海野氏のはじまり

 はじめの海野の地は、ウムナ・ウムノとなって、海野の文字を用いられ、海野郷といい、鎌倉時代に入って海野庄となったという。
 
 奈良時代の初期、天平10年(738)頃に、正倉院御物の麻布に「信濃国小県郡海野郷」と墨書があり、この頃貢物が海野郷から信州の牛か馬の背によって、はるばる奈良の都にもたらされたことを立証する資料である。
 
 さて、海野の祖と伝えられる幸俊から幸氏に至る系図は次のようである。

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 前記系図の滋野恒信は、天暦4年(950)望月牧監となり、信州小県郡海野に下向し、海野幸俊に改名したとされる。海野初代当主となる。

 海野小太郎幸恒信濃守は、2代当主。

 海野幸恒の長男海野信濃守幸明が3代当主。天延の頃(973)弟たちは分家して二男直家は祢津氏(詳しくは)、三男重俊は望月氏(詳しくは)を起している。
 この祢津氏から分れた浦野氏は、祢津神平貞直の子貞信で、浦野三郎と言い、鎌倉初期(1100ころ)に浦野庄の開発を手掛け、ここの地を苗字としたという。(詳しくは)
 海野・祢津・望月、これらを滋野三家といい、三家は緊密で、出陣の次第によると海野ら戦う時は海野幡中、右祢津、左望月となり、三家一体となって外敵に当ったという。
 この頃の家紋は海野氏が州浜や結び雁金で、祢津氏は丸に月で、望月氏は七曜または九曜の紋であったとされる。

 海野氏と並んで信州の雄族で、現地にあっては、相当な勢力になって支族も広く分出し、信州・甲州のみでなく、近江・甲賀にも進出して一勢力となったほか、各地の諏訪神社等の神官となった者もあり、出家して寺を開基して、諸国に赴いた者もいる。
 
 孫の海野小太郎幸真は4代を継ぎ、海野小太郎幸盛が5代当主。
 上田市上野の砥石城跡の山麓に望富士山陽泰寺(禅宗)があり、この丘より富士山が望めることからと伝えられている。
 縁起は古く、白鳳11年(683)、北陸の高僧泰澄がしばらく錫杖を止め、心を養ったので、奈良時代の高僧行基が「養泰院」と称したという。

 4代海野小太郎幸真は当寺に深く帰依し、田畑を寄進した功徳により、海野氏の菩提寺としての開基となり、以後海野氏代々外護の任を果たした。
 海野小太郎幸真(陽泰院殿笑岩道讃庵主)の墓は寺院の裏山に建立されております。(寺紋は「州浜」)

前九年の役

 永承6年(1051)陸奥、衣川以北六郡を領していた安部氏(俘囚の長)が朝廷に反抗して貢税の義務を果たさず、また安部頼時の代には、衣川を越えて南進し領土を拡大してきたので、朝廷の派遣官である陸奥守藤原登任が鎮圧のために、これを攻めたが逆に敗れてしまったので、朝廷は源氏の棟梁源頼義を陸奥守兼鎮守府将軍として派遣すると安部氏は源氏の名声にすぐ服属を誓い、同時に罪も許された。陸奥国は頼義の国府在任中は平穏であった。

 頼義の任期が終わろうとして胆沢城から多賀城へ帰る途中の阿久利川(一関市)で野営中「夜襲を受けた」と藤原光貞が告げ、犯人は「安部貞任であろう」ということを信じて、ひたすら恭順の意味を示してきた安部氏と源氏との戦端が開かれたのである。発端は不可解な阿久利川事件であった。

 源氏は歩騎数万、優勢に戦いを進めたが安部氏の大将頼時は鳥海棚(岩手県江刺郡金ケ崎)付近で流れ矢に当り戦死、頼義は安部氏討伐の宣旨(朝廷の命令)を受けていたので早速頼時の敗死を報告し、更に子貞任・宗任らを討つことを申請した。
 しかし土着の安倍氏の結束は固く、河崎棚(東磐井郡)に結集、源氏軍を黄海(同郡東部藤沢町)で追撃、旧暦11月厳冬風雪の中、重囲にあって源氏軍最大の危機に陥る。しかし19才義家の勇猛果敢な活躍により九死に一生を得る。
 貞任らの勢いはますます盛んとなる中で源氏はこの窮状打開のため最後の手段として「夷は夷を以って制す」の方法をとり、出羽仙北三郡(雄勝・平鹿・仙北)の俘囚長清原氏に応援を求めるのである。

 康平5年(1062)清原武則は同族と共に10,000余りの兵を率いて出陣、源氏・清原混成部隊はわずか1ヶ月で難攻の小松棚(一関市)と安倍軍のゲリラ戦に勝ち天下の要塞衣川関の戦でも大勝、最後の拠点厨川棚(盛岡市の西北)で安部貞任・宗任軍は、地獄絵の中に落ち安部氏は滅亡したのである。

 源氏の危機を救った清原武則は翌年従五位下鎮守府将軍となり、俘囚長出身としては最初である破格の栄誉を得ると共に、支配地域は仙北三郡に陸奥の奥六郡をあわせもつ飛躍的な成長を遂げたのである。
 頼義は嫡男義家を伴い、奥州に向かう途中、東山道の道筋にあたる、6代海野小太郎幸家に頼時追討の戦いに加わるよう援兵の請いを、戦役につくため同族騎馬80騎の棟梁として総勢270人が従い、源頼義に従い安部頼時制圧に乗り出したが頑強な抵抗にあい出羽国北部の豪族清原氏に援兵を請い、勝敗を繰り返しながら暫く安倍頼時を倒し嫡男貞仁と弟の宗仁を捕虜として長くかかった戦乱をようやく終息させた。この乱は、源頼義の奥州下向より終息するまでの11年間(1051~1062)の長期の乱で、後に、前九年の役と称された。
 この戦いに行くにつけ赤石藤次郎は戦勝を祈願して無事帰還できたので正行院(寺)を南屋敷の一角に開基したのである。
 場所は現在の海野保育園の100mほど東側です。

西上州の海野氏支族

 
 6代海野小太郎幸家の弟幸房は下屋将藍と称して、平安朝末期のころ三原(群馬県妻恋村)に住し、その子孫は代々修験者となって、西部吾妻の地を開拓して、その地の草分けとなった。
また、その孫は鎌原氏・大厩氏・西窪氏と西上州方面に支族が分出している。

 幸房の子幸友は、下屋出羽守で法号を昌慶と称し、父の棄城庵の志を継いだ。幸房の孫幸兼を下屋形部太郎といい、はじめて鎌原郷に移り住んだ。
 幸兼の弟は、大厩伊弥藤五郎・西窪伊弥三郎・万座新三郎入道・門谷弥四郎として、それぞれの住地を氏として分れ住み、幸兼の長男重友は武人として頼朝の浅間野狩に従って、鎌の字を賜って鎌原太郎を名乗った。
 二男の友康を名伊越形部三郎といって常法院の祖となった。
 孫の友成を形部三郎出羽守といい、弟は赤羽根に住んで赤羽幸兼・今井形部三郎・芦生田丹藤太と分かれ、いずれも住居地名を氏として分れた。

 こうして浅間山麓の鎌原郷に土着した鎌原氏は三原庄きっての土豪として、永くこの地を支配してきた。元和元年(1681)沼田藩5千石余の家老職にあった。鎌原氏は代々三原庄の地頭につき、頼朝の鎌倉幕府に務め、その後上杉氏に属し、戦国の世は武田氏に出仕して、武田氏滅亡後引きつづき真田氏の沼田藩に仕えて、天和の改易まで約500年この地にあって、この地を支配してきた。

後三年の役

 
 前九年の役から、清原氏の三代約20年を経過した。孫の清原真衡の代になり一族の間に争いが起り、領域は乱をはじめた。

 永保3年(1083)陸奥守として赴任してきた源頼義の嫡男源義家は、この争いに介入し、最初は清原真衡を応援し一応鎮定していた。

 ところが清原真衡が急死すると、今度は相手方の清衡・家衡の間で争いが起り、源義家は清原清衡方に加勢して、清原家衡を倒し、寛治元年(1087)9月乱を平定した。この乱を後三年の役というのです。
 この時も義家より援兵の請いがあり、7代海野小太郎幸勝は同族80騎の棟梁として総勢480人をつれて源義家に従い、遠い奥州の地まで軍馬を進めて陸奥の清原清衡と共にに戦っている。
この正行院はのちに地蔵寺と改名されたのである。
 源義家も京都に帰り、新たにこの地方に君臨したのは清衡でした。

姓を「清原」から「藤原」へ改めた初代清衡公は、荒廃した国土を復興し、この地にこの世の浄土「理想郷」を創ろうとしたのです

 以後、百年にわたる平泉黄金文化のいしずえを藤原氏4代にわたり築いていったのです。
 平成23年(2011)6月26日世界遺産に登録されました。平泉のシンボルが国宝中尊寺金色堂です。藤原文化を象徴する建造物で、浄土思想が息づく阿弥陀堂は、内外を黒漆で塗り、その上に金箔で押したため、金色堂とよばれています。このほかにも毛越寺観自在王院跡・無量院跡・金鶏山が織りなす極楽寺浄土の世界を勘能できます。

ちなみに、日本の世界遺産「文化遺産」では姫路城(1993登録)・法隆寺地域の仏教建造物(1993登録)・古都京都の文化財(1994登録)・白川郷・五箇山の合掌造り集落(1995登録)・原爆ドーム(1996登録)・厳島神社(1996登録)・古都奈良の文化財(1998登録)・日光の社寺(1999登録)・琉球王国のグスク及び関連遺産群(2000登録)・紀伊山地の霊場と参詣道(2004登録)・石見銀山遺跡とその文化的景観(2007登録)・平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群(2011登録)・富岡製糸場と絹産業遺産群(田島弥平旧宅・高山社跡・荒船風穴(2014登録)・明治日本の産業革命遺産(岩手県釜石市橋野鐵鋼山・高炉跡)・静岡県伊豆の国市韮山反射炉・山口県萩市(萩反射炉・恵美須ケ鼻造船所跡・大板山たたら製鉄遺跡・萩城下町・松下村塾)北九州市官営八幡製鉄所、福岡県中間市遠賀川水源地ポンプ室・佐賀県佐賀市三重津海軍所跡・福岡県大牟田市、熊本県荒尾市、宇城市の三池炭鉱、筆意港、三角西旧湊・長崎県長崎市の小菅修船場跡、三菱長崎造船所第三舟渠、同ジャイアントカンチレバークレーン、同旧木型場、同占勝閣、高島炭鉱、端島炭鉱、旧グラバー住宅・鹿児島県鹿児島市の旧集成館、寺山炭窯跡、関吉の疎水溝(2015登録))の14件、「自然遺産」では白神山地(1993登録)・屋久島(1993登録)・知床(2005登録)・小笠原諸島(2011登録)・富士山(信仰の対象と芸術の源泉として富士山域・本栖湖・富士山本宮浅間大社・白糸の滝・忍野八海(出口・底抜・湧・鏡・お釜・銚子・濁・菖蒲各池)・御師住宅(旧外川家・小佐野家)・三保の松原(2013登録))の5件で、18件が世界遺産に登録されています

保元の乱 

 
 保元元年(1156)7月11日に起きた「保元の乱」の原因は、天皇家の内紛と関白や摂関家の争いで戦うことになったのである。

 兄の崇徳上皇と弟の後白河天皇の間で家督争いに端を発する武力衝突が、京都で発生した。両者の対立には摂関家でも、弟の左大臣藤原頼長は上皇方に、兄の関白藤原忠通は天皇方につき、兄弟による骨肉の争いとなった。

 この戦いで活躍したのが、源氏と平氏の二大勢力に代表される新興勢力の武士であった。
 平氏は平清盛とその息子基盛が天皇方に、清盛の叔父である平忠正、平家弘、平康弘らは上皇方に分かれた。

 源氏では、棟梁の源為義と、その息子の頼賢・頼仲・為朝・為仲の4人は上皇方についたが、嫡男の源義朝と為義の祖父である源義家の孫の足利義康、源氏一族の源頼政らは天皇方についた。こうして、天皇家・摂関家・源氏と平氏の一族も親子や兄弟でも敵同士となって戦う事態になったのである。

 両者は前日10日から兵を集めだした。高松殿に結集した600余騎の天皇方は、11日未明に3隊に分れて鴨川を渡った。
 平清盛を大将とする300余騎が二条大路を進み、源義朝を大将とする200余騎は大炊御門大路を進み、足利義康を大将とする100余騎は近衛大路を進んで、上皇方が集まる前斉院統子内親王の御所(東三条邸)に向かい、夜襲を行った。

 上皇方は源為朝らが奮戦したが、勢いは天皇方にあり、崇徳上皇と藤原頼長は逃亡する。天皇方は源為義の住宅も焼き払った。
 わずか四時間ほどで決着して天皇方の勝利に終わった。捕らえられた上皇は讃岐に流罪となった。

 8代海野小太郎幸親は、天皇側として源義朝に属し、京都に上り信濃武士300騎の棟梁として活躍し武功を立てた。海野氏の直轄領は海野郷の周辺はもとより、遠くは西上州(吾妻郡)、佐久地方、四賀村付近まで広がり、彼らは海野氏の被官となり、海野氏を盟主とした連合体を組んでいた。

平治の乱

 保元の乱から3年目にして起きた騒乱、保元の乱で勝利に大きく貢献したにも関わらず、平清盛に比べて任官が低いことを不満とし、やがて両者の対立が激しくなっていった。

 僧である藤原道憲(後の信西)の計略で清盛は上皇の近臣として権勢をふるい勢力を伸ばし、一方の義朝は、やはり上皇の信西と対立関係にあった摂関家藤原信頼と組んでついに反撃に出る。

 平治元年(1159)12月9日、信頼・義朝軍は、清盛の熊野へ参詣のため京都との留守をねらって挙兵し、後白河上皇を内裏に移し、信西の屋敷に焼き討ちをかけ逃げる途中、宇治田原で首を刎ねられ、信頼は自ら大臣・大将となり、義朝を播磨守に任命した。

 しかし、まもなく清盛は帰京して、信頼は殺され、義朝は東国へ逃走中、尾張国の内海荘で見つかって殺された。

 平賀義信・源頼朝と共に御所の郁芳門を守っていたが、平頼盛が押寄せて来て、頼朝は捕えられ、伊豆に流され、幼かった牛若らも母と共に捕えられた。

 源氏の勢力は一時まったく沈滞し、その反面平氏は全盛期を迎え、政治の実権は貴族から武士の手にうつり、古代貴族政権の時代は終り、中世武家政権の出現となる。

木曽義仲の旗挙げ

 
 治承4年(1180)8月17日、平家の乱後、伊豆の蛭ケ小島で流人の生活を送っていた源頼朝が挙兵しました。

 さて、義仲の父義賢は、頼朝の兄の義平に殺されていますので、義仲にとっては頼朝はいわば仇の弟であり、義仲は頼朝に対抗意識もあり、先に平家を倒してしまいたいの思いから、養父中原兼遠に相談する。以仁王の令旨を受け、頼朝挙兵から約一か月後の治承4年(1180)9月7日に中原兼遠とその子ら・樋口兼光・今井兼平・巴御前らと心をあわせて木曽谷の柏原で兵を挙げる。

 信濃「市原の合戦」(現在の信大工学部付近)で笠原頼直と戦い、義仲にとって大事な緒戦が大勝利で終わった。

 そこで一旦、信濃国府に戻る。一息入れた後、治承4年(1180)9月、諏訪から佐久や小県の信濃武士らが続々と宮の腰に集まり、その日のうちに1千騎になったとも、また反対に武士の数も少なく、心細い旗挙げだったとも言われています。

 旗挙げ八幡宮で勝利を祈願した義仲は、信濃武士らを従えて、父の故郷である上野国多胡庄(現在の群馬県多野郡吉井町)に入りました。
 源頼朝の勢威が日の出の勢いで関東にのびてきていたから、腰を落ち着ける暇もなく、またその頃、越後の城氏が信濃へ侵攻するという風聞も聞こえてきましたので、2ケ月後に信濃への退却を決意したのだと思われます。
 
 義仲はまだ27才、諸豪族を従えていくためには、世間に名の通ったより強力な後楯てとなる人物が必要であり、中原兼遠はその座を退いて根井行親(42才)に後事一切を頼んだ。

 1,000余騎はその夜、根々井を中心とした佐久平一円の集落で宿営をした。
 翌朝、行親は矢嶋四郎に命じて義仲に白馬を贈った。矢嶋ヶ原で育った馬の中でも最も優れた馬である。気品がありながら馬力や脚力は抜群の名馬であった。おそらく貢馬が行われている頃であったら、帝の乗馬として召されたであろうと思わせるものであった。
 義仲は行親父子の温情に感謝し、以後死ぬまで、この馬を手離さなかった。
 また、木曽からの武者たちにも、矢嶋四郎は相応の馬を贈り、義仲軍の士気もあがり、後々の原動力となったことを銘記すべきである。

中原兼遠は、円光と号して仏門に入ったと伝えられています。そして治承5年の5月に病気になり、同年6月15日、手塩にかけた義仲の横田河原での大勝利の吉報を知ることなく、その生涯を閉じていきました

横田河原合戦

 一方、これを請けた根井行親は東信濃を本拠にした名族、滋野の支族で、信濃国屈指の大豪族、海野氏8代海野小太郎幸親を筆頭にした滋野三家の全面的な後楯てがあり、さらに北信の源氏、諏訪の金刺氏も上野国の武士らも加わって相当な勢力となりました。

 そして義仲は、本拠地を依田氏城に決めました。
 なぜここに、本拠地としたか、それはは東信を中心とした滋野党である。その中でも滋野党は、奈良・平安の昔から名馬を大量に育成し、保持していた。今で言うと戦車・トラック・通信伝達・乗用車に匹敵する戦力であったからである。

 義仲周辺の一連の不穏な動きは、たちまちにして京の平家方や隣国越後の大豪族、城氏の知るところとなりました。
 一方義仲は、越後軍が横田河原に出陣したとの知らせを聞くと、ただちに依田城を出て、治承5年(1181)夏の6月10日前後のころ、海野氏の氏神、白鳥神社に隣接する白鳥河原(千曲川敷)に集結した主な武将は
 上野国の足利義清・長瀬義員など高山党の面々。
 滋野一族からは、木曽四天王の一人根井小弥太行忠(根井行親の嫡男)を筆頭に・木曽四天王の一人盾六郎親忠・矢島四郎行重・根井小次郎行直・望月三郎重忠と嫡男小室太郎忠兼・次男の中村太郎忠直・根津小次郎行直・根津三郎信貞・余田二郎忠朝・千野太郎栄朝・諏訪三郎朝次・塩田八郎高光・丸子小中太・小林二郎家員・志賀八郎・桜井太郎・手塚別当光重・手塚太郎光盛・桜井二郎・野沢太郎・本沢次郎。
 海野弥平四郎幸広(のち海野氏9代)・海野二郎幸平・海野十郎幸久・井上太郎光盛・高梨高信・高梨頼高・仁科太郎盛弘・仁科二郎盛宗・藤沢二郎清親・伊那の泉太郎維長・村上基周。そして木曽からは、木曽四天王の一人樋口二郎兼光・木曽四天王の一人今井四郎兼平・落合五郎兼行・岡田太郎義親・木曽与次・与三・進士禅師・金剛禅師・検非所八郎・平原次郎景親・石窪次郎らおよそ3千騎の精兵でした。

 盾六郎親忠が、横田河原への敵情偵察を申し出して、海野・上田・塩尻から千曲川の狭間、岩鼻の岩山(現在の千曲公園)に登り、義仲に敵状を伝えますと、義仲軍は夜を徹して馬を飛ばし、途中で八幡社(現在の武水別神社)に戦勝を祈願し横田河原の対岸に陣を敷き、虎視眈々と機の熟すのを待った。

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横田河原周辺図

 義仲は雨の宮付近から攻撃を仕掛けたのは治承元年(1177)6月14日、横田河原一帯を包む濃い川霧が次第に晴れ上がった眼前に殺到する木曽軍に不意をつかれた越後の城四郎長茂の大軍4万騎は惨敗をきし、直江津から会津まで逃げて行ってしまいました。しかもこの年の養和元年(1181)2月4日、平家の棟梁平清盛が熱病を壊して、64才の生涯を閉じている。

 横田河原の合戦の勝利によって、一挙に北陸道一帯を支配に収めてしまいました。
 ところが、ちょうどその頃、つまり治承4年(1180)、養和元年(1181)、寿永元年(1182)は三年続きの大凶作で、平家も義仲も兵を動かすことができませんでしたが、義仲の前には当面の敵、頼朝の間に険悪な空気が漂い始めたからです。

 自分は頼朝に敵対心を抱く理由は何もない、と宣言し、和睦の条件として、さらに頼朝に二心のないことを示す証として、嫡子義高を頼朝の長女大姫と結婚させることを条件に、人質として鎌倉に送ることにしたのです。
 お供に10代海野小太郎幸氏(8代海野小太郎幸親の三男)のほか望月・諏訪・藤沢など、一人当たり1,000の兵がつけられた。

 義仲が心配した通り、義仲の死後、義高は入間の河原で頼朝に殺されますが、鎌倉の義高は、大姫に兄のように慕われ、二人の純愛は育まれていて、義高の死を聞いた大姫は、悲嘆のあまり食事も取らず、ついに廃人のようになって、19才の生涯を終えています。義高の墓は鎌倉市大船の常楽寺に、また終焉の地の狭山市には義高を祀る清水八幡があります。

燧ケ城・般若野合戦

 
 義仲と頼朝の間に不快が生れ、頼朝が信濃に攻め入ったのが、寿永2年(1183)3月の初めですから、平家方としては、源氏同士が内輪喧嘩を始めましたので、絶好のチャンス到来とばかり、平家の全精力を結集しての追討軍の編成だったろうと思われますが、そのときはすでに、義仲と頼朝の間には和睦が成立していたのである。

 平家方は触れに応じて集まった兵は山陰・山陽・四国・九州を中心に、10万余にものぼり、寿永2年(1183)4月17日に都を出発、平家の威信にかけても義仲を倒そうと、琵琶湖の両岸に道を分けて、北陸道めざして進撃していきました。
 初戦は4月26日、越前の要害、燧ケ城(現在の福井県南条郡今庄町)で火ぶたが切って落とされました。
 この城は木曽陣営の最前線基地で、義仲は越後国府にいて、信濃の仁科守弘をはじめとして北陸道の武将を中心に、6千余騎で守らせていました。
 
 仁科守弘は、日野川の支流の能美・新道の二つの川の落ち合う地点で水をせき止めて人口の湖を作りましたので、平家の大軍も進撃することができずに、両軍はにらみあって日数がすぎていきました。
 
 ところが、城中に裏切り者が出たのである。平泉寺の長吏斉明威儀師です。その夜、平家軍は大石を取り除き、柵を切り崩して水を落とし、一気に城に攻め込んできたので、ついに木曽軍は総退陣を余儀なくされ、加賀へ逃げ込んだのですが、勢いに乗った平家の赤旗で埋め尽くされてしまいました。
 越前・加賀の戦は、平家方の快進撃、大勝利に終始し、木曽軍はただひたすら逃げまどい、名だたる武将が数多く討死し、また平家に寝返った一族も多々あったという。

 5月3日、義仲はただちに今井兼平に精鋭6千騎をあずけて越中へと出陣を命じました。
 兼平の率いる先鋒隊は呉羽山の山裾にある八幡社に戦勝を祈願し、備えを固めたと同じころ、平維盛も越中前司盛俊に5千騎をあずけて越中へ急がしていました。
 5月8日、「道案内の斉明威儀師の計らいの通りにせよ」と言われていたが、遅れをとった盛俊は、やむなく呉羽山の手前、般若野に陣を構えて兼平軍と対峙したのでした。
 
 その夜、兼平軍は暗闇にまぎれて山を下り、夜明けとともに白旗30流を高くかかげ、全軍ときの声をあげて般若野へ押し出し、敵陣へ突入し、互いに息きつく暇もない戦いが7~8時間続きましたが、次第に盛俊軍が2千余の死傷者や逃亡者を出して小矢部川へ敗走し、夜には倶利伽羅峠を越え加賀まで退いたのです。(以下 宮下功著「木曽義仲を溯る」より)

倶利伽羅合戦

 
 敗れた平家軍は、敗走してきた盛俊軍を本隊に吸収して作戦を立て直し、全軍10万の兵を二つに分け、本隊7万余騎は倶利伽羅峠の天険を利用して砺波山へ向う、またからめ手3万余騎は志雄山(羽咋市志雄町)に向かい、木曽軍の背後を衝いて挟み撃ちにしようとの作戦であった。 

 義仲も越後を出発して越中へ、越前諸族・能登の武士団・越中の軍団らも加わって、その兵5万余騎、先発隊の今井軍と合流、寿永2年(1183)5月10日の夜、軍議を開きました。

 翌11日、義仲のもとに、二隊に分れて平家軍が進軍との情報が入ってきましたので、義仲は軍勢を7手に分けて、
 まず第一手は伯父の新宮十郎行家に矢田判官代義清・盾六郎親忠・
     海野氏9代海野弥四郎幸広ら1万騎を志雄山に向かう。
 第二手は根井行親を大将とする2千余騎に弥勒山へ。
 第三手は今井兼平の2千余騎を日ノ宮林へ。 
 第四手は樋口兼光の3千騎は竹橋へ。 
 第五手は余田次郎・丸子小中太・諏訪三郎ら3千騎を倶利伽羅峠の西端の葎原へ。
 第六手は巴の1千騎は鷲ヶ峰の麓に向かわせる。
 義仲自身の率いる3万余騎は小矢部川を渡り砺波山の北はずれ、埴生にそれぞれ陣を取りました。
 埴生八幡宮に祐筆(文書係)の大夫房覚明(8代海野小太郎幸親の二男)に必勝祈願の願書を書かせ、鏑矢13本を添えて神前に収めました。(現在の護国八幡宮とも埴生八幡宮とも呼ばれるこの神社には、その時の願書と2本の矢が大切に社宝として保存されている)

 5月11日は小競り合いのうちに暮れ、明日の決戦に備えて平家軍は疲れを癒すべき仮眠に入った同じ頃、木曽軍の兵士たちは音をたてず、声を殺して、谷をよじ登り、平家軍に近づいていったのである。
 
 そして作戦完了の合図と同時に、北から南から白旗をあげ、太鼓を鳴らし、ほら貝を響かせ、ときの声を轟かせ、この突然の事態に虚をつかれ、驚いて起きあがった平家軍10万の眼前に、角に燃えさかる松明をくくりつけられて荒れ狂った牛の大群が猛然と襲いかかっていったのです。(「田単火牛の策」は中国春秋時代の田単将軍に則ったものです)この合戦で大勝利を得ました。
 5月12日には、奥州藤原秀衡から義仲に、名馬二頭が贈られていて、奥州の大豪族藤原氏と木曽義仲との間に軍治同盟が結ばれていたことがわかります。

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倶利伽羅合戦図

 続く安宅合戦と篠原合戦も平家の派遣軍の敗北に終わり、京に向けて逃げ帰っていきました。

 また、一つ気にかかるのは、当時の比叡山の山法師軍団の動向であった。
大夫房覚明に牒状を書かせて山門に送ったら、ただちに3千一同で協議した、木曽軍に味方する旨の返事を木曽軍の本陣に送られたのが、寿永2年(1183)7月2日のことです。

 木ノ芽峠を越え、近江国・琵琶湖を経て7月22日、5万騎を率いた義仲軍は、比叡山に登り、延暦寺東塔の惣持院に本営を構え、そしてさらに比叡山の僧兵も加わって、気勢を上げました。

横川中堂の元三大師堂(四季講堂)の庭に、道元禅師が出家した得度霊跡の石標があります。道元は曹洞宗の元祖で、父は久我通親、母は前の関白藤原基房の娘伊子で、伊子は義仲の妻の一人で、義仲の死後、久我通親と再婚して道元を生んでいます

平家の都落ち

 
 平家一門の最後の手段として、法皇・天皇や女院などを奉じ、三種の神器(歴代の天皇が受け継いだ三つの宝、やわたの鏡・天叢雲剣・八尺瓊曲玉)を奉じて西国に逃れる方策を決意したが、この噂を耳にした後白河法皇は、寿永2年(1183)7月24日の夜半に数人の供を連れて法住寺殿御所を出て、鞍馬の奥へ逃げ隠れ、比叡山の義仲に身を寄せてしまった。

 平家の総師内大臣平宗盛は、翌25日の朝、六波羅や小松殿、八条などの邸宅殿堂に火をかけ、三種の神器と安徳天皇(6歳の幼帝)・建礼門院ら一門をひきつれて、27日に西海さして落ちて行ったのです。
 28日に義仲、行家とともに京に入る。

 8月16日義仲、朝日将軍になる。20日皇位継承問題が決着して、高倉四の宮(後鳥羽天皇)が即位する。
 木曽谷で挙兵して三年、ついに木曽義仲は源頼朝より先に、上洛の夢を果たす。平家軍の横暴に苦しめられていた京都人は、最初のうち義仲の軍が解放軍に見え、喜んで迎えられた。
 しかし、元来、義仲軍の兵卒は各地の寄合世帯で、統率が取れていなかった。9月に「猫間の事」が起り、京中での木曽軍の乱暴、狼狽が勃発し、戦場と同じように略奪を働く者もいて、都の人々らのひんしゅくを買うようになる。
 さらに義仲は後白河法皇との不協和音から、朝廷内外の不評が噴出する。
 所詮義仲は木曽山中に育った自然児で、宮中の礼儀や習慣に馴染まなかったのである。
 そこで義仲のことが煙たい後白河法皇は、9月20日法皇、義仲を避けるために西国で勢力を盛り返す平氏の追討を理由に山陽道に向かわせ、体よく京から遠ざけた。 (平家物語)

水島の合戦と大夫房覚明

 
 寿永2年(1183)10月1日、日蝕の日に現在の玉島港湾内で、行われた珍しい源平合戦である。天下は鎌倉の源頼朝と都の木曽義仲に西海の平家で三分される形勢になったのである。

 京都を追われて北九州へ落ち延びた平家一族は、瀬戸内の水軍をなんとか味方に引き入れて体制を立て直し、京都奪還を目指して東進を開始した。
 
 平家方は平重衡・通盛・教経の三勇将が率いる兵船300余隻7千人が柏島沖に出陣して、満所(政所か、玉島大橋西詰の小高い丘)付近に赤旗を並べ柵を設けて陣地を構える。
 
 一方、木曽義仲は都の政情と鎌倉の動きに不安を覚えながらも、度重なる後白河法皇の策謀に利用されて平家追討の院宣のもとに山陽道を西下したのは9月、10月にようやく中国路に達し、四国の平家を討つ拠点として備中の水島を確保するためね腹心の矢田義清や海野幸広を将に大部隊を派遣した。

 そしてその手始めとして、当時備中の南部一帯に勢力を持っていた平家方の武将妹尾兼康・宗康父子を、その根拠地板倉(現在の岡山市吉備津神社西方)で打取り、勢いに乗って先鋒隊の矢田判官義清・9代海野弥平四郎幸広の二勇将が率いる兵船300余隻5千人が乙島の渡里付近に出陣し、城(玉島大橋東詰の北方、標高30mほどの台地)と呼ばれるところへ白旗を押し立てて陣地を構えた。

 水面はおだやかなのに、浪の波紋が渦を巻いているさまを見て、「まるで銭が連なっているようで、吉祥なりと、これを我が家の家紋としよう」これが海野家の6連銭紋のはじまりといわれております。

 さて、両軍は、わずか500mほどの海峡を挟んで、時こそ来れと相対峙した。
初冬を迎えた10月1日(新暦12月初め頃)夜明けとともに合戦の火ぶたが切って落とされた。

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水島合戦場

 初めのうちは、勇猛をもって聞えた木曽軍が有利に見えたが、なにしろ木曽の山中で育った軍団だけに騎馬戦にはめっぽう強いが、海戦には全くの不慣れとあって次第に旗色が悪くなった。その上、山猿と悪口を言われ、文盲が多かった木曽軍は、これから起こる日蝕という奇怪な自然現象を全く知らず、ただ恐れおののくだけで戦意を失い敗れることとなる。

 かたや海戦に強く、しかも戦術に長けた平家軍の策略に全くはまり込んだ木曽軍が体制を立て直そうとする頃、にわかに西風が激しく吹き出し海は大しけとなり、海戦に慣れない源氏軍の兵士たちは船の上に立つことが、出来ない有様となった。
 その上、真昼というのにあたり一面薄墨を流したような暗闇となり、日蝕を知らない木曽軍の兵士たちは天変地異に驚かされ、すっかり恐れをなして大混乱………さらに不運にも矢田義清・総大将海野氏9代海野幸広の二人の大将まで討死し、木曽源氏は全軍総崩れとなり、平家軍の一方的な大勝利で終わった。僅か数時間の海戦であったと言われていますが、源平合戦の中で平家の勝ったのは、この合戦だけであった。

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水島合戦場城跡

 命からがら京都へ逃げ帰った木曽軍は、ごく僅かであったと言われてる。
 西国から旧都・福原に戻った平氏は屋島を本拠地に瀬戸内で勢力を回復し、一の谷に強固な城郭を構え反撃の時を狙っていた。
 法皇はウラで源頼朝とつながっていたのである。
 11月20日怒った義仲は、法皇御所を焼討ち、法皇を幽閉し、貴族らの官職剥奪などの報復をする。
 23日に藤原基房の娘伊子と結婚する。
 12月、義仲は法皇に強要して、源頼朝追討の院宣を出させる。 
 元暦元年(1184)1月3日には、ついに征夷大将軍の宣下を受ける。
いや、たぶん強引に宣下を出させたのだろう。
 
 しかし、その時はすでに、鎌倉の頼朝は、源範頼・義経を総大将とする義仲討伐軍6万騎を進発させていた。
それもつかの間で、源頼朝の代官として京に進撃してきた源範頼・義経の軍による、1月16日の宇治川渡河戦・瀬田の戦で敗れ、北陸へ落ちる途中、1月21日琵琶湖畔粟津で討死する。義仲享年31歳だった。(源平盛衰記より)

auto_mOVDzX.jpg大津市馬場「義仲寺」義仲の墓
 

 8代海野小太郎幸親の二男海野幸長は若くして京の都に上り、勧学院の学生で俗名蔵人通広いう、出家してから最乗房信救と改めて南都興福寺で学んだ。

 この興福寺では得業信救(21才)と称していた。
その坊時代には平清盛を罵倒して南都に居られなくなり、東国に逃げ延びたということである。
 信救東国に下る際、三河国国府で偶然源頼朝と義仲双方の叔父源行家と出会った。
 源行家は以仁王の平家追討の令旨を諸国の源氏へ回状した後、自らも都へ攻め上ったが、養和元年(1181)4月墨俣川(岐阜県長良川)の戦いで敗れ、三河国へ落ち延びるところだった。二人は信濃国で挙兵した木曽義仲を頼った。
 木曽義仲が決起したのは治承4年(1180)9月7日木曽の日義(宮の原)であるが、市原の合戦(会田の戦い、長野県四賀村)小笠原頼直軍を破った後、亡父義賢の遺領であった上野国(群馬県)にまで勢力を広げてから、信濃国丸子の金鳳山山頂の依田館を拠点にした。
 寿永2年(1183)3月頼朝軍は10万余騎の大軍をもって義仲征伐に乗り込んだが、義仲は依田から越後境の熊坂峠まで退いて相手にしなかった。
そればかりか義仲は今井四郎兼平を使者にして和議を申し込み、頼朝に対して異心の無い証として11才の嫡子清水冠者義高を人質として差し出した。(名目は頼朝の長女大姫との結婚)この時、義高に付き添ったのが信救の弟幸氏をはじめとする海野・望月など信濃の兵であった。
 同年4月木曽義仲が本拠地信濃国依田館から白鳥河原(海野宿の東にある千曲川)に兵を集結し挙兵した時、信救の父幸親と兄幸広は、真っ先に駆けつけて篠ノ井横田河原で越後の城四郎長茂率いる6万の大軍に勝利した。
 得業信救は木曽義仲の軍師となって大夫房覚明と称し祐筆として仕えた。
 都に慣れない木曽義仲と公家社会との間に立って接点の役目をしましたが、木曽没落の後は比叡山に上り、嘉禄元年(1225)71代慈円僧正の弟子となり、円通院浄寛と改めました。
 その後源空(法然上人)の弟子となって西仏坊と改名し、のち親鸞に従い、共に東国各地に布教活動後、親鸞の行状記を著し、その子の浄賀に授けさせる。
 海野幸長(覚明)は信濃海野庄に戻り一庵を建立した。
建暦2年(1212)9月に親鸞は報恩院白鳥山康楽寺と命名し開基した。
 その後長野市長谷の地に移って第2世浄賀(西佛房の孫)のとき康楽寺の号を許され、さらには第14世浄教が永禄元年(1558)塩崎の現在地に移転した。
 
 海野氏が住職である寺は、長野県内に15寺・県外に11寺あり、いかに海野氏が名族であったか伺わせる。
 海野幸長(覚明)は『平家物語』の琵琶法師による語り手の一人ではないかと推測されている。

 
 寿永3年(1184)1月21日に粟津口にて討死した木曽義仲(31才)の菩提を弔うべく、木曽に帰った海野幸長(覚明)は柏原寺に義仲公を祀り、寺名を日照山徳音寺と改めました。木曽義仲の霊は、ここに眠っております。

 海野幸長(覚明)は、仁治2年(1241)1月28日、85歳で死去した。

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徳音寺の義仲公像(木曽日義村)

 その後、時を経ずして木曽義仲を討った範頼・義経兄弟は源頼朝の命を受け、南は瀬戸内海、西北は絶壁で、攻撃が難しい一の谷攻撃に向かう。
 翌元暦元年(1184)2月、源氏軍は二手に分かれ、大手へは範頼率いる本隊5万騎が、義経は軍目付の土肥実平とともに1万騎を率いて搦手門の須磨口に向かった。義経は600mもの斜面、あの有名な「鵯越」を馬で奇襲戦法をかけた。
 こうして「一の谷合戦」で平氏は敗れる。
(詳しくは兵庫歴史研究会長梅村伸雄氏の一の谷合戦

 さらに、その翌年の元暦2年(1185)2月には「屋島の合戦」に敗れて下関へ走ることとなる。
 この戦いでは那須与一の逸話が有名だ。
 (詳しくは屋島の合戦

 

海野中興の祖幸氏

 幸氏は8代海野小太郎幸親の三男として生まれた。 
 旗挙げの後、木曽義仲が上州へ進攻したため、源頼朝と不和になり、和睦の印として、寿永2年(1183)義仲の子清水冠者義高を人質として源頼朝の元へ送られるときに、10代海野左衛門尉幸氏は、人質義高に随伴して鎌倉に赴いた。
 
 元暦元年(1184)粟津口で義仲が討死し木曽氏が滅亡した後、義高の死罪処分が決定する。義高は頼朝の長女大姫の婿になっていたが、父が討たれたからには安心しておれない。義高の身に危険が迫ったので、いち早く欺き、義高はひそかに海野小太郎幸氏と脱出計画を練った。義高は双六が好きで、いつも幸氏を相手にしていた。
 
 そこで幸氏が義高の身代わりとなって、義高は女装して元暦元年4月21日の夜、殿中を抜け出した。幸氏は義高の寝床に入り寝ていた。
 朝になると、義高のいつもいる部屋で、一人で双六をしていたので、誰も気がつかなかった。
 日暮れごろになって、やっと義高と思ったのは身代わりの幸氏で、義高がいないことがばれ、頼朝はおおいに怒って幸氏を拘禁し、堀親家らを追ってとして差し向けた。
 ほどなく義高は親家の郎従藤内光澄のために、入間河原で討たれてしまった。大姫は夫の死を聞いてショックを受け、病床に臥してしまった。母政子も、おおいに哀しみ、頼朝に迫ったので、ついに光澄は殺されてしまった。

木曽義仲が連れてきた三男の義基を京の寺に預けており、ひそかに京を脱出して東国に赴いたという。その頃越後に配流されていた親鸞に入門。法名「義延房釈念信」を授かった。健保2年(1214)、親鸞が東国への布教に向けて越後を去るとき、親鸞は草庵を念信(義基)に託し、「長称念仏寺」と名付けた。これが長称寺の始まりという。念信と親鸞との縁は、義仲に仕えていた覚明が取持った可能性がある。長称寺はその後、越後から上州沼田、木曽福島と移った後、戦国時代に現在の松本市梓川倭に移転(この時代、石山本願寺と織田信長が約10年間にわたって戦ったとき、長称寺の門徒たちも応援に駆けつけた) その後、寛永2年(1625)、松本藩によって松本城下の和泉町(現在城東2)に、その約30年後に現在(松本市女鳥羽2)の場所に移された。同寺の鐘楼の銅鐘は宝暦3年(1753)、高名な鋳物師によって改鋳され、昭和19年(1944)に国の重要美術品に指定されている。現在の住職は木曽義浄師。(「信濃毎日新聞」2011・10・19日付「親鸞と信州」より)

 さて海野小太郎幸氏は、その忠誠心をかわれて、却って将軍源頼朝に認められて、鎌倉御家人として仕えることになる。
 いずれにせよ頼朝の御家人となった幸氏は、文治4年(1188)から弓の名手として、しきりに「吾妻鏡」には、この幸氏がしばしば登場する。
 文治5年(1189)正月、頼朝の長子頼家が弓始めに三浦義連と並んで、幸氏は四番目の射手を命ぜられ、和田義盛ら射手十人の一人に名を連ねている。
 
 海野小太郎幸氏は、白鳥神社を三分(屯倉)より現在地に移す。
 建久元年(1190)海野幸氏は居城を古城より太平寺に移す。
 弓馬の術に優れていた幸氏は将軍の狩りの御供をすることも多く、建久4年(1193)の頼朝による富士の巻狩りにも参加している。幸氏は源頼朝の二度の上洛にも祢津次郎らと共に随兵を務めている。
 建久6年(1196)3月の将軍家東大寺供養の際には、弓の名手を従え惣門の警備を務め、祢津次郎らと随兵している。
 また建久8年(1198)の源頼朝善光寺参詣には、随兵として後陣を命ぜられている。
 また幸氏は当然ながら幕府軍の一員として合戦にも参陣している。建仁元年(1201)の越後の城氏の反乱の鎮定の際には、先頭を争って負傷しており、その懸命な忠勤ぶりがうかがえるし、保元の乱(1156)にも従軍している。
 以後鎌倉の御家人として代々弓馬の誉れ高い名族として伝えられる。(吾妻鑑より)

『神道集』には、長文の「諏訪縁起(甲賀三郎物語)」が収められている。浅間山の別当寺であった浅間山真楽寺の境内の大沼池は甲賀三郎(諏訪三郎)が出現した池だという

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流鏑馬の図

 鎌倉幕府の記録である『吾妻鑑』には、木曽義仲没落後、覚明のことをしばしば記している。
 これは覚明の才能を源頼朝が充分にしっていたため、覚明を高く評価していたことの現われではなかろうか。

 建久元年(1190)5月、頼朝が甲斐源氏の一条忠頼の追善供養を行ったときに信救得業(覚明)に導師を務めさせている。

 その4年後の建久5年(1194)10月には、平治の乱(1159)に義朝(頼朝の父)に殉じて死んだ鎌田正清の娘が旧主義朝と父の正清の菩提のために如法経10種供養を行ったとき、願文の原稿を書いたのも、この覚明であった。
 つまり信救はみごとに名僧として鎌倉の連中を手だまにとっていたようである。この子・孫が次図のごとく各地において浄土真宗の寺を開基して、その子孫が現在までも続いている。

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曽我兄弟仇討ち

 日本の三大仇討ちの一つである曽我兄弟の仇討ちの主役、曽我十郎と五郎の兄弟は、母が祐信と再婚したので、曽我十郎祐成・五郎時致と名乗り、父の仇を討つため、曽我の里で時節の到来を待っていた。

そこでまず、事件の経過に簡単に触れてみます。曽我兄弟は、幼いとき、実父の河津祐通(祐泰)を工藤祐経に殺された。所領争いがからんでのことで、祐経側にも言い分がないわけではなかったが、父を失った兄弟は、母が再婚したので養父のもとで育ちながら父の仇、祐経を討つことを願いつづけ、建久4年(1193)5月28日夜、源頼朝が催した巻狩を行った富士の裾野で、ついに宿願であった親の仇を果たした

 当夜は大雷雨であったので、頼朝の御家人たちは大騒ぎして走り出たものの、十郎たちのために多くの人々が傷を受けた。

 十郎は新田忠常に殺された。
 五郎は頼朝の幕舎に突進、頼朝も太刀を取って身構えたが、結局五郎は捕えられた。

 翌日、頼朝が五郎を直接訊問。
 五郎の祖父伊東祐親は伊豆の大豪族だったが、以前わが娘と頼朝の仲を割いたり、旗挙げの折に反抗したために没落している。五郎は父の仇討ちとともに、伊東氏没落の根なきにしもあらず、そのことを頼朝に言いたくて幕舎に近づいたたけで、後で自殺するつもりだったと述べた。頼朝は彼を許そうとしたが、祐経の遺児の犬房丸が泣いて訴えたので、やむなく五郎を引き渡し、殺すことを許した。

これで、一応落着するが、この事件はクーデターで、頼朝暗殺計画が隠されていた。という説が大正年間には、歴史学者の三浦周行博士が提唱している。また最近では、小説家の永井路子さんが、この事件について新説を提唱している

三浦説は五郎の烏帽子親(元服のとき烏帽子を被せる役で、親に近い関係を持つ)が北条時政だったことから、この関係を重くみて時政の命を受けて、兄弟が頼朝を爼ったとして、黒幕は北条時政だったというのである

また永井説は、時政は頼朝を殺して権力を握るほどの力を持っていない。そして、このとき傷を受けた人々の中に、時政と親しい伊豆の御家人の名がみえる。彼らが傷を受けるということは、当然その部下も多数殺されたり、傷をつけられたりしている。と考えられることから、これが曽我兄弟二人だけの仕業ではできないことは、あきらかである

 時政や伊豆の豪族たちは被害者である。このクーデターの首謀者は大庭景儀・岡崎義実だろうとしている。
 思えば、彼らには不満がうっせきしていた。旗挙げのとき、大庭景儀は弟の景親が平家方についたにもかかわらず、敢然として頼朝の許に馳せ参じた。
 岡崎義実も石橋山の合戦で、息子の佐奈田与一を失っており、いつしか彼は時代の主役でなくなってきていた。代わってのしあがってきているのは、伊豆の小武士団にすぎなかった北条時政で、のさばりかえってきている。

 巻狩のための野営が、鎌倉御所より手薄なのを幸い、頼朝を襲い、範頼を担いで権力を握ろうとしたのではなかろうか。

 それは頼朝の弟、範頼が疑いをかけられたので、起請文を提出するが許されず、結局修善寺に配流され、のちに殺害されているのを重くみている。
 怪我をした武士の中に信濃の武士である海野氏10代海野小太郎幸氏の名が見える。 

 鎌倉に幕府を開き腹心を全国に配し、義経の問題も落着して源氏支配の永遠を期待したであろうが、平家滅亡後14年、征夷大将軍になって7年の正治元年(1199)正月に53才で死んだあとは、早くもガタが来る。
そのとき頼朝の長子頼家18才、その弟実朝8才、当然頼家が相続してが、この頼家がろくでなしであった。
相続したころの事であるが、家臣安達景盛の妻19才、その美貌なるに懸想した。手をつくして強請したが、うまく行かないので景盛を謀殺しょうと同年8月19日の夜、決行する直前に母政子に察知され取りやめになった。

上田市緑が丘西区の矢島城跡のさらに北に「上平」「上寺」とよばれてる広いゆるい傾斜の平地がある。昔、曽我十郎祐成の妾の「虎御前」、曽我兄弟が父の敵工藤祐経を討って恨みを晴らして死するにおよび、悲しみに耐えず、その菩提を弔うために諸国霊場を巡拝の後、善光寺に詣で、この上平に来て一宇建て、虎立山菩提院祐成寺と号し、兄弟の菩提を弔った。その後応永年間(1394~1472)鎌倉光明寺一誉俊厳上人が来て唱導師として能化普く、中興の師として伽藍を営み、さらに永享5年(1433)に該寺が高地で参詣に不便なるをもって、もと虎見ケ原といわれた現在地に移り、寺号も宝池山九品院呈蓮てらと改称した。浄土宗で知恩院の末寺である。
北佐久郡立科町(旧横鳥村)の「虎御前」の石が松の木の下に立っている。昔虎御前の侍女蔦女が善光寺参詣の後、この地に居を下して終わり石に化したという。鬢水の井戸と言い虎尼が鏡の代わりに顔を映して化粧した泉だという。また、佐久市(旧高瀬村)落合の仏国山時宗寺にまつわるものである。建物は焼失後、南佐久田口の竜岡城の一部に移建された。この寺は一見平屋の民家のように見え、寺号は別に「虎御山時宗寺」とも俗称される。曽我物語の流布本では五郎時致の字を使っている。この寺の西北裏隅に段丘の切れた下に「影見井」なる井戸があって、良水な清水が湛えていて寺の飲用水としている

和田合戦

 建仁元年(1202)、10代海野小太郎幸氏は越後鳥坂城にて城資盛を討つ。

 建保元年(1213)5月2日、和田義盛は三浦氏の一族で、治承4年(1180)の源頼朝挙兵の当初から幕下に属して活躍し、侍所の初代別当となって信任は窮めて篤かった。直情径行の東国武士の一典型でもあり、比企氏の乱後、北条氏に比肩する勢力を保った。

信濃国へ最初に任命された守護は、頼朝幕下にあって最高実力者の一人であった頼朝の乳母の子比企能員(ひきよしかず)が充てられたとみられる。
また信濃国小県郡塩田荘の地頭には、早くから京都を脱して頼朝に仕えて、その信任が篤かった惟宗(これむね)忠久が文治2年(1186)2月8日に補任されている。この忠久は、のちには九州の薩摩・大隅・日向一円(鹿児島県・宮崎県)にある近衛家の庄官となり、島津姓を名乗り、豪族薩摩島津家の祖となった人である。武蔵国比企郡のゆかりで結ばれたとも考えられる比企氏と島津氏は、建仁3年(1203)の比企氏の乱後信濃塩田から姿を消し、替わって北條氏が信濃の守護人となる。信濃国守護が文書の上で正式に認められるのは「明月記」の嘉禄3年(1228)の記事で、執権泰時の弟重時が信濃守護となっている。重時が弘長元年(1261)に没すると、その子長時が信濃守護職を継ぎ、4年後長時が死ぬとわずか14才の嫡子義宗が、こけをうけついでいる。長時の弟義政が信濃塩田へ入ったのは建治3年(1270)であった。当時36才の義政は幕府の要職である連署にあったところから、この突然の隠退には執権時宗の強力な対蒙古挙国態勢との対立も考えられている。塩田の地を選んだのは父重時が守護の地であったことと、ここに「信州の学海」と称せられる仏教の一中心が形成されていたことがあげられる。
安楽寺の八角三重塔と開山樵谷憔僊(しょうこくいせん)。二世幼牛恵仁像
常楽寺石造多宝塔(弘長2年の刻銘)
中禅寺薬師堂と薬師如来像
前山寺三重塔さらに舞田の金王五輪塔・奈良尾の石造弥勒仏塔
柳沢の安曽岡五輪塔・別所院内の宝篋印塔などがそれである。
以後義政から国時を経て俊時に及ぶ塩田北條氏三代が塩田の地に続く

その終止符は鎌倉幕府滅亡とともにうたれた。ときに正慶2年(1333)であった。

 和田合戦のきっかけは、義盛の甥胤長らが源頼家の遺児を擁立する陰謀が発覚したとして逮捕され、義盛の陳情にもかかわらず赦されなかったことから、面目を潰された義盛は三浦義村ら一族を統合して執権北条義時討伐を決意したが、挙兵直前に義村は寝返った。

 このため義盛は準備不足のまま立ちあがり、一時は幕府を占領するほど優勢であったが、衆寡敵せず田比浜に追いつめられ、海野小太郎幸氏らによって全滅した。
 詳しくは、和田合戦 をクリック。

承久の乱と長倉保領土争い

 承久3年(1221)、10代海野小太郎幸氏は執権北条泰時の幕府方の将として「承久の乱」に美濃大井戸で参戦する。このとき幸氏は49歳であった。幕府重臣として重要な事項の謀議にも参加している。

 香坂宗清(初代香坂家)も戦功により、鎌倉将軍宗尊親王に仕え、文応元年(1260)信州新町の牧之島の地を賜わる。その後信濃守護守小笠原貞宗の命により、総大将村上信貞率いる市河経助・高梨五郎などが、牧城を攻めたが天然の要害にあり、落城しなかった。それ以降の戦乱でも落ちることはなかった。

 幸氏は源頼朝より庄を与えられていて、上野国三国の庄(長野原町・嬬恋村)の地頭であったので、滋野姓海野氏は上野国吾妻郡にまで広がっていたといえる。

源頼朝の浅間の狩あたりに「大石寺本」では『信濃と上野の境なる碓井山を越え給い、沓掛の宿に着き給符。その夜は大井・伴野・志賀・置田・内村の人々ぞ守りける。次の日鎌倉殿、三原へ御越あり、離山の腰を通らせ給ふ。その折、「節狐の啼きて走り通りければ、梶原聞きも敢す」と口ずさみけり。信濃の国の住人海野小太郎幸氏「忍びても夜こそこうとはいふべきに」と付けたりければ、人々感じ合はれける云々』海野小太郎は梶原とともに褒美の品々を頂戴している

 このことで海野幸氏は甲斐の武田光蓮(武田信光)との国境の長倉保(軽井沢町)との領地争いを行ったとあり、幸氏の領地は甲斐に接するほど広かったのであろうか。
 すでに、この時期に海野氏一族が上野国に進出し、三原荘をも領有していたことが注目される。その一部は、下屋・鎌原・羽尾・大戸氏のように、西上野吾妻郡地域にも進出していった。
 この訴訟は幕府の裁定で海野方の勝訴でおさまったことが、幕府の公式記録である『吾妻鏡』に記されている。
 そして甲斐の武田家は、その結果内紛が起きてしまうのである。
武田光蓮が二男信忠を勘当してしまうような武田家にとっては非常に悲しいことが起きるのである。
 海野氏は、甲斐国に本拠をもつ武田氏と犬猿のなかの時代を過ごすのである。
 これは、仁治2年(1241)3月のこととされている。この時、幸氏は69才である。

長生きで活躍していたことになる。この時期の海野氏の支配地域は、海野氏連合体全体で江戸時代の石高に換算して5~7万石程度と推定される。(信濃全域で55万石と称されてる)海野氏の最盛期と言える

 海野氏は本領海野の地を開発領主であり、海野荘と呼ばれた地域で、その領家は藤原摂関家だった。12世紀初め関白忠実の代より、南北朝時代の14世紀中葉まで藤原氏嫡流(近衛家)に伝領されたことが考証されている。つまり海野氏は、摂関政治の全盛時代より摂関家に従属し、その荘官として勢力を蓄えていたとみられるのである。

 本領海野郷にても居城を太平寺に移し、海野氏中興の基礎を築くたといえるだろう。
 幸氏の活躍は『吾妻鏡』に多く記録され、特に幕府恒例の弓始めの儀式には、1番手または2番手の射手としての活躍が数多く記録されている。
 また嘉禎3年(1237)北条泰時の嫡男、北条時頼に流鏑馬の故実を指南したことも記されている。

 幸氏が木曽義高の従者として鎌倉に赴たのは、寿永2年(1183)で、年齢11才と言われているので、北条時頼に流鏑馬の故実を指南したときの年齢は65才となる。
 

文永の役・弘安の役

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  (蒙古襲来)
 弘安4年(1281)に海野氏11代海野小太郎幸継(幸氏の長男)は、塩田氏に従い弘安の役に出陣する。

 文永の役・弘安の役は、中国が元の時代で、日本に2回に渡って侵略してきた事件である。
 元の皇帝フビライは日本に朝貢を求めて使者を送ってきたが、執権北条時宗は拒否して九州沿岸の防備を固めた。 

 フビライは文永11年(1274)中国(蒙古)高麗の兵28,000を送り、壱岐・対馬を侵略の後、10月20日には九州博多湾西部の今津付近に上陸した。

 将兵よく防戦して勝敗がつかぬため攻撃軍は、一旦沖の船に引き上げた。その晩、台風に遭い、そのために多くの船が沈み、多数の将士を失う。残る兵士は、戦意を失い敗退していった。

 この文永の役以後も、フビライは日本侵略の夢は消えず、降伏勧告の使者を日本に送ったが、執権北条時宗は従わず、使者を鎌倉竜の口にて斬り、覚悟のほどを示し九州を主体として沿岸の防備をますます堅固にした。

 フビライは日本侵略の兵力を金方慶を主将とする蒙古・漢・高麗合流軍40,000の東路軍と范文虎の率いる旧南宋軍100,000の江南軍を編成して日本に向けた。

 弘安4年(1281)6月6日、東路軍は志賀の島に襲来。待ち受けていた幕府軍と激戦になり勇敢な将士の反撃に侵略軍は上陸を果たさず退き、江南軍の到着を待った。
 東路軍は遅れた江南軍と平戸付近で合流し、一挙に博多湾に押し入るべく鷹島付近に移動する。

 これを察知した日本軍は小船にて猛攻をかける。激戦の最中、7月30日から暴風雨が吹き荒れて、翌閏7月1日(閏年で7月が2回ある)には来襲軍の船は、ほとんど壊滅し、范文虎は士卒を置き去りにして本国へ逃げ帰り、残された将兵は殺害または捕虜となり、日本軍の大勝利のうちに終わった。

中先代の乱

 12代海野小太郎幸春・13代海野小太郎幸重は、北條氏に心を寄せる武士であった。ことに信濃では鎌倉幕府執権高時の遺児北条時行を諏訪頼重・大祝時継らがかくまい、鎌倉幕府の再興を期し、時節の到来を待っていたが、足利尊氏と結んだ守護小笠原貞宗・村上信貞らの勢いも強く、建武2年(1335)7月北條時行は挙兵し、滋野一族の海野・祢津・望月らはこれに応じた。
 建武政府に対してお起した乱。鎌倉執権の北条氏を先代、室町幕府の足利氏を当代と呼び、その中間に起きた乱のため後世の識者は中先代の乱と称した。

 海野氏を含む諏訪・滋野一党・時行軍は各地で赫々たる戦果を上げ、手越河原(静岡県手越)の戦いでは、さらに足利直義を三河方面まで敗走させ、7月25日鎌倉を回復して、中先代と称せられた。しかし僅か20日ほどの後に、直義援軍のため京都より東下した足利尊氏軍との戦いに敗れ、頼重・時継は自害し、北条氏再考の目的はあえなく挫折しました。

 乱は京都公家西園寺公宗と諏訪頼重とが通じて建武政府打倒を計画するが、途中にて計画が露見して誅殺されたため、建武2年に頼重は海野氏を中心とする滋野一族を味方にして時行を奉じて挙兵した。

 戦いの手始めに守護小笠原貞宗の軍を破り、続いて小手指ケ原(埼玉県所沢市)にて足利軍を破り足利直義が守る鎌倉を攻め落とした。直義は鎌倉を逃亡に際して監禁していた後醍醐天皇の皇子、護良親王を殺害した。
 敗走した直義軍は同年7月27日、これを食い止めようと、駿河の国手越河原に陣を敷いた。しかし破竹の勢いで東海道を攻め上ってきた時行軍の勢いを止めることは出来ず、三河をめざし敗走した。
  
 危機を感じた足利一族の棟梁尊氏は、後醍醐天皇の裁可を得ず、救援のため兵を率いて東下、三河の国矢萩(岡崎市)にて直義軍と合流、8月9日ん進撃してきた時行軍と橋本(静岡県浜名郡)にて合戦、これを破り、敗走する時行軍を追って、途中小夜の山中(掛川市)さらに破り、14日には府中(静岡市)の合戦に勝利した。

 時行軍は、続いて高橋縄手・清見ケ関(清水市)と息つく間もなく攻めたてられ、防戦の甲斐なく敗走。
 17日箱根山、18日には時行軍の最後の陣地相模川にて合戦、ここを最後の場所として、よく防ぐも敵せず、尊氏は、19日には鎌倉を奪還した。

 諏訪頼重は自害し、時行による鎌倉奪還は僅か20日間の夢に終わった。
尊氏はその後、後醍醐天皇の上洛命令を聞かず鎌倉に居座り、征夷大将軍を自称して公然と建武政権に反旗を翻した。

 このことが半世紀余りにおよぶ南北朝内乱時代の契機となった。
諏訪及び海野氏を含む滋野一族が起こした中先代の挙兵が南北朝内乱の動機になり、海野氏は南北朝争乱の幕開けの主要メンバーになった。また海野氏の一部は安倍奥に逃れ、安倍城を拠点とする南朝方の狩野貞長に従ってとも考えられる。

小手指ケ原の合戦

 14代海野小太郎幸康は宗良親王に従い、足利尊氏と戦い大敗。幸康は戦死しました。(笛吹き峠の合戦)

 元弘2年(1332)の暮れ、南河内に再挙した楠木正成は、またたく間に河内国内はもとより、紀伊・和泉の地頭・御家人までも討ち平らげた。赤坂籠城戦につぐ、再度の反乱の炎が燃え上がったのである。
 元弘3年(1333)正月、鎌倉幕府は諸国の軍勢を動員し、六波羅に集結させると、これを河内道・大和道そして紀伊道の三方面に分け、反乱地帯へ向け出発させた。大軍勢を三方に分けたのは、河内方面が千早・赤坂とその周辺の楠木軍を掃討し、大和方面軍が吉野の大塔宮護良親王軍を攻撃し、金剛山の背面に回り込んだ紀伊方面軍が、反乱軍の退路を封鎖する狙いからであった。
 元弘3年(1333)2月22日、阿蘇治時率いる河内道の一隊は、赤坂城への攻撃を開始し、相模の本間、備中の須山、武蔵の猪俣、その他結城白河の武士どもが守っていたが、平野将監以下の城兵下り上赤坂城は落ちたのである。
 一方、ときを同じくして、護良親王の吉野山が陥落した。そこで、河内方面軍・大和方面軍、さらに紀伊方面軍は金剛山西麓の山懐に殺到することになった。ここは一方だけが金剛山の主峰につづき、三方絶壁となって渓谷に囲まれ、突兀としてそびえる山岳城塞で、これが千早城である。楠木正成は、この城に立て籠もって、幕府方の大軍勢を持久戦に引きずり込み、鎌倉北条氏壊滅の全国的情勢を、決定的に切り開いたのである。

 正平7年(1352)2月、尊氏の弟直義が鎌倉で急死する。(毒殺とも言う)
これを機に関東や信濃を中心に南朝方と鎌倉の足利尊氏との間に激しい戦闘が始まった。
 南朝方は宗良親王を総大将として、諏訪氏及び海野氏を棟梁とする滋野一族は、佐久郡両羽神社に軍中の安全を祈念した海野・望月・祢津・矢沢家が集結し、風雲急なる鎌倉に向かって応援のため急進した。
 佐久郡内山の峠を越え、富岡街道を下仁田を経て東進した。笛吹き峠(埼玉県嵐山町と鳩山村の境の峠)を経て鎌倉街道を南下し鎌倉に到着した、徒歩部隊は約10日間の行程であった。
 正慶2年(北朝)(1333)4月中旬に鎌倉に到着した滋野一族は、直ちに鎌倉防衛軍の編成の中に組み込まれてた。
 また上州では新田義貞の子義宗・義興の兄弟が兵を起し、5月18日には、稲村ケ崎から侵攻して鎌倉幕府は滅亡する。
 源氏3代より北条氏へと続いた約150年間の鎌倉幕府が廃絶する。また3代約50年の塩田北条氏も運命を共にした。
 鎌倉が陥落して尊氏は狩野川付近(南足柄市)に逃れ、兵を整えて上州方面へ北上した。
 戦いの巧者の尊氏は、宗良親王軍と新田軍とを分断する作戦を採り、まず新田軍を国府付近で戦って、これを破った。続いて兵力を整えた尊氏軍と笛吹き峠の宗良親王は2月28日、小手指ケ原(所沢市)で決戦となるが両軍譲らず、激戦が続いたが、ついに南朝方の敗北となる。
 この戦いで14代海野幸康は討死したと伝えられている。

 宗良親王 は応長元年(1311)に生まれ、後醍醐天皇の第五皇子、母は歌道の家二条氏の娘で、その関係で早くから歌道にいそしんでいた。出家して延暦寺に入り、20才で天台座主となったが、建武4年(1337)に還俗し、北畠親房とともに伊勢に移り、翌年浜名湖の北岸に近い井伊城に移った。のち越後・越中に転戦、南北争乱の時代となり、遠江国奥山城に在住し、この城の東方を流れる天竜川の上流、伊那谷を臨む信濃大河原城(大鹿村)に康永5年(1344)2月ころ移り、香坂高宗の警護を受けている。このあたりが、宗良親王の東国計略の根拠地となった。そして、以後30数年、おもにここに居られ信濃宮といわれた。

auto_Xi4Gne.jpg信濃宮神社

康永5年信濃国大河原と申す山のおくに籠り居侍りしに、たゞかりそめる山郷のかきほわたり見らはぬ心地し侍るに、やぶしわかぬ春の光待出づる鶯の百囀(ももさへずり)もむかし思ひ出でられしば
「かりのやど囲ふばかりの呉竹をありし園とや鶯の鳴く」

信濃国大河原という深山に籠りて、年月をのみ送り侍りしに、さらにいつと待つべき期もなければ、香坂高宗などが、朝夕の霜雪を払ふ忠節も。そのあとかたならん事さへ、かたはら痛く思ひつづけられて

「いはで思ふ谷の心も苦しきは身をむもれ木とすぐすなりけり」

 晩年は吉野へ上り「新葉和歌集」を選集し、さいごは大河原で亡くなられたらしい。親王は誠実で思いやりのある人柄だったので、武士たちに信頼された。親王と香坂高宗の間には、利害をこえた親愛の情があった。
 信濃宮神社 上蔵(わぞう)の東方の高台にあり、戦時中県の事業として造営が続けられたが、戦争で中絶、規模を宿使用して奉賛会の手によって今の社殿が完成した。境内には宗良親王の歌碑がある。
 「君のため世のためなにかをしからむ捨ててかひある命なりせば」
 「われは世にありやととはゝ信濃なる伊那とこたえよ峰の松風」

auto_QYOQCZ.JPG宗良親王の歌碑(信濃宮神社)

 香坂高宗墓 香坂氏は滋野氏の一族で佐久香坂の出身、鎌倉時代に牧之島(信州新町)・大河原へ進出した。いずれも牧場の経営として大河原・鹿塩は諏訪社領だったらしく滋野氏は諏訪氏の仲間だった。高宗は天竜川沿いの大草(下伊那郡中川村)を本拠としていたらしいが、宗良親王を大河原に迎え、ここが東国の南党の中心地となった。一時は親王を奉じて関東に出陣したが、その後、南党の勢力は次第に振るわなくなった。しかし、高宗は最後まで献身的に親王に奉仕した。
 高宗の居城大河原城は上蔵にあるが、いまは小渋川に削られてごく一部しか残っていない。
 高宗は応永14年(1407)に居城大河原城で死去される。法名 永林院殿禅室良正大居士
墓は城址や福徳寺(平治2年(1160)ころ創立といわれる重要文化財で、入母屋作り、こけら葺の屋根の稜線が空を載っている様は見事で風格がある)を見下ろす岡野上にある。高宗は大正4年従四位を追贈された。その位記は大塩村役場に保管されている。

auto_QsfGQA.jpg香坂高宗墓

大塔合戦

 16代海野小太郎幸永と幸永の嫡男、海野氏22代海野左近将監幸則は国人一揆の一員として参戦、信濃守小笠原長秀に反抗して勝利する。

 応永7年(1400)、足利氏に頼んで念願の信濃守護に補任さけた小笠原10代当主長秀は、衆目を驚かすばかりの都風のきらびやかな行列を整え、伊那勢800余騎を従えて川中島を練り歩き、守護所のあった善光寺に入った。

 7月信濃へ入り各地の豪族(国人)を召集し、遠近の武士が進物を捧げて伺ったところ、尊大でろくな挨拶も返ってこなかった。これを見て、長秀の傲慢な態度に反感をかい、古くから長秀を心よく思っていない各地の豪族たちは腹に据えかねて合戦に及んだのであった。

 9月のことで、場所は篠ノ井西方の大塔が中心となった所から、大塔合戦と称せられた。合戦は守護方の敗北に終わるが、このときの様子を綴った「大塔物語」は、信濃各地の豪族を記録されている。

 彼らは早速協議の上、北信濃の村上満信氏を旗頭に、500余騎を率いて屋代城(千曲市)を討ち立ち、篠ノ井の岡に陣を取った。伴野・平賀・望月氏の佐久勢は700余騎、一団となって上島(千曲市雨宮)に、23代海野宮内少輔幸義以下は中村・会田・岩下・大井・光・田沢・塔原・深井・土肥・矢島氏ら小県勢300余騎を率いて山王堂(長野市篠ノ井)、高梨勢500騎は二つ柳(篠ノ井)、井上・須田・島津勢500余騎は千曲川の岸辺に、大文字一揆の人々は仁科弾正少弼盛房・祢津越後守遠光(小田中・実田・横尾・曲尾などの諸氏)ら800余騎、香坂(牧城主9代香坂宗継)・諏訪・その他の豪族を加えた大連合を組織して、11手に分かれて陣取った。

 善光寺から討って出た信濃守護小笠原長秀の率いる軍勢はほとんど伊那地方の武士で、動員範囲は狭く、しかも地域的にかた寄っていた。
信濃守護がた800余騎は、長秀と松皮の旗を真中に囲んで、塩崎城をめざして進むうちに夜が明けてきた。これを見て、まず村上氏配下の千田信頼が四宮河原で襲いかかり、一戦を交えた。つづいて小笠原勢は村上・伴野・高梨勢と戦い、どうやらこれを切り抜けた。豪勇でなる坂西長国は、高梨氏の嫡男橡原次郎(くぬはら)と一騎打ちをして、これを打ち取った。小笠原勢が疲れ、多くの死者をだしたところへ、新手の大文字一揆が攻めかかってきたので、軍勢は二分されてしまった。長秀はようやく塩崎城にたどり着いたが、坂西・古米・櫛本氏以下300騎は前進できず、途中で大塔の古要害(長野市篠ノ井大塔地籍)に逃げ込んだ。
 22日間にわたる籠城の末、ついに飢えと寒さに力尽き小笠原勢は、10月17日の夜、大手・搦手(からめて)の戸張を開いて切って出、300余人ほとんど戦死・自害を遂げた。
 大塔を攻め落とした国人勢は11手にわかれて一路塩崎城に向かい、これを包囲して陣を張った。城中の兵はこれまでの合戦で疵を受けた半死半生のものが多く、そこへあらたに祢津・仁科・諏訪勢が攻撃に加わってきたので、長秀の運命も風前の灯ととなった。大井光矩が仲介に入り、村上氏と談合のすえ国人勢ヲ撤退させた。長秀はこの恥辱をそそぐ手だてもなく、すごすごと京都へ逃げ帰った。
 長秀の末路は寂しいものであった。翌年守護職を解任され、応永12年(1405)には、世の中が騒々しく所領も維持しがたいとして、一族の惣領職以下すべての所領を弟の政康に譲っている。同19年(1412)には出家し、同32年(1425)52才で死去されたという。

大文字一揆の構成員は、祢津・春日・香坂・落合・小田切・窪寺・小市・栗田・西牧・三村・仁科・原・宮高氏で佐久・小県郡の滋野一族が中心となっている

矢島城は太郎山の虚空蔵沢に臨む扇状台地字上平の突端の地に築かれ、「建武2年(1335)矢島氏が諏訪から北林郷(旧西脇地籍)に引き移り北林城を居城とする在城支配者北林氏を川中島方面に追放し以降当地方を支配した」との伝承から「北林城」とも呼称されるが、「海野宮内少輔幸義・舎弟中村弥平四郎・会田・岩下・大井・光・田沢・塔之原・深井・土肥・矢島氏ら以下引率、其勢300騎云々」(大塔物語)などから、応永年間から永禄年間にかけて小県郡に矢島氏が存在したことはほぼ確実と思われる。

 弟に19代海野信濃守幸定・20代海野信濃守幸秀・21代海野小太郎幸守や18代海野幸信らがいる。また、幸則の弟に海野信濃守満幸や17代海野幸昌らがいる。

 続いて大塔城(長野市篠ノ井)も落とし、長秀は、ほうほうの体で京都に逃げ帰った。

 これが有名な大塔合戦で、当時の中央政権に対する地方武士の動向を示す者であった。

 23代海野宮内少輔幸義の弟に岩下豊後守がおり、家紋は根笹に雪、旗印は月輪、信州小県郡岩下に住し姓となす。領所は小牧岩下村を領し、小牧中尾の城に住み、世俗小牧殿と号した。
 岩下豊後守の後に岩下幸兼あり、小名を岩下次郎右衛門大夫と号し、後に下野守従5位下となる。
 岩下幸兼の子の小名を岩下次郎幸邦、後に岩下次郎右衛門佐と言い、豊後守従5位下となる。
 岩下次郎幸邦の弟にして上之条に住み、竹鼻三郎左衛門と号し、後に横尾領に移り、但馬守と号す。世俗横尾殿という。
その妹が丸子民部清高の妻となった。
 岩下次郎幸邦から後、岩下家は幸繁-政幸-清幸-幸実-幸広-幸記-幸景-幸任-幸豊と続いた。
 岩下幸豊は岩下勘右衛門尉と名のる。

安曇野地方の海野支族

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 前記の諸系図にある11代海野小太郎幸継の弟(幸氏の二男)賢信房は、福井県鯖江市の万法寺を開基している。(詳しくは「全国各地の海野氏と寺院」を、ご覧ください)
 10代海野幸氏の三男に海野三郎道敏(乗念房)は、富山県大山町の真成寺を開基している。
 四男尭元(小田切次郎)は、小田切氏の祖。
 五男海野矢四郎助氏は、駿河安部氏祖で井川海野氏先祖(詳しくは「全国各地の海野氏と寺院」静岡県の海野氏をご覧ください)

 12代海野幸春は、幸継の長男として生まれる。
  海野氏は鎌倉幕府との関係が緊密となり、のちに子孫は各地に分散して繁栄した。

 次男の会田小太郎幸持は、会田に移ったため地名により会田氏と称した。会田氏は現在の会田小学校のある殿村の地に居館し、その南を城下町と、要害名城を虚空蔵山中の陣に持っていた。

虚空蔵山は会田富士と呼ばれる火山性の山で、標高1136m、頂上は屋根のように東西に長く、山頂には数郭をなし、鎌倉時代の山城の特徴を有しているが、山頂には水の手はなく、日常の防備は中腹の「中の陣」と呼ばれる場所を中心に、その東に接して「秋吉」と呼ばれる帯郭形の砦がある。いわゆる本城は、この「中の陣」であろう

 殿村の館・中の陣・虚空蔵山を総称して会田城と称するらしいが、虚空蔵山は要害城として機能したものと思われる。

 小笠原長時は、天文17年(1548)7月19日の塩尻峠の戦いで武田信玄に敗れ、その2年後には本城である林城を追われた。
 天文22年には武田信玄は刈谷原城の太田氏を攻めて4月2日には落城された。翌3日には会田虚空蔵山が放火され塔原城とともに武田方に降参した。

 会田氏が容易に降参した理由は、小県海野氏の後をついだ真田幸隆が武田方について降状を勧めたことや、もともと小笠原氏との間には強い結びつきはなかったことがあげられている。
 また高白斉記によると、武田方に降参した会田の海野下野守(岩下氏)に、刈谷原城を加増しようとしたところ、既に刈谷原城代となっていた今福石見守が渋ったため、別の城を替地として与えたとのことである。

 この後、会田の海野氏は武田軍団の一員となり、10騎の軍役をつとめて各地に転戦し、武田勝頼の滅亡後は小笠原貞慶に滅ぼされた。

その会田氏ゆかりの寺である広田寺の本堂の屋根には、真田家の家紋と同じ六文銭の家紋がある。寺の正面に向かって左側に「会田塚」と書かれた看板があり、下に流れる小川まで下って行くと会田塚があり、奥には虚空蔵山も見える

 会田氏滅亡の際、一党の具足や刀剣が遺骨の代りに埋められたと言われている。会田氏は天正10年(1582)10月、小笠原勢によって滅ぼされたが、その際焼き払われた菩提寺知見寺の住持は安置されていた開基(岩下豊後守)の位牌を以って現在の広田寺付近に逃れた。戦いの後、ここに遺品を収め、会田氏一党の供養が行われたと言われてる。

広田寺過去帳には、会田岩下氏によって中興された知見寺は、広田寺の東の山を越した知見寺というところにあったが、小笠原勢に焼かれ、時の住持が「開基殿(岩下豊後守)の御尊牌をいただき奉り、山中に安座すること七日なり」とある

 明科町の犀川の西岸に中村城があり、その城にある時期居城したのが海野系中村氏といわれる豪族である。その中村氏は、海野系会田氏から分かれたといわれているのである。
 この中村氏のことについては未だ充分な資料を手にすることはできない。今後の調査研究に待たねばならない。

 三男の塔原三郎幸次の居館は明科中学校付近にあり、ふだんはそこで暮らしていて、いざというときだけ城へたてこもり、居館の周りには家来の住む城下町があり、現在の「町」の集落が、その城下町のあった所である。

 塔の原城は、鎌倉時代の中ごろ川手郷の地頭となって東信から進出してきた海野氏の一族で塔原氏を名乗り、その詰めの城として本城が築かれました。

城の規模は、標高は750m、麓が500mなので比高は250mで、500m×500mと、かなり大きな城で、長峰山の尾根を六条の空堀で切り、本郭と第二郭の主体部を設けている。さらに吐中部落の方向へ東側に5個、北の尾根筋に13個の帯曲輪を設け、主体部には土塁や石垣を巡らす大規模な城です

 塔原氏は、戦国時代の天文22年(1553)4月2日に、武田信玄に攻められ城を捨てて逃げたが、のち信玄の配下となりました。

 その後信玄は、小県郡海野氏の一族である海野三河守幸貞を塔の原城主にすえ、塔原氏は副将の位置に格下げになったものらしい。

 永禄10年(1567)3月に至って信玄は、その嫡男太郎義信を意見の相違から自害させたことから、家臣団に動揺が起り、これを静めるため8月に家臣団を、信濃国小県郡下之郷生島足島神社に集合させ、信玄に二心なき旨の誓約状を差出させている。
 

この時の誓約状「生島足島文書」によると、塔原城主海野三河守幸貞は、8月7日付をもって信玄の重臣跡部太炊介に対し、信玄に二心なき事、上杉謙信からどんな誘いがあっても、また甲・信・西上州にいる信玄の家臣が叛いても、絶対に違反しない旨を神仏に懸けて誓約している。また海野三河守幸貞の家臣である塔原藤左衛門宗幸・会田の虚空蔵山城主海野下野守の家臣の中に塔原織部幸知も、同様の誓約している

 武田氏滅亡後、松本へ帰った小笠原貞慶氏との争いになり、天正11年(1583)松本城で誘殺され塔原氏は滅亡する。おそらく同時に居館や塔の原城も破棄されたものと思われる。
 
 これらの人達の子孫は戦国の世が終わり平和になると、農民となり庄屋・組頭・長百姓などの村役になって村方を治めるようになった。

 海野幸継四男の田沢四郎幸国は、筑摩郡田沢に、鎌倉時代中期に兄弟などとともに、この地方の嶺間から川手方面に進出して、各地に定着し、在名をとって、それぞれの苗字とし、子孫を反映させていったのである。

 小県郡から筑摩郡への浸出の理由は、海野氏が、本領の地、新補地頭として、この地方を鎌倉幕府より補任されて、その子弟を派出するに至ったものと推考される。

 田沢の地は、犀川に面する川手方面の郷村のうち、その最南端を固める重要な最前線であった。
 田沢氏は、この地で定着に際しては治政・防備・交通など都合の良いところに居館を構え、また祈願時や氏神を祭ったと考えられる。

 山城にしても元禄11年(1698)の国絵図書上の際にも隣村、光の仁場城をもった田沢城とし、享保9年(1724)の信府統記にも、この説を踏襲しているが、しかし田沢地籍(田沢駅東の山上)には田沢城跡(詳しくはクリック)は存在している。

 田沢氏は、室町時代初期応永7年(1400)9月更級郡大塔の合戦には、時の信濃守護小笠原長秀を追討する側にあった宗家小県郡の海野幸義の旗下として同族の会田・塔原・光・大葦・刈谷原氏などと共に参戦し、小笠原軍を撃破し、小笠原氏は京都へ敗走している。
 これ以上史料上から全く姿を消している。田沢氏滅亡後いつの日か花村氏に替わったらしく、室町時代末の世に言われる戦国時代になると花村氏が現われてくる。天正11年(1583)に武士を捨て民間に下り農となっている。

 海野幸継五男の苅谷原五郎は荒神尾(七嵐)城主であった。
 甲陽軍鑑では、武田軍による苅谷原城攻撃の際、米倉丹後が銃丸除けの竹束の盾を使って城に迫ったことが書かれています。
この時城主であった太田弥助(太田長門守資忠)は太田道灌の一族とも言われている。五輪石塔が付近の洞光寺に遺されております。
 太田弥助兄弟と記載れている、住職の話よれば太田弥助と中沢監物の石塔であるとのことでした。

 この城主太田資忠は、小笠原長時の家臣でいたが、主君小笠原が林城を追われた後も武田方に降伏することなく守りを固めていたそうです。
 しかし真田幸隆による戸石城攻略の後、村上方の本拠地である葛尾城攻略に着手した武田方は天文22年(1553)3月29日、深志城を出発して、正午には苅谷原城に到着して城攻めを開始し、4月2日には落城されて城主太田資忠は捕えられ、その後、今福石見守が城主となっています。

 光氏は、海野幸継の六男、海野六郎幸元が、筑摩郡光村に、来往し、その地名をとって氏を称した。塔原村に法恩寺を開基している。
 光城は犀川右岸丘陵上の尾根に面して、豊科町内では規模の大きな山城で、戦乱激しくなった戦国時代(16世紀)初期に築かれたと考えられる。

光城は、標高911.7mにあり、麓の標高が550mというので比高360mもある。山頂の城跡付近まで車で行け、山全体がハイキングコースになっていて、城址は公園として整備されている。東側に塁堀があり、井戸跡が見られる。尾根筋に堀切が見え、そこが古峯神社が建っている本郭(長さ50m、幅30m)である

神社の背後に土塁がある。古峯神社は火の神であり、そのことからここが狼煙台であったことが示唆される。そのころ海野一族は、互いにノロシ等使って連絡しあって栄えていたのである。周囲には腰曲輪がある。その南に深さ5mほどの堀切があり、ニ郭に相当する長さ5mほどの曲輪がある。この曲輪内に土塁で囲まれた部分がある

 
 光小次郎幸時の代、応永7年(1400)9月の大塔合戦には宗家小県郡の23代海野宮内少輔幸義の旗下として、同族の苅谷原・塔原・田沢・会田岩下氏などと共に出陣し、信濃国守護職である小笠原長秀の軍と戦って勝利を収めている。
 その後、永享12年(1440)の結城城攻めには、小笠原長秀の舎弟信濃国守護政康の命によって、宗家小県郡の海野氏21代海野小太郎幸守の旗下として苅谷原・塔原・田沢・会田岩下氏等一族と共に参戦している。

 光小次郎幸時5世の孫大和守幸政の代、天文17年(1548)7月19日甲斐の武田信玄と中信の雄小笠原長時との塩尻峠の戦いには、その傘下として戦ったが、戦いに敗れて各自の城へ引き籠った。

 天文22年(1553)4月2日武田信玄の苅谷原城攻めの猛攻であることを聞いて、城を捨て逃げ去っている。おそらく落城後武田氏の軍門に降り、城主としての地位を安堵されたものであろう。

 大和守幸政は退き子の才三幸友は、天正11年(1583)2月に塔原三河守が松本城で誘殺されて滅亡後、翌12年8月18日に、先陣仁科勢のあと詰めとして、才三幸友・高橋靱負を遺わしたから、攻略している。

 天正18年(1590)7がつ小笠原貞慶が関東下総の栗橋後に古河に移封に際しては、これに随行し、この地を去っている。

天文10年(1541)5月武田信虎は謀議をもって、諏訪郡主の諏訪頼重・埴科郡坂城の城主村上義清と合意した上で、甲諏両軍は大門峠を越えて、南より小県郡内に攻め入り芦田城(北佐久郡立科町)・長窪城(小県郡長和町)を攻略し、村上軍は北方の上田方面より攻め、両方共に海野平に海野氏を挟撃して、海野・尾の山・矢沢・祢津の諸城を攻め落とした。この時海野氏の当主幸義は戦死し、その父棟綱は関東管領である上州白井(群馬県)の上杉憲政に走って援軍を受けたが、時既に遅く海野氏の回復することができず数百年続いた塔原・光氏などの宗家海野氏はこの時一旦滅亡したのであった

 浦野氏は、海野幸継の7男として浦野七郎右衛門は、浦野氏の祖として上州吾妻の大戸城主となる。(詳しくはここをクリック)

大洞院開基の如仲天誾

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 覚明に継いで、末派約3,000ケ寺の大多数を持つ曹洞宗大洞院を開基した如仲天誾(じょちゅうてんぎん)は海野氏で、貞治4年(1365)生れ、5歳のときに母を失い、9歳にして伊那谷上穂山(うわぶやま)(現在の駒ヶ根市天台宗光前寺)恵明(えみょう)法師に従って法華経を学び、感ずるところあって禅門を慕い、上野吉祥寺(現在の群馬県利根郡川湯村臨済宗鎌倉建長寺派)大拙祖能の門に入って剃髪した。

 のち越前(福井県)坂井郡金津町御簾尾平田山瀧沢寺開山梅山(ばいざん)聞本(もんぼん)の許に投じた。
 その後江州に南下し、琵琶湖の北辺(塩津)呪山に入って洞春庵を構えて悟り、それから修行に専念すること3年に及んだ。

 再三にわたり閑静安住の地を見つけ出されてしまったので、遠州周知郡天宮神社神主の中村大善とその宮座衆を中心とする天宮村及びその周辺の農民たちを本願の施主として資材の寄附を仰ぎ、門下数人の禅僧を率いて洞寿院の基を開いた。
 応永18年(1411)に遠江の飯田城主(森町飯田)山内対馬守(山内一豊の祖先)は師の宗風を慕って来化を請うた。如仲は山内氏の懇望により、飯田の崇信院へ赴き、やがてほど近い橘の地に橘谷山大洞院(静岡県周智郡森町橘)を開創し、改ざんには梅山を第一世と仰ぎ、自らは第二世となった。
 その後正長元年(1428)に梵鐘を鋳造している。

 如仲天誾の高い学徳の下に集まった多くの弟子の中に、特に優れた六人を、大洞六哲と呼び、その中の一人は洞慶院の開祖石叟円柱で、不琢玄珪(雲林寺)・物外性応(海蔵寺)・真厳道空(可睡斎)・喜山性讃(竜渓院)・大輝霊曜(最福寺)である。

 応永28年(1421)2月には総持寺40世に昇った。梅山の没後、瀧沢寺(福井県坂井郡金津町御簾尾)は住持を欠いたので、檀那の招きを受けて永享2年(1430)4月、はるばる遠州から来て6世を継いだ。
 廃れた伽藍を修め、先師の衣鉢を継いで、よく瀧沢寺の復興に尽くしたので、後世瀧沢寺中興の祖と仰がれるようになった。

 住院8年の永享10年(1438)に瀧沢寺を去って再び近江の洞寿院に戻り、晩年には加賀の仏陀寺にも住持した。
 永享12年(1440)2月4日、齢75才で没した。

 また更埴市桑原山龍洞院を如仲禅師が応永年間に桑原郷に泊まり、北山に登ったところ、西北に龍の臥するような峰があり、奇勝絶景の地であるとして寺を建て、龍燈院と名づけたのに始まるという。(『日本洞上聯燈録』より)

如仲天誾は高祖の永平寺開山道元から数えて、7代目の40世である。
曹洞宗末寺15,000余りの内、3,200余りの寺が如仲天誾派である。
その中には、袋井市の可睡斎があり、海野氏との縁故の深い興善寺は可睡斎の末寺である

結城合戦

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 前述した如く、24代海野小太郎幸数は、永享12年(1440)に下総の結城合戦にて守護小笠原政康(長秀の弟、応永32年(1425)信濃守護となる)の指揮下で、信濃勢30番を率いて攻撃軍に参加して、結城氏朝と戦い勝利している。
 信濃武士団に陣中警備と矢倉の役目の順番を記載した帳面『結城陣番帳』に、海野氏は10番目に記録されている。弟に海野大善大夫憲広がいる。
 また27番として大井三河守らと共に祢津遠江守の名前がみられる。
 「信陽雑記」にも結城攻撃が記されている。

 かって室町幕府の将軍足利義教と不和であった関東公方足利持氏は幕府に反抗を企てた。いかも、これをいさめた関東管領上杉憲実を討とうとしたので、その不法をなじり、義教は持氏討伐を決行して、持氏を追い詰め鎌倉の永安寺にて自殺させた。 この合戦を永享の乱(1438)という。

 この乱で持氏側に味方した結城七郎氏朝は持氏の遺児二人を引き取り養育し、やがて遺児を擁立して名城といわれる結城城にこもり、幕府に反旗をひるがえした。
 幕府は上杉憲実らを派遣し、諸国の軍勢を徴収して、城に立て籠もる結城氏を攻めた。結城氏はよく防戦するも、衆寡敵せず、城を枕に討死した。
 擁立された持氏の遺児たちも捕えられ、美濃にて斬られた。

 結城合戦の終わった2か月後、京都ではかってない衝撃的な事件が起こった。将軍足利義教が嘉吉元年(1441)6月24日、戦勝祝賀のため赤松満祐邸に招待され、猿楽鑑賞の宴のさなか、満祐の手兵によって暗殺されたのである。三代義満いらい安定してきた室町幕府は崩壊への第一歩をふみ出すのであった。
 この翌年の嘉吉2年(1442)8月、義教の先兵として活躍してきた小笠原政康も、海野の地で死去してしまう。幕府の動揺に加え、勇将で文武の達人ともいわれたこの政康の死は、信濃の前途にふたたび暗雲を投じるかのようであった。

鎌倉で元服

 24代海野小太郎幸数・25代海野信濃守持幸父子はおのおの、宝徳元年(1449)、鎌倉で元服し、幸数は上杉憲基を烏帽子親とし、また持幸は足利持氏から一字を拝領しているから、関東管領家に属し、船山郷(現在の埴科郡戸倉町・更埴市)の地頭御家人であった。

 『諏訪上社御符礼之古書(新編信濃史料叢書)』によれば、宝徳元年(1449)に海野本郷の諏訪社頭役を勤仕している。
 また海野氏26代海野信濃守氏幸は25代海野信濃守持幸から継承して延徳(1490)頃まで海野本郷の諏訪社頭役を勤仕している。

 この時期の海野氏の所領は、東は東上田・海善寺・海野本郷、北は小井田・林、西は桶沢・房山・踏入、南は千曲川端までとされており、庶子である海善寺や太平寺の氏の一族を代官として従い、さらに深井・小宮山・今井・平原・岩下氏らを被官として、これらの地域を支配していたという。

 大塔合戦で信濃諸豪族の盟主となった村上満信のあと村上頼清の代には、勢力を挽回した小笠原政康に屈服したが、政康の死で小笠原家が分裂・紛争を始めると村上氏は再び勢力を伸ばした。
 小県郡内川東地方で古くから勢力を張っていた海野氏は応仁元年(1467)、村上政清氏と戦い、海野氏26代海野信濃守氏幸は戦死している。 

 応仁元年(1467)、村上政清氏と戦いで敗北して以来、塩田平も村上氏に制圧され、西上州の国人衆も海野氏の支配下を離れ上杉勢力下の箕輪城主長野氏の支配を受け、箕輪衆に組み込まれたので、海野氏の勢力圏は次第に狭められ衰退期に入ったと言える。

 この時期、海野氏の支配圏は海野郷を中心にして西は深井・吉田、東は祢津の東側一帯の別府氏支配地域、北は鳥居峠付近の西上州境界付近の祢津氏所領、南は千曲川付近小田中氏所領までとされる。
 江戸時代の石高に換算すると1万から2万石と考えられる。
 室町時代末期の海野氏は衰亡期ともいえる。

 氏幸の子27代海野信濃守幸棟のころからが戦国時代に突入した時期となる。
 このころ、真田氏は海野一族で記録等に、その名がみられない弱小地侍として海野勢の有力構成員となり得なかったのである。
 永正2年(1505)1月13日に没した夫人「禅量大禅尼」のために、翌年永正3年興善寺の開基となる。
 幸棟は大永4年(1524)7月16日に没している。海野(現東御市和)の興善寺に葬られている。法名は瑞泉院殿器山道天居士。
 幸棟の子の28代海野信濃守棟綱が大永7年(1527)5月20日、高野山蓮華定院宛ての宿坊定書に著判している。

 

海野平合戦

 戦国時代の天文10年(1541)5月13日隣国甲斐の猛将武田信虎は、村上義清をして海野氏を攻略せんとし、同月15日武田・村上・諏訪頼重の連合軍が小県郡へ侵攻し、小県を領する海野氏28代海野信濃守棟綱ら滋野一族(海野氏・祢津氏・望月氏・真田氏)との間で行われた合戦である。

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 信濃国は、室町時代より守護による統制がとれず、戦国時代も守護家小笠原氏の支配力は限定的で、地域単位で勢力基盤をもつ国人領主が割拠していた。
 東信地域では信濃村上義清と海野氏幸が支配領の境界をめぐって争いが激化していった。室町時代の応仁2年(1468)には両者の抗争から海野大乱が起っている。村上氏は海野氏を圧迫すると共に佐久郡にも侵攻を始め、文明16年(1484)には佐久の名門大井氏の大井政則を下し、佐久郡に支配力を得るようになっていった。

 武田信虎は、永正16年(1519)に佐久郡の平賀城を攻めている。
 この時は村上氏(初陣)が援軍として出陣し、武田信虎は平賀周辺に火を放っただけで退散している。
 大永2年(1522)にも大井城を攻めるが、村上氏の援軍により敗北している。

 一方、隣国甲斐でも守護権力の弱体化による家督争いが起こり、戦国初期の動乱が展開しつつあった。永禄5年(1562)武田信虎が叔父信恵撃破し、反守護勢力を一掃し一応の決着をみた。
 永正16年(1519)には本拠地を甲府に移し、国内統一を実現していった。信虎の対外戦略は、はじめの北条氏、駿河の今川氏に向けられていたが、今川氏輝の死去により後を継いだ義元とは同盟を結び、その矛先は信濃に向けられた。当然、海野一族も、その攻撃目標となった。

 諏訪を領する諏訪頼満が甲斐の国人と結んで甲斐統一を志向する信虎と対立していたが、天文4年(1535)9月には武田信虎は諏訪氏と和睦し、翌天文5年(1536)11月には海ノ口城を攻略して佐久郡侵攻が行われ、武田晴信の初陣の戦いと言われている。
 天文8年(1539)には飯富虎信が佐久に侵攻し、村上義清と戦っている。

 武田信虎は駿河国の今川氏と和睦すると本格的な信濃侵攻を行い、佐久郡の攻略を行う。天文9年(1540)には諏訪氏を継いだ諏訪頼重が信虎の娘婿となり同盟関係が強化された。

 天文9年(1540)2月、村上軍が甲斐に侵攻、4月には武田方の板垣信方が佐久に侵攻するが、武田氏と村上氏の激しい攻防が繰り広げられたが、結果として村上氏方が押し切られ、佐久郡は実質的に武田氏に制圧された。

 村上氏と武田氏が佐久郡で争っている間、小県郡では海野氏を中心とする滋野一族が、上野国の関東管領上杉氏を後ろ盾として辛うじて存続していた。
 しかし上杉氏と結んだ海野氏は、武田氏からも村上氏からも共通の敵とみなされ、翌年の天文10年(1541)5月、佐久郡をほぼ制圧した武田信虎は、同盟者の諏訪頼重や前年まで死闘を繰り広げていた村上義清と手を組んで小県へ侵攻する。

 すでに村上氏との戦いで大幅に勢力を縮小していた海野氏には、単独で抵抗する力は残されておらず、海野棟綱は関東管領上杉憲政に援軍を求めた。 当時、海野一族は関東管領上杉氏に仕えていた。海野一族が治める東信濃から上州にかけ地域は、越後と関東を結ぶ重要な連絡路である。
 関東管領家と対立していた武田氏は、上野国から越後国にかけて勢力をふるっていた上杉家の連絡路を遮断し、信州から上杉家の勢力を駆逐しようとしたのである。

海野宗家滅亡

 天文9年(1540)、武田晴信は信虎に従って初めて信濃に入り、佐久郡の諸城を攻め落した。
 さらに翌年の天文10年(1541)5月から兵馬を小県にすすめた武田信虎・晴信軍は佐久郡から、村上義清軍は砥石城から、諏訪頼重軍は和田峠から侵入し、それぞれ名族海野一族の篭もる属城を攻め落として、海野平を三方から包囲した。
 海野一族は、独力では太刀打ちできないとして、関東管領上杉憲政に援軍を要請した。ところが、上杉の援軍は遅れに遅れ、到着したのは合戦1か月後の7月であったという。
 当時、管領家は、相模の北条氏らとの戦いが忙しく、小豪族のことなど全く問題にせず、後回しになったのであろう。

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 援軍の来ない中、海野一族は必死に反撃した。兵力は少ないが、皆一騎当千の兵である。梅雨の時期で神川・千曲川が増水しており、武田軍の攻撃も困難を極めた。
 しかし、多勢に無勢であり、海野一族は四分五裂に分断され各所で大損害を被った。海野氏第28代海野棟綱は破れて、上野(群馬県)へ逃れたのは、そこで上杉憲政の援助を得ようとしたからである。

 ついに、祢津宮内太輔元直は海野氏滅亡時に矢沢頼綱と一緒に武田氏に捕えられたが、諏訪頼重によって命は助けられた。望月氏も武田氏に降伏。

 天正10年(1541)7月になると海野棟綱の要請を受けた上杉憲政は3,000騎を率いて関東から佐久へ入り、小県郡の村上義清をせめて海野を回復しようと試みたが、諏訪頼重が長窪へ出陣して義清の支援の姿勢を示したため果たせず、和睦して帰陣している。
 このとき甲斐勢が出兵しなかったのは、信虎・晴信父子の対立が頂点に達し、ついに子晴信にわれて父信虎が駿府に去るという事件があったためであろう。
 しかし甲斐を完全におさえた晴信の信濃侵攻は本格化し、まず諏訪氏を滅ぼし、伊那の高遠城を落とし、再度佐久に入り小県をうかがった。

矢沢氏は、文明2年(1470)の諏訪神社上社の神事奉仕をはじめとして、延徳(1489~91)・天文(1532~54)・永禄(1558~69)・天正(1573~91)の各年間に諏訪上社の神使御頭を務めている。天正8年(1580)~9年には矢沢綱頼が武田勝頼から沢口での戦功を賞した感状を得るなど、以降、武田氏に属して活躍した。武田氏滅亡後、綱頼は真田氏の重臣として上野沼田城代を務め、その間北条氏との幾多の抗争に優れた軍略を発揮した。天正13年(1585)上田原合戦の折は、綱頼の子、2代三十郎頼康が矢沢城を守り800の守兵で依田源七郎ら1,500の軍勢を退けたという。その後、元和8年(1622)矢沢氏は真田信之に従って松代へ移り、矢沢の地は小諸城主から上田城主に移封した仙石氏3代政勝の領地となった。3代頼邦(頼康の弟)-4代頼貞-5代頼永-6代頼次(頼永の弟)-7代頼豊-8代誠重-9代頼誠-10代頼寛-11代頼容-12代頼尭(1,400石)-13代頼春-14代頼孝-15代頼直(恩田柳水民生の二男)-16代頼道(恩田檪園民知の長男で造り酒経営・長野県議・松代町長)-17代頼忠(松代藩文化施設管理事務所長・真田宝物館の運営)真田家の筆頭家老として活躍された

 天文11年(1542)12月1日、文武両道にすぐれてる祢津元直は武田晴信に臣従し、祢津元直の娘(里美姫)が武田晴信の側室として嫁いだ。また元直は幸隆に従い戸石城攻略において戦功をあげたらしく、祢津の地を回復している。矢沢氏も、諏訪氏ゆかりの神氏であることから知行を安堵された。

 諏訪頼重は立科山北麓の大河原峠を下り、長窪城主大井貞隆の降伏により、無血で城を明け渡す。頼重の遺児、美貌湖衣姫も武田晴信の側室に迎えられた。
 晴信の歌
 「もののふの心にふかく しのびいる つづみの音のぬしぞ こひしき」
 里美の歌
 「甲斐ありて躑躅ケ崎の 雪の野を きみに寄りつつ ともに歩まん」
 湖衣姫の歌
 「いまはただ かすめても取らん山里に 美しく咲ける 白ゆりの花」
  
 棟綱の子の29代海野左京太夫幸義(善)は、天文10年(1541)に村上氏との神川の戦いで戦死した。真田幸隆の妻の兄であり、幸隆にとっては義兄である。
享年32歳。法名赫?院殿瑞山幸善大居士

 海野棟綱は、真田幸隆をともなって上州吾妻郡の羽尾へ逃げ、代々支配した地を追われることになった。
 上州吾妻郡には海野氏の支族が広がっており、棟綱・幸隆にとっては絶好の逃避地であったのかもしれない、棟綱らが身を落ち着けた羽尾は、幸隆の妻の父・羽尾幸全の領地であった。
 幸隆は戦いに敗れて、妻の実家の庇護を受ける身になった。
 棟綱は、羽尾に潜み、散り散りに四散した一族の生き残りと、旧領の回復を狙っていた。

 この戦いは信虎の小県地方侵攻の総仕上げともよべる戦いであったが、天文10年(1541)6月に信虎は嫡男の武田晴信(信玄)のクーデターにより甲斐から追放されるという事件が発生したため、武田氏の声量は一時的に後退し海野氏の旧領の多くは村上義清の支配することになり、7月には海野棟綱の要請を受けた上杉憲政が、箕輪城主長野業政を総大将とし佐久郡に出兵する。

箕輪城は、明応~永正(1492~1521)に長野尚業(業尚)が築城し、子憲業、孫業政により強化された。長野氏は、武田信玄、北条氏康、上杉謙信の三雄が上野国を舞台にしてお互いに勢力を争った戦国の世に、あくまでも関東管領山之内上杉家の再興を計って最後まで奮戦した武将である。特に長野信濃守業政は、弘治年間(1555~8)から数回に及ぶ信玄の激しい攻撃を受けながら少しも譲らず戦い抜いた優れた戦術と領民のために尽くした善政により、名城主として長く語り継がれている。
永禄4年(1561)長野業政は若年の業盛(氏業)を重臣達に託し病死した。業盛は父の遺志を守り城兵一体となって、よく戦ったが12月、武田信玄は北条氏康とともに倉賀野城を攻め、小幡信貞を味方につけ、上州侵攻の先導とし、永禄6年には国峰城・安中城・松井田城などの長野方の要所となる西上州の諸城は次々と武田の手に落ち、加えて若年の業盛に対する不安感もあり離反者も出、永禄8年(1565)6月には倉賀野城も落ち、翌永禄9年(1566)9月29日、さすがの名城箕輪城も武田勢の総攻撃により、ついに落城するに至り、城主業盛は、
「春風にうめも桜も散りはてて名のみぞ残る箕輪の山里」 という辞世を残し一族主従自刃し、城を枕に悲壮な最期を遂げた。長野氏在城は60余年である。
長野氏滅亡のあと、武田氏が箕輪城を支配、武田勝頼は重臣内藤昌豊を城代として入り、続いて子の外記(昌月)が継いだ。しかし天正10年(1582)、武田勝頼が天目山において滅亡によって終わり、織田信長は家臣の滝川一益を厩橋城に入り、箕輪城を治下においたが、この年本能寺の変があり、信長の死後は北条氏邦が城主となり、城を大改修した。
天正18年(1590)7月、小田原は落城し、後北条氏滅亡すると、徳川家康は重臣井伊直政を12万石で、ここに封して関東西北の固めとし、城下町も整備した。その後慶長3年(1598)直政が城を高碕に移し、箕輪城は約1世紀にわたる歴史を閉じた。 構造は、城の標高は270m、面積は47㌶に及ぶ丘城である。西は榛名白川の断崖に臨み、南は榛名沼、東と北とは水堀を回して守りを固めている。城は深さ10余mに及ぶ大堀切で南北に二分され、更に西北から東南の中心線に沿って深く広い空堀に隔てられた多くの郭が配置されている。また、多くの井戸によって城の用水は完備され、六ヶ所の「馬出し」があり、鍛冶場もあり武具など作製や修理をしたであろう

 佐久郡の大井氏・平賀氏・内山氏・志賀氏らは戦わずに降伏している。
 この上杉軍には海野棟綱や真田幸隆らも参戦していたと思われるが、長野業政は諏訪頼重と和睦して、海野氏の旧領小県郡には入らず帰還してしまった。
 このことが、真田幸隆が上杉氏を見限り武田氏に臣従する遠因とされる。  
 海野氏の当主の海野棟綱は勢力を回復できぬまま歴史から姿を消すが、幸義の遺児らは武田氏に仕えた。棟綱と共に上州に逃れた一族の中には、真田幸隆のように後に武田氏に仕えて所領を奪還した者もいる。

 上野国(群馬県)高山村尻高に海野棟綱入道の碑が現存している。

碑面には、
真田海野本国信濃国 貞元親王後胤
伍玉五拾六代 海野行棟長子
清和天皇孫 海野古太良行氏
海野棟綱入道

 と鮮明に刻まれている。
 
 羽尾幸光とその弟輝幸が海野姓を許されたことが棟綱に何だかの関係があるとされている。羽尾幸光・輝幸兄弟や宗家正統とされる海野業吉(海野幸義の長男)が真田幸隆に従い上州で参戦し、岩櫃城攻略に大きく貢献していることが鍵となるかもしれないが、海野宗家は完全に没落し去ってしまったとも言えるだろう。

 現在の長野県東御市にある興禅寺の境内に海野棟綱の碑が建立されている。
そこには次のように刻れてる。
「興禅寺開基 瑞泉院殿器山道一天大居士 大永4年(1524)7月16日」
なお、和歌山県高野山の蓮華定院の所蔵されている過去帳には「器山道天禅定門 信州住海野殿」と御証文がある。

上田原合戦

 武田氏の勢力は大きく後退し、佐久郡は上杉氏、小県郡は村上義清の支配することになる。信虎体制を継承した晴信は天文11年(1542)から信濃侵攻を再開し、7月に武田晴信は妹婿の諏訪頼重を滅ぼし、諏訪郡の勢力を併呑すると佐久郡を奪い返す。

 幸隆は天文12年(1543)武田家臣として、佐久郡岩尾城代となり、信州先方衆として活躍しはじめる。
 4月7日、武田晴信が高遠城を攻める。がしかし、高遠城主高遠頼継は前日の夜に西の天竜川沿いの伊那の福与城主藤沢頼親に頼り、城を脱出し、城はもぬけの空となる。
 6月駿府の今川義元よりの援軍、板垣玄蕃一行と上原城に居る板垣信方の兵と合流し、小笠原長時の出城竜ケ崎城を攻めると同時に福与城も攻め落す。

 天文14年(1545)真田幸隆、小県郡の旧領松尾城に帰る。

 天文15年(1546)5月、武田晴信は前山城に入り、佐久郡内山城(内山城合戦)の大井貞清を攻め滅ぼす。

 翌天文16年(1547)8月、武田晴信が志賀城の笠原清繁を攻略する。 
 また小田井原城など攻略する。
 上野国から上杉憲政の援軍が来襲するが、小田井原で迎え撃つ。武田方は板垣信方を大将として、飯富虎昌・上原昌辰とともに真田幸隆が参戦して勝利する。(小田井原合戦)

 天文17年(1548)2月、甲斐を出発した武田晴信(後の信玄)は雪の大門峠(現在長和町大門)、砂原峠(現在上田市塩田)を越え、総勢8千余の武田勢は倉升山の麓の御陣ケ入に陣を構えた。倉升山一帯には、武田方が陣をすえたことを物語る陣ケ入・御陣ケ原・兵糧山・相図山・物見山・味方原等の小字名が今も残っている。
 一方の村上義清は武田晴信出陣の報に接するや、大老職の屋代政国・清野清秀・楽岩寺光氏に出陣を命じた。さらに、楽岩寺光氏をして高井郡の高梨政頼・井上清政、水内郡の島津規久等川中島四郡の諸将はむろんのこと、上州(群馬県)の諸士にも出兵を促した。義清は家臣諸山上総介を上野国へ派遣し、上州の諸将の間を奔走させていた。さらに、義清は、上州と深い大井貞清を通じ、小林平四郎等の上州勢を味方に取り込んでいる。
 義清は葛尾城に諸将を集め、武田の攻勢をどう迎え討つか評議した。
義清の老中に佐久郡志賀城の笠原清繁の縁者・親類が多く、志賀城陥落を怨み含みて、この弔い合戦を是非すべき、さもなくば村上家の武威を失う、直ちに出陣すべきと老中が奨める、義清はこれに賛同し出陣した。

 2月14日の夜明けにはまだ時がある寅の刻(午前3時)、村上勢は楽岩寺光氏以下3千の兵を葛尾城に残し、義清以下7千余の兵は千曲川の北側に沿って南下し、上田の和合城(上田市岩鼻)に3百余の兵を残し、岩鼻口より渡河、浦野川を前に、天白山のふもとの塩田川原に、産川を前にして陣を構えた。
 この日は朝から細雨が降りしきり、夕方にはミゾレに変わっている。
 村上勢は、一陣に高梨政頼・井上清政・清野清秀等、二陣に須田満親・島津規久・会田清幸ろ小田切清定・大日方平武等、左陣に室賀満正(信俊)、右陣に栗田国時、後陣は山田豊前・斎藤等が固めた。
 一方、武田勢は、一陣に板垣信方、二陣に飯富虎昌・小山田信有・小山田昌辰・武田信繁、右に諸角虎貞・真田幸隆、左に馬場信春、後陣は内藤昌豊、遊軍は原正俊の布陣であった。

 ようやく早春の気配が感じられ、太郎山に逆霧がおり、風が肌を刺すように冷たく、いつもなら東の方に秀麗な姿を見せる烏帽子岳も、厚い雲に覆われていた。真田幸隆は、武田晴信の家臣として出撃し、下之条から上田原付近で村上義清と激戦が展開されました。この合戦を『上田原合戦』という。

 辰の刻(午前8時)ころ、武田方がまず行動を開始し、下之条付近で両軍が激突した。板垣信方が先陣を承わって3,500の兵力で村上方の陣に戸津に融資、つづいて小山田・甘利・才間・初鹿野の各隊も突入し、壮大な野戦を繰り広げた。板垣信方は村上方の一陣を打ち崩し、首級150をあげた。

 義清は直ちに兵を繰り出し、村上勢は板垣信方の陣を急襲する。不意をつかれた板垣勢は狼狽し敗走する。信方は床机に腰かけていたが、安中一藤太が槍をつけ倒れるところを、尾州浪人上条織部に首を取られた。

auto_OZhdTy.jpg板垣信方の墓

 義清は再度突撃する。これに対して武田方の馬場民部信房・内藤修理昌豊が左右から義清を挟撃し、諸角豊後が帰路を遮る。甲兵久保田助之丞が義清の馬を刺し、馬が驚いて棒立ちになり義清が落馬し負傷する。武田方の兵が群がり寄ってきて、義清はもはやこれまでと自害せんとするを屋代源五が押しとどめる。そこへ、義清旗本14・5騎、雑兵4・50が駆けつける。従臣赤池修理亮は、義清を救い上げ、自分の馬を義清に授けた。そして一団となって石隅淵の方面から室賀峠を越え泉口付近(坂城町網掛)に兵を収容し、葛尾城に凱旋した。

 義清が戦場から引き揚げたので、晴信はかろうじて陣を立て直すことができ、そのまま上田原に滞留した。武田方は、板垣駿河守信方をはじめ、甘利備前守虎泰・初鹿野伝右衛門・才間河内守等名だたる将を含め、700余が討たれた。
 一方、村上方も、また、大将義清が負傷、屋代源五基綱(父は屋代正国)・小島権兵衛重成・雨宮刑部正利・西条義忠・森村清秀・若槻清尚・中里清純等名のある武将も討たれ、3百数十人が戦死するなど、大きな打撃をうけた。

石久摩神社の本殿裏に武田方・村上方の武将の墓という五輪塔、周辺には上田原合戦での無名戦死者の墓と思われる石積みが残っています

村上義清が生れたのは文亀元年(1501)で、父は葛尾城主(現在の埴科郡坂城町)顕国、母は室町幕府管領(将軍を補佐して幕府の政務を総括する役職)の斯波義寛の娘で、家臣の出浦周防守国則の妻を乳母と言われています。幼名は武王丸、正室は信濃守護の小笠原長棟の娘で、子に村上(山浦)国清がいる

 この板垣信方(始祖は甲斐源氏の板垣三郎兼信で延徳元年(1489)生れ)は、武田信虎・信玄の二代に仕えた武田家の重臣であるとともに、傳役として若き日の信玄を支えてきたことから、信玄から大きな信頼を得ていたといわれています。天文11年(1542)の諏訪攻略については副将として采配をふるい、その後、諏訪郡代となり信玄の信濃攻めの中心的な役割を果たしました。

 戦いで敗れた武田軍は、石久摩淵台上でようやく陣を立て直し、旗塚一帯で両軍は再度戦うも決着がつかず、上田原に布陣したままである。がしかし
 天文17年(1548)3月5日、武田軍は諏訪上原城に移動。
 7月10日、武田軍は古府中の躑躅ケ崎の武田館を出発し、15日に甲信国境の小淵沢で休息する。7月19日、寅の上刻(午前4時)奇襲作戦に出て、塩尻峠に信濃守護職小笠原長時本陣へ総攻撃する。
 9月1日、北佐久郡の田の口城を奪回して、小山田信有らを救出し、前山城を押さえて、5日後に甲斐黒川金山へ人夫として送り込む。また、佐久尾台城主尾台又六謀叛する。

 天文18年(1549)3月、真田幸隆は望月源三郎・望月新六ら一族を武田氏に服属させ、蘆田(依田新左衛門)・伴野氏らも武田方に降る。4月、武田晴信が佐久春日城を攻略。7月、小笠原長時が武田方を急襲(塩尻峠合戦)したが、武田晴信は迎え撃つた。9月、武田晴信が佐久前山城を攻略、平原城を焼く、真田幸隆参戦する。

戸石崩れ

 天文19年(1550)7月初旬、武田軍は小山田信有らと諏訪郡へ出馬、10日諏訪を経て筑摩の馬場民部殿が築いた村井城に入り、小笠原氏の属城の攻略を督励した。
 武田軍はまづ15日深志(後の松本城)の出城なる戌亥城を猛攻してこれを占領、ついで信濃守護職城主小笠原長時の林城をはじめ深志・岡田・桐原・山家・島立・浅間の諸城を攻め落とし、小笠原長時は逃亡、安曇野の豪族仁科道外も降伏した。
 晴信は19日深志城へ入り、馬場民部信春を城代に任じ、下旬一旦諏訪へもどり、兵糧を備え出陣する。

 8月29日、武田晴信は陣馬山に本陣を構える、大兵を率いて村上氏の戸石城を囲む、戦闘を始める前の行事である「矢合わせ」が行われた。

 9月3日、戸石城へ本陣を寄せた。
 9月9日午前6時、武田軍の総攻撃がはじまった。20日間にわたって攻撃は続いたが、横田備中守高松の死が報じられた。それと同時に大将を失った甘利隊・横田隊がどっと崩れて、陣形はたちまちのうちに混乱を極めた。
 11日、小尾豊信が身代わりとなり討死する。
 城攻めの手詰まりから武田軍は陣形を立て直しを策したが、功を秦せず、配色が濃くなってきた。
 信玄は一戦の小山田隊と後陣の両角隊に連絡を取り、全軍一丸となって、村上軍に当ることを策した。
 このとき勘助は敵陣を混乱させさえすれば、あとは信玄の若さと捨て身が、味方の陣形を立て直すだろうと考えた。
 勘助の作戦と活躍で、信玄方は、危うい急場をしのぐことができた。

 10月1日、早朝から武田軍は退却を始めた。これを見て取った義清軍は直ちに追撃を始めたので、武田軍は大きな犠牲(小山田備中守信有が討死する)を払いながらの退却となった。
 この時、真田幸隆は村上家に属する川中島平の須田新左衛門氏・寺尾氏・清野氏(苅谷原氏が後に川中島の清野と大塚に分家)・春原氏らを味方にすることに成功する。
 村上義清は高梨政頼と手を組み、武田に寝返った清野氏の寺尾城を攻め、この知らせに驚いた幸隆は、晴信に急報し、自らは寺尾城救援に赴く。

 11月1日、攻囲1ヶ月に及んだが、落城させることができず、囲みを解いて退却した。

 真田幸隆は善光寺平へ進んで村上義清の背後を攪乱していたが、急きょ晴信の本陣に帰り、状況の急変を継げた。それは北信濃の反乱を鎮めた義清が、全力を奮って戸石城攻めの救援に来るというものだった。
 砥石城攻めは完全に失敗であったが、晴信は機を逃さず戦場を離脱したのである。
 この退却は、幸隆の献策により、武田晴信より諏訪形1,000貫文の地を与えられる。

 天文20年(1551)5月20日、武田軍が引き上げて行ったので、義清は戸石城にわずかな兵を残して本隊を引き上げた。
 この有様をじっと見ていた真田幸隆は、戸石城を守る義仲軍に手をまわし、城中に何人かを味方につけ、その中の矢沢氏は武田氏に内応し、火を樓櫓に放ちて敵を導いき、ころ合いを見計らって攻撃をしかけた。
 要害頑固な戸石城も、真田幸隆の天才的な知略によって、砥石城は殆ど一兵も損ずることなく不意を襲って「乗っ取る」という形で落城させてしまったのだ。

 7月25日、武田晴信が信濃に出陣する旨を飯富虎昌が真田幸隆に連絡するが、これは飯富虎昌と上原昌辰宛ての武田晴信の書状であり、晴信が小県へ出馬する旨を真田方にも伝えてくれとあって、小諸城主飯富虎昌・内山城主上原昌辰と同列に扱っていることから、真田幸隆の武田家臣としての地位が固まったことが明らかである。

 9月、内山城代上原伊賀守昌重が、さきに討死した小山田備中守昌行の名跡を継ぎ、小山田備中守昌辰と名乗る。

戸石城(標高800m)の支域ともいう米山城(村上義清公の石碑がある)には、有名な白米城伝説がある。武田信玄は戸石城を猛烈に攻め、ついに水の手を断った。まもる村上義清勢は、白米を馬の背に流して洗うふりをし、遠目には水がいくらでもあるように見せかけた。こうして信玄の猛攻を防ぎながら、義清は城を捨てて越後へ落ち延びて行ったという。米山城は戸石城から続く尾根が上田方面に突出した地点にあり、上田盆地が一望できる見晴らしの良いところで、ハイキングコースとしても親しまれている。今でも少し地面を掘れば焼き米が出る。この焼き米は、籾のまま煎った兵糧ではないかと言われている

川中島合戦がはじまる

 
 天文22年(1553)4月9日午前8時ころ村上義清は武田方の勢いを見て戦わずして葛尾城を逃れ、長尾景虎(上杉謙信)を頼って越後へ落ち延びたのです。その後義清自身も一騎打ちで有名な永禄4年(1561)の川中島合戦などに従軍して、旧領の回復を目指しましたが、結局意図は達成できず永禄8年(1565)に越後の根知城主(現在の糸魚川市根知)となり、嫡男の国清は上杉謙信の養子に迎えられて、山浦景国と改名、上杉一門となりました。

村上義清は武田氏によって攻撃され、居城が消失しました。義清の夫人は逃れて千曲川の岸にいたり、お金をもっていなかったため、お礼に自分の笄(こうがい)をとって船頭に与えて川を渡りました。しかし武田軍に取り囲まれ、夫人は逃れることができないのを悟り自刃しました。後に布陣の霊を祀って石の祠を建立した。これが有名な「笄の渡し」伝説であります

 義清は元亀4年(1573)に亡くなり光源寺(現在の上越市)に埋葬されました。義清の墓所は坂城町にもありますが、根知城下の根小屋の安福寺(糸魚川市)に五輪塔があります。このほかにも新潟県津南町や上水内郡飯綱町にも墓があり、それだけ義清が慕われていたという証かも知れません。

村上義清の墓は、第3代坂木代官長谷川安左衛門利次が名家遺跡が失われないよう、明暦3年(1657)義清公の孫義豊や村上氏の臣出浦氏の子孫、正左衛門清重らにはかり、自ら施主となって出浦氏所有の墓地に、義清公供養のための墓碑「坂木府君正四位少将兼兵部小輔源朝臣村上義清公神位」を寄進によって設立したものである。その後、寛保2年(1742)清重の子清平が玉垣を築き、寛政3年(1791)清平の子清命が、石柱「御墓所村上義清公敬白」を建てた。昭和45年以来諸整備補修が行われ、昭和47年墓碑の上屋と鉄柵が設置された。平成8年には全面的改修となり、現在の諸施設となった

 ここでも真田幸隆は大須賀氏を調略しており、幸隆の活躍が大きかった。
真田幸隆は戸石城の普請の実務担当をつとめた。また幸隆は仏門に入り、一徳斎良心と号す。

 謙信は川中島に出兵する。4月22日、甲越両軍最初の衝突(川中島合戦のはじまり)武田軍は後退し、義清は旧領を恢復して、小県郡塩田城に拠住す。
 8月5日、信玄が塩田城をおとし、義清逃亡。
 8月10日、真田昌幸(11才)を人質として甲府へ送り、代わりに上田秋和350貫文の地を与えられる。
 9月、信玄が再び川中島に出兵、各地で武田軍は戦う。

 天文24年(1555)4月、川中島合戦激戦開戦。

 弘治元年(1555)7月、川中島合戦二回目の対戦。対陣4カ月におよび、10月15日雪斎の仲裁により休戦、両軍和睦して撤退する。武田軍は諏訪に退く。11月6日、諏訪の湖衣姫ご逝去す。享年25才。
 弘治2年(1556)9月8日、信玄が真田幸隆に、その攻略を即し、埴科郡東条の雨飾城を攻め落して、城将となる。
 弘治3年(1557)2月、武田軍が葛山城(善光寺裏の山)を落とす。
 4月、謙信が信濃に出陣し、川中島合戦三回目の対陣する。
 永禄元年(1558)4月、幸隆が小山田昌行とともに、東条(雨飾)籠城衆に定められる。
 永禄2年(1559)5月末、長延寺の実了僧都に越中の一向宗門徒を束ねてもらう約束。岐秀大和尚により出家し、薙髪して晴信改め法名信玄を授かる。
 永禄3年(1560)、羽尾入道・海野長門守幸光は鎌原の砦を攻め、鎌原敗れる。鎌原宮内少輔筑前守幸重父子平原において信玄に出仕する。
 この頃、幸隆を通じて上野の海野一族は信玄に随順する。
 また、海津築城に幸隆も助力する。
 永禄4年(1561)5月、真田幸隆は西上野に出陣する。
 8月真田幸隆岩櫃城を攻める。
 8月23日、上田原古戦場にて敵前法要し、海津城へ向かう。
 9月8日夕方雨、9日晴れ、夜半から10日の夜明けにかけて、濃い霧が発生する。
 21日川中島合戦が激戦となる。、真田幸隆・信綱父子は武田方の将としてこの川中島合戦に参戦する。真田幸隆・信綱・昌輝・昌幸父子は、妻女山を攻める。
 これが、有名な武田信玄(武田晴信)と上杉謙信(長尾景虎)の一騎打ちとして伝えられる。

上州海野氏の戦い

 永禄2年(1559)3月、羽尾長門守海野幸光は大洞山雲林寺(曹洞宗、安中の青木山長源寺末)を創建する。
 9月、信玄は安中・松井田・箕輪城を攻める。
 10月、岩櫃・武山の領民が小野子庄に逃散する。信玄は倉内城(沼田)に入る。

 永禄3年(1560)、羽尾道雲入道(幸全)、海野長門守幸光が鎌原の砦を攻める。
 鎌原敗れる。鎌原宮内少輔筑前守幸重父子は幸隆の斡旋により、信州平原において信玄に謁す。
 8月、謙信は厩橋城(前橋市)に入り年越しする。

 永禄4年(1561)5月、幸隆は西上州に出陣する。
 8月、武田信玄は真田幸隆(松尾城主)・甘利左衛門尉(小諸城主)を大将とし、旗本検使として曽根七郎兵衛を命じ、その他信州勢・芦田下総守・室賀兵部大夫入道・相木市兵衛尉・矢沢右馬介・祢津宮内太夫・浦野左馬允ら総勢3,000余騎をつけ、大戸口、三原口の両手に分けて岩櫃城へと攻め寄せた。(第一次岩櫃城攻略)
 これに対して岩櫃の斎藤憲広は、人の和を失って全く勝算なく、善導寺の住僧を仲に和睦する。
 鎌原・羽尾両氏の境界線を信玄が定めて、双方が和睦している。

 10月、羽尾道雲入道(幸全)は海野長門守幸光の兄弟を中心に、富沢加賀守康運・湯本善太夫・浦野下野守・同中務太夫・横谷左近将監ら600余騎を味方に誘い、鎌原城の要塞に押し寄せた。
 岩櫃の斎藤憲広によって鎌原城は攻め落され、羽尾幸全が斉藤方として城代となる。
 これに対して、兼ねてこの事あるを知っていた鎌原幸重は嫡子筑前守を赤羽根の台に出し、西窪佐渡守を大将として家の子今井・樋口を鷹川の古城山へ差し置いて、幸重自身は鎌原城にあって指揮に当たり、真田幸隆は甘利昌忠とともに鎌原城を奪還する。

岩櫃城は、岩櫃山(標高802m)の中腹にあり、鎌倉時代初期のころ吾妻太郎助亮により築城されたといわれています。城郭の規模は1.4㌔㎡で上州最大を誇り、甲斐の岩殿城・駿河の久能城と並び武田領内の三名城といわせてる。徳川家康の一国一城令が慶長20年(1615)に発されにより400余年の長い歴史を残し、その姿は消えました

 永禄5年(1562)3月、甲府から三枝松善八郎・曽根七郎兵衛、信州から室賀入道を検使として現地で羽尾・鎌原の境界線を定めた。
 信玄の検使に羽尾入道は、不満を示し、斎藤憲広(斉藤太郎越前守一岩斎)に訴えてきた、憲広は熊川境界を不当として、山遠岡与五右衛門尉・一場右京進の両名を使者として鎌原幸重に伝えたが安否にかかわる重大事であるととして拒否をした。鎌原同地を引き払って小県郡浦野領地を信玄に同高の地をあたえられる。かくして鎌原の領地は、そのまま羽尾の手中に入る。
 10月、突然鎌原城を引払って、一門はことごとく信州佐久郡へ退去してしまったので、羽尾道雲入道(幸全)は鎌原城に入る。
 信玄は翌年3月、甘利左衛門尉(小諸城主)を以って鎌原の許へ、羽尾領と同等の土地を、小県郡浦野領内に与える。
 かくして鎌原の所領は、そのまま羽尾の手の中に入ったしまった。

 永禄6年(1563)3月、三原荘をめぐって鎌原氏と羽尾氏との争いが再燃する。

 6月、羽尾道雲入道(幸全)は万座の湯(万座温泉)へ湯治中であり、入道の嫡男源太郎も岩櫃城へ伺いて留守であると鎌原の百姓から報告されてきた。
 真田幸隆は、祢津覚直・甘利左衛門尉らと少々加勢をもらい鎌原へ向かった。この時鎌原城には羽尾の留守兵僅か5~60人程いたが、これを聞くと城兵は早々に城をあけて逃げ去ってしまった。
 鎌原幸重は一戦も交えず、一兵も損うことなく鎌原城を奪い返すことができたのである。
 羽尾道雲入道は、6月下旬万座の湯から山を越え信州高井の郷(上高井郡高山村)へと落ちて行った。どうすることもできないことから、越後の上杉謙信に援軍を求めた。武田と上杉の争乱への戦火となる。

 8月下旬のこと、岩櫃城内において斎藤憲広は、作戦会議を開いて、「鎌原氏を討つ」と計ったところ、同意したので、早速一門である中山城主中山安芸守を使者として派遣した。
 沼田城主沼田憲泰は快く受けたので憲広は大いに喜んで、鎌原を攻め滅ぼす決意を固めたのである。

 9月、信州高井に落ちた羽尾入道は鎌原老臣樋口次郎左衛門を利用しようとして、岩櫃城の憲広からも弟海野長門守を使者として、「お前の城主鎌原を打ち取ったなら鎌原幸重の所領はそっくり樋口に与える」このことを伝え、全面同調することになった。
 樋口は早速高井にいる羽尾入道に「大前の辺で、自分は白馬で、鎌原宮内幸重は黒馬で出陣するので、これを目標に鉄砲で射殺するようにと、詐謀をこまごまと書いた」密書を送る。
 ところが、鎌原の黒馬は膝を折ったので、樋口は仕方なく自分の白馬に乗換えて進軍した。入道はかねての通り、鉄砲の上手な猟師を雇い、物陰で黒馬めがけて鉄砲を放った。弾は樋口の胸を貫通し、従う者も、その場で射殺された。
 入道は黒成馬の鎌原を打取った。白馬に跨る大将樋口だと思い、弓や鉄砲をしまい、弁当を出して酒盛りをしようとする所へ鎌原勢が一度に、どっと押し寄せたので羽尾勢は右往左往して、敗れて平戸川へと落ちて行った。

 9月下旬のこと、斎藤憲広は越後上杉家の後ろ盾により長野原城へ進軍、、長野原の合戦で真田幸隆の弟常田新六郎俊綱は城代として守っていたが須川橋近くの諏訪明神の前まで出向いて防いだが羽尾と戦って討死し果てたのである。
 真田幸隆は岩櫃城を攻めていたが、戦局は思わしくなく和議を余儀なくされる。
 羽尾幸光と羽尾輝幸の兄弟が武田方に内応する。
 真田幸隆は羽尾幸光と羽尾輝幸の兄弟の助力により斎藤実憲を調略する。

 10月13日、真田幸隆は再度(第二次岩櫃城攻略)、上野国吾妻郡の岩櫃城攻めをする。斉藤憲広の甥・斉藤弥三郎は岩櫃城にいて、憲広の居館に火を放ち、木戸を開いて真田軍を導いたので城内は大混乱となり、家臣が真田軍を防ぐ間に憲広と嫡男憲宗は岩櫃城を脱出して嵩山城へ向かったが、幸隆の次男・昌輝の軍がいたので、嵩山城へは入れず越後へと逃れた。
 岩櫃城突入に矢沢頼綱も参戦している。憲広の次男・四郎太夫憲春と一騎打ちをし、不動谷の南の野場で見事に打ち取った。
 祢津元直も、この時幸隆の重臣として活躍している。
 岩櫃城主斎藤越前守入道は上杉謙信を頼って越後へ落ちる。
 岩櫃城を鎌原幸重と湯本善太夫に城代として任せる。

 11月27日、鎌原宮内少輔幸重は甘利・祢津両氏の加勢を得て、その兵力300騎、夜襲に乗じ恨みの敵である羽尾入道の館を急襲した。入道は手勢僅か5~60人の手薄で、雪の夜の急襲であったので、妻女を連れて夜半を徒歩で須賀尾峠を越えて命からがら大戸の館へたどり着いた。大戸真楽寺の妻は入道の妹であった。深い雪と嵐に手足は凍傷におかされ、やっとのことで明けがた逃げ延びたが、その後の消息は全く不明であり、あわれな末路であった。

 真田幸隆は吾妻郡の守護に、鎌原宮内少輔・湯本・三枝松を岩櫃城代とする。
 
 永禄7年(1564)、1月海野長門守幸光・海野能登守輝幸兄弟は真田幸隆のお預けとなり、信州小県郡・佐久郡の内、少々の土地をもらったに過ぎなかった。
 鎌原宮内嫡男筑前守は甲府の信玄に年始に伺う。
 3月、幸隆は上野長野原に出陣、真田一徳斎の号が初見。
引きつづき、武田晴信は海野・祢津らと共に上野に在陣を命じる。この方面の将として計略に務める。
 10月には、岩櫃城を落とす。

 永禄8年(1565)11月、仙蔵の砦に陣した幸隆は、真田氏に就いた植栗・冨澤らを先鋒隊として、嵩山城攻撃を開始。五反田台というところで両軍が七度に及ぶ戦闘を繰り返したが、城虎丸の斎藤軍は次第に真田軍に押されていき、嵩山城に立て籠もっている。
 幸隆は嵩山城を四方から包囲して、五反田台の戦いから7日後の17日に夜襲を決行、真田軍は大手一の木戸口を攻め破り、火を放っている。火が燃え上がるなか斎藤憲宗は観念し、腹を十文字に掻っ捌いて自決し、弱冠18才の城虎丸は天狗の峰にかけ上って、真田軍をめがけて身を投じている。これを見ていた兵士と女たちも、次から次へと岩上から飛び降り、悲壮な最期を遂げたている。嵩山落城により、吾妻郡の最大勢力を誇っていた斎藤氏は滅亡し、真田氏は吾妻郡を支配下に収める。
 幸隆は正面きっての攻めでは落とせず、内部工作を用い、憲宗と斎藤憲広の家老である池田重安佐渡守を内応させて、城内の動揺を誘って嵩山城を攻め落したという。
 また、嫡男信綱が陣を置いたところは「陣平」という、それが地名として現在も残っている。矢澤綱頼は嵩山城合戦では前線には出ず、岩櫃城の守備に付いている。これは、上杉の白井・沼田衆の来襲に備えていたためである。

 永禄9年(1565)、羽尾幸光と羽尾輝幸の兄弟が岩櫃城代となり、吾妻衆70騎の与力と城を守る。
 武田晴信が嫡男武田義信の謀反の疑いありとして、自害を命じる。
この時晴信は、家臣団の動揺を防ぐために、ほぼ全域の家臣団から起請文を徴収した。
 この中で真田氏に関係ある地域では、小県郡で室賀信俊・海野幸貞・祢津政直・祢津直吉・望月信雅・依田信盛・小泉一族、吾妻領では、浦野幸次、海野衆では、真田綱吉らの名前がみえる。
 昌幸(武藤喜兵衛の)長男信之が生れる。
 9月29日、幸隆が上州箕輪城攻め落城し、長野氏は滅びる。

 永禄9年(1566)、鎌原・浦野・湯本・西窪・横谷・植栗の6氏だけは幸隆の直属とし、その他富沢以下70余騎を配下として海野兄弟は岩櫃に居住し、吾妻郡代となる。

海野輝幸の子幸貞は武田信玄に仕えて三河守と称す。

 永禄10年(1567)3月6日、真田幸隆は上杉一族長尾憲景が籠る白井城(群馬県子持村)を攻略する。
 白井城攻略に関しては永禄8年から元亀3年までの間で諸説はあるが、11月23日白井城代を勤めていた祢津政直宛てに武田晴信から知行があてがわれている。
 昌幸(武藤喜兵衛の)次男信繁(幸村)が生れる。

永禄10年(1567)8月、武田領の家臣団が晴信に提出した起請文には海野氏関係として、三河守幸貞の単独のもの、信濃守直幸・伊勢守幸忠・平八郎信盛の連盟のもの、「海野被官」として桑名・塔原氏ほか5名連記のもの、「海野衆」として真田綱吉(真田幸隆の兄)・神尾房友ほか12名連記のものがある。海野衆の中には幸義の嫡男左馬允幸光(業吉)の名も見えている

 永禄12年(1569)10月12日付の武田氏竜宝朱印状による軍役定書の宛名は海野衆である海野伊勢守・海野三河守の連記となっており、小県郡の海野氏とみても、有力な海野一族と思われる。傍系かも知れないが、なお数家の海野氏が存続していたことを示すものであろう。

 元亀元年(1570)このころ、信綱上野の最前線を守る。
 4月、信玄は春日虎綱(高坂弾正)に後事を信綱に託して伊豆侵入の武田軍に加わるよう命ずる。

 元亀3年(1572)3月、幸隆が計略で上野白井城を落とす。信玄がそれを賞し、箕輪城に在城して春日虎綱(高坂弾正)の支持を受けるよう命ずる。
 三方ケ原合戦で武田晴信は徳川家康を破る。晴信は川中島地方からの逃亡者の逮捕を、小県の諸領主祢津松鴎軒(常安政直)・真田信綱・室賀大和入道・浦野源一郎・小泉昌宗らに命じる。

 天正元年(1573)3月、白井城が上杉軍のために奪われる。幸隆は引続き、上野で上杉方と戦う。
 4月12日、武田信玄が三河より帰陣の途次に病に倒れて、伊那郡駒場で死去している。

 法名 恵林寺殿機山玄公大居士 53才。

 天正2年(1574)5月19日、真田一徳斎幸隆が戸石城で病死する(永正10年(1513)に生れ)
 法名「笑傲院殿月峯良心大庵主」 享年62歳(高野山蓮華定院過去帳)
長子真田源太左衛門信綱が家督を継ぐ。38歳。
 11月、信綱が四阿山別当職を安堵される。 

 天正3年(1575)5月21日、長篠の奥平信昌が徳川家康に寝返ったために武田軍は三河まで出陣している。
 武田信実(信玄の六男)が守る鳶ケ巣山の砦が酒井忠次に奪われ、設楽原に押し出された形となった、この設楽原決戦場の柳田集落の住民にも武田氏は手をのばしておいたので、いざという時は必ず味方になってくれると武田方は思っていた。
 戦いの準備がはじまると、この土地の者は織田・徳川連合軍の人夫になって、堀を掘ったり、柵を造ったりしていた。
 決戦の日、戦いが武田軍に不利になり、やがて武田勝頼軍は、織田信長・徳川家康の連合軍と三河長篠城(愛知県鳳来町)に戦って壊滅的な敗北を喫した。
 これが世にいう「長篠の合戦」という。
  
 設楽原では真田源太左衛門尉信綱・真田兵部丞昌輝の兄弟は右翼隊に属し、穴山信君・一条信竜・馬場信房・土屋昌次らと共に、かねてから今日の戦いを必死と思い極めていたから、少しもひるまず奮戦して織田陣地を攻撃したが、遂に古戦場の三子山で真田信綱・昌輝兄弟の他に一族の常田図書・祢津神平・鎌原筑前その他宗徒の家臣らと共に、乱戦の中で討ち死にして、その場にひっそりと墓(愛知県新庄市八束穂)が建っている。
 その墓碑は一基で、真田信綱・昌輝兄弟の名が刻まれている。
 墓は、今でも宮脇の安済久夫氏がお守りしている。

 信綱の首は、徳川の士、渡辺半十郎政綱がとったという。
 信綱は、武勇抜群で武田信玄・勝頼両代にわたって功績が多かった。
上田市真田の信綱寺には信綱の墓がある。
 山門に桜の古木があり、長篠の戦いで討死した信綱の首級を、その臣、白川勘解由兄弟が持ち帰り、ここに埋めて殉死した。
 その後寺の裏山に改葬して、立派な墓を建立した。
 宝篋印塔二基があり、一基は信綱のである。他の一基は妻のものと言われているが、妻の墓は別の寺にあり、昌輝のものとも言い切れないとのことである。
 本堂には信綱の鎧の胴、首級を包んできたという白川勘解由の陣羽織・白絹地の背旗などが宝蔵されている。

 渡辺半十郎政綱が取ったほどの乱戦であったとすれば、弟の昌輝の首を兄信綱のものと誤認したのではないかとさえ考えられる。
昌輝の墓は、設楽原だけということになる。

 信綱は享年39歳、法名 信綱寺殿大室道也大禅定門
 昌輝は享年33歳、法名 嶺梅院殿風山良薫大禅定門

  三男昌幸は信綱に代わり、武藤家を辞して真田姓に復し家督を継ぐ。

 10月、昌幸が河原隆正(母の兄)に真田町屋敷年貢を宛行う。
 11月、昌幸が四阿山別当職を安堵される。
 勝頼が長篠で戦死した望月昌頼の家に、武田信豊の女を養子とし、望月の家督を継がせる。

上州海野氏の滅亡

 
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 海野兄弟は真田の一族で、父は羽尾景幸といい、三原庄羽根尾に移住していた。長男は羽尾幸世、二男は海野長門守幸光、三男海野能登守輝幸、四男を郷左衛門、女は大戸真楽斉の妻となった人で五人兄弟である。幸光は永正4年(1507)生まれ、輝幸は同7年、信州海野郷に生れた。
 海野兄弟は、非常に勇猛な侍で、特に輝幸は強弓をひき、荒馬をよく乗りこなし、日本武道史にも名のある新当流兵法の達人といわれる。

 海野兄弟は永禄初年(1558)のころより上州岩櫃城主斉藤憲広に仕え岩櫃城うちに屋敷(現在残る殿屋敷は長門守の屋敷址という)を与えられていた。  永禄6年(1563)10月斉藤氏滅亡後は甲斐の武田に属し、武田氏滅亡寸前までの約16年間、波乱多い乱世を息抜き、その生涯を真田氏のために捧げたのであった。

 長兄の入道は、11月末大戸城に逃げている。
 そして永禄9年(1566)に幸光・輝幸兄弟は岩櫃の城代となり、武田氏に属し真田幸隆の配下についていた。長門守幸光は、修験道に帰依して福仙院と号し、金剛院の法弘法師に師事していたという。
 幸光は深く仏教に帰依し、敬神の念も厚かったことは下記の事例を見てもうかがえる。
 (1)長野原町雲林寺・羽根尾宗泉寺の両寺を建立している。
 (2)鳥頭神社(矢倉)に鰐口奉納 武田氏に忠誠を顕すためである。 

 天正2年(1574)2月、戸石城にて真田一徳斎入道幸隆が病死する。信綱が家督を継ぐ。法名 一徳斎殿月峯良心大庵主 享年62才。
真田山長国寺に葬する。

 天正3年(1575)5月、長篠の戦で、武田勝頼は大敗し、真田信綱。昌輝が戦死し、昌幸が家督を継ぎ、砥石城に入り吾妻郡代となる。
 羽尾長門守海野幸光が小滝山宗泉寺(曹洞宗・雲林寺末・長野原町羽根尾乙301)を開基する。

 天正4年(1576)3月、昌幸が上野榛名山に禁制を掲げる。
 4月、昌幸が、上州勢多郡那淵城を攻め取り、続いて名胡桃・小川をはじめその他の諸城を攻略する。
 北条氏政の上野侵略を武田勝頼に報告する。勝頼が北上野の防備を厳重にさせる。海野長門守(羽尾幸光)・能登守(羽尾輝幸)兄弟は、昌幸に属する。昌幸は岩櫃城主となり、真田家を継ぐ。

 天正5年(1577)8月、武田勝頼が昌幸の手紙に答えて織田信長の行動が活発なことを告げる。

 天正6年(1578)3月19日、上杉謙信が死に、景勝・景虎両養子の間に争い(御館の乱)が起る。勝頼は景勝を応援する。
 越後が乱れると、上州方面への上杉方の圧力が弱まっていたのに乗じて、昌幸は上州への計略を進める。

 天正7年(1579)2月、勝頼が昌幸上野石橋郷の内一軒分の諸役を免ずる。
 3月17日、昌幸は上野吾妻郡の地侍羽尾幸光らに上野中山城と尻高城を奪い取取られたと報じる。
 6月、幸隆の活躍によって吾妻郡を統治した武田氏も、沼田城奮取を最大の目標に掲げていた矢先に、北条氏政の攻撃により、沼田城(上杉氏方の藤田信吉城主)を接取される。
 昌幸は、利根川を挟んで沼田城と対峠している名胡桃・小川・川田の諸城を落とし利根川以西の人たちを傘下にする。

 天正8年(1580)1月、昌幸は、利根川を渡り前線の明徳寺を攻め落し、沼田城にじわりじわりと圧力をかける。
 2月、昌幸が僧某に上野倉内を手に入れたら所領を与えようと約束する。
 3月、昌幸が高野山蓮華定院を前々のように真田郷住民の宿坊と定める。
 4月、矢沢頼綱が沼田城を攻め、城内にいた金子美濃・渡辺左近允・西山市之丞等が降伏し、それを甲府に出張中の昌幸に報告、勝頼は頼綱の戦功をほめ(これを賞して勝頼が頼綱に宛てた感謝状が今も残っている)、昌幸をすぐに帰城させることを知らせる。この後、昌幸は引続き沼田城の攻略に従う。
 4月26日、昌幸は沼田城潜入を田村角内に命じ、籾50俵を与える。
 5月4日、昌幸は沼田城を陥とるため、主将に矢沢頼綱を任命する。
城主藤田信吉は降伏の意を示して、沼田城を昌幸に明け渡す。
 続いて、上野猿ヶ京城三ノ曲輪に放火した中沢半右衛門に荒牧10貫文を宛行う。
 この頃、昌幸の陣容は約4,000人といわれるが、後に松代藩の重臣となった家臣の主なものは次の通りです。(加沢記)
 湯本三郎右衛門・木村戸右衛門・大熊五郎右衛門・河原左京・高梨兵庫 
 助・木村勘五左衛門・鎌原宮内・矢野半左衛門尉・白倉武兵衛・赤沢常隆
 介・出浦上総介・宮下藤右衛門。
 昌幸は、また上州名胡桃城の鈴木主水などを味方に引き入れることにより名胡桃城と小川城の攻略に成功する。
 沼田城主藤田信吉が武田方に降る。
 昌幸は降状した藤田信吉をそのまま城代として残し、目付役として海野能登守輝幸を含む四人を城代として任命しました。

 5月23日、昌幸は勝頼の命により、沼田城在番の海野幸光らに軍令を与える。
 6月、森下又左衛門に沼田領のうちで領地を与えると約束する。
 9月、勝頼が金井外記に、上野名胡桃50貫を宛行う。昌幸これを奉る。
 
 天正9年(1581)昌幸は内応した須田新左衛門に南雲20貫文を与え、また屋敷地などを安堵する。
  
 3月、会津に逃れていた景義は由良・太胡両氏の支援を受けて、沼田旧臣等を誘い兵3千で沼田城奮取を目論む。甲府でこの報を聞いた昌幸は、急ぎ沼田に返って伯父の金子美濃に「甥の景義を打ち取れば、恩賞として千貫の知行を与える」と指示する。欲心の強い金子は、恩賞欲しさに甥の景義を沼田城内の捨て曲輪に誘い込み、暗殺している。
 昌幸は、景義供養のために下沼田に禅寺・法喜庵を建てている。

 真田昌幸との約定でこの年の夏のころより沼田城に藤田と弟海野能登守輝幸を城代としていた。岩櫃城・沼田城攻略に功のあったので吾妻郡一円は兄弟に与える旨を約定したのである。長門守は違約であるとして家老の渡利常陸介、佐渡豊後を使者として上田の昌幸に抗議した。
 ところが昌幸はこの約束に反して郡内の西部を鎌原・植栗・池田・浦野・西窪・横谷の7氏に、その地知行地として与える旨を回答してきた。

 11月上旬、鎌原・湯原両氏は海野兄弟は北条氏に組して逆心のあること顕著である旨、前記の7人の連判をもって昌幸に訴え出たので、大いに驚き、叔父矢沢頼綱と相談すると矢沢は「海野の北条氏と組することは必定である。中務太輔(海野能登守輝幸の子)は私の聟で、孫も三人あるがいたし方ない。速やかに討伐すべきである」と進言してので討伐を決意したが、昌幸としては一生の不覚と言わねばなるまい。海野兄弟を排除するために昌幸を利用したのではないかと思われる。

 11月21日真田昌幸は舎弟真田隠岐守信尹を大将にに命じ、鎌原。湯本らの吾妻180騎余と雑兵1千余人の軍勢で岩櫃にいる海野長門守幸光を攻め、長門守幸光は75才の老齢で、しかも目を患い、殆ど盲目であったが、3尺5寸の大刀を振りかざし、敵14~5人を切り倒したが敵かなわず、居館に火を放って後に、腹を十文字にかききって誠に悲壮な最期を遂げた。
 幸光の妻(35才)と14才の娘は、渡利常陸介が付き添って越後へと逃れようとしたが、真田軍に取り囲まれたので、観念した常陸介は、泣きながら母娘の首を落としたといわれる。
 幸光を誅した信尹は、鎌原・湯本・池田の三将を岩櫃城に残し、輝幸の居る沼田城に向かう。

auto_lSo5kM.jpg岩櫃城

 岩櫃城の長門守を打取った真田隠岐守信尹は、沼田の城代藤田信吉と図り、だまし討ちを企むも、早くこれを察した海野能登守輝幸と子息中務太輔幸貞親子は迦葉山に行き「逆心の無いことを直接訴えようと」緋縅(ひおどし)のヨロイを着け、家重代の名刀茶臼割3尺3寸の太刀を履いて名馬市城黒に乗り、嫡子幸貞もアジ毛の馬に乗って佐藤軍兵衛以下郎党150余の兵騎を率いて共に城を出ました。
 城門には真田信伊・藤田の兵2,000余が固めていたが、威風堂々と一行に気圧され道を開き通過し、迦葉山(かしょうざん)に入ろうとしたが、その途中十二の森(女坂)において包囲され、奮戦ののち多勢に無勢、やがてほとんど討死し、海野親子はもはやこれまでと、22日に父子は豪勇田口と木内八右衛門の死体に腰うちかけて、「兵の交わり面白の今の気色や」と謡いつつ父子と互いに刺し違え女坂の新雪を鮮血に染めて悲壮な最後を遂げた。
 ときに能登守輝幸は73才の老年、幸貞は38才の壮年であった。これにより羽尾氏は滅亡する。

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 海野長門守幸光の法名は、雲林院殿前長州洞雲全龍大居士といい、長門守の旧領だった羽根尾城山麓の地、羽尾北小滝にその墓がある。
 羽根尾城は天正8年(1583)、昌幸の命により草津の湯本氏が在城することとなったが、いつごろか廃城になったかは詳下ではない。
 なお、迦葉山の住持は不憫に思い、翌23日その討死の場において父子を手厚く弔った。弟能登守輝幸の墳墓は沼田市迦葉山道沿い岡谷地内阿難(女)坂十二の森近くの路傍に、昭和2年に、その霊を慰めるため土地の有志によってその傍に、父子二つの石祠と「海野霊墳」の頌勇碑が建て長くその武勇を讃えている。その側に一本の巨松がそびえて墓を守っている。
             (山崎一・山口武夫共著「吾妻郡城塁史」より)

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迦葉山龍華院弥勒護国禅寺は「天狗のお山」として知られ、沼田市内から北東へ16㎞の山の中にある。開祖は嘉祥元年(848)、上野国の太守、葛原一品親王(桓武天皇の皇子)が比叡山三祖の円仁慈覚大師を招いて開かれた。唐より帰朝間もない慈覚大師は唐の「迦葉佛鶏足山」と似てる山並みから「迦葉山龍華院弥勒護国禅寺」としました。当寺が曹洞宗に改宗の折天巽禅師に同行の高弟で中峯尊者という方がおり、伽藍造営・布教伝道など大変努力されたが、住職が大盛禅師に代がわるおり、自分の役目が終ったことで昇天し、その後に天狗のお面が残されていたと言われ、この中峯尊者が「お天狗さま」としてあがめられ、迦葉山信仰により功徳を信じ、天狗面を奉納する習わしが広がった。

 幸貞の次女は祢津志摩守元直の妻となり、真田信幸の乳母として真田家に仕え、のち剃髪して貞繁尼と称した。

 矢沢綱頼には娘がいて。海野幸貞の妻になっている。海野兄弟誅殺の時、長子の太郎は天正9年(1581)に僅か8才であったために助命され、長じて、姉婿の家で養育されて原郷左衛門と称した。
 元和元年(1615)大阪夏の陣で討死したが子孫は原監物によって育てられ成長して松代藩士となり、今も子孫の方々は存続しておられます。 

海野関連支族の不思議

 海野一党は不思議に盲人・医術・妖術などと関係が深く、事例を示すと
 1 貞保親王が、眼病にかかり、鹿沢温泉で湯治により、目の痛みは治ったが、視力は恢復せずに盲人になってしまった。
 2 滋野望月氏は祖神として両羽神社(長野県東御市下之城)を祭っている。この神は京都山科にもあり、盲人たちの祖神である。
 3 滋野祢津氏は館の裏山に祖神四宮権現(長野県東御市祢津)を祀っている。この四宮権現も京都山科四宮河原に盲人蝉丸を祭神として祭られ、やはり盲人たちの祖神である。
 4 近世に上田房山村(上田市田町)の弁天祭日に、小県一帯の琵琶法師や芸能にたずさわる盲人が集まって種々の相談をしていた。その管理をしていたのは深井氏であり、この深井氏は海野氏の重臣で、家伝では貞保親王の妻はこの家の女であるという。
 5 信玄の二男竜宝も盲人であり、海野二郎と称している。海野には盲人でつとまる何かの仕事があったのかもしれない。

 また海野一党は修験・巫女・医術との関係が深く色々な列証がある。
 1 滋野望月氏は巫女・舞太夫・修験山伏等を支配していた。望月盛時が川中島で戦死した。その後室千代女は祢津村に土着して武田信玄から甲信両国の神子頭を命ぜられて巫女を支配したという。
 2 上州吾妻郡に住んだ下屋氏は、北上州の修験道の支配権をもっていた。
 3 祢津氏は鷹匠として著名であった。諏訪大明神絵図詞によると、平安末期に活躍した祢津神平貞直は大祝の猶子となり、東国無双の鷹匠であった。鷹匠は狩や鎮魂などの呪術と関係が深い。
 4 海野氏の氏神である白鳥神社はオシラサマともいわれ、マタギ(猟人)や修験の神でもあった。また滋野氏はいつか諏訪神を奉ずる神党となり、諏訪の神人として「甲賀三郎」の伝説にもなる。
 5 海野氏は医術とも関係が深い。大奥の医師に望月氏があり、草津温泉の領主が海野系湯本氏であったのも関連があるかもしれない。
 6 祢津には「ののう巫女」といわれる巫女の集団が明治初期まで存在したた。信濃巫女の発祥の地として、徳川三百年を通じて全国の巫女を養育し、大規模な巫女村であった。
            (小林計一郎著「真田一族」より)

史実に登場する「くノ一」で有名なのは、武田信玄に仕えた「歩き巫女」の集団である。歩き巫女とは各地を回って芸や舞を見せ、時には男性に身を任せることもあって、いわば流浪の遊女でもあった。
巫女の歴史は古く、祢津の巫女たちを「ノノー」と呼んでいた。かって幼児の頃、神様や仏様のことを「ノノサマ」と尊んで言ったり、祖父母や父親を尊敬する意味で「ノノー」と呼んでいた。
神降ろしをして媒霊的存在で、「口寄せ」であり、庶民はいろいろな困難なとき、武将もこの巫女を信仰し、利用していた。それは戦いに駆り出される人々の死の恐怖を和らげ、あわせて勝利の予言を得た。
そればかりか、巫女は、予言者であり、まじないや祈祷などもおこない、医療技術にまで及んでいた。
戦国時代には孤児・捨て子・迷子が大量に発生した。その中から心身ともに優れた美少女のみを集めて歩き巫女に仕立て、隠密として各地に放ったのがくノ一である。
信玄のくノ一の要請を命じたのは信州北佐久郡望月城主盛時(川中島の戦で戦死)の若き未亡人、望月千代女は甲賀流忍術の流れを汲む名家で、望月家の血族であり、信玄の甥が入り婿になっていた。
信玄は彼女を「甲斐信濃両国巫女頭領」に任じ、信州小県郡祢津村の古御舘に「甲斐信濃巫女道」の修練道場を開き、200~300日とを越える少女たちに呪術・祈祷・忍術・護身術やさらに相手が男性だった時のために性技まで教え込んだ。
祢津は信濃巫女発祥の地であり「巫女養育日本一」であった。
歩き巫女には国境がなく、全国どこにでも自由に行けたため、関東から畿内、東北北陸を回って口寄せや舞を披露し、時には売春もしながら情報を収集し、ツナギ(連絡役)の者を通じて信玄に随時報告していた。(百科事典「ウィキペディア」より)