海野氏の誕生

 滋野恒蔭の子恒成(つねなり)は、正六位下因幡(いなば)介(すけ)となり、清和天皇の皇子・貞保親王の家司となる。妹は貞保親王に嫁いだ、滋野恒成(幸俊)の子の恒信は、正六位上左馬権助となり、天暦4年(950)2月に信濃国望月牧監(ぼくかん)となって下向し、幸俊(ゆきとし)と改名し海野氏の初代当主となった。
 望月牧監幸俊の子の信濃守海野小太郎幸経(ゆきつね)(幸恒)は、天延元年(973)9月海野荘の下司となる。これを系図に示すと次の如くになる。

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次に、海野の祖と伝えられる幸俊から幸氏に至る系図を次に示すと、       

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 前記系図の、2代当主・海野小太郎幸恒信濃守の長男・海野信濃守幸明が3代目当主となる。
天延の頃(973)、弟たちは分家して、二男・直家は祢津氏、三男・重俊は望月氏を起している。
 海野・祢津・望月、これらを滋野三家といい、三家は緊密で、出陣の次第によると海野ら戦う時は、海野が中、右祢津、左望月となり、三家一体となって外敵に当ったという。
 この頃の家紋は、海野氏が州浜や結び雁金で、祢津氏は丸に月で、望月氏は七曜または九曜の紋であったと言われている。

 海野氏と並んで信州の雄族で、現地にあっては、相当な勢力になって支族も広く分出し、信州・上州のみでなく、近江・甲賀にも進出して一勢力となったほかに、各地の諏訪神社等の神官となった者もいる。また出家して寺を開基して、諸国に赴いた者もいる。
 
 孫の海野小太郎幸真は、4代を継ぎ、海野小太郎幸盛が5代目当主となる。
 上田市上野の砥石城跡の山麓には、この丘より富士山が望めることから、山号を望富士(ぼうふざん)陽泰寺(禅宗)の古刹がるが、縁起は古く、白鳳11年(683)、北陸の高僧泰澄がしばらく錫杖を止め、心を養ったので、奈良時代の高僧行基が「養泰院」と称したという。
 4代海野小太郎幸真は、この寺に深く帰依し、田畑を寄進した功徳により、海野氏の菩提寺としての開基となり、以後海野氏代々外護の任を果たした。
 海野小太郎幸真(法名 陽泰院殿笑岩道讃庵主)の墓は、寺院の裏山に建立されている。(寺紋は「州浜」)

前九年の役

 永承6年(1051)、奥六郡(おくろくぐん「現在の岩手県」)、衣川(ころもがわ)以北六郡を領していた安倍氏(俘囚(ふしゅう)の長)が朝廷に反抗して貢税の義務を果たさず、また安倍頼時の代には、衣川を越えて南進し支配地域を拡大してきたので、朝廷の派遣官である陸奥守(むつのかみ・東北地方の長官)藤原登任(なりとう)が鎮圧のために、朝廷軍を率いて鬼切部(おにきりぶ・現在の宮城県鳴子町)で頼時軍と戦ったが惨敗してしまい、膨大な死者を出し、命からがら逃げ切る始末でした。翌年(1052)に朝廷は、武士団「源氏」の棟梁・源頼義を陸奥守兼鎮守府将軍(武士の最高栄誉職)に任命し、多賀城(現在の宮城県)に向かわせた。すると安倍氏は、源氏の武勇伝は知っていたので、突如として、これまでの徹底抗戦の態度を一変し、源頼義に対して低頭平身の服従姿勢を示すようになり、同時に罪も許された。陸奥国は頼義の国府在任中は平穏であった。

 その5年後の、天喜4年(1056)、頼義の任期が終わろうとして胆沢城から多賀城へ帰る途中の阿久利川(一関市)で野営中「夜襲を受けた」と藤原光貞が告げ、犯人は「安倍貞任(頼時の息子)の仕業に違いない」ということを信じて、ひたすら朝廷に従う態度を見せてきた安倍頼時は、源氏との戦端が開かれたのである。発端は、不可解な阿久利川事件(頼義陰謀説の疑問)であった。

 源氏は、歩騎数万、優勢に戦いを進めたが安倍氏の大将頼時は、鳥海棚(岩手県江刺郡金ケ崎)付近で、天喜5年(1057)7月に流れ矢に当り戦死した。9月になると朝廷から安倍氏討伐の宣旨(朝廷の命令)を受けていたので早速頼時の敗死を報告する。更に頼時の子・貞任、宗任らが後を継ぎ、抵抗を続けていた。

                 auto_ZqXkFD.jpg鳥海棚跡

 しかし、土着の安倍氏の結束は、固く抵抗を続け、河崎棚(岩手県東磐井郡)に結集、源氏軍を黄海(きのみ・同郡東部藤沢町)で追撃、天喜5年(1057)旧暦11月厳冬風雪が行軍の邪魔をして、食料も十分でない状態で、しかも重囲にあって源頼義軍最大の危機に陥り大敗し、わずかな家臣と共に戦場から逃れ、兵力も失い、戦いを続けられなくなったが、しかし19歳になった頼義の嫡男・義家の勇猛果敢な活躍により九死に一生を得た。

      auto_m4bjZe.jpg河崎棚跡

 安倍貞任らの勢いは、益々盛んとなる中で源氏は、この窮状打開のため最後の手段として「夷は夷を以って制す」の方法をとり、出羽仙北三郡(秋田県の雄勝・平鹿・仙北)の俘囚長(奥羽地方の首長)清原(きよはら)氏に応援を求めたのである。

 康平5年(1062)、出羽(現在の秋田県)の豪族・清原武則(たけのり)は、同族と共に1万余りの兵を率いて出陣(源氏は3千と言われてる)、源氏・清原混成部隊はわずか1カ月で難攻の小松棚(一関市)と安倍軍のゲリラ戦に勝ち、天下の要塞と言われていた衣川関(ころもがわさく「岩手県」)の戦でも大勝、最後の拠点である厨川棚(くりやがわさく・盛岡市の西北)で安倍貞任・宗任軍は、地獄絵のように落ちのび安倍氏は滅亡したのである。

 源氏の危機を救った清原武則は、翌年従五位下鎮守府将軍となり、俘囚長出身としては、最初である破格の栄誉を得ると共に、支配地域は、仙北三郡に陸奥の奥六郡をあわせもつ飛躍的な成長を遂げたのである。
 頼義は、嫡男・義家を伴い、奥州に向かう途中、東山道の道筋にあたる6代海野小太郎幸家に頼時追討の戦いに加わるよう援兵の要請により、戦役につくため海野幸家は、同族騎馬80騎の棟梁として総勢270人を引きつれ、源頼義に従い安部頼時の制圧に乗り出したが頑強な抵抗にあい出羽国北部の豪族清原氏に援兵を請い、勝敗を繰り返しながら暫く安倍頼時を倒し、嫡男・貞仁と弟の宗仁を捕虜として長くかかった戦乱をようやく終息させた。
 この乱は、源頼義の奥州下向より終息するまでの11年間(1051~1062)の長期の乱で、後に、前九年の役と称された。『㈱西東社「日本の合戦大辞典」より』

 この戦いに、同行した赤石藤次郎友信(6代海野小太郎幸家の重臣)は戦勝を祈願して、無事帰還できたので、正行院を南屋敷の一角に開基したのである。
 場所は現在の長野県東御市の海野保育園から100mほど東側にあったが、天文年中(1532~54)火災により焼失し、今は五輪のみが残っている。寛永15年(1638)法誉永讃和尚が中興して、青龍山正行院地蔵寺と称した。その後、元禄4年(1691)2月寂誉知足(江戸高輪の龍原寺僧)が再興して北屋敷(白鳥神社の西側)に移した。大師堂があり、海野宿に関する数多くの資料があったが、昭和26年に火災によりほとんどが灰になってしまった。その後、昭和29年に願行寺へ合併した。文化9年(1812)6月建立した石灯篭「媒地蔵(なかだちじぞう)」と寺関係の法印石燈等が現存している。『本海野の歴史より』

西上州の海野氏支族

 6代海野小太郎幸家の弟幸房は、領地の争いが続く中、戦争に嫌気がさし、修験者となって、平安朝末期のころ、人も住めぬ荒地の三原(群馬県妻恋村)に住んだ。天仁元年(1108)の浅間山噴火の後、嬬恋村は壊滅的な状態になった。幸房は、吾妻川岸の段上に粗末な小屋を建て「棄城庵(きじょうあん・城を棄てて作った小屋)」と名付けて武具・甲胄などを埋めてしまった。幸房は、下屋将藍と改名し、子孫たちと共に修験道信仰をよりどころとして、噴火で壊滅した嬬恋村を見事に再生させる。吾妻川に沿って開拓して、その地域の草分けとなった。また、その孫は鎌原氏・大厩氏・西窪氏と西上州方面に支族が分出している。修験道に励む下屋本家は、西吾妻地方一帯の荘園領主として平和国家を維持していた。

 幸房の子幸友は、下屋出羽守で法号を昌慶と称し、父の棄城庵の志を継いだ。
幸房の孫・幸兼を、下屋形部太郎といい、はじめて鎌原郷に移り住んでいた。
 幸兼の弟は、大厩伊弥藤五郎・西窪伊弥三郎・万座新三郎入道・門谷弥四郎として、それぞれの住地を氏として分れ住み、幸兼の長男・重友は、武人として頼朝の浅間の狩に従って、鎌の字を賜って鎌原太郎を名乗った。
 二男の友康を、名伊越形部三郎といって常法院の祖となった。
 孫の友成を、形部三郎出羽守といい、弟は赤羽根に住んで赤羽幸兼・今井形部三郎・芦生田丹藤太と分かれ、いずれも住居地名を氏として分れた。

       auto_XIppRd.jpg沼田城跡

 こうして浅間山麓の鎌原郷に土着した鎌原氏は、三原庄きっての土豪として、永くこの地を支配してきて、元和元年(1681)沼田藩5千石余の家老職となった。
 鎌原氏は、代々三原庄の地頭につき、頼朝の鎌倉幕府に務め、その後、上杉氏に属し、戦国の世は武田氏に出仕して、武田氏滅亡後は、引きつづき真田氏の沼田藩に仕えて、天和の改易まで約5百年この地にあって、この地を支配してきた。『嬬恋村誌より』

後三年の役

 
 前九年の役から、清原氏の三代約20年を経過した。清原武則の孫・清原真衡の代になり一族の間に争いが起り、領域内で波乱を始めた。

 永保3年(1083)、陸奥守として赴任してきた源頼義(よりよし)の嫡男・源義家(よしいえ)は、多賀城(宮城県)に入ると、清原氏は清衡(きよひら)・家衡(いえひら)の兄弟が後継者の座をめぐって対立した。この内部争いを止めるため、義家は、領地を半分ずつ分け与えて仲直りさせた。ところが清原真衡が急死すると、この条件に不満だった家衡は、応徳3年(1086)に清衡の館を襲撃。清衡から助けを求められた義家は、清衡に味方し、家衡が立てこもっる沼棚(ぬまのさく)を攻撃したが失敗する。
 翌年、義家と清衡は、大軍を率いて、家衡が立てこもる金沢棚を包囲したが、攻め落とせなかった。
 そこで義家は、兵糧攻め(食料の補給路を断つ作戦)を実行、食料がなくなった家衡は、金沢棚に火を放って逃げたが、捕らえられて殺された。戦いが終わったのは、寛治元年(1087)11月14日であった。この乱を後三年の役と言われている。

 この時も義家より援兵の請いがあり、7代海野小太郎幸勝は、同族80騎の棟梁として総勢480人をつれて源義家に従い、遠い奥州の地まで軍馬を進めて陸奥の清原清衡と共にに戦っている。

 朝廷は、この戦いを「義家が勝手にはじめたもの」として褒美を与えなかったので、義家は自分の財産から戦いに参加した武士たちに褒美を与えた。
 源義家も京都に帰り、新たにこの地方に君臨したのは清衡でした。

姓を「清原」から「藤原」へ改めた初代清衡公は、荒廃した国土を復興し、この地にこの世の浄土「理想郷」を創ろうとした。

             auto_lwI8iF.jpg中尊寺金色堂

 以後、百年にわたる平泉黄金文化のいしずえを藤原氏4代にわたり築いていった。
 平成23年(2011)6月26日世界遺産に登録された。平泉のシンボルが国宝中尊寺金色堂である。藤原文化を象徴する建造物で、浄土思想が息づく阿弥陀堂は、内外を黒漆で塗り、その上に金箔で押したため、金色堂とよばれています。このほかにも毛越寺観自在王院跡・無量院跡・金鶏山が織りなす極楽寺浄土の世界を勘能でる。

保元の乱 

 保元元年(1156)7月11日に夜明けに起きた「保元の乱」の原因は、天皇家の内紛と関白や摂関家の争いで戦うことになった乱である。

     auto_wIEmIl.jpg保元の乱

 応徳3年(1086)、白河天皇は、自分の子に天皇の位をゆずって上皇になり、天皇に代わって政治を行うようになった。白河上皇は、政治の実権を43年間にぎり続けた。白河上皇の死後、権力を握った鳥羽上皇は、崇徳(すとく)天皇に位をゆずらせ、弟の後白河天皇を位につけた。このため、兄の崇徳上皇と弟の後白河天皇の間で家督争いに端を発する武力衝突が、京都で発生した。
 鳥羽上皇が病死すると、両者の対立には摂関家でも、弟の左大臣・藤原頼長は崇徳上皇方に、兄の関白・藤原忠通は、後白河天皇方につき、兄弟による骨肉の争いとなった。
 この戦いで活躍したのが、源氏と平氏の二大勢力に代表される新興勢力の武士であった。
 平氏は、平清盛とその息子・基盛が後白河天皇方に、清盛の叔父である平忠正、平家弘、平康弘らは、崇徳上皇方に分かれた。
 源氏では、棟梁の源為義と、その息子の頼賢・頼仲・為朝(弓の名手)・為仲の4人は、崇徳上皇方についたが、嫡男の源義朝と為義の祖父である源義家の孫の足利義康、源氏一族の源頼政らは、後白河天皇方についた。こうして、天皇家・摂関家・源氏と平氏の一族も親子や兄弟でも敵同士となって戦う事態になったのである。
 両者は、前日10日から兵を集めだした。高松殿に結集した6百余騎の天皇方は、11日未明に3隊に分れて鴨川を渡った。
 平清盛を大将とする3百余騎が二条大路を進み、源義朝を大将とする2百余騎は、大炊御門大路を進み、足利義康を大将とする百余騎は、近衛大路を進んで、上皇方が集まる前斉院統子内親王の御所(東三条邸)に向かい、夜襲を行った。

   auto_YgcrrJ.jpg御所

 この時、目覚ましい活躍をしたのは、強弓で敵を射倒す上皇方の源為朝らが奮戦したが、勢いは天皇方にあり、崇徳上皇と藤原頼長は逃亡する。天皇方の源義朝の火攻めにより後白河方が勝利し、崇徳上皇側の無残な敗北をもって終わった。わずか四時間ほどで決着して天皇方の勝利に終わった。
 捕らえられた崇徳上皇や源為朝は讃岐に流罪となり、平清盛は、叔父・平忠正を処刑するだけだったが、源義朝は一族のほとんどを処刑しなければならなかったのである。

 『保元物語』によると、この戦いで、信濃から馳せ参じた武士の中に望月氏や祢津神平貞直の名が見られ、また、8代海野小太郎幸親も、天皇側として源義朝に属し、京都に上り信濃武士3百騎の棟梁として活躍し武功を立てた。
 海野氏の直轄領は、海野郷の周辺はもとより、遠くは西上州(群馬県吾妻郡)、佐久地方、四賀村(松本市)付近まで広がり、彼らは海野氏の被官となり、海野氏を盟主とした連合体を組んでいた。

平治の乱

 保元の乱に勝利した後白河天皇は、保元元年(1156)9月に『保元新制』と呼ばれる代替わりの新制を発令した。それから3年目にして平治の乱が起きた。 
 保元の乱のあと、敗者となった崇徳上皇方は、厳しい処分を受け、崇徳上皇は讃岐に流され、藤原頼長は、流れ矢で重傷を負い間もなく死亡し、源為義・為朝や平忠正を、はじめ多くの武士が死罪になった。
 源義朝は、一族を敵にまわしてまで後白河天皇側に加わり戦い、勝利に大きく貢献したにも関わらず、その恩賞は少なく、この乱で手柄も上げなかった平清盛に比べて任官が低くかった。恩賞の多少を決定したのは、武勲の大小でなくて院との結びつきの強さであった。やがて源義朝と平清盛の両者の対立が一層激しくなっていった。

auto_iHC169.jpg平治の乱

 後白河天皇は、三年間在位して、子の守仁親王に位を譲って二条天皇とし、自らは院政を開きた。後白河院の近臣である少納言・藤原道憲(法名信西)の計略で清盛は、上皇の近臣として権勢をふるい勢力を伸ばし、一方の義朝は、やはり上皇の信西(しんぜい)と対立関係にあった摂関家・藤原信頼と組んでついに反撃に出った。

 平治元年(1159)12月9日、藤原信頼・源義朝軍は、平清盛が熊野(和歌山県)へ参詣に出かけたすきに、京都の留守を狙って挙兵し、後白河上皇を内裏(天皇の住まい)に移し、信西の三条東殿屋敷に焼き討ちをかけて逃げる途中、宇治田原で首を刎(は)ねられ、信頼(のぶより)は自ら大臣・大将となり、義朝を播磨守に任命した。しかし、熊野に向かう途中に事件を知った清盛は、ひそかに帰京して、本拠地の六波羅邸に入った。清盛は味方の貴族を内裏に送りこみ、二条天皇に女性の服を着せて内裏から脱出させ、六波羅邸に迎え入れた。後白河上皇も密かに内裏を抜け出した。
 天皇と上皇の脱出を知った貴族たちは、清盛の味方になり、信頼と義朝は、孤立した。
 清盛は、内裏が戦場になるのを避けるため、内裏に攻め込んだ後、わざと退却した。
義朝軍は、逃げる平氏軍を追撃し、六条河原(鴨川の東岸)に着いた。そこには清盛の率いる平氏軍が待ち構えていた。激しい攻撃を受けた義朝軍は敗北した。
 戦場から逃れた信頼は、捕らえられ処刑された。義朝は、長男の義平や三男の頼朝ら源氏一族とともに、敗れて東国を目指して逃げたが、逃走中に散り散りになり、平賀義信・源頼朝と共に御所の郁芳門を守っていたが、平頼盛が押寄せて来て、頼朝は捕らえられた。
頼朝は捕えられ、伊豆に流され、幼かった牛若らも母と共に捕えられた。
 義朝は、尾張国(現在の愛知県)の内海荘(家臣の館)に泊まったが、裏切られて殺された。 
 源氏の勢力は、一時まったく沈滞し、その反面平氏は、全盛期を迎え、政治の実権は貴族から武士の手にうつり、古代貴族政権の時代は終り、中世武家政権の出現となる。
 信濃武士として義朝軍の中に片桐小八郎大夫景重・木曽仲太・弥仲太・常盤井・榑(くれ)・強戸などの名が見えるが、根井・祢津氏等の滋野一族は、すでに運命の傾いていた義朝に、これ以上忠勤を励む必要がないと思ったのか参戦していない。少なくとも源義朝と直接の深い関係を持っていなかったであろう。『上田小県誌より』

木曽義仲の旗挙げ

 義仲は、久寿元年(1154)源義賢の次男として、武蔵国大倉館(現在の埼玉県嵐山町)で生まれ、幼名を駒王丸といった。ところが駒王丸が二歳のとき、父義賢は、兄義朝の長男である義平に突然襲われ、不意をつかれたため、討たれてしまった。このとき義平は15歳、悪源太義平という異名も、このため呼ばれるようになったと言われている。
 義賢を討った義平は、畠山重能(はたけやましげとし)に、駒王丸を生かしておくことは後々の禍(わざわい)のもとになるから探し出して、必ず殺すようにと命じた。
畠山重能は、武蔵国の豪族で、早くから源氏の家人となっていて、大倉館の戦いには義平に従っていた。畠山重能が駒王丸を探し出してみると、わずか二歳の幼児であり、不憫で殺す気になれず斉藤実盛に預けた。困り果てて思案をめぐらし、駒王丸の乳母の夫である、木曽の土豪中原兼遠に養育を頼み兼遠の庇護のもとで育ち、やがて成長され元服して木曽義仲と呼ばれていた。
 治承4年(1180)8月17日、平治の乱で、伊豆の蛭島(ひるがしま)で流人の生活を送っていた源頼朝が平家打倒に挙兵した。さて、義仲の父義賢は、頼朝の兄の義平に殺されているので、義仲にとって頼朝はいわば仇の弟であり、義仲は頼朝に対抗意識もあり、先に平家を倒してしまいたい思いから、養父中原兼遠に相談をした。
 治承4年(1180)4月、源氏一族の源頼政は、平治の乱で清盛に味方し、出世していた。
しかし清盛が、平氏一門の血を引く高倉天皇を位につかせたことに反対し、藤原氏の血を引く以仁王が天皇になるべきだと考えた。そこで頼政は、後白河法皇の第二皇子である高倉宮以仁王と、平氏を倒す計画を立てた。
 清盛が高倉天皇に位をゆずらせて、自分の孫の安徳天皇を位につかせると、以仁王は全国に散らばっていた源氏一族に「平治を倒せ」という命令書を出した。しかし源氏が集まる前に、この情報が清盛に入り、危機を感じた以仁王は都を脱出し、頼政と合流した後、奈良に逃れた。
平重衡の率いる平氏軍は、約2万8千騎でこれを追撃した。
 京都南部の宇治で追いつかれた頼政は、以仁王を逃がした後、平氏軍を食い止めるため、宇治橋の橋板を外して、平氏軍が宇治川を渡れないようにした。
しかし、平氏軍は、馬を寄せて馬筏(うまいかだ)をつくり宇治川を渡ってきたので、頼政は平等院まで逃げた後に自害した。以仁王もにげる途中に矢が当たって亡くなった。

 以仁王の命令書が、源行家(みなもとゆきいえ)を使者として関東甲信の源氏に、挙兵の令旨として伝えられた。木曽の義仲にも伝えられ、約一か月後の治承4年(1180)9月7日に中原兼遠(なかはらかねとう)とその子ら樋口兼光・今井兼平・巴御前らと、心を合わせて木曽谷の柏原で兵を挙げた。
 信濃「市原の合戦」(現在の信州大学工学部付近)で笠原頼直(かさはらよりなお)と戦い、義仲にとって大事な初戦が大勝利で終わった。
 そこで一旦、信濃国府に戻る。一息入れた後、治承4年(1180)10月、諏訪から佐久や小県の信濃武士らが続々と宮の腰(長野県木曽郡木曽町日義)に集まり、その日のうちに千騎になったとも、また反対に武士の数も少なく、心細い旗挙げだったとも言われている。
 旗挙げ八幡宮で勝利を祈願した義仲は、信濃武士らを従えて、父の故郷である上野国多胡庄(現在の群馬県多野郡吉井町)に入った。

          auto_eiS85Q.jpg多胡庄

 一方、伊豆(現在の静岡県)の蛭島(ひるがしま)に追放されていた源頼朝のもとにも、以仁王の命令書が届き頼朝は兵を挙げたが、石橋山の戦いで平氏軍に敗れた。
 頼朝は、船で安房(現在の千葉県)にのがれた後、北へ向かいながら東国(関東)の武士達を次々と味方につけた。
数万の大軍になった頼朝軍は、駿河(現在の静岡県)に向けて進軍を開始した。
 一方の平氏は、平維盛を総大将にして源氏討伐軍を組織したが、戦意は低く、途中で逃げ出す者が相次いだ。このため駿河に到着した頃には、わずか2千騎ほどになっていたという。
 源氏軍と平氏軍は、富士川(静岡県)を挟んで向かい合ったが、源氏軍を恐れていた平氏軍は、近くの沼から飛び立った水鳥の羽音を夜襲と勘違いし、戦うことなく逃げ出した。
 翌日、黄瀬川に陣を構えていた頼朝のもとに、頼朝の弟義経が奥州(東北地方)から駆けつけた。
 一方、敗戦を知った平清盛は激怒したが、翌年の治承5年(1181)に病死した。義仲は、10月には上野(群馬県)多胡郡は20数年前まで父・義賢の本拠地であったので、上野の地を短期間に勢力圏に収めることが出来た。上野から下野の武蔵などへ、これ以上に進出することは、従兄の頼朝を刺激することになる。
 また、その頃、越後の城氏が義仲を討たんとして、北方から信濃へ侵攻の機をうかがっていたので、義仲は、二カ月の滞留の後に信濃への退却をした。 
 義仲は、まだ27歳、諸豪族を従えていくためには、世間に名の通ったより強力な後楯となる人物が必要であり、中原兼遠は、その座を退いて根井行親(ねいゆきちか・42歳)に後事一切を頼んだ。
 千余騎はその夜、根々井を中心とした佐久平一円の集落で宿営をした。
 翌朝、根井行親は、矢嶋四郎に命じて義仲に白馬を贈った。矢嶋ガ原で育った馬の中でも最も優れた馬である。気品がありながら馬力や脚力は、抜群の名馬であった。おそらく貢馬が行われている頃であったら、帝の乗馬として召されたであろうと思わせるものであった。
 義仲は、行親父子の温情に感謝し、以後死ぬまで、この馬を手離さなかった。
 また、木曽からの武者たちにも、矢嶋四郎は相応の馬を贈り、義仲軍の士気もあがり、後々の原動力となったことを銘記すべきである。

『宮下功著「木曽義仲を溯る」より』

中原兼遠は、円光と号して仏門に入ったと伝えられている。そして治承5年の5月に病気になり、同年6月15日、手塩にかけた義仲の横田河原での大勝利の吉報を知ることなく、その生涯を閉じた。

横田河原合戦

 中原兼遠に頼まれた根井行親は、東信濃を本拠にした名族、滋野の支族で、信濃国屈指の大豪族、8代海野小太郎幸親を筆頭にした滋野三家の全面的な後楯があり、さらに北信の源氏、諏訪の金刺氏も上野国の武士らも加わって相当な勢力となった。

 そして義仲は、本拠地を依田城(現在の上田市御嶽堂)に決めた。なぜここに、本拠地としたか、それは東信を中心とした滋野党の勢力の強いところである。
その中でも滋野党は、奈良・平安時代の昔から名馬を大量に育成し、保持していた望月牧・新張牧・塩原牧・塩川牧・塩野牧・菱野牧・長倉牧など、御牧が特に多く分布していた地域でもあり、合戦に必要な馬の調達に大変有利な場所であったことも、大きな理由と考えられている。
馬は、今で言うと戦車・トラック・通信伝達・乗用車に匹敵する戦力であったからである。

 義仲周辺の一連の不穏な動きは、たちまちにして京の平家方や隣国越後の大豪族、城氏の知るところとなった。
 一方義仲は、越後軍が横田河原に出陣したとの知らせを聞くと、ただちに依田城を出て、治承5年(1181)6月10日前後のころ、海野氏の氏神、白鳥神社に戦勝祈願をして、そこに隣接する白鳥河原(千曲川敷)に集結した。主な武将は、西上州の那和太郎・桃井五郎・小角六郎・西広助・瀬下四郎など諸武士の面々。
 さらに滋野一族からは、木曽四天王の一人根井小弥太行忠(根井行親の嫡男)を筆頭に・木曽四天王の一人盾六郎親忠・矢島四郎行忠・望月三郎重忠・小室太郎忠兼・根津小次郎貞行・根津三郎信貞・千野太郎栄朝・諏訪次郎・塩田八郎高光・志賀七郎・志賀八郎・桜井太郎・手塚別当光重・手塚太郎光盛・桜井次郎・野沢太郎・本沢次郎。
 海野弥平四郎幸広(のち海野氏9代)・井上太郎光盛・高梨忠直・仁科太郎盛弘。
そして木曽からは、木曽四天王の一人樋口二郎兼光・木曽四天王の一人今井四郎兼平・落合五郎兼行・木曽仲太・弥中太・平原次郎景親らおよそ3千騎の精兵であった。

        auto_xVNXAj.jpg八幡社

 盾六郎親忠が、横田河原への敵情偵察を申し出して、海野・上田・塩尻から千曲川の狭間、岩鼻の岩山(現在の上田市千曲公園)に登り、義仲に敵状を伝えますと、義仲軍は夜を徹して馬を飛ばし、途中で八幡社(現在の長野県千曲市八幡の武水別神社)に戦勝を祈願し横田河原の対岸に陣を敷き、虎視眈々(こしたんたん)と機の熟すのを待った。

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横田河原周辺図

 義仲は、雨の宮付近から攻撃を仕掛けたのは、治承5年(1181)6月14日、横田河原一帯を包む濃い川霧が次第に晴れ上がった眼前に殺到する木曽軍に不意をつかれた越後の城四郎長茂の大軍4万騎は惨敗を帰し、直江津から会津まで逃げて行ってしまったと言われている。
しかも、この年の養和元年(1181)2月4日、平家の棟梁平清盛が熱病がもとで、64歳の生涯を閉じている。

     auto_H3d0Yt.jpg横田城跡

 横田河原の合戦の勝利によって、義仲は越後国府に入り、越後の実権を握る。その後、若狭・越前などの北陸諸国で反平氏勢力の活動が活発になり義仲は、北陸制覇する基盤を獲得することになった。
 ところが、丁度その頃、つまり治承4年(1180)、養和元年(1181)、寿永元年(1182)は三年続きの大凶作で、平家も義仲も兵を動かすことができなかった。また、義仲の前には当面の敵、頼朝の間に険悪な空気が漂い始めたこともあった。

 自分は「頼朝に敵対心を抱く理由は何もない」と宣言し、和睦の条件として、さらに頼朝にたいして二心のないことを示す証として、嫡子義高を頼朝の長女大姫と結婚させることを条件に、人質として鎌倉に送ることにした。
 お供に10代海野小太郎幸氏(8代海野小太郎幸親の三男)・望月三郎重隆・藤沢二郎清親・諏訪などの信濃武士を随行させた。

 義仲が心配した通り、義仲の死後、義高は入間の河原で頼朝に殺されてしまった。鎌倉の義高は、大姫に兄のように慕われ、二人の純愛は育まれていて、義高の死を聞いた大姫は、悲嘆のあまり食事も取らず、ついに廃人のようになって、19歳の生涯を終えた。
義高の墓は、鎌倉市大船の常楽寺に、また終焉の地の狭山市には、義高を祀る清水八幡がある。『上田小県誌第一巻第五章より』

燧ケ城・般若野合戦

 義仲と頼朝の間に不快が生れ、頼朝が信濃に攻め入ったのが、寿永2年(1183)3月の初めですから、平家方としては、源氏同士が内輪喧嘩を始めたので、絶好のチャンス到来とばかり、平家の全精力を結集しての追討軍の編成をしたが、その時はすでに、義仲と頼朝の間には和睦が成立していたのである。

 『源平盛衰記』によると、平家方は要請に応じて集まった兵は山陰・山陽・四国・九州を中心に、平維盛を総大将として10万余騎にものぼり、寿永2年(1183)4月17日に都を出発、平家の威信にかけても義仲を倒そうと、琵琶湖の両岸に道を分けて、北陸道めざして進撃した。
 初戦は、4月26日、越前国の要害、燧ケ城(ひうちがじょう「現在の福井県南条郡南越前町今庄」)で火ぶたが切って落とされた。
この城は、木曽陣営の最前線基地で、義仲は越後国府にいて、迎え撃つ義仲軍のうち信濃国の仁科盛弘(守弘)をはじめとして北陸道の武将を中心に、加賀国の林光明・倉光成澄、近江国の甲賀成覚などの諸将や、越前の名刹平泉寺の長吏斎明の率いる兵など6千余騎で守らせていた。

 auto_c8sG0n.jpg燧ケ城
 
 仁科守弘は、日野川の支流の能美・新道の二つの川の落ち合う地点で水をせき止めて、人工の湖を作り平家方の進出に備えたので、平家の大軍も進撃することができずに、両軍は、にらみあって日数が過ぎた。 
 ところが、城中に裏切り者が出たのである、それは平泉寺の長吏斎明で、その夜、平家軍は、大石を取り除き、柵を切り崩して水を落とし、一気に城に攻め込んできたので、ついに木曽軍は、総退陣を余儀なくされ、加賀へ逃げ込んだが、勢いに乗った平家の赤旗で埋め尽くされてしまった。
 越前・加賀の戦は、平家方の快進撃、大勝利に終始し、木曽軍はただひたすら逃げまどい、名だたる武将が数多く討死し、また平家に寝返った一族も多々あったと言われている。
 勢いに乗じた平維盛の大軍は、加賀国篠原(石川県加賀市)に進み、さらに砺波山を越えて、越中国般若野(はんにゃの・富山県高岡市)に陣を構えた。

 越後国府にいた義仲は、軍勢を率いて、越中国府(富山県高岡市伏木)に着くと、大夫房覚明(8代海野小太郎幸親の二男)を招いて、加賀・越前・美濃三馬場の白山社に宛てた願文をしたためさせて、戦勝を祈願した。
 5月3日、義仲は、ただちに今井兼平に精鋭6千騎をあずけて越中へと出陣を命じた。
 兼平の率いる先鋒隊は、呉羽山(くれはやま)の山裾にある八幡社(福井県小浜市小浜男山9)に戦勝を祈願し、備えを固めたと同じころ、平維盛も越中前司盛俊に5千騎をあずけて越中へと急がしていた。

            auto_g5Fjbv.jpg呉羽山八幡社

 5月8日、「道案内の斉明威儀師の計らいの通りにせよ」と言われていたが、遅れをとった平盛俊は、やむなく呉羽山の手前、般若野に陣を構えて今井兼平軍と対峙した。 
 その夜、兼平軍は暗闇にまぎれて山を下り、夜明けとともに白旗30本を高くかかげ、全軍ときの声をあげて般若野へ押し出し、敵陣へ突入し、互いに息きつく暇もない戦いが7~8時間続いたが、次第に維盛軍が2千余の死傷者や逃亡者を出して小矢部川へ敗走し、夜には倶利伽羅峠を越え加賀まで退いてしまった。
                  『以下 宮下功著「木曽義仲を溯る」より』

倶利伽羅合戦

 般若野の勝利で勢いを取り戻した義仲軍は、いよいよ京に向けて進撃を始めた。
本隊を率いて越後から越中へ移動していた義仲は、平家軍の総大将平維盛の軍が倶利伽羅峠へ向かったことを知った。砺波平野の彼方に見える倶利伽羅峠を見て、義仲は、いかなることがあろうとも、平家軍に、この峠を越えさせてはならないと考えた。
「倶利伽羅が落ちれば越中も落としかねない」と砺波平野から倶利伽羅方面を眺めればリアルに実感できる。
もとより、自軍より二倍近い敵の軍勢が峠から平野に下れば、平家軍とは、まともにぶっかり合えば勝ち目は薄いと。
 倶利伽羅峠(標高260m)は、石川県津幡町と富山県小矢部市の境にある砺波山の峠である。この峠を通り、砺波山の尾根筋に沿って延びていた旧北陸道は、明治時代を迎えるまで加賀と越中を結ぶ幹線道路であった。幹線といっても昔は人が三人並んで歩くのがやっとの道幅であった。
 こうして峠に平家の大軍を封じ込めるため、義仲は先手を打ち、小矢部側の麓に源氏の白旗30本を立てさせ、平家が峠を下ろうとしても、この白旗を見れば、警戒して足を止めようと思ったからである。狙いどおり平家軍は、峠の倶利伽羅不動寺から、やや小矢部よりの猿ケ馬場に本陣をおいた。維盛は、まんまと義仲の術中にはまったのである。
 敗走してきた盛俊軍を本隊に吸収して作戦を立て直し、全軍10万の兵を二手に分けて、本隊7万余騎は倶利伽羅峠の天険を利用して砺波山へ向かい、またからめ手3万余騎は志雄山(羽咋市志雄町)に向かい、木曽軍の背後を衝いて挟み撃ちにしようとの作戦であった。 

 義仲も越後を出発して越中へ、越前諸族・能登の武士団・越中の軍団らも加わって、その兵5万余騎、先発隊の今井軍と合流、寿永2年(1183)5月10日の夜、軍議を開いた。

 翌11日、義仲のもとに、二隊に分れて平家軍が進軍との情報が入ってきたので、義仲は軍勢を7手に分けて、
 まず第一手は、伯父の新宮十郎行家に矢田判官代義清・盾六郎親忠・
     9代海野弥四郎幸広ら1万騎を志雄山に向かわせ。
 第二手は、根井行親を大将とする2千余騎に弥勒山へ。
 第三手は、今井兼平の2千余騎を日ノ宮林へ。 
 第四手は、樋口兼光の3千騎は竹橋へ。 
 第五手は、依田次郎・丸子小中太・諏訪三郎ら3千騎を倶利伽羅峠の西端の葎原へ。
 第六手は、巴の千騎を鷲ヶ峰の麓に向かわせる。
 第七手は、義仲自身の率いる3万余騎は小矢部川を渡り砺波山の北はずれ、埴生護国八幡宮(富山県小矢部市埴生2992)の背後に本隊を置き、それぞれ陣を取った。
 陣の近くに埴生八幡宮のあることを聞いた義仲は、大夫房覚明に、八幡宮に宛てた戦勝の願文をしたためさせて奉納し、決戦に臨んだ。『上田小県誌第二巻より』

auto_mwEhZe.jpg埴生護国八幡宮

auto_0drF2Y.jpg埴生護国八幡宮103段の石段

 埴生八幡宮に祐筆(文書係)の大夫房覚明に必勝祈願の願書を書かせ、鏑矢13本を添えて神前に収めた。(現在の護国八幡宮とも埴生八幡宮とも呼ばれるこの神社には、その時の願書と2本の矢が大切に社宝として保存されている)

     auto_zfljey.jpg軍師の覚明が書いた祈願文

 5月11日は、小競り合いのうちに暮れ、明日の決戦に備えて平家軍は疲れを癒すべき仮眠に入った同じ頃、木曽軍の兵士たちは音をたてず、声を殺して、谷をよじ登り、平家軍に近づいて行った。
敵をけん制しながら、日暮れを待つ。これは戦い上手な義仲が練りに練った作戦であった。そして、夜が更けて、平家方に義仲の夜襲に対する警戒心がまったくなかったわけでなかろうが、大半の兵士は行軍の疲れもあって不覚にも寝入ってしまったのである。

 義仲軍は、暗闇にまぎれて前方の平家軍に忍び寄り、静まりかえった夜の倶利伽羅峠に、突然、作戦完了の合図と同時に、北から南から白旗をあげ、太鼓を鳴らし、ほら貝を響かせ、ときの声を轟かせた。この突然の事態に虚をつかれ、驚いて起きあがった平家軍10万の眼前に、牛の角に燃えさかる松明をくくりつけられて荒れ狂った牛の大群が猛然と襲いかかっていった。(「田単火牛の策」は中国春秋時代の田単将軍に則ったものです)
寝ぼけ眼の平家の兵士たちは、戦いにならなかった。自分の刀・弓・薙刀がどこにあるのかわからず、一つの武器を4、5人が取り合ったという。暗闇で大混乱に陥った平家の軍勢は、義仲軍に攻め立てられるままで、倶利伽羅の峠の深い谷に雪崩(なだれ)を打って落ちていった。

 その谷底は、降り積もった兵・馬で埋め尽くされ、地獄と化した。おびただしい数の死体から出た血や膿が流れ込んだ小川は、「膿川」と今日まで呼ばれている。長きにわたって大量の白骨が、散らばったこの谷を、いつしか地元の人々は「地獄谷」と称されて今日に至っている。こうして夜の倶利伽羅峠の合戦は義仲軍の大勝利に終わった。  
             『北国新聞 平成24年3月20日掲載より』

 5月12日には、奥州藤原秀衡から義仲に、名馬二頭が贈られていて、奥州の大豪族藤原氏と木曽義仲との間に軍治同盟が結ばれていたことがわかる。

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倶利伽羅合戦図

 倶利伽羅峠で大勝した義仲は、余勢をかつて6月1日、続く安宅合戦と篠原合戦も平家の派遣軍を破り、平家方は、京に向けて逃げ帰っていった。
 この戦いのとき、平氏方の将・斎藤実盛は、ただ一騎ふみ留まり、今の上田市塩田の手塚を本拠としていた手塚太郎光盛に討たれた。この実盛は、義仲が駒王丸と呼ばれた二歳のとき、母とともに木曽へかくまってくれた命の恩人で、打ち取った首を、樋口兼光が池(首洗池・石川県加賀市篠原)の水で洗ってみると、白髪を黒く染めていた実盛であることがわかり、義仲は大恩を思い、悲しみにくれた。首洗池ほとりに、今は義仲・兼光・光盛の像がある。

 また、一つ気にかかるのは、当時の山門と呼ばれた比叡山延暦寺(滋賀県大津市)の山法師軍団の動向であった。
 大夫房覚明に牒状(俗人である義仲から寺に差し出した文書)を書かせて山門に送ったら、ただちに3千僧兵一同で協議し、木曽軍に味方する旨の返事を木曽軍の本陣に送られたのが、寿永2年(1183)7月2日のことである。
牒状の内容は「源義仲が平氏の逆乱を停めようとしているのは、平氏一門が朝廷に対し、人臣の礼を失い、ほしいままに振る舞ったり、権門勢家を追捕したり、荘園を奪ってしまうなど、横暴の限りをつくしているので、この平氏を亡ぼすようにとの、以仁王の令旨に、こたえようとするためである。山門三千の衆徒は、源氏に同心し、平氏を誅し、鴻化(こうか・広大な皇室の恵み)に浴するように」といったもので、6月10日に延暦寺へ送った。

 木ノ芽峠を越え、近江国柳瀬(滋賀県余呉町)を通り、京都を目ざし・琵琶湖の東岸を通り、三上山麓野州(滋賀県野州町)に陣をとったあと、7月22日には東坂本に着き、5万騎を率いた義仲軍は、比叡山に登り、延暦寺東塔の惣持院に本営を構え、そして、さらに比叡山の僧兵も加わって、気勢を上げた。『宮下功著「木曽義仲を溯る」より』

横川中堂の元三大師堂(四季講堂)の庭に、道元禅師が出家した得度霊跡の石標がありる。道元は曹洞宗の元祖で、父は久我通親、母は前の関白藤原基房の娘伊子で、伊子は義仲の妻の一人で、義仲の死後、久我通親と再婚して道元を生んでいる。

平家の都落ち

 平家一門は、最後の手段として、法皇・天皇や女院などを奉じ、三種の神器(歴代の天皇が受け継いだ三つの宝、やたの鏡・天叢雲剣・八尺瓊曲玉)を奉じて西国に逃れる方策を決意したが、この噂を耳にした後白河法皇は、寿永2年(1183)7月24日の夜半に数人の供を連れて法住寺殿御所を出て、鞍馬の奥へ逃げ隠れて、比叡山の義仲に身を寄せた。

 平家の総師内大臣平宗盛は、翌25日の朝、六波羅や小松殿、八条などの邸宅殿堂に火をかけ、三種の神器と安徳天皇(6歳の幼帝)・建礼門院(平清盛の娘、安徳天皇の生母)ら一門をひきつれて、27日に西海さして落ちて行った。
 寿永2年(1183)7月28日に義仲は行家と共に京都入りを果たし、蓮華王院(三十三間堂)の御所で後白河法皇に謁えて、平氏追討の院宣(院の役人が上皇や法皇の命令を受けて出す書状)を受けた。

 8月20日義仲は、以仁王の子・北陸宮を御皇位につけよう推挙したが、後白河法皇は、これを退け、高倉天皇の皇子・後鳥羽天皇が即位することになった。
 木曽谷で挙兵して三年、ついに木曽義仲は源頼朝より先に、上洛の夢を果たすこととなった。平家軍の横暴に苦しめられていた京都人は、最初のうち義仲の軍が解放軍に見え、喜んで迎えた。
 しかし、元来、義仲軍の兵卒は各地の寄合世帯で、統率が取れていなかった。
9月に「猫間の事」が起り、京中での木曽軍の乱暴、狼狽が勃発し、戦場と同じように略奪を働く者もいて、都の人々らの顰蹙(ひんしゅく)を買うようになってきた。
 さらに義仲は、後白河法皇との不協和音から、朝廷内外の不評が噴出する。
 所詮義仲は、木曽山中に育った自然児で、宮中の礼儀や習慣に馴染まなかったのである。
 そこで義仲のことが煙たい後白河法皇は、9月20日法皇は義仲を避けるために西国で勢力を盛り返す平氏の追討を理由に山陽道に向かわせ、体よく京から遠ざけた。『平家物語より』

水島の合戦

 寿永2年(1183)10月1日、日蝕の日に現在の玉島港湾内(岡山県倉敷市)で、行われた珍しい源平合戦である。天下は鎌倉の源頼朝と都の木曽義仲と西海の平家で三つ巴の戦いとなった。
 京都を追われて北九州へ落ち延びた平家一族は、瀬戸内の水軍をなんとか味方に引き入れて体制を立て直し、京都奪還を目指して東進を開始した。 
 平家方は、平重衡・通盛・教経の三勇将が率いる兵船3百余隻7千人が柏島沖(高知県)に出陣して、満所(政所か、玉島大橋西詰の小高い丘)付近に赤旗並べ柵を設けて陣地を構える。 
 一方、木曽義仲は、都の政情と鎌倉の動きに不安を覚えながらも、度重なる後白河法皇の策謀に利用されて平家追討の院宣のもとに山陽道を西下したのは、9月、10月にようやく中国路に達し、四国の平家を討つ拠点として備中の水島を確保するため、腹心の矢田義清や海野幸広を将に大部隊を派遣した。

 そして、その手始めとして、当時備中の南部一帯に勢力を持っていた平家方の武将妹尾兼康・宗康父子を、その根拠地板倉(現在の岡山市吉備津神社西方)で打取り、勢いに乗って先鋒隊の矢田判官義清・9代海野弥平四郎幸広の二勇将が率いる兵船百余隻5千人が乙島の渡里付近に出陣し、城(玉島大橋東詰の北方、標高30mほどの台地)と呼ばれる所へ白旗を押し立てて陣地を構えた。
 水面は、おだやかなのに、浪の波紋が渦を巻いているさまを見て、「まるで銭が連なっているようで、吉祥なりと、これを我が家の家紋としよう」これが海野家の6連銭紋のはじまりと言われている。
 さて、両軍は、わずか500mほどの海峡を挟んで、時こそ来れと相対峙した。
初冬を迎えた10月1日(新暦12月初め頃)夜明けとともに合戦の火ぶたが切って落とされた。

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水島合戦場

 初めのうちは、勇猛をもって聞えた木曽軍が有利に見えたが、なにしろ木曽の山中で育った軍団だけに騎馬戦にはめっぽう強いが、海戦には全くの不慣れとあって次第に旗色が悪くなった。その上、山猿と悪口を言われ、文盲が多かった木曽軍は、これから起こる日蝕という奇怪な自然現象を全く知らず、ただ恐れおののくだけで戦意を失い敗れることとなった。

 かたや海戦に強く、しかも戦術に長けた平家軍の策略に全くはまり込んだ木曽軍が体制を立て直そうとする頃、にわかに西風が激しく吹き出し海は大しけとなり、海戦に慣れない源氏軍の兵士たちは、船の上に立つことが、出来ない有様となった。
 その上、真昼というのにあたり一面薄墨を流したような暗闇となり、日蝕を知らない木曽軍の兵士たちは天変地異に驚かされ、すっかり恐れをなして大混乱………さらに不運にも矢田義清と総大将9代海野幸広の二人の大将まで討死し、木曽源氏は、全軍総崩れとなり、平家軍の一方的な大勝利で終わった。僅か数時間の海戦であったと言われているが、源平合戦の中で平家の勝ったのは、この合戦だけであった。

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水島合戦場城跡

 命からがら京都へ逃げ帰った木曽軍は、ごく僅かな人数であったと言われている。西国から旧都・福原に戻った平氏は、屋島を本拠地に瀬戸内で勢力を回復し、一の谷に強固な城郭を構え反撃の時を狙っていた。

 11月23日に藤原基房の娘・伊子が17歳で木曽義仲在京の妻となった。 
 12月、義仲は法皇に強要して、源頼朝追討の院宣を出させた。 
 寿永3年(1184)1月3日には、ついに征夷大将軍の宣下を受けたが、たぶん強引に宣下を出させたのだろう。
それから、意気揚々と上洛した義仲は、都で「朝日将軍」とよばれて、もてはやされた。 
 しかし、上皇から出家した後白河法皇は、都落ちした平家に代わって羽振りを利かせる義仲に接近したが、二人の緊密な関係は長く続かなかった。
 
 皇位継承への介入など後白河法皇と不仲になった義仲は、後白河法皇の住む法住寺殿を焼討ち、法皇を幽閉し、貴族らの官職剥奪などの報復をした。
この行為は、勢いを増す義仲を危険視する源頼朝に、義仲追討の恰好の名目を与えてしまった。法皇は裏で源頼朝とつながっていたのである。
 法皇の幽閉を知った頼朝は、直ちに源範頼・義経を総大将とする義仲追討の命令を下だした。
 東から源頼朝の代官として京に進撃してきた源範頼・義経は、義仲討伐軍6万騎を進発させていた。大軍が押し寄せることを知った義仲は、自ら京から追い出した平家に対して同盟を持ち掛けたが、平家は、この申し出を断ったという。
 1月16日都にいた義仲は、現在の宇治市に軍勢を向かわせ、宇治川を舞台に義経との戦いにおよんだ。ここで義仲方に勝った義経軍は一気に都に攻め入った。
 宇治川渡河戦・瀬田の戦で敗れ、これを伏せぎ切れなかった義仲軍は、都から逃れたが、北陸へ落ちる途中、1月21日近江の琵琶湖畔粟津で、範頼軍に襲われて討死。上洛してから六カ月後のことであった。日の出の勢いを誇った「朝日将軍」の落日はあまりにも早かった。
 義仲享年31歳だった。

 都をのがれた平氏は、一の谷(兵庫県)を拠点に勢いを盛り返していた。海に面し、周囲を断崖に囲まれた一の谷は、攻めにくい場所であった。
 京都にいた源氏軍は、軍勢を二手に分け、一の谷をはさみうちにしようとした。源範頼(のりより・頼朝の弟)軍は海沿いに進軍し、義経は山沿いの道を進んだ。義経は三草山(兵庫県)で平氏軍を破った後、軍勢を三手に分けて、一の谷を攻撃した。義経は約70騎を率いて、一の谷の背後にそびえる断崖「鵯越(ひよどりごえ)」から馬で駆け下りて、背後から平氏軍を奇襲した。このとき、一の谷の東側にいた平氏軍は範頼軍に対して有利に戦っていたが、この奇襲で大混乱に陥(おちい)り、多くの兵が船に乗って海に逃れた。

 一の谷の戦いで敗れた平氏軍は、四国の屋島(香川県)に拠点を置いた。平氏は水軍をもっていたが、源氏は水軍がなく、総大将の範頼は十分な軍船を集められずにいた。範義の苦戦を知った義経は、寿永4年(1185)2月、約150騎を率いて渡辺津(現在の大阪府)から船に乗り、勝浦(徳島県)に上陸した。屋島まで進んだ義経は、大軍に見せるため民家に放火しながら平氏軍を背後から奇襲した。平氏軍は大混乱して船に乗り海に逃れたが、源氏軍が少数であることがわかり引き返し、船の上から大量の矢を射てきた。義経の家臣の佐藤継信が身代りに矢を受けて義経の命を救った。 
 夕方になり、平氏軍の小舟が扇(おおぎ)の的をかかげて近づいてきた。源氏軍の那須与一は、約70m先にあった扇を矢で射落とし、両軍から褒めたたえられたという。
 翌日から激しい戦いが続いたが、源氏軍の援軍が駆け付けたため、平氏軍は、これ以上は無理と判断して屋島から逃げ出し長門(現在の山口県)の彦島を本拠にした。

 平氏の水軍は、500隻。義経は、四国の水軍を味方にして830隻の水軍を結成して彦島に向けて出発した。この間、源範頼は九州に先回りして平氏軍の逃げ道をふさいだ。
 寿永4年(1185)3月24日の朝、義経の率いる源氏軍は、壇ノ浦(関門海峡)で平氏軍へ攻撃を開始した。追い詰められた平氏軍だったが、潮の流れを上手に利用して有利に戦いを進めた。
 一進一退の激しい攻防が続く中、阿波(現在の徳島県)水軍が裏切り、源氏軍の味方になった。敗北を覚悟した平教経は、義経を道ずれにして死のうとしたが、義経は8艘の船を次から次へと飛び移って逃れたという。源氏軍の勝利が決定的になると、平知盛や二位尼(平清盛の妻)などは次つぎと海に身を投げていったという。こうして平氏は滅亡し、源氏と平氏の戦いは終わった。木曽義仲の詳細は、「三、海野史物語の(四)「木曽義仲と大夫房覚明」」参照。           『源平盛衰記より』       

海野中興の祖幸氏

 幸氏は、8代海野小太郎幸親の三男として生まれた。 
 旗挙げの後、木曽義仲と源頼朝と不和になり、和睦の印として、寿永2年(1183)義仲の子・清水冠者義高を人質として源頼朝の元へ送られるときに、10代海野左衛門尉幸氏をはじめとする、望月三郎重隆・諏訪等の信州武士達を人質義高に随行して鎌倉に赴いた。
 
 元暦元年(1184)粟津口で義仲が討死し木曽氏が滅亡した後、義高の死罪処分が決定する。義高は頼朝の長女大姫の婿になっていたが、父(義仲)が討たれたからには安心しておれない。義高の身に危険が迫ったので、いち早く欺き、義高は、密かに海野小太郎幸氏と脱出計画を練った。義高は碁(双六の説もある)が好きで、いつも幸氏を相手にしていた。 
 そこで幸氏が義高の身代わりとなって、義高は女装して元暦元年4月21日の夜、殿中を抜け出した。幸氏は義高の寝床に入り寝ていた。
 朝になると、海野幸氏は義高に扮して、部屋中でいつものように二人で碁を打っているかのように振る舞い、碁石の音をさせながら誰も気がつかなかった。夜が更けてからは布団を被り、髪の毛を布団の外へ出して、義高が寝ているかの如く偽って逃亡の時間を稼いだ。
 日暮れになって、やっと義高と思ったのは身代わりの幸氏で、義高がいないことがばれ、頼朝はおおいに怒って幸氏を拘禁し、堀親家らを追ってとして差し向けた。
 ほどなく義高は、親家の老中・藤内光澄(ふじうちみつすみ)のために、4月26日武蔵入間川のほとりで、討たれてしまった。大姫は夫の死を聞いてショックを受け、病床に臥してしまった。母政子も、おおいに哀しみ、頼朝に迫ったので、手を下した堀藤次は殺されてしまった。

 義仲が戦死してから、1年9カ月ほどたった文治2年(1186)1月8日に、塩田庄は、惟宗忠久(後の島津忠久)が地頭に任命、10月に、伴野庄と大井庄には、甲斐の加々美長清が地頭に任命されて、このことから頼朝の意図をくみ取ることができる。

 さて海野小太郎幸氏は、義高の逃亡を助けたことは不問され、逆に主君に忠誠心を将軍・源頼朝に認められて、頼朝の警護役として身辺の警護にあたっていた。
 いずれにせよ頼朝の御家人となった幸氏は、文治4年(1188)から約80年にわたって射手の名手として、その活躍ぶりが「吾妻鏡」に登場する。
 文治4年(1188)2月28日には、鶴岡八幡宮の祭りの時も、頼朝の面前で流鏑馬の射手を勤めていて、同年5年正月には頼朝の長男・頼家の弓始でも、射手の一人として勤めたり、頼朝の随兵を勤めるなど活躍して、東信濃の名族として、鎌倉幕府に仕えた。
 文治5年(1189)正月、頼朝の長子・頼家が弓始めに三浦義連と並んで、幸氏は四番目の射手を命ぜられ、和田義盛ら射手十人の一人に名を連ねている。
 
 祢津四郎宗直・同小次郎宗道の両名とも、建久元年(1190)頼朝が、京都へ上がった時や、建久6年(1195)3月の将軍家東大寺供養の際には、弓の名手を従え惣門の警備を務め、祢津次郎らと随兵している。なお建久4年(1193)5月頼朝が、富士山の裾野で狩を行ったときには、海野幸氏・望月三郎・祢津次郎も従っている。
また祢津氏は、祢津神平貞直以後代々神氏を襲名していて、鷹を使って狩りをする、放鷹の術にかけて高名な家柄として、鎌倉幕府に仕えている。
 
 建久元年(1190)海野小太郎幸氏は、白鳥神社を三分(屯倉)より現在地に移し、また、翌年に居城を古城より太平寺(減殺の東御市白鳥台団地)に移したと伝えられている。
 弓馬の術に優れていた幸氏は、将軍の狩りの御供をすることも多く、建久4年(1193)の頼朝による富士の巻狩りにも参加している。幸氏は源頼朝の二度の上洛にも祢津次郎らと共に随兵を務めている。建久6年(1195)3月の将軍家東大寺供養の際には、弓の名手を従え惣門の警備を勤め祢津次郎らも随兵している。また建久8年(1198)の源頼朝善光寺参詣には、随兵として後陣を命ぜられている。なお、幸氏は当然ながら幕府軍の一員として合戦にも参陣している。建仁元年(1201)の越後の城氏の反乱の鎮定の際には、先頭を争って負傷しており、その懸命な忠勤ぶりがうかがえる。
 以後鎌倉の御家人として代々弓馬の誉れ高い名族として伝えられる。『吾妻鑑より』

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流鏑馬の図

 鎌倉幕府の記録である『吾妻鑑』には、木曽義仲没落後、覚明のことをしばしば記している。
 これは覚明の才能を源頼朝が充分に知っていたため、覚明を高く評価していたことの現われではなかろうか。
 建久元年(1190)5月、頼朝が甲斐源氏の一条忠頼の追善供養を行った時に信救得業(覚明)に導師を務めさせている。
 その4年後の、建久5年(1194)10月には、平治の乱(1159)に義朝(頼朝の父)に殉じて死んだ鎌田正清の娘が旧主の義朝と父の正清の菩提のために如法経10種供養を行った時、願文の原稿を書いたのも、この覚明であった。
 つまり信救は、みごとに名僧として鎌倉の連中を手玉にとっていたようである。この子・孫が次図のごとく各地において浄土真宗の寺を開基して、その子孫が現在までも続いている。

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曽我兄弟仇討ち

 曽我兄弟の仇討ちは、鍵屋の辻の決闘(1634年)、元禄赤穂事件(1702年『忠臣蔵』のモデル)と並ぶ「日本の三大仇討ち」の一つで、建久4年(1193)5月28日に起きた事件である。
 
 曽我兄弟の仇討ちの主役、曽我十郎と五郎の兄弟は、母が祐信と再婚したので、曽我十郎祐成(すけなり)・五郎時致(ときむね)と名乗り、父の仇を討つため、曽我の里で時節の到来を待っていた。

     auto_44lMaz.jpg静岡県富士宮市の曽我兄弟隠れ岩

そこでまず、事件の経過に簡単に触れてみます。曽我兄弟は、幼いとき、実父の河津祐通(祐泰)が工藤祐経に殺された。所領争いがからんでのことで、祐経側にも言い分がないわけではなかったが、父を失った兄弟は、母が再婚したので養父のもとで育ちながら父の仇、祐経を討つことを願い続け、建久4年(1193)5月28日夜、源頼朝が催した巻狩を行った富士の裾野で、ついに宿願であった親の仇を果たした。

 当夜は大雷雨であったので、頼朝の御家人たちは大騒ぎして走り出たものの、十郎たちのために多くの人々が傷を受けた。
 十郎は、新田忠常に殺された。五郎は、頼朝の幕舎に突進、頼朝も太刀を取って身構えたが、結局五郎は捕えられた。
 翌日、頼朝が五郎を直接訊問。
 五郎の祖父伊東祐親は、伊豆の大豪族だったが、以前は我が娘と頼朝の仲を裂き、旗挙げの折に反抗したために没落している。五郎は、父の仇討ちと共に、伊東氏没落の根なきにしもあらず、そのことを頼朝に言いたくて幕舎に近づいたたけで、後で自殺するつもりだったと述べた。頼朝は彼を許そうとしたが、祐経の遺児の犬房丸が泣いて訴えたので、やむなく五郎を引き渡し、殺すことを許した。

      auto_weliEE.jpg曽我兄弟の墓

これで、一応落着するが、この事件はクーデターで、頼朝暗殺計画が隠されていた。という説が大正年間には、歴史学者の三浦周行博士が提唱している。また最近では、小説家の永井路子氏が、この事件について新説を提唱している

三浦説は、五郎の烏帽子親(元服のとき烏帽子を被せる役で、親に近い関係を持つ)が北条時政だったことから、この関係を重くみて時政の命を受けて、兄弟が頼朝を爼つたとして、黒幕は北条時政だったというのである

また永井説は、時政は頼朝を殺して権力を握るほどの力を持っていない。そして、このとき傷を受けた人々の中に、時政と親しい伊豆の御家人の名がみえる。彼らが傷を受けるということは、当然その部下も多数殺されたり、傷をつけられたりしている。と考えられることから、これが曽我兄弟二人だけの仕業ではできないことは、明らかである

 時政は、巻狩の野営で、鎌倉御所より手薄なのを幸い、頼朝を襲い、範頼を担いで権力を握ろうとしたのではなかろうか。
 それは頼朝の弟、範頼が疑いをかけられたので、起請文を提出するが許されず、結局修善寺に配流され、のちに殺害されているのを重くみている。
 この富士の巻狩りの夜、曽我兄弟は工藤祐経を殺害した後に、頼朝の屋形に踏み込んで襲撃をかけたが、その時に警護役の10代海野小太郎幸氏は刀傷を負いながらも頼朝を守った。また海野幸氏は、笠懸や弓の上手として活躍すると同時に、詩歌にも堪能な文武両道の人物だったらしい。連歌や和歌の催しでは、頼朝から歌を褒められ、衆日の見守る中で褒美の引き出物に名馬の「大黒」が与えられている。 

 鎌倉に幕府を開き腹心を全国に配し、義経の問題も落着して源氏支配の永遠を期待したであろうが、平家滅亡後14年、征夷大将軍になって7年の正治元年(1199)正月に53歳で死んだ。その後、幕府は、早くもガタが来た。
そのとき頼朝の長子・頼家18歳、その弟・実朝8歳、当然頼家が相続したが、この頼家がろくでなしであった。頼家は、将軍相続後、家臣・安達景盛の妻(19歳)の美貌なるに懸想した。手をつくして強請したが、うまく行かなかったので景盛を謀殺しょうと同年8月19日の夜決行を決めたが、その直前に母政子に察知され取りやめになった。

上田市緑が丘西区の矢島城跡のさらに北に「上平」「上寺」と言てる広いゆるい傾斜の平地がある。昔、曽我十郎祐成の妾の「虎御前」は、曽我兄弟が父の敵工藤祐経を討って恨みを晴らして死するにおよび、悲しみに耐えず、その菩提を弔うために諸国霊場を巡拝の後、善光寺に詣で、この上平に来て一宇建て、虎立山菩提院祐成寺と号し、兄弟の菩提を弔った。その後、応永年間(1394~1472)鎌倉光明寺一誉俊厳上人が来て唱導師として能化普く、中興の師として伽藍を営み、さらに永享5年(1433)に該寺が高地で参詣に不便なので、もと虎見ケ原といわれた現在地に移り、寺号も宝池山九品院呈蓮寺と改称した。浄土宗で知恩院の末寺である。
 北佐久郡立科町(旧横鳥村)の「虎御前」の石が松の木の下に立っている。昔虎御前の侍女蔦女が善光寺参詣の後、この地を訪れ居を定めていたが、終焉して蔦石に化したという。鬢水の井戸と言い虎尼が鏡の代わりに顔を映して化粧した泉だという。また、佐久市(旧高瀬村)落合の仏国山時宗寺にまつわる伝承もある。建物は焼失後、南佐久田口の竜岡城の一部に移建された。この寺は一見平屋の民家のように見え、寺号は別に「虎御山時宗寺」とも俗称される。曽我物語の流布本では五郎時致の字を使っている。この寺の西北裏隅に段丘の切れた下に「影見井」なる井戸があって、良水な清水が湛えていて寺の飲用水としている。

和田合戦

 建仁元(1201)年、城資盛は、平氏復興のため鳥坂城(妙高市)で挙兵、幕府は佐々木盛綱を越後御家人の総大将として追討軍を派遣した。この時に城資盛の叔母・板額御前は、大岩を投げ落とし、強弓で敵方を射倒す大奮闘をしたと言われる。資盛は、結局は出羽に逃れ、板額は捕らえられ鎌倉に護送された。のちに甲斐源氏の一派、浅利与一のもとに嫁いだと言われる。この時に立て籠った鳥坂城は現在、頂上本丸跡からの景観は素晴らしく「高床山森林公園」の駐車場から、徒歩で約10分で鳥坂山頂にいける。

auto_EQQVdB.jpg鳥坂城跡

 建仁元年(1202)、10代海野小太郎幸氏は越後鳥坂城にて城資盛を討つ。

 建保元年(1213)5月2日、和田義盛は三浦氏の一族で、治承4年(1180)の源頼朝挙兵の当初から幕下に属して活躍し、侍所の初代別当となって信任は窮めて篤かった。直情径行の東国武士の一典型でもあり、比企氏の乱後、北条氏に比肩する勢力を保った。

信濃国へ最初に任命された守護は、頼朝幕下にあって最高実力者の一人であった頼朝の乳母の子比企能員(ひきよしかず)が充てられた。
また信濃国小県郡塩田荘の地頭には、早くから京都を脱して頼朝に仕えて、その信任が篤かった惟宗(これむね)忠久が文治2年(1186)2月8日に補任された。この忠久は、のちには九州の薩摩・大隅・日向一円(鹿児島県・宮崎県)にある近衛家の庄官となり、島津姓を名乗り、豪族薩摩島津家の祖となった人である。武蔵国比企郡のゆかりで結ばれたとも考えられる比企氏と島津氏は、建仁3年(1203)の比企氏の乱後信濃塩田から姿を消し、替わって北条氏が信濃の守護人となる。信濃国守護が文書の上で正式に認められるのは「明月記」の嘉禄3年(1228)の記事で、執権泰時の弟重時が信濃守護となっている。重時が弘長元年(1261)に没すると、その子長時が信濃守護職を継ぎ、4年後長時が死ぬとわずか14歳の嫡子義宗が、これを受け継いでいる。長時の弟義政が信濃塩田へ入ったのは建治3年(1270)であった。当時36歳の義政は幕府の要職である連署にあったところから、この突然の隠退には執権時宗の強力な対蒙古挙国態勢との対立も考えられている。塩田の地を選んだのは父重時が守護の地であったことと、ここに「信州の学海」と称せられる仏教の一中心が形成されていたことがあげられる。
安楽寺の八角三重塔と開山樵谷憔僊(しょうこくいせん)・二世幼牛恵仁像、常楽寺石造多宝塔(弘長2年の刻銘)、中禅寺薬師堂と薬師如来像、前山寺三重塔さらに舞田の金王五輪塔・奈良尾の石造弥勒仏塔、柳沢の安曽岡五輪塔・別所院内の宝篋印塔などがそれである。
以後義政から国時を経て俊時に及ぶ塩田北條氏三代が塩田の地に続く。

その終止符は鎌倉幕府滅亡とともに討たれた。ときに正慶2年(1333)であった。

       auto_bfVvQg.jpg和田合戦図

 和田合戦が始まる前の経緯として「比企能員の変」がある。
鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝に北条政子が嫁いでいた関係で、北条氏が執権として政治最高職を得ていたが、この頃まだ執権の権力は万全なものではなかった。
2代将軍・源頼家は、側近や正室(若狭局)の実家である比企能員を重用し、それに北条政子(母方)の北条氏などが反発していた。
 建仁3年(1203)8月源頼家が一時危篤になった際に、北条氏は源頼家の長男・源一幡が本来すべて受け継ぐ領地を、源頼家の弟である源実朝に分割した。これに怒った比企能員は病床の源頼家と、9月2日に会い北条氏討伐を企てたが、障子越しに母である北条政子に聞かれ、北条政子の父、北条時政の耳に入ってしまった。
 北条政子は、薬師如来供養を口実に比企能員を鎌倉・名越の北条邸に招いたところを、天野遠景と仁田忠常に襲わせ、全く警戒していなかった比企能員を暗殺。知らせを聞いた比企一族は、その日のうちに一幡の小御所に入り戦に備えたが、北条政子が将軍代行となり、比企氏討伐令を出し、北条義時を大将とする軍勢が小御所を取り囲み、比企一族は、源一幡や若狭局を囲んで自刃し、たった一日で滅亡した。
 数日後の9月7日、激怒していた源頼家は、病から回復し、頼りの和田義盛と仁田忠常に御教書(正式な討伐令)を送り北条氏を逆賊として討伐を命じたが、和田義盛は、この御教書を北条氏へ渡し、源頼家を裏切ってしまう。北条氏の仁田忠常は、直ちに滅ぼされ、その日のうちに北条政子の命で源頼家は、将軍職を剥奪され伊豆・修善寺に幽閉されることになり、3代将軍は、北条氏によって11歳そこそこの源実朝が擁立されることとなった。
 翌年、元久3年(1204)7月18日北条氏からの刺客により源頼家は絶命。
 元久2年(1205)7月19日、北条時政は、時政が邸に滞在している源実朝を殺害し、娘婿の平賀朝雅を新将軍として擁する、北条時政の後妻、牧の方の策略が鎌倉に知れ渡ります。北条時政の娘、北条政子とその弟・北条義時は大反対し、源実朝は、北条政子の命を受けた御家人らに守られ、北条義時の邸宅に逃げてしまう。北条時政は、兵を集まるように呼びかけますが、その兵は、すべて次男の北条義時邸に参じ、7月20日、北条時政は、伊豆国修善寺に追われ、執権は北条義時が継ぐことになった。これを「牧氏事件」と呼ばれている。

 信濃国住人・青栗七郎の弟で僧侶の阿静房安念は、関東中を歩き回り鎌倉への謀反に加担するよう説得して歩き回っていた。
 建保元年(1213)2月15日、鎌倉の有力御家人、千葉氏・千葉介成胤の鎌倉甘縄屋敷を訪れ「北条氏打倒に荷担するように」説得したところ捕えられてしまった。
 最初は小さな企みかと思われましたが、その後、検非違使・山城判官行村(金窪行親)の調べで、信濃源氏の泉親衡が源頼家の遺児千寿を将軍に擁立して北条氏を打倒する陰謀が発覚した。
 加担するよう説得した相手は130余人に登り、参画した者の中には、一村小次郎、籠山次郎、宿屋次郎、上田原平三父子、園田七郎、狩野小太郎、渋河刑部六郎、磯野小三郎、栗沢太郎父子、木曾滝口、奥田氏、臼井氏といった、そうそうたる面々で、極めつけは、和田義盛の子の和田義直、和田義重も計画に参加している事がわかる。
 北条義時も事の重大さに気付き、調査を行い判明した者は翌2月16日直ちに、それぞれを重臣の屋敷へ監禁し、和田義盛の子の和田義直・和田義重と、甥にあたる和田胤長も拘束されてしまった。
 泉親衡は、源満仲の弟・源満快の子孫と源氏の中でも名門であり、また剛勇をもって知られていましたが、北条氏の独断先行を快く思っていなかった。
 北条義時は、泉親平が潜んでいるとされた建橋に工藤十郎らの兵を派遣し捕らえようとしたが、工藤十郎は、逆に泉親平に討ち取られ、泉親平は行方をくらましてしまった。 

 和田合戦のきっかけは、和田義盛の甥・胤長らが二代将軍源頼家の遺児を擁立する陰謀が発覚したとして逮捕され、義盛の陳情にもかかわらず赦されなかったことから、面目を潰された義盛は三浦義村ら一族を統合して執権北条義時討伐を決意したが、挙兵直前に義村は寝返った。このため義盛は準備不足のまま立ちあがり、一時は幕府を占領するほど優勢であったが、衆寡敵せず田比浜に追いつめられ、海野小太郎幸氏らによって全滅した。
 

承久の乱と長倉保領土争い

 承久3年(1221)、10代海野小太郎幸氏は、執権北条泰時の幕府方の将として「承久の乱」に美濃大井戸で参戦する。この時幸氏は、49歳であった。幕府重臣として重要な事項の謀議にも参加している。
  
 平氏の滅亡後、源頼朝と源義経が対立した。義経が平泉(岩手県)の奥州藤原氏のもとに逃れると、頼朝は義経・奥州藤原氏を攻め滅ぼした。そして日本最初の本格的な武家政権『鎌倉幕府』を開いた。頼朝の死後、頼朝の妻・北条政子の実家・北条家が幕府の実権をにぎり、執権(将軍を助ける幕府の最高職)の地位を独占した。
 一方、朝廷では、幕府を倒して政権を取りもどそうと考えた後鳥羽上皇が、兵を挙げた。御家人(幕府に仕える武士)たちは、朝廷の敵にされて混乱したが、北条政子は、「武士の政権を開いた頼朝様に感謝し、幕府を守るために戦うべき」と御家人たちの心を一つにまとめた。
 幕府は、北条泰時らを指揮官に任命し、京都に攻め上がらせた。味方する武士が増え19万騎の大軍になった幕府軍は、宇治・瀬田の戦いで朝廷軍を撃破して京都を占拠した。敗れた後鳥羽上皇は、隠岐(島根県)に追放され、京都には朝廷を監視する役所「六波羅探題」が置かれた。
 
 香坂宗清(初代香坂家)も戦功により、鎌倉六代将軍宗尊親王(むねたかしんのう)に仕え、文応元年(1260)信州新町の牧之島の地を賜わった。その後、信濃守護守・小笠原貞宗の命により、総大将・村上信貞率いる市河経助・高梨五郎などが、牧城を攻めたが天然の要害にあり、落城しなかった。それ以降の戦乱でも落ちることはなかった。

 10代海野幸氏は、源頼朝より庄を与えられていて、上野国三国の庄(長野原町・嬬恋村)の地頭であったので、滋野姓海野氏の勢力は上野国吾妻郡にまで広がっていたといえる。

源頼朝の浅間の狩にあたりに「大石寺本」では『信濃と上野の境なる碓井山を越え給い、沓掛の宿に着き給符、その夜は大井・伴野・志賀・置田・内村の人々ぞ守りける。次の日鎌倉殿、三原へ御越あり、離山の腰を通らせ給う、その折、「節狐の啼きて走り通りければ、梶原聞きも敢す」と口ずさみけり。信濃の国の住人海野小太郎幸氏「忍びても夜こそこうとはいふべきに」と付けたりければ、人々感じ合はれける云々』海野小太郎は梶原とともに褒美の品々を頂戴している。

 このことで海野幸氏は、甲斐の武田光蓮(武田信光)との国境の長倉保(軽井沢町)との領地争いを行ったとあり、幸氏の領地は、甲斐に接するほど広かったのであろうか。
 すでに、この時期に海野氏一族が上野国に進出し、三原庄をも領有していたことが注目される。その一部は、下屋・鎌原・羽尾・大戸氏のように、西上野吾妻郡地域にも進出していった。
 この武田方との訴訟は、幕府の裁定で海野方の勝訴でおさまったことが、幕府の公式記録である『吾妻鏡』に記されている。
 そして甲斐の武田家は、その結果内紛が起きてしまうのである。
武田光蓮が二男信忠を勘当してしまうような武田家にとっては、非常に悲しいことが起きたのである。
 海野氏は、甲斐国に本拠をもつ武田氏と犬猿のなかの時代を過ごすのである。
 これは、仁治2年(1241)3月のこととされている。この時、幸氏は69歳である。

海野幸氏は長生きで活躍していたことになる。この時期の海野氏の支配地域は、海野氏連合体全体で江戸時代の石高に換算して5~7万石程度と推定される。(信濃全域で55万石と称されてる)海野氏の最盛期といえる。

 海野氏は本領海野の地を開発領主であり、海野庄と呼ばれた地域で、その領家は藤原摂関家だった。12世紀初め関白忠実の代より、南北朝時代の14世紀中葉まで藤原氏嫡流(近衛家)に伝領されたことが考証されている。つまり海野氏は、摂関政治の全盛時代より摂関家に従属し、その荘官として勢力を蓄えていたとみられるのである。
 幸氏の活躍は『吾妻鏡』に多く記録され、特に嘉禎3年(1237)8月北条泰時の嫡男・北条時頼に鶴岡八幡宮における流鏑馬で騎射の技を披露し、見る者たちは「弓馬の宗家」と讃えられ、また、当時の天下八名手の一に数えられ、さらに武田信光・小笠原長清・望月重隆と並んで「弓馬四天王」と称され、以後は将軍家の御弓始・放生会の流鏑馬・三浦の小笠懸などの催しのあるごとに、海野幸氏の名がみられる。
 
 

文永の役・弘安の役

 auto_akm0o6.jpg海野幸氏から幸康までの系図
  
 弘安4年(1281)に海野氏11代海野小太郎幸継(幸氏の長男)は、塩田氏に従い弘安の役に出陣する。

 文永の役・弘安の役は、中国が元の時代で、日本に2回に亘って侵略してきた事件である。
 文永8年(1271)、モンゴル民族の5代フビライ・ハンは元(中国)を建国すると、鎌倉幕府に使者を送り、日本に朝貢を求めて元に従うように求めてきたが、8代執権(幕府の最高職)北条時宗は、これを拒否して九州沿岸の防備を固めた。
 これに、怒ったフビライは、文永11年(1274)、支配していた朝鮮半島の高麗の兵を従えて、約9百隻の軍艦と2万8千兵で、日本への攻撃を開始した。
元・高麗軍は、対馬・壱岐(長崎県)を侵略の後、10月20日には九州博多(福岡県)湾西部の今津付近に上陸した。
元軍は、当時の日本では、卑怯とされていた集団戦法や、空中で爆発する火薬兵器で攻撃してきたため、御家人(幕府に仕える武士)たちは苦戦していた。
 将兵よく防戦して勝敗がつかぬため攻撃軍は、一旦沖の船に引き上げた。
しかし、その晩、台風に遭い、そのために多くの船が沈み、多数の将士を失い。残る兵士は、戦意を失い敗退し撤退した。

     auto_qEb5sa.jpg大宰府政庁跡

 この「文永の役」の以後も、フビライは日本侵略の夢は消えず、降伏勧告の使者を日本に送ったが、執権北条時宗は従わず、使者を鎌倉竜の口にて斬り、覚悟のほどを示し九州を主体として沿岸の防備をますます堅固にした。
 フビライは、日本侵略の兵力を金方慶が主将とする蒙古・漢・高麗合流軍4万の東路軍と范文虎の率いる旧南宋軍10万の江南軍を編成して日本に向けて出撃させた。

 弘安4年(1281)6月6日、東路軍は志賀の島に襲来。待ち受けていた幕府軍と激戦になり勇敢な将士の反撃に侵略軍は上陸を果たせず退き、江南軍の到着を待った。
 東路軍は、遅れた江南軍と平戸付近で合流し、一挙に博多湾に押し入るべく鷹島(長崎県)付近に移動する。
 これを察知した日本軍は、小船にて猛攻をかける。激戦の最中、7月30日から暴風雨が吹き荒れて、翌閏7月1日(閏年で7月が2回ある)には来襲軍の船は、ほとんど壊滅し沈み、撤退した。范文虎は士卒を置き去りにして本国へ逃げ帰り、残された将兵は殺害または捕虜となり、日本軍の大勝利のうちに終わった。

 鎌倉幕府執権北条守時の代、嘉暦4年(1329)の「諏訪上社頭役注文」に、上田小県地方関係の頭役を見てみると。
 諏訪上宮五月会 流鏑馬之頭 御射山頭役結番之事
  二番御射山左頭 塩田庄半分陸奥入道
  同    右頭 海野庄内岩下郷海野次郎左衛門入道知行分
  四番五月会左頭 小泉庄半分内上田原・津井地・穂屋薩摩守知行分
  同    右頭 海野庄内林三ケ条地頭等
  七番御射山右頭 海野庄内深井・岩下両郷地頭、深井海野次郎座衛門入道知行分
  九番五月会左頭 浅間郷普恩寺入道、上田庄地頭等
  十番御射山左頭 会田御厨海野信濃権守入道以下、小市・風間郷地頭等、小泉庄内
          前田・岡村泉小二郎知行分
  十三番五月会右頭 山家郷地頭等、小泉庄内加畠・御子田・室賀海野信濃権守知行分
 また、同年の諏訪上宮の「大宮御造営之目録」の御柱・垣根づくり負担する上田小県地方の荘園や郷村の分担は
  二之御柱           小泉庄
  三之御柱           塩田庄
  四之御柱           浦野庄
  二之鳥居と外垣五間      上田庄
  外垣三間           塩川
  御門戸屋           海野・会田
  不開妻戸・御座沓脱・下長押  祢津
 と分担した。海野・会田・祢津・岩下等の名前が見える。『上田市誌7巻より』

中先代の乱

 12代海野小太郎幸春・13代海野小太郎幸重は、北条氏に心を寄せる武士であった。特に信濃では、鎌倉幕府執権高時の遺児北条時行を諏訪頼重・大祝時継らが匿い、鎌倉幕府の再興を期し、時節の到来を待っていた。
 元弘元年(1331)、後醍醐天皇は、朝廷の実権を取り戻すため、幕府を討とうと計画を立て起こした「元弘の乱」で失敗し、隠岐(島根県)に追放された。
 しかし、楠木正成をはじめ、後醍醐天皇に味方する武士が各地で現れ、倒幕運動を開始した。幕府と戦うために千早城(大阪府)に立てこもった。
幕府の実力者・北条高時は、大軍で千早城を攻めさせたが、正成は、城に攻め寄せる幕府軍に丸太や大石を投げおろしたりして幕府軍は、約100日間、釘づけされる。
 この間、京都では御家人・足利尊氏は鎌倉幕府に仕えたが、天皇側に寝返り、元弘3年(1333)に京都にあった幕府拠点の六波羅探題(幕府が監視する役所)を攻め滅ぼして「建武の新政」成立に貢献した。
 一方関東では、新田荘(群馬県)を本拠にしていた御家人(幕府に仕える武士)の新田義貞も、幕府から強引に年貢を取り立てられたことから、元弘3年5月、倒幕の兵を挙げて鎌倉へ向けて進撃を開始した。守りの薄い稲村ケ崎を目指し、潮の引いた時に一気に攻めこみ、幕府の実力者・北条高時は、北条一族を率いて戦ったが敗れて東勝寺に追い詰められて自害した。これにより、約140年続いた鎌倉幕府は滅亡した。

 鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇は、新しい政治(建武の新政)を始めたが、武士よりも公家(朝廷に仕える貴族)を重く用いたため、武士の不満は高まった。
 後醍醐天皇から足利尊氏を倒すように命じられた楠木正成は、尊氏と和解するよう提案したが、公家から反対された新田義貞とともに湊川(兵庫県)へ向かうように命じられた。正成は戦死を覚悟していたという。湊川に陣を構えた楠木・新田軍に対して尊氏軍は、水軍を利用して新田軍の背後から攻撃を仕掛けた。新田軍は逃げ道を断たれることを恐れて退却。このため楠木軍は戦場で孤立し、一族と共に自害した。
 その後、新田軍を破って京都に入った尊氏は、室町幕府を開いた。後醍醐天皇は、京都を脱出した後、吉野(奈良県)へのがれ、京都の朝廷(北朝)に対抗するため南朝を開いた。

 室町幕府初代将軍の足利尊氏は、小笠原孫二郎政宗に信濃国守護に改めて任命した。守護小笠原貞宗・村上信貞らの勢いも強かったが、建武2年(1335)7月北條時行は挙兵し、北条得宗家の御内の筆頭だった諏訪氏と、その諏訪氏と深い結びつきのあった祢津氏とその滋野一族の海野・望月らは、これに応じて旗揚げした。
 建武政府に対して起した乱で、鎌倉執権の北条氏のことを先代、室町幕府の足利尊氏のことを後代というのに対して、時行は、その中間に起きた乱のため後世の識者は中先代の乱と称した。
 信濃国内の武士も、公平さを欠く恩賞に対する不満だらけで、元弘3年(1333)から中先代の乱へかけての対立が根底になって、このあと20~30年間ほど、長く見ると100年ほどあとの延享12年(1440)の結城合戦のころまで、形を変えながら、この対立を引きずってきている。

 埴生船山郷周辺の守護方と中先代与党との戦いの状況は、『市河文書』の建武2年(1335)7月の「市河助房等着到状」と同年8月の「市河親宗軍忠状」の文書から知ることのできる両軍の軍勢は
    (中先代与党)               (守護方)
 北条時行                  信濃守小笠原貞宗
 諏訪三河入道照雲(頼重)           市河刑部大夫助房
 安芸権守諏訪時継(頼重の子)         同左衛門九郎倫房
 滋野一族                  同息子五郎長房
 保科弥三郎                 市河孫十郎親宗
 四宮左衛門太郎               村上の人々

 守護小笠原貞宗は、合戦を覚悟で船山郷に乗り込んで、7月13日に市河助房・倫房・親宗らが合流し、14日になって、保科・四宮氏をはじめ中先代方が青沼に押し寄せ、それが千曲川を越えて篠ノ井・四宮河原に戦場が移り「更埴河原の戦い」となった。守護方が優位に立って、翌15日には、八幡の武水別神社東方の河原で、坂城町の西部方の横吹のすぐ北の福井(磯部のなかほど)の河原でも合戦が行われて、市河氏の総大将助房は討死した。市河氏は、村上の人々の援軍を得て、この危機をまぬがれた模様です。

 海野氏を含む諏訪・滋野一党・時行軍は、各地で赫々(かっかく)たる戦果を上げ、手越河原(静岡県手越)の戦いでは、足利直義を三河方面まで敗走させ、7月25日鎌倉を回復して、中先代と称せられた。しかし僅か20日ほどの後に、直義援軍のため京都より東下した足利尊氏軍との戦いに敗れ、頼重・時継は自害し、北条氏再興の目的はあえなく挫折してしまった。

 乱は、京都公家西園寺公宗と諏訪頼重が力を合わせて建武政府打倒を計画するが、途中にて計画が露見して誅殺されたため、建武2年(1335)に頼重は、海野氏を中心とする滋野一族を味方にして時行を奉じて挙兵した。

 戦いの手始めに守護小笠原貞宗の軍を破り、続いて小手指ケ原(埼玉県所沢市)にて足利軍を破り足利直義が守る鎌倉を攻め落とした。直義は鎌倉を逃亡に際して監禁していた後醍醐天皇の皇子、護良親王を殺害した。
 敗走した直義軍は、同年7月27日、これを食い止めようと、駿河の国手越河原に陣を敷いた。しかし破竹の勢いで東海道を攻め上ってきた時行軍の勢いを止めることは出来ず、三河をめざし敗走した。
  
 危機を感じた足利一族の棟梁尊氏は、後醍醐天皇の裁可を得ず、救援のため兵を率いて東下、三河の国矢萩(岡崎市)にて直義軍と合流、8月9日に進撃してきた時行軍と橋本(静岡県浜名郡)にて合戦、これを破り、敗走する時行軍を追って、途中小夜の山中(掛川市)をさらに破り、14日には府中(静岡市)の合戦に勝利した。時行軍は、続いて高橋縄手・清見ケ関(清水市)と息つく間もなく攻めたてられ、防戦の甲斐なく時行軍は敗走。
 17日箱根山、18日には時行軍の最後の陣地相模川にて合戦、ここを最後の場所として、よく防ぐも敵せず、尊氏は、19日には鎌倉を奪還した。

 諏訪頼重は自害し、時行による鎌倉奪還は僅か20日間の夢に終わった。
尊氏は、その後、後醍醐天皇の上洛命令を聞かず鎌倉に居座り、征夷大将軍を自称して公然と建武政権に反旗を翻(ひるがえ)した。

 観応2年(1351)の2月から、しばらくは信濃も波が立たなかったが、足利尊氏と弟の直義兄弟の関係が悪化してきた。6~7月から信濃も、また激しい合戦が始まった。
7月足利直義と一緒に都を出た諏訪信濃守は、敦賀にとどまった直義の一行から別れて、先に信濃に戻ったことで、祢津氏や香坂美濃介達も勢いを得たので、善光寺の戦いで守勢になった尊氏方が、須坂市米子の山に逃れたところを、さらに追撃した。
 上田小県地方にとって初めての合戦が、12月10日尾野山で行われた。この合戦の場所は、上田市丸子の依田と小牧の間で小牧山の東部、尾野山集落の中ほどの下池の西側に、今も中尾の字が残っている。ここ尾野山に上ると、北方の眼下に海野氏所領の岩下や深井が広がり、東北の方向に祢津小次郎の本領祢津郷が手に取るように見える。
 こんな近くまで尊氏方に攻め寄せられ、自分の所領が危機にさらされた祢津氏が、一生懸命になって防戦したことは当然で、諏訪信濃守直頼も駆けつけて大合戦が繰り広げられたことと思われる。

 このことが半世紀余りにおよぶ南北朝内乱時代の契機となった。
諏訪及び海野氏を含む滋野一族が起こした中先代の挙兵が南北朝内乱の動機になり、海野氏は南北朝争乱の幕開けの主要メンバーになった。また海野氏の一部は安倍(静岡県)奥に逃れ、安倍城を拠点とする南朝方の狩野貞長に従ったとも考えられる。

小手指ケ原の合戦

 14代海野小太郎幸康は、宗良親王(むねながしんのう)に従い、足利尊氏と戦い大敗。幸康は戦死してしまった。(笛吹峠の合戦)
 元弘2年(1332)の暮れ、南河内に再挙した楠木正成は、またたく間に河内国内は、もとより、紀伊・和泉の地頭・御家人までも討ち平らげた。赤坂籠城戦につぐ、再度の反乱の炎が燃え上がったのである。
 元弘3年(1333)正月、鎌倉幕府は諸国の軍勢を動員し、六波羅に集結させると、これを河内道・大和道そして紀伊道の三方面に分け、反乱地帯へ向け出発させた。大軍勢を三方に分けたのは、河内方面が千早城(大阪府)・赤坂城とその周辺の楠木軍を掃討し、大和方面軍が吉野の大塔宮護良親王軍を攻撃し、金剛山の背面に回り込んだ紀伊方面軍が、反乱軍の退路を封鎖する狙いからであった。
 同年、2月22日、阿蘇治時の率いる河内道の一隊は、赤坂城への攻撃を開始し、相模の本間、備中の須山、武蔵の猪俣、その他、結城白河の武士どもが守っていたが、平野将監以下の城兵が降って、上赤坂城は落ちた。
 一方、時を同じくして、護良親王の吉野山が陥落した。そこで、河内方面軍・大和方面軍、さらに紀伊方面軍は金剛山西麓の山懐に殺到することになった。ここは一方だけが金剛山の主峰につづき、三方絶壁となって渓谷に囲まれ、突兀(とっこつ・高く突き出て)としてそびえる山岳城塞で、これが千早城である。楠木正成は、この城に立て籠もって、幕府方の大軍勢を持久戦に引きずり込み、鎌倉北条高時は、北条一族を率いて戦ったが敗れ、約140年続いた鎌倉幕府は滅亡した。

       auto_zbFEi4.jpg笛吹峠(埼玉県嵐山)

 正平7年(1352)2月、尊氏の弟直義が鎌倉で急死した。(毒殺ともいう)
これを好機と捉えて、2月28日、上州・武蔵の国境笛吹峠において、関東や信濃を中心に南朝方の新田義宗軍と鎌倉の足利尊氏との間に激しい戦闘が始まった。
 南朝方は、宗良親王(後醍醐天皇の第二の宮(信濃宮))を総大将として、諏訪氏及び海野氏を棟梁とする滋野一族は、海野・望月・祢津・矢沢家が集結し、風雲急なる鎌倉に向かって応援のため急進した。
 佐久郡内山の峠を越え、富岡街道から下仁田を経て東進した。笛吹峠(埼玉県嵐山町と鳩山村の境の峠)を経て鎌倉街道を南下し鎌倉に到着した、徒歩部隊は約10日間の行程であった。
 戦いの巧者の尊氏は、宗良親王軍と新田軍とを分断する作戦を採り、まず新田軍を国府付近で戦って、これを破った。続いて兵力を整えた尊氏軍と笛吹峠の宗良親王は2月28日、小手指ケ原(埼玉県所沢市)で決戦となるが両軍譲らず、激戦が続いたが、ついに南朝方の敗北となる。この合戦を『太平記』には、武蔵野合戦と記してある。
 この合戦に参加した信濃国の反尊氏方の上田小県地方の武士は、
   海野善幸
   滋野八郎
   祢津小次郎
   舎弟修理亮
   矢沢八郎
   滋野一族

 この戦いで14代海野幸康は討死したと伝えられている。
「松井田町誌」よると、滋野八郎等は、この時信濃路の関を守った。今でも、海野陣場という名が旧軽井沢の西方長尾の原一帯に残っている。一族郎党を率いて長尾原で足利勢の追撃を防ぎ、ここを最後の一戦と奮戦力闘したが、力尽きて討死し、残る一族は、信濃宮に従い、5月11日美濃に出て忠勤を励んだ。見晴台(旧城山大王塚)に八郎を祀った石碑がある。
峠の神官水沢邦暠氏や、茶屋「滋野屋」は、この滋野氏の後裔であると伝えられている。

 宗良親王は、応長元年(1311)に生まれ、後醍醐天皇の第五皇子、母は歌道の家二条氏の娘で、その関係で早くから歌道にいそしんでいた。出家して延暦寺に入り、20歳で天台座主となったが、建武4年(1337)に還俗し、北畠親房とともに伊勢に移り、翌年浜名湖の北岸に近い井伊城に移った。のち越後・越中に転戦、南北争乱の時代となり、遠江国奥山城に在住し、この城の東方を流れる天竜川の上流、伊那谷を臨む信濃大河原城(大鹿村)に康永5年(1344)2月ころ移り、香坂高宗(こうさかたかむね)の警護を受けている。このあたりが、宗良親王の東国計略の根拠地となった。そして、以後30数年、おもにここに居られ信濃宮とう。

           auto_F2h1wR.jpg信濃宮神社(大鹿村)

 晩年は吉野へ上り「新葉和歌集」を選集し、最後は大河原で亡くなられたらしい。親王は誠実で思いやりのある人柄だったので、武士たちに信頼された。親王と香坂高宗の間には、利害をこえた親愛の情があった。
 宗良親王を祀る信濃宮神社は、長野県下伊那郡大鹿村大河原上蔵(わぞう)の東方の高台にあり、戦時中は県の事業として造営が続けられたが、戦争で中絶、規模を縮小して奉賛会の手によって今の社殿が完成した。
境内には、宗良親王が小手指原の激戦の陣頭歌として詠まれた歌で物悲しい歌碑がある。
 「君のため 世のため 何にか 惜しむからむ 捨てて甲斐ある 命なりせば」
 「我を世に ありゃと 問はゞ 信濃なる 伊那と こたえよ 嶺の松風」

   auto_zKnkvR.jpg宗良親王の歌碑 (上記の上の歌)

           auto_FqgusH.jpg宗良親王の歌碑 (下の歌)

 香坂高宗は、滋野氏の一族で佐久香坂の出身、鎌倉時代に牧之島(信州新町)・大河原へ進出した。いずれも牧場の経営者として大河原・鹿塩は、諏訪社領だった。また滋野氏は、諏訪氏の仲間だった。高宗は、天竜川沿いの大草(下伊那郡中川村)を本拠としていたらしいが、宗良親王を大河原に迎え、ここが東国の南党の中心地となった。一時は、親王を奉じて関東に出陣したが、その後、南党の勢力は、次第に振るわなくなった。しかし、高宗は、最後まで献身的に親王に奉仕した。
 高宗の居城大河原城は、上蔵にあるが、今は、小渋川に削られてごく一部しか残っていない。
 高宗は、応永14年(1407)に居城大河原城で死去した。(法名 永林院殿禅室良正大居士)
墓は城址や福徳寺(平治2年(1160)ころ創立といわれる国重要文化財(明治45年指定)で、入母屋作り、杮(こけら)葺の屋根の稜線が空を載っている様は見事で風格がある)を見下ろす丘の上にある。高宗は大正4年(1915)大正天皇即位大典の日に従四位を追贈された。その位記は大塩村役場に保管されている。

            auto_bp5slU.jpg香坂高宗墓

大塔合戦

 千曲川が上田原・坂城から姨捨・八幡へ北西に下り、そのまま流れを変える右岸に、屋代・雨宮、左岸に稲荷山・四之宮・塩崎がある、それから東に蛇行する流の北側が篠ノ井・大当・川中島と北上し犀川に出る。篠ノ井から少し下流の千曲川左岸の横田辺りで、養和元年(1181)木曽義仲が越後平氏の城氏と「横田河原の戦い」を繰り広げられた所である。

 16代海野小太郎幸永と幸永の孫・22代海野左近将監幸則は、国人一揆の一員として参戦、信濃守小笠原長秀に反抗して勝利する。

 南北両朝が合体した明徳3年(1392)閏10月5日から8年後、横田辺一帯で大塔合戦が始まった。その様子を伝える史料が『市河文書』に遺されている。この戦いで市河頼房(興仙)は小笠原長秀方に属した。その戦功を賞し、義満は「足利義満感状」と「市河興仙軍忠状」の2通を与えた。一級の信用度の高い史料であるが、戦の詳細が記されていない。それを詳記する軍記物『大塔物語』・『信州大塔軍記』の伝写本がある。ただ2書とも原本が書かれた年代が不明であったが、67年後の文正元年(1466)僧尭深が書写したものが諏訪下社大祝金刺家にあったのを、上田の成沢寛経(ひろつね)が発見し、塩尻の原昌言が書き写して、江戸末期の嘉永4年(1851)に復刻したものが、現在上田市立博物館や上田市上塩尻原輿家に所蔵されている。
 村上満信を盟主として、佐久三家、大文字一揆、そして北・中信地方の有力国人領主の国人一揆との大連合軍が結集して守護長秀に反旗を翻(ひるがえ)した。信濃における最大の国衆一揆となった。香坂・落合・小田切など犀川流域の国衆の連合は「大」の字を旗印にしたので「大文字一揆」とも言われた。応永7年(1400)、足利氏に頼んで念願の信濃守護に補任さけた小笠原10代当主の長秀は、衆目を驚かすばかりの都風のきらびやかな行列を整え、7月に伊那勢8百余騎を従えて川中島を練り歩き、守護所のあった善光寺に入った。

auto_xYa8WU.jpg大塔合戦といわれる場所

 7月信濃へ入り各地の豪族(国人)を召集し、遠近の武士が進物を捧げて伺ったところ、尊大でろくな挨拶も返ってこなかった。これを見て、長秀の傲慢な態度に反感を持ち、古くから長秀を心よく思っていない各地の豪族たちは、腹に据えかねて合戦に及んだ。

 『大塔物語』は「思い上がった態度をとった長秀に対し、一応慇懃(いんぎん・礼儀正しく)の礼をつくしたところが、長秀は川中島の所々を村上氏が当時知行していたにもかかわらず、恣(ほしいまま)に非拠(ひきょ・非道理)の強儀を行い、事を守護の緒役に寄せて、守護の使いを入り込ませ稲を刈り取った。そこで村上満信は、佐久の三家や大文字一揆の人々の助けをかり、守護の使いを追い立て合戦になった」と記している。
 村上氏のほかに中信の仁科・西牧氏・東信の海野・祢津・望月氏を始めとする滋野氏一族・北信の高梨氏や井上氏一族等大半の国衆が決起した。各地に侵入して来た守護使は追い立てられ、或いは討たれて梟首(きょうしゅ・さらし首)された。ついに守護小笠原氏と信濃国人一揆の一大決戦となった。
 このとき、守護長秀に従ったのは、小笠原氏が地盤とした伊那春近領(上伊那)・伊賀良荘(下伊那)・府中地方(筑摩・南安曇)の一部の武士達であった。小笠原一族内でも、長秀の高圧的な態度に反発して参陣しなかった者が続出している。後に仲介役となる岩村田の大井光矩(みつのり)は、現に同族で守護代でありながら、加勢しなかった。大井氏も有力国衆同様、諸所の庄園領を押領して、現在の勢力に伸し上がってきた。守護長秀自身も領地拡大の好機と、並々ならぬ決意で信濃に入ってきた。光矩は、冷静に時代を読んでいた。信濃国内は既に戦国時代を迎えていた。
 
 9月3日、村上満信は強訴のため兵を挙げた。示し合わせた国衆は、村上勢が篠ノ井岡に、佐久勢が上島に、海野勢が山王堂に、高梨勢が二柳に、井上勢が千曲川鰭(千曲川に鰭のように張り出している台地)に、大文字一揆は布施城後方の芳田崎(ほうだがさき)石川に総兵力4千騎が陣を布いた。この鎮圧のため長秀守護方は、9月10日、善光寺から川中島の横田城(長野市篠ノ井)に押出した。
 上田市立博物館所蔵の『大塔物語』によれば、長秀の下に集まった小笠原勢は8百騎余りで、対する国人一揆の衆は、北信濃の村上満信氏を旗頭に5百余騎を率いて、篠ノ井の岡に陣をとった。佐久地方の伴野・平賀・望月・桜井・高沼・洲吉・小野沢ら佐久勢は7百余騎、一段となって篠ノ井塩崎上島(更埴市雨宮対岸の渡場)に、第23代海野宮内小輔幸義以下は弟中村弥平四郎・会田・岩下・大井・光・田沢・塔原・深井・土肥・矢嶋氏ら小県勢3百余騎を率いて篠ノ井山王堂に、篠ノ井二ッ柳に5百余騎が高梨氏、井上一族など須坂・中野地方の国衆、そして須田・島津ら5百余騎が千曲川岸辺に布陣し、仁科弾正少弼盛房・祢津越後守遠光氏・別府淡路守貞幸・小田中右京亮宗直(実田上総守貞信・横尾種貞・曲尾などの諸氏)など大文字一揆衆8百余騎は布施城を発して芳田ヶ崎の石川(篠ノ井)に2手に分かれて布陣したと記している。
 牧城主9代香坂宗継・諏訪・その他の豪族を加えて大連合を組織して、陣取った。

 この"騎"というのは何人もの家来を伴うので、実数は3千超の小笠原勢に対して、国衆は1万3千以上の兵力だったと推定されている。国衆は、川中島平の篠ノ井(長野市)付近に陣を張り、善光寺の長秀軍を圧倒的多数の軍勢で包囲した。
 大井光矩は、小笠原一門で、守護代であったが、他の国衆同様、在地領主として庄園を押領支配しているため、守護勢の劣勢が予想される最中、5百余騎を途中の丸子に滞陣させた。
 9月23日、小笠原勢は包囲の中、横田城を捨てて合戦をすると軍議で決し、横田郷に8百騎が布陣した。翌24日、寅刻(午前4時)、劣勢を覆す策が無く、敵陣の隙を衝いて疾駆し、一族の赤沢氏の居城・塩崎城で合流しょうとした。塩崎城は善光寺平の最南端、千曲川西岸にある狭隘部で、入口を谷間で抑える守るに堅い地勢であった。同日、深夜、秘かに決死の覚悟で一丸となって包囲陣を突破しようとした。夜の白む頃、村上軍の中、長秀と松皮菱の旗を中央に守り、8百騎が一丸となり強行突入した。一揆方第一陣が千田讃岐守信頼、以後、村上・伴野・佐久・高梨の諸勢力の布陣が、半時ばかり決死の戦いを挑み阻止しようとした。
 小笠原軍は、漸く突破したが、更に千曲川河畔に海野勢が待機していた。発見分断され撃破され、数百人が討死し辛うじて塩崎城に逃げ延びた。長秀も負傷し残余の兵も殆ども浅からぬ傷であった。
 しかも逃げ遅れた小笠原一族坂西(ばんざい)長国をはじめ古米入道・飯田入道・常葉(とこは)入道・櫛木等3百余騎は進路を遮られ、途中の大塔の古砦(こさい;篠ノ井にある大当地区)に逃げ込んだ。当初は鹿垣(ししがき)・塀・築地(ついじ)・堀などを造作し防備を固めたが、祢津・仁科・諏訪の緒勢に包囲され、兵糧も武器の備えも不十分なまま、塩崎城との連絡もとれず、20日を超える籠城となり、遂に兵粮が尽き、乗馬を殺して血を啜り、生肉を食う凄惨な有様となった。救援も期待できず、10月17日の夜、飢えと寒さに自滅するよりも全員一丸となって討死を覚悟、大手より出撃し、敵勢の渦中に殲滅(せんめつ・残らず皆殺)した。長国21歳であった。
 雑人まで含めれば、相当数の屍(しかばね)が篠ノ井の野に晒(さら)された。その惨劇が報らされ善光寺妻戸時宗僧や善光寺別院不捨山光明院十念寺の勧進上人が駆け付け、屍を集めては火葬し骨塚を築き弥陀引摂(いんじょう)の供養を行った。

 一揆軍で主動的役割を果たした牧城の城主・香坂宗継は、戦場から直ちに窪寺観音堂(長野市安茂里)に籠り、道心堅固の請願の行を済ますと、跡職(あとしき)を子の刑部少補(牧城主10代目の香坂徳本)に譲り、高野山の萱堂(かやどう)で読経三昧の日々を送った。後年、念仏行者となり諸国を巡行したという。
 
 「大塔の古砦」の場所については、篠ノ井にある大当地区と推定される。大当地区の東方約500mにある御幣川(おんべがわ)地区の宝昌寺は、この合戦の多くの戦死者を葬った所との伝承がある。しかし古砦の場所は特定されていない。

  諏訪氏にとって、多年に亘る宿敵小笠原であっても、当時となっては諏訪大社が幕府守護の管掌下にあって、上社造営料等の役料の督促も、その権威に依存していた。諏訪氏本家は、自ら出陣する事がはばかられて、国人一揆に加勢するに際し、主将として有賀美濃入道性在を任じ、胡桃沢豊後守泰時(諏訪氏湖南)、上原・矢崎・古田等軍兵3百余騎を出兵させた。諏訪勢は大塔の古砦の大手口を攻めたと記されている。

 長秀が逃げ込んだ塩崎城も国人衆の攻撃に負傷者が続出、しかも瀕死(ひんし)の重傷者が多く援軍の手立ても無く、糧道も絶たれ命運も尽きんとした。長秀は、丸子に留まる大井光矩に使者を送り援軍を要請するが返答はなかった。長秀の最期が迫り、漸く一カ月以上も丸子に駐屯していた光矩は、捨て置くわけにもいかず村上満信と談合し、仲介の手を差し伸べた。これで辛くも窮地を脱し、長秀は京都に逃げ帰った。
 その直後10月29日、長秀は市河興仙(頼房)の忠節に報い、志久見の本領地に、新たに常岩中条(飯山常盤;ときわ;牧)の中曽根郷内の買得地を加え安堵した。
 下水内郡栄村志久見郷は広く、江戸時代から明治の初年までの志久見村ではなく、町村合併前の堺・市川両村全部と壷、細越・石橋等豊郷村の一部も含まれていた。下水内郡常岩は鎌倉北条の庶流常磐氏が支配した。常盤氏はいつしか常岩氏と称したが、初代常盤氏を3人の子が相続し3分した。
 北条を宗家とし、北条、中条、南条と名乗り、それぞれの地を領有した。
 守護自ら、国人衆の一揆と真っ向から戦い、完敗して逃げ帰る前代未聞の失態で、当然、信濃守護職は罷免された。足利幕府の根本支柱である全国守護体制の危機として衝撃を受けた幕府は、応永8年(1401)2月、前管領斯波義将を信濃守護に復帰させ、斯波家家老職の島田常栄(つねはる)を守護代として下向させた。

 南北朝合一後、1,400年前後、神祇官吉田家には兼煕(かねひろ)、兼敦(かねあつ)という親子がいた。足利義満が全盛時代であった。この時期の吉田家の史料として有名な『吉田家日次記』という兼煕、兼敦2代の日記がある。それには「信濃国守護職、去々年より小笠原拝領し了(おわ)んぬ。而るに国人等承諾せず、度々合戦を致し了んぬ、昨日右衛門督入道(前管領;斯波良将)に宛行わる」とある。
 幕閣たちの基本的な認識として、近国と遠国では、統治形式を異にし、幕府が直接支配するのが畿内近国で、それ以外の遠国は、関東の鎌倉府が極端な例として、その地域の自浄作用に期待し、幕府自体、緩やかな支配「無為(ぶい)の儀(穏便な措置)」を理念としていた。そのため守護の弱体で分国支配が不能となると、それを補任した将軍の能力が問われることになり、更に重要な事は、強力な守護が存在しなければ、遠国の秩序が崩壊し、鎌倉幕府同様、地方から政変が始まり中央に及ぶ危惧があった。長秀の失敗により、守護所職は国人たちから多くの支持を集め、その被官の献身的支えがあって初めて実現すると、改めて認識された。戦国の論理が、既に一般化していたようだ。
 足利義満は将軍専制強化のため、国衆の押領・庄園の年貢未済・国衙正税の不納の取り締まりを急いだ。長秀は幼児より将軍義満に近侍し信任されていた。長秀は弱冠30歳前後で、念願の守護職に補任され有頂天になり、国人勢力を侮(あなど)った。
 膨大な国衙領と庄園領は、信濃国では全てが所職され尽くされたようだ。皇室・摂関家であっても、山城国以外では大和国の南都寺院領の片隅に辛うじて所職を維持する程度であった。天皇・関白・公卿も義満の足下に降るしかない経済状態に陥っていた。

  小笠原長秀は、応永12年(1405)11月、一族の惣領職と所領の一切を弟の政康に譲った。これが、「大塔合戦」と呼ばれる戦いの顛末(てんまつ)で、発端はともかくとして南北朝以来の小笠原氏と国衆との対立が背景にあったことは疑いない。小笠原氏の地位は再び下落し、安曇郡内の住吉庄や春近領の一園知行権も取り上げられたようだ。応永32年(1425)ようやく政康が守護に補任された。復帰するのに25年間を要した。
 のちに、更埴の村上満信、太田荘(長野市長沼周辺)の島津太郎らの国人一揆や香坂・落合・小田切ら犀川流域の大文字一揆らの国人一同は連署し、幕府に目安状を捧げ合戦の次第を注進した。その注進状は次の通りです。
 「守護小笠原長秀が将軍の下文(くだしふみ)を持って下国しながら、守護の諸役に事よせて、代々相伝の私領を掠奪し、国人たちをないがしろにする行動をとり、愁訴したところ、はからずも合戦になり。また、決して将軍家をおろそかにするものではありません。清廉の御代官を御下し下されば、いよいよ忠節をいたします」とある。
 幕府は応永9年(1402)5月、義将の信濃守護を解任し、信濃国を守護不設置とし幕府料国と定め代官2人を下向させた。これには対立を強めてくる鎌倉幕府に備え、信濃を幕府直轄領とし東国支配の拠点とする意図もあった。 
 
 大塔を攻め落とした国人勢は11手にわかれて一路塩崎城に向かい、これを包囲して陣を張った。城中の兵はこれまでの合戦で疵を受けた半死半生のものが多く、そこへあらたに祢津・仁科・諏訪勢が攻撃に加わってきたので、長秀の運命も風前の灯ととなった。大井光矩が仲介に入り、村上氏と談合のすえ国人勢を撤退させた。
長秀はこの恥辱をそそぐ手だてもなく、すごすごと京都へ逃げ帰った。
 長秀の末路は寂しいものであった。翌年守護職を解任され、応永12年(1405)には、世の中が騒々しく所領も維持しがたいとして、一族の惣領職以下すべての所領を弟の政康に譲っている。同19年(1412)には出家し、同32年(1425)52歳で死去されたという。

大文字一揆の構成員は、祢津・春日・香坂・落合・小田切・窪寺・小市・栗田・西牧・三村・仁科・原・宮高氏で佐久・小県郡の滋野一族が中心となっている。

「建武2年 (1335) 矢島氏が諏訪から北林郷(旧西脇地籍・現在の上田市常盤城)に引き移り北林城を居城とする在城支配者・北林氏を川中島方面に追放し以降当地方を支配した」との伝承から「北林城」とも呼称されるが、「海野宮内少輔幸義・舎弟中村弥平四郎・会田・岩下・大井・光・田沢・塔之原・深井・ 土肥・矢島氏ら以下引率、其勢300騎云々」(大塔物語) などから、応永年間(1394)から永禄年間(1569) にかけて小県郡に矢島氏が存在したことは、ほぼ確実と思われる。
 
 その中に「岩下」が地名や人名として、史料に現れるのはいつからだろうか。その初見は、鎌倉時代末期の正安3年(1301)にちめいとして『宴曲妙』に出てくる。
長野県上田市丸子の「田中家所蔵文書」より参考資料として、次に抜粋すると、
①23代海野宮内少輔幸義の弟に岩下豊後守がおり、家紋は根笹に雪、旗印は月輪、信州小県郡岩下に住み姓となす。領所は小牧岩下村を領し、小牧中尾の城に住み、世俗小牧殿と号した。
②岩下豊後守の後に岩下幸兼あり、小名を岩下次郎右衛門大夫と号し、後に下野守従5位下となる。
③岩下幸兼の子の小名を岩下次郎幸邦、後に岩下次郎右衛門佐と言い、豊後守従5位下となる。
④岩下次郎幸邦の弟にして上之条に住み、竹鼻三郎左衛門と号し、後に横尾領に移り、但馬守と号す。世俗横尾殿という。その妹が丸子民部清高の妻となった。
⑤岩下次郎幸邦から後、岩下家は幸繁-政幸-清幸-幸実-幸広-幸記-幸景-幸任-幸豊と続いた。岩下幸豊は岩下勘右衛門尉と名のる。
横尾領に住んだ横尾氏の出自は海野氏の末裔なりと言われている。23代海野幸義の弟が岩下氏となり、その岩下氏より竹鼻氏が分派し、それより横尾氏になったとも解釈ができる。竹鼻氏も横尾氏も出自は海野氏からと考えられる。

安曇野地方の海野支族

 auto_hnONGP.jpg10代海野幸氏から幸康までの系図 

 前記の諸系図にある、11代海野小太郎幸継の弟(幸氏の二男)賢信房は、福井県鯖江市の万法寺を開基している。(詳しくは「六、海野系寺院」参照ください)
 10代海野幸氏の三男に海野三郎道敏(乗念房)は、富山県大山町の真成寺を開基している。(詳しくは「六、海野系寺院」参照ださい)
 四男尭元(小田切次郎)は、小田切氏の祖。
 五男海野矢四郎助氏は、駿河安部氏祖で井川海野氏先祖(詳しくは「五、全国各地の海野氏と寺院」静岡県の海野氏を参照ください)

 12代海野幸春は、幸継の長男として生まれる。
  海野氏は鎌倉幕府との関係が緊密となり、のちに子孫は各地に分散して繁栄した。

 次男の会田小太郎幸持は、会田(現在の松本市四賀)に移り地名をとって会田氏と称した。会田氏は、現在の会田小学校のある殿村の地に居館し、その南を城下町と、要害名城を虚空蔵山中の陣に持っていた。

     auto_Cac7Gq.jpg虚空蔵山城跡

虚空蔵山は会田富士と呼ばれる火山性の山で、標高1136m、頂上は屋根のように東西に長く、山頂には数郭をなし、鎌倉時代の山城の特徴を有しているが、山頂には水の手はなく、日常の防備は中腹の「中の陣」と呼ばれる場所を中心に、その東に接して「秋吉」と呼ばれる帯郭形の砦がある。いわゆる本城は、この「中の陣」であろう。

 殿村の館・中の陣・虚空蔵山を総称して会田城と称するらしいが、虚空蔵山は要害城として機能したものと思われる。小笠原長時は、天文17年(1548)7月19日の塩尻峠の戦いで武田信玄に敗れ、その2年後には本城である林城を追われた。
 天文22年には武田信玄は、刈谷原城の太田氏を攻めて4月2日には落城された。翌3日には会田虚空蔵山が放火され塔原城とともに武田方に降参した。

 会田氏が容易に降参した理由は、小県海野氏の後をついだ真田幸隆が武田方について降状を勧めたことや、もともと小笠原氏との間には強い結びつきはなかったことがあげられている。
 また「高白斉記」によると、武田方に降参した会田の海野下野守(岩下氏)に、刈谷原城を加増しようとしたところ、既に刈谷原城代となっていた今福石見守が渋ったため、別の城を替地として与えたとのことである。

 この後、会田の海野氏は、武田軍団の一員となり、10騎の軍役をつとめて各地に転戦し、武田勝頼の滅亡後は小笠原貞慶に滅ぼされた。

その会田氏ゆかりの寺である広田寺の本堂の屋根には、真田家の家紋と同じ六文銭の家紋がある。寺の正面に向かって左側に「会田塚」と書かれた看板があり、下に流れる小川まで下って行くと会田塚があり、奥には虚空蔵山も見える。

 この会田塚については、会田氏滅亡の際、一党の具足や刀剣が遺骨の代りに埋められたと言われている。会田氏は天正10年(1582)10月、小笠原勢によって滅ぼされたが、その際焼き払われた菩提寺知見寺の住持は安置されていた開基(岩下豊後守)の位牌を以って現在の広田寺付近に逃れた。戦いの後、ここに遺品を収め、会田氏一党の供養が行われたと言う。

広田寺過去帳には、会田岩下氏によって中興された知見寺は、広田寺の東の山を越した知見寺というところにあったが、小笠原勢に焼かれ、時の住持が「開基殿(岩下豊後守)の御尊牌をいただき奉り、山中に安座すること七日なり」とある。『広田寺過去帳より』

 明科町の犀川の西岸に中村城があり、その城にある時期、居城したのが海野系中村氏といわれる豪族である。その中村氏は、海野系会田氏から分かれたと言われているのである。
 この中村氏のことについては未だ充分な資料を手にすることはできない。今後の調査研究に待たねばならない。

 三男の塔原三郎幸次の居館は明科中学校付近にあり、普段はそこで暮らしていて、いざというときだけ城へたて籠(こも)り、居館の周りには、家来の住む城下町があり、現在の「町」の集落が、その城下町のあった所である。

     auto_aiGkx1.jpg塔の原城

 塔の原城は、鎌倉時代の中ごろ川手郷の地頭となって東信から進出してきた海野氏の一族で塔原氏を名乗り、その詰めの城として本城が築かれた。

城の規模は、標高は750m、麓が500mなので比高(高度差)は250mで、500m×500mと、かなり大きな城で、長峰山の尾根を六条の空堀で切り、本郭と第二郭の主体部を設けている。さらに吐中部落の方向へ東側に5個、北の尾根筋に13個の帯曲輪を設け、主体部には土塁や石垣を巡らす大規模な城です。

 塔原氏は、戦国時代の天文22年(1553)4月2日に、武田信玄に攻められ城を捨てて逃げたが、のち信玄の配下となった。

 その後信玄は、小県郡海野氏の一族である海野三河守幸貞を塔の原城主に据え、塔原氏は副将の位置に格下げになったらしい。

 永禄10年(1567)3月に至って信玄は、その嫡男太郎・義信を意見の相違から自害させたことから、家臣団に動揺が起り、これを静めるため8月に家臣団を、信濃国小県郡下之郷生島足島神社に集合させ、信玄に二心なき旨の誓約状を差出させている。
 

この時の誓約状「生島足島文書」によると、塔原城主海野三河守幸貞は、8月7日付をもって信玄の重臣跡部太炊介に対し、信玄に二心なき事、上杉謙信からどんな誘いがあっても、また甲・信・西上州にいる信玄の家臣が叛いても、絶対に違反しない旨を神仏に懸けて誓約している。また海野三河守幸貞の家臣である塔原藤左衛門宗幸・会田の虚空蔵山城主海野下野守の家臣の中に塔原織部幸知も、同様の誓約している。

 武田氏滅亡後、松本へ帰った小笠原貞慶氏との争いになり、塔原氏は、天正11年(1583)松本城で誘殺され滅亡する。おそらく同時に居館や塔の原城も破棄されたものと思われる。 
 これらの人達の子孫は、戦国の世が終わり平和になると、農民となり庄屋・組頭・長百姓などの村役になって村方を治めるようになった。

 海野幸継四男の田沢四郎幸国は、筑摩郡田沢に、鎌倉時代中期に兄弟など共に、この地方の嶺間から川手方面に進出して、各地に定着し、在地名をとって、それぞれの苗字とし、子孫を反映させている。

 小県郡から筑摩郡への浸出の理由は、海野氏が、本領の地、新補地頭として、この地方を鎌倉幕府より補任されて、その子弟を派出するに至ったものと推考される。
田沢の地は、犀川に面する川手方面の郷村の内、その最南端を固める重要な最前線であった。
 田沢氏は、この地で定着に際しては治政・防備・交通など都合の良いところに居館を構え、また祈願時や氏神を祀ったと考えられる。

 山城にしても、元禄11年(1698)の「国絵図書上」の際にも隣村、光の別名「仁場城」をもって田沢城とし、享保9年(1724)の「信府統記」にも、この説を踏襲しているが、しかし田沢地籍(田沢駅東の山上)には、田沢城跡は存在している。

     auto_UhwHxO.jpg田沢城跡

 田沢氏は、室町時代初期応永7年(1400)9月更級郡大塔の合戦には、時の信濃守護小笠原長秀を追討する側にあった宗家小県郡の海野幸義の旗下として同族の会田・塔原・光・大葦・刈谷原氏などと共に参戦し、小笠原軍を撃破し、小笠原氏は京都へ敗走している。
 これ以後、史料上から全く姿を消している。田沢氏滅亡後いつの日か花村氏に替わったらしく、室町時代末の世に言われる戦国時代になると花村氏が現われてくる。天正11年(1583)に武士を捨て民間に下り農民となっている。

 海野幸継五男の苅谷原五郎は、荒神尾(七嵐)城主であった。
 「甲陽軍鑑」では、武田軍による苅谷原城攻撃の際、米倉丹後が銃丸除けの竹束の盾を使って城に迫ったことが書かれている。
この時城主であった太田弥助(太田長門守資忠)は、太田道灌の一族とも言われている。五輪石塔が付近の洞光寺に遺されている。住職の話よれば、その塔には太田弥助兄弟とあり、太田弥助と中沢監物の石塔であるとのことである。

       auto_XEjxMd.jpg荒神尾城

 この城主太田資忠(すけただ)は、小笠原長時の家臣であったが、主君小笠原が林城を追われた後も武田方に降伏することなく守りを固めていたという。
 しかし真田幸隆による戸石城攻略の後、村上方の本拠地である葛尾城攻略に着手した武田方は、天文22年(1553)3月29日、深志城を出発して、正午には苅谷原城に到着して城攻めを開始し、4月2日には落城されて城主太田資忠は捕えられ、その後、今福石見守が城主となっている。

 光氏は、海野幸継の六男、海野六郎幸元が、筑摩郡光村に、来往し、その地名をとって氏を称した。塔原村に法恩寺を開基している。
 光城は犀川右岸丘陵上の尾根に面して、豊科町内では規模の大きな山城で、戦乱激しくなった戦国時代(16世紀)初期に築かれたと考えられる。

光城は、標高911.7mにあり、麓の標高が550mというので比高360mもある。山頂の城跡付近まで車で行け、山全体がハイキングコースになっていて、城址は公園として整備されている。東側に塁堀があり、井戸跡が見られる。尾根筋に堀切が見え、そこに古峯神社が建っている本郭(長さ50m、幅30m)である。神社の背後に土塁がある。古峯神社は火の神であり、そのことからここが狼煙台であったことが示唆される。そのころ海野一族は、互いにノロシ等使って連絡しあって栄えていたのである。周囲には腰曲輪がある。その南に深さ5mほどの堀切があり、ニ郭に相当する長さ5mほどの曲輪がある。この曲輪内に土塁で囲まれた部分がある。

 
 光小次郎幸時の代、応永7年(1400)9月の大塔合戦には、宗家小県郡の23代海野宮内少輔幸義の旗下として、同族の苅谷原・塔原・田沢・会田岩下氏などと共に出陣し、信濃国守護職である小笠原長秀の軍と戦って勝利を収めている。
 その後、永享12年(1440)の結城城攻めには、小笠原長秀の舎弟信濃国守護政康の命によって、宗家小県郡の海野氏21代海野小太郎幸守の旗下として苅谷原・塔原・田沢・会田岩下氏等一族と共に参戦している。

 光小次郎幸時5世の孫大和守幸政の代、天文17年(1548)7月19日甲斐の武田信玄と中信の雄小笠原長時との塩尻峠の戦いには、その傘下として戦ったが、戦いに敗れて各自の城へ引き籠った。

 天文22年(1553)4月2日武田信玄の苅谷原城攻めの猛攻であることを聞いて、城を捨て逃げ去っている。おそらく落城後武田氏の軍門に降り、城主としての地位を安堵されたものであろう。

 大和守幸政は退く。子の才三幸友は、天正11年(1583)2月に塔原三河守が松本城で誘殺されて滅亡後、翌12年8月18日に、先陣仁科勢のあと詰めとして、才三幸友・高橋靱負を遺(つか)わしたから、攻略している。

 天正18年(1590)7月、徳川家康の関東入りに従って、下総古河に移封に際しては、小笠原貞慶が子の秀政と共に、この地を去っている。   『明科町史より』

天文10年(1541)5月武田信虎は謀議をもって、諏訪郡主の諏訪頼重・埴科郡坂城の城主村上義清と合意した上で、甲諏両軍は大門峠を越えて、南より小県郡内に攻め入り芦田城(北佐久郡立科町)・長窪城(小県郡長和町)を攻略し、村上軍は北方の上田方面より攻め、両方共に海野平に海野氏を挟撃して、海野・尾の山・矢沢・祢津の諸城を攻め落とした。この時海野氏の当主幸義は戦死し、その父棟綱は関東管領である上州白井(群馬県)の上杉憲政に走って援軍を受けたが、時既に遅く海野氏の回復することができず数百年続いた塔原・光氏などの宗家海野氏はこの時一旦滅亡したのであった。

 浦野氏は、海野幸継の7男として浦野七郎右衛門は、浦野氏の祖として上州吾妻の大戸城主となる。

結城合戦

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 前述した如く、24代海野小太郎幸数は、永享12年(1440)に下総の結城合戦にて守護小笠原政康(長秀の弟、応永32年(1425)信濃守護となる)の指揮下で、信濃勢30番を率いて攻撃軍に参加して、結城氏朝と戦い勝利している。
 信濃武士団に陣中警備と矢倉の役目の順番を記載した帳面『結城陣番帳』に、海野氏は10番目に記録されている。弟に海野大善大夫憲広がいる。
 また27番として大井三河守らと共に祢津遠江守の名前がみられる。「信陽雑記」にも結城攻撃が記されている。

 かつて室町幕府の将軍足利義教と不和であった関東公方足利持氏は、幕府に反抗を企てた。いかも、これをいさめた関東管領上杉憲実を討とうとしたので、その不法をなじり、義教は持氏討伐を決行して、永享12年(1440)2月に持氏を追い詰め鎌倉の永安寺にて自殺させた。この合戦を永享の乱という。

 この乱で持氏側に味方した結城七郎氏朝は、持氏の遺児二人を引き取り養育し、やがて遺児を擁立して名城といわれる結城城(茨城県結城市)にこもり、幕府に反旗をひるがえした。
 幕府は、上杉憲実らを派遣し、諸国の軍勢を徴収して、城に立て籠もる結城氏を攻めた。結城氏はよく防戦するも、衆寡(しゅうか・多数と少数)敵せず、城を枕に討死した。
 擁立された持氏の遺児たちも捕えられ、美濃にて斬られた。

 結城合戦の終わった二カ月後、京都では、かってない衝撃的な事件が起こった。将軍足利義教が嘉吉元年(1441)6月24日、戦勝祝賀のため赤松満祐邸に招待され、猿楽鑑賞の宴のさなか、満祐の手兵によって暗殺されたのである。三代義満以来安定してきた室町幕府は、崩壊への第一歩をふみ出すのであった。
 この翌年の嘉吉2年(1442)8月、義教の先兵として活躍してきた小笠原政康も、海野の地で死去してしまう。幕府の動揺に加え、勇将で文武の達人とも言われた、この政康の死は、信濃の前途に再び暗雲を投じるかのようであった。
 「結城陣番帳」に記された名をみると
   八番   村上殿代屋代殿
   十番   海野殿
   十七番  山家殿 和田殿 武石殿
   十八番  西牧殿
   弐七番  祢津遠江守殿 生田殿
 上のように信濃の国層の名が109名記入されている。

鎌倉で元服

 24代海野小太郎幸数・25代海野信濃守持幸父子は各々、宝徳元年(1449)、鎌倉で元服し、幸数は、上杉憲基を烏帽子親とし、また持幸は、足利持氏から一字を拝領しているから、関東管領家に属し、船山郷(現在の千曲市戸倉町小船山)の地頭御家人であった。

 『諏訪上社御符礼之古書(新編信濃史料叢書)』によれば、宝徳元年(1449)に海野本郷の諏訪社頭役を勤仕している。
 また、海野氏26代海野信濃守氏幸は、25代海野信濃守持幸から継承して延徳(1490)頃まで海野本郷の諏訪社頭役を勤仕している。

 この時期の海野氏の所領は、東は東上田・海善寺・海野本郷、北は小井田・林、西は桶沢・房山・踏入、南は千曲川端までとされており、庶子(しょうし・正室でない女性から生まれた子供)である海善寺や太平寺の氏の一族を代官として、さらに深井・小宮山・今井・平原・岩下氏らを被官として、これらの地域を支配していたという。

 大塔合戦で信濃諸豪族の盟主となった村上満信のあと村上頼清の代には、勢力を挽回した小笠原政康に屈服したが、政康の死で小笠原家が分裂・紛争を始めると村上氏は再び勢力を伸ばしていた。
 小県郡内川東地方で古くから勢力を張っていた海野氏は、応仁元年(1467)12月14日、村上兵部少輔政清は、軍を小県海野方面に向かい、海野氏と戦って勝ち、その領地を獲得し、一方海野方では、岩下住人海野満幸が戦死し、海野氏を大いに圧迫された。
小県郡内、千曲川西の塩田地方は、早くから村上氏の知行分となり、代官福沢氏が支配をまかせられて、千曲川の東の海野までも、その勢力を伸張してきた。 

 応仁元年(1467)、27代海野幸棟は、村上政清と戦いで敗北して以来、塩田平も村上氏に制圧され、西上州の国人衆も海野氏の支配下を離れ上杉勢力下の箕輪城主長野氏の支配を受け、箕輪衆に組み込まれたので、海野氏の勢力圏は次第に狭められ衰退期に入ったと言える。

 この時期、海野氏の支配圏は海野郷を中心にして西は漆戸・小井田・上下青木・岩下・吉田・深井・大屋、東は祢津の東側一帯の別府氏支配地域、北は鳥居峠付近の田沢・大川・東上田・海善寺・海野、西上州境界付近の祢津氏所領、南は千曲川付近小田中氏所領までとされる。
 江戸時代の石高に換算すると1万から2万石と考えられる。
 室町時代末期の海野氏は衰亡期ともいえる。

 氏幸の子・27代海野信濃守幸棟のころからが戦国時代に突入した時期となる。
 
 永正2年(1505)1月13日に没した夫人「禅量大禅尼」のために、翌年永正3年興善寺の開基となる。
 幸棟は、大永4年(1524)7月16日に没している。海野(現東御市和)の興善寺に葬られている。(法名は瑞泉院殿器山道天居士)
 幸棟の子の28代海野信濃守棟綱が大永7年(1527)5月20日、高野山蓮華定院宛ての宿坊定書に著判している。

 

海野平合戦

 武田晴信(後の信玄)の父信虎の代になると、永正16年(1519)館を石和(笛吹市)から躑躅ケ埼(甲府市)に移すとともに、反抗する一族や国人たちを従わせ、天文元年(1532)ころまでには甲斐の統一を果たした。
 天文4年(1535)に諏訪頼満と講和を結び、さらに晴信の妹祢々を頼満の孫で跡継ぎの頼重の嫁にして、諏訪氏との婚姻関係を結んだことは信濃攻略への布石とした。
 天文6年(1537)には、駿河国と和睦するために、今川義元に娘を嫁がせるという手段も使い、信虎は、今川との同盟が成立すると、領地の拡大を目指している。 

s_uno_09_1.jpg武田晴信海野平陣図

 信濃国は、室町時代より守護による統制がとれず、戦国時代も守護家小笠原氏の支配力は限定的で、地域単位で勢力基盤をもつ国人領主が割拠していた。
 東信地域では、信濃村上義清と27代海野幸棟が支配領の境界をめぐって争いが激化していった。室町時代の応仁2年(1468)には両者の抗争から海野大乱が起っている。村上氏は海野氏を圧迫すると共に佐久郡にも侵攻を始め、文明16年(1484)には佐久の名門大井氏の大井政則を降し、佐久郡に支配力を得るようになった。

 武田信虎は、永正16年(1519)に佐久郡の平賀城を攻めている。
 この時は、村上氏(初陣)が援軍として出陣したので、武田信虎は平賀周辺に火を放っただけで退散している。また、大永2年(1522)にも大井城を攻めるが、村上氏の援軍により敗北している。一方、隣国甲斐でも守護権力の弱体化による家督争いが起こり、戦国初期の動乱が展開しつつあった。永禄5年(1562)武田信虎が叔父信恵撃破し、反守護勢力を一掃して、一応の決着をみた。
 永正16年(1519)には、本拠地を甲府に移し、国内統一を実現していった。信虎の対外戦略は、はじめの北条氏、駿河の今川氏に向けられていたが、今川氏輝の死去により後を継いだ義元とは、同盟を結び、その矛先は信濃に向けられた。当然、海野一族も、その攻撃目標となった。

 諏訪を領する諏訪頼満は、甲斐の国人と結んで甲斐統一を志向する信虎と対立していたが、天文4年(1535)9月には武田信虎は諏訪氏と和睦する。翌天文5年(1536)11月には海ノ口城を攻略して佐久郡侵攻が行われ、武田晴信の初陣の戦いと言われている。
 天文8年(1539)には、飯富虎信が佐久に侵攻し、村上義清と戦っている。

 武田信虎は、駿河国の今川氏と和睦すると本格的な信濃侵攻を行い、佐久郡の攻略を行う。天文9年(1540)には、諏訪氏を継いだ諏訪頼重が信虎の娘婿となり同盟関係が強化された。

 天文9年(1540)2月、村上軍が甲斐に侵攻、4月には武田方の板垣信方が佐久に侵攻するが、武田氏と村上氏の激しい攻防が繰り広げられたが、結果として村上氏方が押し切られ、佐久郡は実質的に武田氏に制圧された。

 村上氏と武田氏が佐久郡で争っている間、小県郡では海野氏を中心とする滋野一族が、上野国の関東管領上杉氏を後ろ盾として辛うじて存続していた。
 しかし上杉氏と結んだ海野氏は、武田氏からも村上氏からも共通の敵とみなされ、翌年の天文10年(1541)5月、佐久郡をほぼ制圧した武田信虎は、同盟者の諏訪頼重や前年まで死闘を繰り広げていた村上義清と手を組んで小県へ侵攻する。

 すでに、村上氏との戦いで大幅に勢力を縮小していた海野氏には、単独で抵抗する力は残されておらず、海野棟綱は関東管領上杉憲政に援軍を求めた。当時、海野一族は関東管領上杉氏に仕えていた。海野一族が治める東信濃から上州にかけ地域は、越後と関東を結ぶ重要な連絡路である。
 関東管領家と対立していた武田氏は、上野国から越後国にかけて勢力をふるっていた上杉家の連絡路を遮断し、信州から上杉家の勢力を駆逐しようとした。

 戦国時代の天文10年(1541)5月13日隣国甲斐の猛将武田信虎は、村上義清をして海野氏を攻略せんとし、同月15日武田・村上・諏訪頼重の連合軍が小県郡へ侵攻し、小県を領する28代海野信濃守棟綱ら滋野一族(海野氏・祢津氏・望月氏・真田氏)との間で合戦が行われた。世にいう「海野平合戦」である。

海野宗家滅亡

 天文9年(1540)、武田晴信は信虎に従って初めて信濃に入り、佐久郡の諸城を攻め落した。
 さらに、翌年の天文10年(1541)5月から兵馬を小県にすすめた武田信虎・晴信軍は佐久郡から、村上義清軍は砥石城から、まず海野氏の前線基地尾野山城を攻め、海野平を眼下に見下ろせる地に駒を進め、翌日千曲川を渡って海野平の攻撃となった。諏訪頼重軍は和田峠から侵入し、それぞれ名族海野一族の篭もる属城を攻め落として、海野平を三方から包囲した。
 海野一族は、独力では太刀打ちできないとして、関東管領上杉憲政に援軍を要請した。ところが、上杉の援軍は遅れに遅れ、到着したのは合戦一カ月後の7月であったという。
 当時、管領家は、相模の北条氏らとの戦いが忙しく、小豪族のことなど全く問題にせず、後回しになったのであろう。

:海野平古戦場絵図

 援軍の来ない中、海野一族は必死に反撃した。兵力は少ないが、皆一騎当千の兵である。
 海野氏の館は、今の白鳥台団地付近にあったが、もっとも大事な防御線神川や千曲川が突破されれば、連合軍の侵入を許すほかはなかった。
 梅雨の時期で神川・千曲川が増水しており、武田軍の攻撃も困難を極めた。
しかし、多勢に無勢であり、海野一族は、四分五裂に分断され各所で大損害を被った。第28代海野棟綱は破れて、上野(群馬県)へ逃れたのは、そこで関東官領の上杉憲政の援助を得ようとしたからである。

 ついに、祢津宮内太輔元直は、海野氏滅亡時に矢沢頼綱と一緒に武田氏に捕えられたが、諏訪頼重と同じ神氏の一族ということで、頼重の執り成しで本拠地へ帰され、矢沢氏は自ら降伏した。望月氏も武田氏に降伏した。

 天正10年(1541)7月になると海野棟綱の要請を受けた上杉憲政は3千騎を率いて関東から佐久へ入り、小県郡の村上義清を攻めて海野を回復しようと試みたが、諏訪頼重が長窪へ出陣して義清の支援の姿勢を示したため果たせず、和睦して帰陣している。このとき甲斐勢が出兵しなかったのは、信虎・晴信父子の対立が頂点に達し、ついに子晴信にわれて父信虎が駿府に去るという事件があったためであろう。
 しかし甲斐を完全におさえた晴信の信濃侵攻は本格化し、まず諏訪氏を滅ぼし、伊那の高遠城を落とし、再度佐久に入り小県を覗(うかが)っていた。

          auto_np8jHd.jpg矢沢城跡(上田市)

矢沢氏は、文明2年(1470)の諏訪神社上社の神事奉仕をはじめとして、延徳(1489~91)・天文(1532~54)・永禄(1558~69)・天正(1573~91)の各年間に諏訪上社の神使御頭を務めている。天正8年(1580)~9年には矢沢綱頼が武田勝頼から沢口での戦功を賞した感状を得るなど、以降、武田氏に属して活躍した。武田氏滅亡後、綱頼は真田氏の重臣として上野沼田城代を務め、その間、北条氏との幾多の抗争に優れた軍略を発揮した。天正13年(1585)上田原合戦の折は、綱頼の子、2代三十郎頼康が矢沢城を守り8百の守兵で依田源七郎ら1千5百の軍勢を退けたという。その後、元和8年(1622)矢沢氏は真田信之に従って松代へ移り、矢沢の地は小諸城主から上田城主に移封した仙石氏3代政勝の領地となった。3代頼邦(頼康の弟)-4代頼貞-5代頼永-6代頼次(頼永の弟)-7代頼豊-8代誠重-9代頼誠-10代頼寛-11代頼容-12代頼尭(1,400石)-13代頼春-14代頼孝-15代頼直(恩田柳水民生の二男)-16代頼道(恩田檪園民知の長男で造り酒経営・長野県議・松代町長)-17代頼忠(松代藩文化施設管理事務所長・真田宝物館の運営)真田家の筆頭家老として活躍された。

 天文11年(1542)12月1日、文武両道にすぐれている祢津元直は、武田晴信に臣従し、祢津元直の娘(里美姫)が武田晴信の側室として嫁いだ。また元直は、幸隆に従い戸石城攻略において戦功をあげたので、祢津の地を回復している。矢沢氏も、諏訪氏ゆかりの神氏であることから知行を安堵された。

 諏訪頼重は、立科山北麓の大河原峠を下り、長窪城主大井貞隆の降伏により、無血で城を得て、頼重の遺児、美貌の湖衣姫も武田晴信の側室に迎えられた。
 晴信の歌
 「もののふの心にふかく しのびいる つづみの音のぬしぞ こひしき」
 里美の歌
 「甲斐ありて躑躅ケ崎の 雪の野を きみに寄りつつ ともに歩まん」
 湖衣姫の歌
 「いまはただ かすめても取らん山里に 美しく咲ける 白ゆりの花」

 さて、祢津元直の娘里美は馬の名手で、馬上ゆたかに祢津の山野を駆け巡っていた。時には祢津氏の領地であった祢津「山の湯」あたりまで馬を走らせたこともあったと思う。地蔵峠(東御市湯ノ丸高原)の頂上で、馬を休ませ、籠の塔やお桟敷山に囲まれた美しい高原の澄みきった空の下で、女傑里美の胸の中を去来した思いは何であっただろうかと耳をそばだてたくなる。
 信玄は、この里美の凛々(りり)しい姿に心をうばわれ、近臣の停めるのも聞かず、なんとしても甲府に迎えようとする。結局、天文11年(1542)12月25日に里美は、信玄のもとへ嫁いでいった。
 東御市役所の西側を流れる求女川の名は、信玄と里美の出会いのエピソードを秘めた名前とも言われている。
 里美は信玄の片腕として、戦場へも出陣している。信玄が伊那の駒場で53歳の生涯を終った時にも死水をとったのは、里美であったと言われている。
 里美は信玄の死後、甲府には帰らず、息子の信清(信玄の7男)のいた奥州米沢(山形県)に行き生涯を終ったとか、また静岡の袋井堀越(静岡県袋井市)で生涯を終ったとも言われている。
 現在、静岡県に海野姓、山梨県に祢津姓(長野市付近にも)が多く残っておられる。中には俳優の根津甚八をはじめ、実業家・教育者として多くの人々が活躍されている。
 信清の16代の孫武田茂氏が水戸市にいて、ここにも祢津氏を通し武田家の血統が残っているわけである。

 棟綱の子の29代海野左京太夫幸義(善)は、天文10年(1541)に村上氏との神川の戦いで戦死した。真田幸隆の妻の兄であり、幸隆にとっては義兄である。享年32歳。(法名赫?院殿瑞山幸善大居士)

  auto_coGWg1.jpg上田市神川東方の海野幸義終焉の地 

 28代海野棟綱は、真田幸隆をともなって上州吾妻郡の羽尾へ逃げ、代々支配した海野の地を追われることになった。
 上州吾妻郡には、海野氏の支族が広がっており、棟綱・幸隆にとっては絶好の逃避地であったのかもしれない、棟綱らが身を落ち着けた羽尾は、幸隆の妻の父・羽尾幸全入道の領地であった。
 幸隆は戦いに敗れて、妻の実家の庇護を受ける身になった。
 棟綱は、羽尾に潜み、散り散りに四散した一族の生き残りと、旧領の回復を狙っていた。

 この戦いは信虎の小県地方侵攻の総仕上げともいえる戦いであったが、天文10年(1541)6月に信虎は嫡男の武田晴信(信玄)のクーデターにより甲斐から追放されるという事件が発生したため、武田氏の勢力は一時的に後退し海野氏の旧領の多くは村上義清の支配することになり、7月には海野棟綱の要請を受けた上杉憲政が、箕輪城主長野業政を総大将とし佐久郡に出兵する。

         auto_2dzFnI.jpg箕輪城跡(群馬県)

箕輪城は、明応~永正(1492~1521)に長野尚業(業尚)が築城し、子憲業、孫業政により強化された。長野氏は、武田信玄、北条氏康、上杉謙信の三雄が上野国を舞台にしてお互いに勢力を争った戦国の世に、あくまでも関東管領山内上杉家の再興を計って最後まで奮戦した武将である。特に長野信濃守業政は、弘治年間(1555~8)から数回に及ぶ信玄の激しい攻撃を受けながら少しも譲らず戦い抜いた優れた戦術と領民のために尽くした善政により、名城主として長く語り継がれている。
永禄4年(1561)長野業政は若年の業盛(氏業)を重臣達に託し病死した。業盛は父の遺志を守り城兵一体となって、よく戦ったが12月、武田信玄は北条氏康とともに倉賀野城を攻め、小幡信貞を味方につけ、上州侵攻の先導とし、永禄6年には国峰城・安中城・松井田城などの長野方の要所となる西上州の諸城は次々と武田の手に落ち、加えて若年の業盛に対する不安感もあり離反者も出、永禄8年(1565)6月には倉賀野城も落ち、翌永禄9年(1566)9月29日、さすがの名城箕輪城も武田勢の総攻撃により、ついに落城するに至り、城主業盛は、
「春風にうめも桜も散りはてて名のみぞ残る箕輪の山里」 という辞世を残し一族主従自刃し、城を枕に悲壮な最期を遂げた。長野氏在城は60余年である。
長野氏滅亡のあと、武田氏が箕輪城を支配、武田勝頼は重臣内藤昌豊を城代として入れ、続いて子の外記(昌月)が継いだ。しかし天正10年(1582)、武田勝頼が天目山において滅亡によって終わり、織田信長は家臣の滝川一益を厩橋城に入り、箕輪城を治下においたが、この年、本能寺の変があり、信長の死後は北条氏邦が城主となり、城を大改修した。
天正18年(1590)7月、小田原は落城し、後北条氏滅亡すると、徳川家康は重臣井伊直政を12万石で、関東西北の固めとし、城下町も整備した。その後慶長3年(1598)直政が城を高碕に移し、箕輪城は約1世紀にわたる歴史を閉じた。 構造は、城の標高は270m、面積は47㌶に及ぶ丘城である。西は榛名白川の断崖に臨み、南は榛名沼、東と北とは水堀を回して守りを固めている。城は深さ10余mに及ぶ大堀切で南北に二分され、更に西北から東南の中心線に沿って深く広い空堀に隔てられた多くの郭が配置されている。また、多くの井戸によって城の用水は完備され、六カ所の「馬出し」があり、鍛冶場もあり武具など作製や修理をしたであろう。

 佐久郡の大井氏・平賀氏・内山氏・志賀氏らは戦わずに降伏した。
 この上杉軍には、海野棟綱や真田幸隆らも参戦していたと思われるが、長野業政は、諏訪頼重と和睦して、海野氏の旧領小県郡には入らず帰還してしまった。
 このことが、真田幸隆が上杉氏を見限り武田氏に臣従する遠因とされる。  
 海野氏の当主の海野棟綱は勢力を回復できぬまま歴史から姿を消すが、幸義の遺児らは武田氏に仕えた。棟綱と共に上州に逃れた一族の中には、真田幸隆のように後に武田氏に仕えて所領を奪還した者もいる。
 棟綱もひょっとすれば、幸隆によって抹殺されたのかもしれない。平安時代の以来の名族の当主の最期が不明というのは不自然なことであり、そこには何らかの隠蔽工作があったのではないか。それを行った人物こそ幸隆であったと考えられる。というのは、のちの永禄6年(1563)武田氏によって上州岩櫃城攻略が行われたとき、幸隆は武田氏の重臣として城攻めを敢行して、羽尾幸全入道は戦死し、羽尾一族は没落した。このように、幸隆は一族興亡のために恩人・肉身といえども容赦をしない非情な人物であったと考えられる。

 上野国(群馬県)高山村尻高に海野棟綱入道の碑が現存している。

碑面には、
真田海野本国信濃国 貞元親王後胤
伍玉五拾六代 海野行棟長子
清和天皇孫 海野古太良行氏
海野棟綱入道

 と鮮明に刻まれている。

 ところで、『加沢記』によると、「吾妻三原の地頭に、滋野の末羽尾治部少輔景幸という人があり、嫡子に羽尾治部幸世道雲入道、二男に海野長門守幸光、三男に海野能登守輝幸がおり、道雲入道は、傷害あり、舎弟二人は越後の斎藤越前盛に属していたが、斉藤没落のおり、甲府へ忠節あり、三原郷を取り立てられ、天正3年(1575)夏のころ、岩櫃の城を預けられ吾妻の守護代となり、輝幸の嫡子・泰貞は矢沢薩摩守頼綱の婿となった」とみえる。
 
 羽尾幸光と、その弟輝幸が海野姓を許されたことが棟綱に何だかの関係があるとされている。羽尾幸光・輝幸兄弟や宗家正統とされる海野業吉(海野幸義の長男)が真田幸隆に従い上州で参戦し、岩櫃城攻略に大きく貢献していることが鍵となるかもしれないが、海野宗家は完全に没落し去ってしまったとも言える。

 現在の長野県東御市にある興禅寺の境内に27代海野幸棟の碑が建立されている。
そこには次のように刻れてる。
「興禅寺開基 瑞泉院殿器山道一天大居士 大永4年(1524)7月16日」
なお、和歌山県高野山の蓮華定院の所蔵されている過去帳には「器山道天禅定門 信州住海野殿」と御証文がある。

上田原合戦

 武田氏の勢力は大きく後退し、佐久郡は上杉氏、小県郡は村上義清の支配することになる。信虎体制を継承した晴信は天文11年(1542)から信濃侵攻を再開し、7月に武田晴信は妹婿の諏訪頼重を滅ぼし、諏訪郡の勢力を併呑すると佐久郡を奪い返す。

 幸隆は天文12年(1543)武田家臣として、佐久郡岩尾城代となり、信州先方衆として活躍し始める。
 4月7日、武田晴信が高遠城を攻める。がしかし、高遠城主高遠頼継は、前日の夜に西の天竜川沿いの伊那の福与城主藤沢頼親に頼り、城を脱出し、城はもぬけの空となる。
 6月駿府の今川義元よりの援軍、板垣玄蕃一行と上原城に居る板垣信方の兵と合流し、小笠原長時の出城竜ケ崎城を攻めると同時に福与城も攻め落す。

 天文13年(1544)12月、祢津・望月等海野一族が来会して3百余騎となり、北佐久一郡を全部平定したので、信玄は大いにこれを賞し、幸隆に岩尾城を与えた。

 天文14年(1545)真田幸隆、小県郡の旧領松尾城に帰る。

 天文15年(1546)5月、武田晴信は前山城に入り、佐久郡内山城(内山城合戦)の大井貞清を攻め滅ぼす。翌天文16年(1547)8月、武田晴信が志賀城の笠原清繁を攻略し、また小田井原城など攻略した。
 上野国から上杉憲政の援軍が来襲するが、小田井原で迎え撃つ。武田方は板垣信方を大将として、飯富虎昌・上原昌辰とともに真田幸隆が参戦して勝利する。『小田井原合戦より』

 天文17年(1548)2月、甲斐を出発した武田晴信(後の信玄)は、雪の大門峠(現在長和町大門)、砂原峠(現在上田市塩田)を越え、総勢8千余の武田勢は倉升山(上田市創造館の裏山)の麓の御陣ケ入に陣を構えた。倉升山一帯には、武田方が陣をすえたことを物語る陣ケ入・御陣ケ原・兵糧山・相図山・物見山・味方原等の小字名が今も残っている。
 一方の村上義清は、武田晴信出陣の報に接するや、大老職の屋代政国・清野清秀・楽岩寺光氏に出陣を命じた。さらに、楽岩寺光氏をして高井郡の高梨政頼・井上清政、水内郡の島津規久等川中島四郡の諸将は無論のこと、上州(群馬県)の諸士にも出兵を促した。義清は家臣諸山上総介を上野国へ派遣し、上州の諸将の間を奔走させていた。さらに、義清は、上州と深い大井貞清を通じ、小林平四郎等の上州勢を味方に取り込んでいる。
 義清は、葛尾城に諸将を集め、武田の攻勢をどう迎え討つか評議した。
義清の老中に佐久郡志賀城の笠原清繁の縁者・親類が多く、志賀城陥落を怨(うら)み含みて、この弔い合戦を是非すべき、さもなくは村上家の武威を失う、直ちに出陣すべきと老中が奨(すす)める、義清はこれに賛同し出陣した。

 2月14日の夜明けにはまだ時がある寅の刻(午前3時)、村上勢は、楽岩寺光氏以下3千の兵を葛尾城に残し、義清以下7千余の兵は千曲川の北側に沿って南下し、上田の和合城(上田市岩鼻)に3百余の兵を残し、岩鼻口より渡河、浦野川を前に、天白山の麓の塩田川原に、産川を前にして陣を構えた。
 この日は、朝から細雨が降りしきり、夕方には、ミゾレに変わった。
 村上勢は、一陣に高梨政頼・井上清政・清野清秀等、二陣に須田満親・島津規久・会田清幸ら小田切清定・大日方平武等、左陣に室賀満正(信俊)、右陣に栗田国時、後陣は山田豊前・斎藤等が固めた。
 一方、武田勢は、一陣に板垣信方、二陣に飯富虎昌・小山田信有・小山田昌辰・武田信繁、右に諸角虎貞・真田幸隆、左に馬場信春、後陣は内藤昌豊、遊軍は原正俊の布陣であった。

 ようやく早春の気配が感じられ、太郎山に逆霧がおり、風が肌を刺すように冷たく、いつもなら東の方に秀麗な姿を見せる烏帽子岳も、厚い雲に覆われていた。真田幸隆は、武田晴信の家臣として出撃し、下之条から上田原付近で村上義清と激戦が展開された。この合戦を『上田原合戦』という。

 辰の刻(午前8時)ころ、武田方がまず行動を開始し、下之条付近で両軍が激突した。板垣信方が先陣を切り、3千5百の兵力で村上方の陣に突進し、つづいて小山田・甘利・才間・初鹿野の各隊も突入し、壮大な野戦を繰り広げられた。板垣信方は村上方の一陣を打ち崩し、首級150をとったと伝えられている。

 義清は、直ちに兵を繰り出し、村上勢は、板垣信方の陣を急襲する。不意をつかれた板垣勢は狼狽し敗走する。信方は床机に腰かけていたが、安中一藤太が槍をつけ倒れるところを、尾州浪人上条織部に首を取られた。

auto_OZhdTy.jpg板垣信方の墓(上田市上田原)

 義清は再度突撃する。これに対して武田方の馬場民部信房・内藤修理昌豊が左右から義清を挟撃し、諸角豊後が帰路を遮る。甲兵久保田助之丞が義清の馬を刺し、馬が驚いて棒立ちになり義清が落馬し負傷する。武田方の兵が群がり寄ってきて、義清は最早これまでと自害せんとするのを屋代源五が押し留める。そこへ、義清旗本14~15騎、雑兵40~50が駆けつける。従臣赤池修理亮は、義清を救い上げ、自分の馬を義清に授けた。そして一団となって石隅淵の方面から室賀峠を越え泉口付近(坂城町網掛)に兵を収容し、葛尾城に凱旋した。

 義清が戦場から引き揚げたので、晴信は、かろうじて陣を立て直すことができ、そのまま上田原に滞留した。武田方は、板垣駿河守信方をはじめ、甘利備前守虎泰・初鹿野伝右衛門・才間河内守等名だたる将を含め、7百余が討たれた。
 一方、村上方も、また、大将の義清が負傷、屋代源五基綱(父は屋代正国)・小島権兵衛重成・雨宮刑部正利・西条義忠・森村清秀・若槻清尚・中里清純等名のある武将も討たれ、3百数十人が戦死するなど、大きな打撃を受けた。

石久摩神社の本殿裏に武田方・村上方の武将の墓という五輪塔、周辺には上田原合戦での無名戦死者の墓と思われる石積みが残っている。

村上義清が生れたのは文亀元年(1501)で、父は葛尾城主(現在の埴科郡坂城町)顕国、母は室町幕府管領(将軍を補佐して幕府の政務を総括する役職)の斯波義寛の娘で、家臣の出浦周防守国則の妻が乳母と言われている。幼名は武王丸、正室は信濃守護の小笠原長棟の娘で、子に村上(山浦)国清がいる。

 この板垣信方(始祖は甲斐源氏の板垣三郎兼信で延徳元年(1489)生まれ)は、武田信虎・信玄の二代に仕えた武田家の重臣である共に、傳役(ふやく・教育係)として若き日の信玄を支えてきたことから、信玄から大きな信頼を得ていたと言われている。天文11年(1542)の諏訪攻略については副将として采配を振るい、その後、諏訪郡代となり信玄の信濃攻めの中心的な役割を果たした。戦いで敗れた武田軍は、石久摩淵台上で漸く陣を立て直し、旗塚一帯で両軍は再度戦うも決着がつかず、上田原に布陣したままでいたが、天文17年(1548)3月5日、武田軍は諏訪上原城に移動し、地元に帰還した。
 7月10日、武田軍は古府中の躑躅ケ崎の武田館を出発し、15日に甲信国境の小淵沢で休息する。7月19日、寅の上刻(午前4時)奇襲作戦に出て、塩尻峠に信濃守護職小笠原長時本陣へ総攻撃を開始した。
 9月1日、北佐久郡の田の口城を奪回して、小山田信有らを救出し、前山城を押さえて、捕虜を、5日後に甲斐黒川金山へ人夫として送り込む。また、佐久尾台城主・尾台又六謀叛(むほん)する。

 天文18年(1549)3月、真田幸隆は望月源三郎・望月新六ら一族を武田氏に服属させ、蘆田(あしだ・依田新左衛門)・伴野氏らも武田方に降る。4月、武田晴信が佐久春日城を攻略。7月、小笠原長時が武田方を急襲(塩尻峠合戦)したが、武田晴信は迎え撃つ。9月、武田晴信が佐久前山城を攻略、平原城を焼く、真田幸隆参戦する。

戸石崩れ

 天文19年(1550)7月初旬、武田軍は小山田信有らと諏訪郡へ出馬、10日諏訪を経て筑摩の馬場民部殿が築いた村井城に入り、小笠原氏の属城の攻略を督励した。
 武田軍は、先ず15日深志(後の松本城)の出城なる戌亥城(いぬいしろ)を猛攻して、これを占領、ついで信濃守護職城主・小笠原長時の林城をはじめ深志・岡田・桐原・山家・島立・浅間の諸城を攻め落とし、小笠原長時は逃亡する。安曇野の豪族仁科道外も降伏した。
 晴信は19日深志城へ入り、馬場民部信春を城代に任じ、下旬には一旦諏訪へもどり、兵糧を備え出陣する。

 8月29日、武田晴信は陣馬山に本陣を構える、大兵を率いて村上氏の戸石城を囲む、戦闘を始める前の行事である「矢合わせ」が行われた。

 9月3日、戸石城へ本陣を寄せた。
 9月9日午前6時、武田軍の総攻撃が始まった。20日間にわたって攻撃は続いたが、横田備中守高松の死が報じられた。それと同時に大将を失った甘利隊・横田隊がどっと崩れて陣形は、たちまちのうちに混乱を極めた。
 11日、小尾豊信が身代わりとなり討死する。
 城攻めの手詰まりから武田軍は陣形を立て直して策したが、功を秦せず、敗色が濃くなってきた。
 信玄は、一戦の小山田隊と後陣の両角隊に連絡を取り、全軍一丸となって、村上軍に当ることを策した。このとき勘助は、敵陣を混乱させさえすれば、あとは信玄の若さと捨て身が、味方の陣形を立て直すだろうと考えた。
 勘助の作戦と活躍で、信玄方は、危うい急場を凌ぐ(しのぐ)ことができた。

 10月1日、早朝から武田軍は退却を始めた。これを見て取った義清軍は、直ちに追撃を始めたので、武田軍は大きな犠牲(小山田備中守信有が討死する)を払いながらの退却となった。
 この時、真田幸隆は、村上家に属する川中島平の須田新左衛門氏・寺尾氏・清野氏(苅谷原氏が後に川中島の清野と大塚に分家)・春原氏らを味方にすることに成功する。
 村上義清は、高梨政頼と手を組み、武田に寝返った清野氏の寺尾城を攻め、この知らせに驚いた幸隆は、晴信に急報し、自らは寺尾城救援に赴く。11月1日、攻囲一カ月に及んだが、落城させることができず、囲みを解いて退却した。

 真田幸隆は、善光寺平へ進んで村上義清の背後を攪乱していたが、急遽(きゅうきょ)晴信の本陣に帰り、状況の急変を告げた。それは北信濃の反乱を鎮めた義清が、全力を奮って戸石城攻めの救援に来るというものだった。
 砥石城攻めは、完全に失敗であったが、晴信は、機を逃さず戦場を離脱したのである。
 この退却は、幸隆の献策により、武田晴信より諏訪形1千貫文の地を与えられる。

 天文20年(1551)5月20日、武田軍が引き上げて行ったので、義清は戸石城にわずかな兵を残して本隊を引き上げた。
 この有様をじっと見ていた真田幸隆は、戸石城を守る義清軍に手をまわし、城中に何人かを味方につけ、その中の矢沢氏は、武田氏に内応し、火を樓櫓に放ちてから敵を導いき、頃合いを見計らって攻撃を仕掛けた。
 要害頑固な戸石城も、真田幸隆の天才的な知略によって、砥石城は殆ど一兵も損ずることなく不意を襲って「乗っ取る」という形で落城させてしまったのだ。

 7月25日、武田晴信が信濃に出陣する旨を飯富虎昌が真田幸隆に連絡するが、これは飯富虎昌と上原昌辰宛ての武田晴信の書状であり、晴信が小県へ出馬する旨を真田方にも伝えてくれとあって、小諸城主飯富虎昌・内山城主上原昌辰と同列に扱っていることから、真田幸隆の武田家臣としての地位が固まってきたことが明らかである。

 9月、内山城代上原伊賀守昌重が、先に討死した小山田備中守昌行の名跡を継ぎ、小山田備中守昌辰と名乗る。

              auto_GhPNMm.jpg砥石城跡

戸石城(標高800m)の支域ともいう米山城(村上義清公の石碑がある)には、有名な白米城伝説がある。武田信玄は戸石城を猛烈に攻め、ついに水の手を断った。守る村上義清勢は、白米を馬の背に流して洗うふりをし、遠目には水がいくらでもあるように見せかけた。こうして信玄の猛攻を防ぎながら、義清は城を捨てて越後へ落ち延びて行ったという。米山城は戸石城から続く尾根が上田方面に突出した地点にあり、上田盆地が一望できる見晴らしの良いところで、ハイキングコースとしても親しまれている。今でも少し地面を掘れば焼き米が出る。この焼き米は、籾のまま煎った兵糧ではないかと言われている。

川中島合戦がはじまる

 天文22年(1553)4月9日午前8時ころ村上義清は、武田方の勢いを見て戦わずして葛尾城を逃れ、長尾景虎(上杉謙信)を頼って越後へ落ち延びた。その後義清自身も一騎打ちで有名な永禄4年(1561)の川中島合戦などに従軍して、旧領の回復を目指したが、結局意図は達成できず永禄8年(1565)に越後の根知城主(現在の糸魚川市根知)となり、嫡男の国清は上杉謙信の養子に迎えられて、山浦景国と改名、上杉一門となる。

村上義清は武田氏によって攻撃され、居城が消失した。義清の夫人は逃れて千曲川の岸に至り、お金をもっていなかったため、お礼に自分の笄(こうがい・櫛)をとって船頭に与えて川を渡った。しかし武田軍に取り囲まれ、夫人は逃れることができないのを悟り自刃した。後に夫人の霊を祀って石の祠を建立された。これが有名な「笄の渡し」伝説である。

 義清は元亀4年(1573)に亡くなり光源寺(現在の上越市)に埋葬された。義清の墓所は坂城町にもあるが、根知城下の根小屋の安福寺(糸魚川市)に五輪塔もある。このほかにも新潟県津南町や上水内郡飯綱町にも墓があり、それだけ義清が慕われていたという証かも知れない。

村上義清の墓は、第3代坂木代官長谷川安左衛門利次が名家遺跡が失われないよう、明暦3年(1657)義清公の孫義豊や村上氏の臣出浦氏の子孫、正左衛門清重らに図り、自ら施主となって出浦氏所有の墓地に、義清公供養のための墓碑「坂木府君正四位少将兼兵部小輔源朝臣村上義清公神位」を寄進設立した。その後、寛保2年(1742)清重の子清平が玉垣を築き、寛政3年(1791)清平の子清命が、石柱「御墓所村上義清公敬白」を建てた。昭和45年以来諸整備補修が行われ、昭和47年墓碑の上屋と鉄柵が設置された。平成8年には全面的改修となり、現在の諸施設となった。

 ここでも真田幸隆は大須賀氏を調略しており、幸隆の活躍が大きかった。
真田幸隆は、戸石城の普請の実務担当を務めた。また幸隆は、仏門に入り、一徳斎良心と号す。

 上杉謙信(長尾景虎)は、川中島に出兵し、天文22年(1553)4月22日、甲越両軍最初の衝突(川中島合戦の始まり)武田軍は後退し、義清は旧領を恢復して、小県郡塩田城に立て籠もる。
 8月5日、武田信玄(晴信)が塩田城を落とし、義清は城を棄てて越後国へ逃亡。
 8月10日、真田昌幸(11歳)を人質として甲府へ送り、代わりに上田秋和350貫文の地を与えられる。
 9月、信玄が再び川中島に出兵、各地で武田軍は戦う。9月20日、上杉謙信は一定の戦果を挙げたとして越後に引き揚げた。信玄も10月17日に甲府へ帰還した。

 天文24年(1555)4月、川中島合戦激戦開戦。

 弘治元年(1555)7月、川中島合戦二回目の対戦。対陣4カ月におよび、10月15日駿河国の今川義元の仲裁により休戦、両軍和睦して撤退する。武田軍は諏訪に退く。11月6日、諏訪の湖衣姫は、逝去する。享年25歳。
 弘治2年(1556)9月8日、信玄が真田幸隆に、その攻略を即し、埴科郡東条の雨飾城を攻め落して、城将となる。
 弘治3年(1557)2月、武田軍が葛山城(善光寺裏の山)を落とす。
 4月、謙信が信濃に出陣し、川中島合戦は三回目も対陣する。
 永禄元年(1558)4月、幸隆が小山田昌行と共に、東条(雨飾)籠城衆に定められる。
 永禄2年(1559)5月末、長延寺の実了僧都に越中の一向宗門徒をまとめてもらう約束。岐秀大和尚により出家し、薙髪して晴信改め法名信玄を授かる。
 永禄3年(1560)、羽尾入道・海野長門守幸光は鎌原の砦を攻め、鎌原敗れる。鎌原宮内少輔筑前守幸重父子平原において信玄に出仕する。
 この頃、幸隆を通じて上野の海野一族は信玄に随順する。
 また、海津築城に幸隆も助力する。
 永禄4年(1561)5月、真田幸隆は西上野に出陣する。
 8月真田幸隆岩櫃城を攻める。
 8月23日、上田原古戦場にて敵前法要し、1万6千余兵力で海津城へ向かう。
 8月29日、上杉軍は兵1万8千をもって妻女山に陣をとる。
 9月8日夕方雨、9日晴れ、夜半から10日の夜明けにかけて、濃い霧が発生する。
 21日、四回目の川中島合戦が激戦となる、真田幸隆・信綱父子は武田方の将として、この川中島合戦に参戦する。真田幸隆・信綱・昌輝・昌幸父子は、妻女山を攻める。
 これが、有名な武田信玄(武田晴信)と上杉謙信(長尾景虎)の一騎打ちとして伝えられる。

 小諸市滝原の萩原秀市氏の所蔵文書で、先祖の萩原又左衛門が武田大善大夫晴信から永禄4年に受け取っていて、小諸市内の個人所有では一番古い貴重なものであると語られている。「此の度、信州川中島合戦の砌(さい)、早速、駆付、抜群の働きにより弐百貫匁を處下され候也」とある。
弐百貫は、江戸期では「壱貫は10石であるから」壱貫×二百倍となり、米10石は20俵であるので、20俵×二百倍、そんなに大量を受領したのか?
当海野でも同様に、小県郡海野(現在の東御市本海野)の所伊賀守も武田信玄よりの古文書を所有している。「永禄4年8月29日午刻於信州川中島合戦の砌、敵首二ツ討取候段………神妙ノ至り………」法性院徳栄軒信玄から所伊賀守宛となっている。
この8月29日に所伊賀守は川中島に於いて抜群の戦功を挙げている。
この合戦では、甲軍死者4千5百人、負傷者1万3千人であり、越軍死者3千6百人、負傷者6千人とも伝えられている。
その数年後に、所伊賀守は三増峠(神奈川県)の戦いの戦功による文書を受領している。
それは元亀元年(1570)8月の文書には「今18日相州三増峠過日の働きにより、信州小県郡の内……宛行うもの也」馬場美濃守奉之とある。
北条勢は三増峠の頂上付近に陣取り、夜明けと共に進軍を開始した武田の本隊は、馬場隊を先頭に勝頼隊・荷駄隊・浅利隊が後続して、峠の坂道を南方から登って、激しい銃撃な激戦となるが、武田勢は動きを止めず、馬場隊は多くの死傷者を出すが、北条勢は総崩れとなる。

上州海野氏の戦い

 永禄2年(1559)3月、羽尾長門守海野幸光は、大洞山雲林寺(曹洞宗、安中の青木山長源寺末)を創建する。
 9月、信玄は、兵1万2千を率いて二度目の上州進攻を行い、安中・松井田を攻略して、食料である稲を刈り払い、箕輪城を急襲したが難攻不落のために遂に囲みを解いて退去した。
 10月、岩櫃・武山の領民が小野子庄に逃散する。信玄は倉内城(沼田)に入る。

 永禄3年(1560)、羽尾道雲入道(幸全)、海野長門守幸光が鎌原の砦を攻める。
 鎌原敗れる。鎌原宮内少輔筑前守幸重父子は、幸隆の斡旋により、信州平原において信玄に謁(えつ・お目通り)す。
 8月、謙信は、厩橋城(前橋市)に入り年越しする。

 永禄4年(1561)5月、幸隆は西上州に出陣する。
 6月20日に、長野業政が卒、遺骸は秘かに富岡の良純寺の後山に葬られ、実相院一清長純と追号した。
 8月、武田信玄は、真田幸隆(松尾城主)・甘利左衛門尉(小諸城主)を大将とし、旗本検使として曽根七郎兵衛を命じ、その他信州勢・芦田下総守・室賀兵部大夫入道・相木市兵衛尉・矢沢右馬介・祢津宮内太夫・浦野左馬允ら総勢3千余騎をつけ、大戸口、三原口の両手に分けて岩櫃城へと攻め寄せた。(第一次岩櫃城攻略)
 これに対して岩櫃の斎藤憲広は、人の和を失って全く勝算なく、善導寺の住僧を仲に和睦する。
 鎌原・羽尾両氏の境界線を信玄が定めて、双方が和睦した。

 10月、羽尾道雲入道(幸全)は、海野長門守幸光の兄弟を中心に、富沢加賀守康運・湯本善太夫・浦野下野守・同中務太夫・横谷左近将監ら6百余騎を味方に誘い、鎌原城の要塞に押し寄せた。
 岩櫃の斎藤憲広によって鎌原城は攻め落され、羽尾幸全が斉藤方として城代となる。
 これに対して、兼ねてこの事を知っていた鎌原幸重は、嫡子筑前守を赤羽根の台に出し、西窪佐渡守を大将として家の子今井・樋口を鷹川の古城山へ差し置いて、幸重自身は鎌原城にあって指揮に当たり、真田幸隆は、甘利昌忠とともに鎌原城を奪還する。

岩櫃城は、岩櫃山(標高802m)の中腹にあり、鎌倉時代初期のころ吾妻太郎助亮により築城されたと言われている。城郭の規模は1.4㌔㎡で上州最大を誇り、甲斐の岩殿城・駿河の久能城と並び武田領内の三名城と言わせている。徳川家康の一国一城令が慶長20年(1615)に発されにより400余年の長い歴史を残し、その姿は消えた。

 永禄5年(1562)3月、甲府から三枝松善八郎・曽根七郎兵衛、信州から室賀入道を検使として現地で羽尾・鎌原の境界線を定めた。
 信玄の検使に羽尾入道は、不満を示し、斎藤憲広(斉藤太郎越前守一岩斎)に訴えてきた、憲広は熊川境界を不当として、山遠岡与五右衛門尉・一場右京進の両名を使者として鎌原幸重に伝えたが安否にかかわる重大事であるととして拒否をした。鎌原同地を引き払って小県郡浦野領地を信玄に同高の地を与えられる。かくして鎌原の領地は、そのまま羽尾の手中に入る。
 10月、突然、鎌原城を引払って、一門はことごとく信州佐久郡へ退去してしまったので、羽尾道雲入道(幸全)は鎌原城に入る。
 信玄は翌年3月、甘利左衛門尉(小諸城主)を以って鎌原の許へ、羽尾領と同等の土地を、小県郡浦野領内に与える。
 かくして鎌原の所領は、そのまま羽尾の手の中に入ったしまった。永禄6年(1563)3月、三原荘をめぐって鎌原氏と羽尾氏との争いが再燃する。6月、羽尾道雲入道(幸全)は万座の湯(万座温泉)へ湯治中であり、入道の嫡男源太郎も岩櫃城へ伺いて留守であると鎌原の百姓から報告されてきた。
 真田幸隆は、祢津覚直・甘利左衛門尉らと少々加勢を付けて鎌原へ向かった。この時、鎌原城には、羽尾の留守兵僅か50~60人程いたが、これを聞くと城兵は早々に城をあけて逃げ去った。
 鎌原幸重は、一戦も交えず、一兵も損なうことなく鎌原城を奪い返すことができた。
 羽尾道雲入道は、6月下旬万座の湯から山を越え信州高井の郷(上高井郡高山村)へと落ちて行った。どうすることもできないことから、越後の上杉謙信に援軍を求めた。武田と上杉の争乱への戦火となる。

 8月下旬のこと、岩櫃城内において斎藤憲広は、作戦会議を開いて、「鎌原氏を討つ」と計ったところ、同意を得て、早速一門である中山城主・中山安芸守を使者として沼田城に派遣した。
 沼田城主・沼田憲泰は快く受けたので憲広は大いに喜んで、鎌原を攻め滅ぼす決意を固めたのである。

 9月、信州高井に落ちた羽尾入道は、鎌原老臣・樋口次郎左衛門を利用しようとして、岩櫃城の憲広からも弟海野長門守を使者として、「お前の城主鎌原を打ち取ったなら鎌原幸重の所領はそっくり樋口に与える」このことを伝え、全面同調することになった。
 樋口は、早速高井にいる羽尾入道に「大前の辺で、自分は白馬で、鎌原宮内幸重は黒馬で出陣するので、これを目標に鉄砲で射殺するようにと、詐謀をこまごまと書いた」密書を送った。
 ところが、鎌原の黒馬は、膝を折ったので、樋口は仕方なく自分の白馬に乗換えて進軍した。入道は、予ねての通り、鉄砲の上手な猟師を雇い、物陰で黒馬めがけて鉄砲を放った。弾は樋口の胸を貫通し、従う者も、その場で射殺された。
 入道は、黒成馬の鎌原を打取った。白馬に跨る大将樋口だと思い、弓や鉄砲をしまい、弁当を出して酒盛りをしようとする所へ鎌原勢が一度に、どっと押し寄せたので羽尾勢は、右往左往して、敗れて平戸川へと落ちて行った。

 9月下旬のこと、斎藤憲広は、越後上杉家の後ろ盾により長野原城へ進軍、長野原の合戦で真田幸隆の弟常田新六郎俊綱は、城代として守っていたが須川橋近くの諏訪明神の前まで出向いて防いだが羽尾と戦って討死し果てた。
 真田幸隆は、岩櫃城を攻めていたが、戦局は思わしくなく和議を余儀なくされる。
 羽尾幸光と羽尾輝幸の兄弟が武田方に内応する。
 真田幸隆は、羽尾幸光と羽尾輝幸の兄弟の助力により斎藤実憲を調略する。

 10月13日、真田幸隆は再度(第二次岩櫃城攻略)、上野国吾妻郡の岩櫃城攻めをする。斉藤憲広の甥・斉藤弥三郎は岩櫃城にいて、憲広の居館に火を放ち、木戸を開いて真田軍を導いたので城内は大混乱となり、家臣が真田軍を防ぐ間に憲広と嫡男憲宗は岩櫃城を脱出して嵩山城へ向かったが、幸隆の次男・昌輝の軍がいたので、嵩山城へは入れず越後へと逃れた。
 岩櫃城突入に矢沢頼綱も参戦している。憲広の次男・四郎太夫憲春と一騎打ちをし、不動谷の南の野場で見事に打ち取った。
 祢津元直も、この時幸隆の重臣として活躍している。
 岩櫃城主・斎藤越前守入道は上杉謙信を頼って越後へ落ちた。
 岩櫃城を鎌原幸重と湯本善太夫に城代として任せることになった。

 11月27日、鎌原宮内少輔幸重は、甘利・祢津両氏の加勢を得て、その兵力3百騎、夜襲に乗じ恨みの敵である羽尾入道の館を急襲した。入道は、手勢僅か50~60人の手薄で、雪の夜の急襲であったので、妻女を連れて夜半を徒歩で須賀尾峠を越えて命からがら大戸の館へたどり着いた。大戸真楽寺の妻は入道の妹であった。深い雪と嵐に手足は凍傷におかされ、やっとのことで明けがた逃げ延びたが、その後の消息は全く不明であり、あわれな末路であった。

 真田幸隆は、吾妻郡の守護のために、鎌原宮内少輔・湯本・三枝松を岩櫃城代とした。 
 永禄7年(1564)、1月海野長門守幸光・海野能登守輝幸兄弟は真田幸隆のお預けとなり、信州小県郡・佐久郡の内、少々の土地をもらったに過ぎなかった。
 鎌原宮内嫡男筑前守は甲府の信玄に年始に伺う。
 3月、幸隆は上野長野原に出陣、(真田一徳斎の号が初見)引き続き、武田晴信は海野・祢津らと共に真田幸隆を上野に在陣を命じる。この方面の将として計略に務める。
 10月には、岩櫃城を落とす。

 永禄8年(1565)11月、仙蔵の砦に陣をした幸隆は、真田氏に就いた植栗・冨澤らを先鋒隊として、嵩山城(たけやまじょう)攻撃を開始。五反田台というところで両軍が七度に及ぶ戦闘を繰り返したが、斉藤憲宗の子の城虎丸と斎藤軍は、次第に真田軍に押されていき、嵩山城に立て籠もっていた。
 幸隆は、嵩山城を四方から包囲して、五反田台の戦いから7日後の17日に夜襲を決行、真田軍は大手一の木戸口を攻め破り、火を放った。火が燃え上がるなか斎藤憲宗は観念し、腹を十文字に掻っ捌いて自決し、弱冠18歳の城虎丸は天狗の峰にかけ上って、真田軍をめがけて身を投じている。これを見ていた兵士と女たちも、次から次へと岩上から飛び降り、悲壮な最期を遂げたている。嵩山落城により、吾妻郡の最大勢力を誇っていた斎藤氏は滅亡し、真田氏は吾妻郡を支配下に収める。
 幸隆は、正面きっての攻めでは落とせず、内部工作を用い、憲宗と斎藤憲広の家老である池田重安佐渡守を内応させて、城内の動揺を誘って嵩山城を攻め落したという。
 また、嫡男・信綱が陣を置いたところは「陣平」という、それが地名として現在も残っている。矢澤綱頼は、嵩山城合戦では前線には出ず、岩櫃城の守備に付いている。これは、上杉の白井・沼田衆の来襲に備えていたためである。

 永禄9年(1565)、羽尾幸光と羽尾輝幸の兄弟が岩櫃城代となり、吾妻衆70騎の与力と城を守ることとなった。
 武田晴信が嫡男武田義信の謀反の疑いありとして、自害を命じる。
この時晴信は、家臣団の動揺を防ぐために、ほぼ全域の家臣団から起請文を徴収した。
 この中で真田氏に関係ある地域では、小県郡で室賀信俊・海野幸貞・祢津政直・祢津直吉・望月信雅・依田信盛・小泉一族、吾妻領では、浦野幸次、海野衆では、真田綱吉らの名前がみえる。
 昌幸(武藤喜兵衛の)長男信之が生れる。
 9月29日、幸隆が上州箕輪城攻め落城し、長野氏は滅びる。

 永禄9年(1566)、鎌原・浦野・湯本・西窪・横谷・植栗の6氏だけは幸隆の直属とし、その他富沢以下70余騎を配下として海野兄弟は岩櫃に居住し、吾妻郡代となる。

海野輝幸の子・幸貞は、武田信玄に仕えて三河守と称す。

 永禄10年(1567)3月6日、真田幸隆は、上杉一族長尾憲景が籠る白井城(群馬県子持村)を攻略する。白井城攻略に関しては永禄8年から元亀3年までの間で諸説はあるが、11月23日白井城代を勤めていた祢津政直宛てに武田晴信から知行があてがわれている。
 昌幸(武藤喜兵衛の)次男信繁(幸村)が生れる。

永禄10年(1567)8月、武田領の家臣団が晴信に提出した起請文には海野氏関係として、三河守幸貞の単独のもの、信濃守直幸・伊勢守幸忠・平八郎信盛の連盟のもの、「海野被官」として桑名・塔原氏ほか5名連記のもの、「海野衆」として真田綱吉(真田幸隆の兄)・神尾房友ほか12名連記のものがある。海野衆の中には幸義の嫡男左馬允幸光(業吉)の名も見えている。

 永禄12年(1569)10月12日付の武田氏竜宝朱印状による軍役定書の宛名は海野衆である海野伊勢守・海野三河守の連記となっており、小県郡の海野氏とみても、有力な海野一族と思われる。傍系かも知れないが、なお数家の海野氏が存続していたことを示すものであろう。

 元亀元年(1570)このころ、真田信綱は上野の最前線を守る。
 4月、信玄は春日虎綱(高坂弾正)に後の事を、真田信綱に託して伊豆侵入の武田軍に加わるよう命ずる。

 元亀3年(1572)3月、幸隆が計略で上野白井城を落とす。信玄がそれを賞し、箕輪城に在城して春日虎綱(高坂弾正)の支持を受けるよう命ずる。
 三方ケ原合戦で武田晴信は、徳川家康を破る。晴信は、川中島地方からの逃亡者の逮捕を、小県の諸領主祢津松鴎軒(常安政直)・真田信綱・室賀大和入道・浦野源一郎・小泉昌宗らに命じる。

 天正元年(1573)3月、白井城が上杉軍のために奪われる。幸隆は引続き、上野で上杉方と戦う。4月12日、武田信玄が三河より帰陣の途次に病に倒れて、伊那郡駒場で死去した。(法名 恵林寺殿機山玄公大居士 53歳)

 天正2年(1574)5月19日、真田一徳斎幸隆が戸石城で病死する(永正10年(1513)に生まれ) 法名「笑傲院殿月峯良心大庵主」 享年62歳(高野山蓮華定院過去帳)
長子真田源太左衛門信綱が家督を継ぐ。38歳。
 11月、信綱が四阿山別当職を安堵される。 

 天正3年(1575)5月21日、長篠の奥平信昌が徳川家康に寝返ったために武田軍は三河まで出陣している。
 武田信実(信玄の六男)が守る鳶ケ巣山の砦が酒井忠次に奪われ、設楽原に押し出された形となった、この設楽原決戦場の柳田集落の住民にも武田氏は手をのばしておいたので、いざという時は必ず味方になってくれると武田方は思っていた。
 戦いの準備が始まると、この土地の者は織田・徳川連合軍の人夫になって、堀を掘ったり、柵を造ったりしていた。
 決戦の日、戦いが武田軍に不利になり、やがて武田勝頼軍は、織田信長・徳川家康の連合軍と三河長篠城(愛知県鳳来町)に戦って壊滅的な敗北を喫した。
 これが世にいう「長篠の合戦」という。
  
 設楽原では真田源太左衛門尉信綱・真田兵部丞昌輝の兄弟は右翼隊に属し、穴山信君・一条信竜・馬場信房・土屋昌次らと共に、かねてから今日の戦いを必死と思い極めていたから、少しもひるまず奮戦して織田陣地を攻撃したが、遂に古戦場の三子山で真田信綱・昌輝兄弟の他に一族の常田図書・祢津神平(桂林院殿月岑常圓居士)・鎌原筑前その他宗徒の家臣らと共に、乱戦の中で討ち死にする。現在その場にひっそりと墓(愛知県新庄市八束穂)が建っている。その墓碑は一基で、真田信綱・昌輝兄弟の名が刻まれている。墓は、今でも宮脇の安済久夫氏がお守りしている。

 信綱の首は、徳川の士、渡辺半十郎政綱がとったという。
 信綱は、武勇抜群で武田信玄・勝頼両代にわたって功績が多かった。
上田市真田の信綱寺には信綱の墓がある。
 山門に桜の古木があり、長篠の戦いで討死した信綱の首級を、その臣、白川勘解由兄弟が持ち帰り、ここに埋めて殉死したと伝えられている。
 その後、寺の裏山に改葬して、立派な墓を建立した。
 宝篋印塔二基があり、一基は信綱のである。他の一基は妻のものと言われているが、妻の墓は別の寺にあり、昌輝のものとも言い切れないとのことである。本堂には信綱の鎧の胴、首級を包んできたという白川勘解由の陣羽織・白絹地の背旗などが宝蔵されている。

 渡辺半十郎政綱が取ったほどの乱戦であったとすれば、弟の昌輝の首を兄信綱のものと誤認したのではないかとさえ考えられる。
昌輝の墓は、設楽原だけということになる。

 信綱は享年39歳、(法名 信綱寺殿大室道也大禅定門)
 昌輝は享年33歳、(法名 嶺梅院殿風山良薫大禅定門)
 三男昌幸は、信綱に代わり、武藤家を辞して真田姓に復し家督を継ぐ。

 10月、昌幸が河原隆正(母の兄)に真田町屋敷年貢を宛行う。
 11月、昌幸が四阿山別当職を安堵される。
 勝頼が長篠で戦死した望月昌頼の家に、武田信豊の女を養子とし、望月の家督を継がせる。

上州海野氏の滅亡

 
 auto_WMME7J.jpg役野家系図(真田・海野兄弟を中心として)
 
 海野兄弟は真田の一族で、父は羽尾景幸といい、三原庄羽根尾に移住していた。長男は羽尾幸世、二男は海野長門守幸光、三男海野能登守輝幸、四男を郷左衛門、女は大戸真楽斉の妻となった人で五人兄弟である。幸光は永正4年(1507)生まれ、輝幸は同7年、信州海野郷に生まれた。
 海野兄弟は、非常に勇猛な侍で、特に輝幸は強弓をひき、荒馬をよく乗りこなし、日本武道史にも名のある新当流兵法の達人と言われている。

 海野兄弟は、永禄初年(1558)のころより上州岩櫃城主斉藤憲広に仕え、岩櫃城うちに屋敷(現在残る殿屋敷は長門守の屋敷址という)を与えられていた。永禄6年(1563)10月斉藤氏滅亡後は甲斐の武田に属し、武田氏滅亡寸前までの約16年間、波乱多い乱世を息抜き、その生涯を真田氏のために捧げた。

 長兄の入道は、11月末大戸城に逃げている。
 そして、永禄9年(1566)に幸光・輝幸兄弟は岩櫃の城代となり、武田氏に属し真田幸隆の配下についていた。長門守幸光は、修験道に帰依して福仙院と号し、金剛院の法弘法師に師事していたという。
 幸光は、深く仏教に帰依し、敬神の念も厚かったことは下記の事例を見てもうかがえる。
 (1)長野原町雲林寺・羽根尾宗泉寺の両寺を建立している。
 (2)鳥頭神社(矢倉)に鰐口奉納 武田氏に忠誠を顕すためである。 

 天正2年(1574)2月、戸石城にて真田一徳斎入道幸隆が病死する。信綱が家督を継ぐ。(法名 一徳斎殿月峯良心大庵主) 享年62歳。真田山長国寺に葬する。

 天正3年(1575)5月、長篠の戦で、武田勝頼は大敗し、真田信綱・昌輝が戦死し、昌幸が家督を継ぎ、砥石城に入り吾妻郡代となる。
 羽尾長門守海野幸光が小滝山宗泉寺(曹洞宗・雲林寺末・長野原町羽根尾乙301)を開基する。

 天正4年(1576)3月、昌幸が上野榛名山に禁制を掲げる。
 4月、昌幸が、上州勢多郡那淵城を攻め取り、続いて名胡桃・小川をはじめその他の諸城を攻略する。
 北条氏政の上野侵略を武田勝頼に報告する。勝頼が北上野の防備を厳重にさせる。海野長門守(羽尾幸光)・能登守(羽尾輝幸)兄弟は、昌幸に属し、昌幸は岩櫃城主となり、真田家を継ぐ。
 天正5年(1577)8月、武田勝頼が昌幸の手紙に答えて織田信長の行動が活発なことを告げる。

 天正6年(1578)3月19日、上杉謙信が死に、景勝・景虎両養子の間に争い(御館の乱)が起こる。勝頼は景勝を応援する。
 越後が乱れると、上州方面への上杉方の圧力が弱まっていたのに乗じて、昌幸は上州への計略を進める。

 天正7年(1579)2月、勝頼が昌幸上野石橋郷の内一軒分の諸役を免ずる。
 3月17日、昌幸は、上野吾妻郡の地侍羽尾幸光らに上野中山城と尻高城を奪い取取られたと報じる。
 6月、幸隆の活躍によって吾妻郡を統治した武田氏も、沼田城奮取を最大の目標に掲げていた矢先に、北条氏政の攻撃により、沼田城(上杉氏方の藤田信吉城主)を接取される。
 昌幸は、利根川を挟んで沼田城と対峠している名胡桃・小川・川田の諸城を落とし利根川以西の人たちを傘下にする。

 天正8年(1580)1月、昌幸は、利根川を渡り前線の明徳寺を攻め落し、沼田城にじわりじわりと圧力をかける。
 2月、昌幸が僧某に上野倉内を手に入れたら所領を与えようと約束する。
 3月、昌幸が高野山蓮華定院を前々のように真田郷住民の宿坊と定める。
 4月、矢沢頼綱が沼田城を攻め、城内にいた金子美濃・渡辺左近允・西山市之丞等が降伏し、それを甲府に出張中の昌幸に報告、勝頼は頼綱の戦功をほめ(これを賞して勝頼が頼綱に宛てた感謝状が今も残っている)、昌幸をすぐに帰城させることを知らせる。この後、昌幸は引続き沼田城の攻略に従う。
 4月26日、昌幸は沼田城潜入を田村角内に命じ、籾50俵を与える。
 5月4日、昌幸は沼田城を攻略するとため、主将に矢沢頼綱を任命する。
城主藤田信吉は降伏の意を示して、沼田城を昌幸に明け渡す。
 続いて、上野猿ヶ京城三ノ曲輪に放火した中沢半右衛門に荒牧10貫文を宛行う。
 この頃、昌幸の陣容は約4千人と言われるが、後に松代藩の重臣となった家臣の主なものは次の通りです。(加沢記)
 湯本三郎右衛門・木村戸右衛門・大熊五郎右衛門・河原左京・高梨兵庫 
 助・木村勘五左衛門・鎌原宮内・矢野半左衛門尉・白倉武兵衛・赤沢常隆
 介・出浦上総介・宮下藤右衛門。
 昌幸は、また上州名胡桃城の鈴木主水などを味方に引き入れることにより名胡桃城と小川城の攻略に成功する。
 沼田城主藤田信吉が武田方に降る。
 昌幸は、降状した藤田信吉をそのまま城代として残し、目付役として海野能登守輝幸を含む四人を城代として任命した。

 5月23日、昌幸は勝頼の命により、沼田城在番の海野幸光らに軍令を与える。
 6月、森下又左衛門に沼田領のうちで領地を与えると約束する。
 9月、勝頼が金井外記に、上野名胡桃50貫を宛行う。昌幸これを奉る。
 
 天正9年(1581)昌幸は、内応した須田新左衛門に南雲20貫文を与え、また屋敷地などを安堵する。  
 3月、会津に逃れていた沼田景義は由良・太胡両氏の支援を受けて、沼田旧臣等を誘い兵3千で沼田城奮取を目論む。甲府でこの報を聞いた昌幸は、急ぎ沼田に返って伯父の金子美濃に「甥の景義を打ち取れば、恩賞として千貫の知行を与える」と指示する。欲心の強い金子は、恩賞欲しさに甥の景義を沼田城内の捨て曲輪に誘い込み、暗殺している。
 昌幸は、景義供養のために下沼田に禅寺・法喜庵を建てる。

 真田昌幸との約定でこの年の夏のころより沼田城に藤田と弟海野能登守輝幸を城代としていた。岩櫃城・沼田城攻略に功のあったので吾妻郡一円は兄弟に与える旨を約定したのである。長門守は違約であるとして家老の渡利常陸介、佐渡豊後を使者として上田の昌幸に抗議した。
 ところが昌幸は、この約束に反して郡内の西部を鎌原・湯原・植栗・池田・浦野・西窪・横谷の7氏に、その地知行地として与える旨を回答してきた。

 11月上旬、鎌原・湯原両氏は海野兄弟は北条氏と組んで逆心のあること顕著である旨、前記の7人の連判をもって昌幸に訴え出たので、大いに驚き、叔父矢沢頼綱と相談すると矢沢は「海野の北条氏と組むことは必定である。中務太輔(海野能登守輝幸の子)は私の聟で、孫も三人あるがいたし方ない。速やかに討伐すべきである」と進言してので討伐を決意したが、昌幸としては一生の不覚と言わねばなるまい。海野兄弟を排除するために昌幸を利用したのではないかと思われる。

 11月21日真田昌幸は、舎弟真田隠岐守信尹を大将にに命じ、鎌原。湯本らの吾妻180騎余と雑兵1千余人の軍勢で岩櫃にいる海野長門守幸光を攻め、長門守幸光は75歳の老齢で、しかも目を患い、殆ど盲目であったが、3尺5寸の大刀を振りかざし、敵14~15人を切り倒したが敵かなわず、居館に火を放って後に、腹を十文字にかききって誠に悲壮な最期を遂げた。
 幸光の妻(35歳)と14歳の娘は、渡利常陸介が付き添って越後へと逃れようとしたが、真田軍に取り囲まれたので、観念した常陸介は、泣きながら母娘の首を落としたと言われている。
 幸光を誅した信尹は、鎌原・湯本・池田の三将を岩櫃城に残し、輝幸の居る沼田城に向かう。

auto_lSo5kM.jpg岩櫃城

 岩櫃城の長門守を打取った真田隠岐守信尹は、沼田の城代藤田信吉と図り、だまし討ちを企むも、早くこれを察した海野能登守輝幸と子息中務太輔幸貞親子は、迦葉山に行き「逆心の無いことを直接訴えようと」緋縅(ひおどし)のヨロイを着け、家重代の名刀茶臼割3尺3寸の太刀を履いて名馬市城黒に乗り、嫡子幸貞もアジ毛の馬に乗って佐藤軍兵衛以下郎党150余の兵騎を率いて共に城を出た。
 城門には真田信伊・藤田の兵2千余が固めていたが、威風堂々と一行に気圧され道を開き通過し、迦葉山(かしょうざん)に入ろうとしたが、その途中、十二の森(女坂)において包囲され、奮戦ののち多勢に無勢、やがてほとんど討死し、海野親子はもはやこれまでと、22日に父子は、豪勇田口と木内八右衛門の死体に腰うちかけて、「兵の交わり面白の今の気色や」と謡いつつ父子と互いに刺し違え女坂の新雪を鮮血に染めて悲壮な最後を遂げた。
 ときに能登守輝幸は73歳の老年、幸貞は38歳の壮年であった。これにより羽尾氏は滅亡した。

clip_0092.jpg群馬県長野原町羽根尾の海野長門守の墓

 海野長門守幸光の法名は、雲林院殿前長州洞雲全龍大居士といい、長門守の旧領だった羽根尾城山麓の地、羽尾北小滝にその墓がある。
 羽根尾城は天正8年(1583)、昌幸の命により草津の湯本氏が在城することとなったが、いつごろか廃城になったかは定かではない。
 なお、迦葉山の住持は不憫に思い、翌23日その討死の場において父子を手厚く弔った。弟能登守輝幸の墳墓は沼田市迦葉山道沿い岡谷地内阿難(女)坂十二の森近くの路傍に、昭和2年に、その霊を慰めるため土地の有志によってその傍に、父子二つの石祠と「海野霊墳」の頌勇碑が建て長くその武勇を讃えている。その側に一本の巨松がそびえて墓を守っている。      『山崎一・山口武夫共著「吾妻郡城塁史」より』

auto_h2S7V9.jpgぐま建沼田氏岡谷地区の海野塚

迦葉山龍華院弥勒護国禅寺は「天狗のお山」として知られ、沼田市内から北東へ16㎞の山 
の中にある。開祖は嘉祥元年(848)、上野国の太守、葛原一品親王(桓武天皇の皇子)が比叡 
山三祖の円仁慈覚大師を招いて開いた。唐より帰朝間もない慈覚大師は唐の「迦葉佛鶏 
足山」と似ている山並みから「迦葉山龍華院弥勒護国禅寺」とした。当寺が曹洞宗に改 
宗の折天巽禅師に同行の高弟で中峯尊者という方がおり、伽藍造営・布教伝道など大変努 
力されたが、住職が大盛禅師に代がわるおり、自分の役目が終ったことで昇天し、その後 
に天狗のお面が残されていたと言われ、この中峯尊者が「お天狗さま」としてあがめら 
れ、迦葉山信仰により功徳を信じ、天狗面を奉納する習わしが広がった。
『沼田町誌より』

 幸貞の次女は祢津志摩守元直の妻となり、真田信幸の乳母として真田家に仕え、のち剃髪して貞繁尼と称した。

 矢沢綱頼には娘がいて、海野幸貞の妻になっている。海野兄弟誅殺の時、長子の太郎は天正9年(1581)に僅か8歳であったために助命され、長じて、姉婿の家で養育されて原郷左衛門と称した。
 元和元年(1615)大阪夏の陣で討死したが子孫は、原監物によって育てられ成長して松代藩士となり、今も子孫の方々は存続して居られます。 

海野関連支族の不思議

 海野一党は不思議に盲人・医術・妖術などと関係が深く、事例を示すと
 1 貞保親王が、眼病にかかり、鹿沢温泉で湯治により、目の痛みは治ったが、視力は恢復せずに盲人になってしまった。
 2 滋野望月氏は、祖神として両羽神社(長野県東御市下之城)を祭っている。この神は京都山科にもあり、盲人たちの祖神である。
 3 滋野祢津氏は、館の裏山に祖神四宮権現(長野県東御市祢津)を祀っている。この四宮権現も京都山科四宮河原に盲人蝉丸を祭神として祭られ、やはり盲人たちの祖神である。
 4 近世に上田房山村(上田市田町)の弁天祭日に、小県一帯の琵琶法師や芸能にたずさわる盲人が集まって種々の相談をしていた。その管理をしていたのは深井氏であり、この深井氏は海野氏の重臣で、家伝では貞保親王の妻はこの家の女であるという。
 5 信玄の二男竜宝も盲人であり、海野二郎と称している。海野には盲人でつとまる何かの仕事があったのかもしれない。

 また海野一党は修験・巫女・医術との関係が深く色々な列証がある。
 1 滋野望月氏は、巫女・舞太夫・修験山伏等を支配していた。望月盛時が川中島で戦死した。その後、室千代女は祢津村に土着して武田信玄から甲信両国の神子頭を命ぜられて巫女を支配したという。
 2 上州吾妻郡に住んだ下屋氏は、北上州の修験道の支配権をもっていた。
 3 祢津氏は、鷹匠として著名であった。諏訪大明神絵図詞によると、平安末期に活躍した祢津神平貞直は大祝の猶子となり、東国無双の鷹匠であった。鷹匠は狩や鎮魂などの呪術と関係が深い。
 4 海野氏の氏神である白鳥神社はオシラサマともいわれ、マタギ(猟人)や修験の神でもあった。また滋野氏はいつか諏訪神を奉ずる神党となり、諏訪の神人として「甲賀三郎」の伝説にもなる。
 5 海野氏は医術とも関係が深い。大奥の医師に望月氏があり、草津温泉の領主が海野系湯本氏であったのも関連があるかもしれない。
 6 祢津には「ののう巫女」といわれる巫女の集団が明治初期まで存在した。信濃巫女の発祥の地として、徳川三百年を通じて全国の巫女を養育し、大規模な巫女村であった。
           『小林計一郎著「真田一族」より』

史実に登場する「くノ一」で有名なのは、武田信玄に仕えた「歩き巫女」の集団である。 
歩き巫女とは各地を回って芸や舞を見せ、呪術で口寄せを行った、時には男性に身を任せ 
ることもあって、いわば 流浪の遊女でもあった。巫女の歴史は古く、祢津の巫女たちを 
「ノノー」と呼んでいた。かって幼児の頃、神様や  仏様のことを「ノノサマ」と尊んで
ったり、祖父母や父親を尊敬する意味で「ノノー」と呼んでいた。神降ろしをして媒霊的 
存在で、「口寄せ」であり、庶民はいろいろな困難なとき、武将も この巫女を信仰し、利 
用していた。それは戦いに駆り出される人々の死の恐怖を和らげ、あわせて勝利の予言を 
得た。そればかりか、巫女は、予言者であり、まじないや祈祷など もおこない、医療技術 
にまで及んでいた。
戦国時代には孤児・捨て子・迷子が大量に発生した。その中から心身ともに優れた美少女 
のみを集めて歩き巫女に仕立て、隠密として各地に放ったのがくノ一である。
信玄のくノ一の要請を命じたのは信州北佐久郡望月城主盛時(川中島の戦で戦死)の若き未 
亡人、望月千代女は甲賀流忍術の流れを汲む名家で、望月家の血族であり、信玄の甥が入 
り婿になっていた。
信玄は彼女を「甲斐信濃両国巫女頭領」に任じ、信州小県郡祢津村の古御舘に「甲斐信濃 
巫女道」の修練道場を開き、年間に200~300日を越える少女たちに呪術・祈祷・忍術・ 
護身 術やさらに相手が男性だった時のために性技まで教え込んだ。
祢津は信濃巫女発祥の地であり「巫女養育日本一」であった。
歩き巫女には国境がなく、全国どこにでも自由に行けたため、関東から畿内、東北北陸を 
回って口寄せや舞を披露し、時には売春もしながら情報を収集し、ツナギ(連絡役)の者を 
通じて信玄に随時報告していた。『百科事典「ウィキペディア」より』