奈良時代の海野郷

 奈良の正倉院には、今から1200年前に信濃の海野郷から牛か馬の背によって、はるばる奈良の都へ運ばれ、そして宮中で、きらびやかな調度品として、その責務を果たしたものが残っている。
 正倉院は光明皇太后が聖武天皇追善のために東大寺に献上された無数の宝物を収めた庫である。
 その宝物は武器・楽器・遊具・服飾・調度品・文具等で日本が世界に誇る宝物庫であることは良く知られている。

auto_am4jxn.jpg正倉院

この正倉院の御物の中に「信濃国小県郡(ちいさがたぐん)海野郷(うんのごう)戸主(へぬし)爪工部君調(はたくみべきみのちょう)」と墨書された麻織物の紐の芯(ひものしん)が残されている。これには年号はないが織り方や墨書の形式から推定すると奈良時代の天平年代(729~741)の貢物であろうと言われている。

uno_03_2.jpg正倉院の墨書

 このころ小県郡に海野郷という集落があって、爪工部という人がいて、高貴な人が使う「紫の衣笠」や「翳」などを造れる高度な技術者集団がいて、かなり地位の高い姓を賜っていた人々が、この地に住んでいたことが立証される資料である。
どうして、このような職業・身分の人たちが、こんな僻地で、しかも都から遠い地に定住していたのだろうか。

国郡郷古代日本の行政組織で、それより前は「国評(郡)里」
または「国郡郷里」制
戸 主里に変わって新しく出来た郷の中に50戸が集まった戸の主
爪工部衣笠(きぬがさ)(貴人の頭上にかざす団扇(うちわ)に、長い柄をつ
けたようなもの)をつくる職を持って宮中に奉仕した人々を言う
君という敬称がつけられていることは、この地方の土豪であった
調男子に課せられた貢物で、土地の物産を朝廷へ献上すること

 爪工部は「はたくみべ」と読み朝廷に直属する工人で、翳(さしば)をつくるのを職業とする部民である。翳というのは、貴人の頭上に左右から差出してかざす団扇に長柄をつけたようなものをいう。(有名な高松塚古墳の壁画にこの絵が描かれている)主として鷹の羽でつくったものだが、この海野郷は昔から鷹の産地として有名で、平安時代からこの土豪として有名になった祢津氏は、放鷹の技術をもっては天下一と称されたくらいである。

auto_ocoARX.jpg翳(さしば)auto_o89f7B.jpg紫蓋

 五世紀ころ、大和政権は遂次(ちくじ)、その勢力を広めるため東山道が拡充されていた。
 この海野郷周辺には中曽根親王塚をはじめとする多くの古墳が存在していることからみて、早くから中央の文化がこの地に流れこんでいたことは言うまでもない。

この郷の由緒の古さを暗示するが、さらにもう一つ注目すべき歴史的事実がある。それは今から約1190年前の弘仁14年(823)前後に編纂された「日本国現報善悪霊異記(りょういき)(略して「日本霊異記」という)」に、信濃国の逸話が二つも載せられていることである。一つは跡目の里(上田市川西方面から青木村)と、もう一つは嬢(おおな)の里、すなわち海野郷の説話である。奈良時代の末期の宝亀5年(774)この地に大伴連(おおともむらじ)忍勝(おしかつ)なるものがおり、法華寺川(金原川の下流)に居所をかまえ、その居館近くに氏寺を建立していることから相当の勢力者であり、中央に直結する政治・文化の中核的存在であったことを示している。後世に発生した海野氏は、この大伴の系譜をひくものではなかろうかという説もある。

 また、当地に「県(あがた)」「三分(みやけ)(屯倉(みやけ))」という古代の匂いの濃い地名が数多く残っており、いずれも古代中央の文化が盛んに押し寄せてきたことを物語っている。しかも、すぐ西方には、信濃国府・信濃国分寺があって、信濃国の政治・文化の中心となっており、それらの文化とともに都から、ここに下たって定住し、かなりの勢力者となったのが海野氏ではなかろうか。
    『千曲20号より』

滋野の地名

 現在の長野県東御市には「滋野」という地名と神社が、それぞれ二ヶ所にあります。
 一つは地名で、祢津村大字新張(みはり)字滋野(現在は東御市新張)があり、しかもその地に新張の「滋野神社」があり、創立年月は不詳であるが、口傳には大同年中(806~9)牧監滋野良成朝臣(あそん)の創建と伝えられている。

uno_13_1_5.jpg祢津の滋野神社
 
 もう一つは和(かのう)村大字海善寺字滋野原・滋野鎮(しずめ)(現在東御市海善寺)という地名があり、その地に海善寺の「滋野神社」があり、創立は未詳であるが、伝えによると大昔、海野郷内に居住した滋野氏代々の産土神で八幡大神を祭ったという。 
 天延年中(973~5)に滋野氏の後裔である海野幸恒が再建したと伝えられ、社の南面には海野氏の旧館の地へと続いていることから、海野氏と深いつながりをもつ古社であることが明瞭である。その後になって木曽義仲が戦勝祈願の折に、白赤のボケが記念して植栽されたと伝えられている。
 天正11年(1583)真田氏は、上田城築城のとき、由緒の社であるので、上田市紺屋町の八幡神社へ分社して、上田城鎮護の社としている。
 その後、明治13年12月14日に吉田家で「滋野神社」と神社号の改称許可となった。
 本社は京都府八幡市八幡高坊にある岩清水八幡宮であり、日本三大八幡宮の一つに数えられ、そこより分社されたものである。

uno_13_1_4.jpg海善寺の滋野神社

 また東御市西深井(にしふかい)の諏訪社、東御市下之城(しものじょう)の両羽(もろは)神社、佐久市望月の大伴神社には、楢原東人系の神や神像を祀っておられ、このことからも無関係ではないと思われます。

 それから、京都府庁(京都御所の西側)の周辺に以前、滋野学区(現在の上京区)と呼ばれていた所に京都市立滋野中学校(昭和55年ころ閉校)と上京消防団滋野分団の詰め所が、かってあった。

 その府庁の西側には平安時代のはじめ、滋野貞主の邸があり、そこにはよい泉が湧き出していて、後に蹴鞠(けまり)の達人成通らが住んでいて、滋野井と呼んでいたと言う。  『平凡社「京都の地名」より』

信州の滋野氏の祖

 平安時代の六国史の『続日本紀』の中に、滋野朝臣貞主の曽祖父は楢原造(ならはらみやつこ)東人(あずまびと)で、天平勝宝2年(750)3月「駿河の国司楢原造東人が在任中に庵原郡蒲原(現在の静岡市蒲原)の多胡浦浜で金を採取して、朝廷に献上したので同年5月には東人に伊蘇志臣(いそしのおみ)(勤)の姓(かばね)を賜った」とあり、この頃は奈良大仏の鋳造をしている時であったので、金の発見と採取を促したことが知られてる。

            auto_1vYE5R.jpg東大寺

auto_mh8p1j.jpg東大寺大仏

 天平17年(745)の記事では「外従五位下楢原造東人」とある。

 その翌年天平18年(746)5月7日に「外」がはずれて「従五位下」に改められたことは、地方出身者や地方の郡司等に与えられた位階のことである。「造」については地方における有力者で、朝廷に仕えるようになった身分のことであるので、「東人」は飛鳥朝廷に仕える前は、東国に住んでいた人ではなかろうか。

 以上のことから楢原造東人の先祖の地は信濃国奈良原(現在の長野県東御市新張の奈良原)がもとで、都に出て仕えるようになり、京都御所西南の府庁の滋野地区に住み、滋野氏を名乗るようになったのであろう。

 このころ、その奈良原の地には長命寺があり、寺伝によりますと、平安時代中期の天延3年(975)に、尊誉上人によって、新張牧の奈良原の聖地に、智光山三光院長命寺が真言密教の修行道場として開山創建されたと伝えられており、この寺の上人は永祚元年(989)6月に亡くなっている。
のちの鎌倉時代(1200)初期、現在地に移転し、12坊を有する大伽藍があったと伝えられている。
また、信濃国分寺の改築にあたっては、国分寺御本尊を一時、長命寺に移したと「国分寺記」に記されている。なお、武田信玄が長野の信濃善光寺の御本尊を弘治元年(1555)信濃国小県郡祢津(現在東御市祢津)に移して、約三年間は、この寺域に安置し、永禄元年(1558)8月14日祢津を出立して甲府に移したという。『吉原浩人著「甲斐善光寺」』
10月3日、信玄は甲斐国板垣に善光寺伽藍を建築に着手するとの記録をみることができる。

uno_13_1_6.jpg
   以前に長命寺のあった寺屋敷跡

 そのほかに奈良原の地には「古屋敷」「寺家」等の歴史的に古い地名が残り、「寺屋敷」と呼ばれているところの土中から、多くの五輪塔の残欠などが出土して、寺院跡をしのばされている。
なお、この地籍には、今も楢原姓の苗字を持つ人たちがおる。
また、鹿沢温泉薬師堂の境内の石燈篭は、宝永元年(1704)8月吉日、奈良原正□右衛門直継と刻まれている。もう一つの手洗石鉢には「安永4年(1775) 楢原忠八 権六」とあり、奈良原の者が献上したことがわかる。
奈良原姓というのは、新張村(現在は長野県東御市新張)の名主であったという。

 なお、幕末の信州旗本12家中、5,000石取り四家のひとりで松平忠節(ただとき)が、寛永元年(1624)に初代祢津領主となり、明治6年(1873)八代忠武まで続いた。
その時の奉行は用人格(家臣の役名で給金45~50石)か給人格(手当6両2分、3人扶持)のものから任命され、陣屋内奉行所につとめ知行所の行政を総括するとともに、領主の御名代として公式の儀礼にのぞんでいる。
祢津陣屋の奉行に楢原氏の名前がみえる。
 寛保3年(1743)          楢原丈右衛門
 文政9年(1826)~天保2年(1831)  楢原左仲太
 天保8年(1837)~天保9年(1838)  楢原房之助
 天保10年(1839)~天保13年(1842) 楢原主馬介
また代官は中小姓格(家臣役名で給金5両2人~3人扶持)の中から任命され、奉行の命をうけて政務を処理する。
そこにも代官に楢原氏の名前がみえる。
 万治2年(1655)~寛文10年(1670) 楢原伊右衛門
 延宝4年(1676)~元禄15年(1702) 楢原助左衛門
 正徳元年(1711)~享保13年(1728) 楢原政右衛門
 享保14年(1729)~享保17年(1732) 楢原佐忠太
 享保18年(1733)~延享4年(1747) 楢原丈左衛門
 宝暦5年(1755)~寛政11年(1799) 楢原繁左衛門
 宝暦13年(1763)         楢原助左衛門
 享和元年(1801)~文政8年(1825) 楢原左仲太
 文政7年(1824)~天保7年(1836) 楢原房之助
 天保15年(1844)~安政2年(1855) 楢原主馬介
 安政3年(1856)~安政4年(1857) 楢原保之助
 安政5年(1858)         楢原文蔵
    『祢津陣屋と奉行代官名一覧表(小県郡誌より)』
「楢原」の苗字の人は現在長野県の東信地方に44軒で、うち東御市に43軒で新張地区には35軒の人たちが住んでいる。

 この奈良原の地には「新張の牧」があり、この地の豪族祢津氏、祢津神平貞直が鷹飼いの秘術で名高いように、馬を飼う技術が極めて優れたものがいたと思われます。「望月の牧」を基盤とする望月氏も同様で、奈良県御所市楢原の山麓に馬の神様、駒形神社があることから楢原造東人の先祖の地は奈良原であっただろうと思われる。

 また、前記した長命寺の別当で、東方に大日堂があり、その本尊の大日如来地蔵尊は天平元年(729)に奈良県の楢原氏の菩提樹九品寺開基と同じ行基菩薩で北国辺土庶民教化のため巡回の際に、一刀三礼の勤修をもって彫刻された木造(丈220センチ)で霊験著しく、未完の秘仏であると言われている。

         auto_Z2wZd6.jpg(大日堂)前立本尊大日如来

昭和2年(1927)7月4日、金井区長小林虎一郎氏によると、長命寺54世百瀬栄善師等の斡旋により、文部省古社寺調査事務主任塚本慶尚氏等の調査の時、平安朝の藤原氏全盛時代の彫刻で900有余年前の仏像にて、国宝的価値が充分ありと、折り紙をつけられるほどの尊像であったが、残念なことに寛保2年(1742)の戌の満水の時に庭心・清心両尼僧の救出が辛うじてで、避難の際に一方の肩を損像してしまったことである。(土屋麓風著「祢津の史蹟を巡る」より

uno_13_1_7.jpg長命寺(真言宗智山派、本山は京都の智積院)

奈良県の滋野氏の祖

 楢原は大和国葛上郡楢原郷(現在の奈良県御所市(ごせし)大字楢原)にある地名であり、その他全国的には、現在の福島・茨城・群馬・福井・岐阜・奈良・兵庫・鳥取・岡山の諸県に十ケ所ある。

auto_2SdLrU.jpg奈良県御所市

この楢原には、駒形大重神社があり、駒形神社と大重神社は別々のお宮で あったが、明治40年(1907)に合併して、現在地の駒形神社に合祀された。 大重神社は、楢原の地で東方の字「田口」に鎮座していたという

 大重神社は「延喜式」神名帳の「葛城大重神社」に当たり、地元では「しげのさん」と呼ばれ、親しまれており、滋野氏につながりを持つ有力なお宮であった。現在は、合祀された駒形大重神社に、祭神の二座のうち一座は滋野貞主が祀られている。
 奈良県御所市大字楢原の葛城山の東麓に九品寺(くほんじ)があり、山号戒那山、浄土宗、本尊の木造阿弥陀坐像(像高123センチ)は平安後期の作で国の重要文化財に指定されている。本堂は明和5年(1768)の再興、寺伝では行基の開基で、もと戒那千坊に属したという。
 永禄年間(1558~70)弘誓が浄土宗に改宗、中世に勢いを振るった楢原氏の菩提寺で、同氏一族の墓碑がある。

auto_rvUAtC.jpg駒形大重野神社

葛城山の東麓に標高320メートルの丘の尾上に楢原城跡がある。東・南・北は深い谷で、尾根は東方へ240メートル余り細長く突出て、段上に七つの郭が連なっている。台地の東北方に深い谷を隔てた小山の頂上は、平地になっていて連郭があり、東・南・北に全長500メートルに及ぶ空堀の跡をとどめ、西端に三重掘跡がある

 楢原氏は大和六党の一つの南党で、すでに鎌倉時代末には伴田氏とともに春日若宮の祭礼に流鏑馬を奉納している。        『春日文書』

 この楢原氏は大和出身の旧族である。『和名妙』に「奈良波良」と訓じている。越知郷段銭算用状(春日神社文書)に「楢原庄十町五段半」とあり、中世には興福寺大乗院方の国民で楢原氏がみえる。 『平凡社「奈良の地名より」』

滋野氏の誕生

 この楢原氏の系統については『新撰姓氏録』の右京神別の条に「滋野宿祢、紀直と同祖、神魂命五世の孫天道根命の後裔」と明記されており、紀伊国造と同系であって、次の系図が伝えられている。

auto_71jkoA.jpg

 奈良の平城京に都があったときには船白・家譯(いえつぐ)父子は伊蘇志臣(いそしおみ)と名乗っていたが、伊蘇志臣から滋野宿祢(すくね)に変わったのは、第50代恒武天皇の延暦17年(798)船白の代のことである。

貞雄は右京の人也。父従五位上家訳、延暦7年(798)に伊蘇志臣を改めて滋野宿祢を賜う。弘仁14年(823)に「滋野朝臣を賜う」とある

 
 それは、楢原から滋野に変わったのが、大同元年(806)5月18日の平安遷都のときに船白や家譯も一緒に、奈良の地から平安京の滋野の地(京都御所西南の府庁の地)に移住し地名をとって「滋野朝臣(あそん)」となったと思われる。こうして、家譯の子貞主も「滋野朝臣」となり、平安時代はじめに、京の都に滋野氏が誕生したのであろう。

auto_a11TSz.jpg京都上京区の滋野

 滋野貞主は、六国史といわれている『続日本紀』以下『日本三代実録』までの記事や『平安遺文』の史料等をみてみると、第53代淳和天皇の代に、儒臣にして大同2年(807)文章生に及第(合格)、弘仁2年(811)任少内記となり、弘仁12年(821)に図書頭、その後内蔵頭・宮内大輔・兵部大輔・大蔵卿・式部大輔を歴任、弘仁14年(823)には父(家譯)とともに滋野朝臣の姓を賜り、天長8年(831)文章博士、承和9年(842)参議に任ぜられ、嘉祥3年(850)正四位下となるなど諸官を歴任しております。

 この貞主との関係のある資料として、
 空海は宝亀5年(774)に出生、承和2年(835)3月21日に示寂しておりり、平安時代初期の僧で、弘法大師の諡号を延喜21年(921)に後醍醐天皇から追贈された真言宗の開祖である。天台宗の開祖最澄(伝教大師)と共に、日本仏教の大勢が、今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れの劈頭に位置し、中国より真言密教をもたらした。能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられている。
 空海は弘仁3年(812)11月15日、高尾山寺にて金剛界結縁灌頂を開壇した。入壇者には、最澄も含まれていた。さらに同年12月14日には胎蔵灌頂を開壇した。(灌頂とは、初めて受戒する者、または修道が進んだときは香水を頭頂に灌ぐ儀式を行うこと)
 入壇者には、最澄や、その弟子円澄・光定・泰範のほか190名にのぼった。受胎蔵灌頂人歴名の中に貞主の名前がある。ここに記載された貞主が滋野貞主ならば、年齢28才の時になる。『この資料は、上田市常磐城1-4-10 ☏0268-23-1317 田中豊氏から空海直筆の歴名が記載されたコピーを頂き貴重な情報に感謝です』

 仁寿2年(852)2月8日の条に『続日本後紀』には、「参議正四位下行宮内卿兼相模守滋野朝臣貞主卒す。貞主は右京の人也。曾祖父大学頭兼博士正五位下楢原東人。……遂に姓に伊蘇志臣を賜る。父尾張守従五位上家譯は延暦年中姓に滋野宿祢を賜う」とうあり、滋野氏の家系について大約すると次のように述べている。
 貞主の曽祖父は大学頭兼博士で正五位下の官位をもつ楢原東人という学者であった。九経に該通し名儒といわれた。天平勝宝元年(749)駿河守となっていたとき、駿河から黄金を産出した。東人はこれを帝に献じたので帝は非常に喜んで、その功をほめて「勤しき哉臣や」と言われ、伊蘇志臣という姓を賜ったという。貞主の父は家譯(いえおき)といい、伊蘇志臣を改めて朝臣を賜り、以後、子孫は滋野朝臣を称するようになった。

また、仁寿2年(852)の『文禄実録』に大外記名草宿祢安成に滋野朝臣の姓を賜るとある。

 貞主は、慶雲4年(707)より天長4年(827)の間に諸人が作った詩作178、人賦17首、誌97首、序51首、対策38首を偏して『経国集』20 巻を朝廷に献上しました。
 また、貞主は、典籍の編集長としてのその大事業を完成させたばかりでなく、、天長8年(831)には勅(天皇の命令)により、多くの儒教者とともに秘府の図書を基に、類別を編纂し1,000巻に及ぶ百科辞書『秘府略』を著している。これは、わが国空前の大著で、この一部が国宝として今に残っている。
 多くの学者を統率して完成させた裏には貞主の高潔な人柄が窺い知られる。
 貞主は、第53代淳和天皇の代、儒臣にして文章生より出身し、諸官を歴任した。、天長8年(831)文章博士、承和9年(842)参議に進み、嘉祥年中(848~50)正四位宮内卿兼相模守となる。 

貞主には二女がおり、長女縄子は仁明天皇の女御(妃)となり、本康親王を産んでいる。次女奥子も文徳天皇の中宮(皇后)として惟彦親王を産んでいる。親王や内親王が生れて天皇の義父となり、一大勢力者となったが、唇に腫れものができて、仁寿2年(852)2月8日68歳でなくなった。その居宅は西寺の別院に寄贈し、慈恩院と名づけられている

 貞主の弟貞雄(家譯の第3子)も滋野朝臣を称し、丹波守・宮内卿・摂津守等を歴任、その女岑子は文徳天皇の妃となり2皇子2皇女を生んだ。兄貞主と同じく高官でありながら温厚な性質で庶民から敬愛されていたもののようである。
 このように貞主・貞雄の代に至って皇室の外戚ともなった滋野氏は、当時朝廷において、橘氏・菅原氏などと並ぶ所謂権門勢家となったことは容易に想像できる。
 
 次に貞観元年(859)12月の『三代実録』には「従四位上行摂津守滋野朝臣貞雄卒す。65歳でとあり、兄貞主の方が10歳年上であったことが分かる。

 『日本三代実録』によると、掃部頭滋野朝臣善蔭は承和13年(846)に外従五位下を授けられ、滋野善蔭の弟に滋野善法・善根らがいる、貞観4年(862)12月20日に善蔭・善根は二人そろって国司に任官せられ、滋野善蔭は丹波守に、滋野善根は美濃守になった。滋野善根が外従五位下を賜ったのは斉衡元年(854)のことである。また、滋野善根は『日本三代実録』によると、貞観12年(870)に信濃守となつていることが知られる。

auto_J0MbBL.jpg家譯から恒蔭までの系図

 前記系図の滋野善蔭の子滋野恒蔭は『日本後記』によると、貞観10年(868)正月に大外記より従五位下の叙位があり、1月16日に信濃介に任ぜられる。

 このようにして、滋野一族の者が信濃の国司に任ぜられ、信濃に下向したことも考えられ、これが信濃滋野氏の祖となったという。
 
 このような滋野氏の子孫で京にいた者は、朱雀天皇の時代に中務大丞滋野春仁、一条天皇の時代に『権記(ごんき)』に出てくる大外記滋野善言などがいる。

『権記』というのは、権大納言藤原行成の日記のことで、藤原道長全盛時代、道長と親交のあった行成の日々の記録として、平安中葉を研究するための貴重な資料となっている。この『権記』の寛弘6年(1009)8月17日の条に、「信濃から貢馬を牽いてきたが、先例によって今日は一応馬寮に納め、明日"駒牽きの儀式"を行うようにと命令があったので、その由を善言朝臣に申し伝えて退出した」という記事がある

 善言朝臣というのが前述の信濃守善根やその兄善蔭の系統をふむ者であろうと推察される。馬寮の役人で"駒牽き"のことを司る官吏であって、しかも朝臣という姓を附されていることから推して、相当の高い位置にいたものであろうと思われる。すでに滋野氏はかなり早くから信濃国の牧と深い関係にあったことは推察されるが、その成立は、少なくとも奈良時代より古いことは、市内から発掘された馬具(杏葉など)一つとっても容易に想像せられる。
 国分寺跡が上田市内に発掘された。ところで国府は、少なくとも平安初期の元慶3年(879)ごろは筑摩郡(松本市内)に移っていたことは『日本三代実録』の9月の条にそれを示唆する記事がある。では、いつごろ筑摩郡に国府が移ったのか諸説が述べられている。山梨県立博物館長平山南氏によると、その一つか゛「続日本後紀」承和8年(841)2月13日条に、地震によって信濃国府は小県郡から筑摩郡に移転したという。
貞観10年(868)に信濃守や介を拝命された滋野氏は、小県郡の以前にあった国府の近くに赴任しており、滋野三家を中心とする東信濃の土豪は、貢馬(くめ朝廷に貢進する駿馬)などを通じて国庁の最高責任者である信濃守や介とは、当然深い関係が保たれねばならない。

 このことは信濃の諸牧とも強い絆で結ばれることとなり、とくにその諸牧の代表的なものであった望月牧や新張牧、その管理者であった望月氏や祢津氏及びその中間にある海野氏と血縁関係までもつようになった。これが滋野氏を祖とする理由になったのではないかと思われる。

滋野系は小県から佐久へかけての名立たる土豪、真田・岩下・矢沢・根々井・楯等々滋野氏の後と称するものはあまりに多い。中には小室・矢島・落合・志賀・平原・春日などの諸氏まで、滋野氏の一族に数えられる説もある

このころ海野郷一帯には渡来人にかかわる伝承が多く残されており、浅科村八幡(現在の佐久市蓬田)の八幡神社本殿の「高良社」が祀られている。また、両羽神社(現在の東御市下之城)の神殿内に船代と貞保親王といわれるに体の古木造がある。昔これらは、現在の社地より東方山上に原宮とよばれる宮社があったころ、その社の祀神であった。慶長年間(1596~1614)同社が野火のため焼失した際に救出され、現在の両羽神社に合祀されて、今に至っている。ここ御牧原は、むかし勅旨牧として名高く、ここから毎年朝廷に献上される馬数は20~30頭で、全国一の貢馬の産地であったという。また船代は渤海国(現在の中国東部に興った国)より渡来人で、調馬の師であったという。この御牧に関係した滋野一族と渡来人たちが、それぞれその先祖の尊像を奉納して、その安全と繁栄を願ったのが、この両木造である

 古くから馬の飼育・調教などを渡来人である渤海国の人達から伝授を受けて、朝廷に献上する馬を御牧原台地一帯で、はてしなく広い大陸のような大草原で飼育していた。
 おそらく、当時を想像すると、夕暮れに、御牧の台地の方から風にのって美しいメロディーが流れてきた。それは今まで、ここの土地の住民たちが聞いたこともない異様なメロディーであった。
 よく聞くと、それは御牧の台地の上からであった。笛を吹くような音楽のメロディーであった。
 やがて時が過ぎて、その美しいメロディーは御牧原周辺に住む土地の人々にも口ずさまれ、親しまれるようになって、この土地に次第に定着するようになった。
 小諸節や江差追分の本流がモンゴルにあることは現在定説となっている。大陸奥地のモンゴル族は、騎馬民族とも聞いている。
 そのころ渡来人(騎馬遊牧民)の馬頭琴や横笛のメロディーが望郷の思いを馳せながら、遠く離れた故郷のメロディーを懐かしく口ずさんでいたのかも知れない。
 モンゴルが本流で、信濃国の御牧原周辺に、この流れを聞いて、地元の人たちが、これを母体となって小室節が唄われるようになった。
 この小諸節は、参勤交代の大名や旅人たちにより、日本海側に、そして北前舟により、北上して北海道江差までも、江差追分として、唄われるようになった。
 小諸節は全国各地の馬子唄や追分節と音調がよく似て、しかもモンゴル民謡「小さい葺色の馬」とも楽節の構造・音階・拍子・旋律の流れがよく似ているそうである。
 小諸節・信濃追分節・追分馬子唄で唄われる。その後、全国各地の追分節はここが発信地となったという。

我が国の縄文期に飼育された馬は小型馬であった。古墳時代に入ると、朝鮮半島経由で、 
蒙古の中型馬が渡来人(奈良時代中期以降の帰化人)によって導入された。
安閑2年(535)「放馬於科野国望月牧霧原牧」の以前に、古東山道瓜生坂を越えて佐久平野 
から遠く入山峠を望む須賀間の丘に、既に牧蓄は営まれていた。
文武4年(700)「令諸国定牧地放牛馬」と官牧の制はじまる。
大宝元年(701)大宝律令発布後、兵部省の軍団用の兵馬調達の官牧とは別に皇室・左右馬 
寮・近衛府御用として、左右馬寮下に「御牧」(勅旨牧)の制が確立した。御牧は朝廷直轄 
の御料牧場であった。奈良時代に馬の需要が供給に追い付かず各地に官牧が開かれた。
 『北御牧に在住の武重茂氏に御教示に拠る』

 渤海国は朝鮮半島の高句麗の旧地を合併して栄え、わが国の奈良朝の聖武天皇のころより、しばしばわが国にも朝貢をしていた国である。
 その渤海国からの国使が帰国するにあたり、延暦18年(799)に、その見送りに随伴したのが、「式部少禄正六位下滋野宿祢船白(代)」である。

 これは滋野氏が中央の名族として、朝廷とかかわった古い記録(日本後記)に見られることである。

 その船白の像と伝えられている古像が、滋野氏との関係の深いと言われている、現在は貞保親王像(前は善淵王像と言われたが)といわれるようになった。一緒に祀られていることは、望月牧の馬飼養の技術導入と牧経営にかかわった人たちから、繁栄の基礎を学び、習得したのではなかろうか。     『北御牧村村誌より』