奈良時代の海野郷

「小県郡海野郷」の名は奈良東大寺の正倉院御物に残されている。それは今からおよそ1,280年前に海野郷から運ばれた品であったという。 

auto_am4jxn.jpg正倉院

 正倉院は、光明皇太后が第45代聖武天皇追善のために、東大寺に献上した無数の宝物を収めた庫であるが、海野郷から運ばれた貢物の袋の口を絞った紐に「信濃国小県郡(ちいさがたぐん)海野(うんの)郷(ごう)戸主(へぬし)爪工部(はたくみべ)君(きみ)調(のちょう)」と墨書された麻織物の紐(ひも)の芯(しん)が残されている。年号はないが織り方や墨書の形式から推定すると奈良時代の天平年代(729~741)の貢物であろうと言われている。

uno_03_2.jpg正倉院の墨書

 墨書から、小県郡海野郷に爪工部(高貴な人が使う「紫の衣笠(きぬがさ)」や「翳(さしば)」などを造る高度な技術者集団)がいて、地位の高い姓を賜っていたことがうかがえる。
なぜこのような職業・身分の人たちが、都から遠いこの地に定住していたのだろう。
 

国郡郷古代日本の行政組織で、それより前は「国評(郡)里」
または「国郡郷里」制
戸 主里に変わって新しく出来た郷の中に50戸が集まった戸の主
爪工部衣笠(きぬがさ)をつくる職を持って宮中に奉仕した人々を言う
君という敬称がつけられていることは、この地方の土豪であった
調男子に課せられた貢物で、土地の物産を朝廷へ献上すること

 爪工部は「はたくみべ」と読み朝廷に直属する工人で、翳(さしば)をつくるのを職業とする部民である。翳というのは、貴人の頭上に左右から差出してかざす団扇に長柄をつけたようなものをいう。有名な高松塚古墳の壁画にこの絵が描かれている。主として鷹の羽でつくったものだが、平安時代には土豪祢津氏は、放鷹の技術をもっては天下一と称された。

auto_ocoARX.jpg翳(さしば)auto_o89f7B.jpg紫蓋

 『日本書紀』崇峻天皇2年(589)7月1日条に「近江臣満を東山道の使に遣わして、蝦夷の国の境を観しむ」とあり、中央勢力にとって東山道は政権安定に欠かせないものだった。東山道の通っていた海野郷周辺には、中曽根親王塚をはじめとする多くの古墳が存在し、早くから中央の文化がこの地に流れこんでいたことは言うまでもない。

もう一つ注目すべきでことがある。それは今から約1196年前の弘仁14年(823)前後に編纂された「日本国現報善悪霊異記(りょういき)(日本霊異記)に、信濃国の逸話が二つも載せられていることである。跡目の里(上田市川西方面から青木村)と、嬢(おおな)の里(海野郷)の説話である。奈良時代の末期の宝亀5年(774)この地に大伴連(おおともむらじ)忍勝(おしかつ)なるものがおり、法華寺川(金原川の下流)に居所をかまえ、その居館近くに氏寺を建立していることから相当の勢力者で、中央に直結する政治・文化の中核的存在であったことを示している。後世に発生した海野氏は、この大伴の系譜をひくものではなかろうかという説もある。

 また、当地に「県(あがた)」「三分(みやけ)(屯倉(みやけ))」という古代の地名が数多く残っており、いずれも中央の文化が、盛んに押し寄せてきたことを物語がたる。しかも、すぐ西方には、信濃国府・信濃国分寺があって、信濃国の政治・文化の中心となっており、それらの文化と共に都から、ここに下たって定住し、かなりの勢力者となったのが海野氏ではなかろうか。
    <東信史学会「千曲20号」より>

 次に、海野史研究会が建立した「海野氏発祥之郷」碑文には〈海野・禰津・望月の三氏は国司、牧官として下った中央の名門滋野氏と関係を結びやがてこれを祖と称するようになり…」とあることから、まずは滋野氏について考察しよう。

滋野考

滋野の地名

 「滋野」という地名は長野県と京都市に残っている。
 東御市には地名「滋野」と神社が、それぞれ二か所残る。まず祢津村大字新張(みはり)字滋野(現在は東御市新張)には新張の「滋野神社」があり、口傳には、大同年中(806~9)牧監滋野良成朝臣(よしなりあそん)の創建と伝えられる。

uno_13_1_5.jpg祢津の滋野神社
 
 もう一つは、和(かのう)村大字海善寺字滋野原・滋野鎮(しずめ)(現在は東御市海善寺)という地名があり、その地に海善寺の「滋野神社」があり、昔海野郷内に居住した滋野氏代々の産土神で八幡大神を祀ったものだと伝わる。 
 さらに天延年中(973~5)海野幸恒が再建したとされ、社の南面には海野氏の旧館の地と隣接していることから、海野氏ともつながりをもつ古社であることが明瞭である。後に木曽義仲は戦勝祈願の折に、白赤のボケを植栽したと伝えられてる。
 天正11年(1583)真田昌幸は、上田城築城の際、海善寺の「滋野神社」を八幡神社(現在の上田市紺屋町)として分社したといわれる。
 

uno_13_1_4.jpg海善寺の滋野神社、

 これら東御市に残る「滋野神社」二社は旧著「雷電の里(東部町)の文化財」執筆の際に、わかったことである。
 地名ではないが東御市西深井(にしふかい)の諏訪社、東御市下之城(しものじょう)の両羽(もろは)神社、佐久市望月の大伴神社には、楢原東人系の神や神像が祀られており、これらも滋野氏と関係があると思われる。。

 さらに京都府庁(京都御所の西側)周辺の滋野学区(現在の上京区)と呼ばれていた地には、市立滋野中学校(昭和55年ころ閉校)と上京消防団滋野分団の詰め所があった。

 この地には平安時代の初め、滋野貞主(さだぬし)の邸があり泉が湧き出していて、後に蹴鞠(けまり)の達人成通(なりみち)らが住み、滋野井と呼ばれていたという。
 <平凡社「京都府の地名」より>

楢原造東人に始まる長野県の滋野氏

 楢原造東人(ならはらみやっこあずまひと)は、天平17年(745)1月7日奈良の都平城京の大安殿で第45代聖武天皇から従五位下を授けられる。その後天平19年(747)駿河守となる。『続日本紀』によると、滋野朝臣貞主の曽祖父・楢原造東人について「天平勝宝2年(750)3月10日駿河の国司楢原造東人が在任中に廬(いお)原郡(はらぐん)蒲原(現在の静岡市蒲原)の多胡浦浜で金を採取して、朝廷に献上し、同年5月に伊蘇志臣(いそしのおみ)(勤)の姓(かばね)を賜った」とあり、この頃は、正に奈良大仏の鋳造をしている時であった。

            auto_1vYE5R.jpg東大寺

auto_mh8p1j.jpg東大寺大仏

 『続日本紀』天平17年(745)の記事には「外従五位下楢原造東人」とあり、天平18年(746)5月7日に「外」がはずれて「従五位下」に改められた。「造」は、地方の有力者で、朝廷に仕えるようになった身分のことである。

 東御市奈良原の長命寺跡付近には、「古屋敷」「寺家」等の地名が残り、「寺屋敷」と呼ばれているところの土中から、多くの五輪塔の残欠などが出土している。
また、この地籍には、今も楢原姓の苗字を持つ人達がおられる。  
 長命寺の寺伝によると、天延3年(975)に、尊誉上人によって、新張牧の奈良原の地に、智光山三光院長命寺が、真言密教の修行道場として開山創建されたと伝えられている。この上人は、永祚元年(989)6月に亡くなっている。
長命寺は、鎌倉時代初め、現在地(現在の東御市祢津)に移転し、十二坊を有する大伽藍があったと伝えられている。

 また、信濃国分寺の改築にあたっては、国分寺御本尊を一時、長命寺に移したと「国分寺記」に記されている。なお、武田信玄が、長野の信濃善光寺の御本尊を弘治元年(1555)信濃国小県郡祢津(現在の東御市祢津)に移して、約三年間は、この寺域に安置し、永禄元年(1558)8月14日祢津を出立して甲府に移したという。10月3日、信玄は、甲斐国板垣に善光寺伽藍を建築に着手するとの記録をみることができる。〈吉原浩人著「甲斐善光寺」参考〉

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   以前に長命寺のあった寺屋敷跡

なお、旧鹿沢温泉薬師堂の石燈篭は、宝永元年(1704)8月吉日、奈良原正□右衛門直継と刻まれている。手洗石鉢には「安永4年(1775) 楢原忠八 権六」とあり、奈良原の人が献上したことがわかる。
 奈良原氏は、新張村(現在は長野県東御市新張)の名主であったという。

なお、幕末の信州旗本12家中、5千石取り四家の一人で松平忠節(ただとき)が、寛永 
元年(1624)に初代祢津領主となり、明治6年(1873)八代忠武まで続いていた。
その時の奉行は用人格(家臣の役名で給金45~50石)か給人格(手当6両2分、3人扶持)のも 
のから任命され、陣屋内奉行所につとめ知行所の行政を総括するとともに、領主の御名代 
として公式の儀礼にのぞんでいる。
祢津陣屋の奉行に楢原氏の名前がみえる。
寛保3年(1743)          楢原丈右衛門
文政9年(1826)~天保2年(1831)  楢原左仲太
天保8年(1837)~天保9年(1838)  楢原房之助
天保10年(1839)~天保13年(1842) 楢原主馬介
また代官は中小姓格(家臣役名で給金5両2人~3人扶持)の中から任命され、奉行の命をう 
けて政務を処理する。
そこにも代官に楢原氏の名前がみえる。
万治2年(1655)~寛文10年(1670) 楢原伊右衛門
延宝4年(1676)~元禄15年(1702) 楢原助左衛門
正徳元年(1711)~享保13年(1728) 楢原政右衛門
享保14年(1729)~享保17年(1732) 楢原佐忠太
享保18年(1733)~延享4年(1747) 楢原丈左衛門
宝暦5年(1755)~寛政11年(1799) 楢原繁左衛門
宝暦13年(1763)         楢原助左衛門
享和元年(1801)~文政8年(1825) 楢原左仲太
文政7年(1824)~天保7年(1836) 楢原房之助
天保15年(1844)~安政2年(1855) 楢原主馬介
安政3年(1856)~安政4年(1857) 楢原保之助
安政5年(1858)         楢原文蔵
<(祢津陣屋と奉行代官名一覧表)上田小県誌二巻より>

「楢原」の苗字の人は、現在長野県の東信地方に43軒で、うち東御市に38軒で新張地区には33軒である。(電話帳調べ)

 この奈良原には「新張の牧」がある。この地の豪族祢津氏、祢津神平貞直が鷹飼いの秘術で名高いように、馬を飼う技術が極めて優れた人がいたと思われます。

 長命寺大日堂の本尊・大日如来地蔵尊は、行基菩薩が、北国辺土庶民教化のため巡回の際に、一刀三礼の勤修をもって彫刻された木造(丈220センチ)で、未完の秘仏であると言われている。行基菩薩は、平元年(729)に奈良県の楢原氏の菩提九品寺開基である。

         auto_Z2wZd6.jpg(大日堂)前立本尊大日如来

さらに、大日如来地蔵尊について、土屋麓風著「祢津の史蹟を巡る」によると「昭和2年(1927)7月4日、金井区長小林虎一郎氏によると、長命寺54世百瀬栄善師等の斡旋により、文部省古社寺調査事務主任塚本慶尚氏等の調査の時、平安朝の藤原氏全盛時代の彫刻で900有余年前の仏像にて、国宝的価値が充分ありと、折り紙をつけられるほどの尊像であったが、残念なことに寛保2年(1742)の戌の満水の時に庭心・清心両尼僧の救出が辛うじてで、避難の際に一方の肩を損像してしまったことである」とある。

uno_13_1_7.jpg長命寺(真言宗智山派、本山は京都の智積院)

 小県から佐久へかけての名立たる土豪、真田・岩下・矢沢・根々井・楯等々滋野氏の後と称するものはあまりに多い。中には小室・矢島・落合・志賀・平原・春日などの諸氏まで、滋野氏の一族に数えられる説もある。

平安ころ、海野郷一帯には、渡来人にかかわる伝承が多く残されており、浅科村八幡(現在の佐久市蓬田)の八幡神社本殿「高良社」が祀られている。また、両羽神社(現在の東御市下之城)の神殿内に船代(白)と貞保親王といわれる二体の古木造がある。現在の社地より東方に原宮とよばれる宮社があったころ、その社の祀神であったという。慶長年間(1596~1614)同社が野火のため焼失した際に救出され、現在の両羽神社に合祀されて、今に至っている。ここ御牧原は、勅旨牧として名高く毎年朝廷に献上される馬数は20~30頭で、全国一の貢馬の産地であったという。また船代は渤海国(現在の中国東部に興った国)よりの渡来人で、調馬の師であったという。この御牧に関係した滋野一族と渡来人たちが、それぞれ先祖の尊像を奉納して、安全と繁栄を願ったのが、この両木造であるという。
上記は船代を渤海国よりの渡来人、としているが『日本後記』の記述とは異なる。

 朝廷に献上する馬の飼育・調教は渡来人である渤海国の人達から伝授を受け、御牧原台地一帯で行われた。夕暮れ等に御牧の台地の方から風にのって今まで聞いたことのないメロディーが流れてきた。この笛を吹くような音楽のメロディーは御牧原周辺に住む土地の人々にも口ずさまれ定着していった。小諸節や江差追分の本流がモンゴルにあることは、現在定説となっているが、信濃国の御牧原周辺の人々は、モンゴル発祥のメロディーを母体として小室節(小諸節)を唄うようになったという。小諸節は、参勤交代の大名や旅人たちにより日本海側に、さらに北前船により北海道江差までにも伝わり、江差追分として唄われるようになった。この地で小諸節・信濃追分節・追分馬子唄が唄われ、全国各地の追分節はここが発信地となったという。小諸節は全国各地の馬子唄や追分節と音調がよく似て、しかもモンゴル民謡「小さい葺(かや)色(いろ)の馬」とも楽節の構造・音階・拍子・旋律の流れがよく似ているということだ。

我が国の縄文期に飼育された馬は小型馬であった。古墳時代に入ると朝鮮半島経由で蒙古の中型馬が渡来人によってもたらされた。安閑2年(535)「放馬於科野国望月牧霧原牧」の以前に、古東山道瓜生坂をこえて佐久平野から遠く入山峠を望む須賀間の丘に、既に牧畜は営まれていた。文武4年(700)「令諸国定牧地放牛馬」と官牧の制がはじまり、大宝元年(701)大宝律令発布後、兵部省の軍団用の兵馬調達の官牧とは別に皇室・左右馬寮・近衛府御用として、左右馬寮下に「御牧」(勅旨牧)の制が確立した。御牧は朝廷直轄の御料牧場であった。奈良時代に馬の需要が供給に追い付かず各地に官牧が開かれた。〈北御牧に在住の武重茂氏に御教示による〉

 渤海国は朝鮮半島の高句麗の旧地を合併して栄え、聖武天皇のころよりしばしば我が国にも朝貢をしていた。渤海国からの国使が帰国するにあたり、延暦18年(799)に、見送りに随伴したのが、「式部少禄正六位下滋野宿祢船白(代)」である。滋野氏が中央の名族として、朝廷とかかわったことは『日本後記』に見られる。〈北御牧村村誌より〉

奈良県の滋野氏の祖(楢原氏)

 楢原氏は、大和六党の一つの南党で、鎌倉時代末には伴田氏とともに春日若宮の祭礼に流鏑馬を奉納している。〈『春日文書』より〉また、楢原氏は、大和出身の旧族で、『和名妙』に「奈良波良」と訓じている。越知郷段銭算用状(春日神社文書)に「楢原庄十町五段半」とある。 〈平凡社「奈良県の地名」より〉
 地名として「楢原」は、大和国葛上郡楢原郷(現在の奈良県御所市(ごせし)大字楢原)にあるが、全国には、現在福島・茨城・群馬・福井・岐阜・奈良・兵庫・鳥取・岡山の諸県にもあり、長野県東御市の「奈良原」と加えると、全部でに11カ所となる。

auto_2SdLrU.jpg奈良県御所市

奈良県御所市の楢原には、駒形大重神社があり、駒形神社と大重神社は別々のお宮であったが、明治40年(1907)に現在地の駒形大重神社に合祀された。そもそも 大重神社は、楢原より東方の字「田口」に鎮座していたという。

 大重神社は、「延喜式」神名帳の「葛城大重神社」に当たり、地元では「しげのさん」と呼ばれ、滋野氏につながりを持つ有力なお宮であった。現在は、合祀された駒形大重神社に、祭神の二座のうち一座は滋野貞主が祀られている。
 奈良県御所市大字楢原の葛城山の東麓に九品寺(くほんじ)(山号戒那山・浄土宗)があり、本尊の木造阿弥陀坐像(像高123センチ)は、平安後期の作で国の重要文化財に指定されている。本堂は明和5年(1768)の再興、寺伝によると、行基の開基で、もと戒那千坊に属したという。永禄年間(1558~70)弘誓が浄土宗に改宗、中世に勢いを振るった楢原氏の菩提寺で、同氏一族の墓碑がある。

auto_rvUAtC.jpg駒形大重野神社

葛城山の東麓に、標高320メートルの丘の尾上に楢原城跡がある。東・南・北は深い谷で、尾根は東方へ240余メートル細長く突出て、段上に七つの郭が連なっている。台地の東北方に深い谷を隔てた小山の頂上は、平地になっていて連郭があり、東・南・北に全長500メートルに及ぶ空堀の跡をとどめ、西端に三重堀跡がある。

 筆者が、御所市大字楢原の地ほ訪れた時は秋の盛りで、農家の方から美味しい柿をごちそうになった。
 

文書に残る滋野氏

 楢原氏・滋野氏の系統については、『新撰姓氏録』の右京神別の条に「楢原氏は滋野宿祢、紀直と同祖、神魂命五世の孫天道根命の末裔」と明記されており、紀伊国造と同系であって、次の系図が伝えられている。

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 「滋野朝臣」は楢原船白と家訳(いえおさ)が、奈良の地から平安京の滋野の地(京都御所西南の府庁の地)に移住したことから、地名をとって「滋野朝臣(あそん)」となり、家訳も「滋野朝臣」となり、家訳の子貞主も「滋野朝臣」になったという。

auto_a11TSz.jpg京都上京区の滋野

 『日本後紀』延暦18年(799)4月15日の条によると、式部省少録正六位上滋野船白は、渤海国使大昌泰が日本から自国へ帰るとき、渤海国まで昌泰を送る役目を命じられている。
また『新撰姓氏録』には、貞雄は右京の人也。父従五位上家訳、延暦17年(798)に伊蘇志臣を改めて滋野宿祢を賜う。弘仁3年(812)1月7日に従五位下で尾張守となっている。弘仁14年(823)に「滋野朝臣を賜う」とある。

 滋野貞主は、六国史『続日本紀』以下『日本三代実録』までの記事や『平安遺文』の史料等をみて見ると、第53代淳和天皇の代に、儒臣にして大同2年(807)文章生に及第し弘仁2年(811)任少内記となり、弘仁12年(821)に図書頭、その後、内蔵頭・宮内大輔・兵部大輔・大蔵卿・式部大輔を歴任、弘仁14年(823)には、父(家訳)と共に滋野朝臣の姓を賜り、天長8年(831)文章博士、承和9年(842)参議に任ぜられ、嘉祥3年(850)正四位下となる等、諸官を歴任している。〈長野県文化財保護協会「文化財信濃」第30巻第3号、桜井松夫氏寄稿「滋野氏の歴史と展開」参考〉

 この貞主と思われる人物の名が残る資料を紹介したい。
 空海は、宝亀5年(774)に出生、承和2年(835)3月21日に示寂しており、弘法大師の諡号(貴人の死後の名前)を、延喜21年(921)に後醍醐天皇から追贈された真言宗の開祖である。天台宗の開祖最澄(伝教大師)と共に、日本仏教の大勢が、今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れの劈頭(へきとう・物事の一番初め)に位置し、中国より真言密教をもたらした。能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢(たちばなのはやなり)と共に三筆の一人に数えられている。
 空海は、弘仁3年(812)11月15日、高尾山寺にて金剛界結縁灌頂(かんじょう)を開壇し た。入壇者には、最澄も含まれていた。更に同年12月14日には胎蔵灌頂を開壇した。
(灌頂とは、初めて受戒する者、または、修道が進んだ時は、水を頭頂に灌ぐ儀式を行うこと)入壇者には、最澄初めその弟子円澄・光定・泰範のほか190名にのぼった。受胎蔵灌頂人歴名の中に貞主の名前がある。ここに記載された貞主が滋野貞主ならば、年齢28歳の時になる。〈この資料は、上田市常磐城 田中豊氏から空海直筆の歴名が記載されたコピーを 頂き感謝です〉

 『日本文徳天皇実録』仁寿2年(852)2月8日の条にによると、「参議正四位下行宮内卿兼相模守滋野朝臣貞主卒す。貞主は右京の人也。曽祖父大学頭兼博士正五位下楢原東人。……遂に姓に伊蘇志臣を賜る。父尾張守従五位上家訳(いえおき)は、延暦年中姓に滋野宿祢を賜う」とあり、滋野氏の家系について大約すると次のように述べている。
 貞主の曽祖父は、大学頭兼博士で正五位下の官位をもつ楢原東人という学者である。九経に該通し名儒といわれて、天平勝宝元年(749)駿河守となっていた時、駿河国から金を採取し、東人は、これを帝に献じたので、帝は非常に喜んで、その功をほめて「勤しき哉臣や」と言われ、伊蘇志臣という姓を賜り、以後、子孫は滋野朝臣を称するようになった。
また、仁寿2年(852)の『文禄実録』に大外記名草宿祢安成に滋野朝臣の姓を賜るとある。

 貞主は、慶雲4年(707)より天長4年(827)の間に人々が作った詩作178、人賦17首、誌97首、序51首、対策38首を編纂して『経国集』20 巻を朝廷に献上している。
 また、貞主は、典籍の編集長として、その大事業を完成させたばかりでなく、天長8年(831)には勅(天皇の命令)により、多くの儒教者とともに秘府の図書を基に、類別を編纂し千巻に及ぶ百科辞書『秘府略』を著している。これは、わが国空前の大著で、この一部が国宝として今に残っている。多くの学者を統率して完成させた裏には、貞主の高潔な人柄が窺(うかが)い知られる。
 

貞主には二女がおり、長女縄子は、仁明天皇の女御(妃)となり、本康親王を産んでいる。次女奥子も文徳天皇の中宮(皇后)として惟彦親王を産んでいる。天皇の義父となり、親王や内親王の祖父として一大勢力者となったが、唇に腫れものができて、仁寿2年(852)2月8日68歳でなくなった。その居宅は西寺の別院に寄贈し、慈恩院と名づけられている。

 貞主の弟貞雄(家訳の第3子)も滋野朝臣を称し、丹波守・宮内卿・摂津守等を歴任、娘・岑子は、文徳天皇の妃となり2皇子2皇女を生んだ。兄貞主と同じく高官でありながら温厚な性質で庶民から敬愛されていたようである。
 このように貞主・貞雄の代に至って皇室の外戚ともなった滋野氏は、当時朝廷において、橘氏・菅原氏などと並ぶ権門勢家となったことは容易に想像できる。 
 次に、『三代実録』貞観元年(859)12月22日の条には「従四位上行摂津守滋野朝臣貞雄卒す。65歳」あり、兄貞主の方が10歳年上であったことが分かる。

 また『日本三代実録』によると、掃部頭滋野朝臣善蔭(よしかげ)は、承和13年(846)に外従五位下を授けられた。滋野善蔭の弟に滋野善法・善根(よしね)について、貞観4年(862)12月20日に善蔭・善根は二人そろって国司に任官ぜられ、滋野善蔭は丹波守に、滋野善根は美濃守になった。滋野善根が外従五位下を賜ったのは斉衡元年(854)のことである。また、滋野善根は『日本三代実録』によると、貞観12年(870)に信濃守となつている。

 系図の滋野善蔭の子・滋野恒蔭(つねかげ)は、『日本後記』によると、貞観10年(868)正月に大外記より従五位下の叙位があり、1月16日に信濃介に任ぜられる。
 このようにして、滋野一族の者が信濃の国司に任ぜられ、信濃に下向したことも考えられ、これが信濃滋野氏の祖となったという。

 auto_2tqREL.jpg家訳から恒蔭までの系図
 
 一方、滋野氏の子孫で京にいた者は、朱雀天皇の時代に中務大丞滋野春仁、第66代一条天皇の時代に『権記(ごんき)』に出てくる大外記滋野善言(よしこと)などがいる。

『権記』というのは、権大納言藤原行成の日記のことで、藤原道長全盛時代、道長と親交のあった行成の日々の記録として、平安中葉を研究するための貴重な資料となっている。この『権記』の寛弘6年(1009)8月17日の条に、「信濃から貢馬を牽いてきたが、先例によって今日は一応馬寮に納め、明日"駒牽きの儀式"を行うようにと命令があったので、その由を善言朝臣に申し伝えて退出した」という記事がある。

 善言朝臣というのが、前述の信濃守善根やその兄善蔭の系統をふむ者であろうと推察される。馬寮の役人で"駒牽き"のことを司る官吏で、朝臣という姓を附されていたことがわかる。