奈良時代の海野郷

 奈良の正倉院には、信濃の海野郷から牛か馬の背によって、はるばる奈良の都へ運ばれ、そして宮中で、きらびやかな調度品として、その責務を果たしたものが残っている。
 正倉院は光明皇太后が聖武天皇追善のために東大寺に献上された無数の宝物を収めた庫である。その宝物は武器・楽器・遊具・服飾・調度品・文具等で日本が世界に誇る宝物庫であることは良く知られている。
uno_03_1.jpg正倉院

この正倉院の御物の中に「信濃国小県郡海野郷戸主(へぬし)爪工部(はたくみべ)君調(きみみつぎ)」と墨で書いた麻織物の布の一片が発見されている。これには年号がないが推定すると天平年間(729~41)頃の貢物であろうと言われてる

uno_03_2.jpg正倉院の墨書
 このころ小県郡に海野郷という集落があって、爪工部という人々が、高貴な人が使う「紫の衣笠」を造れる高度な技術者集団がいて、かなり地位の高い姓を賜っていた人々が、この地に住んでいたことが立証される資料である。どうして、このような職業・身分の人たちが、こんな僻地に、しかも都から遠い地に定住してたのだろうか。

 爪工部は「はたくみべ」と読み朝廷に直属する工人で、翳(さしば)をつくるのを職業とする部民である。翳というのは、貴人の頭上に左右から差出してかざす団扇に長柄をつけたようなものをいう。(有名な高松塚古墳の壁画にこの絵が描かれている)主として鷹の羽でつくったものだが、この海野郷は昔から鷹の産地として有名で、平安時代からこの土豪として有名になった祢津氏は、放鷹の技術をもっては天下一と称されたくらいである。

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 五世紀ころ、大和政権は遂次に、その勢力を広めるため東山道が拡充されていた。
 この海野郷周辺には中曽根親王塚をはじめとする多くの古墳が存在していることからみて、早くから中央の文化がこの地に流れこんでいたことは言うまでもない。

この郷の由緒の古さを暗示するが、さらにもう一つ注目すべき歴史的事実がある。それは今から約1190年前の弘仁14年(823)前後に編纂された「日本国現報善悪霊異記(りょういき)」に、信濃国のものが二つも載せられていることである。一つは跡目の里(上田市川西方面から青木村)ともう一つは嬢(おおな)の里、すなわち海野郷の説話によると、奈良時代の末期の宝亀5年(774)この地に大伴連(おおともむらじ)忍勝(おしかつ)なるものがおり、法華寺川(金原川の下流)に居所をかまえ、その居館近くに氏寺を建立していることから相当の勢力者であり、中央に直結する政治・文化の中核的存在であったことを示している。後世に発生した海野氏は、この大伴の系譜をひくものではなかろうか?

 また、当地に「県(あがた)」「三分(みやけ)(屯倉(みやけ))」等の古代の匂いの濃い地名が数多く残っており、いずれも古代中央の文化が盛んにおしよせてきたことを物語っている。しかも、すぐ西方には、信濃国府・信濃国分寺があって、信濃国の政治・文化の中心となっておりました。それらの文化とともに都から、ここに下って定住し、かなりの勢力者となったのが海野氏ではなかろうか。

滋野の地名

 現在の長野県東御市には「滋野」という地名と神社が、それぞれ二ヶ所にあります。
 一つは地名で、祢津大字新張(みはり)字滋野(現在は東御市新張)があり、しかもその地に新張の「滋野神社」があり、創立年月は不詳であるが、口傳には大同年中(806~9)牧監滋野良成朝臣(あそん)の創建と伝えられております。
uno_13_1_5.jpg祢津の滋野神社
 
 もう一つは和(かのう)大字海善寺字滋野原・滋野鎮(しずめ)と地名があり、その地に海善寺の「滋野神社」があり、創立は未詳であるが、伝えによると大昔、海野郷内に移住した滋野氏代々の産土神で八幡大神を祭ったという。 
 天延年中(973~5)に滋野氏の後裔である海野幸恒が再興したと伝えられ、社の南面には海野氏の旧館の地へと続いていることから、海野氏と深いつながりをもつ古社であることが明瞭である。その後になって木曽義仲が戦勝祈願の折に、白赤のボケを記念樹しておられます。
 いずれの「滋野神社」も、明治13年に吉田家で神社号の許可を受けて改めた。

uno_13_1_4.jpg海善寺の滋野神社

 また東御市西深井(にしふかい)の諏訪社、東御市下之城(しものじょう)の両羽(もろは)神社、佐久市望月の大伴神社には、楢原東人系の神や神像を祀っておられます。このことからも無関係ではないと思われます。

 それから、京都府庁(京都御所の西側)の周辺に以前滋野学区(現在の上京区)と呼ばれていた所に京都市立滋野中学校(昭和55年ころ閉校)と上京消防団滋野分団の詰め所が、かってありました。

 その府庁の西側には平安時代のはじめ、滋野貞主の邸があり、そこにはよい泉が湧き出していて、後に蹴鞠(けまり)の達人成通らが住んでいて、滋野井と呼んでいたといいます。        (平凡社「京都の地名」より)

奈良原にいた滋野氏の祖

 平安時代の六国史の記事『平安遺文』の資料に、滋野朝臣貞主の曽祖父は楢原造(ならはらみやつこ)東人(あずまびと)で、『続日本記』に天平勝宝2年(750)3月「駿河の国司楢原造東人が在任中に庵原郡蒲原(現在の静岡市蒲原)の多胡浦浜で金を採取して、朝廷に献上したので同年5月には東人に伊蘇志(いそしのおみ)(勤)臣の姓(かばね)を賜った」とあり、この頃は奈良大仏の鋳造をしている時であったので、金の発見と採取を促したことが知られておる。

 天平17年(745)の記事では「外従五位下楢原造東人」とある。

 その翌年天平18年(746)5月7日に「外」がはずれて「従五位下」に改められたことは、地方出身者や地方の郡司等に与えられた位階のことである。「造」については地方における有力者で、朝廷に仕えるようになった身分のことであるので、「東人」は飛鳥朝廷に仕える前は、東国に住んでいた人ではなかろうか。

 以上のことから楢原造東人の先祖の地は信濃国奈良原(現在の長野県東御市新張の奈良原)がもとで、都に出て仕えるようになり滋野氏を名乗るようになったのであろう。

 このころ、新張牧の奈良原の聖地に、智光山三光院長命寺が密教の修行道場として栄えており、この寺の上人は永作元年(989)6月に亡くなっております。

uno_13_1_6.jpg奈良原宮跡

 そのほかに奈良原の地には「古寺跡」「奈良原京跡」等の歴史的に古い地名が残り、楢原姓の苗字を持つ人たちがおられます。「楢原」の苗字の人は現在長野県の東信地方に44軒で、うち東御市に43軒で新張地区には35軒が固まっておられます。

 この奈良原の地には「新張の牧」があり、この地の豪族祢津氏、祢津神平貞直が鷹飼いの秘術で名高いように、馬を飼う技術が極めて優れたものがいたと思われます。「望月の牧」を基盤とする望月氏も同様で、奈良県御所市楢原の山麓に馬の神様、駒形神社があることから楢原造東人の先祖の地は奈良原であっただろうと思われる。

 また現在の長命寺の別当で東方に大日堂があり、その本尊の大日如来地蔵尊は天平元年(729)に奈良県の楢原氏の菩提樹九品寺開基と同じ行基菩薩で北国辺土庶民教化のため巡回の際に、一刀三礼の勤修をもって彫刻された木造(丈220センチ)で霊験著しく、未完の秘仏であると言われている。

昭和2年(1927)7月4日、金井区長小林虎一郎氏、長命寺54世百瀬栄善師等の斡旋により、文部省古社寺調査事務主任塚本慶尚氏等の調査の時、平安朝の藤原氏全盛時代の彫刻で900有余年前の仏像にて、国宝的価値が充分ありと、折り紙をつけられるほどの尊像であったが、残念なことに寛保2年(1742)の戌の満水の時に庭心・清心両尼僧の救出が辛うじてで、避難の際に一方の肩を損像してしまったことである。(土屋麓風著「祢津の史蹟を巡る」より

uno_13_1_7.jpg長命寺

奈良県の楢原氏

 楢原は大和国葛上郡楢原郷(現在の奈良県御所市(ごせし)大字楢原)にある地名であり、現在の福島・茨城・群馬・福井・岐阜・奈良・兵庫・鳥取・岡山の諸県に十ケ所あります。

この楢原には、駒形大重神社があり、駒形神社と大重神社は別々のお宮で あったが、明治40年(1907)に合併して、現在地の駒形神社に合祀された。 大重神社は、楢原の地で東方の字「田口」に鎮座していたという

 大重神社は「延喜式」神名帳の「葛城大重神社」にあたり、地元では「しげのさん」と呼ばれ親しまれており、滋野氏につながりを持つ有力なお宮であった。現在は、合祀された駒形大重神社に、祭神の二座のうち一座は滋野貞主が祀られております。

 奈良県御所市大字楢原の葛城山の東麓に九品寺(くほんじ)があり、山号戒那山、浄土宗、本尊の木造阿弥陀坐像(像高123センチ)は平安後期の作で国の重要文化財に指定されている。本堂は明和5年(1768)の再興、寺伝では行基の開基で、もと戒那千坊に属したという。

 永禄年間(1558~70)弘誓が浄土宗を改宗、中世に勢いを振るった楢原氏の菩提寺で、同氏一族の墓碑がある。

葛城山の東麓に標高320メートルの丘の尾上に楢原城跡がある。東・南・北は深い谷で、尾根は東方へ240メートル余り細長く突出て、段上に七つの郭が連なっている。台地の東北方に深い谷を隔てた小山の頂上は、平地になっていて連郭があり、東・南・北に全長500メートルに及ぶ空堀の跡をとどめ、西端に三重掘跡がある

 楢原氏は大和六党の一つの南党で、すでに鎌倉時代末には伴田氏とともに春日若宮の祭礼に流鏑馬を奉納している。        (春日文書)

 この楢原氏は大和出身の旧族である。『和名妙』に「奈良波良」と訓じている。越知郷段銭算用状(春日神社文書)に「楢原庄十町五段半」とあり、中世には興福寺大乗院方国民楢原氏がみえる。 (平凡社「奈良の地名」より)

滋野氏の祖楢原氏

 この楢原氏の系統については『新撰姓氏録』の右京神別の条に「滋野宿祢、紀直と同祖、神魂命五世の孫天道根命の後成」と明記されており、紀伊国造と同系であって、次の系図が伝えられている。

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 奈良の平城京に都があったときには船白・家譯(いえつぐ)父子は伊蘇志臣(いそしおみ)でしたが、伊蘇志臣から滋野宿祢(すくね)に変わったのは、第50代恒武天皇の延暦17年(798)船白の代のことである。

貞雄は右京の人也。父従五位上家訳、延暦7年(798)に伊蘇志臣を改めて滋野宿祢を賜う。弘仁14年(823)に滋野朝臣を賜う」とある)

 
 それは、楢原から滋野に変わったのが、大同元年(806)5月18日の平安遷都のときに船白や家譯も一緒に、奈良の地から平安京の滋野の地(京都御所西南の府庁の地)に移住し地名をとって「滋野朝臣(あそん)」となったと思われます。こうして、家譯の子貞主は「滋野朝臣」となり、平安時代はじめに、京の都に滋野氏が誕生したのであろう。

 滋野貞主は『続日本記』から『日本三代実録』までの六国史の記事に『平安遺文』の史料等をみてみますと、第53代淳和天皇の代に、儒臣にして大同2年(807)文章生に及第(合格)、弘仁2年(811)仕少内記となり、弘仁12年(821)に図書頭、その後内蔵頭・宮内大輔・兵部大輔・大蔵卿・式部大輔を歴任、弘仁14年(823)には父(家譯)とともに滋野朝臣の姓を賜り、天長8年(831)文章博士、承和9年(842)参議に任ぜられ、嘉祥3年(850)正四位下となるなど諸官を歴任しております。

 空海は宝亀5年(774)に出生、承和2年(835)3月21日に示寂しております。平安時代初期の僧で、弘法大師の諡号を延喜21年(921)に後醍醐天皇から追贈され真言宗の開祖である。日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)と共に、日本仏教の大勢が、今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れの劈頭に位置し、中国より真言密教をもたらした。能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられている。
 空海は弘仁3年(812)11月15日、高尾山寺にて金剛界結縁灌頂を開壇した。入壇者には、最澄も含まれていた。さらに同年12月14日には胎蔵灌頂を開壇した。(灌頂とは、初めて受戒する者、または修道が進んだときは香水を頭頂に灌ぐ儀式を行うこと)
 入壇者には、最澄や、その弟子円澄・光定・泰範のほか190名にのぼった。受胎蔵灌頂人歴名の中に貞主の名前がある。ここに記載された貞主が滋野貞主ならば、年齢28才の時になります。(この資料は、上田市常磐城1-4-10 ☏0268-23-1317 田中豊氏から空海直筆の歴名が記載されたコピーを頂き貴重な情報に感謝です)

 仁寿2年(852)2月8日の条に『続日本後紀』には、「参議正四位下行宮内卿兼相模守滋野朝臣貞主卒す。貞主は右京の人也。曾祖父大学頭兼博士正五位下楢原東人。云々遂に姓に伊蘇志臣を賜る。父尾張守従五位上家譯は延暦年中姓に滋野宿祢を賜う」とうあり、滋野氏の家系について大約すると次のように述べている。
 貞主の曽祖父は大学頭兼博士で正五位下の官位をもつ楢原東人という学者であった。九経に該通し名儒といわれた。天平勝宝元年(749)駿河守となっていたとき、駿河区にから黄金を産出した。東人はこれを帝に献じたので帝は非常に喜んで、その功をほめて「勤しき哉臣や」と言われ、伊蘇志臣という姓を賜ったという。貞主の父は家譯(いえおき)といい、伊蘇志臣を改めて朝臣を賜り、以後子孫は滋野朝臣を称するようになった。

また、仁寿2年(852)の『文禄実録』に大外記名草宿祢安成に滋野朝臣の姓を賜るとある。

 貞主は、慶雲4年(707)より天長4年(827)の間に諸人が作った詩作178、人賦17首、誌97首、序51首、対策38首を偏して『経国集』20 巻を朝廷に献上しました。
 また、貞主は、典籍の編集長としてのその大事業を完成させたばかりでなく、、天長8年(831)には勅(天皇の命令)により、多くの儒教者とともに秘府の図書を基に、類別を編纂し1,000巻に及ぶ百科辞書『秘府略』を著す。これは、わが国空前の大著で、この一部が国宝として今に残っている。
 多くの学者を統率して完成させた裏には貞主の高潔な人柄が窺い知られます。
 貞主は、第53代淳和天皇の代、儒臣にして文章生より出身し、諸官を歴任した。、天長8年(831)文章博士、承和9年(842)参議に進み、嘉祥年中(848~50)正四位宮内卿兼相模守となる。 

貞主には二女がおり、長女縄子は仁明天皇の女御(妃)となり本康親王を産んでいる。次女奥子も文徳天皇の中宮(皇后)として惟彦親王を産んでいる。親王や内親王が生れて天皇の義父となり、一大勢力者となったが、唇に腫れものができて、仁寿2年(852)2月8日68才でなくなっている。その居宅を西寺の別院に寄贈し、慈恩院と名づけられている

 貞主の弟貞雄(家譯の第3子)も滋野朝臣を称し、丹波守・宮内卿・摂津守等を歴任、その女岑子は文徳天皇の妃となり2皇子2皇女を生んだ。兄貞主と同じく高官でありながら温厚な性質で庶民から敬愛されていたもののようである。
 このように貞主・貞雄の代に至って皇室の外戚ともなった滋野氏は、当時朝廷において、橘氏・菅原氏などと並ぶ所謂権門勢家となったことは容易に想像できる。
 
 次に貞観元年(859)12月の『三代実録』には「従四位上行摂津守滋野朝臣貞雄卒す。65才で、兄貞主の方が10才年上であったことが分かる。

 『日本三代実録』によると、掃部頭滋野朝臣善蔭は承和13年(846)に外従五位下を授けられ、滋野善蔭の弟に滋野善法・善根らがいる、貞観4年(862)12月20日に善蔭・善根は二人そろって国司に任官せられ、滋野善蔭は丹波守に、滋野善根は美濃守になった。滋野善根が外従五位下を賜ったのは斉衡元年(854)のことである。また、滋野善根は『日本三代実録』によると、貞観12年(870)に信濃守となつていることが知られる。

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 前記系図の滋野善蔭の子滋野恒蔭は『日本後記』によると、貞観10年(868)正月に大外記より従五位下の叙位があり、1月16日に信濃介に任ぜられる。

 このようにして、滋野一族の者が信濃の国司に任ぜられ、信濃に下向している。これが信濃滋野氏の祖となったという。
 『日本後記』によると信濃からの貢馬を司る役人として見られることから、代々馬寮と深い関係を持つ役職にあったと思われる。

 このような滋野氏の子孫で京にいた者は、朱雀天皇の時代に中務大丞滋野春仁、一条天皇の時代に『権記(ごんき)』に出てくる大外記滋野善言などがいる。

『権記』というのは、権大納言藤原行成の日記のことで、藤原道長全盛時代、道長と親交のあった行成の日々の記録として、平安中葉を研究するための貴重な資料となっている。この『権記』の寛弘6年(1009)8月17日の条に、「信濃から貢馬を牽いてきたが、先例によって今日は一応馬寮に納め、明日"駒牽きの儀式"を行うようにと命令があったので、その由を善言朝臣に申し伝えて退出した」という記事がある

 善言朝臣というのが前述の信濃守善根やその兄善蔭の系統をふむ者であろうと推察される。馬寮の役人で"駒牽き"のことを司る官吏であって、しかも朝臣という姓を附されていることから推して、相当の高い位置にいたものであろうと思われる。すでに滋野氏はかなり早くから信濃国の牧と深い関係にあったことは推察しえないことである。その成立は、少なくとも奈良時代より古いことは、市内から発掘された馬具(杏葉など)一つとっても容易に想像せられる。
 国分寺跡が上田市内に発掘された。ところで国府は、少なくとも平安初期の元慶3年(879)ころは筑摩郡(松本市内)に移っていたことは『日本三代実録』の9月の条にそれを示唆する記事がある。元慶の前は貞観だから、貞観年間に信濃守や介を拝命された滋野氏は、小県郡にあった国府の近くに赴任したことになってくる。滋野三家を中心とする東信濃の土豪は、貢馬(くめ朝廷に貢進する駿馬)などを通じて国庁の最高責任者である信濃守や介とは、当然深い関係が保たれねばならない。

 このことは信濃の諸牧とも強い絆で結ばれることとなり、とくにその諸牧の代表的なものであった望月牧や新張牧、その管理者であった望月氏や祢津氏及びその中間にある海野氏と血縁関係までもつようになった。これが滋野氏を祖とする理由になったのではないかと思われる。

滋野系は小県から佐久へかけての名立たる土豪、真田・岩下・矢沢・根々井・楯等々滋野氏の後と称するものはあまりに多い。中には小室・矢島・落合・志賀・平原・春日などの諸氏まで、滋野氏の一族に数えられる説もある

このころ海野郷一帯には渡来人にかかわる伝承が多く残されており、浅科村八幡(現在の佐久市八幡)には「高良社」が祀られている。また、両羽神社(現在の東御市下之城)の神殿内に船代と善淵王といわれるに体の古木造がある。昔これらは、現在の社地より東方山上に原宮とよばれる宮社があったころ、その社の祀神であった。慶長年間(1596~1614)同社が野火のため焼失した際に救出され、現在の両羽神社に合祀されて、今に至っている。ここ御牧原は、むかし勅旨牧として名高く、ここから毎年朝廷に献上される馬数は20~30頭で、全国一の貢馬の産地であったという。また舟代は渤海国(現在の中国東部に興った国)より渡来人で、調馬の師であったという。この御牧に関係した滋野一族と渡来人たちが、それぞれその先祖の尊像をほうのうして、その安全と繁栄を願ったのが、この両木造である

 古くから馬の飼育・調教などを渡来人である渤海国の人達から伝授を受けて、朝廷に献上する馬を御牧原台地一帯で、はてしなく広い大陸のような大草原で飼育していた。
 夕暮れになると、御牧の台地の方から風にのって美しいメロディーが流れてきた。それは今まで、ここの土地の住民たちが聞いたこともない異様なメロディーであった。
 よく聞くと、それは御牧の台地の上からであった。笛を吹くような音楽のメロディーであった。
 やがて時がすぎると、その美しいメロディーは御牧原周辺に住む土地の人々にも口ずさまれ、親しまれるようになって、この土地に次第に定着するようになった。
 小諸節や江差追分の本流がモンゴルにあることは現在定説となっている。大陸奥地のモンゴル族は、騎馬民族とも聞いている。
 そのころ渡来人(騎馬遊牧民)の馬頭琴や横笛のメロディーが望郷の思いを馳せながら、遠く離れた故郷のメロディーを懐かしく口ずさんでいたのかも知れない。
 モンゴルが本流で、信濃国の御牧原周辺に、この流れを聞いて、地元の人たちが、これを母体となって小室節が唄われるようになった。
 この小諸節は、参勤交代の大名や旅人たちにより、日本海側に、そして北前舟により、北上して北海道江差までも、江差追分として、唄われるようになった。
 小諸節は全国各地の馬子唄や追分節と音調がよく似て、しかもモンゴル民謡「小さい葺色の馬」とも楽節の構造・音階・拍子・旋律の流れがよく似ているそうである。
 小諸節・信濃追分節・追分馬子唄で唄われる。その後、全国各地の追分節はここが発信地となった。

 渤海国は朝鮮半島の高句麗の旧地を合併して栄え、わが国の奈良朝の聖武天皇のころより、しばしばわが国にも朝貢をしていた国である。
 その渤海国からの国使が帰国するにあたり、延暦18年(799)に、その見送りに随伴したのが、「式部少禄正六位下滋野宿祢船白」である。

 これは滋野氏が中央の名族として、朝廷とかかわった古い記録(日本後記)に見られることである。

 その船白の像と伝えられている古像が、滋野氏との関係の深いと言われている善淵王像と、一緒に祀られていることは、望月牧の馬飼養の技術導入と牧経営にかかわった人たちから、繁栄の基礎を学び、習得したのではなかろうか。               (北御牧村村誌より)

このころ、海野に水をひくための用水で、吉田堰が真田石舟地籍(現在の上田市長石舟)から神川の水を揚げて、本原・赤坂・矢沢・下郷・森・大日木・小井田・中吉田・東深井に至り、海野郷へ延長されて千曲川に合流している。創始は、養老年間(717~23)だと言われている。吉田という地名は、稲作に適した良い田のあるところという名のようです。従来は田沢(現在の東御市和)から流れ出す金原川および成沢川の水を利用していたのであったが、永禄元年(1558)から13年かけて大改修によって完成した。これにより吉田堰は瀬沢川を渡って、東深井、大平寺方面まで水が届くようになりました

 滋野恒蔭の子恒成は正六位下因幡介となり、清和天皇の皇子貞保親王の家司となる。妹は貞保親王に嫁いだ、滋野恒成の子の恒信は正六位上左馬権助となり、天暦4年(950)2月に信濃国望月牧監となって下向し、海野幸俊と改名した。
 一説には、滋野信濃守恒蔭の子に滋野恒成(善淵王=一説には恒蔭の女子が清和天皇の子の貞保親王と結婚して、その孫善淵王(よしぶちおう)が信濃守として小県郡に下ったともいわれる)が寛平2年(890)に生まれるという。

 望月牧監幸俊の子信濃守幸経(幸恒)は天延元年(973)9月海野荘の下司となる。

 これを系図に示すと次の如くになる。

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 一説には、一羽のツバメが舞い込んできて、それを見上げた親王の目に糞が落ちてきて、それがもとで親王は目を病み、色々と手を尽くしたが、効き目がなく、信濃の烏帽子山麓に霊湯(嬬恋村の加沢の湯)があると聞いて、はるばる下ってきて湯治をしたという。痛みは治ったものの、ついに盲目となり、小県郡海野の郷に住むことになった。信濃国の国司に任ぜられ、その後に信濃の深井氏の娘と結婚し、その孫が善淵王(恒成)で信濃滋野氏の祖と言われている。

この深井氏の後裔に、深井棟広が、海野氏の家臣で戦国期に村上氏と海野氏との戦いで海野む棟綱とともに上州へ追いやられた。その後真田氏の配下となった深井棟広の養子、深井綱吉も真田の手により忙殺されたが、その子深井三弥は真田昌幸の家臣となり、孫の深井外記は幸村の家臣となり一族の存亡を願ったが幸村の配下となった深井外記は慶長19年(1614)の夏の陣で討ち死にした。 深井外記の子、深井右馬助は真田信之の家臣となって松代に移ったが、元和8年(1622)に真田信之家臣団48騎が松代を退去した事件があり、その際に48騎の一員であった。深井右馬助は、旧地(深井郷)に帰農することを決意して東深井に戻った。その子孫である深井邦信、その子深井正、その子深井幸侊と現在も地域で活躍されておられます

信濃滋野氏誕生と平将門(天慶の乱)

 滋野恒成(善淵王)が48才の頃、千曲川合戦(天慶の乱)が起こる。

 恒武天皇の第四子葛原親王は、東国に荘園を持っていた。葛原親王の子に高見王がおり、その子が高望王である。この高望王が「平」の姓を賜る。平高望が寛平2年(890)52才のとき上総介に任命され、一族郎党を引きつれて東国に下った。

そのころ、大和朝廷に征服され帰順した「えぞ」を上総や下総につれてきて「俘因」といって集団生活をさせていた。その「俘因」がたびたび反乱を起こし、朝廷を悩ましていたので高望に国内の治安維持にあたらせた。高望の長子国香(鎮守府将軍)には菊間(現在の千葉県市原市)に、二男の良兼には横芝に、三男の良将には佐倉に、四男の良繇には天羽に、それぞれ配置して上総の周囲を固めていた。そのうち、佐倉にいた良将は下総介と同時に鎮守府将軍も兼ねた

 延喜11年(911)高望は、73才の生涯を閉じたが、中央政府は、翌年の延喜12年に、藤原利仁を上総介に任命15年に鎮守府将軍に任じた。これに対して面白くないのは、高望の長男国香であった。

 その後の延喜17年(918)に良将が亡くなり、いままで一門を中心とした上総・下総の勢力が崩れかけてきた。
 平国香は平将門に攻め殺された。国香の子貞盛は、京都にいてこのことを聞き、東国に下り、伯父の良兼と力を合わせて平将門を攻めたが、力及ばず敗れてしまった。

 そこで平貞盛は、都に上がって官軍の力を借りて平将門を撃つべく手勢を引き連れて都を目指して急いだ。さらにそのうえ、将門が大がかりな製鉄所をつくり、武器や甲冑を製造して、反乱を企てていると朝廷に訴えようとしたのであろう。地方に居って、醜い争いの巻き添えを食らうよりも、将門を中傷するために上京し、それをきっかけに、立身出世をしようというものであった。

 そのために貞盛は、承平8年(938)2月中旬、京都の高官たちに贈る「袖の下」を十分準備して、中山道へ向って出発した。

 これを聞いた平将門は、もし貞盛が上洛して官に自分の悪行を知らせたならば大変であると、百余騎の兵を率いて、まだ碓氷峠には残雪のある季節なので、これを蹴散らかして峠を越え追撃をした。

 当時の東山道は小諸・海野・上田を経て、そこで千曲川を渡り浦野・保福寺峠を過ぎて松本に入るのが順路であったので、貞盛もこの経路を取り、小諸の西、滋野の総本家の海野古城(現在の東御市本海野三分)に立ち寄った。

 この地は信濃豪族海野氏がおり、以前の縁故により善淵王(恒成)に協力と助けを求め再び、ここでの、その厚意により、一息をつこうとしたのであろう。

 というのは、善淵王と平貞盛との関係は、貞盛が、かつて京都で左馬允の職にあったとき、信濃の御牧の牧監滋野氏と懇意であった。また、以前に平将門が上京のとき、平貞盛の依頼によって宇治川に布陣し、将門を亡き者にしようとした縁故があった。

 この滋野氏に協力したのが近江国(滋賀県)甲賀郡にいた甲賀武士、これが甲賀者として、古くから忍術をもって知られていた一族が望月氏で、その功績によって甲賀郡司に任命されて、そこに定着して、忍者の一家をなしたという。

 貞盛が海野に助けを求め、海野古城に滞留していることを知った平将門は、先まわりして信濃国分寺付近に待機していた。そこは上田の東方で、北から流れる神川の橋の付近は貞盛が通らねばならない地点であった。将門としては、貞盛が千曲川を渡らせぬために、天慶2年(939)に、ここで千曲川合戦(天慶の乱)が行われたのであります。この日は冬まだ寒い2月29日のことであったと言われる。

 この戦火で信濃国分寺が消失してしまったという。

 貞盛方の勇将他田真樹というものが、敵の矢にあたって戦死、この他田氏は信濃国造の子孫であるということから、郡司として国府に務めておったが、貞盛の危急を聞いて、一族郎党をひきいて応援に駆けつけたものであろう。
 従来、この上田には国分寺のみあり、国府は松本に移っていたものと思われる。

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ここは、たびたび戦場になったところで、天正13年(1585)上田城が真田幸村(信繁)の父真田昌幸によって完成をみたころ、攻め寄せた徳川の大軍7,000人余、迎え撃つ真田勢は2,000人弱であった。しかし真田の巧妙な戦術によって、徳川軍は思わぬ大敗となり死者1,300人余であったと言われている。これに対して真田が他の死者は40人ほどであったという。二度目の戦いは慶長5年(1600)の関ヶ原合戦に際して、関ヶ原に向かう途中、上田へ押し寄せた徳川秀忠軍は38,000人いう大軍、これに対して、昌幸・幸村父子の率いる上田城兵は、わずか2,500人ほどであったという。このときも徳川勢は上田しろを攻めあぐね、この地に数日間も釘づけにされただけに終わり、関ヶ原の決戦に遅れるという失態をすることになる。そういう宿命的な場所であった

 この戦闘の結果、貞盛の方はまたも負戦となったが、運よく小牧山中にのがれ助かった。将門はいかにしても貞盛をうつべく手を尽くしたが、見つからずやむなく東国へ引き返した。

 『千たび くびを掻きて 空しく 堵邑に 還りぬ』 平将門

 平貞盛は難を逃れて、長途の旅の糧食を奪われ、飢えと寒さに悩まされ悲惨な思いをしながら、やっとのことで京都にたどり着いたが、持ってきた「袖の下」などは途中でなくしてしまったので、太政官に訴えても真剣に取り上げられず、本国で糺明せよという天判状をもらい、京都での仕官の道も達せず、僅か3ケ月の短い期間で東国へ下った。(赤城宗徳著『新編将門地誌』より)

海野氏の祖善淵王

 滋野恒成(善淵王)は真言宗に深い信仰があり、延長年間(923~30)ころに宮嶽山神社(四之宮権現)を創建している。
 その祭神は貞保親王で、清和天皇の第四皇子で、信濃国司の任にあたったとき、当地(海野郷)に移住されたが、延喜2年(902)4月13日に死去され奉葬した御陸墓であります。

 その後、松代藩主真田家より毎年米10石、祢津領主より米18石を御供料として進納されておりましたが、明治維新のころから廃された。

神社の頂上までの石段の数は、なんと一年の日数と同じ365段があり、現在では体力増進・維持のためにジョキングをしておられる人を多く見かけます

 承平3年(932)、平将門返逆のときに勅のりして滋野姓を名乗っていた滋野恒成(善淵王)に御旗を賜り、それは月日を金銀で錦の面に織りつけたもので、日の旗は軍を進め、月の旗は衆をまとめて支配するという意味であったのですが、それは帝王の形であることから恐れ謹んで、日・月・星をあわせた形に直した。これが滋野氏の「州浜」の家紋となったと伝えられています。

 滋野恒成(善淵王)は天慶4年(941)1月20日になくなられ、法名『海善寺殿滋王白保大禅定門』をとって海善寺と称された。

 当寺は、第56代清和天皇の皇子貞保親王をもって開基とし、承平5年(935)5月に海野郷に一宇を建立して、親王の法号をとって海善寺と号した。

昭和21年(1946)に海善寺集落の西側の畑から「廃海善寺石塔基礎」が出土され、安山岩で、高さ28センチ・底面は46センチの直角で、「文保」(1317~18)の年号が陰刻されており、海野氏の館の鬼門除けに祈願寺として、そのころに再建したのではなかろうか

 600有余年を経て、永禄5年(1562)11月7日武田信玄が本寺を祈願所として20貫の寺領のほかに、隠居免五貫文を寄付している。翌年7月28日十坊並びに、太鼓免36貫百文を寄付している。

 その後、天正15年(1587)ころ領主真田昌幸が上田へ築城したのにともない、当寺も鬼門除けの鎮護として、本寺を現今の地(現在の上田市新田 海禅寺)に移し、再建されました。

鬼門とは、陰陽道でいう家や城の東北の方向のことで、百鬼が出入りする文であると考えられていたのです。ですから都や城を築くにあたって、東北の方向に鎮護のための寺や神社を建立したものです。たとえば、江戸の上のの寛永寺、京都の比叡山の延暦寺などです

 慶長6年(1601)真田候より24貫の地を寄付される。 

 真田信之が元和8年(1622)海野郷にあった白鳥神社(祭神は日本武尊・貞元親王・善淵王など)を松代に移築の際に、神社の別当寺として移されたものです。海善寺住職阿闍梨法師尊海を伴い、松代西条(現在の長野市松代)に移し、開善寺と改めました。

白鳥山の西麓、こんもりとした林を背に、開善寺が見えてきます。整然と白い塀が境内を囲み、本堂の前には亭亭と杉の木立が伸びています。本堂に祀られている本尊の地蔵菩薩は、開基者の滋野法親王を等身大に刻んだものと言われます。現在は地元をはじめ屋代や稲荷山などの信者の方々がいて、毎年4月15日の聖天講に訪れます

 今の本堂は慶安3年(1650)7月に再建され、境内の経蔵は万治3年(1660)の建築で内部の八角輪蔵(回転する書棚を安置するものとして県内最古です)に天海版一切経(江戸初期に天台宗の僧天海が刊行した経本6323巻で、48年間かかって木活字版)が収められていて、現在は県宝となっております。(松代町誌より)

 本堂内の左手の欄間に「護摩堂」とかかれた大きな偏額が見えます。その下方に様々な仏像が、所狭しと安置されています。
 不動明王像、右手に馬頭観音菩薩像、左手に愛染明王像、その傍らに数々の大日如来像群などなど。

優しい言葉などでは聞き入れない業の強いものを、県で脅したうえで説き伏せ、右手に持つ縄で救ってあげようとする不動明王。牙をむき出し、怒りの形相なのに不動の名は似合わないようですが、こうして悪魔を追い払い、動かし難い静かなさとりを護っているのでしょう。さて愛染明王では、光背の真赤な日輪は、燃える煩悩を象徴し、愛欲にとらわれ、身を滅ぼしてしまいそうな人々を救い、よりよい人生に向かわせようとします。ですから幸せな縁結び、家庭円満を祈って多くの信者が信仰して来ました

 その他の国々の滋野氏は、次の人々が文献に見える。

 先ず紀伊の人で名草豊成・名草安成の両人が滋野朝臣を賜っている。元来は九州の宗形氏族の者が、紀伊の名草直氏の女をめとり、その子孫は母子によって名草宿祢となり、滋野朝臣になった。
 
 また、鎌倉時代の人で、延慶3年(1310)に相模国(神奈川県)の人に滋野景善。元弘元年(南朝年号1331)に能登国(石川県)の人に滋野信直。元徳3年(北朝年号1331)に出羽国(山形県)の人に滋野行家などが見え、室町時代永享9年(1437)には日向国(宮崎県)に山伏滋野氏権津師定慶坊がいる。  (日本家系協会滋野一族より)