏に同心し平氏を誅し鴻化(こうか・広大な皇室の恵み)に浴するように」といったもので、6月10日に延暦寺へ送られた。
 比叡山では3千僧兵一同で協議し木曽軍に味方する旨の返事を木曽軍の本陣に送った。寿永2年(1183)7月2日のことであった。
 5万騎を率いた義仲軍は木ノ芽峠を越え近江国柳瀬(滋賀県余呉町)を通り、京都を目ざして琵琶湖の東岸を通り、三上山麓野州(滋賀県野州町)に陣をとったあと、7月22日には東坂本に着き、比叡山延暦寺東塔の惣持院に本営を構えた。ここに比叡山の僧兵も加わって気勢を上げた。

横川中堂の元三大師堂(四季講堂)の庭に、道元禅師が出家した得度霊跡の石標がある。道元は曹洞宗の元祖で父は久我通親、母は前の関白藤原基房の娘伊子で、伊子は義仲の妻の一人だったが義仲の死後、久我通親と再婚して道元を生んでいる。

平家の都落ち

 平家一門は法皇・天皇や女院などを奉じ三種の神器(やたの鏡・天叢雲剣・八尺瓊曲玉)を奉じて西国に逃れる方策を決意したが、この噂を耳にした後白河法皇は寿永2年(1183)7月24日の夜半に、数人の供を連れて法住寺殿御所を出て鞍馬の奥へ逃げ隠れて比叡山の義仲に身を寄せた。

 平家の総師内大臣平宗盛は翌25日の朝、六波羅や小松殿、八条などの邸宅殿堂に火をかけ、三種の神器と6歳の幼帝第81代安徳天皇と、その母建礼門院(平清盛の娘)ら一門を引きつれて27日に西海さして落ちて行った。
 寿永2年(1183)7月28日に木曽義仲は行家としもに京都入り蓮華王院(三十三間堂)の御所で後白河法皇に謁えて、平氏追討の院宣(院の役人が上皇や法皇の命令を受けて出す書状)を受けた。
 木曽谷で挙兵して三年、木曽義仲は源頼朝より先に上洛の夢を果たした。
 さらに義仲は8月20日以仁王の子・北陸宮を御皇位につけよう推挙したが、後白河法皇は、これを退け第80代高倉天皇の皇子・後鳥羽天皇(第82代)が即位した。
 平家軍の横暴に苦しめられていた京都人は、義仲の軍を喜んで迎えた。
 しかし、義仲軍の兵卒は各地の寄合世帯で、統率が取れていなかった。
9月に「猫間の事」が起り京中での木曽軍の乱暴狼狽が勃発し略奪を働く者もいて、都の人々らの顰蹙(ひんしゅく)を買うようになっていった。
 さらに義仲は後白河法皇の軋轢(あつれき)もあり、朝廷内外の義仲の不評が噴出した。
 義仲は木曽山中に育った自然児で、宮中の礼儀や習慣に馴染まなかったようだ。
 後白河法皇は9月20日義仲を避けるために西国で平氏の追討を理由に山陽道に向かわせ、体よく京から遠ざけたという。〈『平家物語』より〉

水島の合戦

 寿永2年(1183)10月1日、日蝕の日に現在の玉島港湾内(岡山県倉敷市)で行われた源平合戦である。天下は鎌倉の源頼朝と都の木曽義仲、西海の平家で三つ巴の戦いとなった。
 京都を追われて北九州へ落ち延びた平家一族は、瀬戸内の水軍を味方に引き入れて体制を立て直し、京都奪還を目指して東進を始めた。 
 平家方は平重衡・通盛・教経の三勇将が率いる兵船3百余隻7千人が柏島沖(高知県)に出陣し、満所(政所か、玉島大橋西詰の小高い丘)付近に赤旗並べ、柵を設けて陣地を構えた。 
 木曽義仲が都の政情と鎌倉の動きに不安を覚えながら、平家追討の院宣のもとに山陽道を西下したのは9月で、10月にはようやく中国路に達し四国の平家を討つ拠点として備中の水島を確保するため、腹心の矢田判官義清・9代海野弥平四郎幸広の二将を派遣した。
 義仲は手始めに当時備中の南部一帯に勢力を持っていた平家方の武将妹尾兼康・宗康父子を、その根拠地板倉(現在の岡山市吉備津神社西方)で打取り、勢いに乗って先鋒隊矢田義清や海野幸広が率いる兵船百余隻5千人を乙島の渡里付近に出陣させ、城(玉島大橋東詰の北方、標高30mほどの台地)と呼ばれるところへ白旗を押し立てて陣地を構えた。
 海野幸弘は船上から穏やかな水面に波紋が渦を巻いている様を見て「銭が連なっているようで吉祥なり。これを我が家の家紋としよう」と考えたという。これが海野家の6連銭紋の始まりと言われている。
 両軍は、わずか500mほどの海峡を挟んで、時こそ来れと相対峙した。
10月1日(新暦12月初め頃)夜明けとともに合戦の火ぶたが切って落とされた。

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水島合戦場

 初めのうちは勇猛をもって聞えた木曽軍が有利に見えたが、海戦には全くの不慣れとあって次第に旗色が悪くなった。
 海戦に強く戦術に長けた平家軍の策略にはまった木曽軍が体制を立て直そうとする頃、にわかに西風が激しく吹き出し海は大しけとなり、義仲軍の兵士たちは船の上に立っていられない有様だった。また、日蝕が始まると真昼というのにあたり一面暗闇となり木曽軍の兵士たちは恐れをなして大混乱となったという。山猿と言われ文盲が多かった木曽軍は日蝕という奇怪な自然現象を知らず、恐れおののくばかりで戦意を失い敗れることとなった。不運にも矢田義清と海野幸広の二人の大将まで討死した。僅か数時間の海戦であったと言われているが、源平合戦の中で平家方が勝ったのはこの戦いのみであった。

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水島合戦場城跡

 命からがら京都へ逃げ帰った木曽軍は、ごく僅かな人数であったと言われている。西国から旧都・福原に戻った平氏は屋島を本拠として瀬戸内で勢力を回復し、一の谷に強固な城郭を構え反撃の時を狙っていた。
 11月23日に藤原基房の娘・伊子が17歳で木曽義仲在京の妻となった。 
 12月義仲は法皇に強要して源頼朝追討の院宣を出させた。 
 寿永3年(1184)1月3日には、ついに征夷大将軍の宣下を受けたが、たぶん強引に宣下を出させたのだろう。意気揚々と上洛した義仲は、都で「朝日将軍」とよばれて、もてはやされた。 
 出家した後白河法皇は、平家に代わって羽振りを利かせる義仲に接近したものの、両者の関係は長く続かなかった。
 皇位継承への介入など後白河法皇と不仲になった義仲は後白河法皇の住む法住寺殿を焼討ちし法皇を幽閉して、貴族らの官職剥奪などの報復にでた。
源頼朝は義仲追討の恰好の名目を得た。法皇は裏で源頼朝とつながっていたのである。
 頼朝は、直ちに源範頼・義経を総大将とする義仲追討の命令を下した。
 京に進撃した源範頼・義経は、義仲討伐軍6万騎を進発させた。義仲は自ら京から追い出した平家に対して同盟を持ち掛けたが、平家は、この申し出に応じなかった。
 1月16日都にいた義仲は現在の宇治市に軍勢を向かわせ、宇治川を舞台に義経との戦いに及んだ。この地で義仲方に勝った義経軍は一気に都に攻め入った。
 宇治川渡河戦・瀬田の戦で敗れた義仲軍は都から逃れたが、北陸へ落ちる途中、1月21日近江の琵琶湖畔粟津で範頼軍に襲われて討死した。上洛してから六カ月後のことであった。日の出の勢いを誇った「朝日将軍」の落日はあまりにも早かった。
 義仲享年31歳だったという。

 都をのがれた平氏は一の谷(兵庫県)を拠点に勢いを盛り返していた。海に面し周囲を断崖に囲まれた一の谷は攻めにくい場所であった。
 京都にいた源氏軍は、軍勢を二手に分け、一の谷をはさみうちにしようとした。源範頼(のりより・頼朝の弟)軍は海沿いに進軍し、義経は山沿いの道を進んだ。義経は三草山(兵庫県)で平氏軍を破った後、軍勢を三手に分けて一の谷を攻撃した。義経は約70騎を率いて一の谷の背後にそびえる断崖「鵯越(ひよどりごえ)」から馬で駆け下りて平氏軍を背後から奇襲したという。一の谷の東側にいた平氏軍は範頼軍に対して有利に戦っていたが、この奇襲で大混乱に陥(おちい)り多くの兵が船に乗って海に逃れた。
 平氏軍は四国の屋島(香川県)に拠点を置いた。平氏は水軍をもっていたが、源氏は水軍を持たず、総大将の範頼は十分な軍船を集められずにいた。総大将範頼の苦戦を知った義経は、寿永4年(1185)2月約150騎を率いて渡辺津(現在の大阪府)から船に乗り、勝浦(徳島県)に上陸した。屋島まで進んだ義経は大軍に見せるため民家に放火しながら平氏軍を背後から奇襲した。平氏軍は大混乱となり船に乗り海に逃れたが源氏軍が少数であることがわかり引き返し、船の上から大量の矢を射った。義経の家臣の佐藤継信は義経の身代りとなって矢を受け義経の命を救った。 
 夕方になり平氏軍の小舟が扇(おおぎ)の的をかかげて近づいてきた。源氏軍の那須与一は約70m先にあった扇を矢で射落とし、両軍から褒めたたえられたという。
 翌日から激しい戦いが続いたが、源氏軍の援軍が駆け付けたため、平氏軍は屋島から退却し長門(現在の山口県)の彦島を本拠にした。
 平氏の水軍は500隻だった。義経は四国の水軍を味方につけて830隻の水軍を結成して彦島に向けて出発した。この間源範頼は九州に先回りして平氏軍の逃げ道をふさいだ。
 元暦2年(1185)3月24日の朝、義経の率いる源氏軍は、壇ノ浦(関門海峡)で平氏軍へ攻撃を開始した。追い詰められた平氏軍だったが、潮の流れを上手に利用して有利に戦いを進めた。
 一進一退の攻防の後、阿波(現在の徳島県)水軍が裏切り、源氏軍の味方になった。敗北を覚悟した平教経は義経を道ずれにして死のうとしたが、義経は8艘の船を次から次へと飛び移って逃れたという。源氏軍の勝利が決定的になると、平知盛や二位尼(平清盛の妻)などは次々と海に身を投げていったという。こうして平氏は滅亡し、源氏と平氏の戦いは終わった。           〈『源平盛衰記』より〉       

海野中興の祖(10代海野幸氏)

10代海野小太郎幸氏は、8代海野小太郎幸親の三男として生まれた。 
 寿永2年(1183)木曽義仲と源頼朝の和睦の印として義仲の子清水冠者義高が人質として源頼朝の元へ送られた。この時10代海野左衛門尉幸氏をはじめとする、望月三郎重隆・諏訪等の信州武士達が義高に随行して鎌倉に赴いたという。
 
 寿永3年(1184)粟津口で義仲が討死し木曽氏が滅亡した後、義高の死罪処分が決定した。頼朝の長女大姫の婿になっていた義高だったが、密かに海野小太郎幸氏と脱出計画を練った。義高は碁(双六の説もある)を好み幸氏を相手にしていた。 
 義高は女装して寿永3年4月21日の夜、殿中を抜け出した。幸氏は義高の寝床に入り寝ていた。朝になると幸氏は義高に扮して部屋中でいつものように二人で碁を打っているかのように振る舞った。夜が更けると布団を被り、髪の毛を布団の外へ出して、義高が寝ているかの如く偽って逃亡の時間を稼いだ。
 日暮れになって、義高がいないことに気づいた頼朝は怒って幸氏を拘禁し、堀親家らを義高追討として差し向けた。
 ほどなく義高は親家の老中・藤内光澄(ふじうちみつすみ)により、4月26日武蔵入間川のほとりで討たれてしまった。大姫は夫の死を聞いてショックを受け、病床に臥してしまった。母政子も哀しみ頼朝に迫ったので手を下した堀藤次は殺されてしまった。
 義仲が戦死してから、2年ほどたった文治2年(1186)1月8日に塩田庄は惟宗忠久(後の島津忠久)が地頭に任命され、10月に伴野庄と大井庄には甲斐の加々美長清が地頭に任命された。このことから頼朝は積極的に信濃武士統治にのり出していたことが窺える。

 海野小太郎幸氏が義高の逃亡を助けたことは不問され、逆に主君に忠誠心を認められて頼朝の警護役となった。
 頼朝の御家人となった幸氏は文治4年(1188)から約80年にわたって射手の名手として頻繁に『吾妻鏡』に登場する。
 文治4年2月28日鶴岡八幡宮の祭りの際にも、頼朝の前で流鏑馬の射手を勤めた。文治5年(1189)正月、頼朝の長子頼家の弓始めには三浦義連と並んで幸氏が四番目の射手を命ぜられ、和田義盛ら射手十人の一人に名を連ねている。
 
 建久元年(1190)海野小太郎幸氏は白鳥神社を三分(屯倉)より現在地に移し、翌年に居城を古城より太平寺(現在の東御市白鳥台団地)に移したと伝われる。

 幸氏は将軍の狩りの御供をすることも多く、建久4年(1193)の頼朝による富士山の裾野で狩を行って時には海野幸氏・望月三郎・祢津次郎が従っている。また祢津氏は祢津神平貞直以後代々神氏を襲名していて、鷹を使って狩りをする放鷹の術にかけて高名な家柄として鎌倉幕府に仕えている。 
 建久6年(1195)3月の将軍家東大寺供養の際に、幸氏が源頼朝の二度の上洛にも祢津次郎らと共に随兵を務めている。また建久8年(1197)の源頼朝善光寺参詣には、随兵として後陣を命ぜられている。なお、幸氏は幕府軍の一員として合戦にも参陣している。建仁元年(1201)の越後の城氏の反乱の鎮定の際には、先頭を争って負傷しており、その懸命な忠勤ぶりがうかがえる。以後鎌倉の御家人として代々弓馬の誉れ高い名族として伝えられる。 〈『吾妻鑑』より〉
 
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流鏑馬の図

 ここで、幸氏の兄幸長(大夫坊覚明)のことを書き記しておきたい。
『吾妻鑑』には、木曽義仲没落後、大夫坊覚明(8代海野幸親二男=海野幸長)のことがしばしば記されている。これは源頼朝が覚明を高く評価していたことの現われであろう。建久元年(1190)5月、頼朝が甲斐源氏の一条忠頼の追善供養を行った時に信救得業(覚明)に導師を務めさせている。その4年後の建久5年(1194)10月に、平治の乱(1159)に義朝(頼朝の父)に殉じて死んだ鎌田正清の娘が、旧主義朝と父正清の菩提を弔うために如法経10種供養を行った時、願文の原稿を書いたのも覚明だった。
 信救(覚明)は名僧として鎌倉幕府内で認められていた。信救(覚明)の子や孫は次図のように各地で浄土真宗の寺を開基した。その子孫は現在まで続いている。

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曽我兄弟仇討ち (頼朝らを守った幸氏)

 曽我兄弟の仇討ちは、鍵屋の辻の決闘(1634年)、元禄赤穂事件(1702年『忠臣蔵』のモデル)と並ぶ「日本の三大仇討ち」の一つで、建久4年(1193)5月28日に起きた。
 
 曽我十郎と五郎の兄弟は母が曽我祐信と再婚したので、曽我十郎祐成(すけなり)・五郎時致(ときむね)と名乗り父の仇を討つため曽我の里で時節の到来を待っていた。

     auto_44lMaz.jpg静岡県富士宮市の曽我兄弟隠れ岩

曽我兄弟は幼いとき実父の河津祐通(祐泰)が工藤祐経に殺された。所領争いがからんでのことで、祐経側にも言い分がないわけではなかったが、父を失った兄弟は養父のもとで育ちながら父の仇、祐経を討つことを願い続け、建久4年(1193)5月28日夜、源頼朝が催した巻狩を行った富士の裾野で、宿願であった親の仇を果たした。

 雷雨激しい中、頼朝の御家人たちは大騒ぎして走り出たものの、十郎らにより多くの人々が傷を負った。
 十郎は新田忠常に殺された。頼朝の幕舎に突進した五郎は太刀をもった頼朝と対峙したものの結局捕えられた。
 翌日、頼朝が五郎を直接訊問を受けた。
 五郎の祖父伊東祐親は伊豆の大豪族だったが、以前は我が娘と頼朝の仲を裂き、旗挙げの折に反抗したために没落していた。五郎「父の仇討ちと共に、伊東氏没落の経緯を言上するため頼朝の幕舎に近づいた。後で自殺するつもりだった」と述べた。頼朝は五郎を許そうとしたが、祐経の遺児犬房丸の訴えたに屈し五郎を引き渡し、殺すことを許した。

      auto_weliEE.jpg曽我兄弟の墓

歴史学者三浦周行博士によると五郎の烏帽子親北条時政の命を受け兄弟が頼朝を爼つたとして、黒幕は北条時政だったという。また小説家永井路子氏は時政は頼朝を殺して権力を握るほどの力を持っておらず、傷を受けた人々の中に時政と親しい伊豆の御家人の名がみえることからこの事件が曽我兄弟二人だけの仕業ではできないことは明らかだ、としている。

 この時警護役の10代海野小太郎幸氏は、刀傷を負いながらも頼朝らを守った。海野幸氏は、笠懸や弓の上手として活躍すると同時に、詩歌にも堪能な文武両道の人物だった。連歌や和歌の催しでは頼朝から歌を褒められ、衆日の見守る中で褒美の引き出物に名馬の「大黒」が与えられている。 
 平家滅亡後14年、征夷大将軍に任命されたが、7年後の建久10年(1199)正月に53歳で亡くなり、頼朝の長子・頼家18歳、その弟・実朝8歳が残された。二代将軍頼家は、家臣・安達景盛の妻(19歳)の美貌なるに懸想し手をつくして強請したが、果たせず景盛を謀殺しょうと同年8月19日の夜決行を決めたが、母政子の知るところとなり景盛の謀殺を断念した。

上田市緑が丘西区の矢島城跡のさらに北には「上平」「上寺」と呼ばれる傾斜のなだらかな平地が広がる。曽我十郎祐成の愛妾の「虎御前」は、曽我兄弟が父の敵工藤祐経を討って亡くなったことを悲しみ、その菩提を弔うために諸国霊場を巡拝の時、善光寺に詣で、この上平に一宇建て虎立山菩提院祐成寺と号し、兄弟の菩提を弔った。その後、応永年間(1394~1472)鎌倉光明寺一誉俊厳上人が来て唱導師として能化普く、中興の師として伽藍を営み、永享5年(1433)に該寺が高地で参詣に不便なので、もと虎見ケ原といわれた現在地に移し、寺号も宝池山九品院呈蓮寺と改称した。浄土宗で知恩院の末寺である。
 北佐久郡立科町(旧横鳥村)の「虎御前」の石が松の木の下に建っている。虎御前の侍女蔦女が善光寺参詣の後、この地を訪れて居を定めていたが、終焉して蔦石に化したという。鬢水の井戸は虎尼が鏡の代わりに顔を映して化粧した泉だという。また、佐久市(旧高瀬村)落合の仏国山時宗寺にまつわる伝承もある。建物は焼失後、南佐久田口の竜岡城の一部に移建された。この寺は一見平屋の民家のように見え、寺号は別に「虎御山時宗寺」とも俗称される。曽我物語の流布本では五郎時致の字をあてている。この寺の西北裏隅に段丘の切れた下に「影見井」なる井戸があって、良水な清水が湛えていて寺の飲用水としている。

和田合戦など(海野幸氏の転戦)

 城資盛は平氏復興のため建仁元年(1201)5月、鳥坂城(妙高市)で挙兵した。幕府は佐々木盛綱を越後御家人の総大将として追討軍を派遣した。
 『吾妻鑑』建仁元年5月14日の条には「信濃国の輩、鋒を争いて競い集まる。西念が息子盛季先登せんと欲するところ、信濃国の住人海野小太郎幸氏、右方に抜きん出て進み出んと欲す。盛季が郎従と幸氏が騎のくつばみを取る。…幸氏進み寄り戦ふ間疵を被る…」とある。
城資盛の叔母・板額御前は、大岩を投げ落とし、強弓で敵方を射倒す大奮闘をしたと言われる。資盛は出羽に逃れ板額は捕らえられ鎌倉に護送された。のちに甲斐源氏の一族、浅利与一のもとに嫁いだと言われる。鳥坂城は現在、頂上本丸跡からの景観は素晴らしく「高床山森林公園」の駐車場から、徒歩で約10分で鳥坂山頂に至る。

auto_EQQVdB.jpg鳥坂城跡

 和田義盛は三浦氏の一族で治承4年(1180)の源頼朝挙兵の当初から幕下に属して活躍し、侍所の初代別当となって信任は窮めて篤かった。直情径行の東国武士の一典型でもあり、比企氏の乱後、北条氏に比肩する勢力を保っていた。

信濃国へ最初に任命された守護は、頼朝幕下にあって最高実力者の一人であった頼朝の乳母の子比企能員(ひきよしかず)が充てられた。また信濃国小県郡塩田荘の地頭には、早くから京都を脱して頼朝に仕えてた惟宗(これむね)忠久が文治2年(1186)2月8日に補任された。忠久は、のちには九州の薩摩・大隅・日向一円(鹿児島県・宮崎県)にある近衛家の庄官となり、島津姓を名乗り豪族薩摩島津家の祖となった。武蔵国比企郡のゆかりで結ばれたとも考えられる比企氏と島津氏は、建仁3年(1203)の比企氏の乱後信濃塩田から姿を消し、北条氏が信濃の守護人となった。信濃国守護が文書の上で正式に認められるのは「明月記」の嘉禄3年(1228)の記事で、執権泰時の弟重時が信濃守護となっている。重時が弘長元年(1261)に没すると、その子長時が信濃守護職を継ぎ4年後長時が死ぬと、わずか14歳の嫡子義宗が継いでいる。長時の弟義政が信濃塩田へ入ったのは建治3年(1270)であった。当時36歳の義政は幕府の要職である連署にあったところから、この突然の隠退には執権時宗の強力な対蒙古挙国態勢における対立も考えられる。塩田の地を選んだのは父重時が守護の地であったことと「信州の学海」と称せられる仏教の一中心が形成されていたことがあげられる。
塩田の地には安楽寺の八角三重塔と開山樵谷憔僊(しょうこくいせん)・二世幼牛恵仁像、常楽寺石造多宝塔(弘長2年の刻銘)、中禅寺薬師堂と薬師如来像、前山寺三重塔さらに舞田の金王五輪塔・奈良尾の石造弥勒仏塔、柳沢の安曽岡五輪塔・別所院内の宝篋印塔などが残る。
以後義政から国時を経て俊時に及ぶ塩田北條氏三代が塩田の地に続く。

その終止符は鎌倉幕府滅亡とともに討たれた。ときに正慶2年(1333)であった。

       auto_bfVvQg.jpg和田合戦図

 和田合戦が始まる前の経緯として「比企能員の変」がある。
鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝に北条政子が嫁いでいた関係で北条氏が執権として政治最高職を得ていたが、この頃まだ執権の権力は万全なものではなかった。
 2代将軍・源頼家は側近や正室(若狭局)の実家である比企能員を重用し、それに北条政子(母方)の北条氏などが反発していた。
 建仁3年(1203)8月源頼家が一時危篤になった際に、北条氏は源頼家の長男・源一幡が本来すべて受け継ぐ領地を、源頼家の弟である源実朝に分割した。怒った比企能員は病床の源頼家と9月2日に会い北条氏討伐を企てたが、障子越しに母である北条政子に聞かれ、政子の父・北条時政の耳に入ってしまった。
 政子は薬師如来供養を口実に比企能員を鎌倉・名越の北条邸に招いたところを、天野遠景と仁田忠常に襲わせ比企能員を暗殺した。知らせを聞いた比企一族は、その日のうちに一幡の小御所に入り戦に備えたが、北条政子が将軍代行となり比企氏討伐令を出し北条義時を大将とする軍勢が小御所を取り囲み、比企一族は源一幡や若狭局を囲んで自刃し一日で滅亡した。
 9月7日激怒していた源頼家は病から回復し頼りの和田義盛と仁田忠常に御教書(正式な討伐令)を送り北条氏を逆賊として討伐を命じたが、和田義盛は、この御教書を北条氏へ渡し、源頼家を裏切ってしまった。北条氏の仁田忠常は滅ぼされ、北条政子の命で源頼家は将軍職を剥奪され伊豆・修善寺に幽閉され、3代将軍は北条氏によって11歳そこそこの源実朝が擁立された。
 翌年、元久3年(1204)7月18日北条氏からの刺客により源頼家は絶命。
 元久2年(1205)7月19日、北条時政は時政源実朝を殺害し、娘婿の平賀朝雅を新将軍として擁した。北条時政の後妻、牧の方の策略を知った北条政子とその弟・北条義時は大反対し、源実朝は北条政子の命を受けた御家人らに守られ、北条義時の邸宅に逃げた。北条時政は兵は、すべて二男の北条義時邸に集まり7月20日北条時政は、伊豆国修善寺に追われ、北条義時が執権を継ぐことになった。
 これを「牧氏事件」と呼ばれている。

 信濃国住人・青栗七郎の弟で僧侶の阿静房安念は、鎌倉への謀反に加担するよう関東一円を説得に歩き回っていた。
 建保元年(1213)2月15日鎌倉の有力御家人千葉介成胤の鎌倉甘縄屋敷を訪れたところ捕えられてしまった。
 最初は小さな企みかと思われたが、検非違使・山城判官行村(金窪行親)の調べで、信濃源氏の泉親衡が源頼家の遺児千寿を将軍に擁立して北条氏を打倒する陰謀が発覚した。
 加担するよう説得した相手は130余人に登り、参画した者の中には、一村小次郎、籠山次郎、宿屋次郎、上田原平三父子、園田七郎、狩野小太郎、渋河刑部六郎、磯野小三郎、栗沢太郎父子、木曾滝口、奥田氏、臼井氏といった面々で和田義盛の子の和田義直、和田義重も計画に参加している事がわかった。
 北条義時も事の重大さに気付き、調査を行い判明した者は翌2月16日重臣の屋敷へ監禁され、和田義盛の子の和田義直・和田義重と甥にあたる和田胤長も拘束された。
 泉親衡は、源満仲の弟・源満快の子孫と源氏の中でも名門であり、北条氏の独断先行を快く思っていなかった。
 北条義時は、泉親平が潜んでいるとされた建橋に工藤十郎らの兵を派遣し捕らえようとしたが、工藤十郎は逆に泉親平に討ち取られ、泉親平は行方をくらまた。 

 和田合戦のきっかけは、和田義盛の甥・胤長らが二代将軍源頼家の遺児を擁立する陰謀が発覚したことであった。義盛の陳情にもかかわらず赦されなかったことから面目を潰された三浦義村ら一族を統合して執権北条義時討伐を決意したが、挙兵直前に義村は寝返った。このため義盛は、準備不足のまま立ちあがり、一時は幕府を占領するほど優勢であったが、衆寡敵せず田比浜に追いつめられ、海野小太郎幸氏らによって全滅した。
 『吾妻鑑』建仁3年5月2日の条には「和田左衛門尉義盛、たちまちに将軍の幕下を襲ふ。……」また同年5月3日の条には「義盛……すべて相模の者ども謀叛をおこすといへども、義盛命をおとし終んぬ」とある。
 

承久の乱と長倉保領土争い

 承久3年(1221)、10代海野小太郎幸氏49歳は、幕府方(執権北条泰時)の将として「承久の乱」に美濃大井戸で参戦した。
 平氏の滅亡後、源頼朝と源義経が対立した。義経が平泉(岩手県)の奥州藤原氏のもとに逃れると、頼朝は義経・奥州藤原氏を攻め滅ぼした。日本初の本格的な武家政権『鎌倉幕府』を開かれた。頼朝の死後、頼朝の妻・北条政子の実家・北条家が幕府の実権を握り、執権(将軍を助ける幕府の最高職)の地位を独占した。
 一方、幕府を倒して政権を取りもどそうと考えた後鳥羽上皇が兵を挙げ、御家人(幕府に仕える武士)たちは朝廷の敵にされて混乱した。
この時尼将軍(北条政子)は「武士の政権を開いた頼朝様に感謝し、幕府を守るために戦うべき」と御家人たちの心を一つにまとめた。この頃幸氏は幕府重臣として重要な事項の謀議に参加している。
 幕府は北条泰時らを指揮官に任命し京都に攻め上らせた。味方する武士が増え19万騎の大軍になった幕府軍は、宇治・瀬田の戦いで朝廷軍を撃破して京都を占拠した。敗れた後鳥羽上皇は、隠岐(島根県)に追放され、幕府は京都には朝廷を監視する役所「六波羅探題」を置いれた。
 
 香坂宗清(初代香坂家)も戦功により鎌倉六代将軍宗尊親王(むねたかしんのう)に仕え文応元年(1260)信州新町の牧之島の地を賜わった。その後、信濃守護守・小笠原貞宗の命により、総大将・村上信貞率いる市河経助・高梨五郎などが、牧城を攻めたが天然の要害にあり落城を免れた。それ以降の戦乱でも落ちることはなかったという。

 10代海野小太郎幸氏は源頼朝より庄を与えられ、上野国三国の庄(長野原町・嬬恋村)の地頭だった。このことから滋野姓海野氏の勢力は上野国吾妻郡にまで広がっていたといえる。

源頼朝の浅間の狩にあたりに『大石寺本』では〈信濃と上野の境なる碓井山を越え給い、沓掛の宿に着き給符、その夜は大井・伴野・志賀・置田・内村の人々ぞ守りける。次の日鎌倉殿、三原へ御越あり、離山の腰を通らせ給う、その折、「節狐の啼きて走り通りければ、梶原聞きも敢す」と口ずさみけり。信濃の国の住人海野小太郎幸氏「忍びても夜こそこうとはいふべきに」と付けたりければ、人々感じ合はれける云々〉海野小太郎は梶原とともに褒美の品々を頂戴している。

 このことで海野幸氏は、甲斐の武田光蓮(武田信光)との国境の長倉保(軽井沢町)との領地争いを行ったとあり、幸氏の領地は、武田氏の領地に接するほど広かったのであろうか。
 海野氏一族が上野国に進出し三原庄をも領有していたことが注目される。その一部は下屋・鎌原・羽尾・大戸氏のように西上野吾妻郡地域にも進出していた。
 ともあれ武田方との領地争いは幕府の裁定で海野方の勝訴で治まった。そのことは『吾妻鏡』に記されている。
 甲斐の武田家では内紛が起きて武田光蓮が二男信忠を勘当した。
 海野氏は、甲斐国に本拠をもつ武田氏と犬猿のなかの時代を過ごすこととなる。
 これは、仁治2年(1241)3月のこととされている。この時、幸氏は69歳であった。

海野幸氏は長生きで活躍していたことになる。この時期の海野氏の支配地域は、海野氏連合体全体で江戸時代の石高に換算して5~7万石程度と推定される。(信濃全域で55万石と称される)海野氏の最盛期であった。

 海野氏は、本領海野の地を開発領主であり、その地は海野庄と呼ばれた。領家は藤原摂関家だった。12世紀初め関白忠実の代より南北朝時代の14世紀中葉まで藤原氏嫡流(近衛家)に伝領されたことが考証されている。海野氏は摂関政治の全盛時代より摂関家に従属し、その荘官として勢力を蓄えていたと見られる。
 10代海野小太郎幸氏の活躍はすでに「〈十三〉海野氏中興の祖…」に紹介している通り『吾妻鏡』に多く記録され、特に嘉禎3年(1237)8月北条泰時の嫡男・北条時頼に鶴岡八幡宮における流鏑馬で騎射の技を披露し、見る者たちからは「弓馬の宗家」と讃えられ天下八名手の一に数えられた。また武田信光・小笠原長清・望月重隆と並んで「弓馬四天王」と称され、以後は将軍家の御弓始・放生会の流鏑馬・三浦の小笠懸などの催しのたびに、海野小太郎幸氏の名がみられる。
 
 

弘安の役と11代海野幸継

 11代海野小太郎幸継(幸氏の長男)は、塩田氏に従い弘安の役に出陣している。弘安の役とそれに先立つ文永の役はともに元寇と呼ばれる。
 文永8年(1271)モンゴル民族の5代フビライ・ハンは元(中国)を建国すると、鎌倉幕府に使者を送り日本に朝貢を求めてきたが、8代執権北条時宗は、これを拒否して九州沿岸の防備を固めた。怒ったフビライは、文永11年(1274)、支配していた朝鮮半島の高麗の兵を従え約9百隻の軍船と2万8千兵で、日本への攻撃を開始した。
 元・高麗軍は対馬・壱岐(長崎県)を侵略し10月20日には九州博多(福岡県)湾西部の今津付近に上陸した。
 日本では卑怯とされていた集団戦法や空中で爆発する火薬兵器による元軍の攻撃に、幕府軍は苦戦を強いられた。
 その晩、台風が襲来し元軍の多数の船と将士を失い、残る兵士も戦意を無くし元軍は撤退した。

 フビライから降伏を促す勧告が届けられたが執権北条時宗は従わず、使者を鎌倉竜の口にて斬殺し、九州の沿岸の防備をますます堅固にした。
 フビライは金方慶が主将とする蒙古・漢・高麗合流軍4万の東路軍と、范文虎の率いる旧南宋軍10万の江南軍を編成し、日本に向けて出撃させた。

 弘安4年(1281)6月6日東路軍は志賀の島に襲来した。待ち受けていた幕府軍と激戦になり勇敢な将士の反撃に侵略軍は上陸できずに退き、江南軍の到着を待った。
 東路軍は遅れた江南軍と平戸付近で合流し一挙に博多湾に押し入るべく鷹島(長崎県)付近に移動した。
 これを察知した幕府軍は小船にて猛攻をかけた。激戦の最中7月30日から暴風雨が吹き荒れ翌閏7月5日には来襲軍の船は、ほとんど沈み撤退を余儀なくされた。范文虎は士卒を置き去りにして本国へ逃げ帰った。残された将兵は殺害または捕虜となり幕府軍の大勝利に終わった。

        auto_akm0o6.jpg海野幸氏から幸康までの系図
  
 前記の諸系図にある、10代海野小太郎幸氏の二男賢信房は、福井県鯖江市の万法寺を開基している。
 10代海野幸氏の三男海野三郎道敏(乗念房)は、富山県大山町の真成寺を開基している。
 四男尭元(小田切次郎)は、小田切氏の祖。
 五男海野矢四郎助氏は、駿河安部氏祖で井川海野氏先祖である。

中先代の乱と海野幸春ら滋野一族

 元弘元年(1331)第96代後醍醐天皇は朝廷の実権を取り戻すため、幕府を討とうと「元弘の乱」を起こしたが失敗し、隠岐(島根県)に流され。この時、北条時行(鎌倉幕府執権高時の二男・幼名亀寿丸)は叔父義家の計らいで、諏訪盛高の手により鎌倉から逃れ、信濃諏訪社の神宮らに匿われ諏訪地方に潜伏していた。『太平記』によれば6月いち早く京都から逃亡した北条与党らが、信濃へ結集して時行勢と合体したことが、中先代の挙兵に結び付いたという。

 一方、楠木正成など後醍醐天皇に味方する武士が各地で現れ、倒幕運動を始まった。幕府の実力者・北条高時は大軍で後醍醐天皇に味方する武士らの立てこもる千早城を攻めさせたが、丸太や大石を投げ落とすなど正成らの反撃にあい、幕府軍は約100日間釘づけとなった。京都では御家人・足利尊氏が天皇側に寝返り、元弘3年(1333)に京都にあった幕府拠点の「六波羅探題」を攻め滅ぼした。
 さらに関東では、新田荘(群馬県)を本拠にしていた御家人の新田義貞も、幕府から強引に年貢を取り立てられたことから、元弘3年5月倒幕の兵を挙げて鎌倉へ向けて進撃を始めた。守りの薄い稲村ケ崎を目指し潮の引いた時に一気に攻め込み、幕府の実力者・北条高時は北条一族を率いて戦ったが敗れて東勝寺に追い詰められて自害した。これにより源氏三代より北条氏へと続き約150年続いた鎌倉幕府は滅亡した。

 その頃信州では滋野一族が正慶2年(1333)3月28日(北朝年号)北御牧両羽神社に戦勝を祈念した海野・祢津・望月・矢沢家は、風雲急なる鎌倉に向かって応援のため急進した。塩田北条も一族あげて鎌倉幕府擁護のため出動している。両羽神社に集結した滋野一族は佐久郡内山の峠を越え、富岡街道の下仁田(現在の群馬県)を経て、鎌倉街道の嵐山(現在の埼玉県比企郡)を南下し約10日間の行程で到着し、直ちに鎌倉防衛軍の編成の中に組み込まれた。5月18日には、稲村ガ埼から侵攻した新田義貞によって鎌倉幕府は滅亡する。そして三代約50年の塩田北条氏も運命を共にした。望月城は、主力部隊が鎌倉にいて留守の中、足利方の小笠原氏・市河氏の攻撃により破却されてしまった。 

 隠岐を脱出した後醍醐天皇は、鎌倉幕府の滅亡後建武元年(1334)新しい政治(建武の新政)を始めたが、武士よりも公家(朝廷に仕える貴族)を重く用いたため、武士の不満は高まった。信濃国内の武士も公平さを欠く恩賞に対し不満だらけだった。
元弘3年(1333)から「中先代の乱」へかけての対立であったが、この後20~30年間、あるいは100年後の延享12年(1440)の結城合戦まで、対立は続くことになる。

 建武2年7月13日以前に、諏訪頼重・大祝時継、滋野一族らは北条時行を奉じて挙兵している。幕府の御家人として北条氏に恩顧をもつ各地の武士たちは、幕府を再興しようという思いだった。12代海野小太郎幸春・13代海野小太郎幸重はじめ上田小県地方の武士たちも北条氏に心を寄せていた。20日ころには信濃を出て、23日には武蔵国に突入している。時行は共に兵を挙げた。

  時行は、鎌倉執権の北条氏つまり「先代」と室町幕府の足利尊氏つまり「後代」の両者の中間に生きた人物として、後世の人から「中先代」と呼ばれた。それが、この戦いが「中先代の乱」と呼ばれる所以である。                         埴生船山郷周辺の守護方と中先代与党との戦いの状況は『市河文書』の建武2年(1335)7月の「市河助房等着到状」と同年8月の「市河親宗軍忠状」に残る。           両軍の軍勢は
  (中先代与党・南朝)             (守護方・北朝)
 北条時行                  信濃守小笠原貞宗
 諏訪三河入道照雲(頼重)           市河刑部大夫助房
 安芸権守諏訪時継(頼重の子)         同左衛門九郎倫房
 滋野一族                  同息子五郎長房
 保科弥三郎                 市河孫十郎親宗
 四宮左衛門太郎               村上の人々

 守護小笠原貞宗は、合戦を覚悟で船山郷に乗り込んで、7月13日に市河助房・倫房・親宗らが合流し、14日になって保科・四宮氏をはじめ中先代方が青沼に押し寄せ、それが千曲川を越えて篠ノ井・四宮河原に戦場が移り「更埴河原の戦い」となった。守護方が優位に立って、翌15日には、八幡の武水別神社東方の河原で、坂城町の西部方の横吹のすぐ北の福井(磯部のなかほど)の河原でも合戦が行われて、市河氏の総大将助房は討死した。市河氏は村上の人々の援軍を得て、この危機をまぬがれた。

 海野氏を含む諏訪・滋野一党・時行軍は各地で赫々(かっかく)たる戦果を上げ、戦いの手始めに守護小笠原貞宗の軍を破り、続いて小手指ケ原(埼玉県所沢市)にて足利軍を破り足利直義が守る鎌倉を攻め落とした。直義は鎌倉を逃亡する前に監禁していた後醍醐天皇の皇子、護良親王を殺害した。
 敗走した直義軍は、同年7月27日、これを食い止めようと、駿河の国手越河原(静岡市駿河区)に陣を敷いた。しかし破竹の勢いで東海道を攻め上ってきた時行軍の勢いを止めることは出来ず、三河をめざし敗走した。危機を感じた足利一族の棟梁尊氏は、後醍醐天皇の裁可を得ず、救援のため兵を率いて東下、三河の国矢萩(岡崎市)にて直義軍と合流、8月9日に進撃してきた時行軍と橋本(静岡県浜名郡)にて合戦、これを破り、敗走する時行軍を追って、途中小夜の山中(掛川市)をさらに破り、14日には府中(静岡市)の合戦に勝利した。時行軍は、続いて高橋縄手・清見ケ関(清水市)と息つく間もなく攻めたてられ、防戦の甲斐なく時行軍は敗走した。
 17日箱根山、18日には時行軍の最後の陣地相模川にて合戦、ここを最後の場所として、よく防ぐも敵せず、尊氏は19日には鎌倉を奪還した。

 諏訪頼重・時継は鎌倉の勝長寿寺で自害し、時行による鎌倉奪還は僅か20日間の夢に終わった。北条氏再興の目的はあえなく挫折し、北条時行は落ちて行方知らずとなった。
尊氏は、その後、後醍醐天皇の上洛命令を聞かず鎌倉に居座り、征夷大将軍を自称して公然と建武政権に反旗を翻(ひるがえ)した。

 後醍醐天皇から足利尊氏を倒すように命じられた楠木正成は、足利尊氏と和解するよう提案したが、公家らの反対にあい新田義貞とともに湊川(兵庫県)へ向かうように命じられた。正成は戦死を覚悟していたという。湊川に陣を構えた楠木・新田軍に対して、尊氏軍は、水軍を利用して新田軍の背後から攻撃を仕掛けた。新田軍は逃げ道を断たれることを恐れて退却した。このため楠木軍は戦場で孤立し一族と共に自害した。
 その後、新田軍を破った尊氏は京都に入った、室町幕府を開いた。後醍醐天皇は京都を脱出した後、吉野(奈良県)へ逃れ、京都の朝廷(北朝)に対抗するため南朝を開いた。室町幕府初代将軍・足利尊氏は、小笠原孫二郎政宗を信濃国の守護に改めて任命した。
 観応2年(1351)の2月から、しばらくの間、信濃は平穏を取り戻したかに見えたが、足利尊氏と弟の直義兄弟の関係が悪化しし、6~7月から信濃でも、また激しい合戦が始まった。
 7月足利直義と一緒に都を出た諏訪信濃守は、敦賀にとどまった直義の一行から別れて、先に信濃に戻ったことで、祢津氏や香坂美濃介達も勢いを得たので、善光寺の戦いで守勢になった尊氏方が須坂市米子の山に逃れたところを、さらに追撃した。
 上田小県地方にとって初めての合戦が、12月10日尾野山で行われた。尾野山は上田市丸子の依田と小牧の間で小牧山の東部、尾野山集落の中ほどの下池の西側に、今も中尾の字が残っている。ここ尾野山に上ると北方の眼下に海野氏所領の岩下や深井が広がり、東北の方向に祢津小次郎の本領祢津郷が手に取るように見える。
 こんな近くまで尊氏方に攻め寄せられ、自分の所領が危機にさらされた祢津氏が、一生懸命になって防戦したことは当然で、諏訪信濃守直頼も駆けつけて大合戦が繰り広げられた。

 このことが半世紀余りにおよぶ南北朝内乱の引き金となったが、諏訪及び海野氏を含む滋野一族が起こした中先代の挙兵が南北朝内乱に影響を与えたという。海野氏は南北朝争乱の幕開けの主要メンバーだったことは特筆しておくべきであろ。
 また海野氏の一部は安倍(静岡県)の奥に逃れ、安倍城を拠点とする南朝方の狩野貞長に従ったとも考えられる。

小手指ケ原の合戦と海野幸康ら滋野一族

  14代海野小太郎幸康は、正平7年(1352)2月28日宗良親王に従い、上州・武蔵の国境笛吹峠(埼玉県嵐山町と鳩山村の境の峠)において、関東や信濃を中心に南朝方の新田義宗軍と鎌倉の足利尊氏との間に激しい戦闘が始まった。この合戦で大敗し幸康は討死したと伝えられている。
 
       auto_zbFEi4.jpg笛吹峠(埼玉県嵐山)

 続いて兵力を整えた尊氏軍と笛吹峠の宗良親王が率いる諏訪氏・滋野氏の軍勢は、小手指ケ原(埼玉県所沢市)で決戦となるが両軍譲らず激戦が続いたが、ついに南朝方の敗北となり再び信濃に帰った。この合戦を『太平記』には、武蔵野合戦と記してある。
 この合戦に参加した信濃国の反尊氏方の上田小県地方の武士は
   海野善幸
   滋野八郎
   祢津小次郎
   舎弟修理亮
   矢沢八郎
   滋野一族

 「松井田町誌」よると、滋野八郎等は、この時信濃路の関を守った。今でも、海野陣場という名が旧軽井沢の西方長尾の原一帯に残っている。一族郎党を率いて長尾原で足利勢の追撃を防ぐべく奮戦したが、力尽きて討死し、残る一族は、信濃宮に従い、5月11日美濃に出て忠勤を励んだという。今でも見晴台(旧城山大王塚)に八郎を祀った石碑がある。
峠の神官水沢邦暠氏や、茶屋「滋野屋」は、この滋野氏の後裔であると伝えられている。

 宗良親王は応長元年(1311)に生まれ、第96代後醍醐天皇の第四皇子で母は歌道の家冷泉家の娘で、早くから歌道にいそしんでいた。出家して延暦寺に入り、尊澄法親王と称し元徳2年(1330)20歳で天台座主となったが、延元2年(1337)に還俗し、北畠親房とともに伊勢に移り、翌年浜名湖の北岸に近い井伊城に移った。のち越後・越中に転戦、南北争乱の時代となり、遠江国奥山城に在住し、この城の東方を流れる天竜川の上流、伊那谷を臨む信濃大河原城(大鹿村)に康永5年(1344)2月ころ移り、香坂高宗(こうさかたかむね)の警護を受けている。このあたりが、宗良親王の東国計略の根拠地となった。そして、以後30数年、ここに居られ信濃宮という。

           auto_F2h1wR.jpg信濃宮神社(大鹿村)

 「正平24年(1369)2月20日鎌倉より上杉朝房・畠山基国の軍は、小笠原軍と合流して信濃大河原を攻める。城中の香坂高宗らは信州の宮方を集めて防ぐ、諏訪頼継は和田峠を、渋谷一族は青柳口を、木曽・上杉諸氏は塩尻峠に、滋野・矢島氏は松島に、桃井氏は向山に、大島氏は大島に、笠原氏は庄神山に、中条氏は一ノ瀬を囲む。」と『桜雲紀』に記されている。「2月28日上杉朝房・畠山基国は、5万の兵をもって和田口に迫る時に降雪あり、両軍対峠する香坂高宗は500騎で来援………朝房敗れて武蔵に帰る……また、その年の10月足利方は大挙四方より大河原城を囲む、香坂高宗は300騎をもって賊将畠山氏を坐光寺に討つ……」と『伊那信濃宮伝』
 海野史研究会で、平成元年8月26日に夏の研修旅行で下伊那郡大鹿村へ役場横には「村合併100年記念」の横断幕が風に揺れていた。険しい山道を辿り、息を切らせながら信濃宮を尋ねる。お宮の前に立って感慨無量であった。

 晩年は吉野へ上り「新葉和歌集」を選集し、最後は大河原で亡くなられたらしい。親王は誠実で思いやりのある人柄だったので、武士たちに信頼された。親王と香坂高宗の間には、利害をこえた親愛の情があった。
 宗良親王を祀る信濃宮神社は、長野県下伊那郡大鹿村大河原上蔵(わぞう)の東方の高台にあり紅葉の木々の中に鎮座している。戦時中、県の事業として造営が続けられたが、戦争で中絶、規模を縮小して奉賛会の手によって今の社殿が完成した。
境内には、宗良親王が小手指原の激戦の陣頭歌として詠まれた歌で物悲しい歌碑がある。
 「君のため 世のため 何にか 惜しむからむ 捨てて甲斐ある 命なりせば」
 「我を世に ありゃと 問はゞ 信濃なる 伊那と こたえよ 嶺の松風」

   auto_zKnkvR.jpg宗良親王の歌碑 (上記の上の歌)

           auto_FqgusH.jpg宗良親王の歌碑 (下の歌)

 香坂高宗は、滋野氏の一族で佐久香坂の出身、鎌倉時代に牧之島(信州新町)・大河原へ進出した。大河原・鹿塩は諏訪社領だった。また滋野氏は諏訪氏の仲間だった。高宗は天竜川沿いの大草(下伊那郡中川村)を本拠としていたらしいが、宗良親王を大河原に迎え、ここが東国の南党の中心地となった。一時は、親王を奉じて関東に出陣したが、その後、南党の勢力は、次第に振るわなくなった。しかし、高宗は、最後まで献身的に親王に奉仕した。
 高宗の居城大河原城は、上蔵にあるが、今は小渋川(昭和36年6月27日梅雨前線豪雨三六災害の洪水)は削られてごく一部しか残っていない。
 高宗は、応永14年(1407)に居城大河原城で死去した。(法名 永林院殿禅室良正大居士)
墓は城址や福徳寺(平治2年(1160)ころ創立といわれる国重要文化財(明治45年指定)で、入母屋作り、杮(こけら)葺の屋根)を見下ろす丘の上にある。高宗は大正4年(1915)大正天皇即位大典の日に従四位を追贈された。その位記は大塩村役場に保管されている。

            auto_bp5slU.jpg香坂高宗墓

大塔合戦

 明徳3年(1392)閏10月5日に南北両朝が合体した。しかし8年後の応永7年(1400)9月に信濃国一国を巻き込む「大塔合戦」が起こった。それは千曲川左岸の横田辺一帯で現在の長野市篠ノ井の「大塔」という要害を中心にした戦いであった。この地は「養和元年(1181)木曽義仲が越後平氏の城氏と「横田河原の戦い」を繰り広げられた所でもある。
 
 その様子を伝える史料が『市河文書』に遺されている。この戦いで市河頼房(興仙)は小笠原長秀方に属した。その戦功を賞し義満は「足利義満感状」と「市河興仙軍忠状」の2通を与えた。一級史料であるが戦の詳細が記されていない。軍記物『大塔物語』・『信州大塔軍記』の書は、原本が書かれた年代が不明であったが、67年後の文正元年(1466)僧尭深が書写したものが諏訪下社大祝金刺家にあったのを、上田の成沢寛経(ひろつね)が発見し、塩尻の原昌言が書き写して、江戸末期の嘉永4年(1851)に復刻したものが、現在上田市立博物館や上田市上塩尻原輿家に所蔵されているという。
 応永7年(1400)足利氏に頼んで念願の信濃守護に補任さけた10代小笠原長秀は、衆目を驚かすばかりの都風のきらびやかな行列を整え、7月に伊那勢2百余騎を従えて川中島を練り歩き守護所のあった善光寺に入った。

auto_xYa8WU.jpg大塔合戦といわれる場所

 信濃の国人(土地の領主で年貢など指令する土豪)たちを召集し、遠近の武士が進物を捧げて伺ったが、長秀の傲慢な態度に反感をもって、古くから長秀を心よく思っていない各地の豪族たちは腹に据えかねて合戦に及んだ。
 『大塔物語』は「思い上がった態度をとった長秀に対し、一応慇懃(いんぎん・礼儀正しく)の礼をつくしたものの、長秀は川中島を知行していた村上氏に対し恣(ほしいまま)に非拠(ひきょ・非道理)の強儀を行い、守護の緒役を肩に配下の田圃に入り込ませ実りかけた稲を刈り、年貢の強硬な取り立てを行った。村上満信は佐久の三家や大文字一揆の人々の助けをかりて、守護の使いを追い立て合戦になった」と記されている。
 村上氏のほかに中信の仁科・西牧氏・東信の海野・祢津・望月氏を始めとする滋野氏一族・北信の高梨氏や井上氏一族等大半の国衆が決起した。各地に侵入して来た守護使は追い立てられ、或いは討たれて梟首(きょうしゅ・さらし首)された。ついに守護小笠原氏と信濃国人一揆の一大決戦となった。
 このとき守護長秀に従ったのは、小笠原氏が地盤とした伊那春近領(上伊那)・伊賀良荘(下伊那)・府中地方(筑摩・南安曇)の一部の武士達であった。小笠原一族内でも、長秀の高圧的な態度に反発して参陣しなかった者が続出した。後に仲介役となる岩村田の大井光矩(みつのり)は、現に同族で守護代でありながら加勢しなかった。大井氏も有力国衆同様、諸所の庄園領を押領して現在の勢力にのし上がってきた。守護長秀自身も領地拡大の好機と、並々ならぬ決意で信濃に入ってきた。光矩は、冷静に時代を読んでいた。信濃国内は既に戦国時代を迎えていた。
 
 9月3日、村上満信は、強訴のため兵を挙げた。示し合わせた国衆は、村上勢が篠ノ井岡に、佐久勢が上島に、海野勢が山王堂に、高梨勢が二柳に、井上勢が千曲川鰭(千曲川に鰭のように張り出している台地)に、大文字一揆は布施城後方の芳田崎(ほうだがさき)石川に総兵力4千騎が陣を布いた。この鎮圧のため長秀守護方は、9月10日、善光寺から川中島の横田城(長野市篠ノ井)に押出した。
 上田市立博物館所蔵の『大塔物語』によれば、長秀の下に集まった小笠原勢は8百騎余りで、対する国人一揆の衆は、北信濃の村上満信氏を旗頭に5百余騎を率いて、篠ノ井の岡に陣をとった。佐久地方の伴野・平賀・望月・桜井・高沼・洲吉・小野沢ら佐久勢は7百余騎、一段となって篠ノ井塩崎上島(更埴市雨宮対岸の渡場)に、23代海野宮内小輔幸義以下は弟中村弥平四郎・会田・岩下(※1)・大井・光・田沢・塔原・深井・土肥・矢嶋氏ら小県勢3百余騎を率いて篠ノ井山王堂に、篠ノ井二ッ柳に5百余騎が高梨氏、井上一族など須坂・中野地方の国衆、そして須田・島津ら5百余騎が千曲川岸辺に布陣し、仁科弾正少弼盛房・祢津越後守遠光氏・祢津美濃入道法津・祢津宮内少輔時貞・別府淡路守貞幸・小田中右京亮宗直(実田上総守貞信・横尾種貞・曲尾などの諸氏)など大文字一揆衆8百余騎は布施城を発して芳田カ崎の石川(篠ノ井)に2手に分かれて布陣したと記している。
 牧城主9代香坂宗継・諏訪・その他の豪族を加えて大連合を組織して、陣取った。

 この"騎"というのは何人もの家来を伴うので、実数は、3千超の小笠原勢に対して、国衆は1万3千以上の兵力だったと推定されている。国衆は、川中島平の篠ノ井(長野市)付近に陣を張り、善光寺の長秀軍を圧倒的多数の軍勢で包囲した。
 大井光矩は小笠原一門で守護代であったが、他の国衆同様、在地領主として庄園を押領支配しているため、守護勢の劣勢が予想される最中5百余騎を途中の丸子に滞陣させた。
 9月23日小笠原勢は包囲の中、横田城を捨てて合戦をすると軍議で決し、横田郷に8百騎が布陣した。翌24日寅刻(午前4時)劣勢を覆す策が無いまま、敵陣の隙を衝いて疾駆し、一族の赤沢氏の居城・塩崎城で合流しょうとした。塩崎城は、善光寺平の最南端、千曲川西岸にある狭隘部で、入口を谷間で抑える守るに堅い地勢であった。同日深夜、秘かに決死の覚悟で一丸となって包囲陣を突破しようとした。夜の白む頃、村上軍の中、長秀と松皮菱の旗を中央に守り、8百騎が一丸となり強行突入した。一揆方第一陣が千田讃岐守信頼、村上・伴野・佐久・高梨の諸勢力の布陣が、半時ばかり決死の戦いを挑み阻止しようとした。
 小笠原軍は漸く突破したが、さらに千曲川河畔に海野勢が待機していた。発見分断され撃破された小笠原軍は数百人が討死し、辛うじて塩崎城に逃げ延びた。長秀も負傷し残余の兵も殆ども浅からぬ傷であった。
 しかも逃げ遅れた小笠原一族坂西(ばんざい)長国をはじめ古米入道・飯田入道・常葉(とこは)入道・櫛木等3百余騎は進路を遮られ、途中の大塔の古砦(こさい;篠ノ井にある大当地区)に逃げ込んだ。当初は鹿垣(ししがき)・塀・築地(ついじ)・殲堀などを造作し防備を固めたが、祢津・仁科・諏訪の緒勢に包囲され兵糧も武器の備えも不十分なまま、塩崎城との連絡もとれず、20日を超える籠城となり兵粮が尽き、乗馬を殺して血を啜り、生肉を食う凄惨な有様となった。救援も期待できず、10月17日の夜、飢えと寒さに自滅するよりも全員討死を覚悟、大手より出撃して、敵勢の渦中に殲滅(せんめつ・残らず皆殺)した。長国21歳であった。
 相当数の屍(しかばね)が篠ノ井の野に晒(さら)されたという。善光寺妻戸時宗僧や善光寺別院不捨山光明院十念寺の勧進上人が駆け付け、屍を集めては火葬し骨塚を築き弥陀引摂(いんじょう)の供養を行ったという。

 一揆軍で主動的役割を果たした牧城の城主・香坂宗継は、戦場から直ちに窪寺観音堂(長野市安茂里)に籠り、道心堅固の請願の行を済ますと、跡職(あとしき)を子の刑部少補(牧城主10代目の香坂徳本)に譲り、高野山の萱堂(かやどう)で読経三昧の日々を送った。後年、念仏行者となり諸国を巡行したという。
 
 「大塔の古砦」の場所については、篠ノ井にある大当地区と推定される。大当地区の東方約500mにある御幣川(おんべがわ)地区の宝昌寺は、この合戦の多くの戦死者を葬った所との伝承がある。しかし古砦の場所は特定されていない。

  諏訪氏にとって多年に亘る宿敵小笠原であっても、諏訪大社が幕府守護の管掌下にあって、上社造営料等の役料の督促も、その権威に依存していた。諏訪氏本家は、自ら出陣する事がはばかり、国人一揆に加勢するに際し、主将として有賀美濃入道性在を任じ、胡桃沢豊後守泰時(諏訪氏湖南)、上原・矢崎・古田等軍兵3百余騎を出兵させた。諏訪勢は、大塔の古砦の大手口を攻めたと記されている。

 長秀が逃げ込んだ塩崎城も国人衆の攻撃に負傷者が続出、糧道も絶たれ命運も尽きんとした。長秀は、丸子に留まる大井光矩に使者を送り援軍を要請するが返答はなかった。長秀の最期が迫り、漸く一カ月以上も丸子に駐屯していた光矩は、捨て置くわけにもいかず村上満信と談合し、仲介の手を差し伸べた。これで辛くも窮地を脱し長秀は京都に逃げ帰った。
 10月29日長秀は市河興仙(頼房)の忠節に報い、志久見の本領地に新たに常岩中条(飯山常盤;ときわ;牧)の中曽根郷内の買得地を加え安堵した。
 下水内郡栄村志久見郷は広く、江戸時代から明治の初年までの志久見村ではなく、町村合併前の堺・市川両村全部と壷、細越・石橋等豊郷村の一部も含まれていた。下水内郡常岩は、鎌倉北条の庶流常磐氏が支配した。常盤氏は、いつしか常岩氏と称したが、初代常盤氏を3人の子が相続し3分した。
 北条を宗家とし、北条、中条、南条と名乗り、それぞれの地を領有した。
 守護自ら国人衆の一揆と真っ向から戦い、完敗して逃げ帰る前代未聞の失態で、信濃守護職は罷免された。自ら基盤である全国守護体制の危機として衝撃を受けた幕府は、応永8年(1401)2月前管領斯波義将を信濃守護に復帰させ、斯波家家老職の島田常栄(つねはる)を守護代として下向させた。幕府は応永9年(1402)5月、斯波義将の信濃守護を解任し、信濃国を守護不設置とし幕府料国と定め代官2人を下向させた。これには対立を強めてくる鎌倉幕府に備え、信濃を幕府直轄領とし東国支配の拠点とする意図もあった。

  小笠原長秀は、応永12年(1405)11月、一族の惣領職と所領の一切を弟の政康に譲った。小笠原氏の地位は、再び下落し、安曇郡内の住吉庄や春近領の一園知行権も取り上げられたようだ。長秀の末路は寂しいものであった。翌年守護職を解任された。同19年(1412)には出家し、同32年(1425)52歳で死去されたという。同年ようやく政康が守護に補任された。復帰するのに25年間を要した。
 
(※1)
 『大塔物語』に23代海野宮内少輔幸義に従ったものの中に「会田岩下」と記されているが、『信州大塔軍記』では「会田・岩下」とあり、会田氏と岩下氏の二氏のこととして記してある。
次に「岩下氏」について考察しておこう。
 「岩下」が地名や人名として、史料に現れるのはいつからだろうか。その初見は、鎌倉時代末期の正安3年(1301)に地名として『宴曲妙』に出てくる。
長野県上田市丸子の「田中家所蔵文書」より参考資料として、次に抜粋すると、
①23代海野宮内少輔幸義の弟に岩下豊後守がおり、家紋は根笹に雪、旗印は月輪、信州小県郡岩下に住み姓となす。領所は小牧岩下村を領し、小牧中尾の城に住み、世俗小牧殿と号した。
②岩下豊後守の後に岩下幸兼あり、小名を岩下次郎右衛門大夫と号し、後に下野守従5位下となる。
③岩下幸兼の子の小名を岩下次郎幸邦、後に岩下次郎右衛門佐と言い、また、豊後守従5位下となる。
④岩下次郎幸邦の弟に幸成、上之条に住み、竹鼻三郎左衛門と号し、後に横尾領に移り、横尾但馬守と号す。世俗横尾殿という。
その妹が丸子民部清高の妻となった。
⑤岩下次郎幸邦から後、岩下家は幸繁-政幸-清幸-幸実-幸広-幸記-幸景-幸任-幸豊と続いた。
 岩下幸豊は岩下勘右衛門尉と名のる。
横尾領に住んだ横尾氏の出自は海野氏の末裔なりと言われている。23代海野幸義の弟が岩下氏となり、その岩下氏より竹鼻氏が分派し、それより横尾氏になったとも解釈ができる。竹鼻氏も横尾氏も出自は海野氏からと考えられる。

東筑摩地方の海野支族

 『大塔物語』『信州大塔軍記』によると、前項で述べた大塔合戦に23代海野宮内少輔幸義につき従って参戦した者の中に「会田・飛賀留(光)・田沢・塔原」と四氏の名がみえる。四氏はともに小県郡から東筑摩地方へ進出した海野氏で、本領の地、新補地頭を鎌倉幕府より補任されて子弟を派出したものと思われる。田沢の地は、犀川に面する川手方面の再南端を固める重要な最前線であった。
 12代海野幸春は11代海野小太郎幸継の長男として生まれた。
 海野氏は鎌倉幕府との関係が緊密となり、のちに子孫は各地に分散して繁栄した。

 海野小太郎幸継り二男幸持は、会田(現在の松本市四賀)に移り地名をとって会田氏と称した。会田氏は、現在の会田小学校のある殿村の地に居館し、その南を城下町とし要害名城を虚空蔵山中に持っていた。

     auto_Cac7Gq.jpg虚空蔵山城跡

虚空蔵山は、会田富士と呼ばれる火山性の山で、標高1136m、頂上は屋根のように東西に長く山頂には数郭をなし、鎌倉時代の山城の特徴を有しているが、山頂には水の手はなく、日常の防備は中腹の「中の陣」と呼ばれる場所で、その東に接して「秋吉」と呼ばれる帯郭形の砦がある。いわゆる本城は、この「中の陣」であろう。

 殿村の館・中の陣・虚空蔵山を総称して会田城と称するらしいが、虚空蔵山は要害城として機能したものと思われる。後に小笠原長時は天文17年(1548)7月19日の塩尻峠の戦いで武田信玄に敗れ、その2年後には本城である林城を追われた。
 武田信玄は天文22年(1553)3月29日深志城を出発し苅谷原付近を火攻し、苅谷原城の太田長門守資忠を攻撃した。落城は4月2日であった。翌3日には会田虚空蔵山が放火され塔原城とともに武田方に降参した。会田氏が容易に降伏した理由は、小県海野氏の後をついだ真田弾正幸隆が武田方について降状を勧めたことや、もともと小笠原氏との間には義理がなかったことがあげられている。
 また「高白斉記」によると、武田方に降参した会田の海野下野守(岩下氏)に、苅谷原城の太田氏の跡を加増しようとしたが、既に刈谷原城代となっていた今福石見守が渋ったため、新村三貫の城を替地として与えたとのことである。〈「四賀村誌」より〉
 この後、会田の海野氏は、武田軍団の一員となり、10騎の軍役をつとめて各地に転戦し、武田勝頼の滅亡後は小笠原貞慶に滅ぼされた。

会田氏ゆかりの寺である広田寺の本堂の屋根には、真田家の家紋と同じ六文銭の家紋がある。寺の正面に向かって左側に「会田塚」と書かれた看板があり、下に流れる小川まで下って行くと会田塚があり、奥には虚空蔵山も見える。

 会田塚には会田氏滅亡の際、一党の具足や刀剣が遺骨の代りに埋められたと言われている。会田氏は天正10年(1582)10月小笠原勢によって滅ぼされたが、その際焼き払われた菩提寺知見寺の住持(住職)は安置されていた開基(岩下豊後守)の位牌を以って現在の広田寺付近に逃れた。戦いの後、ここに遺品を収め会田氏一党の供養が行われたと言う。

広田寺過去帳には、会田岩下氏によって中興された知見寺は、広田寺の東の山を越した知見寺という地にあったが、小笠原勢に焼かれ、時の住持が「開基殿(岩下豊後守)の御尊牌をいただき奉り、山中に安座すること七日なり」とある。〈『広田寺過去帳』より〉

 海野小太郎幸継三男の塔原三郎幸次の居館は明科中学校付近にあり、普段はそこで暮らしていて、いざというときだけ城へたて籠(こも)り、居館の周りには、家来の住む城下町があり、現在の「町」の集落が、その城下町のあった所である。

     auto_aiGkx1.jpg塔の原城

 塔の原城は、鎌倉時代の中ごろ川手郷の地頭となって東信から進出してきた海野氏の一族で塔原氏を名乗り、その詰めの城として本城が築かれたという。

城は標高は750m、麓が500m、比高(高度差)は250mの地に建ち、城の規模は500m×500mと、かなり大きく、長峰山の尾根を六条の空堀で切り、本郭と第二郭の主体部を設けている。さらに吐中部落の方向へ東側に5個、北の尾根筋に13個の帯曲輪を設け、主体部には土塁や石垣を巡らす大規模な城である。

 塔原氏は、戦国時代の天文22年(1553)4月2日に、武田信玄に攻められ城を捨てて逃げたが、後に信玄の配下となった。その後信玄は、小県郡海野氏の一族である海野三河守幸貞を塔の原城主に据え、塔原氏は副将の位置に格下げになったらしい。
 永禄10年(1567)3月に至って信玄は、その嫡男太郎・義信を意見の相違から自害させたことから、家臣団に動揺が起った。これを静めるため8月に家臣団を、信濃国小県郡下之郷生島足島神社に集合させ、信玄に二心なき旨の誓約状を差出させている。
 

この時の誓約状『生島足島文書』によると、塔原城主海野三河守幸貞は、8月7日付をもって信玄の重臣跡部太炊介に対し、信玄に二心なき事、上杉謙信からどんな誘いがあっても、また甲・信・西上州にいる信玄の家臣が叛いても、絶対に違反しない旨を神仏に懸けて誓約している。また海野三河守幸貞の家臣である塔原藤左衛門宗幸、会田の虚空蔵山城主海野下野守の家臣・塔原織部幸知も同様の誓約している。

 武田氏滅亡後、松本へ帰った小笠原貞慶氏との争いになり、塔原氏は天正11年(1583)松本城で誘殺され滅亡した。

 海野小太郎幸継の四男・田沢四郎幸国は、筑摩郡田沢に鎌倉時代中期に兄弟などともに、この地方の嶺間から川手方面に進出し各地に定着して、在地名を苗字とし子孫を反映させている。
 田沢氏は、この地への定着に際し、治政・防備・交通など都合の良いところに居館を構え、また祈願時や氏神を祀ったと考えられる。
 山城にしても元禄11年(1698)の『国絵図書上』の際にも隣村、光の別名「仁場城」をもって田沢城としている。享保9年(1724)の『信府統記』でも、この説を踏襲しているが、田沢地籍(田沢駅東の山上)には、田沢城跡は存在している。

     auto_UhwHxO.jpg田沢城跡

 田沢氏は室町時代初期応永7年(1400)9月更級郡の「大塔の合戦」には、時の信濃守護小笠原長秀を追討する側にあった宗家小県郡の海野幸義の旗下として同族の会田・塔原・光・大葦・刈谷原氏などとともに参戦し、小笠原軍を撃破した。小笠原氏は京都へ敗走し、この後、史料上から全く姿を消している。田沢氏滅亡後いつの日か花村氏に替わったらしく、室町時代末の戦国時代になると花村氏が現われてくる。田沢氏は天正11年(1583)に武士を捨て農民となった。

 海野小太郎幸継五男の苅谷原五郎は荒神尾(七嵐)城主であった。
 
       auto_XEjxMd.jpg荒神尾城

 光氏は、海野小太郎幸継六男の海野六郎幸元が筑摩郡光村に来往し、その地名をとって氏を称した。塔原村に法恩寺を開基している。
 光城は犀川右岸丘陵上の尾根に面して大規模な山城で、戦国時代初期に築かれたと考えられる。

光城は、標高911.7mにあり、麓の標高が550mというので比高360mもある。山頂の城跡付近まで車で行け、山全体がハイキングコースになっていて、城址は公園として整備されている。東側に塁堀があり、井戸跡が見られる。尾根筋に堀切が見え、そこに古峯神社(本郭は長さ50m、幅30m)が建っている。神社の背後には土塁がある。古峯神社は火の神であり、そのことからここが狼煙台であったことが示唆される。そのころ海野一族は、頻繁にノロシ等使って連絡しあって栄えていたのである。周囲には腰曲輪がある。その南に深さ5mほどの堀切があり、ニ郭に相当する長さ5mほどの曲輪がある。この曲輪内に土塁で囲まれた部分がある。

 
 その後、永享12年(1440)の結城城攻めには、小笠原長秀の舎弟信濃国守護政康の命によって、宗家小県郡の21代海野小太郎幸守の旗下として、24代海野小太郎幸数は、苅谷原・塔原・田沢・会田岩下氏等一族と共に参戦している。
 光小次郎幸時5世の孫大和守幸政の代、天文17年(1548)7月19日甲斐の武田信玄と中信の雄小笠原長時との塩尻峠の戦いには、小笠原軍の傘下として戦ったが、戦いに敗れ林大城を追われるが、一方で深志城(後の松本城)を占領した。そして東信・北信の制圧を望む武田信玄の側では、天文22年(1553)4月2日小笠原氏のために孤忠をつくす苅谷原城(荒神尾城ともいう)の太田氏が攻められ、城を枕に戦死した。大和守幸政は、おそらく落城後武田氏の軍門に降り、城主としての地位を安堵されたものであろう。天正18年(1590)7月徳川家康の関東入りに従って、下総古河(現在の茨城県古河市)に移封に際しては、松本城主小笠原貞慶が子の秀政と共に、この地を去っている。 〈「明科町史」より〉

天文10年(1541)5月武田信虎は謀議をもって、諏訪郡主の諏訪頼重・埴科郡坂城の城主村上義清と合意した上で、海野平に海野氏を挟撃して、海野・尾の山・矢沢・祢津の諸城を攻め落とした。この時海野氏の当主幸義は戦死し、その父棟綱は関東管領である上州白井(群馬県)の上杉憲政に走って援軍を受けたが、時既に遅く海野氏の回復することができず数百年続いた塔原・光氏などの宗家海野氏はこの時一旦滅亡した。

 浦野氏は、海野幸継の7男として浦野七郎右衛門は、浦野氏の祖として上州吾妻の大戸城主となる。
 明科町の犀川の西岸に中村城があり、その城に、ある時期に居城したのが海野系中村氏といわれる豪族である。その中村氏は、海野系会田氏から分かれたといわれているのである。この中村氏については、未だ充分な資料を手にすることは出来ない。

結城合戦 と24代海野幸数ら

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 永享10年(1438)に関東管領足利持(もち)氏(うじ)は、室町幕府・六代将軍足利義(よし)教(のり)に反旗を翻した。それがもとで執事の上杉憲(のり)実(ざね)と不和になり、憲実は領国である上野に帰還した。これを追って関東管領足利持氏は上杉憲実を討とうとした。憲実は幕府に助けを求めたので、将軍足利義教は小笠原政康にも持氏討伐の出陣命令を出し決行した。持氏は鎌倉で捕らえられ永安寺にて自害した。この合戦を「永享の乱」という。
 この乱で足利持氏遺児春王丸・安王丸の二人を引き取って養育した結城七郎氏朝は、遺児を擁立して名城と言われる結城城(茨城県結城市)にこもり、幕府に反旗をひるがえした。 これを知った幕府は急遽上杉憲実・小笠原政康らを派遣し、諸国の軍勢を招集して結城城に立て籠もる結城氏を攻めた。結城氏は、よく防戦するも、衆寡(しゅうか)敵せず、城を枕に討死した。擁立された持氏の遺児たちも捕えられ、美濃にて殺されたという。
 結城城攻めでは、永享12年(1440)に小笠原政康(長秀の弟、応永32年(1425)信濃守護となる)が陣中奉行を命じられ、24代海野小太郎幸数は守護小笠原政康の指揮下で、信濃勢30番(3千騎)を率いて攻撃軍に参加して、結城氏朝と戦い勝利した。
 信濃武士団の陣中警備と矢倉の役目の順番を記載した帳面『結城陣番帳』に、海野氏は10番目に海野大善大夫憲広(幸数)が載り、27番として大井三河守らとともに祢津遠江守の名前がみられる。『信陽雑記』にも結城攻撃が記されている。
 結城合戦の終わった二カ月後、京都ではかってない衝撃的な事件が起こった。     将軍足利義教が嘉吉元年(1441)6月24日、戦勝祝賀のため赤松満祐邸に招待され、猿楽鑑賞の宴のさなか満祐の手兵によって暗殺されたのである。
三代義満以来安定してきた室町幕府は、崩壊への第一歩をふみ出すことになった。
 この翌年の嘉吉2年(1442)8月、義教の先兵として活躍してきた小笠原政康も、海野の地で死去した。幕府の動揺に加え、勇将で文武の達人とも言われた政康の死は、信濃の前途に再び暗雲を投じるかのようであった。
 『結城陣番帳』に記された名をみると
   八番   村上殿代屋代殿
   十番   海野殿
   十七番  山家殿 和田殿 武石殿
   十八番  西牧殿
   弐七番  祢津遠江守殿 生田殿
 このように信濃の国層の名が109名記入されている。

室町期の所領支配

 24代海野小太郎幸数・25代海野信濃守持幸父子は各々、宝徳元年(1449)鎌倉で元服し、幸数は上杉憲基を烏帽子親とし、また持幸は足利持氏から一字を拝領しているから、関東管領家に属し船山郷(現在の千曲市戸倉町小船山)の地頭御家人であったが、一時的だったと思われる。
 嘉暦4年(1329)の『上社頭役注文』によれば、海野氏は神畑・仁古田・室賀の三郷を支配していた。南北朝期以後北条氏が滅亡すると、足利尊氏によって召し上げられた。
      〈以下「上田小県誌」より〉
 室町期に海野氏の所領は、海野庄(海野・太平寺・海善寺・東上田・深井・青木)、東筑摩郡の会田・苅谷原・塔原、埴科郡船山郷、北は小井田・林、西は桶沢・房山・踏入、南は千曲川端までとされており、庶子(しょし)(正室でない女性から生まれた子)である海善寺や太平寺の氏の一族を代官として、さらに深井・小宮山・今井・平原・岩下氏らを被官として、これらの地域を支配していたという。
 『諏訪上社御符礼之古書(新編信濃史料叢書)』によれば、文安6年(1449)五月会に船山郷より御射山諏訪社頭役を海野本郷の海野持幸が勤仕し、代官は海野平原直光。康正3年(1457)御射山に海野氏幸(幼名亀千代丸)が海野本郷で右頭役を勤仕し、代官は深井備前守治光。
 また26代海野信濃守氏幸は寛正4年(1463)頃から25代海野信濃守持幸から継承して延徳2年(1490)頃まで、海野本郷の諏訪社頭役を勤仕している。
 「大塔合戦」で信濃諸豪族の盟主となった村上満信の後、村上頼清の代には勢力を挽回した小笠原政康に屈服したが、政康の死で小笠原家が分裂・紛争を始めると村上氏は再び勢力を伸ばしていた。
 小県郡内川東地方で古くから勢力を張っていたのは海野氏だった。応仁元年(1467)12月14日村上兵部少輔政清は、軍を小県海野方面に向かわせ、海野氏と戦って勝ち、その領地を獲得た。一方海野方では岩下住人海野満幸が戦死し、海野氏の勢力は圧迫された。
 小県郡内千曲川西の塩田地方は早くから村上氏の知行分となり、代官福沢氏が支配をまかせられて、千曲川の東の海野までも、その勢力を伸張してきた。 
 応仁元年(1467)に、27代海野幸棟が村上政清との戦いで敗北して以来、塩田平も村上氏に制圧され、西上州の国人衆も海野氏の支配下を離れ上杉勢力下の箕輪城主長野氏の支配を受け、箕輪衆に組み込まれたので、海野氏の勢力圏は次第に狭められていった。

 この時期、海野氏の支配圏は海野郷を中心にして西は漆戸・小井田・上下青木・岩下・吉田・深井・大屋、東は祢津の東側一帯の別府氏支配地域、北は鳥居峠付近の田沢・大川・東上田・海善寺・海野、西上州境界付近の祢津氏所領、南は千曲川付近小田中氏所領までとされる。
 江戸時代の石高に換算すると1万から2万石と考えられる。しかも室町時代末期の海野氏は衰亡期であったともいえる。
 氏幸の子・27代海野信濃守幸棟のころからが戦国時代に突入した時期となる。
 幸棟は、永正2年(1505)1月13日に没した夫人「禅量大禅尼」の菩提を弔うために、翌年永正3年興善寺の開基となった。幸棟は、大永4年(1524)7月16日に没し、海野(現東御市和)の興善寺に葬られている。(法名は瑞泉院殿器山道天居士)
 幸棟の子の28代海野信濃守棟綱が大永7年(1527)5月20日、高野山蓮華定院宛ての宿坊定書に著判している。

 

武田氏の信濃侵攻

 武田晴信(後の信玄)の父信虎は、永正16年(1519)館を石和(笛吹市)から躑躅ケ埼(甲府市)に移すとともに、反抗する一族や国人たちを従わせ、天文元年(1532)ころまでには甲斐の統一を果たした。
 天文4年(1535)に諏訪頼満と講和を結び、さらに晴信の妹祢々を頼満の孫で跡継ぎの頼重の嫁にして、諏訪氏との婚姻関係を結んだことは信濃攻略への布石とした。
 天文6年(1537)には、駿河国と和睦するため、今川義元に娘を嫁がせた信虎は、今川との同盟が成立させ領地の拡大を図った。 
 信濃国では、室町時代より守護による統制がとれず、戦国時代になっても守護家小笠原氏の支配力は限定的で、地域単位で勢力基盤をもつ国人領主が割拠していた。
 東信地域では、信濃村上義清と27代海野幸棟の支配領の境界をめぐって争いが激化していた。応仁2年(1468)には両者の抗争から海野大乱が起っている。村上氏は海野氏を圧迫すると共に佐久郡にも侵攻を始め、文明16年(1484)には佐久の名門大井氏の大井政則を降し、佐久郡にまで支配力を得るようになった。
 武田信虎は永正16年(1519)に佐久郡の平賀城を攻めた。
 この時は、村上氏(初陣)が援軍として出陣したので、武田信虎は平賀周辺に火を放っただけで退散した。また、大永2年(1522)にも大井城を攻めたが、村上氏の援軍により敗北した。一方、甲斐でも守護権力の弱体化による家督争いが起こり、戦国初期の動乱が展開しつつあった。永禄5年(1562)武田信虎が、叔父油川信恵(甲斐国勝山城主)を撃破し、反守護勢力を一掃して一応の決着をみた。
 さらに信虎は永正16年(1519)に本拠地を甲府に移し、甲斐国内統一を実現していった。対外戦略は北条氏、駿河の今川氏に向けられていたが、今川氏輝の死去により後を継いだ義元と同盟を結び、その矛先は信濃に向けられた。海野一族も、その攻撃目標となった。
 諏訪を領する諏訪頼満は、甲斐の国人と結んで甲斐統一を志向する信虎と対立していたが、天文4年(1535)9月には、諏訪氏と武田信虎は和睦した。翌天文5年(1536)11月には、海ノ口城を攻略して佐久郡侵攻が行われた。これは武田晴信の初陣だったと言われている。
 天文8年(1539)には飯富虎信が佐久に侵攻し、村上義清と戦った。
 武田信虎は、駿河国の今川氏と和睦すると本格的な信濃侵攻にのり出し、佐久郡の攻略を行った。諏訪氏を継いだ諏訪頼重が信虎の娘婿となり同盟関係が強化されたのは、天文9年(1540)だった。天文9年(1540)2月村上軍は甲斐に侵攻、4月には、武田方の板垣信方が佐久に侵攻し、武田氏と村上氏の激しい攻防が繰り広げられたが、結果として村上氏方が押し切られ、佐久郡は実質的に武田氏に制圧された。

 村上氏と武田氏が佐久郡で争っている間、小県郡では海野氏を中心とする滋野一族が、上野国の関東管領上杉氏を後ろ盾として辛うじて存続していた。
 上杉氏と結んだ海野氏は、武田氏からも村上氏からも共通の敵とみなされ、翌年の天文10年(1541)5月、佐久郡をほぼ制圧した武田信虎は、同盟者の諏訪頼重や前年まで死闘を繰り広げていた村上義清と手を組んで小県へ侵攻した。
 すでに、村上氏との戦いで大幅に勢力を縮小していた海野氏には、単独で抵抗する力は残されておらず、海野棟綱は関東管領上杉憲政に援軍を求めた。当時、海野一族は関東管領上杉氏に仕えていた。
 海野一族が治める東信濃から上州にかけ地域は、越後と関東を結ぶ重要な連絡路であった。関東管領家と対立していた武田氏は、上野国から越後国にかけて勢力を振るっていた上杉家の連絡路を遮断し、信州から上杉家の勢力を駆逐しようとした。
 天文10年(1541)5月13日甲斐の猛将武田信虎は、村上義清をして海野氏を攻略せんとし、同月15日武田・村上・諏訪頼重の連合軍が小県郡へ侵攻した。小県を領する28代海野信濃守棟綱ら滋野一族(海野氏・祢津氏・望月氏・真田氏)との間で合戦が行われた。これが世にいう「海野平合戦」であった。

海野宗家滅亡

 天文9年(1540)、武田晴信は信虎に従って初めて信濃に入り、佐久郡の諸城を攻め落した。翌年の天文10年(1541)5月から兵馬を小県にすすめようと、武田信虎・晴信軍は佐久郡から、村上義清軍は砥石城から、まず海野氏の前線基地尾野山城を攻め、海野平を眼下に見下ろせる地に駒を進め、翌日千曲川を渡って海野平の攻撃となった。諏訪頼重軍は和田峠から侵入し、それぞれ名族海野一族の篭もる属城を攻め落として、海野平を三方から包囲した。
         auto_AzvY3z.jpg;武田晴信海野平対陣図
 海野一族は、独力では太刀打ちできないとして、関東管領上杉憲政に援軍を要請した。ところが、上杉の援軍は遅れに遅れ到着したのは、合戦一カ月後の7月だったという。
 当時、管領家は相模の北条氏らとの戦いが忙しく、小豪族のことなど全く問題にせず、後回しになったのであろう。

s_uno_09_2.jpg海野平古戦場絵図

 援軍の来ない中、海野一族は必死に反撃した。兵力は少ないが皆一騎当千の兵である。
 海野氏の館は今の白鳥台団地付近にあったが、もっとも大事な防御線神川や千曲川が突破されれば、連合軍の侵入を許すほかはなかった。
 梅雨の時期で神川・千曲川が増水しており、武田軍の攻撃も困難を極めた。
しかし、多勢に無勢であり、海野一族は、四分五裂に分断され各所で大損害を被った。  第28代海野棟綱は破れて、上野(群馬県)へ逃れたのは、そこで関東官領の上杉憲政の援助を頼ってのことであった。
 祢津宮内太輔元直は、海野氏滅亡時に矢沢頼綱と一緒に武田氏に捕えられたが、諏訪頼重と同じ神氏の一族ということで、頼重の執り成しで本拠地へ帰され、矢沢氏は自ら降伏した。望月氏も武田氏に降伏した。
 天正10年(1541)7月になると海野棟綱の要請を受けた上杉憲政は3千騎を率いて関東から佐久へ入り、小県郡の村上義清を攻めて海野を回復しようと試みたが、諏訪頼重が長窪へ出陣して義清の支援の姿勢を示したため果たせず、和睦して帰陣した。このとき甲斐勢が出兵しなかったのは、信虎・晴信父子の対立が頂点に達し、ついに子晴信にわれて父信虎が駿府に去るという事件があったためであろう。
 やがて、甲斐を完全に抑えた晴信の信濃侵攻は、まず諏訪氏を滅ぼし、伊那の高遠城を落とし、再度佐久に入り小県を覗(うかが)っていた。

          auto_np8jHd.jpg矢沢城跡(上田市)

矢沢氏は、文明2年(1470)の諏訪神社上社の神事奉仕をはじめとして、延徳(1489~91)・天文(1532~54)・永禄(1558~69)・天正(1573~91)の各年間に諏訪上社の神使御頭を務めている。天正8年(1580)~9年には矢沢綱頼が武田勝頼から沢口での戦功を賞した感状を得るなど、以降、武田氏に属して活躍した。武田氏滅亡後、綱頼は真田氏の重臣として上野沼田城代を務め、その間、北条氏との幾多の抗争に優れた軍略を発揮した。天正13年(1585)上田原合戦の折は、綱頼の子、2代三十郎頼康が矢沢城を守り8百の守兵で依田源七郎ら1千5百の軍勢を退けたという。その後、元和8年(1622)矢沢氏は真田信之に従って松代へ移り、矢沢の地は小諸城主から上田城主に移封した仙石氏3代政勝の領地となった。3代頼邦(頼康の弟)-4代頼貞-5代頼永-6代頼次(頼永の弟)-7代頼豊-8代誠重-9代頼誠-10代頼寛-11代頼容-12代頼尭(1,400石)-13代頼春-14代頼孝-15代頼直(恩田柳水民生の二男)-16代頼道(恩田檪園民知の長男で造り酒経営・長野県議・松代町長)-17代頼忠(松代藩文化施設管理事務所長・真田宝物館の運営)真田家の筆頭家老として活躍された。

 天文11年(1542)12月1日、文武両道にすぐれている祢津元直は、武田晴信に臣従し、祢津元直の娘(里美姫)が武田晴信の側室として嫁いだ。また元直は、幸隆に従い戸石城攻略において戦功をあげたので、祢津の地を回復している。矢沢氏も、諏訪氏ゆかりの神氏であることから知行を安堵された。
 諏訪頼重は、立科山北麓の大河原峠を下り、長窪城主大井貞隆の降伏により、無血で城を得た。頼重の死後、遺児湖衣姫は武田晴信の側室に迎えられた。ここで和歌3首を紹介しよう。
 まず、晴信の歌
 「もののふの心にふかく しのびいる つづみの音のぬしぞ こひしき」
 里美の歌
 「甲斐ありて躑躅ケ崎の 雪の野を きみに寄りつつ ともに歩まん」
 湖衣姫の歌
 「いまはただ かすめても取らん山里に 美しく咲ける 白ゆりの花」

 祢津元直の娘里美は、馬の名手で馬上ゆたかに祢津の山野を駆け巡っていた。時には祢津氏の領地であった祢津「山の湯」あたりまで馬を走らせたこともあったと思う。地蔵峠(東御市湯ノ丸高原)の頂上で、馬を休ませ、「籠の塔」や「桟敷山」に囲まれた美しい高原の澄みきった空の下で、女傑里美の胸の中を去来した思いは何であっただろうかと耳をそばだてたくなる。
 信玄は、この里美の凛々(りり)しい姿に心をうばわれ、近臣の停めるのも聞かず、なんとしても甲府に迎えようとする。結局、天文11年(1542)12月25日に里美は、信玄のもとへ嫁いでいった。
 東御市役所の西側を流れる求女川の名は、信玄と里美の出会いのエピソードを秘めた名前とも言われている。
 里美は信玄の片腕として、戦場へも出陣している。信玄が伊那の駒場で53歳の生涯を終った時にも死水をとったのは、里美であったという。
 里美は信玄の死後甲府には帰らず、息子の信清(信玄の7男)のいた奥州米沢(山形県)に行き生涯を終ったとか、また静岡の袋井堀越(静岡県袋井市)で生涯を終ったとも言われている。
 現在、静岡県に海野姓、山梨県に祢津姓(長野市付近にも)が多く残っておられる。中には俳優の根津甚八をはじめ、実業家・教育者として多くの人々が活躍されている。
 信清の16代の孫武田茂氏が水戸市にいて、ここにも祢津氏を通し武田家の血統が残っている。

 29代海野左京太夫幸義(善)は、天文10年(1541)に村上氏との神川の戦いで戦死した。真田幸隆の母の兄であり、幸隆にとっては伯父であった。(享年32歳。法名赫?院殿瑞山幸善大居士)

  auto_coGWg1.jpg上田市蒼久保818号線沿いの海野幸義終焉の地 

 28代海野棟綱は、真田幸隆をともなって上州吾妻郡の羽尾へ逃げ、代々支配した海野の地を追われることになった。
 上州吾妻郡には、海野氏の支族が広がっており、棟綱・幸隆にとっては絶好の逃避地であったのかもしれない、棟綱らが身を落ち着けた羽尾は、幸隆の母の弟の子・羽尾幸全入道の領地であった。
 棟綱は羽尾に潜み、四散した一族の生き残りと旧領の回復を狙っていた。
 この戦いは、信虎の小県地方侵攻の総仕上げともいえる戦いであったが、天文10年(1541)6月に信虎は嫡男の武田晴信(信玄)により甲斐から追放されるという事件が発生したため、武田氏の勢力は一時的に後退し海野氏の旧領の多くは村上義清の支配することになり、7月には、28代海野棟綱の要請を受けた上杉憲政が、箕輪城主長野業政を総大将とし佐久郡に出兵した。

         auto_2dzFnI.jpg箕輪城跡(群馬県)

箕輪城は、明応~永正(1492~1521)に長野尚業(業尚)が築城し、子憲業、孫業政により強化された。長野氏は、武田信玄、北条氏康、上杉謙信の三雄が上野国を舞台にしてお互いに勢力を争った戦国の世に、あくまでも関東管領山内上杉家の再興を計って最後まで奮戦した武将である。特に長野信濃守業政は、弘治年間(1555~8)から数回に及ぶ信玄の激しい攻撃を受けながら少しも譲らず戦い抜いた優れた戦術と領民のために尽くした善政により、名城主として長く語り継がれている。
永禄4年(1561)長野業政は若年の業盛(氏業)を重臣達に託し病死した。業盛は父の遺志を守り城兵一体となって、よく戦ったが12月武田信玄は北条氏康とともに倉賀野城を攻め、小幡信貞を味方につけ、上州侵攻の先導とし、永禄6年には、国峰城・安中城・松井田城などの長野方の要所となる西上州の諸城は次々と武田の手に落とした。若年の業盛に対する不安感もあり離反者も出て永禄8年(1565)6月には倉賀野城も落ち、翌永禄9年(1566)9月29日さすがの名城箕輪城も武田勢の総攻撃により落城するに至り、城主業盛は、「春風にうめも桜も散りはてて名のみぞ残る箕輪の山里」 という辞世を残し一族主従自刃し、城を枕に悲壮な最期を遂げた。長野氏在城は60余年であった。
長野氏滅亡のあと、武田氏が箕輪城を支配、武田勝頼は重臣内藤昌豊を城代とし、続いて子の外記(昌月)が継いだ。しかし天正10年(1582)天目山において武田勝頼敗死によって織田信長は、家臣の滝川一益を厩橋城に入れ、箕輪城を治下においたが、この年、本能寺の変があり、信長の死後は北条氏邦が城主となり、城を大改修した。
天正18年(1590)7月小田原は落城して北条氏滅亡すると、徳川家康は重臣井伊直政を12万石で関東西北の固めとし、城下町も整備した。その後、慶長3年(1598)直政が城を高碕に移し、箕輪城は約一世紀にわたる歴史を閉じた。 城の標高は270m、面積は47㌶に及ぶ丘城である。西は榛名白川の断崖に臨み、南は榛名沼、東と北とは水堀を回して守りを固めている。城は深さ10余mに及ぶ大堀切で南北に二分され、西北から東南の中心線に沿って深く広い空堀に隔てられた多くの郭が配置されていた。また、多くの井戸によって城の用水は完備され、六カ所の「馬出し」があり、鍛冶場もあり武具など作製や修理をしたであろう。〈蓑輪町教員委員会編「箕輪城」より〉

 上杉憲政軍では、佐久郡の大井氏・平賀氏・内山氏・志賀氏らは戦わずに降伏した。
 この上杉軍には海野棟綱や真田幸隆らも参戦していたと思われるが、長野業政は諏訪頼重と和睦して、海野氏の旧領小県郡には入らず帰還してしまった。
 このことが、真田幸隆が上杉氏を見限り武田氏に臣従する遠因とされる。  
 海野氏の当主の海野棟綱は、勢力を回復できぬまま歴史から姿を消すが、幸義の遺児らは武田氏に仕えたという。棟綱とともに上州に逃れた一族の中には、真田幸隆のように後に武田氏に仕えて所領を奪還した者もいる。
 棟綱もひょっとすれば、幸隆によって抹殺されたのかもしれない。平安時代の以来の名族の当主の最期が不明というのは不自然なことであり、そこには何らかの隠蔽工作があったのではないか。それを行った人物こそ幸隆であったと考えられる。というのは、のちの永禄6年(1563)武田氏によって上州岩櫃城攻略が行われたとき、幸隆は武田氏の重臣として城攻めを敢行し、羽尾幸全入道は戦死し羽尾一族は没落した。このように、幸隆は一族興亡のために恩人・肉身といえども容赦をしない非情な人物であったと考えられる。

 上野国(群馬県)高山村尻高に海野棟綱入道の碑が現存している。

碑面には、次のような文字が鮮明に刻まれている。
真田海野本国信濃国 貞元親王後胤
伍玉五拾六代 海野行棟長子
清和天皇孫 海野古太良行氏
海野棟綱入道

 と鮮明に刻まれている。

 ところで、『加沢記』によると、「吾妻三原の地頭に、滋野の末羽尾治部少輔景幸という人があり、嫡子に羽尾治部幸世道雲入道、二男に海野長門守幸光、三男に海野能登守輝幸がおり、道雲入道は傷害あり、舎弟二人は越後の斎藤越前盛に属していたが、斉藤没落のおり、甲府へ忠節あり、三原郷を取り立てられ、天正3年(1575)夏のころ、岩櫃の城を預けられ吾妻の守護代となり、輝幸の嫡子・泰貞は矢沢薩摩守頼綱の婿となった」とみえる。
 
 羽尾幸光と、その弟輝幸が海野姓を許されたことが棟綱に何だかの関係があるとされている。羽尾幸光・輝幸兄弟や宗家正統とされる海野業吉(海野幸義の長男)が真田幸隆に従い上州で参戦し岩櫃城攻略に大きく貢献していることが鍵となるかもしれないが、海野宗家は完全に没落し去ってしまったとも言える。

 現在の長野県東御市にある興禅寺の境内に27代海野幸棟の碑が建立されている。
そこには次のように刻れてる。
「興禅寺開基 瑞泉院殿器山道一天大居士 大永4年(1524)7月16日」
なお、和歌山県高野山の蓮華定院の所蔵されている過去帳には「器山道天禅定門 信州住海野殿」と御証文がある。

上州海野氏の戦い

 永禄2年(1559)3月羽尾長門守海野幸光(27代幸棟の孫)は大洞山雲林寺(曹洞宗、安中の青木山長源寺末)を創建した。
 9月信玄は兵1万2千を率いて二度目の上州進攻を行い、安中・松井田の城を攻略して食糧である稲を刈り払い、城主・長野業政の箕輪城を急襲したが難攻不落のために遂に囲みを解いて退去した。
 10月岩櫃・武山の領民が小野子庄に逃散した。信玄は倉内城(沼田)に入った。
 永禄3年(1560)羽尾治部道雲入道(幸全)・海野長門守幸光の兄弟が鎌原の砦を攻め、鎌原は敗れた。鎌原宮内少輔筑前守幸重父子は幸隆の斡旋により、信州平原で信玄に謁(えっ)(目通り)した。8月上杉謙信は厩橋城(前橋市)に入り年越しした。
 永禄4年(1561)5月幸隆は西上州に出陣した。
 6月20日長野業政が亡くなり遺骸は秘かに富岡の良純寺の後山に葬られ実相院一清長純と追号された。
 8月武田信玄は真田幸隆(松尾城主)・甘利左衛門尉(小諸城主)を大将とし、旗本検使に曽根七郎兵衛を命じ、その他信州勢・芦田下総守・室賀兵部大夫入道・相木市兵衛尉・矢沢右馬介・祢津宮内太夫・浦野左馬允ら総勢3千余騎をつけ大戸口と三原口の両手に分けて岩櫃城に攻め寄せた。(第一次岩櫃城攻略)
 これに対して岩櫃の斎藤憲広は善導寺の住僧を仲に和睦した。
 10月羽尾道雲入道(幸全)・海野長門守幸光の兄弟を中心に、富沢加賀守康運・湯本善太夫・浦野下野守・同中務太夫・横谷左近将監ら6百余騎を味方に誘い鎌原城の要塞に押し寄せた。
 岩櫃の斎藤憲広によって鎌原城は攻め落され羽尾幸全が斉藤方として城代となった。
 この事を知った鎌原幸重は嫡子筑前守を赤羽根の台に、西窪佐渡守を大将として家の子今井・樋口を鷹川の古城山へ、幸重自身は鎌原城にあって指揮に当たり、真田幸隆は甘利昌忠とともに鎌原城を奪還した。

岩櫃城は、岩櫃山(標高802m)の中腹にあり、鎌倉時代初期のころ吾妻太郎助亮により築 
城されたと言われている。城郭の規模は1.4㌔㎡で上州最大を誇り、甲斐の岩殿城・駿河の 
久能城と並び武田領内の三名城と言われている。徳川家康の一国一城令が慶長20年(1615) 
に発せられたことから、400余年の長い歴史を残し岩櫃城はその姿を消した。

 
永禄5年(1562)3月甲府から三枝松善八郎・曽根七郎兵衛、信州から室賀入道を検使として、現地で羽尾・鎌原の境界線を定めた。
 武田信玄の検使に羽尾入道は不満を示し斎藤憲広(斉藤太郎越前守一岩斎)に訴え、憲広は熊川境界を不当として山遠岡与五右衛門尉・一場右京進の両名を使者として鎌原幸重に伝えたが安否にかかわる重大事であるとして拒否された。鎌原同地を引き払い、信玄から同高の地として小県郡浦野領地を与えられた。かくして鎌原の領地は、そのまま羽尾の手中に入った。
 10月突然鎌原氏は城を引払って一門は悉(ことごと)く信州佐久郡へ退去したので、羽尾道雲入道(幸全)は鎌原城に入った。
 信玄は翌年3月甘利左衛門尉(小諸城主)を以って鎌原の許へ、羽尾領と同等の土地を小県郡浦野領内に与えた。
 鎌原の所領は羽尾の手の中に入った。永禄6年(1563)3月三原荘をめぐって鎌原氏と羽尾氏との争いが再燃した。6月羽尾道雲入道(幸全)は万座の湯(万座温泉)へ湯治中で、入道の嫡男源太郎も岩櫃城へ伺って留守であると鎌原の百姓から報告された。
 真田幸隆は祢津覚直・甘利左衛門尉らと少々加勢を付けて鎌原へ向かった。この時,鎌原城には羽尾の留守兵僅か50~60人程いたが、これを聞いた城兵は早々に城をあけて逃げ去った。
 鎌原幸重は一戦も交えず一兵も損なうことなく鎌原城を奪い返すことが出来た。
 羽尾道雲入道は6月下旬万座の湯から山を越え信州高井の郷(上高井郡高山村)へと落ちて行った。どうすることもできないことから越後の上杉謙信に援軍を求めた。これが武田と上杉の争乱への戦火となったのだという。
 8月下旬岩櫃城内において斎藤憲広は鎌原氏を討つ相談をし、中山城主・中山安芸守を使者として沼田城に派遣した。沼田城主・沼田憲泰が快く受けたので憲広は大いに喜んで鎌原を攻め滅ぼす決意を固めたのである。
 9月信州高井に落ちた羽尾入道は鎌原老臣・樋口次郎左衛門を利用して、岩櫃城の憲広から弟海野長門守を使者として「お前の城主鎌原を打ち取ったなら鎌原幸重の所領は樋口に与える」と伝えた。樋口は高井にいる羽尾入道に「大前の辺で自分は白馬で、鎌原宮内幸重は黒馬で出陣するので、これを目標に鉄砲で射殺するよう」密書を送った。
 ところが鎌原の黒馬は膝を折ったので、樋口は仕方なく自分の白馬に乗換えて進軍した。入道は鉄砲の上手な猟師を雇っていた。黒馬めがけた鉄砲の弾は樋口の胸を貫通した。従う者もその場で射殺された。入道は黒成馬の鎌原を打取ったが白馬に跨る大将樋口だと思い、弓や鉄砲をしまい酒盛りを始めた所へ鎌原勢が寄せたので羽尾勢は敗れて平戸川へと落ちた。(大前の合戦)
 9月下旬斎藤憲広は越後上杉家の後ろ盾により長野原城へ進軍した。「長野原の合戦」では真田幸隆の弟常田新六郎俊綱は城代として守っていたが須川橋近くの諏訪明神の前で防いだが羽尾と戦って討死した。真田幸隆は岩櫃城を攻めていたが、戦局は思わしくなく和議を余儀なくされた。羽尾幸光と羽尾輝幸の兄弟が武田方に内応した。真田幸隆は羽尾幸光と羽尾輝幸兄弟の助力により斎藤実憲を調略した。
 10月13日真田幸隆は再度(第二次岩櫃城攻略)上野国吾妻郡の岩櫃城攻めた。斉藤憲広の甥・斉藤弥三郎は岩櫃城にいて憲広の居館に火を放ち、木戸を開いて真田軍を導き城内は大混乱となった。家臣が真田軍を防ぐ間に憲広と嫡男憲宗は岩櫃城を脱出して嵩山城へ向かったが、幸隆の次男・昌輝の軍がいたので、嵩山城へは入れず越後へと逃れた。
 岩櫃城突入に矢沢頼綱も参戦し、憲広の次男・四郎太夫憲春と一騎打ちをし、不動谷の南の野場で打ち取った。祢津元直もこの時幸隆の重臣として活躍している。
 岩櫃城主・斎藤憲広越前守入道は、上杉謙信を頼って越後へ落ちた。
 岩櫃城城代は鎌原幸重と湯本善太夫が任せられた。
 11月27日鎌原宮内少輔幸重は甘利・祢津両氏の加勢を得て、その兵力3百騎で羽尾入道の館を急襲した。入道は手勢僅か50~60人と手薄で雪の夜の急襲のため妻女を連れて夜半を徒歩で須賀尾峠(群馬県東吾妻町と長野原町の境)を越えて命からがら大戸の館(吾妻郡東吾妻町大戸)へ辿り着いた。大戸真楽寺の妻は入道の妹であった。深い雪と嵐に手足は凍傷に侵され、やっとのことで明け方に逃げ延びたが、その後の消息は不明である。
 真田幸隆は吾妻郡の守護のために、鎌原宮内少輔・湯本・三枝松を岩櫃城代とした。永禄7年(1564)1月海野長門守幸光・海野能登守輝幸兄弟は真田幸隆のお預けとなり、信州小県郡・佐久郡の内少々の土地をもらったに過ぎなかった。
 鎌原宮内と長男・筑前守は甲府の信玄に年始に伺った。
 3月下旬に真田幸隆(真田一徳斎の号が初見)は上野長野原に出陣した。引き続き武田信玄は海野・祢津ら信州より援軍の兵を岩櫃へ送りこみ、幸隆を上野に在陣を命じ、この方面の将として計略に務め10月には岩櫃城を落とした。
 永禄8年(1565)11月11日仙蔵の砦に陣をした幸隆は植栗・冨澤らを先鋒隊として嵩(たけ)山城(やまじょう)攻撃を開始した。五反田台で両軍が七度に及ぶ戦闘を繰り返したが、斎藤憲宗の子・城虎丸と斎藤軍は次第に真田軍に押されて嵩山城に立て籠もった。
 幸隆は嵩山城を四方から包囲し五反田台の戦いから7日後の17日に夜襲を決行した。真田軍は大手一の木戸口を攻め破り、火を放った。火が燃え上がるなか斎藤憲宗は観念し腹を十文字に掻っ捌いて自決し、弱冠18歳の城虎丸は天狗の峰にかけ上り真田軍をめがけて身を投じた。これを見ていた兵士と女たちも次から次へと岩上から飛び降り悲壮な最期を遂げた。嵩山落城により吾妻郡の最大勢力を誇っていた斎藤氏は滅亡し、真田氏は吾妻郡を支配下に収めた。
 幸隆は正面きっての攻めでは落とせず内部工作を用い、憲宗と斎藤憲広の家老である池田重安佐渡守を内応させて、城内の動揺を誘い、嵩山城を攻め落したという。
 また、嫡男・信綱が陣を置いたところは「陣平」という、それが地名として現在も残っている。矢澤綱頼は嵩山城合戦では前線には出ず岩櫃城の守備に付いている。これは上杉の白井・沼田衆の来襲に備えていたためである。
 永禄9年(1566)羽尾幸光と羽尾輝幸兄弟が岩櫃城代となり、吾妻衆70騎の与力と城を守ることとなった。
 武田信玄は嫡男武田義信の謀反の疑いありとして自害を命じた。この時信玄は家臣団の動揺を防ぐために、ほぼ全域の家臣団から起請文を徴収した。
 この中で真田氏に関係ある地域では小県郡で室賀信俊・海野幸貞・祢津政直・祢津直吉・望月信雅・依田信盛・小泉一族、吾妻領では、浦野幸次、海野衆では、真田綱吉らの名前がみえる。
 幸隆の三男、昌幸(武藤喜兵衛の)に長男信之が生れた。
 9月29日幸隆が上州箕輪城を攻めたので、城は落とされ長野氏は滅びた。
 同年、鎌原・浦野・湯本・西窪・横谷・植栗の6氏だけは幸隆の直属とし、その他富沢以下70余騎を配下として海野兄弟は岩櫃に居住し吾妻郡代となった。

海野輝幸の子、幸貞は、武田信玄に仕えて三河守と称した。

 永禄10年(1567)3月6日真田幸隆は上杉一族長尾憲景が籠る白井城(群馬県子持村)を攻略した。白井城攻略に関しては、永禄8年から元亀3年までの間で諸説はあるが、11月23日白井城代を勤めていた祢津政直宛てに武田信玄から知行があてがわれた。昌幸(武藤喜兵衛)に次男信繁(幸村)が生まれた。

永禄10年(1567)8月、武田領の家臣団が信玄に提出した起請文には海野氏関係として、三 
河守幸貞の単独のもの、信濃守直幸・伊勢守幸忠・平八郎信盛の連盟のもの、「海野被 
官」として桑名・塔原氏ほか5名連記のもの、「海野衆」として真田綱吉(真田幸隆の兄)・ 
神尾房友ほか12名連記のものがある。海野衆の中には幸義の嫡男左馬允幸光(業吉)の名も 
見える。

 
永禄12年(1569)10月12日付の武田竜宝(30代海野竜宝)の朱印状による軍役定書の宛名は海野衆である海野伊勢守・海野三河守の連記となっており、小県郡の海野氏とみても、有力な海野一族と思われる。傍系かも知れないが、なお数家の海野氏が存続していたことを示すものであろう。

上州海野氏の滅亡

 
 海野兄弟の父、羽尾景幸は三原庄羽根尾に移住していた。長男は羽尾幸世、二男は海野長門守幸光、三男海野能登守輝幸、四男を郷左衛門、女は大戸真楽斉の妻となった人で五人兄弟であった。
 二男幸光は永正4年(1507)生まれ、三男輝幸は同7年、信州海野郷に生まれた。
 海野兄弟は勇猛な侍で、特に輝幸は強弓をひき、荒馬をよく乗りこなし、日本武道史にも名の残る新当流兵法の達人と伝わる。この兄弟は永禄初年(1558)のころより上州岩櫃城主斉藤憲広に仕え、岩櫃城内に屋敷(現在残る殿屋敷は長門守の屋敷址と言われる)を与えられていた。永禄6年(1563)10月斉藤氏滅亡後は甲斐の武田に属し、武田氏滅亡寸前までの約16年間、波乱多い乱世を息抜き、その生涯を真田氏のために捧げた。
 幸光・輝幸兄弟は、永禄9年(1566)に岩櫃の城代となり、武田氏に属し真田幸隆の配下についていた。羽尾長門守幸光は修験道に帰依して福仙院と号し金剛院の法弘法師に師事していたという。
 幸光は、深く仏教に帰依し、敬神の念も厚かったことは次の事からもうかがえる。
 長野原町雲林寺・羽根尾小滝山宗泉寺(曹洞宗・雲林寺末・長野原町羽根尾乙301)の両寺を建立した。また、鳥頭神社(矢倉)に鰐口奉納したのは武田氏への忠誠を顕すためであった。 
 天正2年(1574)2月砥石城にて真田一徳斎入道幸隆が病死した。真田山長国寺に葬られた。法名は一徳斎殿月峯良心大庵主、享年62歳。信綱が家督を継いだ。
 天正3年(1575)5月長篠の戦で武田勝頼は大敗し、真田信綱・昌輝が戦死したため、昌幸が家督を継ぎ、砥石城に入り吾妻郡代となった。
 天正4年(1576)4月真田昌幸は上州勢多郡那淵城を攻め取り、続いて名胡桃・小川をはじめその他の諸城を攻略した。北条氏政の上野侵略を武田勝頼に報告した。勝頼が北上野の防備を厳重にさせた。海野長門守(羽尾幸光)・能登守(羽尾輝幸)兄弟は、真田昌幸に属した。
 天正5年(1577)8月、武田勝頼が昌幸の手紙に答えて織田信長の行動が活発なことを告げた。
 天正6年(1578)3月19日、上杉謙信が死去し、景勝(謙信の姉・越後六日町の坂戸城主長尾正景の次男)・景虎(北条氏康の七男)両養子の間に争い(御館の乱)が起こった。この時武田勝頼は景勝を支持した。越後が乱れて上州への上杉方の圧力が弱まっていたのに乗じて、昌幸は上州への計略を進めた。
 天正7年(1579)2月、勝頼が昌幸上野石橋郷の内一軒分の諸役を免じた。
 3月17日、昌幸は上野吾妻郡の地侍羽尾幸光らに上野中山城と尻高城を奪い取取られたと報じた。
 6月幸隆の活躍によって吾妻郡を統治した武田氏も、沼田城奮取を最大の目標に掲げていたが、北条氏政の攻撃により沼田城(上杉氏方の藤田信吉城主)を接取された。
 昌幸は、利根川を挟んで沼田城と対峠している名胡桃・小川・川田の諸城を落とし利根川以西の人たちを傘下にした。

 天正8年(1580)1月、昌幸は、利根川を渡り前線の明徳寺を攻め落し、沼田城に圧力をかけた。
 2月、昌幸が僧某に上野倉内を手に入れたら所領を与えようと約束した。
 3月、昌幸が高野山蓮華定院を前々のように真田郷住民の宿坊と定めた。
 4月、矢沢頼綱が沼田城を攻め、城内にいた金子美濃・渡辺左近允・西山市之丞等が降伏し、それを甲府に出張中の昌幸に報告した所、勝頼は頼綱の戦功をほめ(これを賞して勝頼が頼綱に宛てた感謝状が現存する)昌幸をすぐに帰城させることを知らせた。この後、昌幸は引続き沼田城の攻略に従った。
 4月26日、昌幸は沼田城潜入を田村角内に命じ、籾50俵を与えた。
 5月4日、昌幸は沼田城を攻略するとため、主将に矢沢頼綱を任命した。
城主藤田信吉は降伏の意を示して、沼田城を昌幸に明け渡した。
 続いて、上野猿ヶ京城三ノ曲輪に放火した中沢半右衛門に荒牧10貫文をあてがった。
 この頃、昌幸の陣容は約4千人と言われるが、後に松代藩の重臣となった家臣の主なものは次の通りである。『加沢記』によると
 湯本三郎右衛門・木村戸右衛門・大熊五郎右衛門・河原左京・高梨兵庫 
 助・木村勘五左衛門・鎌原宮内・矢野半左衛門尉・白倉武兵衛・赤沢常隆
 介・出浦上総介・宮下藤右衛門。
 昌幸は、また上州名胡桃城の鈴木主水などを味方に引き入れることにより名胡桃城と小川城の攻略に成功した。
 沼田城主藤田信吉が武田方に降った後、昌幸は、降状した藤田信吉を、そのまま城代として残し、目付役として海野能登守輝幸を含む四人を城代として任命した。
 5月23日、昌幸は勝頼の命により、沼田城在番の海野幸光らに軍令を与えた。
 6月、森下又左衛門に沼田領のうちで領地を与えると約束した。
 9月、勝頼が金井外記に上野名胡桃50貫を宛行った。昌幸これを奉った。
 天正9年(1581)昌幸は、内応した須田新左衛門に南雲20貫文を与え、屋敷地などを安堵した。  
 3月、会津に逃れていた沼田景義は由良・太胡両氏の支援を受けて、沼田旧臣等を誘い兵3千で沼田城奮取を目論んだ。甲府でこの報を聞いた昌幸は、急ぎ沼田に帰って伯父の金子美濃に「甥の景義を打ち取れば、恩賞として千貫の知行を与える」と指示した。欲心の強い金子は、恩賞欲しさに甥の景義を沼田城内の捨て曲輪に誘い込み、暗殺した。景義供養のために、昌幸は下沼田に禅寺・法喜庵を建てたという。

 真田昌幸との約定で、この年の夏のころより沼田城に藤田と弟海野能登守輝幸を城代としていた。岩櫃城・沼田城攻略に功のあったので吾妻郡一円は、兄弟に与える旨を約定したのである。長門守は違約であるとして家老の渡利常陸介、佐渡豊後を使者として上田の昌幸に抗議した。
 ところが昌幸は、この約束に反して郡内の西部を鎌原・湯原・植栗・池田・浦野・西窪・横谷の7氏に、その地を知行地として与える旨を回答して来た。
 11月上旬、鎌原・湯原両氏は、海野兄弟は北条氏と組んで逆心のあること顕著である旨、前記の7人の連判をもって昌幸に訴え出たので、大いに驚き、叔父矢沢頼綱と相談すると矢沢は「海野の北条氏と組むことは必定である。中務太輔(海野能登守輝幸の子)は私の聟で、孫も三人あるが、いたし方ない。速やかに討伐すべきである」と進言してので討伐を決意したが、昌幸としては一生の不覚と言わねばなるまい。海野兄弟を排除するために昌幸を利用されたのではないかと思われる。
 11月21日真田昌幸は、舎弟真田隠岐守信尹を大将にに命じ、鎌原。湯本らの吾妻180騎余と雑兵1千余人の軍勢で岩櫃にいる海野長門守幸光を攻めた。長門守幸光は75歳の老齢で、しかも目を患い、殆ど盲目であったが、3尺5寸の大刀を振りかざし、敵14~15人を切り倒したがかなわず、居館に火を放って腹を十文字にかききって悲壮な最期を遂げた。
 幸光の妻(35歳)と14歳の娘は、渡利常陸介が付き添って越後へと逃れようとしたが、真田軍に取り囲まれ観念した常陸介は、泣きながら母娘の首を落としたと言われている。
 幸光を誅した信尹は、鎌原・湯本・池田の三将を岩櫃城に残し、輝幸の居る沼田城に向った。

auto_lSo5kM.jpg岩櫃城

 岩櫃城の長門守を打取った真田隠岐守信尹は、沼田の城代藤田信吉と図り、だまし討ちを企んだが、これを察した海野能登守輝幸と子息中務太輔幸貞親子は、迦葉山に行き「逆心の無いことを直接訴えよう」と緋縅(ひおどし)の鎧(ヨロイ)を着け家重代の名刀茶臼割3尺3寸の太刀を履いて名馬市城黒に乗り、嫡子幸貞もアジ毛の馬に乗って佐藤軍兵衛以下郎党150余の兵騎を率いて共に城を出た。
 城門には真田信伊・藤田の兵2千余が固めていたが、威風堂々と一行に気圧され道を開いた。迦葉山(かしょうざん)に入ろうとした所、その途中、十二の森(女坂)において包囲され奮戦ののち、ほとんど討死し、海野親子はもはやこれまでと、22日に父子は豪勇田口と木内八右衛門の死体に腰うちかけて、「兵の交わり面白の今の気色や」と謡いながら親子は互いに刺し違え女坂の新雪を鮮血に染めて悲壮な最後を遂げた。
 ときに能登守輝幸は73歳の老年、幸貞は38歳の壮年であった。これにより羽尾氏は滅亡した。

clip_0092.jpg群馬県長野原町羽根尾の海野長門守の墓

 海野長門守幸光の法名は、雲林院殿前長州洞雲全龍大居士といい、その墓は長門守の旧領だった羽根尾城山麓の地、羽尾北小滝にある。
 羽根尾城は天正8年(1583)、昌幸の命により草津の湯本氏が在城することとなったが、廃城になった時期は定かではない。
 なお、迦葉山の住持は不憫に思い、翌23日その討死の場において父子を手厚く弔った。弟能登守輝幸の墳墓は沼田市迦葉山道沿い岡谷地内阿難(女)坂十二の森近くの路傍に、昭和2年に、その霊を慰めるため土地の有志によってその傍に、父子二つの石祠と「海野霊墳」の頌勇碑が建て、その武勇を讃えている。その側に一本の巨松がそびえて墓を守っている。  〈山崎一・山口武夫共著「吾妻郡城塁史」より〉

auto_h2S7V9.jpgぐま建沼田氏岡谷地区の海野塚

迦葉山龍華院弥勒護国禅寺は「天狗のお山」として知られ、沼田市内から北東へ16㎞の山 
の中にある。開祖は嘉祥元年(848)、上野国の太守、葛原一品親王(桓武天皇の皇子)が比叡 
山三祖の円仁慈覚大師を招いて開かれた。唐より帰朝間もない慈覚大師は唐の「迦葉佛鶏 
足山」と似ている山並みから「迦葉山龍華院弥勒護国禅寺」とした。当寺が曹洞宗に改 
宗の折天巽禅師に同行の高弟で中峯尊者という方がおり、伽藍造営・布教伝道など尽力さ 
れたが、住職が大盛禅師に代わる時、自分の役目が終ったことで昇天し、その後に天狗の 
お面が残されていたと言われ、この中峯尊者が「お天狗さま」としてあがめられ、迦葉山 
信仰により功徳を信じ、天狗面を奉納する習わしが広がったという。〈沼田町誌より〉

 幸貞の次女は祢津志摩守元直の妻となり真田信幸の乳母として真田家に仕え、のち剃髪して貞繁尼と称した。
 矢沢綱頼には娘がいて、海野幸貞の妻になっている。海野兄弟誅殺の時、長子の太郎は天正9年(1581)に僅か8歳であったために助命され、長じて、姉婿の家で養育されて原郷左衛門と称した。元和元年(1615)大阪夏の陣で討死したが子孫は、原監物によって育てられ成長して松代藩士となり、今も子孫の方々は存続して居られる。